アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天王台の審神

2023-02-28 16:31:10 | 古神道の手振りneo

◎守護神も含めた全人類の審神

(2015-11-23)

 

出口王仁三郎は、第二次大本事件が天王台の審神であるとし、これにより既に善と悪は立て分けられたと述べた。天王台の審神については詳述されていない。

 

天王台の審神とは、以下の神諭を見る限り、守護神も含めて全人類が審神されるビッグ・イベント。第二次大本事件は教団にとっての天王台の審神であったが、全人類に向けての審神ではあるまい。全人類一人一人が善玉か悪玉か判定されるのである。

 

これまでは、中有で寿命の到達した順番に審神していたのだろうが、天王台の審神では、全人類一斉審神があるようなイメージである。

 

『是でも見て居ざれよ、今に善悪の身魂の審判が始まるぞよ。天王台の神庭会議が始りたら、何如な守護神でも薩張尾を出して、化けの皮を表はすやうに成るぞよ。

 

そうなりては可愛想なから、其所に成るまでに改心をさして、化けを表はさずに此儘で続いて行らしたいと思へども、余りの事で改心の為せやうが無いぞよ。

 

思ひの違ふ人民斗りが現はれて、世界は開いた口が塞がらぬ事斗り出来するぞよ、是の判りた人民今に無いぞよ。』

(雑誌神霊界77号P13の神諭から引用)

 

更に出口王仁三郎は、第二次大本事件が霊界物語第28巻に書かれてあるとする。守護神も含めた審神が行われ、世の大峠を経れば、以下の序歌のように月光いよいよ世に出でる霊的文明の始まりとなる。

 

霊界物語第28巻序歌

『序歌

 

 月光いよいよ世に出でて  精神界の王国は

 東の国に開かれぬ  真理の太陽晃々と

 輝き渡り永遠に  尽きぬ生命の真清水は

 下津岩根に溢れつつ  慈愛の雨は降りそそぐ

 荘厳無比の光明は  世人の身魂を照らすべく

 現はれ坐せり人々よ  一日も早く目を覚ませ

 四方の国より聞え来る  誠の神の声を聞け

 霊の清水に渇く人  瑞の御魂に潤へよ。』

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出口王仁三郎の鎮魂法-4

2023-02-28 05:43:04 | 浅い霊感から神人合一まで

◎帰神法と審神者、天の岩笛、シャーマン適齢期

 

出口王仁三郎は、帰神という神下ろし手法において、神霊を感じるだけなら3~5週間の修行で感じられるが、正邪両方とも憑く可能性がある、とする。

 

そこでどうすれば邪神霊が憑かないのかという対応については、幽斎を自修する要件の中に、『精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なればすなわち邪神に感合すべし。わが精神の正邪と賢愚は、直ちに幽冥に応ず。最も戒慎すべし。』と出されている。

 

そうであれば、どうすれば精神が正しくなるのかということについては、自修する要件七か条に一切の妄想を除去することなどが示され、世務を棄却して、以て大死一番の境に至って、一意専心に、わが霊魂の天御中主大神の御許に至る事を、黙念せよとある。

 

帰神の極みは、大神たる天御中主大神が降臨し我に懸かること。降臨し、懸かるというのは、それを極めても大神と自分は別であることに変わりはなく、神人合一とは別である。

 

そこで、審神者の資格が問題となるが、以下の引用文中の

第四条「神の功業を知らなければならない」

第五条「荒魂、和魂、幸魂、奇魂をしらなければならない」

が特徴的である。

神の功業を知るとは、宇宙創造の葦芽から宇宙の終末を含めすべてを見るということで、生の世界も過去現在未来もすべて見るということ。これは、少なくとも見神は経ていないとそうはならない。

また荒魂、和魂、幸魂、奇魂とは、一霊四魂のこと。四魂を仮に四チャクラに充ててみれば、四チャクラすべての機能を知るということは、メンタル体以下のチャクラの機能をすべて承知しているということ。これは理屈的にはコーザル体まで至ればわかりそうなものだが、七つの身体論で言えば、第七身体ニルヴァーナまで至って、ようやく下位六身体のあることを弁別できるということもあるので、四魂を知るということも最低でも大神(天御中主大神)を見る(見神)という体験がなければわからないということなのではないのだろうか。

 

以下出口王仁三郎の説明。

『帰神の事について古典を調べてみるに、『古事記』には「天の岩戸」の段に至って、「神懸り」また「帰神」と現わしてある。また『日本書紀』には、「帰神」とのみ現わして「神懸り」とは無いが、いずれも神人感合の事実を誌されたので、意味においては同一である。

 

この帰神に最も重要なるものは審神者の役である。その人にあらざれば、すなわち能わざるものである。

その注意周到にして、胆力あり学識ありて理非を明らかにするに速やかなるを要する術である。左の八章は審神者の覚悟すべき事であって、最も重要なるものである。

 

審神者の覚悟

一、過去、現在、未来を伺うべし。

二、実神なるや、偽神なるや、弁ぜずばあるべからず。

三、神の上、中、下の品位を知らずばあるべからず。

四、神の功業を知らずばあるべからず。

五、荒魂、和魂、幸魂、奇魂を知らずばあるべからず。

六、天神、地祇の分別なかるべからず。

七、神に三等あるを知らずばあるべからず。

八、神に公憑、私憑あるを知らずばあるべからず。

 合せて八種の覚悟。

 

審神者の事について古典を調ぶるに、『古事記』には「沙庭」と現われ、また『日本書紀』には「審神者」と現わしてあるが、要するに、審神者なる役は神感を審判するものであって、「沙庭」も「審神者」も、その意味においては同一である。

 

幽斎の修行には、少々修行場の装置を整えねばならぬ。閑静なる家や幽邃なる地を選ぶべきは前述の通りであるが、第一、「審神者台」という器具と、「帰神台」という器具が、ぜひとも必要である。またこの台は、審神者なり神主の坐して修行する所の清所であるから、最も清潔を要するのである。また両種の台とも、檜木を以て造るのである。三尺四方の台にして、高さは五寸なければならぬのである。[図 帰神台]

 

この台の上面に荒蓆を敷いて、身心を清めたる審神者なり神主が、静坐瞑目して神人の感合を祈る至清所なのである。神主というは、幽斎修行者の別称である。以下これに做う。

 

それから審神者に必携すべき神器がある。それは「鎮魂の玉」と「天の岩笛」の二品である。「鎮魂の玉」は前章に記したる通りであるから、敢えて説明の要はないから、「天の岩笛」について一言述ぶる必要がある。そもそも「天の岩笛」なるものは、一に「天然笛」と云い、また「石笛」とも称えて、神代の楽器である。天然の石に自然穴のあいたもので、これに口をあてて吹奏する時は、実に優美なる音声を発するものである。穴の全く貫通したのは最も上等であるが、半通のものでも用いられるものである。

 

また、これを吹奏するには、よほど鍛錬を要するものである。吹き様によりて千差万別の音色を出すものであるが、総じて、耳に立って喧ましい。むやみに「ピューピュー」と吹くのはよくないのである。極めて耳に穏やかにこたえて、何となく優美な音色を発せしむるのは最もよろしいのである。「ユーユー」と、長く跡の音を引いて、「幽」と云う音色を発生せしめるのが第一等である。神人感合の道は至善至重なる術であるから、審神者も神主も最も厳粛の態度を持してかからなければ、宇宙の主宰に感合し、また八百万神に親近するの道であるから、神界へ対して不敬を加える恐れがあるから、最も注意周到でなくてはならないのである。

 

この天然笛を吹奏するの術は、神主の霊魂と宇宙の正霊と互いに感合するの媒介となるべき、極めて貴重なる方法であるから、無意味に吹いたり、また狩人が鹿を呼ぶような吹き方をしては、神界の怒りに触るるのみでなく、妖魅の襲来を招くの恐れがあるのである。神主には清浄なる白衣を着せしめ、下部は赤か紫の木綿袴を穿たしめて、婦人なれば総髪にしておくが便利である。

 

幽斎修行に最も適当なる気候は春秋である。夏は蚊蝿が沢山な上に汗が流れるので、よほど修行の妨害となるなり。冬は寒気のために自由の行動が取れず、かつまた、山中なぞは積雪のためにその目的を達するにおいて万事の障害となるものである。

 

神主の適齢は、女子にて十二、三歳から十五歳位までが最も上等である。その上の年齢になると、修行の結果が面白くないものである。すべて婦人の神主は、老人ほど結果が面白くない。すべて婦人は精神狭量にして無智者が多いから、婦女なれば十二、三歳に限るというてもよい位なものである。

 

また男子の神主は十五、六歳が適当齢で、それから三十歳まで位である。男子はよほど感じ難き傾向があるから、男子の神主は、よほど審神者において苦辛するのである。第一に、男子は知識あり、学力あり、胆力あるもので、徳義心の篤き者でないと、正しき神主となる事は出来難い。またよろしき神主になる性質のものは、よほど英敏であって、どことなく凡人に勝れた所のあるものでないと、完備した神主にはなり難いものである。感合する事は、三週間か四、五週間の修業で感ずるが、すっかり、邪神界の神主になり果てるものであるから、みだりに幽斎は人に伝授すべからざるの術である。幽斎の術については大略記述したから、これから進んで、余が第一期の研究会における状況を次章において略述するの考えである。

      明治三十七年一月二十八日筆』(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間

本教創世記第九章から引用)

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まだ準備のできていない魚

2023-02-27 17:43:10 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎情報だけは提供される

(2012-02-01)

 

世界観の変貌には2段階あって、まずは肉体だけが世界ではないという変貌と、世界は自分だったという変貌である。

 

ドラッグも、統合失調症における変化した世界観も、霊能力の開顕も、お題目や念仏を死ぬほど唱え続けたマントラ・シッディも、突然肉親を奪われるというような不条理に直面するという事件も、まずは肉体だけがこの世界ではないという世界の裂け目を見せてくれる。

 

その裂け目に出会うのは、まずは一瞥は一瞥であって、自分・自我は温存されている。通例そのステップを踏まないと次のステップには進まない。

 

20世紀初頭に心霊主義の時代というのがあって、世界中でブラバツキー夫人やら、ルドルフ・シュタイナーやら、出口王仁三郎が盛んに霊だ霊界だとやった。残念ながら心霊はいまだにワイドショーネタでしかないが、その先に行くには、時代全体としては欠かせないステップなのだったろうと思う。

 

心霊ネタというのは、霊がかりではあるが、人間は死後どこへ行くか、死後どこかへ行く自分とは何なのか、この世に生まれる前の自分は何なのか、自分はこの世に何のために生まれてきたのか、という課題へのとっかかりにはなる。

 

しかし心霊主義のような第一ステップへのきっかけですらまだ準備のできていない人たちがいる。

 

『酸素をふがふが吸う魚のことは、過去に何度か冗談のネタにしたことがある。奇妙なこいつのおかげで進化が促された。だが本当のことを言うと、酸素を吸うところまで至っていない魚もたくさんいる。

 

自分のことかどうか、大半の魚は分かっている。

 

たとえばLSDを初めて摂取した者はパニックを起こしやすいという。まだ準備のできていない魚を、私が早まって岸へ誘い出してしまったとしたら、それは悪いことをしたと言わざるをえない。招待状を出す相手は、もう少し注意して選別するべきだったのだろう。

 

現状では残念ながら精神変容をもたらすすべてのドラッグの価値と危険について、正確でアップデートされた情報とアドバイスを提供することは、とても難しい。』

(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社p126から引用)

 

これからの時代は、最終的にはその両ステップの準備のできた者だけを相手にしていくことになるのだろうが、情報提供だけは万人にもれなく行われるのだろう。

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禅と大脱身

2023-02-27 17:39:46 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎乾いた道あるいは近道

(2017-10-28)

 

禅でもヨーガでいうところの大脱身は意識せられている。

 

道元の師匠たる天童如浄も道元もその体験とはいえない体験のことを身心脱落と言う。

 

そして唐代の禅僧鏡清和尚の

『出身は猶お易かるべきも、脱体に道(い)うことは還って難し(出身猶可易、脱体道還難)』。

 

これは、大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しいということ。

これは、碧巌録第四十六則に見える。

 

大脱身あるいは、中心太陽への突入がそんなに簡単なはずはないが、「猶お易い」と断言しきるのは、それを既に経た者だけに許された言い回し。

 

クンダリーニ・ヨーガにおけるニルヴァーナと禅のニルヴァーナは、ニルヴァーナそのものに違いはないが、還ってきてからが相違があり、西洋錬金術などでは、そのことを『乾いた道と湿った道』あるいは『(普通の)道と近道』と表現しているのではないかと感じられる。

 

禅のほうが『乾いた道』『近道』なのだろう。

 

『以心伝心』『不立文字』は、出身・脱体という身心脱落を経て、初めて意味が通ずる。悟っていない者が、その真髄を『以心伝心』『不立文字』と語るのは嘘だが、悟った者がそれを言うのは真実。

 

※鏡清道怤(八六八~九三七):雪峰義存の法嗣(悟った後継者)

 

 

碧巌録第四十六則:

 

鏡清が僧に問う「門外は何の音だ?」

僧「雨だれの音です。」

鏡清「人はひっくり返っている。自分を見失って物を追う。」

 

僧「和尚自身はどうなんですか。」

鏡清「かろうじて自分を見失わずに済んだわ。」

 

僧「かろうじて自分を見失わずに済んだとは、いったいどういう意味ですか」

鏡清「大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しい」

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肉体とアストラル体の分離と健康喪失

2023-02-27 17:37:17 | 究極というものの可能性neo

◎それでもオレたちは窮極へ進む

(2020-11-09)

 

OSHOバグワンの最初の肉体とアストラル体の分離は、彼にとって大悟の前奏だった。分離した時に、彼は肉体とアストラル体間に銀色のクンダリーニのエネルギーコード(霊線)がつながっていることを目撃。

 

だが、最初の分離以後の半年で、肉体とアストラル体の分離は約六回発生。その結果、彼は寿命が十年短くなったと感じ、胸毛さえも白くなったという。

 

肉体とアストラル体はもともと相互に自動的な調整、調和を行っているのだが、一度でもこの分離、アストラル・トリップが起こると、その自動制御システムは破壊される。OSHOバグワンは、この破壊によって、有名ヨーギが短命に終わる例として、シャンカラチャリヤ(ヒンドゥー教の最高指導者であるシャンカラ派の寺院の法主の尊称)が33歳で死んだことやヴィヴェーカナンダが36歳で死んだことを挙げている。

ラーマクリシュナは、50歳で喉頭ガンで逝去。ラマナ・マハルシも71歳でガンで逝去。これらもその自動制御の喪失が原因であって、肉体的な原因ではないとしている。

 

おまけに(肉体とアストラル体を分離したことのある)ヨーギは不健康だとし、一旦分離が起きたら元の自動調整が戻ることはないと断言している。自動調整の復元の必要性について、その必要も復元する目的も意味もないとする。

(参照:死ぬこと生きること/OSHOバグワン/市民出版社P30-32)

 

冥想修行には肉体の健康が必要であるという大前提は百も承知の上で、ダンテス・ダイジが、『健康が人間にとって何を意味するのか?』と思わせぶりに発言していたのは、この辺のことを言っていたのだろうと思う。

 

究極に至る冥想修行では、アストラル・トリップでなく、メンタル体での離脱が問題になるが、一度肉体を離脱したら、健康がのっぴきならない問題として意識されることはないと言っているのだろう。

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人はどうやって超人になるか

2023-02-27 17:34:40 | 究極というものの可能性neo

◎四つの身体の純化と正師の助け

(2022-02-09)

 

『聖なる科学/ユクテスワ/森北出版』の最後の方に、人はどうやって超人になるかについての説明がある。

 

その方法は大別して二つであり、一つは四つの身体の純化、もう一つは正師の助けを得ること。

 

四つの身体の純化とは、

1.肉体の純化は、正しい食物や環境によってなる。

2.エーテル体の純化は、感覚と利己心の制御によって、いかなる環境にも心の平静を妨げられないことによってなる。

3.アストラル体あるいはメンタル体(これらが磁気的身体と思われる)の純化はマントラと呼ばれる呼吸の制御によってなる。

 

正師の助けを得ることについては、シャンカラチャリヤの言葉を引いて、『人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。

しかしたとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる』(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P91から引用)

とする。

 

聖者の助けは万能だが、わたしは準備のできた者、資格のある者(公的資格なんぞではない)だけがそれを得られると思う。だが、聖者に出会うこと自体奇跡のようなものではあると思う。

 

これも『乾いた道』なのだろうか。

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魂はこの世に生まれて男や女に扮するが

2023-02-27 17:11:23 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎男でもなければ女でもなく神である

(2022-02-20)

 

男と女を比べれば、女の方が生きやすいとダンテス・ダイジは言っていた。それが証拠に平均寿命は一貫して女性の方が長い。

 

日本では、武家社会、近代国家と進んでも男性優位社会が維持されている。1970年以降ウーマン・リブ運動があって日本でも男女同権が叫ばれ、男女雇用機会均等法もでき、福祉面では男女ほぼ同等になっている。

 

出口王仁三郎は、大正期にあって男女同権を唱え、女が先に湯に入ってはいけないという法はないと説く。天照大神と素戔嗚尊は姉弟だが、天の安の河原での誓いという陰陽合体、すなわち厳の霊(男性)天照大神と、瑞の霊(女性)素盞嗚尊の合体の秘儀により男女同権を示す。

 

キリスト教の聖書では、アダムの肋骨から女性を作ったなどと書くから、西洋では、女性の側からの揺り戻しが、東洋に比し激しいのではないか。

 

ユクテスワは、『「睡眠中は、だれも自分が男であるか女であるかを知らない」先生は言われた「ちょうど男が女に扮しても本身はあくまで男であるように、魂はこの世に生まれて男や女に扮するが、魂は依然として魂であって、男でもなければ女でもない。

魂は不変にして変幻自在な神の似すがたなのだ」』

(あるヨギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP132から引用)

 

このような認識を前提にダンテス・ダイジが前世の一つで娼婦だった時に、女としてセックスした時の「感じ」を語るシーンは、若い時分にはぞっとするものがあった。

 

だが冥想では、男性の側の冥想が多いのも事実である。

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出口王仁三郎の鎮魂法-3

2023-02-27 06:13:19 | 浅い霊感から神人合一まで

◎幽斎を自修する要件

 

出口王仁三郎は、次の文で鎮魂法の準備段階を示し、天御中主大神の御許(もと)に至ることを目的とし、世務を棄却して、そこで大死一番の境涯に至らねばならないとする。

ただし、天御中主大神の御許(もと)に至るとは、神と自分は別のままではある。見ている自分を残しているのである。

 

『神界に感合するの道は、至尊至貴にして、神秘に属し、みだりに語るべきものではないのである。わが朝廷の古典、就中『古事記』『日本書紀』等に、往々その実蹟を載せあるといえども、中つ御代に仏教が到来してから、わが国粋たる祭祀の大道なるものが追々に衰えて来て、その実を失える事、既に久しき事があったが、天運循環して、神伝により、その古代の法術に復帰するの機運が出て来たのである。これすなわち玄理の窮極であって、皇祖の以て皇孫に伝え給える治国の大本であって、祭祀の蘊奥である。

 

けだし幽斎の法なるものは、至厳至重なる術であるから、深く戒慎し、その人に非ざれば行うべからざるものがある。みだりに伝授すべからざるの意は、ここに存する次第である。

 

しかりといえども、その精神にして、千艱万難に撓む事なくして、自ら彊めて止まざるにおいては、ついに能く神人感合の妙境に達する事を得らるるに到る者もある。後のこの伝を受けんとする行者は、右の理由をよく諒察せねばならぬのである。

 

幽冥に通ずるの道は、ただその専修するにあるのであるが、ここにその法を示さんと思う。

 

一、身体衣服を清潔にする事。

二、幽邃の地、閑静の家を選ぶ事。

三、身体を整え、瞑目静座する事。

四、一切の妄想を除去する事。

五、感覚を蕩尽して、意念を断滅する事。

六、心神を澄清にして、感触のために擾れざるを務むべき事。

七、一意専心に、わが霊魂の天御中主大神の御許に至る事を、黙念すべき事。

 

右の七章は、自修の要件を明示せしものであるが、すべて幽斎の研究なるものは、世務を棄却して、以て大死一番の境に至らねば、妙域に到達する事は出来ないのである。

 

幽斎の法は、至貴至厳なる神術であって、宇宙の主宰に感合し、親しく八百万の神に接するの道である。ゆえに幽斎を修し得らるるに至っては、至大無外、至小無内、無遠近、無大小、無広狭、無明暗、過去と現在と未来とを問わず、一つも通ぜざるはないのである。これすなわち惟神の妙法である。修行者たるものは、常に服膺しおくべきものがあるから、ここにその概略を挙げておく次第である。

 

一、霊魂は神界の賦与にして、即ち分霊なれば、自らこれを尊重し、妖魅なぞのために誑らかさるる事なかれ。

 

二、正邪理非の分別を明らかにすべし。

 

三、常に神典を誦読し、神徳を記憶すべし。

 

四、幽冥に正神界と邪神界とある事を了得すべし。

 

五、正神に百八十一の階級あり。妖魅またこれに同じ。

 

六、精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なればすなわち邪神に感合すべし。わが精神の正邪と賢愚は、直ちに幽冥に応ず。最も戒慎すべし。

 

七、正神界と邪神界とは、正邪の別、尊卑の差あり。その異なる、また天淵の違いあるを知るべし。

 

以上は、ただその概を掲ぐるといえども、幽冥の事たるや深遠霊妙にして、その至る所は、これを言詞の尽くす能わざるものがある。ただ、その人の修行の上に存するものである。』

(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間

本教創世記第九章から引用)

 

ここでは、霊界に正神界と邪神界があって、それぞれ181階がある。また『精神正しければ、即ち正神に感合し』云々などと、これはあきらかに憑依系のシャーマニズムのことについて述べている。

 

古神道というクンダリーニ・ヨーガ系の道は、善も悪もあるという中間段階を相手にしつつ、大神に徐々にアプローチする。そして人間には、神とコンタクトする方法は、神に憑依していただく(神下ろし)、神を見る、神と合一するの三通りあるが、ここは神に憑依していただく道を説く。

 

その道では、憑依される本人(よりまし、medium、媒体)以外に、審神者が必ず必要なのだが、その理由は、憑依されている本人には、何が起こっているのか、何が起こったかはわからないからである。

 

飛び切り優秀な依り代だった出口ナオも自らが神を悟ったのは晩年だったと、出口王仁三郎は殊更に言及している。こうして大衆宗教での修行法としての神下ろしは、やがて大正年代に放棄されるようになっていく。

 

ところが21世紀の今でも、神を降ろして神の言葉を聞くようなパフォーマンスを重視している人々もあるが、大正年代には行法としての結論は出ていたのだと思う。

どんなに優秀なシャーマンであっても最後は見ている自分を棄てねばならない。神下ろしは、大衆に自我が未発達な時代ならばいざ知らず、価値観の多様化、欲望の極大化した21世紀の今では、古色蒼然たるものなのではないか。

 

だが、出口王仁三郎のその試行錯誤の経緯は承知しておいて悪いことはないと思う。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-10

2023-02-26 07:00:25 | ダンテス・ダイジの風光

◎安楽な心得

 

冥想道手帳の続き

『【安楽な心得】

 

冥想の具体的技法は、単純なものであってもかまわない。君にどうしょうもないほどの情熱と素直さとがあれば、ナムアミダブツと唱え続けるだけでも、君は神界の住人になる。

 

冥想を続けているうちに、どんな素晴しい経験をしたとしても、君の中に、自分は特別だという気持ちがあったら、素晴しい冥想経験なぞクソくらえ。

 

君は間違いなく死ぬ。この世のあらゆるものと同じように。

 

君は、今まったく新しい旅へ出発する。それは人間自我のみを人間と妄信している人間性にとって夢にも知らぬ新しい旅である。

 

君の自我にとって冥想の旅は、幾多の脅威やショックや孤独感や異次元の風光に満ちたものとなろう。

 

時には、冥想へと出発する前よりも一層、倦怠や不安や不満や動ようを経験するかもしれない。それは、君のこりかたまった自我にとって決して気持ちのいいものではない。

 

しかし、君は束縛に満ちたこりかたまりの自我世界にキッパリと別れを告げねばならない。

 

古い自我が崩れるショックを恐れる必要はない。冥想は、君の自我防衛を強化するためにあるのではなく、自我そのものがない、本来の愛の広がりを楽しませようとしてあるからだ。

 

冥想に方法はない。

金を手に入れたり、地位や名声を得たり、

体力を強化したり、健康を維持したり、

素適な異性をものにしたり、

セックスの悦びを増大したりする

技術方法はある。

だが、冥想に方法はない。

君自身が君自身になる方法など

どうしてあり得よう

 

君が熱心に医学を勉強すれば

きっと一人前の医者になれるだろう

しかし、一流の医者になれる保証はない

この世の事柄は

運命とやらや才能とやらによるらしい。

 

冥想には、

医術や剣道や料理を修得する場合と同様

技術があり方法がある。

ただ外的な何かの修得と

内的な冥想の修得には

決定的な違いがある。

外的な事柄の成就には

優劣があり、じょうづへたがある。

冥想には一流も二流も三流もありはしない。

 

どんな人でも努力すれば

ハイジャンプのオリンピック選手に

なれるとは言えはしない。

けれども、どんな人でも

その人々の本性に応じて

完全な幸福を

実現できることだけは言える。

冥想とは

君がもともと完全に幸福だということだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

このパートは、誰もが自分なりにわかる部分だけを解釈することができるので、かえって読みやすいという怪しい部分ではある。

 

その中で、感じた部分は、次のとおり。

1.『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』

坐法、ポスチャーは絶対的であると言いながら、その坐法、ポスチャーは気にしなくても『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』が自分を神・仏に連れていくことがある。

 

2.『冥想は、君の自我防衛を強化するためにあるのではなく、自我そのものがない、本来の愛の広がりを楽しませようとしてある』

この自分のことを優先に考える人ばかり多い地獄的時代に、自分のことをさておいて他人のことを優先する人物は尊い。そんな時代に自我をなくそうとして努力する生き方は厳しい。

自我がないのは、本来の愛の広がりだが、自我をなくしたバーナデット・ロバ-ツは、苦闘した。厳密に言えば、ノンデュアリティ、自我がないことそれ自体が解とは言えないところがある。それでもselfish、エゴイズム全盛の時代に、自我がないこと志向して生きるのは厳しいが、それでもそこを目指すのが冥想修行者の王道。

 

3.『冥想に方法はない。

君自身が君自身になる方法など

どうしてあり得よう』

冥想初心者のうちは、まま『君自身が君自身になる』ことの重要性など理解しないものだ。

君自身が、世界全体にして宇宙全体であって、なにもかもないなどということを、論理的に考えたり、そのまま感じ取ってみようとするトライアルを繰り返すうちに見えることもある。

 

4.『どんな人でも

その人々の本性に応じて

完全な幸福を

実現できる』

『冥想とは

君がもともと完全に幸福だということ』

この一節では、完全な幸福が問題となる。健康、金、セックス、しなやかな肉体、名誉、権力、パートナー、家族、ブランド品、ゲーム・クリアなど外的に幸福になる品ぞろえは無限にある。そしてそれを手に入れてもいつまでも保持できはない。それらは、完全な幸福ではないからだ。

そこで今はまったく信じられないかもしれないが、『君がもともと完全に幸福だ』ということをどこからか聞いて冥想修行に乗り出す。

あきらめなければ、『君がもともと完全に幸福だ』ということを体現している人物に出会えるかもしれない。それは縁によって起こる。そして、いつか必ずや『君がもともと完全に幸福だ』ということを知る。

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出口王仁三郎の鎮魂法-2

2023-02-25 06:23:42 | 浅い霊感から神人合一まで

◎鎮魂の玉

 

鎮魂石を鎮魂の玉と称し、純黒にして正円なるをよしとして、重量も26から37グラム程度としている。これを三方に置き、集中するのである。

 

また明治37年の以下の本教創世記を読む限り、

  1. 鎮魂法の詳細についての記述が令義解の短文を除き、日本には過去なかったこと。
  2. 鎮魂法とは、顕斎の一種で、別途幽斎もあると唱えるが、その違いについての記述はない。
  3. また帰神の一部が鎮魂法とも思われる書きぶりでもある。
  4. 大正年代の出口王仁三郎の鎮魂御伝でも以上三種の区分については、あまり気にしていない様子で、よくわからない。

 

『しかして今や一章の引証すべきものが無いから、ただその『令義解』たる古典に記載しある全文をこれに出して、ただその招魂の作法を伝授せんと思いて、記載しおく次第である。この鎮魂法は天授の神法であるから、上は天皇の治国平天下の御事よりして、下は人民修身斉家の基本、つづいて無形の神界を探知するの基礎であるから、よろしくこれを懐中に秘して、事業の閑暇には謹んでこれを省み、これを行い、霊魂の運転活動を学習するにおいては、遂に熟達し得らるる事を得るに至るのであるが、十分清浄なる精神で以て修業した所で、相当の教育のある者で五年、あるいは十年は、日子を費さねばならぬのである。

 

なお詳細なる事は後に講明し、引証を以てその基づく所を現わし、その霊妙なる所を感示、あるいは示して、ますます天に代わるの大功を千万世に建てんとするの目的であるが、これ万物の霊長たる所の人類の義務であって、余が天より命ぜられたる使命の大主眼たるものである。『令義解』にも、鎮魂の事がその如くに云うてある。「鎮は安なり。人の陽気を魂という。離遊の運魂を招き、身体の中府に止む。故にこれを鎮魂と云う」と記載しあるを見ても、心を一にするという事がわかるのである。

 

鎮魂に要する玉は、純黒にして正円なるを最もよしとするのである。重量は、七匁位から十匁位の間のものが一等である。三宝の上にその玉を安置して、修行者は、瞑目静座、一心不乱にその玉に向かってわが霊魂を集中するのである。あたかも蛇が蛙に魅入れるが如く、猫が鼠をねろう如くに、一切の妄想なり感覚を蕩尽して修するのである。

 

わが国には、かかる貴重なる経典と法術とがあるにもかかわらず、物質的文明に心酔せるわが邦人は、実に蒙昧頑固であるから、国家の重典や神法を顧みる者がなくて、法を外国の教えに求め、実を異邦の道に尋ねて、釈迦や孔子や基督やその他聖賢と唱えらるる人物を崇拝して、天授の神法を度外視するの習慣が常となり、汚穢日に加わり、国家のために実に悲しむべき事である。』(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間 本教創世記第五章から引用)

 

鎮魂の玉のような身体外のポイントを集中の中心にする技法は、武道にはあるものだと聞く。またキリスト者の十字架もそのような意味もあるかもしれない。

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出口王仁三郎の鎮魂法-1

2023-02-24 07:30:06 | 浅い霊感から神人合一まで

◎幽斎、顕斎、鎮魂

 

出口王仁三郎の鎮魂法は実際どうだったのかという点については、彼の著述では、はっきり書かれていない。

 

鎮魂と帰神というが、帰神法は神下ろしの方である。

 

鎮魂御伝によれば、幽斎と顕斎あるが、鎮魂とは顕斎の一種。

鎮魂に関して令義解によれば、鎮は安であって、人の陽気を魂といい、魂は運であるという意味は、離遊の運魂を招いて身体の中府に鎮めること。

 

そこで、諸神霊の登場する全部読めば20分、30分はかかる神文を正座にて拝聴することで、

各人の神霊に読み聞かせつつ、霊の動静を調べるとある。

 

中府とは、一般に丹田と呼ばれているが、三丹田とは、アジナー、アナハタ、スワジスターナだが、ここはスワジスターナのことなのだろう。

丹田は定力センターにしてアストラル体の霊線のつながっているところ。そこを鎮めるのだから、鎮魂法は、自分の守護神を奉斎する幽斎を行うためのウォーミングアップみたいな位置づけなのだろうかとも思われる。

 

ところが、鎮魂法は、小は身体の病を癒し御魂の汚れを清める方法にして、大は病み臥した地球を救う神法だから軽々しく行うものではないとしている(鎮魂御伝)。その意味は、神知らぬ者がみだりに現実(病気、寿命、政治、経済、社会など)を操作し得る行法を行うのは、混乱に混乱の上塗りをするようなものだということではあるまいか。

 

つまり神を知った者、つまり大神の内流を受けたものだけが為しうるのが鎮魂法であるということのように思われる。それで、幽斎はドンドンやりなさい、鎮魂はみだりにやってはいけないということではないのだろうか。

 

なお大本教では、鎮魂法を公開している。

https://oomoto.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/01/iroha035.pdf

 

https://www.omt.gr.jp/o46

 

また鎮魂石という石を我が前方の三方という台に置いて、そこに集中する技法もある。これは、丹田集中とは明らかに別技法である。

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バーナデット・ロバーツの窮極への通路

2023-02-23 06:16:03 | 人と神の「実際のところ」

◎それは見たにとどまった

 

自己喪失のプロセスを徐々に進んだバーナデット・ロバーツは、「一なること」をただ見ることしかできない状況に4か月間陥った。

 

それに至るまでの経緯は以下。

1.万物の個別性の消失と「一なること」を見た。見ることが、立体鏡をのぞいたように頭の少し前の方にあるように感じた。(最初の一年間)

2.外にあるすべてのものの脱落。これにより、「一なること」も個々のものを見る立体鏡もなくなった。「見ること」は盲目になり、内にも外にも何もない虚無という状況で生きることになった。

これは、心を何かに向けることができず何もわからない状況となったが、ここに容赦のない「見なければならない」という圧力があった。が、見れるのは虚無だけ。

この状況を彼女は「窮極への通路」と呼んだ。

3.「窮極への通路」は、本能的な危険を感じつつ、生と死と、あるいは正気と狂気とを分かつ狭い断崖をたどっていて、無自己の確固不動の静寂だけが頼りだった由。なお彼女は、その静寂は神ではないとしている。

 

「窮極への通路」は4か月間続き、彼女はその間虚無を「見ること」しかできなかったが、正常に戻ることで、元に戻った。

 

彼女は、当たり前の状態に戻ったが、禅の十牛図でいえば、見る自分を持ったままならば、それは、一円相の第八図には届いていない。虚無だけになったと言う状態は、第七図忘牛存人か。

 

原始仏教では、冥想段階を10段階でとらえるが、なにもかもなしは、7番目の不用定(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に当たるか。

 

何より「見る自分」「見ている自分」を放棄して飛び込めなかったのではないかという疑いが残る。

 

「見なければならない」という圧力は、自分に直面せよということだろうが、彼女にとってすでに自分(自己)はないという認識だったから、ここは見るべきものはなにもなかったという隘路にはまったのだろうか。

 

しかしながら、全体としてみれば、少々しみじみとしてはいるが、ぶち抜けた感動と感謝が薄いような印象を受けるのだ。

 

最終的に微笑の三態、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったものを見たが、それは見たにとどまったのではないか。

つまり見神にとどまって、神人合一に至る準備は彼女にはまだなかったのではないかと思う。

 

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暗夜から光へ-11

2023-02-22 18:16:06 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-8

(2006-09-09)

 

バーナデット・ロバーツは、ついに見た。

 

『それは冬の末のことでした。

川には2年前の山火事の焼け屑で一杯の泥水が流れていました。毎日私と息子は川岸で増大する流れを測り、息子は素早く流れ過ぎる木材を的にして、石を投げたりしました。

 

ある日、息子の来るのが遅れ、私は一人で川岸に降りて、木々が海に流れ下るのを見守っていました。

 

その時何のわけもなく、私の顔に微笑が浮かび、その瞬間に私は「見た」のです。ついに私は見ました。そこで見たのは、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったものです。それもどのように一つになっているかをごく自然に見ただけで、それ以上の洞察や幻視などはないのです。

 

私は、自分の見たものを心に止めておくことができませんから、そのまま川の流れを見つづけ、その後少し歩きました。「通路」がもう終わっていることがわかりましたが、何もかも前のとおりで、何も変わっていなくてほっとしました。「見た」ということに何か特に素晴らしいことがあるとすれば、すべてがいつものとおりで、何も変わっていないことでしょう。(中略)

 

私に分かったことは、微笑が向けられた未知の対象が、その主体と同一であり、それがまた微笑自体であるということです。これは一体何でしょうか。これこそ自己がなくなった後に残っているものなのです。微笑という姿で「不可知のもの」が示現されたと言っても良いでしょう。ここで見たものは極めて重大ですが、心で把握することはできないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P60-61から引用)

※通路:狂気と絶望を超えた窮極への通路

 

キリスト教風に言えば、微笑そのものは、父なる神、微笑するものは、聖霊、微笑が向けられたものは、人であり、ここでは三位一体を微笑という形で見たことが分かる。彼女は神を微笑として見たのだ。

 

神を最初に見た体験と、三位一体の構造で世界を把握した体験は、別であり、他の見者、たとえばイグナティウス・ロヨラの述懐においても、三位一体を見る体験は格別のものであり、大きな驚きと感動をもって受け入れられている。従って三位一体というのは、求道の頂点のシンボルとして、世界の秘密の開示として登場してくるのだろうと思う。

 

前回記事では、バーナデット・ロバーツが完全に見る準備がまだできていなかったせいか、肉体クンダリーニが上がる症状もみられていたが、ここではその症状も消えたようだ。

 

彼女の体験の記述は、十牛図でいえば、自己喪失とは、牛がいなくなったということなので、牛がなくなった第七忘牛存人のことが中心で、ここで第八人牛倶忘に到達したのだと考えられる。

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暗夜から光へ-10

2023-02-22 17:02:11 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-7

(2006-09-08)

 

その後彼女は、氷の指と呼ばれる虚無と、一瞬の油断もなく向き合うはめになった。

神に対して自分を捨てたつもりだったが、捨てた相手は実は無だった。自己を捨てた向こうには神はいなかった。

 

氷の指は、彼女にとって、ある時は発作的な狂気の恐怖、ある時は更年期障害かと思われたが、それが何であるとしてもその時は打つ手がなかった。

 

『この指は長く見つめるほど接近して、時にはほとんど触れそうになり、それから急に退きます。それは絶えず動いているように思われました。初めのうちの私の反応は、鳥肌がたったりぞっとしたりする位でしたが、そのうちに頭に火がついたように熱くなり、目の中に星が一杯見えるのです。その時私の足が冷え始め、その冷えが次第にのぼって、頭を除いた全身に及んできました。とうとう私は痙攣を起こして激しく動悸したまま背後に倒れてしまいました。

 

私は今にも真二つに割れてしまうと思いました。「氷の指」が私の身体を裂く間、いつ割れるかと待ったのですが、無限の時間のように思われました。内には何の動きもなく、恐怖もどんな感情もありません。(中略)

 

次に気がついた時、恐ろしい相手はいつのまにか立ち去っていて、私は身体の感覚を全く失って、深い静寂の中にいました。すこしたってふと振り向くと、一尺ばかり離れたところに立つ野草の小さな黄色い花が目に入りました。

 

その時見たことはとても言い表せませんが強いて言えば、その花が微笑んだのです。全宇宙からの歓迎の微笑というように、私はそのまま目もそらせず身動きもできずに、その微笑の強烈さに耐えていました。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P46~47から引用)

 

それ以後、彼女は虚無の氷の指に出会うことはなくなったが、自分の存在の感覚もなくなった。彼女は、目に見えている時だけは自分があると思っても、祈っている時や何もしていない時は身体が溶けてなくなっているようだと感じていた。

 

彼女は、しばしば頭が燃えるように熱くなったといい、この場面でも、明らかに肉体レベルでクンダリーニが上がって頭が熱くなっている。残念なことに途中で気絶してしまい、そこで起きたことを知ることはできなかった。そこで起きたことを直視できるほどの情熱が足りなかったか、魂の成熟度が不足していたかという説明になるのだろう。醒めたままでいられなかったのだ。

 

ここまでの経過を見ると、自己を失うということは、既成の世界認識を失うということでもあるが、彼女の場合はそれが徐々に起きていった。この虚無との溶解の段階まで来ると、自己喪失という狂気と絶望を超えたトンネルの出口は近くなっている。

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暗夜から光へ-9

2023-02-22 16:54:08 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-6

(2006-09-05)

 

山から降りて、海に臨むキャンプ場に向かったバーナデット・ロバーツは、虚無と直面することになった。それまでの彼女には、「一なること」に達せられたという大きな解放感があった。

 

そして、それまでは常に「大いなる流れ」「一なるもの」と他のものの区別がない立体鏡で見えていたのが、この海岸にきた途端に、すべての差別が溶解していく先が得体の知れない虚無になってしまった。

 

『しかし絶えず虚無をみていることが、耐えがたく恐ろしいとしても、私がある朝海岸を歩いていて出会ったことに比べれば何でもありません。

 

私は突然周りのすべての生命が完全に停止してしまったのに気がつきました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに進入して生命を奪ってゆくのです。皆忍び寄る虚無に息をつまらせ、断末魔のうめき声を発する他ないのです。生命が急に抜け落ち、その後には死と崩壊しかありません。

 

これは奇怪な恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。わたしの身体はその場に凍りついてしまったのです。

 

一瞬思ったのは、この光景から目をそらせ、何らかの説明を与えて片づけること、合理化してしまうことでした。しかしその途端に、私にはその手だてが何もないことに気がついてはっとしました。

 

そしてその時はじめて、自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることがわかりました。自己がなければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きられないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P39~40から引用)

 

彼女は、この「恐怖も起こらず、逃げもできず、虚無を見守り続けるという生きた心地もない状態」から、海岸から2キロも駆け降りることで、逃げおおせることができた。

この虚無の恐怖を、彼女は氷の指と呼んでいる。これはあらゆる様相の恐怖と狂気が寄せ集まったもので心理的な殺し屋だとしている。

 

そしてまた、自己を脱ぎ捨てることは、どんな敵がいるかわからないところで武器を手放すようなもので、全く狂気の沙汰であると評価している。

 

まことにもって自我をなくす、自己を捨てるということは、神に対してオープンになっていくのと同時に、悪魔に対してもオープンになるということという危険性をはらむものであることがよく分かる。彼女は、虚無が悪魔だとは言っていないが、ここは自己を捨てることは捨てたが、捨てきれていない揺り戻しと見たい。捨てきるというのは、とても難しいものなのだと思う。

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