◎知られざる明治維新の元勲
(2020-12-25)
愛知県に玉鉾神社を創建した旭形亀太郎。本名は、速水亀太郎、大阪の貧しい武家の次男。1861年二十歳にして京都の力士となった。1863年宮中の護衛のために勤王の同志を集めて力士隊を組織し、その隊長となって日夜宮中に奉仕。1864年の蛤御門の変(禁門の変)では、特に宮中に召され孝明天皇の玉座の守備を任された。
この際に御製を賜った。
照る影をひら手に受けし旭形
千代にかがやくいさをなりけり
これにより名を旭形と改めた。当時近衛家はじめ公家や薩長を中心とした小松帯刀、桂小五郎、西郷吉之助、横井小楠、大久保一蔵、坂本龍馬らとの間は幕府方の警戒が厳しく往来が困難であったが、常に旭形を密使として交信していた。一時気取られて新選組につかまったこともあるが、知り合いの与力に助けられた。
この当時の働きと交流、人脈が、明治になってからの実業家、篤志家としての成功の原動力となったと思われる。
旭形といえば、アサヒビールの総代のことばかり言われるが、陸軍偕行社の嘱託、大阪慈恵会病院の設立発起人、日本赤十字社の大阪支部幹事などを歴任。
(以上参照:史談 土俵のうちそと/武者成一/雲母書房)
後に彼は孝明天皇を祭神とする玉鉾神社を創建したが、小松宮彰仁親王が参拝されたほどの神社。明治政府は、無位無官の民間人による孝明天皇の神社創建をどう思っていたのだろうか。
たまほこのひ可里などでは、孝明天皇の予言(遺勅)を前面に出して説明するのだが、明治維新は20人程度の結束したグループで成ったのだが、旭形は、その中心的なハブ(隠密中の隠密)としてなくてはならないピースだったということがわかる。単に禁門の変で、玉体をカバーしつつ、銃弾を二発受けながら退避せられたということばかりではない。
そして維新後の栄達への無欲ぶりは、西郷隆盛に並ぶ。