アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

六条御息所と世界の見方

2024-03-31 16:04:04 | 密教neo

◎霊のある世界、神仏のある世界

(2021-08-28)

 

光源氏という懲りないプレイボーイに捨てられた女は数多いが、彼女らがすべて彼を怨みに思い、執念深く付け狙ったわけではない。六条御息所だけが執念深い女であり、その他の振られた女は都合の良い女だったという構成は、現代から見ればいかがなものか。

六条御息所は、物語の最初の方で光源氏に振られ、生霊が妊娠中の葵の上を悩ませ、葵の上は出産後急死。六条御息所は、死後も紫の上に死霊として出現し、光源氏に捨てられた恨み言を言い、紫の上を一旦危篤に陥らせる。

また光源氏と柏木との三角関係に苦慮した女三宮は、実は六条御息所の死霊が憑依しており、女三宮が出家する原因となった。

この世界観は、individualな個人霊というのが生前も死後も存続し、病気になるのも、死の原因になるのも、男女関係に影響を与えるのも霊だというもの。

もっとも同時代人の空海も病気の原因は霊のせいだという世界観を否定していないので、源氏物語は、まさにそういう世界観の産物である。

出口王仁三郎も、『本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。』(玉鏡/流行性感冒)と述べ、同様の世界観に生きている。

今、われわれは、新型コロナはワクチンで重症化を防ぐことができるなどという霊とは無縁の世界観に生きている。

ひと口で世界観の相違というが、我々は飛行機に乗って海外に降り立てば、そこに全く異なる世界観の人物が全く異なる世界観で生きていることを感じるものだ。

霊の有無の世界観の相違だが、今本当に問題なのは、神仏があるとする世界観、神仏がないとする世界観のことである。時代はまさに神仏がないとする世界観の底の時代にあり、きちんと神仏があるとする世界観に反転できるかどうかが問われている。

それは他人のひとごとではなく、自分が反転できるかどうかということなのだ。

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虚空蔵菩薩求聞持法もいろいろ

2023-10-21 11:43:11 | 密教neo

◎洗脳に無防備な状態

(2009-11-24)

 

あの覚鑁(かくばん)ですら、虚空蔵菩薩求聞持法を9度も満行しないと、ものにならなかった。

この行法にチャレンジしていると、いろいろなことでダメになることがある。以下は、渓嵐拾葉集にある記事。

1.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法に打ち込んでいる時、まず大海の塩水が道場の外にひたひたと満ちてきた。そのうちに潮水は、道場の中に波打って入り込んできて、行者と本尊の他にはことごとく大波が打ち寄せてきた。

驚いた行者は、行をやめてこの場を去って逃げ去った。それから程なくして、帰ってみると水もなく波もなかったそうだ云々。

 

2.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法に打ち込んでいる時、金星を拝見する窓の間から死人の首が突然現れてきて、だんだん巨大化して道場の中に一杯に充満するほどになった。杖を振り回して追い払おうにも振るだけのスペースがない。

しょうがないので行者はこの場を引き払って逃げ去った。

 

3.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を積んで、結願の時に当たって露地の儀式を執り行っていたところ、乳器の上に肉のついた馬の足が突然出現し、その臭いことは卒倒するほどだった。行者はやむなく立って、これを取って遠くに捨てたが、このために行を妨げられることになった。

 

4.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を行っている時、壇上に乾糞の雨が降ってきた。これを取り去るために仏壇を西に寄せたり、北に寄せたりしたが、とても行法の邪魔になった。

 

5.またある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を積んで、ようやく結願の時になった。すると、金星を拝見する窓から、突然鳶が飛び込んできた。鳶は壇上でバタバタ羽を打ちつけまくり、肝心の乳(この行で用いるもの)をこぼして、行の邪魔をしてくれた。

 

6.またある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行をしていたことろ、黒犬がにわかに走り込んで、乳を食ってしまった。

 

意識レベルが落ちているといろいろなことがある。行者の方も、そんなのには慣れているはずだが、まましてやられる。首尾よくこれに引っかからなくて、満行成就しても何も起こらないかもしれないということもある。

テレビや映画を見るのも、それに入り込めば結構意識レベルが落ちていることがあるように思う。それに気がついていないというのは、洗脳されやすいということに自覚がないことでもあり、怖いものがある。日本人は、つい先だって素直に現人神洗脳でやられたばかりではなかったか。

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ヨーグルトと明星

2023-10-21 11:39:07 | 密教neo

◎虚空蔵菩薩求聞持法の周辺

(2009-11-28)

 

釈迦は6年間の苦行を捨てて、ヨーグルト(乳糜)を食べて体力を回復し、菩提樹下でメディテーションに入った。

そして、中国に伝わった最古の仏伝とされる修行本起経では、釈迦の覚醒時、『明星が出た時、釈迦は廓然として大悟し、無上の正真道を得た。』とする。

キーワードはヨーグルトと明星。ヨーグルトを食し、然る後に明星が出た途端に大悟したという二つにアクセントを置いた修行法、それが虚空蔵菩薩求聞持法のステップの中にある。

空海が虚空蔵菩薩求聞持法の典拠としたものは、善無畏訳「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」とされ、今残っている最古の求聞持法テキストは、覚禅鈔(求聞持同異説)か阿娑縛抄(第百四)(承澄作)とされる。

このテキストに、蝕とヨーグルトのことやら、虚空蔵菩薩のイメージ・トレーニング(観想)をしながら、マントラ百万遍を唱えることが書かれてある由。

またその中に毎日早朝(後夜)、明星を拝む手順があるが、朝に金星を拝めるのは一年のうち半分だけなので、蝕日を満行の日とし、また金星が朝出ている時期を修行期間に当てるという当時ではかなり高度な天文知識がないと修行期間の設定すらできなかったのではないだろうか。

空海はあらゆる経法の文義を暗記する力を得るために、高知県室戸崎で虚空蔵菩薩求聞持法を修した。すると谷響を惜しまず、明星来影した。ごうごうたる阿吽(オーム)の響きたる谷響のうちに、明星がやってきたということだろうか。(空海はヨーグルトにはこだわっていないようだ。)

中心太陽は、クリシュナムルティには星と見えたことがあり、ダンティス・ダイジでは紛れもなく太陽と見えていることから、空海がだんだんと中心太陽に接近する様子を「明星来影す」と表現している可能性がないわけではない。

いずれにしても明星とヨーグルトで、求聞持法の修行者は自分を釈迦に擬する。

明星来影について、空海はそれ以上明かにしなかったし、覚鑁(かくばん)も何が起きたかについて多くは語らなかった。

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ダライ・ラマとアメリカ

2023-08-27 06:37:09 | 密教neo

◎弱腰な対応に終始

(2010-09-14)

 

中国がチベット侵略の意図を明白に見せたのは、1950年7月の昌都の北東200キロにある小さな国境の町を中国人民解放軍が制圧したのが始めとされる。

以後正規戦、ゲリラ戦を織りまぜて、特にアメリカ・CIAの支援を受けながら、チベット全土で、中国に対する抵抗が行われていた。既にチベットからは外交主権が奪われていたが、ダライラマは中国との直接交渉によって事態を打開できると信じ,北京まで交渉に行ったが、結局その交渉は失敗に終り、ダライ・ラマ自身が1959年インドに亡命するまでチベット領内での散発的な軍事的抵抗は続いていたのであった。

チベット側の全土を挙げての組織的な軍事的抵抗計画に対して、終始拒否権を発動し続けたのはダライ・ラマであって、彼の側近達ではなかったようである。これは、いままでの坊さんが書いたものばかり読んできた私にとっては意外だった。

1959年のダライ・ラマ脱出の直前に、中国によるダライ・ラマ誘拐計画が実施されようとしていることにチベット側が気がついて、それを阻止しようとしてラサの夏宮ノルブリンカに集まった三万群衆と人民解放軍との間の騒乱が発生した。その最中に、ダライ・ラマのラサ脱出が敢行されたものだった。これも知らなかった。この脱出行にもCIAの支援があった。

チベットがここまでジリ貧になったのも、1959年までの10年間、ダライ・ラマが正面切った中国との軍事的対決姿勢を打ち出してこなかったことに原因があるように見える。しかしその姿勢は宗教者としては当然のものであるから、その是非は言えない。

 

1955年、毛沢東が北京を離れるダライ・ラマに別れの言葉を述べた。

『「宗教は毒だ。ひとつには僧侶や尼僧は独身でいなければならないから、人口が減る。ふたつ、宗教は物質的な進歩を拒絶する。」

この言葉で、ダライ・ラマの目からうろこが落ちたらしく、ダライ・ラマはのちに毛沢東のことをこう記している。

「結局のところ、あなたは法(ダルマ)を破壊する人なのです」』

(謀略と紛争の世紀/ピーター・ハークレロード/原書房P394から引用)

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立川武蔵のシャクティ・パット

2023-07-05 12:46:39 | 密教neo

◎不用意にチャクラを開かぬようよくよく用心すること

(2013-07-29)

 

密教学者の立川武蔵氏は、1994年12月のある日、ある女性にチャクラを開けてもらった(マンダラ瞑想法/立川武蔵/角川選書P157-163に記事あり)。その女性が言うには、チャクラが開けば次の世に輪廻することはないのだそうだ。

彼は素直にそれを受け入れて、輪廻したくないとも思わなかったが、彼女に開いてもらった。それは印堂と頭頂であって、アジナー・チャクラとサハスラーラ・チャクラである。

そうしたら、以後立川武蔵氏の印堂が非常に敏感になって、それまで手で感じていた-感じていたと思っていた-のを、そのスポットで感じるようになった。更に何か物体が眉間(印堂)の近くにくると痛みに似た感触を覚えて眼を開けていることが難しくなってシャックリのような声を出すようになった。

 

シャクティ・パットとは、一般には、チャクラを開けるだけのことである。分析的に見るならば、開いたというチャクラは、エーテル体のそれか、アストラル体のそのれか、メンタル体のそれかということがある。

この行為がいわゆる霊道を開けたということなるかも知れないが、それに伴うリスクは高い。

チベット密教の学識経験者であるクショグ・ワンチェンが、霊的なものへのコンタクトを適切な指導なくして行うことの危険を指摘しているが、知らぬが仏の部分はある。霊的なものを語るのはクンダリーニ・ヨーガであって、只管打坐では、一切そういうものを相手にしない。

立川武蔵氏は、1996年までには、密教法具などには、手に取ると平衡感覚を失い言葉が離せなくなるなどの「念」のある不吉なものもあるということを感得したと言っているが、その程度だったのだろう。

人には受け入れる準備ができたイベントしか起こらないということがあると思う。しかしシャクティ・パットでチャクラを開けるみたいな、ともすれば生命に危険が及ぶことを気軽にやってはいけないと思った。

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女性チベット密教修行者ナンサ・ウーブムの復活

2023-01-13 11:23:35 | 密教neo

◎グルなしでポア

 

ナンサ・ウーブムは、一児を生んだ主婦であったが、気立てと器量、品行の良さを見込まれて族長の息子の嫁になった。しかし、チベット密教僧の托鉢に応じたことを理由に義妹に殴打され、夫の暴力で肋骨を3本折った。さらに義父にも暴力を振るわれ、ついに亡くなった。

 

族長は彼女の葬儀を挙げようとして占星術師にお伺いを立てたところ、彼女はまだ亡くなっていないということなので、この僧の指図に従い、丘の上に置いた彼女の身体を布と毛布で包み、七日七晩にわたって火を焚き、お茶を沸かして、遺体が犬や鳥や野獣に食われないようにした。

 

さて閻魔大王が彼女のカルマの小石を見ると2個だけが黒石で残りすべてが白石だったので、閻魔大王が「彼女はまだ肉身を持ちながらこの世で仏法修行すべきだ」ということで、彼女を肉体に戻した。

 

出家しようとした彼女は避難先の僧院ごと族長の軍団に襲撃されるのだが、奇瑞を示してこれを説得した。

 

彼女は、その後出家し、本格的なチベット密教修行に取り組み仏法を成就することになる。

(出典:智慧の女たち チベット女性覚者の評伝 ツルティム・アリオーネ著 春秋社)

 

それにしても、チベットは僧院を丸ごと領主が略奪、殺戮しようと思うほどに、「荒くれ」な世界なのですね。チベットのように物の乏しい社会で暴君が出現すると、あっというまに社会全体が貧困に落ち荒廃する。

だからこそ、成就者、覚醒者が、空中に浮いて超能力を見せなければ、当時の人は信服しなかったのでしょう。

 

それを乗り越えて何世紀ものチベット仏教王国があったわけですね。

 

標高4千メートルか何かの丘の上で仮死状態7日はいかにも長すぎで、特に脳の機能損傷がなかったのは奇跡であるとも言える。

 

これは、グルなしでポアしたのだが、臨死体験の中で彼女が悟りを得たという位置づけではなく、あくまで復活後の仏道修行で成道したもの。

 

また彼女は最初の死のところで、すでに世俗生活のカルマが尽きた。そこで厭世したという点も見逃せない。死からの復活はチベット密教の定番ではある。

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フィリポによる福音書の復活

2023-01-13 11:20:24 | 密教neo

◎永遠のアイオーンへと昇る

 

以下は、グノーシスの文書であるが、濃厚にエジプトの密教的思想を受け継いでおり、悟りを自我の死と復活として、いわば自明のものとして位置付けており、生前での冥想修行による死からの甦りを推奨している。

 

『断章72 フィリポによる福音書 §63a(第二巻81頁)

 

われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間(=死)の中をさまようことにならないためである。

 

 

断章73 フィリポによる福音書 §90a(第二巻94頁)

「人はまず死に、それから甦るであろう」と言う者たちは間違っている。もし、初めに、生きている間に復活を受けなければ、死んだときに何も受けないだろう。

 

断章74 復活に関する数え§14-16(第三巻301-302頁)

それだから、わが子レギノスよ、復活に関して決して疑うことがないように、もしあなたがかつて肉を備えて先在していたのではないとすれば、あなたはこの世界に到来したときに肉を受け取ったのである。

 

とすれば、どうしてあなたはあの永遠のアイオーンへと昇ってゆくときにも、肉を受け取らないであろうか。肉よりも優れたものが、肉にとっての生命の原因となっているのである。

 

あなたのために生じたものはあなたのものではないのか。あなたのものであるものは、現にあなたとともに在るのではないのか。

 

(以下略)』

(グノーシスの神話/大貫隆/岩波書店P162から引用)

 

アイオーンとは万物を指すとすれば、アイオーンに昇っていくとは、アートマンとの合一を指し、密教において典型的な「体験とはいえない体験」のことを指し、

正統的教説であると思う。

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最澄の籠山

2023-01-13 11:18:03 | 密教neo

◎十二年籠山行の起こり

 

延暦4年4月、最澄は、国家の俊秀として近江の国分寺から奈良の都に行き、東大寺で具足戒を受けた。ところが、彼はこのエリート・コースを自ら打ち捨て、孤独な比叡山での山の修行に入る。

 

延暦4年7月中旬、最澄は山に入った。今の比叡山延暦寺根本中堂付近とされる、蝉の声と梵音の争う松の下の巌の上に草庵を結んだ。これは小さい竹で編んだ円房であって、藁を寝具として、求めずして与えられたものを食し、修行を続けた、

 

今でも比叡山には、蚊はいるは、猪、猿、狐、狸も歩き回るはで、大変なところ。その一方で、冬はほとんど雪に埋もれる。寒い暑いを厭わず、飢えを恐れず、約束されたエリート僧としての将来を捨て、餓死、犬死をも厭わず、最澄は山中修行に入った。

 

山では、冥想の他に、法華経、金光明経、般若経などを読誦していたという。師匠はいないようだったが、トランスのコントロールはどうしたのだろうか。

 

こうした修行の末、どの程度まで行ったかどうかはわからない。

それでも12年間籠山し、これが後の12年籠山行の起こりとなる。

 

最澄は、延暦十年、俗の六位にあたる修行入位に進み、延暦13年桓武天皇が最澄を比叡山に訪問。延暦16年最澄は内供奉(宮中で天皇の安穏を祈ることを職務)に列せられたとあるが、これは俗界のことで、本人の境涯のことではない。

 

最澄は世俗的にはビッグになったが、その実老境に至るまで謙虚さを失わなかったのだろう。

 

だから在世中の境涯は、空海に及ばなかったかもしれないが、比叡山延暦寺は、日本仏教界の柱石である、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍らを次々に輩出することになった。

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あがきすぎる、何も手を打たない、完全にあるがままにある

2022-11-26 06:50:18 | 密教neo
◎自分自身を成長させる意志

ソギャム・リンポチェの問答から。
『Q
非常な混乱を感じ、その混乱から脱け出そうとすることはあがきすぎのように思われます。しかし、何も手を打とうとしないことは自分を騙しているだけだといつかは気づくのではないでしょうか?

A
そうだ。しかしあがきすぎるか何も手を打たないかの、両極端の生き方しかないわけではない。

完全に〈あるがままにある〉という〈中道〉的な生き方を見いだすべきだ。これを説明する言葉にはこと欠かないが、実際に自分でやるほかはない。本当に中道を生きはじめたとき、あなたはそれを理解し見いだすだろう。

自分自身を信頼し、自分の知性を信頼することを自分に許さなければならない。私たちは本来豊かな人間であり、豊かなものを内にもっている。ただ自分がありのままの自分であることを許すべきだ。

外的な救いは役に立たない。自分自身を成長させる意志がなければ、混乱して自己破壊のプロセスに陥るだけだ。それは外部からの破壊ではなく自己破壊であり、だからこそ効力があるのだ。』
(タントラへの道/チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ/メルクマール社P35から引用)

さすがにリンポチェだけあって、本当にわかっている人物であることがわかる。混乱を感じることは誰にでもできるが、その混乱から抜け出すことは誰にでもできるというわけにはいかない。「自分自身を成長させる意志」というある種の生きる熱源、パワーを必要とする。それなくしてあがくだけであれば、スピードや程度の違いはあれ、自己破壊が進行していくだけである。

ところが「自分自身を成長させる意志」とは、実は生得的、先天的なものであって、いわば自分ではどうにもならないところのものであるように思う。

この質問者が、その意志をどの程度有していたのかはわからないが、そのことに言及すべき質問者だったのだろう。
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チベット密教の近道

2022-11-19 20:56:13 | 密教neo
◎ナーローパの修行

近代の錬金術師フルカネリは、黄金変成というか、人間の進化には、本道と近道があることを示唆している。チベット密教でも2つの道があることを認識している。

昔のチベットでは、密教の道を進むためには、過去世から師事し続けてきた真のツァワイ・ラマと呼ばれる霊的マスターに出会わなければならないとする。つまり転生も含めて複数回の人生をかけて師匠に付いて密教修行をする。これが本道。

クンダリーニ・ヨーガなのだから、ゆっくり漸進的に進むのだから、何転生もかかるのは当然といえば当然。

ハタ・ヨーガでは、一生あるいは何生かかけて完璧な体調の完璧な肉体を調整して、その後ようやく瞑想修行に入るので、ハタ・ヨーガにも複数生かけるという流れはある。

これに対して近道がある。

さて10世紀の大物密教者のナーローパが、修行中に仕えていた王子にひどく侮辱され、呪術でもってその王子を殺そうと、秘密の場所にこもり、曼陀羅(魔方陣)を仕立て、儀式を始めた。

すると曼陀羅(魔方陣)の隅に精霊が現れ、ナーローパに「あなたは、王子の霊魂を極楽に移せる能力があるのか、肉体に戻す力があるのか」と質問してきた。

ナーローパは、「いや、自分にはここまでの力はない」と答えると、

『すると精霊は急に険しい表情になり、彼の行っている忌まわしき儀式を強く咎めた。
自分が破壊しようとするものを立て直し、あるいはよりよい状態に変える能力を持たないのであれば、破壊する権利は誰も持たない、と精霊は言った。
そのようなことをすれば地獄に行くだけであると。

恐怖に駆られたナーローパは、どうすればこの運命から逃れられるのかと質問する。するとティローパという名の聖人を探し出し、「ツィチルチサンギャイ」の密教を伝授してもらうよう願え、といわれた。これが「近道」の教えである。

行為の結末から人を救い、「一つの生涯で」菩提を得させる道である。その教えの真意を把握し、実現できれば、二度とこの世に再生することはなくなり、従って、地獄の苦しみを経ることもない。』
(チベット魔法の書/A.デビッドニール/徳間書店P186-187から引用)

たまたまクンダリーニ・ヨーガが満行で、その人生で悟るタイミングであれば、近道とは言えない。
フルカネリの記事では、近道については、只管打坐の道と見たが、クンダリーニ・ヨーギである天台智ギの摩訶止観には、只管打坐とおぼしき坐法もあり、チベット密教での近道も、只管打坐でないということもないのではないか。

ティローパは、寺院で魚を食べ、呪文で骨だけになったその魚に、肉を戻し跳ねさせ再生させるという技を見せたが、これこそ『自分が破壊しようとするものを立て直し、あるいはよりよい状態に変える能力』である。

一つの生涯で菩提を得るとは、今生で悟ること。今生とは今悟ることであって、今生で死ぬ間際に、チベット死者の書マニュアルどおりにタイミングよく悟ることを言っているのではないのではないだろうか。
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空海の死

2022-11-09 15:45:28 | 密教neo

◎肉体を残す

 

空海は、亡くなる三年前から、五穀断ちをしている。832年12月12日に「深く世味を厭ひて、常に坐禅を務む」となり、五穀を食べないで、メディシーションだけをやる状態となって、残り2年ほどを過ごすのである。

 

こうして冥想三昧の2年が経過し、835年の正月に水や飲み物も受け付けなくなった。困惑した弟子たちは、なおも水や飲み物を勧めるが、空海は、「やめなさい、やめなさい、人間の味を使わないで下さい」と峻拒する。

 

十万枚大護摩供でも、断水七日が限度であるが、空海は3月21日に亡くなるまで、凡そ2か月、これを続けるのである。

 

熟達したクンダリーニ・ヨーギは、肉体を変成して「霞を食べて」も生きられるものだというが、水分をとらなくなる正月の時期には、既にそういう肉体に変成し終えていたのだろう。

 

あれだけ超能力を使いこなせる空海のことだから、肉体の変成などはお茶の子だったのだろう。最後の数年を冥想に生きたのは、一流の神秘家として当然の生き方だったのだろう。列仙伝などの仙人を思わせる行状ではある。既に肉体に執着なく、アストラルな生き方が中心になっていたのだろうか。

 

3月21日に右を下にして亡くなるのだが、空海としては、肉体を残す死に方を選んだということになろう。水分も取らずに生きられるのだから、やろうと思えば屍解もできただろうが、殊更に肉体を残して死んで見せたところに、空海の意図を感じる。

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覚鑁(かくばん)の虚空蔵菩薩求聞持法

2022-11-02 19:00:26 | 密教neo

◎メソッドとその結果の不定性

 

真言宗中興の覚鑁(かくばん)。彼ほど、メソッドとその結果の不定性を身をもって体現している者も少ない。

 

まず彼は虚空蔵菩薩求聞持法を8度修したこと。虚空蔵菩薩求聞持法とは

ノウボーアーカーシャギャラバヤ オンアリカマリボリソハカ

という虚空蔵菩薩の真言を日に一万遍、百日間唱え続け、同時に印契を結び、虚空蔵菩薩を観想し、牛酥を加持するもので、成就すれば牛酥が霊気を発したり、光を放ったり、煙が立つなどの奇瑞があり、その牛酥を食すると超人的な記憶力を得て、一度聞いたことはその言葉も意味も決して忘れないというもの。

 

一節によれば、それまでの八回とは異なり、導師を賢覚法眼に変えて、虚空蔵求聞持法の9回目のチャレンジを行ったところ、漸く成就した。

要するに虚空蔵菩薩求聞持法といえども一回やっておけば大丈夫などということはなく、ダメな場合のほうがむしろ多いらしいということ。メソッドの効果に絶対はない。

 

おもしろいことに、覚鑁は、22歳から27歳までの間に伝法潅頂だけでも8度受けている。伝法潅頂は修行ではないが、重要な微細身の操作なのだろうから、これまた評判の高いとされるメソッドであっても、メソッドの効果の確実でないことを、彼が感じて、何度も請うて伝法潅頂をやったということになるだろう。

 

※現代女性の虚空蔵菩薩求聞持法の行例

虚空蔵菩薩求聞持法について - 真言寺 生活改善の会 (sldn.net)

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空海以前の虚空蔵菩薩求聞持法

2022-11-02 18:59:49 | 密教neo

◎法相宗の神叡

 

空海は、唐の仏教弾圧前夜に唐に入り、真言密教のエッセンスは受けるは、経典図画は大量に持ち帰るはで、そのタイミングと質と規模は驚天動地なものであった。

 

空海(774-835)は、虚空蔵菩薩求聞持法を奈良大安寺の高僧・勤操(ごんぞう754-827)に伝えられ成就できたとされる。

 

更に遡って、法相宗の神叡(しんえい。737年没。)という唐僧がいて、病を理由に日本に来朝。大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に20年籠り、虚空蔵求聞持法を成就したという話がある。

 

そもそも生死を超えよう、輪廻を解脱しましょうという志で修業している中で、記憶力を増進しましょうなどという世俗がかったモチベーションが成立するはずもなく、虚空蔵求聞持法を記憶力増進のためにやるというのは、一つのキャッチコピーではないかと思う。

 

純粋に一切経を頭の中に収めようとすれば、西洋古来の記憶術でも十分いけるのではないかと思う。大雑把に言えば思春期以前から記憶術を訓練すれば、そういう類のことは可能なのではないかと想像する。

 

無文字の文明では必ず記憶術が発達する。かな漢字以前は日本は無文字だったという説が主流だが、本当にそうであれば、記憶技法がメジャーなものとして伝承されていてしかるべきだが、そうなってはいない。

 

むしろ古い神社に神代文字を見ることが珍しくなく、かな漢字以前は古神道で神代文字を用いていた可能性があるのではないかと思う。

 

記憶には、2種あり、アートマンレベルのひとつながりのものに直接アクセスする方法と個人のカルマ記憶から遡上するやり方。前者が虚空蔵求聞持法であって、それによって発生するトランスから入るのだろうと思う。

 

記憶力強化とは、即身成仏の副産物なのだと思う。

 

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比叡山で仏を見る-2

2022-11-02 18:20:52 | 密教neo

◎好相行とは

 

高川慈照師の好相行の続き。

 

好相行を行うために、浄土院の拝殿脇に広さ十二畳で白幕を四方に張って、正面に釈迦文殊弥勒の三尊掛け軸を懸けた。戸は締め切られ、明かりは蝋燭2本と経本を読むための手燭のみ。幕の内は行者だけしか入れない。

                     

ここで午前零時より、五体投地で、一日に三千仏への礼拝を繰り返す。一仏に一五体投地であるから、あの尺取り虫スタイルを一日に三千繰り返すのであるが、相当な重労働であり、五体投地を三千回するには、相当な筋力と気力が必要となる。10分間繰り返すのですら結構な運動であり、三千回など若くなくてはとてもできるものではない。

 

高川師は、元気な時に一分間に三、四仏の礼拝ができたそうで、これでいくと三千回クリアするには15時間弱かかる。そして三千の礼拝が終了すると、縄床に坐っての仮眠だけが許され、本格的に眠ることはできない。

 

最初は、ふらふらしながら寝込んでしまったり、錯乱状態で白幕内をうろうろしたりして、経本の文字を縦でなく横に読むようなこともあった。

 

こうして声も出ず、気合も入らず、集中力も失せてきた10日目くらいから、背後からフワーっと姿の見えない大男が攻撃してきた。これは10~15日くらい出てきたが、独鈷杵を投げることで退散させた。

 

次は姿の見えない犬が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時は、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

 

犬がいなくなってからは、姿の見えない猫が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時も、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

 

こうして一ヶ月が過ぎた。

 

二ヶ月目からは、身体が軽くなり、集中力も戻り、声も出るようになった。出て来るビジョンも轟音を轟かす瀧が眼前に現れたり、漆黒の天空から様々な原色の花びらが降ってきたり、良いビジョンになってきた。

 

二ヶ月目の終るには、身体の贅肉はとれ、声が透き通るようになった。このころ、良いビジョン(きれいな魔)も出てこなくなった。

 

そしてある日眠気がなくなり、頭もすかっとして雑念もわいて来ず、集中力があり、仏をクリアにイメージできるようになった。この調子なら仏(好相)を見てやろうではないかと毎日毎日期待に胸を膨らませて行にいそしんだが、毎日その期待は裏切られ続けた。

 

こうして三ヶ月目も終りに近づいた時、高川師は、仏は見ようと思って見れるものではないと、仏に出会うことをあきらめ、一年でも行を続ける覚悟をした。

 

そうしたある朝、仏を見ることができたのである。

(出典:行とは何か/藤田庄市/新潮選書)

 

人は若くなくとも死ぬが、これは、若くないとできない行である。マントラ・ヨーガも似たところがあるのではないか。

 

肉体を運動と発声で2カ月かけて調整していって、その過程の中で想念も整理されていって、クリアなビジョンが出るようになって、仏を見たいという雑念さえ捨てたところで初めて向こう側からの観世音菩薩が出現した。

このビジョンは、プラトンでいえばイデア界所属の時間のない世界のもの、本物なのだと思う。

 

これは、比叡山流の好相行がどのように本物のビジョンに到達するかが明快に察せられる事例であった。

 

それにしてもこうした修行環境は恵まれたものであり、万人が日常生活の中でできる修行ではないと思う。あの生活がシンプルなチベットにおいてすら、観想法修行者は何ヶ月も人里離れた山の洞窟に食料を持ち込んで修行しないと、こうまでビジョンが研ぎ澄まされはしない。いわんやこの情報操作天国・洗脳ラッシュの近代国家日本においてをや。

 

この後、高川師は先代侍真の堀沢師に出た時のことをこまごまと聞かれ、堀沢師が好相と認めたので好相行は打切りとなった。

 

高川師のビジョンには観世音菩薩が大勢登場したが、合掌した観世音菩薩一体の場合などいろいろな出方があるらしいとは、偽ビジョンを語る者を排除するには必要なことと思う。何を見たかではなく、本物のビジョンだったかどうかがクリティカルなのである。

 

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比叡山で仏を見る-1

2022-11-02 18:19:59 | 密教neo

◎高川慈照師の好相行

 

よく仏の32相好と言うが、32相あることは、本物の仏に出会わなければチェックできないのである。

 

比叡山には、侍真制度というのがある。最澄の廟が浄土院であるが、ここを守る僧が侍真である。侍真には12年の籠山が義務づけられており、この間浄土院から出ることはない。

侍真になるには、仏を見なければならない。仏を見るまで礼拝を繰り返す修行を好相行という(好相必見)。

 

高川慈照師は好相行をクリアして、ほんまもんの仏を見た。そこで元禄時代に侍真制度ができてから114人目の侍真となった。これら侍真のうち2割強が籠山中に亡くなっている。仏に出会ったから、とりあえず良しとしたのだろうか。

 

 

好相行3カ月目のある朝、堂内は真っ暗である。

 

『床に投地した額に直感がひらめいた。

 

「仏さんが出ている」

 

頭を上げる。

白幕の向こうに、金色に輝き宝冠をつけた観世音菩薩がズラーッと三列に並んでいた。三十三間堂の観音群をイメージすればよいのであろうか。丸顔のやさしい表情の美しい観音様であった。皆、同じ顔つきをしている。白幕に浮き出るようで、距離感があった。目を左方に移す。そちらも観世音菩薩が並んでいた。次いで右方こちらも同様であった。

 

「魂が引き抜かれたようであった」

 

じーっと見ているのみであった。心が騒ぐこともなく、感激する余地もない。「出てる!」ただ引きつけられ、魅せられていた。実際は数十秒であったろうが、高川師の実感では二~三分の間であるという。

 

「なーむ」

再び礼拝をし、頭を起こすと仏の姿は消えていた。礼拝は続行した。』

(行とは何か/藤田庄市/新潮選書から引用)

 

見ただけなら、菩薩である。まだ先がある。これはいわゆる向こうから来たビジョンなのだと思うが、仏と観世音菩薩は違うのではないか。観世音菩薩は高級神霊の一つのように思う。

 

それと、例えばの話ではあるが、時々観世音菩薩が来ていたのに気がつかなかったが、この時は気がついたというようなことはあるのではないか、と思う。

 

  

それでは、仏に出会える好相行とはどんなものだろうか。

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