ら族の歳時記

「道が分かれていても人は幸せになる道を選ぶ能力がある。」
能力を信じ、心の安らぎの場を求めて、一歩一歩。

人の輪の中で

2006-08-27 23:21:42 | Weblog
最近、『群青の夜の羽毛布』という本を読んだ。

登場人物はさとるという24歳の女性、
その恋人鉄男22歳、さとるの父母と妹の5人。

本を読むと意外な発見がある。
それはさとるには友達もいなくて相談相手は母だけ。
なぜそうなったかということをさとるの妹が分析している。
「一言でいうと協調性がないのよ。学校のクラスとか、自分の意志じゃない所に無理に集められた時は、まわりの人とうまーく話をあわせておけばいいのに、それができないのよね。何事も真剣になっちゃって、誰とでも友達になりたい、誰にも嫌われたくないって思うからいけないのよ」と。


実際、さとるが孤独になっていった理由は
ちがうけれど、興味深い分析と思う。

私はうわべだけで付き合っている人たちに
嫌悪感があった。
それも一人席をはずすとはずした人の
悪口をいい、誰がはずしても同じ。
「だったらつるむのをやめればいいじゃない」
と思う。
また、笑っている人たちが嫌いだった。
精神的に堕落しているから笑える、だから
軽蔑したくなる。
本当は、笑い=ふまじめという風に思って、
公私の区別がつかない私の方に問題がある。
笑えないのは病気の始まり。
笑えない人はいずれは精神的にか肉体的にか
どちらかで病んでいくものが統計的に
でているらしい。


最近では話をしていて笑えるようになった。
馬鹿話を聞けるようになった。
(でも、仕事中に席をはずし、
たむろしている人たちは今もきらいだ)

うわべだけの付き合いもできるようになった。
以前は、「一緒にいると堅いから疲れる」といわれ、
「認められたい」と無理して意見をいって
場を崩していたけれど、
今は笑って聞き流せるし、適当な相槌も打てる。
でも、「のりが悪い」「何も話さない」からと
仲間に入れてくれない人もいる。

心の深いなやみは、
話せる人の話せばいい。
すべての人に私をわかってもらい
付き合う必要はないんだ
と思えるようになった。

また、友人はオールマウンドプレーヤーで
なくてもいいと思えるようになった。
お食事処の新規開拓の同行者、
挨拶ショートメールのメル友、
どろどろ相談相手など、
自分も相手も深いところを知らなくても
おいしいところだけ合わせる。
そうやって友達って増やしていくものだと
思えるようになった。


やはり、さとるの妹の考えは
友達付き合いの方法として正論だと思う。
なにごとも「ON・OFF」があるのだ。
まじめであっていいときとしなくてもいいときの
使い分けが必要なのだ。


人の孤独はわからない。
けれど、おいしいところだけうまくつまめる人が
情報を収集し、充実した日々をすごしているような
気がする。


本は疑似体験の場である。
実際の生活で体験できないことが
体験したように思えるようになる。
そのなかで、日々疑問に思っていることの
答えがでていたりする。
自分を見直す上で読書は大切だと思う。
コメント (2)
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