◎ジェイド・タブレット-10-19
◎垂直上昇への仕掛け-19
◎精神の成熟-3
◎正師に出会う
そのような混乱と多様性の中で、人間の進化のバロメーターとして以下が挙げられる。
1.正師に出会う
2.メンタル体での脱身
3.究極への突入。
以上三つは自分の力だけではどうしようもない部分があるので、バロメーターとして適当であると考えた。
なお、見仏、見神、見性は、その“聖なる状態”から逆戻りして、悪人になるケースもあるので、敢えてバロメーターとしては挙げなかった。
また段階を立てない冥想である禅には、10段階の十牛図があって、見性は、『見牛第三』と位置付けられているが、もともと段階がないのだから、気にするまでもない。
1.正師に出会う
人は正師に出会わなければ、決して悟ることはできない。正師は、必ずニルヴァーナという体験とはいえない体験を経た者である。
正師に出会うというのは、修行の成否のための最重要のファクターの一つである。だが、大金を積めば会えるというものでもない。それについて聖者たちは、口を揃えて同じことを言う。あなたに準備ができれば、正師が現れると。彼に出会うのは今生かもしれないし、今生でないかもしれないし、既に出会っているが気づかずに終ったのかもしれない。
どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。
インドの聖者ユクテスワは、正師の助けを得ることについては、シャンカラチャリヤの言葉を引いて、『人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。しかしたとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる』
(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P91から引用)
と高く評価している。
一方で正師がその教えを継承させることの大変さは、達磨と慧可の例で有名だが、曹洞宗にも類似の困難があった。江戸時代の曹洞宗のトップ卍山が、法を継承する形式が、寺を継承する(伽藍嗣法)であって、悟った人から悟った人への嗣法ではなかったという弊風に悩み、宗門改革を図った。
結局卍山は、師と弟子がマンツーマンで会って、そこで嗣書(印可みたいなもの)の授受が行われれば、それを嗣法と認めて、これが正統として今日に至るらしい。
卍山の親友だった独庵は、凡師と凡資(悟ってない師と悟ってない弟子が)が対面して嗣書を授受しても紙伝払伝に過ぎず実体のない法嗣にすぎないと、卍山の見解を批判しているが、卍山はそこまで徹底することはできなかったらしい。
チベット密教のダライ・ラマの継承でも似たような問題はあった。
正師が簡単に見つからないというのも問題だが、真理を伝授するまともな弟子が見つからないのも問題なのだ。
日本について言えば、オウム・カルトが暴れまわったおかげで、宗教のしの字も大っぴらに語れないという社会環境ではあるし、SNSを利用した宗教特殊詐欺、スピリチュアル特殊詐欺の横行は、ますます正師を見つけにくくしている。
だが、自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もあるのではあるが。