◎最後の審判の時代
(2005-10-26)
一個人が救世主並みの覚醒を得ることは、最後の晩餐の食事の途中で、イエス・キリストが弟子の足を洗った事蹟に、そのひとつのサインを認められる。
この事蹟は、キリスト教では伝統的にイエスが弟子の足を洗うように自分を低くして、本当の奉仕の気持をもつことというのが、伝統的な解釈である。
しかし素直に見てみれば、イエスは、弟子の神性を見たからこそ、足を洗ったのではないだろうか。そして単に神性を認めただけならば、礼拝をするに留まったのではないか。足を洗うというのは、当時は奴隷の仕事であったそうなので、礼拝だけではなく、足を洗うというのは、ひれ伏して自分より高いものであることを認めている心情がうかがえる。
聖三位一体の教義では、イエスの高みはこの上なきものであるから、人間としてそれ以上のものはない。イエスが足を洗うとすれば、父なる神に対して洗うことしか論理的にはないのであるから、弟子を父なる神の現れとして洗ったということになろう。
当時の十二使徒の実力は全くイエスに及ばなかったにも関わらず、イエスは、「イエスを遣わした父なる神の顕れである彼ら」を見て、足を洗ってみせたと考えられるのである。そしてお互いに足を洗うべきであると述べ、それぞれが神の顕れだから対等であると示唆している。
イエスは、この夜「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」と言っている。既に事が起こりそうな気配があるが、我々はまだ信じていないのである。
そしてイエスは、最後の審判の時代が、まるで明日にでも起こるように思って幻視した(現在でも、その様を幻視した人はショックを受けるようだ。)。ところが、最後の審判の時代は現代のことのようだ。ということは、今の時代は、大工の救世主(アヴァターラ)が一人で頑張って、どうにかなる時代ではなく、一人一人が神の顕れであると自覚して覚醒しないと、どうにもならない時代であることと示唆しているように思う。
キリスト教は、現代を席巻している近代西欧文明のバックボーンである。20世紀になってニューエイジということが叫ばれているが、それは、水瓶座の時代であることを強く意識した運動である。水瓶座は、多くの個人が続々と覚醒することをイメージしているが、そのイメージは2千年前の最後の晩餐に既に伏線があったと考えられる。