アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

出口王仁三郎の逆転-3

2024-04-27 03:12:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-25

◎垂直上昇への仕掛け-25

◎大逆転と倒立-4

◎無我の聲(こえ)こゑなき聲(こえ)をききながら

 

出口王仁三郎が高熊山に入ったのは28歳の頃。

『われは空行く鳥なれや』で始まるその時の感激を歌った歌は、輪廻転生を繰り返す孤独な鳥が単に空を飛ぶだけでなく、人間を越え時空をも超えたことを暗示している。

 

出口王仁三郎の歌集霧の海にも「28歳の頃」というパートがあり、出口王仁三郎の超越体験の中の白眉が28歳の頃起きていることを示す。最初は霊界探訪と高級神霊との出会い、そして逆転に至る。天国から先に進んで行くのだ。

『緑の野辺

  二十八歳の頃

 

天も地も青きが中に唯一人こころ清しく笛の音を聞く

笛の音は虚空にひびき笙の音は地上を流れてわが魂おどる

さっと吹く風に裏葉のひるがへる緑の野辺のかんばしきかな

さみどりの栄ゆる野辺にただ一人立てども淋しと思はざりけり

天地をただ一人のものとして生まれしごとき霊界の旅

さえわたる虫のなく音を聞きながら霊界にさへ恋あるを知る』

(出口王仁三郎の歌集霧の海P191から引用)

 

『精神は澄みきらひつつ自ずから

まだ見ぬ国に踏み入りにけり』(上掲書P175から引用)

 

『たぐひなき珍(うず)の景色にひたりつつ

われは静に無我の聲きく

 

無我の聲こゑなき聲をききながら

われ神国(かみくに)の花に息すも』

(上掲書P141から引用)

 

出口王仁三郎の無我とは何か。彼の随筆集『月鏡』に『不退転信、絶対服従信、仏心、無我心、清浄心、菩提心、日本魂、之を三摩地と言ふのである。』という一文があり、三摩地はニルヴィカルパ・サマディーのことと考えられる。よって無我とは、三摩地はニルヴィカルパ・サマディーのことと思われる。出口王仁三郎は、最後のワンステップは、神仏の助けによらず自分で登ることも言っていて(新月の光(上巻))、わかっている。

出口王仁三郎は、ここに逆転した。入我我入が起こったのである。

サマディーは、水平の道の用語だが、垂直の道における第六身体と実質同じである。これが無我。出口王仁三郎には、霊界物語という主著があり、個なる霊の段階を抜けていないかのように思われているが、仔細にみれば、「無我」というサマーディに至り、既に天国も地獄も超越し、逆転している。

そして覚者の心境のキーワードは、絶対的な透徹した孤独と、見知らぬ、未知ということ。そして世界全体が、自分と一体であるということ(天地をただ一人のものとして生まれしごとき・・・)。

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上薬、中薬、下薬

2024-04-27 03:08:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎不老不死と仙人

(2016-05-30)

 

古代中国では、薬を上薬、中薬、下薬の三分類した。

上薬とは、不老不死を実現し、仙人になる薬であり、中薬とは、性を養い健康を維持するための薬である。下薬とは病気を治す薬である。

道教的冥想体系では、呼吸法、柔軟体操があり、坐忘などの冥想体験が語られているので、その体系の中の一部として、服薬=外丹があったということになる。

外丹の3分類が上薬、中薬、下薬であって、ヤキ・インディアンの冥想マスターであるドン・ファン・マトゥスが、ペヨーテ・サボテンを用いて人を別の世界での修行(ソーマ・ヨーガ)にいざなったが、ペヨーテ・サボテンのようなものが、上薬に該当する。

不老不死を実現し、仙人になるなどというのは、いわば客寄せの看板のキャッチ・コピーのようなものであって、文字通りの不老不死実現や仙人になることではない。魏伯陽のようにすべての世俗的なものを捨て去った者が初めて入れる道であって、その道の途中で望見するもの一つが、不老不死や仙人ということになるのだろう。

中国では世俗には王道があるが、世俗を問題にしない者にとっては、別の「道」がある。

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出口王仁三郎の逆転-2

2024-04-26 03:06:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-24

◎垂直上昇への仕掛け-24

◎大逆転と倒立-3

◎富士鳴門の仕組み

 

出口王仁三郎は、六度死に、その都度呼吸停止心拍停止を発生し、その際に神人合一の状態になったのだろうと思われるが、本人はそのことについて詳述してはいない。

そのすべてが大悟であったと思うが、その最初は、高熊山の洞窟での1週間の集中冥想である。その感慨について出口王仁三郎は、「遺書」という名目で書き残している。

雑誌神霊界の大正10年1月号に「回顧録 高熊山」というのがあって、出口王仁三郎の入山に際しての遺書のようなものが置いてあった。

その経緯は、

『改過の念は一時に 心機忽(たちまち)一転再転、ついには感覚の蕩尽、意念の断滅。

翌朝になって王仁の姿が見えぬ、家族は大心配

不図(ふと)床の壁を見ると筆太に

 

大本大神

 

然も王仁の筆跡

机の引出には羽化登仙の遺書一通

 

あやしきを あらじといふは 世のなかの

あやしきしらぬ しれごころかも   (宣長)

 

抑(そもそも)遺書の文意は如何、天下国家の一大事、然しかも三大秘密、王仁の生母は忽たちまち火中に投げ入れた。後日の難を慮もんぱかつたのであろう。』

 

と火中に投げ入れたはずの遺書の内容は、

 

『我は空行く鳥なれや

○○○○○○○○○○(原文のママ)

遥に高き雲に乗り

下界の人が種々(くさぐさ)の

喜怒哀楽に囚はれて

身振足振りする様を

我を忘れて眺むなり

 

実げに面白の人の世や

されどもあまり興に乗り

地上に落つる事もがな

み神よ我れと倶(とも)にあれ』

 

この内容だと、個なる自分を脱し切ってはいないが、初めて霊肉分離してアストラル・トリップした人間特有の驚きが先に立っていると思う。

むしろ『下界の人が種々の

喜怒哀楽に囚はれて』という部分に彼の人間としての生が卒業に近いことを見る。

そして自分のことを空行く鳥と見る立場こそ、神人合一という個と神の逆転への一歩手前に立っていることを示す。その先には言葉で語れないすべてのすべてがある。

 

なお伏字の内容はいろいろ取りざたされているが、自分から見た三大秘密は、

1.出口王仁三郎の出生

これは、皇族のご落胤など世間でいろいろと云われているので、ここでは触れない。

出口王仁三郎は、明治維新は20人ほどのチームでやったと指摘しているが、それにも影響しているのだろう。ちなみに彼の一人の師匠本田親徳は薩摩出身である。

 

2.出口王仁三郎の霊統の流れ

本田親徳、出口王仁三郎、ダンテス・ダイジと続く、近現代の日本スピリチュアル界の本流。

 

富士鳴門の仕組みに象徴されるクンダリーニ・ヨーガの秘儀の継承。

艮の金神は、本流でありながら、弾圧を受けたり、世の中の人に知れないままに隠れていた。それと似たような扱いをこの三氏は受けている。

宗教も既存エスタブリッシュメント教団か、時の政権に近いかでないと全く評価されないのが今の時代だが、まさに本流は評価されないどころかタブー視されている。

 

「出口なお王仁三郎の予言確言P254」によれば、昭和10年十二月四日の真夜中(第二次大本教事件の4日前)、出口王仁三郎がひそかに亀岡・天恩郷のオリオン星座にちなむ月宮殿に入り、ご神体を他の石と取りかえるのを側近内崎照代が目撃しているそうだ。このご神体が崑崙山中へご返還された。

 

3.日本の行く末

一厘の秘密。

日本の構造はレイラインではなく、地の龍脈。枕崎、阿蘇から鳴門、伊勢、諏訪、鹿島の中央構造線。

出口王仁三郎には、日本龍体説がある。

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グラウコス=向精神性薬物による転移

2024-04-26 03:03:54 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎海神になったが悟ったわけではない

(2012-01-26)

 

古代ギリシアのグラウコスは、草原の草を食べたら海神に変身した人物。それをオウィディウスは、変身と分類するが、転生とか、意識の転移という表現のほうが的を得ているように思う。

 

『どこかの神がそれをしたのだろうか。それとも

草の汁のしわざだろうか。それにしても、どんな草に

これほどの力があるのだろう。

 

私は草を何本か摘むと、

それを噛んでみた。私の知らない液汁が、

喉を通っていく。

 

と、突然、

心の琴線が震えるのを感じた。私の魂は

別世界に憧れて、消え入りそうになった。

 

もう待つことはできない。「さようなら」と叫んだ。「さようなら、

この大地はもはやけっして私の故郷ではない」というと、

私は海の中ヘ飛び込んだ(オウィディウス 変身物語)。』

(麻薬の文化史/D.C.A.ヒルマン/青土社P165から引用)

 

これは、帰って来なかった。

ただ起きた出来事は、中国の故事にある呂洞賓の邯鄲の夢のような、完全な別人生を短時日にして最後まで体験するエピソードの一種であって、元の人格にまだ戻っていないものであると見ることができる。

荘周胡蝶の夢では、蝶が自分か自分が蝶かと惑うが、それは実は問題ではないことを示している。

果たしてグラウコスは、人間に戻ることについて何の未練もないように感じられる。魂が乗り物であるボディを替えるというのは、クンダリーニ・ヨーガの秘儀というよりも死をきっかけに人間には必ず起こる日常茶飯事なのかもしれないと思った。

このシーンでは、きっかけが、たまたま草原の草であったことをあまり重要なものと見るべきではないと思う。きっかけよりも意識の変容の質である。グラウコスは海神となったが、悟ったわけではないのだ。

 

もっとも悟った悟らないを問題にしない人に向けては、この逸話のように海中に入ったり、金星や火星に生きたりというような寓意でもって、全くの異世界、異次元に進むという感触を与えることを狙う場合もある。

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穀雨のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-04-25 05:13:59 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎身体バランス練習、シニア向け

 

春なのに梅雨のような天気が続き、来るべき酷暑も思いやられ、冷却グッズを気にするこの頃です。

Olivia Lawsonの室内散歩に変更して、1か月半以上経過しました。これは、1回20分を一日3~4回やるようにしています。

片足立ち時間は、1秒だったのが、5秒できることが多くなった程度の改善です。実は革命的な進歩ではあります。

 

Olivia Lawsonの室内散歩メニューは結構きつく、ふくらはぎの張りはなくなったものの、太ももの張りが継続、むしろ下半身の筋肉の凝りが課題になるようになりました。中腰でのポーズがわりにあるのと上半身ねじりが多いのが特徴ですが、これはネット動画の老人向け体操にはあまり出てこない種類のものであることが着目点です。

能楽によくある膝を半端に曲げたままの動作は、まだできると言えるほどではありません。全体的に膝回りが強化され、太ももの付け根の痛みは変わりません。

膝回りの強化のおかげで、バランスのとり方は少々上手になった感はあります。ただし、その場での膝を曲げたままの駆け足はまだできません。それほどに足裏・足首以上の筋力が何十年単位で弱まったことを感じさせられます。それもOlivia Lawsonをやり始めてからわかったことです。

Olivia Lawsonの室内散歩は、1メニュー40秒から50秒ですが、きついので30秒ぐらい画面どおりやり(以前は20秒)、残り時間は足踏みが多いです。

まず転倒しないことに注意し、やると必ず痛めるポーズはやらないように、それとやり過ぎに注意して進めています。

なおスマートウォッチで、心拍を見ながらやっていますが。心拍が90台になると疲れた感が出ます。100を超えると負荷かけすぎかなと動作をセーブしています。

以下はOlivia Lawsonの室内散歩のおすすめ一例ですが、STANDING CARDIO というのが適度に負荷があり室内向けには適しているように思います。

なお30分、40分ものは20分で切って分割でやっています。

 

40 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping _ Standing _ Walk at Home Workout

40 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping | Standing | Walk at Home (youtube.com)

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出口王仁三郎の逆転-1

2024-04-25 03:00:21 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-23

◎垂直上昇への仕掛け-23

◎大逆転と倒立-2

◎世界、宇宙そのものが自分である

 

現代における出口王仁三郎の評価は異常に低い。生長の家をはじめ、戦後の神道系新興宗教教団がほとんど隆盛であって、なおかつその源流が出口王仁三郎であるにもかかわらずである。

出口王仁三郎は、一見して、見ている自分からの超出を描いたものは、無我を説くものがわずかにある程度。ところが、仔細に見てみると、次のような歌も、みじめで情けない自分を遥かに飛び出して、世界、宇宙そのものが自分であるという立場から詠まれていることに気づく。

 

日地月あつめて造る串団子

星の胡麻かけ喰ふワニロ

(霊界物語第37巻七章)

 

日地月星の団子も食ひ飽きて

今や宇宙の天海を呑む

(霊界物語入蒙記第6章)

 

私は、この歌は最初アストラル・トリップで太陽系外に飛び出して、そこで見た風景の描写かと思っていたが、それでは太陽地球月を自分の腹中に収めることなどできない。

また出口王仁三郎は、この歌を見た大衆が自分のことを、異常心理にあって、神か、魔か、人か、誇大妄想狂か、二重人格者か、はたまた変態心理の極致の狂人と思うに違いないと予測している。

この令和の時代にあっても、世界と自分が合一するなどという現実は、依然として常識ある社会人にとって、誇大妄想狂の妄言に過ぎない。だがそれこそが、目指すべき神人合一の有り様である。

 

出口王仁三郎の霊界物語第37巻余白歌より(関東大震災直後に詠める)

 

関東の地震に勝る人造の

地震治むる神の権力

(上掲書十章)

 

醜司(しこつかさ)自身神也火の車

乗りて市中を駆けめぐりつつ

(上掲書十一章)

 

何事の勃発すとも惟神

任す真人の自信神也

(上掲書十一章)

 

神勅の地震雷火の雨は

乱れたる世の状をいふなり

(上掲書十二章)

 

関東大震災以上の人工地震を起こそうとする者もいるのだろう。

※自身神也と自信神也は、自分が神であることを示す。

※昭和東南海地震(1944年12月7日)M7.9に際して、地震が止まないので出口王仁三郎は、天に向かって『鎮まれ』と二度叱咤したところ地震は止んだ。(出典:新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P239)

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自分と神仏が大逆転

2024-04-24 03:09:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-22

◎垂直上昇への仕掛け-22

◎大逆転と倒立-1

◎本当の愛や本当の善や本当の安らぎに出会う

 

悟りとは自分と神仏が逆転することだが、悟りによってその世界を逆転させないと、人は本当の愛や、本当の善や、本当の安らぎに出会うことはない。

 

そこで悟りにアプローチしていくには古来冥想が、主たるメソッドとして存在していた。しかしながらそれには、ディレンマがあり、自分と神仏が逆転するというポジションに内在しているものだが、見ている立場が全く異なった視座になるということに起因している。それが故に、見ている立場を一定させる現代科学の視点からは、悟りで起こるその逆転を肯定的に評価することはできないということ。(見ている立場が、自分個人から世界のすべてである神仏に変わってしまうというディレンマ)

要するに悟りを肯定的に見るということもできないし、また悟りに至るメソッドとして冥想があるということも論証はできないということ。

 

【アヴァターラ・神のまにまに】では、メインのテーマの一つが、逆転、倒立の明確化。古今東西様々な悟りのステップが呈示されているわけだが、

現代人には、一気通貫、一直線タイプのカリキュラム体系が受け入れやすいが、最も重要な最終バック・ストレートが逆転、倒立になっていることは、わりに強調されていなかったり、隠されたり、はぐらかしたり、未公開になったり、口伝になったりしている。すなわち、神人合一後に、見ている自分がなくなってしまう時点での逆転とか倒立という驚きやら感激については、なぜかあまり語られていない。

もっとも、最重要な事柄は、往々にして平素日常から慣れ親しんで公開されている言葉だったりするのだが。

 

人間が神仏になるとは、個人が世界全体宇宙全体になるのだから、逆転である。その想像を絶するさわりの部分は謎に包まれている。そこは、ユダヤ教の生命の樹(セフィロト)では、深淵として表現されている。禅の十牛図では、忘牛存人と世界全体である牛がいつのまにか消えたとだけ、結果報告だけですましている。

第五身体コーザル体の先は、第六身体アートマンであり、神であり仏である。ところが諸聖典、古伝承、神話には、第五身体コーザル体のことはさらっと書いており、どうすれば神仏に到達できるかどうかを微に入り細に入り書いているものはない。

 

さて、善のサイド、天国の側を窮めることだけが神仏への道である。悪魔は神になることだけはできないからである(ダンテス・ダイジ)。

そして天国から神仏へはジャンプ・アウトしなければならない。だからタロット・カードでは、吊るされた男として世界の逆転を暗示し、世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にして、これも上下逆転をシンボライズしている。天国と神仏の間には大逆転があるのだ。

 

西洋錬金術書、逃げるアタランタXXVIIでは、『鍵』は知的理解、『錠前』は冥想法。『鍵』はそれまでの一切の固定観念、世界観を全く逆転するものであるから、『「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」』という表現になる。鍵は、賢者の石であって卑しいと言うのは、価値観の逆転後(世界の逆転後)での表現。精神的なものにこそ価値があると見る世界観にあって、初めて賢者の石の価値が高いものとわかる。このカネ至上の人々の多い時代には、賢者の石は卑しく見える無用の長物。無用の用。

 

そして大逆転への準備は、成熟である。自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。

なお、それまでの苦闘の途中では、すべてを望めば、すべてが手に入らないという現実に直面する。これが、「全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出方の一つ」(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ)であって、世界の逆転となる。

 

ギリシア神話の逃げるアタランタでは、アタランタが神仏であり、どこまでも彼女を追うヒッポメネスがエゴである。エゴが残っている限り神仏にはなれないが、徒競走で、ヒッポメネスは三度黄金の林檎を投げ、先行するアタランタが黄金の林檎に気をとられている隙に逆転し、最終的に先にゴールすることができた。これによりヒッポメネスは、アタランタと結婚し、神となれた。

 

一方古事記では、伊弉諾(イザナギ)命が、黄泉の国から退却する際に、黄泉比良坂で、追手の黄泉醜女(よもつしこめ)や八柱の雷神などに対し三度桃の実を投げつけることで、生還することができた。

黄泉比良坂が逆転の均衡点。その坂は、

善悪、正邪、治乱、興廃を分ける坂であって、坂を上りきるのが逆転。

 

人が全知全能の神になるのが、『大逆転、倒立』であって、それは大変なことである。縁のない人とっては、それは、しばしば信じられない出来事、想像もできない出来事である。

 

出口王仁三郎から。

『立替と立直しは一緒や。立替せねば、立直しはできぬ。

(昭和二十一年六月十五日)』

(新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P367から引用)

と言っているが、これは、まず自分が死ななければ、自分が覚醒することはないということ。新時代は、覚醒した人、悟りを開いた人だけの時代となるからには、多くの人が自我が死んで甦るという体験とは言えない体験を経ないと実現しない。

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しっくりくる

2024-04-23 03:48:17 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-21

◎垂直上昇への仕掛け-21

◎精神の成熟-5

◎生きること自体何かスッキリしない

 

しっくりくるというのは、感性と洞察。だがその選択の結果は、自分の今生の行く末を決めてしまう。

見者、覚者はいざしらず、絶対的な境地を通過したことのない人間にとって、愛も、実在、智慧、歓喜も、真善美も、タオも全く縁のない異次元のテクニカル・タームでしかないのだ。

 

生きること自体何かスッキリしないという感じを持っている人は少なくないものだ。その状態から脱却するのは、何年経っても難しい。何をしてもぜんぜんしっくりきてなくて、変わらない。だけど、そういう状態でもなんとかやっていけるだろうし、そういうぬるま湯でも、ちょっと苦しい生活であっても、もういい、もういいくない。

人は、法を守り、社会規範を遵守していっても、必ずやそれが本来の自分の生き方ではないところがあることを随所に感得してしまうもの。

こうしてこれが複雑な現代社会に生きる人間に課せられたトリック。それが、ストレスであり、社会的にやや不適応な感じ、しっくりこない感じの出どころの一つである。

こうして自分の気持ちをのぞいてみると、自分の個人的な秘密のゴミ情報ばかりなのだが、それは個人的無意識とも呼ばれ、その情報群は多重であり、複雑にからみあっており、想像や嘘や思い込みや推測や真実もがんがん入り混じっている。

これに不安、恐怖、喜び、爽快さ、生きづらさなどの情動も加えられて、そんなゴミためを覗いても労多くして益少なし。そこで人は、ただ確かなもの、本当にしっくりくるものを求める。

 

酒だ、癒しツールだ、ブランド品だ、有料パワーアイテム、エンタメだなどと一時の満足を求めても空しい。人はそれを何万回も繰り返してきたはず。

仕事もそうで、現代人は自分にふさわしい仕事があるなどと思っていて、それが自己実現だなどと、アメリカ流の個人主義を土台にした社会的自我確立手法が疑いもなく正しいものだなどと思い込んでいることが多い。

他人の飯は白いのだ。転職における心身の負荷は想像以上だ。ソ連解体後、かの国では、ほぼすべての国民が転職を余儀なくされ、多くの人々が酒におぼれ、自殺は急増した。外に確かなものを求めるというのは、一般には大変なことだ。

 

確かなもの、しっくりくるものを求める気持ちは万人にあるが、奥底に神仏への敬虔がないと、うまくいかないのではないかと思う。なぜなら私利私欲だけで確かなもの、しっくりくるものを求めても末路は宜しくないように思われるからである。

人は、日々善いことをして、悪いことをしない。その上で、あらゆる実感を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、神仏に到達できるのだ。その点で、今生でのエネルギーの充溢というのは、窮極に達するためのクリティカル・イシューである。

何がしっくりくるのかは、人により千差万別であり、自由意志で好き勝手に決められる事柄に見えるが、その簡単さと裏腹に、その選択の判断の由来と結果は、とても重大なことである。それが成熟の結果を示しているからである。神仏に出会うというようなチャンスが来た際につい眠ってしまうのが、大半であり、その時大方の人は眠るのがしっくりくると思っているのだろう。

しっくりくるかどうかというのは、意外に重大である。

 

自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言う場合がある。

 

日々の冥想習慣は、大事なことだと思う。

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目次8

2024-04-22 07:11:21 | 目次(カテゴリー別)



【錬金術neo】
エメラルド・タブレットの世界(古神道の世界観との類似)
 エメラルド・タブレットの秘儀(ヘルメスのつぼ)
 世界樹の見え方(それはひっくり返っている)
 ニュートンの世界観(第五元素の説明)


【修験道neo】
一言主の神の由緒(善事も一言、悪事も一言)
 田中陽希GreatTraverse-10(道なき道 )
 役行者が己の骸骨に出会う(トラウマを超えて)
 田中陽希GreatTraverse-1(日本のピラミッド説など)
 田中陽希GreatTraverse-2(修験道との関わり、大峯山など)
 田中陽希GreatTraverse-3(登ってはいけない山-1 )


【老子neo】
あらゆるものに神性を見る(老子第39章 昔之得一者)
 冥想体験としての老子(老子第16章 致虚極)
 不争の徳は水の如し(老子第8章上善若水)
 無為の体験を経た言葉(老子第81章 信言不美)
 陰極まって陽生ず(老子第36章 将欲歙之)


【キリスト者の秘蹟neo】
アヴィラのテレサの語り得ない体験(一瞬の飛翔)
 ヨブへの答え(先進国と発展途上国 )
 イースター復活祭(イエスはいつ大悟したか)
 霊操のメソッド(来たるものあり)
 イザヤの召命(木の切り株だけ残っても)
 ペテロの逆十字(第一の人間は無用の用を生きる)
 最後の法王(我ら平民の覚醒と連動)
 オリーブの栄光(誰もペトロ2世を名乗れない)
 シバの女王が南からやって来て最後の審判に臨む(女性忌避の最終シーン)
 神学大全を捨てたトマス・アクィナス(過去の自分を捨て去る)
 イエスが弟子の足を洗う(最後の審判の時代)
 聖なる傷痕に指を入れた使徒(見ないのに信じた人は幸いである)
 預言者エリヤのクンダリーニ上昇(つむじ風)
 キリスト教の守護天使、古神道の正守護神(誕生から封切りまでエスコート)
 聖ドナトゥスのエクソシズム(別の出口を作る)
 アリマタヤのヨセフ(金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむづかしいが)
 細川ガラシャの十字架(散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ)
 北東の隅に最初は役に立たない石を置く(まさかの艮の金神)
 どんな不信仰な人でも耳を傾ける年(凡夫の耳も菊の年)


【アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo】
アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-1(ブログを始めた頃)
 アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-2(出口王仁三郎)
 アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-3(相としての組織宗教衰退と万人が神仏を知ること )
 アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-4(わが身一身で、あらゆる冥想法を試すわけに参らぬこと)
 アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-5(物事を変えるには相当に早い時期から準備が必要)
 アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-6(人類全体の進化 )


【【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo】
天国もいいけれど(神のために神を捨て去る)
 ひきこもり列島(非社会的生活での思考力・集中力の低下)


【【七つの身体】【ザ・ジャンプ・アウト-04】neo】
七つの身体総論(七つの身体 総論)
 七つの身体総論-2(チベット死者の書とニルヴァーナのプロセスとテクニック)
 七つの身体総論-3(七つの身体はそれぞれ別次元にある)
 七つの身体総論-4(第五身体=コーザル体=両性具有)


【【七チャクラ】【ザ・ジャンプ・アウト-03】neo】
チャクラと七つの身体論の参考資料の現状(チャクラと七つの身体-1)
 チャクラの数とポジション(チャクラと七つの身体-2)
 チャクラの位置と性質(チャクラと七つの身体-3)
 荘子の7つのチャクラ(七チャクラ説-1)
 太乙金華宗旨の7つのチャクラ(七チャクラ説-2)
 ヨハネの黙示録のチャクラ(七チャクラ説-3)
 10チャクラ説(仏教十界説など)
 瑞宝十種(十種神宝(とくさのかむだから))(饒速日命(ニギハヤヒノミコト))
 密教のチャクラの数(4チャクラ説、5チャクラ説、6チャクラ説)


【【クンダリーニ・ヨーガの全貌】【ザ・ジャンプ・アウト-02】neo】
死の世界・死の技術(クンダリーニ・ヨーガの全貌-1)
 古今東西-1ウパニシャッド・ヘルメス文書(クンダリーニ・ヨーガの全貌-2 )
 白魔術とは-1(天意を読みしたがう)
 白魔術とは-2(唐代の禅僧普化の例)
 最初から追い込まれた生い立ち-1法然(若くして虚無を見る)


【【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo】
縁がない人たち(上意下達のスタイルは去った)
 一厘の仕組(一厘の仕組)
 親鸞の愚禿鈔(横超=選択本願・真実報土・即得往生)
 人間の善悪(自由から善へ)
 離魂(死期と分身)
 宇宙人は猫をいやがること(ホイットリー・ストリーバーの未知との遭遇 )
 神がかりにだまされる者は、神の綱が切れる(Coolな出口王仁三郎)


【【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo】
虹の身体と幻身の違いについて(別の微細ボディ)
 虹の身体-1(ナムカイ・ノルブの説明)
 虹の身体-2(まず死から)
 死のプロセスから(頭頂からの脱出)
 幻身の正体(メンタル体の特徴)


【【コーザル体】【ザ・ジャンプ・アウト-09】neo】
出口王仁三郎のコーザル体-4(両性具有=完全無欠の神人)


【【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo】
冥想十字マップ-1(定とサマーディ(三昧)の違い)
 冥想十字マップ-2(チャクラと七つの身体への対応)
 雪巌祖欽のアートマン(坐禅のバリエーション)
 ケン・ウィルバーの結跏趺坐(空とワン・テイスト)
 ケン・ウィルバーの意識状態(見性からの深まり)
 エメラルド・タブレット(エドガー・ケーシーの見たアトランティス)
 冥想の深浅高低-1(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-1)
 冥想の深浅高低-2(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2)
 冥想の深浅高低-3(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3)
 冥想の深浅高低-4(原始仏教の分類1)
 冥想の深浅高低-5(原始仏教の分類2)
 冥想の深浅高低-6(原始仏教の分類3)
 冥想の深浅高低-7(原始仏教の分類4)
 冥想の深浅高低-8(原始仏教の分類5)
 冥想の深浅高低-9(原始仏教の分類6)
 冥想の深浅高低-10(冥想の縦軸と横軸)
 人間の最終ステップ(九分九厘まで)
 空海の十住心論-1(空海の十住心論-1)
 空海の十住心論-2(空海の十住心論-2)
 日の老いたる者の言葉(音楽の効用)
 不連続な意識のスペクトル(ケン・ウィルバーの意識のスペクトル)


【【ニルヴァーナ】【ザ・ジャンプ・アウト-11】neo】
スピリチュアルの暗号解読(海王星の発見から)


【【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo】
オルガスムの法則(エーテル体レベルでの現象  )
 グルジェフのエーテル体(遠隔治療の原理)
 エーテル体の色(肉体の回りの青みがかった光)
 平田篤胤の養父篤穏の養生法(エーテル体のイメトレ)
 OSHOのヴィパッサナー-1(想念と行動の意識化)
 OSHOのヴィパッサナー-2(出入する腹への気づき )
 OSHOのヴィパッサナー-3(入息出息を鼻の先で見守る)
 OSHOのヴィパッサナー-4(取扱注意が必要な呼吸覚醒)
 エーテル体の形状と位置づけ(エーテル体の形状と位置づけ)
 生気に乗った生命(エーテル体の形状と位置づけ(続))
 エーテル体の性質(睡眠時にエーテル体は肉体から離脱)
 メスマーの27の法則-1(人間と全宇宙は常にシンクロしている)
 メスマーの27の法則-2(気の力を自在に操れる人もいる)
 メスマーの27の法則-3(エーテルとアストラルの区別)
 第二身体は、濃縮した煙(神霊原子)
 不完全なる霊素(陰陽・火水からどのように半物質、物質へと変わっていくか)

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メンタル体での脱身と究極への突入

2024-04-22 03:41:38 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-20

◎垂直上昇への仕掛け-20

◎精神の成熟-4

◎呼吸停止、脈拍停止

 

2.メンタル体での脱身

第二のバローメーターとして、メンタル体での脱身。

メンタル体での脱身については、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』が最も詳しい。

また出口王仁三郎慧命経も参考になる。

メンタル体での脱身に先行して、呼吸停止、脈拍停止が発生する。これが肉体死との近縁性が語られる部分である。

以後順調に進めば、神仏に至る。

 

なお呼吸停止、脈拍停止は肉体死だが、肉体死する者にも見仏見神のチャンスはあるといえども、大半の人は、それを取り逃がして輪廻転生の方に行ってしまう。

悟り、覚醒とは、大雑把に言えば、メンタル体ベースからの脱魂・脱身が一里塚。それ以後のプロセスが急速に起こるのが身心脱落、緩慢に起こるのがクンダリーニ上昇なのだろうと思う。

 

人間として正統な成熟を遂げるということがその準備ということになる。それができていないのに、脱身とか脱魂とかクンダリーニ上昇をチャレンジする場合、神仏に叩き落されるというのはありそうなことである。

 

3.究極への突入

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』だけを読めば、メンタル体での脱身以降は、半自動的に究極への突入まで進むかのように思うかもしれないが、OSHOバグワンの『奇跡の探求』を読めば決してその道筋は一本道ではないことがわかる。出口王仁三郎の書きぶりも、団体のパック旅行の参加者のような気楽なものではない。

またOSHOバグワンによれば、肉体への生還も、そう簡単なものでもないらしい。

よって、究極への突入も第三のバロメーターたり得ると考える。

 

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成熟のバロメーター

2024-04-21 03:56:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-19

◎垂直上昇への仕掛け-19

◎精神の成熟-3

◎正師に出会う

 

そのような混乱と多様性の中で、人間の進化のバロメーターとして以下が挙げられる。

1.正師に出会う

2.メンタル体での脱身

3.究極への突入。

 

以上三つは自分の力だけではどうしようもない部分があるので、バロメーターとして適当であると考えた。

なお、見仏、見神、見性は、その“聖なる状態”から逆戻りして、悪人になるケースもあるので、敢えてバロメーターとしては挙げなかった。

また段階を立てない冥想である禅には、10段階の十牛図があって、見性は、『見牛第三』と位置付けられているが、もともと段階がないのだから、気にするまでもない。

 

1.正師に出会う

人は正師に出会わなければ、決して悟ることはできない。正師は、必ずニルヴァーナという体験とはいえない体験を経た者である。

正師に出会うというのは、修行の成否のための最重要のファクターの一つである。だが、大金を積めば会えるというものでもない。それについて聖者たちは、口を揃えて同じことを言う。あなたに準備ができれば、正師が現れると。彼に出会うのは今生かもしれないし、今生でないかもしれないし、既に出会っているが気づかずに終ったのかもしれない。

どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。

 

インドの聖者ユクテスワは、正師の助けを得ることについては、シャンカラチャリヤの言葉を引いて、『人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。しかしたとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる』

(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P91から引用)

と高く評価している。

 

一方で正師がその教えを継承させることの大変さは、達磨と慧可の例で有名だが、曹洞宗にも類似の困難があった。江戸時代の曹洞宗のトップ卍山が、法を継承する形式が、寺を継承する(伽藍嗣法)であって、悟った人から悟った人への嗣法ではなかったという弊風に悩み、宗門改革を図った。

結局卍山は、師と弟子がマンツーマンで会って、そこで嗣書(印可みたいなもの)の授受が行われれば、それを嗣法と認めて、これが正統として今日に至るらしい。

卍山の親友だった独庵は、凡師と凡資(悟ってない師と悟ってない弟子が)が対面して嗣書を授受しても紙伝払伝に過ぎず実体のない法嗣にすぎないと、卍山の見解を批判しているが、卍山はそこまで徹底することはできなかったらしい。

 

チベット密教のダライ・ラマの継承でも似たような問題はあった。

 

正師が簡単に見つからないというのも問題だが、真理を伝授するまともな弟子が見つからないのも問題なのだ。

日本について言えば、オウム・カルトが暴れまわったおかげで、宗教のしの字も大っぴらに語れないという社会環境ではあるし、SNSを利用した宗教特殊詐欺、スピリチュアル特殊詐欺の横行は、ますます正師を見つけにくくしている。

だが、自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もあるのではあるが。

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見ている自分と見られるもの-3

2024-04-21 03:48:03 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見ている自分は純粋な意識

(2017-09-30)

 

さて、世界が与えてくれるあらゆる経験は、見ている自分が解脱するために存在していた。

パタンジャリのヨーガ・スートラでは、見ている自分は、純粋な意識であるとする。

現代科学は、他の事物や他人は自分とは独立したものであって、自分は孤絶した観察者の立場で、それらを評価したり論じたりできるというのが建前である。しかし現代では、自分と他人や他の事物は相互に影響を与え合っているのが次第に知られるようになってきた。このことは伝統的な宗教の見方であり、山川草木悉皆成仏(山川草木みな仏)、アカシック・レコード(世界はひとつながり)などと言う。

ところが、あらゆる知識や考え方は個人的なものであって、分断されているのが、この社会の通念。

自己と他者、見ている自分と見られるもの、生と死、男と女は両極であり、この両極の分断という苦しみは、つらいトレーニングなしでは通過することはできない。

そのトレーニングの成功確率は、それに自分を捨てられる比率、賭けられる比率に対応して高まる。

 

ヨーガ・スートラから

『2.20 見る者は純粋な意識であるが、見る者はマインドの幻影を通して見る。

2.21 見られるものは、見ている自分だけのためだけに存在する。』

自己と他者、生と死、男と女、子供と老人、巨富と貧困ですらマインドの造り出す幻影である。こうした幻影という現実は、見ている自分のためだけに存在する。

肉体ですら幻影という偽物だが、肉体こそ現実、金こそ現実、美醜こそ現実のように、その偽物たちでもって真剣に訓練を重ねないと、偽物であることを見抜きそれが偽物である世界に逆転して生きることはできない。

逆転して初めて、『見ている自分は純粋な意識』と言えるのであって、覚醒以前に『見ている自分は純粋な意識』と言うのは、空念仏である。

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見ている自分と見られるもの-2

2024-04-20 03:44:07 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見られるものは見ている自分を解放するために経験を提供する

(2017-09-29)

 

見られるものである花は、見られることで、その外貌を変える。ここに、見られるものは、見ている自分に影響されて変化を起こすことで、見ている自分と見られるものが一つながりであることに気づく。

花の側に見られた経験は残っている。だが、見られた経験者はもはやそこにはない。見た人間が、世界が一つながりであることに生きていれば、花と人との両極性は消え、写すレンズと被写体が消え、すべての境界が失われる。

 

ヨーガ・スートラから

『2.18要素と感覚器官で成る「見られるもの」は、照明、活動、および慣性という性質を有し、「見るもの」に経験を提供し、「見るもの」からの解放という目的のためのものである。』

 

人は解放されるために存在している。何からの解放か。

人生がこのような苦しみの連続であれば、その目的は何のためだろう?神が存在するとすれば、なぜこの混乱を収束させることができないのだろう。

こうした苦悩、苦痛、混乱から、見ている自分を解放するために「見られるもの」が存在しているとパタンジャリは解く。見ている自分に対して見られるものは、経験を与えることで終極には解放を与えるとする。

密教では、入我我入と表現し、只管打坐では、意識を清明に保ちながら深まっていく。

アダムとイブの与えられた知恵の木の実が経験の始まり。

諸行無常とは、空の悟りであり、「見られるもの」には実体がなく、永遠不壊のものはない。なぜ変化し実体がないものを人間に与えねばならないのか。

いきなり、ある人間に対し、あなたは何も問題がない、あなたは既に完璧で、パーフェクトであると語りかけても誰も納得などしない。あなたは、今ここで悟っている、生きながらの神そのものであるなどとおだててみても、まともな大人なら信じはしない。

坐っているその姿が悟りである修証一如などと古仏が言ったとしても納得感などはない。

だがその納得を与えてくれるものは、「見られるもの」が提供してくれる経験であるとパタンジャリは云う。

そこで初めて、覚者は、あらゆる実感を経た者であるとか、あらゆる経験を経たものであるという説明がしっくり来るものとなる。

あらゆる体験を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、到達できるのだ。

人は何十年でも何百年でも、ともすれば同じライフ・スタイルを繰り返しがちなものだという。そこから抜け出そうとする情熱がある者が縁を呼ぶのだろうと思う。

どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。

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世界の成熟

2024-04-20 03:32:12 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-18

◎垂直上昇への仕掛け-18

◎精神の成熟-2

◎自意識の発展と知性の発達(霊がかりと天国希求の限界)

 

2.世界の成熟

ここ2千年で言えば、これは、自意識の発展と知性の発達が二本柱。

自意識の発展については、2千年前は、イエスの山上の教えを素直に聞き従う人が多かったように、誰もが今ほど自分の考えや感情を言葉として表出できなかったが、現在はSNSのように猫もしゃくしも自意識を言葉に表現できる時代となった。

さらに古代においては、自分の肉体と外部の自然や他人がつながり相互に影響しあっているような感覚があったが、現代ではそれらを峻別するのが当たり前という意識状態になった。これが自意識の発展。

知性の発達についていえば、自意識の発展と並行して、個々人の孤立、肉体と精神の峻別という進歩が起こり、これをベースに知性は発展を遂げていった。その結果、古代は肚や胸中心にものを考えていたのが、今では頭中心(知性のセンター)にものを考えるのが当たり前になった。おかげで無神論を誰も咎めない状況まで現出するようになった。これが知性の発達。

スピリチュアル・シーンでは20世紀初頭には、霊の実在・発見ということで、心霊主義、霊がかりが非常に盛んになった時期があったが、それも1920年代までには、下火になった。それは、クリシュナムルティが、マイトレーヤの霊を我が肉体に乗り移らせるのを取りやめた事件(1929年星の教団解散宣言)や、大正末年頃には出口王仁三郎が、教団の中で数千人規模でやっていた霊降ろし訓練をやめた事件が典型である。時代はこのように天国希求を主題とする霊界宣伝の時代から、個々人が自分で究極へ進もうとする時代に大きく転回していったが、これも自意識の発展と知性の発達の一つの側面である。

それから100年人間はさらに爛熟を極めている。

 

さはさりながら、21世紀80億の地球人の誰もが進化できるというものでもなく、またどの民族もすべて進化できるというわけでもない。その基底には、爛熟、成熟の程度が、民族的にも、個々にも異なるという問題に加え、それ以前に個人にあっては、生きるエネルギーの多寡が人によって異なるという問題もある。心的エネルギーは誰にでも均等に分配されているわけでなく、人により多い場合も少ない場合もあるという事情がある。

 

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無意識を薬物で表面化させる

2024-04-19 03:40:16 | 究極というものの可能性neo

◎個人的な秘密のくずかご

(2017-12-21)

 

1950年代アメリカでは、効果的な自白剤の開発に余念がなかった。

『真実を吐かせるドラッグという概念自体が、最初から少々荒唐無稽ではあった。これにはまず、精神のほうが自己検閲をする傾向を、化学薬品でバイパスし、精神を裏返してしまい、かくしていた秘密をどっと吐きださせる方法があるはずだという考えが前提になっている。

そして吐きだされた個人的な秘密のくずかごから、求める「真実」に近いものを手にいれられるという前提があった。

この点で、CIAが求めていたものは、鉛を金に変えるとされた「賢者の石」とか、デソトら探検家がさがし求めた「不老の泉」など、おなじみの神話の歪曲版といったおもむきがあった。

つまりなにかにふれたり、摂取したりすれば、たちどころに知恵、不死、永遠の安らぎがえられるといったたぐいの幼稚さが見られたのだ。』

(アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命 マーティン・A・リー/共著 第三書館 P18から引用)

 

この開発がうまくいったかどうかわからないが、現場では、あまりにも膨大な個人的な秘密のゴミ情報に当惑し、目指す価値ある情報にたどり着くのは大変な労力が必要になったのではないかと思う。

こういった、個人的な秘密のゴミ情報は、冥想シーンでは、雑念、妄想であり、相手にしない、棄てることを励行されるものである。

個人的な秘密のゴミ情報は、個人的無意識とも呼ばれ、その情報群は多重であり、複雑にからみあっており、想像や嘘や思い込みや推測や真実もがんがん入り混じっている。

これに不安、恐怖、喜び、爽快さ、生きづらさなどの情動も加えられて、そんなゴミためを覗いても労多くして益少なしではないかと思う。

だが無意識の世界は、死の世界でもあり、無意識の心理現象は、その奥底で、現実そのものの形成力となり、現在と過去と未来をも構成している。

忙しい現代人にゴミ箱のゴミをチェックしている余裕はなく、ただ確かなもの、本当にしっくりくるものを求めるというのが、まともな情熱というものではないかと思う。

 

ヨハネによる福音書8-32

『真理はあなたたちを自由にする』

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