アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

無意識を薬物で表面化させる

2024-04-19 03:40:16 | 究極というものの可能性neo

◎個人的な秘密のくずかご

(2017-12-21)

 

1950年代アメリカでは、効果的な自白剤の開発に余念がなかった。

『真実を吐かせるドラッグという概念自体が、最初から少々荒唐無稽ではあった。これにはまず、精神のほうが自己検閲をする傾向を、化学薬品でバイパスし、精神を裏返してしまい、かくしていた秘密をどっと吐きださせる方法があるはずだという考えが前提になっている。

そして吐きだされた個人的な秘密のくずかごから、求める「真実」に近いものを手にいれられるという前提があった。

この点で、CIAが求めていたものは、鉛を金に変えるとされた「賢者の石」とか、デソトら探検家がさがし求めた「不老の泉」など、おなじみの神話の歪曲版といったおもむきがあった。

つまりなにかにふれたり、摂取したりすれば、たちどころに知恵、不死、永遠の安らぎがえられるといったたぐいの幼稚さが見られたのだ。』

(アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命 マーティン・A・リー/共著 第三書館 P18から引用)

 

この開発がうまくいったかどうかわからないが、現場では、あまりにも膨大な個人的な秘密のゴミ情報に当惑し、目指す価値ある情報にたどり着くのは大変な労力が必要になったのではないかと思う。

こういった、個人的な秘密のゴミ情報は、冥想シーンでは、雑念、妄想であり、相手にしない、棄てることを励行されるものである。

個人的な秘密のゴミ情報は、個人的無意識とも呼ばれ、その情報群は多重であり、複雑にからみあっており、想像や嘘や思い込みや推測や真実もがんがん入り混じっている。

これに不安、恐怖、喜び、爽快さ、生きづらさなどの情動も加えられて、そんなゴミためを覗いても労多くして益少なしではないかと思う。

だが無意識の世界は、死の世界でもあり、無意識の心理現象は、その奥底で、現実そのものの形成力となり、現在と過去と未来をも構成している。

忙しい現代人にゴミ箱のゴミをチェックしている余裕はなく、ただ確かなもの、本当にしっくりくるものを求めるというのが、まともな情熱というものではないかと思う。

 

ヨハネによる福音書8-32

『真理はあなたたちを自由にする』

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見ている自分と見られるもの-1

2024-04-19 03:26:42 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見ている自分と見られるものの結合

(2017-09-28)

 

見ている自分と見られるものによって、修行方法は、自分に神が入る、神が憑依するタイプと、自分が神になるタイプとの2種類に分かれる。

前者はシャーマニズムやチャネリングであり、後者は、ラージャ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガに分類されるものであり、キリスト教、仏教の密教、禅、道教などもそれである。

ヨーガ・スートラの2.15には、わかっている者にとっては、すべては苦であるというこの世の見方が登場し、一切皆苦は、仏教の定番ではなく、インド伝統の見方であることを知る。

『2.16 未来の苦は、避けることができる。

2.17 避けなくてはならない(苦の)原因とは、見る者と見られるものの結合である。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックスP6から引用)

 

自分とは自分個人であり肉体人間であると思い込む人にとって、生老病死は避けられないものであり、この世には何一つ確かなものなどない。

ここに一切皆苦の立脚点があり、この原因をパタンジャリは、見ている自分と見られるものの結合だとする。

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爛熟から成熟へ

2024-04-19 03:16:48 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-17

◎垂直上昇への仕掛け-17

◎精神の成熟-1

◎退屈、倦怠、憂鬱という心のエネルギーのたゆたい

 

存在、智慧、歓喜という最高に真実なるものを求める旅の始まりは、意外にも退屈、倦怠、憂鬱という心のエネルギーのたゆたいから始まっている。

だからこそ西洋錬金術では、メランコリー図が大きな意味を含むものとして考えられている場合がある。

倦怠・退屈といえば小説家フランソワーズ・サガンの若い女性のアヴァンチュール譚や、旗本退屈男が古くから人気があり、憂鬱の方は、うつ病の生涯有病率が国民の6.5%に達するなど社会全体の問題にもなっている。

ことほど左様に冥想修行における精神の成熟の問題とは、心的エネルギーの行方という問題である。だから何千年にもわたり、為政者は、社会の普通の人々の平素の勤勉篤実な日々の中に、オルギア的な狂騒の日々を年に1、2回入れることで、社会としてのガス抜きを図ってきたものだ。

最近は、スマホの普及とSNSなど多様なマインド・コントロール(そしてパンデミックなどでの行動規制)によって、人間に思考をさせないタイプの心的エネルギー操作が隆盛となり、はけ口を求める心的エネルギーの圧力はむしろ増大しつつある。ムンクの叫びという絵の姿が普通人の姿になっているのだ。

その心的エネルギーは、やがて小は、飢餓(生活苦)、疫病(パンデミック)、戦争という形でその消耗を現実化することを求めていくものだし、大は天変地異の現実化だが、そうした外的事象を越えていくのが冥想(瞑想)である。

いずれにしても心的エネルギーの帰趨こそが、精神の成熟の根幹である。

 

またこれは、世界の終わり、世の終末、大峠、最後の審判で生き残れるかどうかという点にかかわるクリティカルなポイントでもある。

 

そして感情と思考・想念では、感情の方がより深く激しく作用する。高地登山でもトランスでも、思考・想念は先に止まり感情が後に残る。これらが心的エネルギーの原則。

一休が晩年思考・想念ベースの禅を棄て、感情ベースの念仏に帰依した消息がそれ。

 

1.個人の成熟

宗教・冥想が旦那衆の窮極の道楽と言われるのは、個人の自意識が極大化するためには、わが衣食住の生活に不安がないことが、宗教・冥想に取り組む最低条件であるためである。

平たく言えば、人は先に愛される実感を得なければ、まともには育ちにくい、成熟を遂げにくいということ。

その基礎条件あってこそ倦怠、憂鬱から、何かしっくり来るものを求める方向へと進んで行く。

 

またそうしたものを感じとれる器の大きさ、魂の準備、横溢する心の衝動、そうしたものなしには、先に進んで行く慣性は惹き起されないのではないか。

さらに人間としての成熟とは、あらゆる場面における実感の積み重ね、人間的体験の蓄積ということになるのだろうが、そうしたものがある一定レベルに到達して、初めて心のパワーというものが窮極に向けて発進し始めるということがあるように思う。

なお、そもそも心のエネルギーのとらえ方には、知情意、リビドー、性欲、クンダリーニ、一者、一気通貫、四枢要徳、七つの大罪、諸行無常、色即是空、もののあはれ、わび、さび、絶望と歓喜、オージャス、サット・チット・アーナンダ(存在・智慧・歓喜)などありとあらゆるものがある。その中で、私の感じている爛熟から進化に至る心的エネルギーのメカニズムの説明は以上のようなものである。

(Melencolia I/Albrecht Dürer(wikipedia))

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