アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

成熟のバロメーター

2024-04-21 03:56:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-19

◎垂直上昇への仕掛け-19

◎精神の成熟-3

◎正師に出会う

 

そのような混乱と多様性の中で、人間の進化のバロメーターとして以下が挙げられる。

1.正師に出会う

2.メンタル体での脱身

3.究極への突入。

 

以上三つは自分の力だけではどうしようもない部分があるので、バロメーターとして適当であると考えた。

なお、見仏、見神、見性は、その“聖なる状態”から逆戻りして、悪人になるケースもあるので、敢えてバロメーターとしては挙げなかった。

また段階を立てない冥想である禅には、10段階の十牛図があって、見性は、『見牛第三』と位置付けられているが、もともと段階がないのだから、気にするまでもない。

 

1.正師に出会う

人は正師に出会わなければ、決して悟ることはできない。正師は、必ずニルヴァーナという体験とはいえない体験を経た者である。

正師に出会うというのは、修行の成否のための最重要のファクターの一つである。だが、大金を積めば会えるというものでもない。それについて聖者たちは、口を揃えて同じことを言う。あなたに準備ができれば、正師が現れると。彼に出会うのは今生かもしれないし、今生でないかもしれないし、既に出会っているが気づかずに終ったのかもしれない。

どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。

 

インドの聖者ユクテスワは、正師の助けを得ることについては、シャンカラチャリヤの言葉を引いて、『人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。しかしたとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる』

(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P91から引用)

と高く評価している。

 

一方で正師がその教えを継承させることの大変さは、達磨と慧可の例で有名だが、曹洞宗にも類似の困難があった。江戸時代の曹洞宗のトップ卍山が、法を継承する形式が、寺を継承する(伽藍嗣法)であって、悟った人から悟った人への嗣法ではなかったという弊風に悩み、宗門改革を図った。

結局卍山は、師と弟子がマンツーマンで会って、そこで嗣書(印可みたいなもの)の授受が行われれば、それを嗣法と認めて、これが正統として今日に至るらしい。

卍山の親友だった独庵は、凡師と凡資(悟ってない師と悟ってない弟子が)が対面して嗣書を授受しても紙伝払伝に過ぎず実体のない法嗣にすぎないと、卍山の見解を批判しているが、卍山はそこまで徹底することはできなかったらしい。

 

チベット密教のダライ・ラマの継承でも似たような問題はあった。

 

正師が簡単に見つからないというのも問題だが、真理を伝授するまともな弟子が見つからないのも問題なのだ。

日本について言えば、オウム・カルトが暴れまわったおかげで、宗教のしの字も大っぴらに語れないという社会環境ではあるし、SNSを利用した宗教特殊詐欺、スピリチュアル特殊詐欺の横行は、ますます正師を見つけにくくしている。

だが、自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もあるのではあるが。

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見ている自分と見られるもの-3

2024-04-21 03:48:03 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見ている自分は純粋な意識

(2017-09-30)

 

さて、世界が与えてくれるあらゆる経験は、見ている自分が解脱するために存在していた。

パタンジャリのヨーガ・スートラでは、見ている自分は、純粋な意識であるとする。

現代科学は、他の事物や他人は自分とは独立したものであって、自分は孤絶した観察者の立場で、それらを評価したり論じたりできるというのが建前である。しかし現代では、自分と他人や他の事物は相互に影響を与え合っているのが次第に知られるようになってきた。このことは伝統的な宗教の見方であり、山川草木悉皆成仏(山川草木みな仏)、アカシック・レコード(世界はひとつながり)などと言う。

ところが、あらゆる知識や考え方は個人的なものであって、分断されているのが、この社会の通念。

自己と他者、見ている自分と見られるもの、生と死、男と女は両極であり、この両極の分断という苦しみは、つらいトレーニングなしでは通過することはできない。

そのトレーニングの成功確率は、それに自分を捨てられる比率、賭けられる比率に対応して高まる。

 

ヨーガ・スートラから

『2.20 見る者は純粋な意識であるが、見る者はマインドの幻影を通して見る。

2.21 見られるものは、見ている自分だけのためだけに存在する。』

自己と他者、生と死、男と女、子供と老人、巨富と貧困ですらマインドの造り出す幻影である。こうした幻影という現実は、見ている自分のためだけに存在する。

肉体ですら幻影という偽物だが、肉体こそ現実、金こそ現実、美醜こそ現実のように、その偽物たちでもって真剣に訓練を重ねないと、偽物であることを見抜きそれが偽物である世界に逆転して生きることはできない。

逆転して初めて、『見ている自分は純粋な意識』と言えるのであって、覚醒以前に『見ている自分は純粋な意識』と言うのは、空念仏である。

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