アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

プラーナ・ヤーマ

2024-04-09 05:52:35 | 冥想の準備neo

◎血行改善と肚を作る

(2018-09-26)

 

スワミ・ラーマは、アメリカに行く直前の11か月間、山の洞窟それも一本の光しか差し込まない洞窟で、食事は支援者が差し入れてくれ、排せつ物を流す溝がついているタイプの洞窟で冥想を繰り返した。

その洞窟には、出入り口はなく、封鎖されているので、冥想をしない限りは、精神に異常を来すとは、スワミ・ラーマ自身が述べていること。

実験心理学なら長期の感覚遮断実験であり、こういう環境で、冥想しないとどうなるかは、20世紀から知られている。

チベット密教行者は入り口を塞いだタイプ山の洞窟で何か月も冥想するのだが、どのような洞窟かあまり詳述していないので、関心を持っていたのだが、スワミ・ラーマのこの記述で大体わかった。

ヒマラヤの斜面にある岩に座って冥想しているわけではない。

このスワミ・ラーマの冥想三昧の日々で関心を惹いたことがある。毎日プラーナ・ヤーマをやっていたことである。

肚を作るというのは、丹田=スワジスターナ・チャクラの強化だが、社会で活躍するには必須のことである。頭ではわかっていたが、こういうシーンで日々プラーナ・ヤーマをやるというのは、渡米の準備でもあったかと思いあたる。単に血行を良くする健康法をやっていたわけではないのだろう。

またこれは想像だが、このような出口のない洞窟や独房では抜けやすいということがあるのかもしれぬ。その意味でもプラーナ・ヤーマをやっているのかもしれない、と。

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メディテーション・コンプレックス

2023-04-09 20:39:07 | 冥想の準備neo

◎単一ではないメソッド

(2013-05-18)

 

只管打坐、クンダリーニ・ヨーガと言っても、それだけ坐っているわけではない。このブログの「冥想の準備」カテゴリーにあるように、禁酒、禁煙、禁肉などして肉体の調子を整えて、柔軟体操(ハタ・ヨーガ、太極拳・八段錦など)をやって身体をほぐして、呼吸法を何セットかやって、読経や祝詞などで発声・祈願などして、おもむろに坐る(只管打坐・クンダリーニ・ヨーガ)、そしてだんだんと呼吸を落としていく。

 

こういう一連の冥想技法の組み合わせをメディテーション・コンプレックスと呼ぶ。呼び名はともかく、宗派に限らず冥想の専門道場・修道院では、似たようなことはやっているものではないか。一日に何時間も坐るためには、メインの冥想のための助走の冥想や体操、運動、呼吸法、作務などが必要なものである。

 

環境の問題ということで言えば、一日に何時間も坐れるというのは、衣食住がなんとかなっていること、時間が捻出できること、坐ろうというモチベーションがあることがその前提条件となる。

 

住所が一定で、その日の食事に事欠かなければ現代人の大方は、日に一時間程度の冥想は可能なものではないか。むしろ現代人の大方は、長時間?の余暇をネットやスマホやテレビで、こまぎれに自分の慰め・気分転換のために浪費し続けているのではないか。

 

そうした時間の浪費の仕方こそ、現代人のカルマを日々の小悪の積み重ねに仕立てる典型なのではなだろうか。こういうのが小人閑居して不善を為すの謂いだろう。

 

そしてモチベーションの問題。これは、冥想しても金がもうからないということと、自分勝手な願望が実現するとは限らないということ、とりわけ世の大峠、世の終わりで生き残るかどうかわからないということが、モチベーションがわかない理由の最たるものである。

 

これでは、千年たっても人は冥想に取り組もうする日はやってこない。既に人間のあらゆる生業の行く末を見切って、万事休した気分がまずないと、人の関心は冥想には向かないのではないか。

 

メディテーション・コンプレックスはメソッドのこと。しかし冥想があるには、その上に本人のモチベーション、そして師匠(グル、マスター)・指導者が必要である。その師匠は最低でも見性・見神していることが条件となる。

 

このようにクリヤすべき条件は厳しいがそれを乗り越えないと千年王国はない。

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坐と西洋人

2023-04-09 20:33:41 | 冥想の準備neo

◎体格の大型化と冥想姿勢

(2015-07-06)

 

禅と神秘思想/エノミヤ・ラサール/春秋社には、西洋人は背骨を支えられないので坐が苦手であることが書いてある。

 

結跏趺坐か、半跏かということになるのであるが、結跏は日本人でもある程度の修錬(柔軟体操など)が必要であり、かつまた背骨を立て続けるには結構な筋力が要る。半跏であれば、大体の日本人であれば問題あるまい。

 

西洋人は半跏であってさえも苦痛があるのが一般的で、痛みなく半跏できる西洋人は稀だと言う。

 

かつての曹洞宗の長老宮崎奕保禅師も晩年は趺坐するのが大変だったようだ。

 

老齢になると日本人でも筋力が落ち、柔軟性も落ちるので、若い時には考えもしなかった筋力アップや柔軟体操が必要になるとは思わなかった。

 

結跏趺坐だけが、冥想姿勢ではないが、西洋人のボディが冥想向きではないという一つの傾向だろう。

 

さてここのところ日本人の体格が向上してきて、陸上短距離や、水泳、野球など世界的に通用する人間が徐々に出てきている。要するに日本人の体格が大型の西洋人に近づいているということで、そのことが却って脊柱を立てるという冥想姿勢の基本の一つができにくくなっているのではないかと懸念されることである。

特に女子の体格大型化は目立つ。

 

冥想に適する肉体という議論は間違った方向を向きがちなのだが、これも一つ注目すべきポイントではないかと思う。

 

冥想姿勢の基本は、結跏趺坐は身体固定だが、クンダリーニ・ヨーガの姿勢はゆるいということ。

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きくち体操考-3

2023-02-17 21:57:39 | 冥想の準備neo

◎きくち体操はすごい

(2022-09-27)

 

きくち体操を始めて1か月経過。諸事情であまりあからさまに書けない効果もあるが、中野ジェームズ修一氏流ストレッチや古神道の振魂、鳥船では伸び悩んでいたのが、めきめきと効果が出てきている。

 

1.頭がはっきりしてきた。

2.普通股で歩けるようになった。歩行スピードも速くなった。

3.腰をかがめる等の何気ない姿勢がより自然にできるようになった。

等々。

※きくち体操本を見ると無数の治癒例が載っています。

 

菊池和子先生曰く、老いるとは筋肉や血管が縮んで痩せていくこと。痩せ始めるとすごい勢いで筋肉が落ちていく。そうなると、歩けなくなったり、紙おむつになったりする。

 

菊池和子先生(87歳)は老人ホームにお住まいで、そうした人を多数見ており、同年配の人に「どうすれば治るでしょうね」と問われて、「どうですかね」などとはぐらかす由。言外に、きくち体操で治せるとしても相当に時間がかかったり、どうしようもないことを知っている雰囲気を感じさせられる。

 

だからレッスン中に「身体の動くうちに一生懸命やるのよ」という言葉になるのだろう。

 

だが、実際に彼女の「らくスクワット」の本を見ると、それこそ寝たきりになった人がどのようにきくち体操をやるかまで、身体が不自由になった人にまで、レベルを落としに落として、文字どおり老婆親切な方向性で教えてくれている。

 

それときくち体操の要諦は、ポーズと回数、ポーズの継続時間ではないということ。実際は、明らかにあるポーズを何秒以上やろうという意図は感じられるものの、根本思想は、手指、手首、足指、足首を意図的随意的に動かさないと筋肉ができてこないから、それを「脳を使いなさい、頭を使いなさい」としている部分。だから他人とおしゃべりしながらやったり音楽を聴きながらやったりしてはいけない。身体各部がちゃんと動けるようになるように、祈り、さわって、本気で慈しむことを求めている。

 

つまりポーズと回数は半分で、そうした気持ちの持ち方が半分なのだ。だからご本人がきくち体操50年やったわりにあまり広まらなかったのは、それが原因などとおっしゃっている。

 

だが、素直にそれをやれば、まだある程度身体が動くうちであれば、めざましく効果が出る場合があるのではないだろうか。

 

全体として、レッスンの中で動かなくなった身体の部分を自分で発見させ、自分で治させるというのがよい。

 

ただ、老化で一旦痩せて縮んだ筋肉を戻していくというのは、大変なこと。そのためには、それなりに本気で取り組むことは勿論のこと、当該の筋肉を日常生活の中で使って維持していくことで、はじめて戻った筋肉を使えるようになることをご自分の体験から説明している。(片足が動かなくなり感覚がなくなった時期に必死に足首回しをやったが、足を動かす感覚が戻らず筋肉も痩せていく一方だったが、実際に歩き出してから感覚も筋肉も戻った由)

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きくち体操考-2

2023-02-17 21:54:10 | 冥想の準備neo

◎老化と癒し、パーツと身体全体の調整

(2022-08-31)

 

きくち体操を始めてから1週間程度だが、明らかに何十年鍛えていなかった、ふくらはぎ裏、もも裏、足首回りの筋肉が痛いのと、手指の一部の血行がよくなっている感触がある。

 

菊池和子氏は、ひざ裏などを延ばすことに熱心であり、中野ジェームズ修一氏が筋肉は15秒過ぎてから自分で延びて来るとするのだが、きくち体操では、平気で1分くらい延ばさせたりもしている。

 

きくち体操は、時により足の指広げと握り・放しとマッサージと足首回しだけで15分以上かけたりするのだが、これが必ず毎回メニューの最初に入って来る。

 

椅子生活中心に変化した現代人が最も触らない部位は足裏であり、足裏・足指から鍛え始めるというのは、きくち体操の発見であり、オリジナルであるというのは、もっともなことであると思う。

 

冥想に関心を持ち始めるのは、大体が10代、20代の頃。一般に20代前半では老化ということは念頭にはないが、20代後半には、老化が始まる。

 

実際に老化が問題になってくるのは40代後半であって、それまで激重のカバンを持ち歩いていたのを、軽量なのに変えていくことは、自分でもそうだったし、他人でもよく見かけたシーンである。

 

駅前ヨーガ教室の中心メンバーは、せいぜい50代以前であり、きくち体操の主要対象は60代以上などと言われるのだが、60代以上は、整形外科や街の整体が中心なのだろう。整形外科や街の整体をおおまかに「他力」と呼び、きくち体操は、自ら「自力」と呼ぶ。冥想の準備として、20代の健常者向けの柔軟中心の片手間メニューと、老化が相当に進んだ60代以降向けでは自ずと体操メニューの力点は異なるべきである。

 

菊池和子氏の話のはしばしに、老人ホームで、身体が硬くなり相当に動かなくなった人の身体をどうにかしようとした体験が出てくる。たとえばブリッジも10cm20cm高以上は危なくてやらせられないなど。

 

中国では、戦後歴史的に食料も医師も人口比不足していて、太極拳を中心とした気功を国家的に進めることで対応してきたところがある。これは、「自力」の対応の一種。

 

癒しを冥想技法で、観想法や、エーテル体以下の技法でやる技術は確かにある。メディスンマンのそれや、白隠軟酥の法である。きくち体操では、手足の指先を起点として体操で刺激し、かつ「意識」して肉体運動をやらせ身体全体の調整を狙うところが、「他力」系のものとは異なる。

 

きくち体操のメニューには、「らくスクワット」というヒンズー・スクワットとは異なり、動かさない相撲の四股みたいなものがあるが、これなども筋力が弱った人向けの優しいメニューである。

 

きくち体操のメニューはこうした結構身体が硬くなって筋力が弱った人向けのものがそろっており、かつ彼女の老人向けの50年の指導経験が反映したものとなっている。

 

朝日新聞に“連載 「いっしょに! きくち体操」” https://www.asahi.com/relife/series/11032509

があり、これに29メニュー上がっていて大要はこれでわかるし、youtubeでも20本くらいメニューの断片を拾うことができる。だが実際のところは、各ポーズで、力まないとか、ここを伸ばしたままにするとか、どこを意識するとか、口伝の部分がある。

 

きくち体操体験談集が単行本に載っているが、慢性病や医者に匙を投げられた多種多様な病気が軽快している例が多数ある。彼女は、まず数か月の継続を求めている。

 

人口の三分の一が老人という人類未体験の環境である。そこにはこうしたオリジナルな技術が登場すべきなのだろうと思う。

 

それにしても崑崙山中の500歳の神仙はどんな体操で健康維持していたのだろう。

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きくち体操考-1

2023-02-17 21:50:33 | 冥想の準備neo

◎ハタ・ヨーガ以前の状況だがいろいろなトライもある

(2022-08-16)

 

きくち体操は、中高年、どちらかと言えば老人向きの体操。最近YouTubeできくち体操の動画を集め、早速全体の三分の二くらいやってみた。同時に『日めくりきくち体操』というのも購入し、全体のメニューも確認し、YouTubeに上がっていないポーズも確認している。

 

私は若い時から八段錦とか脚の屈伸とかスクワットなどは毎朝欠かさずやってきているのだが、60代になってどうも体操メニューが足りないという印象を持っていた。

 

そこで中野ジェームズ修一氏の『体が硬い人のための柔軟講座』(ストレッチ系)を買ってきてNHKの番組を録画で確認したが、すべてのメニューの半分もできないことがわかり、追加で『ものすごく体が硬い人のための柔軟講座』を買ってここ2,3年やってきている。

 

これは、最初の半年くらいは効果が出たもののその後はかばかしくなく、ネットで見つけた十種程度の歩行強化用メニュー(筋トレ系)を追加したところ足腰の筋肉はついてきたという効果は感じられるようにはなったが、何かとスムーズではない感じが残っている。

 

また古神道の振魂と天の鳥船を1年くらい前から始めたが、回数が少なかったのと、渾身で行っていなかったので、最近は下方三チャクラを意識して上下のバランスをとる狙いで、回数を増やし渾身でやることを意識して、それなりの効果が挙がっている。

 

これでもまだ不足感があり、お昼の情報番組や朝日新聞に掲載されている『きくち体操』に取り組んでみることにした。すると驚いたことに、平素その姿勢をやりたがらないことからできないポーズが結構あり、衝撃を受けると同時にそうしたポーズは数分程度やったそばから効果を感じて、これは相当なものであると思った。

 

白隠ではないが上下のバランスを崩したり、老いれば筋肉は一様に落ちる。『きくち体操』はネーミングがキャッチーではないが、手足の指先の血液の流れを感じ取るとか、指とか筋肉などの部位を自分でさわるとか、動かさずにポーズを固定したままにすることが多いとか、各部位の動きを意識するとか、エーテル体の動きも促進する注意点も散りばめられており、見かけ以上に効果があるように思う。それと開祖の菊池和子さんが「人の身体は千差万別」と強調しているのもよい。対策も千差万別。

 

思えば、このブログでも冥想の準備として

⑴ラジオ体操

⑵太極拳

⑶八段錦(太極拳の一種)

⑷ハタ・ヨーガ

 通常10種類程度のアサナで十分。

  屍アサナ、前屈、コブラ、魚、ねじり、弓、首立ち、スキなど。

⑸インディアン体操

 

などを挙げているが、基本的にせいぜい20代、30代までの基礎体力にあまり問題のない世代が柔軟性強化のためにやるものばかりであった。今自分が老化してきて筋肉も落ち柔軟性も以前とはくらべものにならないくらい落ちてきた段階を思えば、自ずと筋肉強化、柔軟性強化のメニューも変えたり増やしたりして行かなければならないと痛感している。

 

一日の正味の余暇が30分程度の生活を過去何十年続け、また休日に暇があれば読書やら資料探しを優先する生活をしていれば身体も硬くもなろう。

 

この話は、毎度LAVAとかTipnessとかアシュタンガに通っているような元気な人には無用の話だと思うが、老人向けの『ものすごく体が硬い人』のための体操メニューが意外に見つかりにくいということから、自分の現状と遍歴を紹介してみた。

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金も物も要らない自由

2023-02-10 06:10:38 | 冥想の準備neo

◎多様な世界の知覚の仕方

(2007-03-09)

 

出口王仁三郎の霊界物語が大正時代のアヴァンギャルドな世界認識だった。昭和のアヴァンギャルドな世界認識は、カルロス・カスタネダのドン・ファンのシリーズだった。

 

ドン・ファンのシリーズは、ヤキ・インディアンのソーマ・ヨーガのマスターであるドン・ファンに弟子入りしたカルロス・カスタネダが、アストラルな世界を冒険する話である。

 

ドン・ファンの世界では、神はイーグルと呼ばれる。人は、「今まで慣れ親しんだ時間の流れ、空間の配置、多用な物質という世界の見方が根拠のないものである」と信頼できる師匠から繰り返し説得されても、その事実をなかなか頭が受け入れてくれるものではない。カスタネダも何年も起こった出来事を頭の中で理解できないでいた。

 

この世界は物質でできていることは、まごうかたなき事実であるが、この世界があらゆるものに変換可能なアストラルなエネルギーからできているということも、彼らにとっては厳然たる事実なのである。

 

我々は現代科学を中心とする物質的世界観が絶対なものであると教え込まされているが、そういう見方は肉体的五感を基礎とするもので、人間のスピリチュアルな知覚が誰にでも認識されるようになれば、エーテル体的な世界の見方や、アストラル体的な世界な見方というものもあり、また神的な見方もあり、現代人の世界認識は、いくつもある世界の見方の一つに過ぎないということがわかる。

 

そうした見方が過去何千年か失われていく方向にあったのだが、それはどう見ても自我の極大化と自我の固さを増強するためのプロセスであったように思う。

 

自我の極大化と自我の固さは、その意志と欲望を極大化する効果をもたらす。人間の社会性という観点で言えば、王と不特定多数の小羊の如き民という構成の社会から、一人一人が市民としての自覚を持ち、一朝ことあれば、誰でも自分が王にとって変わるのも悪くはないという程度に肥大化した自我を持つようになっている。

 

この結果、家庭や社会のあらゆる局面で、人と人との関係はちょっとしたことでぶつかりあうことが多い尖鋭なものとなっている。

 

このように肉体的五感を基礎とした社会観での人間達の欲望の相互調整は、もう限界にきているのであるから、もう一歩進んでその社会観を根底から叩き直そうとする一つのインスピレーションが、このドンファン・シリーズなのである。

 

肉体的五感を基礎とした社会観とは、マニピュラ・チャクラ的世界観であり、その世界観以外に他の世界観があってそれを相対化する新たな世界観とは、アナハタ・チャクラ(ハートのチャクラ)的世界観と呼ぶべきものである。

 

だからと言って、さあスピリチュアルな知覚を求めようという、技術と実践を偏重するのは、これまた落とし穴に落ちる。

 

現代の求道者が本質的に求めているのは、物質でもなく、社会的価値観からみた利益でもなく、それから離れた自由そのものを求めていることをまず自覚することが、多様な世界の知覚の仕方に取り組む基本的な姿勢になると思う。

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禅堂の生活と修道院の生活

2022-11-13 19:49:10 | 冥想の準備neo

◎冥想専門道場

禅堂の生活と修道院の生活が似ているのではないかと思ってはいたが、実際に両方を過ごした人の文に出会った。どちらも巷間の喧騒をはなれた、瞑想のための専門道場であるが、機縁あって、冥想が深まった場合には、そういった施設に厄介になる人もいる。この文の著者の門脇佳吉氏は、中学の5年間に毎年数日禅寺に泊まり込み、坐禅や作務を経験した。

 

『私は大学卒業後の3年後にイエズス会に入会し、広島の長束で、修練の2年間を過ごした。修練院に入ってみると、「霊操」にもとづく修道生活が多くの点で禅の禅堂生活に似ているのに驚いた。

 

毎朝5時に起床し、すぐに屋外に出て体操し、洗面後一時間黙想し、ミサに与った後に15分間反省する。

 

7時半には沈黙のうちに朝食をとり、食後30分間で家の内外を掃除する。

しばし休憩の後、修練長から1時間講話を聞く。正午前に15分間自己を究明する。昼食後しばらく休んだ後に、作務をし、霊的読書をした後、聖堂で黙想し、夕食をいただく、食後の休憩の後、修練長から翌日の黙想すべきことについて講話を受け、自己究明の後に床に就く。

 

この日課を少し変えて、5時の代わりに4時に起床し、黙想・反省・究明の代わりに坐禅とし、ミサの代わりに朝課(朝の勤行(ごんぎょう))とし、修練長の講話の代わりに老師の提唱とすれば、イエズス会の修練期の日課は、そのまま禅の僧堂生活に早変わりすると言ってよいだろう。

 

一日の日課は30分か1時間単位でみっちりと組まれており、鐘の合図で共同で行動し、沈黙が守られることも禅門と同じである。』

(霊操/イグナチオ・デ・ロヨラ著/解題/門脇佳吉/岩波文庫から引用)

 

イエズス会の黙想・反省・究明は、観想が中心であるのに対し、坐禅では、丹田禅か只管打坐という違いがあるが、その他の部分について類似している。こういった規則正しい生活の中で、精妙なエネルギーが培われるままに数か月送れば、神を見たり、本来の自己に出会うことが、巷で暮らすよりは、はるかに高い確率で発生することを、修道院を作った人も、禅堂を作った人も知っていたのだろう。

 

門脇氏はまた、霊操は4週間にわたる観想のカリキュラムであるが、これが一週間にわたる禅の接心(坐禅漬けの修行期間のこと)と似ていることも指摘している。修行のスペシャル週間のメニューも似ていたわけである。

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スピリチュアルと肉食

2022-11-09 11:34:35 | 冥想の準備neo

◎その人にフィットする戒律

 

密教系の本を読んでいたら、釈迦は最後食中毒を起こして死んだが、それは、キノコが腐ったのを食べたと大乗仏典では書き直しているが、それ以前の経典では実はキノコではなくて、もともとは猪の肉か、豚肉の腐ったのを食べたのだと書いてある由。釈迦が肉食をしていたのは、大乗的には都合が悪いことだったので、大乗で肉食していないことに書き直したようだとのこと。

 

おまけに今をときめくダライ・ラマとその周辺は、ステーキが大好きだなどと書いてあった。ダライ・ラマ自伝では、ダライ・ラマは自ら健康のために肉食をしていることを認めているが、改めてステーキが大好物などと書かれてしまうと戒律特に殺生戒についてどう思っているか考えさせられてしまう。

 

つまり肉屋のさんのカルマはどうなんだとか、スーパーの肉売り場の人のカルマはどうなんだとか、動物を殺すのは殺生だが植物を殺すのはいいのかなどと、果てしないカルマ・ヨーガ的な視点に落ちてしまうところがある。

 

そこで肉食反対の出口王仁三郎の主張を見ると、そもそもスサノオノミコトが、いわば爛熟腐敗した肉食文化の象徴たる大気津姫を殺した時(古事記による)に、その遺体から稲、粟、小豆、大豆、麦などの穀類が生った(死からの再生)ことを根拠にして、人間の正食とは穀食であるというもの。

 

穀食すれば心血自然に清まると、出口王仁三郎は云うが、その快適さを知るには、まずファーストフード店などで外食をしないことから始まりそうだが、ライフスタイルによっては実現することはかなりむずかしい人がいると思う。つまり現代人の大多数にとって肉食の禁止は現実的ではないのだと思う。

 

結局修行者にとって,その修行のタイプに必要な戒律はあるものだと思う。いわば正師から適切に与えられた戒めだけがその人に必要な戒律であると思う。しかしながら、肉食戒も含め、組織宗教が誰に対しても十把ひとからげに出してくる戒律は、そのすべての条項が修行者全員に必要なものとは考えにくい。

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功過格について

2022-11-07 06:48:26 | 冥想の準備neo

◎『善』、行動の冥想-6

◎功過格(毎日の行動を善悪に分けて採点する)

 

自分で閻魔大王してみようということですね。

あの世の閻魔大王の前には、自分が乗る天秤はかりがあって、自分の体重より自分の犯した罪が重ければ、地獄行きだって言うじゃないですか。

 

それで中国では、他人が見てなくとも天はあなたの行動を見ているという通念があって、善行をたくさん積み重ねた家には、意外な慶び事があり、小さな悪事を積み重ねてきた家には、不慮の災難がふりかかる、というではないですか。

(積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃(よおう)あり:易経)

 

※文化大革命以降は、中国では礼儀正しいことはブルジョア的であるとして、労働者階級の敵として批判される理由になるので、今の中国でこんなことを言っても通用しないと思いますが・・・。

 

次項の功過格(善行/悪行)は、12世紀中国の金の時代の新道教「浄明道」に由来すると言われています。その後、明の時代の袁了凡という高級官僚が、これを勤勉に守ることにより、科挙の試験(高級官僚任官試験)も合格し、占いでは、できないと言われた子供まで授かったので、抜群の効果があることがわかり、「陰隲録」に所載されて、有名になったものです。(陰隲録(いんしつろく)/明徳出版社)

 

でも、効果を期待して行う善行は善行ではないのですが、功過格でも同じ考え方です。

 

袁了凡は、まる三日冥想しても雑念が沸かなかったので、既に想念停止まで、できていた人であるが、善行にまで踏み込めなかったので、窮極の体験はまだなかったと考えられます。

想念停止そのものに対しては、善でも悪でも入れられるので、その段階から袁了凡は、戒律としての「功過格」を与えられたのだと考えられます。「功過格」こそ『行動する冥想』そのものなのです。

 

そして功過格は、人間が生活の智慧として集めた良い行い・悪い行いの実例集ではなく、究極(仏、神、宇宙意識)を知った人は善行だけ行い、悪事を行う事ができないが、その生きる姿『衆善奉行 諸悪莫作』を、世俗で生きる者のためのおすすめ行為とやってはいけない行為の実例に翻案したものであると言えます。つまり功過格は人間の側から来たものでなく神の側から来た行動基準とも言えると考えられます。

 

そして袁了凡が、北京の雲谷禅師に会って、功過格をやってみようと決心した理由は、「今までの境遇や運命は、天から与えられたものであるが、これからの運命は、自分の努力で能動的に変えていくことができる。」と説得されたからです。

この部分だけが、様子を知らない世間の人に『願望実現のノウハウ』として強調されてしまったのだと思います。

逆に、そういう誤解の起こることを承知で出したということもあるでしょう。つまり功過格の外形はカルマ・ヨーガであり、無私の行動を積み重ねることにより、宇宙意識(仏、神)に至る道だからです。

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功過格表-1(善行篇)

2022-11-07 06:41:43 | 冥想の準備neo

『善』、行動の冥想-7

◎功過格の実際のやり方:

 

一例:

1.おじいちゃんが死んだのでがっかりしているAさんを慰めなかった(マイナス1点=一悪)。

2.Bさんにひどいこと言われたが、怒らなかった(プラス3点=三善)。

3.ペットの文鳥がごみ箱に入って動けないのを助けた(プラス1点=一善)

 

今日は合計でプラス3点でした。一カ月合計し、年でも合計していく。

 

◎功過格表-1(善行篇)

 

 

功格五十条(謝礼や代価を受けて行った物は除外すること)

(たとえば百善とは一回やると一善の項目百回と同等であるということです。)

 

百善

一人の死を救う

一人の婦女の貞節を全うさせること

子供を溺死させたり、堕胎しようとするのを諭し思い止まらせること

 

五十善

世嗣ぎの絶えるのを継続させてやること (先祖供養の継続)

一人の寄る辺ない人を引き取って養ってやること

一人の無縁者の死骸を埋葬してやること

一人の流浪者を救うこと

 

三十善

一人の者を出家得度させること

一人の無法者を教化して行いを改め善につかせること

一人の無実の罪を明らかにして救ってやること

自分の土地の一か所を無縁者の墓地に提供すること

 

十善

一人の有徳者を推薦し引き挙げてやること

一つの民の害になることを取り除くこと

一冊の世を救う法典を編纂すること

医術等をもって一人の重病人を治してやること

 

五善

一人の訴訟者を諭して思い止まらさせること

人に一つの生命を保ち益す方法を伝えること

生命を保益する書物を1冊編纂すること

医術等をもって一人の軽病者を治すこと

人間に役立つ1家畜の生命を救うこと

 

三善

一の不法な仕打ちを受けても怒らないこと

一つのそしりを受け手も受け流して弁解しないこと

一つの気に入らぬ言葉も甘んじて受けること

一人の打ち懲らしめてやりたいものに対して許してやること

人間に報いることもない一匹の畜生の生命を救う

 

一善

一人の人の善を讃えること

一人の欠点や悪いところをあばき立てないこと

人の非行の一時を諭しとどめること

一人の争いを諭しとめさせること

出かけていって人の病気を治療すること一回

捨ておかれた字一千字(文書のこと)を拾い上げること

饗応に招かれることになって受けないこと1回

一人の飢えを救うこと

死人を留めて一夜の宿を貸してやること

正しい道を説いて教化が一人に及ぶこと

事業を興しその利が一人に及ぶこと

人畜の疲労を世話して回復させること一時

一匹の自然に死んだ鳥類畜類を埋めてやること

一匹の微細な生物の命を救うこと

 

一万円相当が一善に相当する行い (注1.原典では、百銭相当が、一善または一悪に相当することになっているが、ここでは、仮に一万円相当とした。)

道路や橋を修繕すること

河川を通じさせ、井戸を掘って民衆を救うこと

神社仏閣などの聖なる像壇宇や供養などの者を修繕すること (他人に費用を与えてさせた場合には半減して計算する)

人のなくした品物を返すこと

債務を免除すること

人を教化し救うための文書を思考すること

功徳を作って非業に倒れて浮かばれない魂に回向すること

困っている者に恵んで賑わしてやること

倉庫を建て穀物の価格を調節すること

茶薬衣棺一切の物を施すこと

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功過格表-2(悪行篇)

2022-11-07 06:40:33 | 冥想の準備neo

◎『善』、行動の冥想-8

◎功過格表-2(悪行篇)

 

過格五十条(誤って犯した物は除外すること)

百悪

一人の人を死に至らしめること

一人の婦女の節操を失わしめること

一子を溺死させさたり、堕胎させることに協力すること

 

五十悪

他家を断絶させること

一人の婚姻を破談にさせること

一人の死骸を抛棄すること

一人の人を流浪者にしてしまうこと

 

三十悪

一人の者の戒行を破らせること

誹謗して一人の行為に疵をつけること

隠し事を摘発して人の行為の邪魔をすること

 

十悪

一人の有徳者を排斥すること

一人の邪な人を推薦し、挙げ用いること

一人のすでに節操を失った婦人に触れること

あらゆる生物を殺す道具を一つ所持すること

 

五悪

経典礼法を一つ破壊すること

一冊の教化を乱す書物を編纂すること

無実の罪を明白にすることができるのに捨ておくこと

一人病人が救いを求めてきても救わないこと

一人の者に訴訟をするように唆すこと

一人の者にあだ名をつけたり噂をしたりすること

悪口を言って人を傷つけること

道路や橋や渡し場などを妨害したり、切り崩したりすること

人間に役立つ一匹の家畜を殺すこと

 

三悪

一つの耳に逆らう言を聞いて怒ること

一つの尊卑の順序にそむくこと

酔って一人の人を害すること

一人のうち責めるべきでない人を打ちたたくこと

二枚舌を使って人の中を離間すること

一つの正しくない制服を着ること

一匹の家畜以外の畜生を殺すこと

 

一悪

一人の善行を無にしてしまうこと

一人の人に争うことを唆すこと

一人の人の過失を言い広めること

人の非行一つに協力すること

一人の盗みをする者を見ても諭しとどめることをしないこと

承諾も得ずに一本の針、一本の草を取ること

一人の無知の者を欺きたぶらかすこと

一つ約束に背くこと

一つの礼儀を失うこと

一人の心配事あるものを見ても慰めないこと

人や家畜を使役して、その疲労を憐れまないこと1回

湿気に生ずる微細な生物一匹の生命を奪うこと

 

一万円相当が一悪に相当する行い (注1.原典では、百銭相当が、一善または一悪に相当することになっているが、ここでは、仮に一万円相当とした。)

天の生ずる物を無益に浪費し尽くすこと

人の功績を破壊すること

公衆の利益に背いて自分だけが利益を受けること

他人に代わって金銭を使う場合、倹約せずにほしいままに使用すること

借りた金品を返済しないこと

人の遺留品を私して返さぬこと(1万円未満も1悪に計算する)

官の権力を借りて金品の贈与を要求すること

人や金品資材を取る方法のすべてのことを謀略によってなすこと

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