アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人生を否定的に見る宗教の隆盛

2023-03-31 06:49:44 | 無限の見方・無限の可能性

◎肯定的な宗教、否定的な宗教、あるいは楽天的な宗教、厭世的な宗教

 

仏教とキリスト教は、代表的な生を否定的に見る宗教で、厭世的宗教。古神道は、生を肯定的に見る宗教で、楽天的な宗教。

 

OSHOバグワンは、キリスト教については明示していないが、自分を罪人と考えるから、否定的に見る宗教と考えているのだろうと思う。

 

さてOSHOバグワンは、生を肯定的に見る宗教と否定的に見る宗教の優劣について、肯定的に見る宗教の方が優るとする。

また無選択を究極と同義として使っているが、わかる人はあまり多くはないのではないか。

 

その理由は、

  1. 生を否定的に見る人間は、無選択へと飛躍できない。苦悩からジャンプするのはむずかしいが、肯定的に見る人が幸福からジャンプする方がやさしい。幸福な時の方が勇気が湧いてくるから。苦悩する時、人は臆病になり苦悩にしがみつく。

 

  1. 人は、肯定的で幸福な時に、未知の幸福にジャンプでき無選択に到達できる。逆に否定的で苦悩にある時、未知の苦悩に進むよりは既知の苦悩に居る方が楽だから、まず未知の苦悩には進まない。

 

  1. 否定的な宗教には、否定的な頭(マインド)の人が育つ。クリシュナムルティは、無選択を説くが、彼の講話を聴く聴衆は否定的な人だから理解できる人はいない。逆に肯定的な人たちは講話を聴きに来ない。否定的な頭(マインド)の人に無選択や二元性の超越や肯定性と否定性の両方を説くことには、意味がない。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(5愛の円環)OSHO P138-143)

 

このような理屈で、OSHOバグワンは、人は人生を肯定的に見ることに切り替えなければならない、とする。

 

さらに彼は、生を否定的に見る宗教の定番の地獄について、次のように誰も天国にも地獄にも入りはしないと説明する。

『不幸であるときには冒険的になれない。 冒険できるのはあなたが何となく幸福であるときだけ だ。幸福であれば、既知を去ることができる。幸福であるから、あなたは未知を恐れない。 幸福がしっかりした現実となっているので、あなたにとっては、どこにいようとも幸福が一緒だ。マインドが肯定的であれば、あなたにとっては、地獄などない。自分がどこにいようとも、天国はそこにある。それで未知の中に入れる。あなたにとっては、天国はいつも自分と一緒だ。

 

よく言われるが、人は天国か地獄に入ることになっている。これはたわごとだ。誰も天国に入りはしないし、誰も地獄に入りはしない。人は自分の地獄と天国を携えている。どこへ行くときも、自分の地獄や天国と一緒に行く。 天国や地獄は扉ではない。 荷物だ。人はそれを携えていく。』

(上掲書P139から引用)

 

またOSHOバグワンは、次のようにさりげなく、人の悟りのプロセスの大要を示す。すなわちそれは、

  1. 自分の頭(マインド)を肯定的にする。
  2. 地獄から天国へと進む。
  3. 天国からモクシャへ(天国でも地獄でもない究極)に進む。

※モクシャはニルヴァーナと同じ。

 

『幸福なとき、あなたは退屈する。それで未知へと向かう。未知は魅力的だ。無選択とは未知への扉だ。否定性から肯定性へ、肯定性から無選択へ、それがとるべき道筋だ。まず自分のマインドを肯定的にする。 地獄から天国へと進む。そして天国からモクシャへと天国でも地獄でもない究極へと進む。苦悩から至福へと進んで初めて、その両方を越えた超越へと進むことができ る。だからこそスートラは「まず自分のマインドを否定性から肯定性へと変容しなさい」と言うのだ。この変化は、焦点を変えることにほかならない。

 

生というのは、その両方か、あるいはそのどちらでもない。その両方か、あるいはそのどちらでもない! それはあなたしだいだ。あなたが生をどう見るかにかかっている。否定的なマインドで見れば、生は地獄のように見える。それは地獄ではない。あなたの解釈だ。

見方を変えて、肯定的に見てごらん。』

(上掲書P140から引用)

 

生を肯定的に見る宗教は、過去何千年世界宗教たり得なかったから、こんな時代になっているのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荘周胡蝶の夢を見る者

2023-03-30 07:04:28 | 無限の見方・無限の可能性

◎浅い夢と深い夢の一体化

 

荘周は、胡蝶になった夢を見た。胡蝶になって飛び回るうちに荘周であることを忘れた。やがてはっと目が覚めた時、自分が荘周であることに気づいた。しかしながら、荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかはわからなかった。

 

夢の世界は二重構造になっていて、「起きて活動している時間帯の自分という夢」と、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に実は分かれているのだが、これは、この浅い夢と深い夢の区分がなくなった状態であるように思う。

 

出口王仁三郎は、モンゴルのパインタラで銃殺寸前まで行き辞世の句まで詠んだが、それ以後、生きていながらこの世とあの世の区別がつかなくなったというようなことを言っている。

 

さらにOSHOバグワンは一歩進んで、荘周がそうした夢を見るには、夢を見る者が必要だと指摘する(ヴィギャンバイラブタントラ(5愛の円環)OSHO P121)

 

この指摘は、自分が世界全体になって、荘周にも胡蝶にもなったが、荘周も胡蝶も夢まぼろしであり、世界全体も夢まぼろしであるというところで唱えている。そこで夢を見ている者の立ち位置は、夢まぼろしであるマーヤ(無明)の外にあるということであろう。

 

夢幻とは、世界全体、宇宙全体だが、それは常にニルヴァーナとセットであり、なぜそうなのかは、ウパニシャッドでは、説明なく漠然と、世界全体、宇宙全体であるアートマンは、ブラフマンとペアで出てくることでわかる。

 

OSHOバグワンは、ニルヴァーナの存在を夢見る者として遠回しに語ったのだろう。この世の夢まぼろし(マーヤ)を仮現させるものは、ニルヴァーナだが、ニルヴァーナは独立では存在し得ず、マーヤあってのニルヴァーナ。だから常にペアで出てくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-14

2023-03-29 06:46:21 | ダンテス・ダイジの風光

◎一行三昧

【コース選定】

 

三昧発得、すなわち宇宙意識的自己に目覚めれば、その中に、超越のみではない。この世を生きるものとしての君が、選ぶにふさわしい人生コースについての智恵は、自然に備わっている。

 

しかし、一時的な見性・見神はたやすくても、それが完全に全体的なものになるのは、永遠の修行そのものにおいてである。そこで、冥想道の基本過程を一まず完了した修行者諸君のために、コース選定という課目を出しておいてもよかろう。

 

 

コースの根本的選定は、君の霊的な本質個性によってなされる。

したがってコース選定の段階に入る以前に は必ず何らかの形での一行三昧の訓錬がおこなわれている。一行三昧というのは、幅広く冥想道の行法や知識に通じるのではなく、何か一つの「これだ!」というものを発見するということだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

いよいよコース選定段階に入ってきた。だが、誤解しやすいのだが、見神も見仏も見性もしていない人は、コース選定の段階に至っていない。まずは見神、見仏、見性の体験が必要となる。

 

三昧発得とは、ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)のこと、宇宙意識とは、ニルヴァーナのことである。三昧発得と宇宙意識的自己が並んでいるのは、冥想十字マップの世界観が念頭にあるものと思う。つまりニルヴァーナ並みの体験とは言えない体験があれば、食べていく方法も自ずと出てくると言っているだけ。

 

またここは、悟りを開いても聖者高僧として生きるわけではなく、自動車修理工やコンビニの店員や職人や非正規サラリーマン(ウーマン)や農家のようなありふれた社会人として生きるようなことが念頭にある。

 

よってコース選定とは、職業選定のことなどではないのだ。

 

一時的な見性・見神はたやすくても、それが完全に全体的なものになるのは、永遠の修行そのものにおいてである。とは、見神見仏を体験した者が、悟後の修行である聖胎長養を行ってさらに完璧を期すこと。

 

聖胎長養の意義と狙いについては、以下に考察したものがある。

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-1

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-2

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-3

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-4

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-5

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-6

 

 

コースの根本的選定は、必ず一行三昧を経る。一行三昧によって、見神、見仏、見性を達成するのであって、スピリチュアル哲学やオカルト・テクニックの本を読み漁ることではない、という風に読める。

 

そして一行三昧によって自分の霊的本質的個性を見極めるのだ。西洋占星術やタロットで見極めるのではない。そんな時代ではないだろう。西洋占星術も四柱推命もタロットもオラクルカードも易占もルノルマンも、わが身に備わっている時代となって久しいのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-13

2023-03-28 06:47:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎自由な力、定力

 

冥想道手帳の続き。

『どんなに深遠な形而上的認識を

冥想修行の途上で得たとしても自由な力がなければ駄目だ。

 

定力を充実させる一つの方法は

君のなすべきことをなせ

ということだ。

それが、どんな簡単なことだろうと

どんなに困難なことだろうと

君のなすべきことをなせ。

 

もし、なすべきことが何なのかわからなけ れば

時が満つるのを待とう。

 

定力のみにかたよった冥想者は

つらの皮ばかり厚くて

世俗的な成功は手に入るにしても

生老病死の苦を越えることはできない。

絶対無の智慧を知ったとしても

智慧ばかりの冥想者は

心はみだれて使いものにならない

心は本来なしと思ったところで

その思いがみだれているのだから。

 

冥想修行の途上では

実力と智慧とが分裂することがあるものだ。

それは、絶対無を人間心理の側から

見てしまうからだ。

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

 

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

人間的観念に

いつまでもへばりつくことはできない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

自由な力とは、定力であり、胆力のこと。冥想界隈では、臨済禅の師家に定力抜群の人が多いことは知られているが、一般世間でも、押しの強い営業ができる人に定力がある人は多数いるものだ。

 

ただし、悟っていなくて定力だけが強い人は周辺に迷惑をかけたりしていることもままあり、そういう人と一緒にいると「肩がこるような気がする」ということをダンテス・ダイジは言っている。

 

ここでは、定力と智慧二つながら極めることを求めている。定力だけあってもダメで、智慧だけあってもダメ。実のところ、大悟以前の修行段階では、どうしても定力だけ先行しちゃっているとか、智慧だけ先行しちゃっているという風になりがちだが、そのことについて是非を論じてもしかたがない。「君のなすべきことをなせ」なのだ。

 

このパートについては、全体として公案禅が念頭にあるように思う。

公案という不条理の論理に自分がなりきることで、絶対無の智慧を得る。並行して、日がな「ムームームー(無)」や「セキシュー、セキシュー、セキシュー(隻手)」などのマントラを繰り返すことで、肚(はら)を作る。

 

ここは、上位三チャクラ中では智慧のアジナー・チャクラだけ強調している。

 

そうは言っても、現代で社会人として生きていくには、ITや金融経済や法制などの知識と智慧だけではやって行けず、ハラの力、定力もないとやっていけないところもあるのは、現実である。冥想修行にあっては、智慧と定力を極めるのは必須だが、現実を生きるにも智慧と定力が必要なのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終的恒久的な軍備撤廃

2023-03-27 18:28:06 | 時代のおわりneo

◎インドの反戦の歴史

(2017-01-01)

 

広島には、何故だか「過ちは繰り返しませぬから」という敗戦国家の手になる碑があるが、それ以後朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、ユーゴ紛争などなど戦火の消える暇はなかった。

 

最終的恒久的な軍備撤廃が、七福神の世、みろくの世、千年王国、至福千年の条件だが、世界には各国に先んじて、反戦、非暴力、無抵抗主義を掲げたことのある国がある。

 

それはインドである。

叙事詩マハーバーラタには、夙に核戦争の惨禍を描いたらしい記述があるのだが、その戦争体験の悲惨さに全インドが震撼し、OSHOバグワンの霊眼によれば、以後しばらくインド全体が反戦反暴力となったという(神秘家の道/OSHO/市民出版社P651-652による)

 

さらにインドは、アショーカ王の時代(紀元前3世紀)にカリンガ戦争を経てほぼインドを武力統一したのだが、この戦争もあまりにも悲惨なものであったがゆえに、アショーカ王も反戦碑文を全国に建てまくった。

 

さらに時代は下がって、ガンジーの非暴力運動が起こり、インド国旗の中央には、なんとアショーカ王の法輪が燦然と描かれていることから、核軍備した今でもインドは基本的に反暴力反軍備を標榜しようという意識が見てとれる。

 

またアショーカ王没後の九秘密会なるものも存続している気配をこういうところに感じさせられる。

 

さてOSHOバグワンは、インドだけがこうした国家規模の反戦方針を打ち出しているのは、インドの過去の大戦争が、180度反対に位置する絶対平和に向かわねばならないほど酸鼻、凄惨なものだったからだろうと見ている。歴史から学び、極端から極端に奔ったのだ。

 

従って今後世界全体が軍備撤廃に動くためには、残念ながらそのようなすべての民族、すべての国家が戦争、核兵器の悲惨を目の当たりにすることが条件となるだろうと予想される。

 

地上天国、七福神の世、みろくの世、千年王国、至福千年の到来はあらゆる国、あらゆる宗教で予言されている。それは軍備撤廃、恒久平和を基礎として起こるが、以上のような人間の学びの法則を考えると「世界戦争は不可避」という見方は、まんざら悲観論とは言えないと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-12

2023-03-27 06:58:27 | ダンテス・ダイジの風光

◎現象世界のトリックを見破る

 

冥想道手帳の続き。

『君の本当に好きなものは何か?

君が本当に願っているものは何か?

本当の願望が

宇宙意識である君を

目覚ましめる。

欲望と言ってもいい

君の激しい欲望は

君の見ている現象世界のトリックを

見破ることだろう。

そして君は帰って来る

宇宙意識の素晴らしさの中に。

 

欲望こそ

冥想の至福の母である。

 

素直でなければならない。

悟りとは素直であるということだ。

 

 

もし本当に本当に生きたいのなら

水晶のように透明で

自分に絶対の自信を持っていなければなら ない。

 

絶対の自信には

どのような外的理由も条件もいらない

ただ絶対の自信を持つのだ。

 

信じるものは幸いなり。

 

 

君は必ず死ぬんだよ。

君は現象世界の虚しさを見ているんだよ。

 

欲望と戦っても無駄だ。

欲望を抑圧するのではなく

欲望のはかなさを直視すればいい。

今から一分後に

君と君の見ている宇宙は終わるのだから。

 

代用品としての欲望は

どこにも行き着かない。

宇宙意識は、君の正真正銘の欲望を

求め続けている。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

※宇宙意識:ニルヴァーナ

 

『君の激しい欲望は

君の見ている現象世界のトリックを

見破ることだろう。』

欲望は性欲限定でも出世欲限定でも資産増大限定でもない。欲望が自我の極大化を経て絶望に至り、隙間からニルヴァーナを望見するには、欲望は激しくなければならないが、それだけが宇宙意識への順路というわけでもない。

だが、激しい欲望だけが、『現象世界のトリックを見破る』ところまで連れて行く。そのために、自意識の最深部の『本当に願っているもの』を捜さねばならない。それは、若い時は往々にして魂の伴侶を求めることだったりするのだが、誰もがそううまくもいかないものではある。

 

本当の絶望の先に真の冥想がある。

 

『悟りとは素直である』とは単純明快だが、そう簡単でもないことが、覚者たちの修行記録を読めばすぐにわかる。それでも素直であることは基本中の基本。

 

『水晶のように透明で 自分に絶対の自信を持つ』とは、クリスタル・ピープルあるいは水晶身魂が念頭にある。つまり最低でも神仏を見た人物のことである。仏教なら菩薩のこと。未悟の人が、自分に絶対の自信を持ってもそれだけでは使えない。それが、『外的理由も条件もいらない ただ絶対の自信』を持つということに示されている。

 

欲望により自我が極大化すれば、死が視界に入って来る。若い時は、自分も親も元気だし、死と言われてもピンとこない人が多いのだが、自分の死とは、自分の肉体だけ死ぬのではなく、恋人も愛人も家族も親も子も、人間関係も地位も名誉も財産もすべて失うのだとは思い至らぬことが多いのかもしれない。

 

2023 World Baseball Classic 決勝の最終回大谷翔平選手VSマイク・トラウト選手の対決時は絶体絶命だった。たまたま大谷翔平選手が勝ったからあまりそのことには皆触れない。

2011年は、先に東日本大震災があって、後に相当に奇跡がかった FIFA女子ワールドカップのなでしこジャパン優勝があった。

 

このような強烈な欲望成就のための試行錯誤を経てあるいは経ずして、欲望のはかなさを直視するという『冥想』が起こることを期待されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想法をそもそも用いないやり方

2023-03-26 06:51:04 | 覚醒のアーキテクチャー

◎冥想法の区分

 

冥想法の区分で知られているのは、すぐ悟る頓悟と徐々に悟る漸悟。頓悟と言えば、黙照枯坐の只管打坐と看話禅の区分が有名だが、現代においては、すぐに悟る只管打坐と徐々に悟るクンダリーニ・ヨーガということになろう。クンダリーニ・ヨーガには、密教、道教内丹、古神道、西洋錬金術などを含む。

 

この区分のやり方の他に、そもそも冥想法を行わないという区分もある。それを唱えたのがクリシュナムルティであり、OSHOバグワンによればサーンキヤ哲学もそうなのだという。

 

OSHOバグワンの説明では、行、あるいは冥想法は、すべて頭(マインド、思考、想念)を用いる。頭を用いる極みにまでいって、頭のなくなる無心、ノーマインドという悟りの発生を求めるやり方が冥想である。(思考は言葉で行われる。言葉とは音である。)

つまり目的である無心とは逆方向に頭の作用を冥想により極限まで強化して、頭をジャンプ台として使って、最後は無心に到達しようとするやり方である。

だが、このやり方には、頭の作用を冥想により強化していく中で失敗する可能性もある。

 

そこで、これに対して、クリシュナムルティとサーンキヤは、冥想とは頭を必ず用いて冥想するものであって、頭を使わないところを究極の目標にするのであれば、最初から冥想しないのがよいと考える。

サーンキヤ学派は、自己(プルシャ)と原質(プラクリティ)の二元論であって、その極めた果ての知識が悟り。

 

サーンキヤ・カーリカー第64頌

『六四

以上のように真理に習熟して<私はしかじかではない、しかじかは私のものではない、しかじかは私ではない>というように完璧に誤謬がなくなれば、清浄で純然な知識が生ずる』

(インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 シリーズ・インド哲学への招待 宮元 啓一/著 春秋社P179-180から引用)

 

要するに「清浄で純然な知識」が悟りであり、「完璧に誤謬がなくなること」が悟りが起こる前提条件なのだと思うが、どうすれば、「完璧に誤謬がなくなる」のかはわからない。

 

冥想法がないあるいは冥想を否定しているのはこの点であって、クリシュナムルティもあらゆる瞑想を認めなかった。

 

だが、ダンテス・ダイジは、そのやり方には限界があることを見てとって、自ら「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を出版するに至った。

 

このように頭を使わないこと、すなわち無心の先に悟りがあることは間違いないが、冥想法を用いない方法で悟った人もいることも承知しておくべきだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞き守ることと沈黙

2023-03-25 06:58:56 | 覚醒のアーキテクチャー

◎音の入って来ない一点

 

電車に乗ると結構な人が耳にイアホンを刺して音を聞いている。日常生活では、スマホの音でなければ、テレビやタブレットの音を聞いている人が多い。

 

クンダリーニ・ヨーガでは、音を聞き守るという冥想法がある。放っておけば、あらゆる音がやってきて、自分を貫き、自分を取り囲む。

 

そうしているうちに、どんな音も入って来ない一点があることに気がつく。この一点をOSHOバグワンは、無音性と云い、これが生の中心だと指摘する。

 

OSHOバグワンは、あらゆる音が自分に向かって飛んでくるが、その音とともに進めば中心に到達するとする。(ヴィギャンバイラブタントラ4巻沈黙の音P40)

 

音は、自分から外へ、外から自分へと双方向の方向性を持つ。この音の双方向性によって、人間は社会性を保持している。

 

そこで悟りの技法として外から内に向かう技法を用いるのは理にかなっている。

どんな音も入って来ない一点に向かうのだ。

 

音には、外から入ってくる音と、外に向かう自分が発声する音がある。聞き守るという行では、音は外から自分への一方通行であって、その音とともに、音も入って来ない一点に進む冥想法となる。

 

これとは逆に、できる限り外からの音を遮断して、無音あるいは沈黙にいることで、音のない中心を感じようとする冥想法がある。

 

沈黙は、自分から外への発声をしないことだが、発声しないことを続けることにより、最終的には、どこから発声の音が出ているかに気づかせる技法と考えられる。

 

掌や指で耳をふさいでも音は聞こえる。完全に無音になるには、聴覚テスト用の無音室に入ったり、宇宙飛行士のように宇宙空間に出なければならない。無音室に入った直後は、無音に慣れていないので、ちょっと気分がくらくらする。

宇宙飛行士は、無音環境での生活を強いられる上に、予期せぬ生命を脅かす突然のインシデント対応が必要になる苛酷な職業だと思う。

 

完全に無音になっても、音は聞こえる。呼吸の音、鼓動、胃腸のごぼごぼ。そして無音に切り替わった直後は、直前の音の残響や脳が作り出す音もある。

 

つまり物理的に無音にできるかどうかが課題なのではなく、沈黙という音声を発しない状態を継続して、他人とのコミュニケーションを断ち、音のない中心を感得できるかどうかが問題となる。

なお、長期間の沈黙には弊害があって、OSHOバグワンは、以下を挙げる。

1.三年以上沈黙すると、再度音の世界に戻れなくなる。

2.三年以上沈黙すると、他人とのコミュニケーションが非常に苦痛となる。

(出所:上掲書p49-50)

 

インドのメヘル・ババは40年以上沈黙し、その期間中何度も発言しようとしたが、ついに言いたいことを言わずに死んだ。キリスト教の聖女の中には、修道院の中の個室に籠って、半生を沈黙に過ごした話が時々あるものだ。

 

また冥想修行者が沈黙しているからといって、誰もが高級神霊とコンタクトを行っているわけでもなく、本当に沈黙に打ち込む者たちもいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひらがなの意味

2023-03-24 06:25:20 | 古神道の手振りneo

◎世界創造の道具

(2009-03-16)

 

世の中には姓名判断のようなものがあるが、その原理には、画数の数字の部分と音の部分があり、仮名48音のそれぞれの意味がある。その説明がどこに由来するものか不思議に思っていたが、これは出口王仁三郎が太鼓判を押しているものなので、信用できるものと思う。

 

霊界物語では、いろは歌は空海の創作ではなく、霊界最奥の太元顕津男の神の言霊から出てきた神歌とする。48音は、世界創造の具材であるが、罪けがれのある世界のものだから、クンダリーニ・ヨーガの世界観のものであることがわかる。

 

ネガティブな意味を充てている字は少ない。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也とは、ニルヴァーナの謂いだろうか。いずれにしても世界に鳴り鳴りて響きわたる父音、母音を聞くような集合的無意識にあって聞こえる言霊のことだろう。

 

たとえば太郎の「たろう」なら、

【た】は円満具足の意也。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

となり、大体がポジティブな意味が配当されているが、自分の名前で見てみるとそれなりに思い当たることがあるもの。

 

【い】は水と火の並びたる象徴也、右は水、左は火。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、宇宙に開く言霊を、【は】といふ。

言霊宇宙に開きて前後左右に活用く象は、【に】也。

此の活動によりて一つのヽ現はる、即ち、【ほ】の言霊也。

【ほ】は次第に高く昇り膨れ拡がる態を、【へ】といふ。

【と】の言霊は水火の完成したる言霊也。

水火完成して宇宙に滋味を生ず、之を【ち】といふ。【ち】は子を育つる母乳の意也。又万物発生の経綸場たる大地の意也。

 

【り】の言霊は女男二神水火を合せて並び立たせる言霊也。

【ぬ】の言霊は互に和らぎ寝み温かき心を以て神業に尽す水火の象也。

【る】は夫婦の道又は天界の総ての定まりし言霊也。

【を】は心也。

 

【わ】は和らぎ睦み御子を生み給ふ態を言ふ也。

【か】は抱へ合ひ、輝き合ふ意にして、俗言に嬶といふも此の言霊の意也。

【よ】は夫婦二神世帯を持てる象也。

【た】は円満具足の意也。

【れ】は夫唱婦随の意也。

【そ】は上下四方揃ふ意也。左右の指の五本と五本と合せて拍手せし態也。

 

【つ】は永久に続く意にして世人のいふ玉椿の八千代までといふも同じ。

【ね】は懇にして夫婦同衾の意也。

【な】は二人並ばし寝給ふ象也。

【ら】は左旋右旋の意にして婚ぎの時の態をいふ。

【む】は蒸し蒸して生し蒸生し息子娘を生むの意也。

 

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也。

【の】は一物より迸る水気の意也。

【お】は穏かに修まりし心。

【く】は夫婦組合ひたる象。

【や】は弥益々の意。

【ま】は誠の心を以ちて幾万年も夫婦の道を守らむとの意也。

 

【け】は身の汚れの意也。

【ふ】は吹払ふ言霊にして男女の汚れを吹き払ふの意也。

【こ】は子にして、

【え】は胞衣也。

【て】は照り輝く意にして、暗夜の神業も終局の時火を照す意味也。

 

【あ】は暗室に点じたる火によりて一切のもの現れる意也。

【さ】は避くる意にして男神は女神の面を見る事を避け、又女神は男神の面を見る事を恥らひ避くる事の意也。

【き】は気の高ぶりて心いそいそする意也。

【ゆ】は豊かの意にして仲の好くなりし言霊。

【め】は木の芽を吹き出す如く御子の種宿り始めたる意。

【み】は弥々胎児となりし言霊也。

【し】はしつくりの意にして、茲に愈夫婦らしく初めて落ち着けるの言霊也。

 

【ゑ】は歓ぎ喜ぶ意にして、御子の生れたるを見て互に笑み栄えるの言霊也。

【ひ】は日子日女の意也。

【も】は催合ふ意にして、一家和合の言霊也。

【せ】は川の瀬の意にして、夫婦の仲に一点の邪曲もなく清らかなる態の言霊也。

【す】はいよいよ澄みきりて親子睦じく世に住む言霊也。』

(霊界物語73巻より引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文字と音

2023-03-24 06:19:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎マントラの前後

 

思考は言葉で行われる。

言葉とは音である。

思考で宗教、哲学、文明が構築されるが、その根底には音がある。

 

音をさらに探れば、奥底に感覚がある。人の言葉には意味があり言語となる。一方、鳥獣の発する声には言語としての意味はないが、感覚としての意味がある。母を呼ぶ、求愛など。

 

アオウエイなど特定の音には特定の感覚が結びついている。これは、出口王仁三郎の75声の一覧表や彼の〇〇言霊解などを読めばおおよそのイメージはつかめる。

 

それら各音の特定の感覚を組み合わせて世界各地でマントラが研究され創出された。

 

アーメン、カミ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、無(禅の無字の公案)、隻手(禅の隻手の公案)等々いくらでもある。

 

マントラによってその効果は異なり、ネガティブな効果のものもあり、その辺は、覚者たちは知っているが公開するということはないことが多い。

 

出口王仁三郎はス字本義を唱え、空海は阿字本義を唱えるが、それは世界の構成原理なのだろうが、あくまで「特定の感覚」であるにとどまる。

 

言葉から、音、そして感覚に進むということは、六根(眼耳鼻舌身意)で言えば、目(視覚)から、耳(聴覚)、そして身に進むのだが、その身は触覚だけではなく、微細身の感覚まで想定している。感覚にとどまっているのでは、すべてを振り捨てて大悟覚醒には進めない。

 

よって、あくまで本来の自己、一円相、神仏を目指すプロセスにおいては、言霊、マントラすら棄てねばならないことになる。

 

新約聖書ヨハネによる福音書には、「初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。」などと書いてあるが、最後は言葉をも棄てないと神には行けない。

 

それを前提に、ダンテス・ダイジは、この粗雑な言葉の飛び交う現代において、マントラの精妙なニュアンスは有効とは見えないというようなことを言っている。だからマントラ禅で用いるマントラは何でもよいということまで言っているが、それは、マントラの精妙なる効果に期待しても悟るのはなかなか大変であって、むしろ最後はマントラをも棄てることで悟りに到達することを意図していたのかもしれないとも思う。

 

言葉を冥想して、その音の意味を感得し、言葉自体の不毛なところを見抜いてこだわらなければ、言葉、音、その奥にある特定の感覚からも自由になることができる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年WBC決勝日本対アメリカの勝因

2023-03-23 07:19:37 | 時代にFace it

◎奇蹟の勝利

 

星一徹が息子星飛雄馬に茶の間の壁の穴から外の木に向かって一人キャッチボールをさせていた時代から、2023年3月22日のWBC決勝日本対アメリカの日本勝利は不思議なものだった。

 

外形としては、投手力に優れた日本が米国のオールスター打線をホームラン二本に抑え込み、日本打線も米国の一流セットアッパー・クローザー陣(先発投手はほぼ招集されていない)から、ホームラン二本を含む三得点を挙げたから勝てた。特に継投は先発今永から戸郷、足が震えてやばかった高橋宏、伊藤、大勢、最後はダルビッシュ、大谷とつないだのが栗山監督の采配の妙だったなどという風に書かれている。

 

だが本当にそうなのか。栗山監督以下の日本首脳陣が描いたように試合が進むならば、準決勝の対メキシコ戦は、佐々木朗希と山本由伸を4イニング目までひっぱったことで二度メキシコにリードされることはなかった。たまたまメキシコのクローザー・ガイエゴスの直球が走っていなかったから、たまたま三冠王村上がサヨナラ打を打ったから逆転勝利を得たのであって、監督の采配の妙ではなくて、最後は一種の奇跡が起きたと見るべきだろう。

 

準決勝でそれほどまでに事前の計画、目算がはずれた姿を見れば、決勝で計画通りに日本の7投手陣が抑えたのは、全く望外のことだったのではないか。特に2点リードの8回にダルビッシュを投入しソロ・ホームランを打たれ一点差になって、大谷登板時にランナーを一人出したシーンは一発逆転のあるシーンだった。

 

その時、江夏の21球(1979年の日本シリーズ第7戦近鉄対広島で、江夏投手が無死満塁を切り抜けた故事)ではないが、ブルペンに他の投手が準備して、大谷の集中を乱していたのかどうかはわからない。

 

大谷は、ベッツ(2017年アリーグMVP)に対して、なんと外角低めに直球二球を続けてセカンドゴロ併殺に打ち取った。そして最後は、MVP3回のトラウトを三振に切ってとり、勝利を得た。

 

決勝が終わってみれば、日本の7投手継投は、おそらく事前の計画どおり運んで、特に最後のダルビッシュ、大谷のリレーもうまくいった。そして村上、岡本の長距離砲もさく裂し、なにもかも事前の計画通りうまく行った。だから栗山監督の采配はすごいなどと報道されている。

 

ところが、準決勝のサヨナラ勝ちシーンで全員がペッパーミル回しを忘れるほど歓喜したぐらいに準決勝は采配ミスが積み重なっていたのではないか。

 

首脳陣の采配や計画、予想があてにならないということを見た直後ながら、逆に決勝では、あまりにもすべてがうまくピタリピタリとはまった。これは明らかにさかしらの人為のなせる業ではない。

 

そこで勝因を探れば、あくまでWBC勝利を願った大谷の観想法に行きつくのである。彼は少年の頃からWBC勝利を観想し、マンダラチャートでやるべき項目を列挙しその通りに努力実現してきた。

 

それは、やるべき善行項目、やってはならない悪行項目を並べて毎日実践した功過格の実践と同義である。それはカルマ・ヨーガだが、加えて地道に努力する人には天祐があるもの。それが、2023年WBC決勝だった。

 

大谷の夢が実現したのを見て、海外メディアは、大谷は人間ではないなどと書いているのもあるが、それももっともなことである。その試合で4回打席に立って後、最終回にクローザーをやることだけでもすごいが、気力が切れず衰えず、実現しきったところに人間を越えたところを感じたのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万物の根本(祖)に浮遊して生きる

2023-03-22 06:08:16 | 浅い霊感から神人合一まで

◎荘子山木篇

 

荘子は、一般には儒教のアンチテーゼとして読まれているが、クンダリーニ・ヨーガ系の内丹と思われる坐忘という冥想法を基盤とした冥想家の言である。とかく世間的に役に立たないものがよいなどというところが強調されるが、禅の南泉が犬猫牛馬のように生きましょう(異類中行)と唱えるのと同じで、世間的に役に立たないことを強調しているわけではなく、世間的に役に立つとか立たないとかを問題にしない生き方を説いている。

 

荘子山木篇から

『荘子は弟子とともに山中に入り、枝葉の繁茂した大木を見つけた。木こりは、その木を切り倒そうとはしない。木こりにその理由を尋ねると、「あの木は使えないから、伐らない。」という。荘子は「あの木は使えないがゆえに、天寿を全うすることができる。」

 

その後、彼らは山を降り、旧友の家にやっかいになった。古い友人は喜び、雁を殺してご馳走しようとした。召使が「鳴く雁と鳴かない雁がおりますが、どちらを殺しましょうか?」友人は「鳴かないほうを殺しなさい」と命じた。

 

翌日、弟子が荘子に質問した「使えない木は天寿を全うしたのに、鳴かない鳥は殺されてしまう。先生はどこに基準があるとお思いですか?」。

 

荘子は笑って言った。「じゃあ私は、役に立つものと、役に立たないもの中間に居よう。しかし、中間にいるというのは、決して本当の道ではない。世の中の災いから逃れることはできない。道徳に則って生きる者は正解ではない。

誉もなく謗(そし)りもなく、龍や蛇になるように、時の流れで変化して、ひとつの立場にこだわらない。上がったり下がったり、他と和することを以て度量があるとする。万物の根本(祖)に浮遊して、物を物として物において物としなければ、煩わされることはない。

これすなわち神農黄帝の法則である。

 

ところが、世俗、人倫の事情はこれとは違う。出会いがあれば別れがあり、成功があれば失敗があり、清廉だと挫かれ、高い位のものは批判され、何かをしようとすれば妨げられ、賢明であると謀略にあい、暗愚であると欺される。何かを得て全うすることなどできない。悲しむべきことだよ。弟子たちよ、記しておけ。ただそれは道徳の郷だけが免れ得ると。」』

 

荘子の時代の中国人は、生きていくためには、鳴く雁である必要があったが、現代中国人も同様なのだろう。中国は、いつの時代も生きること自体が苛酷な国であって、荘子のような生死を超えた説を唱える文にあってすら、どう日々を生き延びていくかが最優先課題となっていることが影を差している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体外の一点への集中について

2023-03-21 06:54:55 | 覚醒のアーキテクチャー

◎内的中心に投げ返される

 

合気道も達人クラスになると指先から○センチ先の一点に力を集中してなどと身体外のワンポイントを集中点とすることがある由。

古神道でも鎮魂法では、鎮魂石という体外の一物に一心不乱に意念を集中するという技法がある。

 

このメカニズムについて、OSHOバグワンが説明している部分がある。(112ある冥想法中第13番目の技法)

『13 ひとつの対象にトータルに集中する

 

あるいは、孔雀の尾の五色の円を、

自分の五感として無辺の空間に想像する。

それから、その美を内側で溶かす。

同様に、空間や壁面の点についても、その点が溶け去るまで・・・・・。

そのとき別なるものへの、あなたの願いは実現される。

 

 

これらのスートラすべての主題は、どのように内的中心を成就するかだ。そこに使われる基本的メカニズム、基本的技法は、次のとおりだ。もし、外側にセンターを創り出すことができれば――それはどこでもいい、マインドの中でも、ハートの中でも、あるいは外部の壁面であっても、

もしその上に集中しきって全世界を括弧外に出したら、もし全世界を忘れ一点だけが意識の中に 残ったら、突然あなたは内的中心に投げられる。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO/市民出版社 P26-27から引用)

 

この最初は、五色の孔雀の尾を対象として行う観想法。対象が観想用ビジョンであっても空間や壁の点でもよいが、それにトータルに集中することによって、集中しきった瞬間に、頭(マインド)から内的中心に投げ出されると言う技。

 

この技法について、OSHOバグワンは、色彩の感性がとても優れている人に向いている。つまり、夢は100人中99人が白黒で見るが、夢をカラーで見る残りのたった一人の人がこの冥想技法に向いている。色彩感覚に優れた人向けの観想法であることをも注釈している。

そして特に色彩感覚に優れてない人は壁面の点や空間を使う。まばたきをせず、その点が溶け去るまでやる。まばたきをすると一瞬の隙間が生まれるからである。人は頭(マインド)で点を見ているが、一点を見続けることで頭は止まり点が溶ける、内なる中心アートマンにつながる瞬間があり得る。

この技法で内的中心に投げ出されたら、外もなく内もなく純粋な意識としてそこにある。内的中心と言いながら、外もなく内もなくと表現されている。

 

キリスト教でもイエスの一生の出来事を観想してイエスに成りきるという技法は多用される。

 

七つの身体だから身体以外のポイントを用いるには抵抗のある人もいるのかもしれないが、冥想技法の実情はこのとおり。

組織宗教で、よく教祖を崇拝するわけだが、自分の身体外の他人である教祖を崇拝するとか成りきるというのも、身体外のポイントと言う点では、同じ流れと見ることもできる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二重の夢で成る人生-3

2023-03-20 07:38:10 | 覚醒のアーキテクチャー

◎悟りに耐えられるかどうかということと冥想法

 

肉体死で、誰でも必ず出会う神に相当する原初の光。あるいは臨死体験が起きても誰もが神に出会うわけではない。

 

神に出会うことを悟りと呼ぶが、そうしたシチュエイションにおいて、誰もが神に出会っていたとしても、誰もがそのことを認識するわけではなく、むしろ認識する人の方が少ない。

 

こういうものを「起こることは、起きたが、何が起きたかはわからなかった」などと評価することがある。

また私の知る限り、悟りは個人から宇宙全体へのジャンプの瞬間であり、個人から宇宙全体へのジャンプの間に段階などはない。

 

このような実情を踏まえ、冥想には悟りに至る冥想法と、悟りに耐えるための準備の冥想法しかないことがわかる。

その伝で行けば、今日只今の人間については、悟りに耐えられる人間と悟りに耐えられない人間がいる。そこで悟りに耐えられる人間には、悟りに至る冥想法が与えられるべきであり、また悟りに耐えられない人間には、悟りに耐えるための準備の冥想法が与えられるべきである。

 

ちなみにOSHOバグワンは、10巻本のヴィギャンバイラブタントラ第一巻の中で、直ちに悟りに至る冥想法は7つあると述べている(ちなみにこの本には112の冥想手法が紹介されている)が、悟りに耐えられない人間には実際のところ使えないことを明らかにしている。

 

誰でも「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」(深い方の夢)という悟りを持って生きているが、それに気づかないだけ。それに気づかずほとんどの人が、「起きて活動している時間帯の自分という夢」(浅い方の夢)に生きている。これぞ、酔生夢死であって、浅き夢みし酔いもせず。これを前提に、覚者たちは、誰でも今ここで悟りを開くことができるし、万人が神性を有していると胸を張って唱えているだけのこと。

 

世間では、只管打坐が急速に悟れる冥想法(頓悟)として有名で、クンダリーニ・ヨーガ系(古神道、内丹、密教を含む)は、徐々に悟れる冥想法(漸進的)として知られる。

 

しかしながら以上のような議論を踏まえれば、徐々に悟る冥想法などはない。悟りはワンステップで起こるからである。

実際のところ徐々に悟る冥想法はなく、悟りに耐える冥想法があるだけである。

 

新約聖書のパウロ(サウロ)は、悟る際に死にはしなかったが、何日か盲目になった。悟りに耐えられない例というのはそういうこと。

 

万人が一斉に悟りに気づくことのできるタイミングがあるであろうことは、古来から知られている。最後の審判、凡夫の耳も菊の年など。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

役行者が己の骸骨に出会う

2023-03-19 06:53:40 | 修験道neo

◎トラウマを超えて

(2006-11-15)

 

修験のパイオニア役行者の出現以前も以後も、奥駆けを中心とした山岳での修練が盛んに行われた形跡はないようだ。それほど当時の山の生活は厳しいものであって、まして何十日も山を縦走しながら修行するというのは命懸けであったに相違ない。

 

大峯山は古くは金峯山(きんぷせん)と呼ばれ、吉野川の川岸から山上ケ岳あたりまでの山系の総称である。役行者でさえ未踏の新山に踏み込むには慎重であり、初めて大峯山上ケ岳に登ったのは37歳の時(役行者本紀)。

 

667年役小角は大峯の奥駆けをスタートし、吉野から熊野へ旅立った。役行者が山上ケ岳山頂付近の洞窟で孔雀明王と不動明王を一心に祈念していると一体の骸骨を見つけた。

 

その骸骨は右手に利剣、左手に独鈷杵を持っていた。すると御告げがあり、「役行者は、この山で生を受け生を終わること7回で、この骸骨は3回目のものである。」そこで千手陀羅尼と般若心経を唱えると骸骨は利剣と独鈷杵を小角に渡した。また釈迦ケ岳には第五生、小笹にはすでに眼窩から若木が生えた第六生の骸骨が残っているとされる。

 

役行者は、この独鈷杵を鋳直して孔雀明王像を作り、また利剣は八経ケ岳に埋めたがこれが八剣山とも呼ばれる由縁。

 

役行者は大峯の洞窟で己の前世についてのアカシック・レコードを見たのだろう。

 

人は、前世やら過去世やらで潜在意識に蓄積された傾向によって、その行動や思考を縛られている。それは、最後には必ず自分を振ってくれる人を恋人に選んだり、美少女ゲームにはまってしまうことや、オンライン・ゲーム中毒になったり、果ては、○○愛者であることや、下着フェチや○○倒錯や色情狂であることの原因でもある。

 

人がこうしたことを繰り返すのは、基本的には自分の潜在意識の奥深くにあるトラウマ(外傷体験の記憶)により行動や思考の悪循環を起こしているためである。ところが本来の自分というものは、その悪循環を超えた本当の自由闊達さを生きることができるものなのだ。

 

役行者は過去世の骸骨を見たことをきっかけに、本当の自分に出会ったかも知れないが、平素からの真摯な冥想訓練により本来の自分に出会う練習がないと、きっかけがあったとしても、なかなかそうなるものではあるまい。

 

大峯と髑髏と言えば、陰陽師、安倍晴明が花山天皇の頭痛の原因を探ると、天皇の前世の髑髏が大峯の岩にはさまって、雨の日は膨張した岩でしめつけられるため、頭痛がするのだと奏上して快癒に導いた事件もある(古事談)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする