◎同床異夢
(2010-05-03)
一連のオウム事件で感じたのは、若者のまともなスピリチュアリズムへの渇望であった。事件の総括もあるのだろうが、当時盛んに論じられた「どうして若者がまともでない新興宗教(カルト)に惹きつけられるのか」という点の総括については、必ずしも結論めいたものが社会の共通認識としてできたとは思えない。若者をとりまくその状況は、悪化しこそすれ、ほとんど変わっていないのではないか。
『オウムを生きて「元信者たちの地下鉄サリン事件から15年」/青木由美子編/サイゾー』では、松本死刑囚の娘や信者たちの体験談など盛られている。一連のオウム事件が起きて、宗教界からの反省もあって、もっと情報公開しなければならないということで特にチベット密教関係の書籍が沢山出版された一方で、真言密教や天台密教で著作が増えたという様子でもなかったように思う。
おかげでチベット死者の書は何種類が出版された上に、観想法を中心としたチベット密教の冥想テクストが多数出版されて、チベット密教の様子が大分わかったのはありがたかった。問題となったポアについては、いわゆるターミナル・ケアの延長線で行われている死に行く人への誘導をポアと呼ぶ場合と、本当に修行の延長で死の世界を覗きにいく場合があるのがわかったが、後者については、頭頂に物理的に穴があくみたいな妙な話しか残っておらず、そのものズバリの真相は、ヒントはあるものの、文書にはほとんど書かれていないようだ。
また印象に残っているのは、ダライ・ラマの悟境であって、見神・見性の体験は間違いなくある人であると確信している。彼の著作は多いが、妙なことは書いていないし、真理や善などの観点からぶれることがないし、チベット密教の教理や修行の実際についてもかなり迫真のことまで説明してくれているからである。
その後日本にもリンポチェと呼ばれる高僧も来るようになったし、チベット密教が観想法を中心とする修行体系のまともな伝統宗教であって、中国により祖国を追われたことも多くの人に知られるようになって、チベット密教の本当の姿が知られるようになったのは大きかった。
『オウムを生きて』については、サリン事件被害者5千人の影が全体として重く差しているのは隠れようもないが、クンダリーニ・ヨーガを修行の中心としてやっているとしているところは気になった。いまだに超能力志向のようだし、現世利益を否定しないようだし、それでは人間の哀しみとどう向き合っていくのか疑問に思った。人間はどうしようもなく、結局救われることのないものだと思い知るから、サハスラーラ・チャクラから脱身するのではないだろうか。人間は救われることがないという立場では、現世利益はもう通用しない。
クンダリーニ・ヨーガという言葉は、本来チベット密教でも真言密教でも天台密教でも(クンダリーニは軍荼利)共通語彙である。当然冥想メソッドも観想法を中心とするもので、肉体チャクラからエーテル体チャクラ、アストラル体チャクラへと進む順路があるはずなのだが、妙な指導者の手によって進路が曲げられることはあるのだろう。それはチベットでもあったこと。
肉体チャクラのことしか知らない人は、クンダリーニ・ヨーガ指導の看板を出してはいけないと思う。悟った人だけが法を説く資格があるからである。クンダリーニ・ヨーガで窮極を極めた人は、いま日本に一人でもいるのだろうか。