アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-3

2024-10-02 03:34:40 | 人と神の「実際のところ」

◎やすらげ、やすらいでいい、やすらいでいる

 

ヨハネの黙示録にある「わたしはアルパであり、オメガである」これと同義なのが、

以下の引用文に出てくる

『私こそすべて』

『すべてとつきあっている

私はすべてだ』

『ここに終わり

ここに始まる』等々。

 

以下の引用文では、三つの要素が混然としてばらばらに登場している。すなわち私個人、有(世界全体・宇宙全体・過去現在未来)、無(ニルヴァーナ、なにもかもなし)。

ここまで悟りを単純化して韻文にしてくれたものに出会うことは稀である。

個から全体への逆転、有から無への進行をダイナミックに表現している。

 

『ソーマ・パイロットの言葉』の続き。

『——ソーマ・パイロットの言葉

 

あらゆるものは

私が無いことを示している

私こそすべて

 

すべてとつきあえ

すべてとつきあっている

私はすべてだ

すべてだ

 

ここ

 

今じゃない今

ここじゃないここ

 

私は私に帰れない

すべては私自身なんだ

 

旅に限りはない

私はわが家にいる

 

いくたびもなく

いくたびもなく

 

ここに終わり

ここに始まる

 

やすらげ

やすらいでいい

やすらいでいる

 

殺せ

ぶちぬけ

行け

二度とないんだ

 

むかしむかしある所に

アトランティスがありました

それは 今

どこにあるでしょう

 

むかしむかしある所に

お釈迦様がいました

それは 今

どこにあるでしょう

 

むかしむかしある所に

超能力がありました

それは 今

どこにあるでしょう

 

むかしむかしある所に

悟りというものがありました

それは 今

どこにあるでしょう』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

冒頭の『あらゆるものは

私が無いことを示している

私こそすべて』とは、

有・第六身体である『わたしこそすべて』は、やがて『あらゆるものは私が無いこと』に転ずることを示している。

                                       

『今

ここ

 

今じゃない今

ここじゃないここ』

今ここは、現代スピリチュアルの流行語。今ここは、有・第六身体であって、変遷極まりない現象の総体にして、私という個人はない。だが、一歩進んで、『今じゃない今、ここじゃないここ』、であるニルヴァーナがある。

 

むかしむかしあるところにお釈迦様がいました。私はすべてのすべてだから、お釈迦様でもある。なにもかもなし。

 

ソーマは切れたら、元の木阿弥。その卒然さと、窮極に至る迅速さが、これらシンプルな詩になっていると見るべきか。

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脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-2

2024-10-01 03:01:30 | 人と神の「実際のところ」

◎宇宙とか神とか悟りとかを気にしていない君は無限にそれ以上だ

 

ジェイド・タブレット-外典で、ダンテス・ダイジのソーマ・パイロットの言葉の前半(それが、脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-1にあたる)だけを示したが、続きを示して注釈してみる。

 

インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿がソーマである。

 

ダンテス・ダイジの断簡では、もう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。

酒をソーマとして使う人もいる。

北欧神話では、ミーミルの泉の水である。

 

さて『ソーマ・パイロットの言葉』の冒頭に、次のような文がある。

『精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

精神変容をもたらすものは、薬物に限定されるものではなく、あらゆる冥想修行や、宗教洗脳、思想洗脳、商業洗脳までも含まれる。

よって、冥想修行者にとっては、その冥想修行自体がすでに神自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットなのだ。

この文章は、もともとソーマ・ヨーギ向けに書かれたのだが、冥想修行者全般に向けて書かれたものとしても読むことができる。

 

ソーマ・パイロットの言葉の続き

『これからここに記される語句は、ソーマが、あらゆる姿を通じて、君を解放しようとした働きの一例である。そして、これらの言葉は、無限なる神ソーマから直接流れでたものである。

そして、ソーマ・パイロットの言葉は、君が混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のソーマ・トリップの最中以外に聞いたり読んだりしても無意味であろう。

ソーマ・パイロットは、君と共なる旅の真っ最中に君に語りかけるために、ここに言葉を置いたのである。

君は、これらの語句のどれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、どれも読まなくてもいい。』

(前掲書から引用)

 

上掲の『混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のソーマ・トリップの最中』とは、まさに天国的なものが通用せず、地獄的なものが前途に立ちふさがって、混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のブリザードにあって、自意識は意識と無意識がせめぎあって、自分でも自分のコントロールがつくかどうかぎりぎりのラインにいるシチュエイションを想定しているのだろうと思う。

そういう人には役立つが、その状態がまだやってこない人にとっては、どのようなものか前もって知っておくのもよいのではないか。(ジェイド・タブレットでいえば、《8.地獄も超えて》以降が該当する。)

 

ソーマ・パイロットとは、そんな混乱の巷にあって途方に暮れる君の同行二人目にして、ヘルメスであり、猿田彦という水先案内人なのだ。

 

上掲の『君は、これらの語句のどれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、どれも読まなくてもいい。』とは、すべてが、窮極である無限なる神ソーマから直接流れでたものであるから、どれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、君自身が神だから、どれも読まなくてもいいのだ。

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至道無難の慈悲(愛)

2024-09-30 03:36:35 | 達磨の片方の草履

◎慈悲を行って慈悲の作為がなければ、既に仏になっている

 

至道無難は、心はもともと何もないが、その姿を仏、神、菩薩と呼ぶ。その心の変化の相は、第一に慈悲、そして和、そして素直である。最初に慈悲が出るのが特徴で、慈悲は別名“愛”である。

 

仏と云い、神と云い、菩薩と云い、如来と云う。色々有り難き名は、人の心をかへて云う也。心本(もと)一物もなし。心の動き、第一、 慈悲なり、和なり、直(すなお)也。(『即心記』奥書)

 

じひ(慈悲)するうちは、じひに心あり。じひ(慈悲) じゆく (熟) するとき、じひをしらず。じひしてじひしらぬとき、仏といふなり。(『即心記』)

※コメント:イエスは、マタイによる福音書第六章で、どのようなことが善行であるかを説明している。

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように注意しなさい。もしそうしないと、天にいますあなた方の父から報いを受けることがないであろう。

 

だから施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それはあなたの施しが隠れているためである。すると隠れていた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」

 

このようなやり方を至道無難は、次のように歌う。

 

ほとけは、じひして、じひをしらず。 (『即心記』)

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悟りまであと一歩の秘密

2024-09-29 03:20:41 | 人と神の「実際のところ」

◎賢者の石、第五元素など

 

悟りとは、個人が宇宙全体に逆転すること。

西洋錬金術の最終目的は、土くれたる肉体が黄金に変成すること。それは、実は悟りのこと。そのために必要な最後のトッピングは、賢者の石とも第五元素ともチンキとも言う。

最後のトッピングは、発見する手順はあるらしく、その形状・色などは伝えられているが、どちらもはっきりしていない。

 

禅では、いきなり法に飛び込むため、大悟の直前になにか共通するこつのようなものがあるだろうと修行者は誰もが考えるので、禅関策進のような悟りの直前直後の様子集のようなものが作られた。

実際は、鍵をがちゃりと置いた音で悟ったり、投げた石が竹に当たりカーンと音がしたので悟ったり、背中を壁にのっかかろうとしたら壁がなくて後ろに倒れて悟ったりなどなど様々であり、一定のパターンなどないと言ってよい。

 

またこの世界でよく言われるのは、最後の一歩は自分で登らなくてはならないということ。

頭頂の封印は、師匠筋が切ってくれるのだろうが、誰かが引っ張り上げてくれるわけではなく、自分が登らなければならない。

 

こうしたものを考え合わせると、必要な最後のトッピングは外から来るのかもしれないが、実はそこへ至る準備と最後の一段は、自分で登らなければならないのだろうということ。

 

ソーマ・パイロットの言葉でも、水先案内すなわちパイロットはソーマがやるが、明らかに最終ステップは自分で履むのだろう。

 

最後のトッピングさえあれば何とかなると信じて努力する錬金術師も古来無数にいたのだろうが、それまでの準備と最後の一歩の勇気は同様に問われるのだろう。

 

ダンテス・ダイジは、悟った人のことを、あらゆる実感を経た者と呼んでいたが、いきなり最後のトッピングがゲットできるものではないことを暗に言っている。

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殺人命令

2024-09-28 15:30:26 | 究極というものの可能性neo

◎ミッション・インポシブル

(2009-06-27)

 

臨済宗の開祖の臨済は、「仏に逢ったら仏を殺せ。達磨に逢ったら達磨を殺せ。羅漢に逢ったら羅漢を殺せ。父母に逢ったら父母を殺せ。親類に逢ったら親類を殺せ。これができて始めて解脱を得るだろう。」と宗教者にあるまじき、ギョッとするようなことを言う。

親鸞だって、弟子の唯円に、「オレの命ずることを信じるか」と質し、唯円が決して背きませんと誓った途端に、「だったら人間を千人殺してくれ、そうすれば往生間違いなし」などと命じて見せた。

臨済は、専門道場でこれを言っているのであるから、リアルの殺人ではなく、坐禅中の殺人を云う。あらゆるなつかしい者に別れを告げよと呼びかけているのだ。

唯円が「とてもじゃないけど殺人なんかできません」と応酬したのに対し、親鸞は、「業縁によって殺せないのであって、業縁が変われば殺すまいと頑張っても百人でも千人でも殺すことがあるだろう。」と諭しているのは、古代インドで親族の多数見える敵方に戦いを挑んで殺戮に及ぶことをためらう王子アルジュナに対して、「戦え」と説得する聖者クリシュナの風景を思い起こさせるものがある。

また臨済も親鸞も先祖供養を相手にしていないなどということを言いたいわけではない。先祖供養は家族という小さな社会性が既に存在することが前提になっている行事であり、そうしたものに何の価値も意味も見いだせないぎりぎりの所になれば、そうした小さな社会性の絆すら役に立ちはしない。

殺せとは、あと一歩の修行者だけに対して、マンツーマンで実力・経験充分のマスターから指導されるべき言葉であって、それが誤ってメディア経由で大衆に生中継されるようなことになれば、誤解中傷を巻き起こすことになるだけである。

 

※2024年9月28日追記

「仏に逢ったら仏を殺せ。達磨に逢ったら達磨を殺せ。羅漢に逢ったら羅漢を殺せ。父母に逢ったら父母を殺せ。親類に逢ったら親類を殺せ。」とは、次の和歌と同じ意味。

 

ころ(殺) せころせ 我身をころせ ころしはてて

何もなき時 人の師となれ

(至道無難)

 

たちまちに 死にはてて見る心こそ

かりに仏と名はつけにけれ

(至道無難)

 

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかなという

(一休)

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至道無難の悟り

2024-09-28 03:29:09 | 達磨の片方の草履

◎悟りとは、本心にして無一物にして言葉では言えない

 

悟(さとり)を以て仏法と云う。悟る人まれなり。

 

問う、悟とは、如何。予云わく、本心也。問う、如何なるか是れ本心。予云わく、無一物。

又問う、如何なるか是無一物。無言。(『自性記』)

※コメント:悟りとは、本心にして無一物にして言葉では言えない。

 

凡夫のあやまり、ここにあり。無一物ならば見聞覚知あるまじとおもふ。聖人は見聞覚知直(じき)に無一物なり。 こゝ をよく心得べき事也。(『自性記』)

※コメント:悟った人は、ぼーっとしているだけで、見たり聞いたりしゃべったりわかったりしないというような俗説にまどわされてはいけない。見たり聞いたりしゃべったりわかったりが、先入観や偏見なくストレートに、常に法そのものから来るのだ。

 

いろいろに工夫とて、むつかしき事をこのむぞや。平常はみな仏、直に見、直に聞く。(『即心記』)

※コメント:この平常は、未悟の人の平常でなくて、悟った人の二重の世界観をもって平常と言う。平常心是れ道。

 

道といふことばにまよふ事なかれ

あさゆふをの(己)がなすわざ(業) としれ (『即心記』)

※コメント:悟りをもって、朝夕行住坐臥するのが、道。

 

なにごとも凡夫にかはる事はなし

仏祖といふも大魔なりけり (『道歌集』)

※コメント:悟った人からは、凡夫も覚者も変わりない。仏祖というような変わった人は大魔である。

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至道無難の現実感

2024-09-27 06:33:44 | 達磨の片方の草履

◎たちまちに 死にはてて見る心こそ

かりに仏と名はつけにけれ

 

至道無難は、江戸時代初期の禅僧だが、元は関ケ原の宿屋の主人にて、出家は40代と遅かったが、その悟境は、一休、大燈国師に引けをとらない。

語録だけ読むと、禅の常として説明不足気味のがあるが、特に道歌は、時代を越えて直截に迫ってくるものがある。

 

ころ(殺) せころせ 我身をころせ ころしはてて

何もなき時 人の師となれ(『道歌集』)

 

たちまちに 死にはてて見る心こそ

かりに仏と名はつけにけれ (『道歌集』)

 

いきながら死人となりてなりはてて

おもひのままにするわざ(業) ぞよき (『即心記』)

 

月も月 花もむかしの はなながら

みるもののものになりにけるかな(『即心記』)

※コメント;みるものと見られるものが一つになる。

 

主(ぬし)なくて見聞覚知する人を

いき仏とは是(これ)をいふなり

(『道歌集』)

※コメント;見ている自分がない。

 

たとひ一文不知のあま(尼)なりとも、身心滅却の人は仏也。(細川氏所蔵 『法語』)

※コメント;身心滅却とは、みるものと見られるものが一つになる。

 

常に何もおも(思)はぬは、仏のけいこ (稽古)なり。なにもおもはぬ物から、なにもかもするがよし。

※なにもおもはぬ:ニルヴァーナ

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一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思ひて命の神を祈りつ

2024-09-26 03:54:01 | 人と神の「実際のところ」

◎出口王仁三郎が無常を歌う

 

昭和の大宗教家出口王仁三郎の歌集言華(下)から「無常」

 

『無常

 

春の日を咲きほこりたる山桜の一夜の嵐に散る世なりけり

 

友垣と語らふ間さへ死の神のかげはその身を襲ひ入るなり

 

青空の奥の奥まで澄みきりし日も夜の間に雨となるなり

 

死の神の手にゆだねたる人の身を生き通しなる神にすがれよ

 

生き生きて生きのはてなき命こそ天津御神の賜(たまもの)なりけり

 

肉体はよし死(まか)るとも魂は幾万劫の後まで生きん

 

栄枯盛衰常なき人の身にしあれば栄えの神を夢な忘れそ

 

親しげに語り合ひたる友垣の一夜(ひとよ)さのまに訃を聞く世なり

 

露の身のはかなき命を思ふかな若かりし友の訃を聞く夕べを

 

若返り若返りつつ幾千代も生き通すなり神にある身は

 

今日ありて明日なき命を持ちながら欲のかはきて人に憎まる

 

風なきに桐の葉ひとり落つるごとはかなきものは命なりけり

 

一度(ひとたび)は死ぬべき命と知り乍(なが)ら欲に底なきおろか者かな

 

老若の区別はあれど生命の命(いのち)はすべて同年なりけり

 

三歳で死するともよし百歳の命保ちて死するも亦(また)よし

 

一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思ひて命の神を祈りつ

 

限りなき命の神に頼るこそ人生唯一の幸福と知れ

 

うつそみの人の命は春の雪野べの陽炎に勝りてもろき

 

春の雪の忽ち消ゆるさま見れば人の命の果敢(かい)なさを思ふ

 

木枯に吹き叩かれてあともなく梢放るる落葉の命よ』

(言華(下)/出口王仁三郎/みいづ舎P137-139から引用)

 

無常とは、永遠不壊に変わらないものなどなく、世の中のすべてのものが移り変わり、生滅すること。

 

『若返り若返りつつ幾千代も生き通すなり神にある身は』の生き通しの神が自分であるとは、自分が世界のすべてであって過去現在未来を含む一枚板のような現実に生きているということで、神人合一の第六身体のこと。

 

それでも神ならぬ自分は、一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思って命の神を祈るのだ。

 

二重の現実感

 

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中国が正常だった古代と正常化の夢

2024-09-25 03:02:04 | 時代にFace it

◎中国に関する予言など

 

中国が正常だった時代は、古代聖帝の堯・舜・禹の鼓腹撃壌の時代。それは、民が日が出れば耕作し、日が沈めば休み、井戸を掘って水を飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など民に関係ないと民が語っていた時代。

現代中国は、ITで全国民の思想、財産、居所まで管理し、歴史的に食料事情が厳しい上に、約1億人の共産党員が賄賂や投資で残りの約13億人を収奪している時代で、最近公務員給与の遅配まで報道されるようなり、暴動は多発し、鼓腹撃壌の時代は程遠い。鼓腹撃壌の時代とは、万人が善いことだけをして、悪いことはしない、そして誰もが嘘をつかず正直な時代。そういう風になれば中国にも聖人覚者が多く出てきて、ネオ鼓腹撃壌の時代が実現しようというもの。もっとも聖人覚者が多数出るには、宗教が保護され、精神的なものに価値があるという社会通念でなければならないが、宗教を阿片と位置づける共産党政権下ではそれはあり得ない。

 

1955年、毛沢東が北京を離れるダライ・ラマに別れの言葉を述べた。

『「宗教は毒だ。ひとつには僧侶や尼僧は独身でいなければならないから、人口が減る。ふたつ、宗教は物質的な進歩を拒絶する。」

この言葉で、ダライ・ラマの目からうろこが落ちたらしく、ダライ・ラマはのちに毛沢東のことをこう記している。

「結局のところ、あなたは法(ダルマ)を破壊する人なのです」』

(謀略と紛争の世紀/ピーター・ハークレロード/原書房P394から引用)

 

昭和10年、中国の南寧の紅卍会でフーチを行って占ったところ、

将来中国の人口は10万6千人に減少するという託宣が出て、皆目を疑ったという。当時でも中国の人口は5億だったからである。(出典:「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランドP240)

その生存率は、出口王仁三郎の予言する日本人生存率より全然厳しい。

 

最近の中国関連予言で気になるものは、

1..ダライ・ラマは、存命中での中国共産党の終了を予言。

2.ダンテス・ダイジは中国四分割を予言。

3.台湾有事と同時に『中国で大規模な飢餓が発生し、それをきっかけに中国が世界戦争に打って出る』(『「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』の予言)

 

特に3については、日本人は、台湾有事は、日・韓・ベトナム・アメリカだけの問題と考えている人が多いのだろうが、中国が台湾有事を一挙に世界全面核戦争の引き金にする可能性まで考えている人は多くはないのではないか。

それが、石屋さんの読み筋どおりかどうかは知らないが、積年の西側の中国支援の総決算がそうなる可能性はぬぐえない。

昭和の大宗教家出口王仁三郎も中国からの日本空襲を幻視している。空襲といっても最近は、ドローンもミサイルも核も空襲のうち。

中国の反日思想は、中国共産党の正統性証明である歴史教育に組込まれて一体である。中国共産党ある限り、反日教育、反日洗脳は続き、第3の児童襲撃を生む。

笹目秀和は、日本のカルマを負った男と言われたが、それは尽くしても尽くしても裏切られるというようなカルマだった。日本は戦後、長年にわたり、中国に資金援助、借款の他、技術協力を続けてきたが、中国の反日教育、反日洗脳は続き、中国機領空侵犯、福島第一の処理水放出では、日本産水産物禁輸の他、中国から日本の各社、家庭に中国から直接いやがらせ電話がかかってきた。ああ、尽くしても尽くしても裏切られるカルマ。その日本の様をダンテス・ダイジは、お人よしと評していたが、要するに平和ぼけであると思う。

 

こういった状況では、とかく軍事、政治ばかり気になるものだが、まず日々の冥想を。実際の戦場では神も仏もないかもしれないが、人は切羽詰まれば誰でも神仏の救いを願うもの。

 

我もなく うつし世もなく ただひとり

神の御前に ひれ伏しおろがむ

出口王仁三郎

中国茫々(中国なスピリチュアル)
中国渺々(鼓腹撃壌という地上天国の時代もあった)
中国怏怏(おうおう)(牢獄に入れられて博打をする)

令和の黒船ならぬ赤船到来(太平の眠りを覚ます中国からの電話たった一本で夜も眠れず)
 

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ドルネウスの脱身の次第-2

2024-09-24 03:21:14 | 浅い霊感から神人合一まで

◎霊魂と肉体の人為的分離

 

ドルネウスの続き。

『正しく理解されねばならないが故に、今、分離から始めよう。弁えておられるように、人はある期間にのみ生き、その後、おのずと、霊、魂、肉体へと分解する。肉体は、死に際し、分解し、腐敗する。そうして、肉体の自然の火、肉体の温もりはやみ、肉体の根本湿気の流れはやむ。

 

そのとき、霊と魂は肉体を去り、肉体は大地に埋められる。そこで、腐敗過程を経て、基本要素へと風化し、要素それぞれは、四大へと帰還する。すなわち、大地は肉体の大地的部分を呑みこみ、水は液状部分を呑みこむ、というように。しかしながら、霊と魂はその源泉へと戻るが、永遠にその肉体から分離されたままであるべきではないがゆえに、後には、神の巧妙な計画により、以後は分離されることなきように、よりよき構成で肉体と再結合される。

 

結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となるという事実にある。』

(M‐L.フォン・フランツ/人文書院p166-167から引用)

 

キリスト教では、死後肉体が以前のように復活(栄光の体(glorified body))すると信じられている。

 

ところが人間が大悟覚醒(神人合一)する場合、元の肉体に戻れるのは、クンダリーニ・ヨーガや只管打坐であって、その場合の肉体への帰還はできるが、確率はさほど高いものではない。

またインドでは、大悟覚醒(神人合一)後の肉体への帰還はそもそも想定しておらず、人間のゴールは大悟覚醒(神人合一)と考えている。

只管打坐では、道元は身心脱落して生還したので、肉体への帰還はできるのだろう。

引用文の『霊と魂はその源泉へと戻る』とは、チベット密教でいう原初の光(母の光明)であって、神に一旦は帰っている。

引用文の『結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となる』は、神人合一して後、そのまま肉体に生還してくるケースを言っているのだろう。

前段でドルネウスは、肉体と霊魂の分離には三種類あるとし、自然の分離は死であって、自発的分離は霊と生命の息を用い肉体に生還可能、人為的分離は火を用い肉体が破壊されるから肉体への生還不可能。

 

以下は、思いつきだが、後世の人はよく調べていただきたいと思う。

これからすると、

自発的分離は霊と生命の息を用い肉体に生還可能。よって、自発的分離とは第一義的にはクンダリーニ・ヨーガか只管打坐(禅)。

人為的分離は火を用いるのでクンダリーニ・ヨーガ系だが、肉体に帰還不可ということなので、肉体の外に何か霊魂の宿る場所を作っているのだろうと思う。これは、チベット密教でいう虹の身体か道教でいう出神のようなものではないかと思う。虹の身体は、境涯が逆戻りすることなく修行できるというようなニュアンスの説明を読んだことがあり、いわば壊れにくいカプセルのような印象を受けた。

 

西洋錬金術書太陽の輝き(splendor solis)には、フラスコ入りの寓意図が何枚かあって、最後は若い王でフラスコ図は終わっている。王だがまだ修行は残っているということか。

フラスコが、“壊れにくいカプセル”の可能性があって、西洋錬金術では、フラスコという体外ボディでの冥想修行もありだと見ているのかもしれない。

また古事記に無目堅間の神船の記載があるが、龍宮に至る道をこの船で渡ったものだが、ひょっとすると無目堅間の神船も身体外の修行用ボディの可能性がある。

 

これらは、仮説だが人間が神に至る道は多数あるが、結構知られていないし、その道を通る人も少ないとは、もっともなことだと思う。

splendor solis young king

 

splendor solis peacock

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ドルネウスの脱身の次第-1

2024-09-23 03:00:40 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ニルヴァーナ突入後に肉体に生還する機序周辺

 

心理学者C.G.ユングの弟子の本は浩瀚な錬金術書の知識がほとばしり、人格統合などという言葉がなければ、土くれから黄金を作りたいのか、精神病を治療したいのかわからなくなるほどである。

そこで16世紀の錬金術ドルネウスを読んでみる。

 

『読者が、混乱してしまい、事態全体に疑いを抱きはじめないように、ここで、ある種の区別を施すように注意を促さねばならない。私が魂なきものという場合、植物界、鉱物界のことを指している。つまり、草木や石や金属等の大地世界である。しかし、それらのものにも植物や鉱物の魂が存在する。それが故に、私の話題が生命なき物体(コルプス)であるとしても、自然界のすべてのものに、霊魂(スピーリトウス)、肉体(コルプス)が備わると信じる錬金術師達に反対する意図はないと考えていただきたい。』

(ユング思想と錬金術 錬金術における能動的想像 M‐L.フォン・フランツ/人文書院P162から引用)

 

『前に、私が説明した事を理解しなければならない。つまり、理性の二様の分離(a double rational separation)が存在する。一つは、先に説明した自発的分離であり、もう一つは自然の分離である。後者は、錬金術とは関わりがない。』

(上掲書M‐L.フォン・フランツ/人文書院P163-164から引用)

※「自然の分離」:自然に存在する死のこと。

※「自発的分離」:霊と肉の自発的分離。大悟覚醒のことか。

※自発的分離では、火を用いるとあるが、火とはクンダリーニのことだろう。P157

 

『死においても、同様の事態が生じるが、これは錬金術には属さない。単なる出来事であるが故にである。しかし、知覚する魂といわゆる生命なきコルプスとの分離もまた二様である。この場合も、同様に、自然的と人為的があり、後者のみが錬金術に属するからである。自発的分離は、あらゆる部分が保存されている状態で生じる。これは、自然の分離では起こらない。死において、肉体(コルプス)は破壊される。されど、ここで、錬金術というこの方法で行っているように、私が死の経験を前もって考慮するならば、肉体は保存される。肉体は、分離され、取っておかれ、保存され、後に再び取り上げることが可能となる。しかし、同様の分離が肉体を通じて生じるならば、私は二度と肉体を取り上げることはできず、肉体は破壊される。

(中略)

自発的分離の器具は霊と生命の息である。自然に生じる分離の器具は死である。人為的分離の器 具は火である。されど、 rationalia の錬金術を、作用する感覚と、さらにいわゆる生命なきコルプスと一つとなすならば、私は異を唱えない。』

(上掲書P164から引用)

 

自発的分離は、霊と生命の息により(クンダリーニ・ヨーガの極み)、肉体への生還可能であるということか。

また人為的分離は、火によるが、肉体が破壊されるから肉体への生還不可能ということか。

人為的分離は、尸解で肉体破壊後チベット密教でいう虹の身体とか道教でいう出神という体外での微細身でもって生存し冥想修行を続けるというようなことを言っているのだろうか。

人為的分離とは、錬金術書でいうフラスコ内実験のことか。

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秋分のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-09-22 06:50:03 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎ホムンクルス人形と手指、足指

 

今年最後と思われる猛暑日が過ぎたかと思えば、もう秋分の日。

 

最近のエクササイズ・メニューは、前回とほとんど変更がないが、なんと太ももに肉がついてきたのと膝周辺、腰周辺、股関節周辺に肉が付き始めて来た。

理由は、きくち体操のやり方が根本的に変わったことである。つまり従来“漫然”とポーズをやっていたのを、長座時に

意識でもって膝上の筋肉を繰り返し上側に引き上げ“続ける”。

ほとんどのポーズで、肚に力を入れ“続ける”。

この2ポイント。ポーズそのものより、この“続ける”ところがこつのように思う。

きくち体操は、1年前はポーズを真似するだけで精一杯だった。

 

それと腿上げ時にももが水平より上に上がらないのに気づいた。これは片足上げが鋭角にできないということ。

さらに冥想で坐る前に、坐って両足首を持って上下に腿をパタパタさせる運動で、腿が床につかないのだが、これは冥想修行者的には結構ショック。今後の課題。

(ホムンクルス人形)

きくち体操では、ホムンクルス人形で説明するが、これは脳科学者のペンフィールドが考えた人形で、大脳において、手や足、顔など身体の各部位の感覚器が占める割合を人形にしたもの。手指や顔、口が大きく、足指は菊池和子先生が言うほど大きくないのは、人形が悪い?よってきくち体操では、手指、足指の運動を重視。足指によっては、痛覚が鈍いものがあるのも老化。

肚・丹田を経由して、手指、足指がつながっている感がわかるようになってきた。

 

運動メニューは前回と同じですが、以下です。

朝の体操後に、竹脇まりなの室内散歩15分。

その後、きくち体操20分×2と、Olivia Lawsonの室内散歩20分×3を一日の目標としてやっている。

https://www.youtube.com/watch?v=hrbNyr_dCQs&list=PLW6oseVSNn-dPjGj7LTWGY8fBq9GAwlyE&index=3

 

熱中症対策で、頭と首に冷やしタオルを巻いてやっている。巻かないと発汗するので。

 

 なおバランスは、著変なし。猛暑の夏を、筋力を落とさないで乗り切るのには工夫が要ります。

 

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ニルヴァーナへの神秘修行者は男性が圧倒的多数の理由

2024-09-21 03:44:32 | ダンテス・ダイジの風光

◎ダンテス・ダイジの性愛冥想から

 

ダンテス・ダイジは、射精をしたことのない男性はほとんどいないが、一方オルガズムを経験したことのない女性はかなりいる事実をまず指摘。よって、平たく言えば、男性の性愛の極致は射精だから生理的であり、一方女性のそれは心理的精神的なものに大きく支配されていると述べる。

 

  1. トランスは、ニルヴァーナ(宇宙意識)、悟りの入口ではある。
  2. 阿片系統の麻薬使用は、男性の性能力は減退するが、逆に女性の性欲は亢進する由(ダンテス・ダイジ説。阿片服用で陰萎になる話は、それ系の書物で時々読むところではある)。

『この潜在意識の作用の一つであるトランス状態は、人を脱我的陶酔へ導く入口であり、種々の仕方で誘発するトランスの中で薬物による肉体的トランス状態においても、なおかつ、その肉体性トランスを性的オルガズムに結合させることができるのは、もっぱら女性の性的機能の特質、すなわち、女性の性的快楽が肉体生理よりも精神心理にその多くをよっているという特質にあることを示している。

 

例えば、以上の事実からして、男性型の性愛が権力欲、支配欲的な方向をもちやすく、女性型の性愛が感性的、脱我的方向を持ちやすいという特徴も説明しうる。

だからこそ、宇宙意識の広大な脱我法悦の神秘修行者は、男性の方が圧倒的多数を占め得るのであり、

女性は、ある意味で局部的とも言える性愛的脱我の中に足しきることができる。

 

純粋な宗教神秘主義的な志向性は、男性の非陶酔的性格と

それから必然的に派生する強烈なロマンチシズムを、原動力としている。

 

女性の正統宗教修行者は、どうしても「神がかり」やシャーマニズム的な形式をとりやすく、それには秘められたセクシャルな匂いを感じることができる。

私は性的オルガズムのトランス状態の最中に、突然「神がかり」になった女性を知っている。私は、古神道の眼目である鎮魂帰神の法を大本教の聖師、故出口王仁三郎師の霊によって、習得したが、その立場から見ても、その女性の性交時の「神がかり」は、高低深浅の審神は抜きにして鎮魂性トランスの「神がかり」と何ら変わるものではなかった。』

(ダンテス・ダイジ/性愛冥想より引用)

 

『女性は、ある意味で局部的とも言える性愛的脱我の中に足しきることができる。』これがいわゆる女性的自我の充足の一端と言われるもの。この辺は、なかなか万人に納得のいく説明をしづらい部分である。

勿論女性にも覚醒した人はいる。

また何気なく、鎮魂帰神の法を大本教の聖師、故出口王仁三郎師の霊から伝授されたとあり、肉体でない師からの奥義伝授があり得ることを書いている。

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自分自身を経験する新しい方法

2024-09-20 03:42:17 | 冥想いろいろ

◎アイデンティティと意識を抜き取られ、永遠の亡者になる朝顔

 

違法ドラッグ、脱法ドラッグが以前より手に入りやすくなっているようだが、そうしたものに手を出すのは人生を棒に振る危険も死に至る危険もはらんでいる。

植物だろうが、化学製剤だろうが、向精神薬は、用量を誤ると死に至るものが多い。「ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社」にも用量を誤って死んだ学者やパイオニアの話が沢山出ている。

冥想修行も向精神薬も精神を操作するということでは同様であり、相応の危険性があることは言うまでもない。

奥山で見つけた見目麗しいきのこが毒キノコであるかどうかは、素人にはわからないように、自分が悟っていない限りその人物が大悟覚醒しているかどうかわからないということはある。

 

そしてまた同じ用量でも効果に個人差があることは知られている。カルロス・カスタネダのシリーズでも用量は精密だが、服用時期や心境も大切にしている。

まことに奇跡には時を選ぶタイプの奇跡と時を選ばないタイプの奇跡がある。

 

以下は、規制の緩い時代のアメリカの話として、ソーマとはどういうものかを知識として持っておいて、落とし穴にはまらないために参考になると考えて挙げるもの。

『アサガオの種子は、一般に三百個が大量と考えられている。また、一人一人の精神と身体の出来具合が異なることを思えば、ある人にとっては「少々きつい経験」も、別の人にとってはひどく不快な副作用になることもある。さらに、違う植物から採取したものは、その植物の栽培条件その他の要因によって、適量も効果も違ってくるだろう。種子三百個がだいたい六グラムから八グラムだとすると、前記の方法の五十六グラムは、なんと二千個以上の種ということになる。そのようなトリップがどんなものかは、その半量だけを試したある男性の経験談の抜粋がある。この例をみると、その効果が「サイケデリック」だったことは間違いない。

 

《私自身の経験を話せば、アサガオの種が幻覚剤としてどれだけの力を持っているかがわかるだろう。この経験は、単にハイになるという以外に明確な目的や期待はなにもないお粗末な状況で行ったために、結果的にはバッド・トリップになった。それは、幻覚剤に対する信頼感を回復するまで、二年もかかったほどのトリップだった。このような結果になったのはもちろん、なんの備えもできていないのに、いきなり膨大な量を摂取するという無謀な行動に出たためだ。・・・・量は千個から千二百個ほどあったと記憶している。以前に、三百個ほどで十分というのを読んだことがあったが、これは最低量だろうと思ったのだ。だからたっぷりやって、しっかりいい気分になるようにしたほうがいいと思ったのである。

「回転翼」としか言いようのないものが、ものすごいスピードで、どんどん大きくなりながら近づいてきた。それは、それまでの私のあらゆる経験を完全に超えていた。それは二度三度と近づいてきて、ほとんど部屋いっぱいになり、私は心底怖くなって死ぬのではないかと思った。逃れることは不可能だった。その回転の中心は私の視野の中心であり、私自身の回転軸だったからだ。

それはものすごい、無限のエネルギーで、回転方向を変えながらどんどん近づき、私は自分がその中に吸い込まれ、溶けていくのを感じた。アイデンティティと意識を抜き取られ、永遠の亡者になる。・・・・・燃えるような赤と鮮やかな緑の二本の大河が私の意識を切り裂く。心と頭の分裂は、電子と陽子から私自身の意識的思考を生み出す二葉の大脳に至るまで、完璧に二分した宇宙の一つの現れにすぎないのだ、と私は悟りはじめた。すべてが二分し、永遠に天国と地獄に分かれるのだ。今や私は本気で心配になり、妻に病院に連れて行ってくれるように頼んだ・・・・・・。》

幻覚体験の最も興味ある側面の一つは、その種の物質に対する個人の反応に非常な差があるということだ。ある人が二千個の種によるトリップを「少々きついが、やってみる価値はある」と言う一方で、その半量で救急病院に駆け込む人もいる。ここで論じているのは、個々人の精神を司る脳のシナプスと連絡する精神活性分子である。したがって、基本的には、幻覚剤は自分自身を経験する新しい方法にすぎない。われわれはそれぞれに違う人間なので、それぞれの経験も違って当然なのだ。

 

オルダス・ハックスリー(*イギリスの小説家・批評家。神秘主義への傾倒から幻覚剤を試し、その経験を「知覚の扉』に書いた)はLSDをやって、独特な悟りに達する。チャールズ・マンソン(*アメリカ・カリフォルニアのカルト集団のリーダー。一九六九年に女優のシャロン・テートなど七人の女性を殺害した)もそうだが、しかし得るものは非常に違っている。』

(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P163-164から引用)

 

充分な生への情熱こそが、最後には人をニルヴァーナに導くのだろうか。

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ジム・デコーンの見神体験

2024-09-19 03:14:17 | 浅い霊感から神人合一まで

サマディは日常意識の近くにあるが、到達、維持は難しい

 

サンフランシスコ州立大学の学生ジム・デコーンは、27歳で最初のLSDトリップで見神したようだ。

残念ながら、彼はそれ以上の体験とはいえない体験を求めて、以後20回以上のLSDトリップを行ったが、最初の体験に匹敵するものはなかった。具体的には、地獄体験、アストラル・トリップ、共時性体験、前世体験(18世紀の誕生から老年を経て死まで)、物体の念力移動、他次元の戦士の世界への旅、「おまえが責任をとるのか?」という声(ハイアーセルフの声?)などの、悟りとは言えない体験に止まった。

 

以下引用文は、最初のLSDトリップでの見神時と思われる体験の記述。

『その頃私は、東洋宗教に強い関心を持っていた。そのためか意識の上にドラッグの効果が現れると、サマディ(深瞑想)としか形容しようのない体験が始まった。サマディとは「ヨーガの修行の最終ステージ で、そこでは個性が放棄され、瞑想の対象に同化する」ことである。初めて、そして残念ながら生涯でただ一度、私は完全なる調和と統合という、言葉では表せないほどの至福を体験することを「許された」。主観と客観が一体となる――なんら問題はない。なぜなら、存在するものはすべてそれ自体が素朴な「答 え」であり、継ぎ目のない統一体の中にあるほかのすべてのものと完璧な関連性を保っているからである。善も悪もない、正も邪もない。あるのはただ、本質的で自然な極致だけだ。

 

この体験のもっとも驚くべき部分の一つとして、意識の状態が非常に単純ではっきりしているということが挙げられる。このような真理を一度体験してしまうと、人生をほかの方法で見るなどということがどうしてできようか? 神はこのようにして物事を見ているに違いない。このときのトリップではそんなふうに感じられ、天にも昇る心地を体験した。実際にはそれ以上のものなのだが、この体験は言語に絶するもので、とても言葉では言い表せない。今日に至るまで私は、そのような意識の状態が通常の意識のこれほど近くにありながら、到達や維持がこれほどむずかしいということがどうしてありえるのだろうと不思 議な気がしている。』

(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P22-23から引用)

 

サマディは、世間的にはいろいろ定義があるが、本来は見ている自分がないのをサマディ(三昧)と呼び、見ている自分があるのは定。

それにしても、『善も悪もない、正も邪もない。あるのはただ、本質的で自然な極致だけだ。』という状態は、見神かもしれないが、トレヤ・キラム・ウィルバーは(薬物を使用せず)、似たような至高体験以後は、境地が深まる方向に行ったが、ジム・デコーンは、深められなかった。トレヤ・キラム・ウィルバーは、冥想修行したが、ジム・デコーンはドラッグに頼るばかりで冥想修行がなかったということなのだろうか。

 

同じソーマ・ヨーガ界隈では、カルロス・カスタネダは、正師ドン・ファンを得て究極の悟りに至ったが、ジム・デコーンは、正師を求めるほどの情熱がなかったということなのだろうか。

容易に薬物で霊界をのぞくことはできても、意図せず霊道を開くのは危険なものであり、ただでは済まない。ソーマ・ヨーガは、インド・アーリア時代からの伝統があり、20世紀以降様々な向精神性薬物が開発されたが、それだけで、窮極の悟りを得るのは独力では如何ともしがたいところがあるのではないか。

薬物乱用カルトも珍しくない時代になって久しい。

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