アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ヨブ記の読み方

2024-02-29 03:14:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-02

◎地獄も越えて-02

◎太古の科学作業

 

旧約聖書のヨブ記では、神がサタンの悪意の行使を認めたばっかりに、行ないの正しいヨブが、子供を殺され、財産を失い、不治の病いに苦しむことになる。

最後は、神が繁栄を復活させてくれるのだが、これはとって付けたような印象がある。というのは、ヨブは、いわば神の気まぐれで、散々に辛酸をなめさせられた後、再び世俗的な幸福を取り戻し、一見めでたしめでたしに見えるところが不自然だからである。

 

さて錬金術者はそうは読んでいない。

18世紀のアブラハム・エレアザルの論説(1760年出版の「太古の科学作業」)にはこんなところがある。

 

黒いシュラムの乙女の独白

『けれども私は翼をつけたヨナ[=鳩]にならなければならない。そして不純な水が流れ去った晩祷の刻限には、緑のオリーブの葉を口にくわえてやってきて自由の身となるだろう。

 

すると私の頭はこの上なく美しいアソフォル[=黄金]となり、私の髪は月のように縮れ輝く。

 

ヨブは私たちの地から血が流れ出すだろうと言っている(ヨブ記27-5)。というのもそれ[地]はすべてこれ[火]といってもよく、光輝く火と混じり合った光輝く赤いアダマ[adamah=赤い地、ラトンの同意語]であるからである。

 

私は外側は毒され、黒く、醜いが、しかし浄められたならば、私はサムソンによって裂き殺されたライオンからそのあと蜂蜜が流れ出たように英雄たちの食物となる。それゆえヨブ記27-2には、「その道を鳥も知らなかったし、禿鷹の目もそれを見なかった」Semitam non cognovitill (e) avis,neque aspicit eam oculus vulturis といわれているのだ。

 

なぜならこのラピスはただ神によって試され選ばれた者たちにのみふさわしいものなのだから。』(結合の神秘2/C.G.ユング/人文書院P219から引用)

 

ラピスは賢者の石。文中のヨブ記27章は、実は28章が該当するだろうと引用書の注にあります。

 

その身から不純を落とし、引き裂かれた獅子のように死ぬと、地であるムラダーラ・チャクラから火であるクンダリーニが上昇し、アートマ光の輪のように頭は黄金に輝く。

 

その私は、自分というものが問題となることのない、英雄たちの食物として、神の聖なるパーツの一つとなる、というところだろうか。

 

つまりヨブのように現実というものに徹底的に裏切られた者のみに対して与えられるのが、クンダリーニ・ヨーガ=錬金術の道による神秘の手法であるというもの。

 

ヨブの一生は悲惨そのものであった。生への呪い、神への怨みごとまで言う。そうした悲惨な生であっても、神秘主義に生きる道があるが、その道は鳥も知らず、禿鷹にも見つけられない大空への飛翔の道であるというところだろう。

 

とにかくその生は世間から見れば、恐ろしく悲惨だが、真に幸福に生きる隠された道があるという不可思議な錬金術者の見解がある。

 

荘子に身障者が多数登場するのもそういうことだろうか。ちょっと神経症なのが正常とされる現代。

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天国と地獄両方を超えた悟りに追い込まれる

2024-02-28 03:13:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-01

◎地獄も越えて-01

◎焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も神に復ればこころ涼しき

 

ある意味で自分に対してナイーブな人は、楽しいこと嬉しいことばかりの天国は大歓迎で、つらいこと苦しいことばかりの地獄はとてもいやだと、思っているに違いない。

ところが世の中の結構な数の人は、苦しみですらまんざらでもないと思っている。つまり地獄あるいは地獄的なものをある程度容認する気分があるのだ。
そこで次の時代は、苦しみのないみろくの代、至福千年が来ると言われているわけだが、そのようになるには、内心で地獄を歓迎する「苦しみですらまんざらでもない」と思っている人が一人でも居てはいけないわけだ。
万人がそうなるための人心の特徴として、以前の時代より、楽しいことはより楽しく嬉しいことはより嬉しく感じ、苦しいことはより苦しくつらいことはよりつらく感じるという傾向が強まっているのは自然な流れ。

天国を乞い願う気分が高まれば、なぜだかそこに悪魔が登場するという機微はその辺にあるのだろう。

さてイエスの大悟直前の悪魔の誘惑は、石がパンになるように命じなさいと超能力を恣意的に使わせようとしたり、エルサレムの神殿の屋根の端に立たせて、大丈夫だから下に身を投げなさいと勧めたり、悪魔にひれ伏し拝むならばこの世のすべての国々とその栄華をすべて上げるといったものであって、サスペンス映画のような派手な展開であった。

一方、釈迦の大悟直前の悪魔の誘惑は、悪魔が、修行は健康に悪いなどと言って婉曲に修行をやめさせようとするホーム・ドラマ風の展開ではあってイエスとは全く違う雰囲気だった。

雰囲気こそ違うが、いずれにしても、このように天国をあくまで守って行こうとする人には、なぜか悪魔が登場し、天国と地獄両方を超えた悟りに進むしかない処に追い込まれると考えられるが、そうしてみると、その段階は決して悟りではない。よって、天国の悟りなどというものは、存在しないように思う。

天国と地獄両方を超えた悟りだけが本物なのだろうと思う。

※「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。

そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。』
(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)

出口王仁三郎は、霊として霊界巡りを行い、地獄も見て回った後の恐怖もさめやらぬ際の感慨の歌。

焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も
神に復ればこころ涼しき

(出口王仁三郎/霊界物語第一巻第十九章余白歌)

 

OSHOバグワンは、天国の楽な状態と天国も地獄も超えた言葉で語りえない実在・智慧・至福を比較すると、人は九分九厘天国の方を選んでしまうと言っている。

 

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アビラのテレサの霊魂の城

2024-02-27 03:55:14 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-13

◎天国まで-13

【悪魔との対峙は直ちに起こるか】-2

◎悪魔との対峙は第二の住まいで

 

霊魂の城は、七つの住まいから成る。うち六つの住まいが、栄光の主の住まう第七の住まいを取り囲んでいるが、悪魔は、第二の住まいで登場する。

悪魔との対峙は直ちに起こるかという点とどのように克服するかという点では、なぜ第二の住まいなのかという点は微妙だが、知性によりそれを克服するのだという基本線は理解できる。

 

『しかし、ここ第二の住いで悪魔が霊魂にしかける戦いは多種多様で恐ろしいもので、霊魂は前の住いにいるときよりはるかに苦しみます。なぜなら、前の住いでは霊魂は口も耳も大変鈍く、少なくともほんのわずかしか聞こえませんでした。それに勝利の 第希望がまったく失われたかのように、霊魂はそれほど抵抗もしませんでした。しかし、ここでは、知性はより生き生きとなり、そしてその諸能力は活発になります。また、敵の攻撃や砲声は、霊魂がそれをどうしても聞かなければならないほど、激しくなってきています。ここでは悪魔は霊魂にこの世の魅惑的なものを再び眼の前に示すのです。悪魔は霊魂にこの世の楽しみが永遠に続くかのように描いて見せます。すなわち、霊魂がこの世で享受する尊敬や友人や親族を思い出させ、また苦業によって痛める健康を心配させるのです。なぜなら、霊魂がこの住いに入るときには、霊魂はいつもまずこの償いを熱望するからです。悪魔がこれやあれやと無数にしかける妨げ、これらと霊魂は第二の住いで戦わなければならないのです。

 

おおイエスよ! 第二の住いで悪魔はなんという嵐を引き起こし、そして前に進むべきか、第一の住いに引き返すべきか分からない哀れな霊魂はなんという心の悩みに落ちることでしょう。他方においては理性が、霊魂にその偽りを眼の前に示し、そして霊魂が求めているものと比較して他のすべてのものは無であることを、霊魂に考えさせます。信仰は、霊魂に必要なものは唯一つであることを教えます。記憶は、この世の楽しみを大いに味わった、その人々の死をあらわに示して、あらゆるこの世のもののはかなさを霊魂に思い出させます。そしてある人々がどんなに突然に亡くなり、そしてどんなに早く忘れ去られてしまうかを。 また、大きな幸運のうちに過ごした人々が、今は大地に葬られていることや、霊魂自身も自らすでにその墓の側を通って、彼らの身体に無数のうじが湧いているのを見たこと。こういったことや他の多くのことを、記憶は霊魂に思い起こさせます。

(中略)

意志は、霊魂がこれまで数限りない愛の業や愛の証しを受けた人を愛するように傾いていきます。そして霊魂は幾らかでもその愛に報いたいと望むのです。 特にこの真の愛の人は、決して自分から離れず、いつも側に付き添って、自分に存在と命を与えてくださった、という考えが霊魂にせまってきます。最後にはさらに知性が、たとえこの先何年生きようとも、これ以上素晴らしい友を見つけることはできないことを霊魂に教えるのです。知性はまた、この世はすべて偽りにみち、悪魔が霊魂に示す享楽には、多くの労苦と心配と困惑が付きまとうことを霊魂に悟らせるのです。』

(霊魂の城/アビラの聖女テレサ/聖母文庫P69-71から引用)

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苦しみですらまんざらでもないのさ

2024-02-26 17:51:32 | 究極というものの可能性neo

◎アンナプルナ南壁 7,400mの男たち

(2015-10-23)

 

2012年のスペイン映画「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」は、標高7400メートルのヒマラヤのアンアプルナ山頂目前のキャンプで高山病で意識が錯乱した登山家を世界中から友人たちが集まって救出に向かう話。アンナプルナ南壁は、高峰が連なり、7キロに及ぶ長い稜線を踏破しなければならないヒマラヤ山脈屈指の難ルートであり、10人のうち4人が命を落とすといわれる。

その救出に参加した登山家達が言う。高い山では、筋肉がきりきり痛むことがあるし、呼吸は苦しいし、飢えにさらされるし、渇きも常である(一杯の飲み水を作るのに携帯ストーブで氷を溶かして小一時間もかかるらしい)、疲労困憊で、意識をしゃんとするのにも骨が折れる、などと。

映画ではそれでも登山するのは、登山すると日常に取り紛れてわからなかった大切なことが何かということがわかるから、なんて説明をするがそうではあるまい。

真相は、「苦しみですらまんざらでもない」からである。

「苦しみですらまんざらでもないのさ」と云うのは、ダンテス・ダイジ。若い時分にこの言葉を知った私は大いに驚いたものだ。苦は悪であり、とにかく避けるべきものではないかと。要するに私には人生経験が欠けていたわけだが、釈迦の生老病死が苦であり、苦を避けるにはどうすればいいのかという仏教のスタート地点を頭から否定するようなこの発言には、ぎょっとさせられたものだ。

登山は苦しい。それでも登山をするのは「苦しみですらまんざらでもない」からである。
苦を超克するには、苦を堪えるある程度の胚胎期間がいる。悟りには、苦が要るのである。苦が窮まるには、苦の時期が要るが、「苦しみですらまんざらでもない」ことが無自覚であるうちは、悟りなどあるまいと思う。

「苦しみですらまんざらでもない」ことを自覚したダンテス・ダイジの凄みがここにもある。

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地獄へ落ちろクソ婆あ

2024-02-26 17:37:39 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎世界が異なる

(2012-05-14)

 

唐代の禅僧趙州は、どうして「地獄へ落ちろクソ婆あ」みたいなセクハラ発言をしたのだろうか。

まず最初のケース、ある僧が禅僧洞山に問うた。「暑さ寒さがしんどくてたまりません。どう逃げればよいでしょうか。」
洞山「暑さ寒さのないところに行くとよい。」
ある僧「暑さ寒さのないところとはどのような場所ですか。」
洞山「寒ければ、お前を凍りつかせるし、暑ければ、お前を蒸し上げる。」

次のケースでは、ある僧が「四方から山々が押し寄せて来ます。どう脱出すれば良いでしょうか。」
趙州「脱出した様子もない」とだけコメントした。

でもって流れは同じだが、この件。
あるとき、一人の老婆がやって来て、趙州に質問した。
老婆「仏教では、男性に比べ、女性は5つの障(さわり)が重いとされています。だとすれば、女性であるわたしが天上に生まれるには、どうすればいいのでしょうか?」
 趙州は老婆に
 「願わくば、すべての人が天上に生まれるように。そして願わくば、この老婆が永く地獄に沈まんことを」と答えた。

これが、『地獄へ落ちろクソ婆あ』である。

自分が女だろうが男だろうが、そんなことは関係ない。天上に生まれるとか地獄に落ちるだとかそんなことは本質ではない。そこから脱出したかどうかだけを問題にしている。

失礼な!・・・・で終わっては何も起きない。だから、禅は一触即発、一瞬の油断もできないところで戦っているから、機鋒が鋭いとかって表現になる。禅には段階はない、ステップはない。できたかどうかだけだ。

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天国もいいけれど

2024-02-26 06:17:46 | 【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo

○神のために神を捨て去る

神を知ること、神を一瞥することとは、いわば、天国を味わうこと、一見することなのだと思う。それは修道院や専門道場などの正しい修行環境にあって、きちんと一定期間(数か月とか)修行を積み重ねれば、そういうことは起こってくるものだろうと思う。

しかし、それは、自分と神が別である立場を捨てないままでの天国に居ることであり、神的な高み、真善美、安心というものは極められているが、自由が足りない。高さだけは極めたというものである。
禅の十牛図の第三図で牛は見たが、牛のことを自由に飼い馴らしてはいないのである。

そこで、エックハルトの言い回しで言うところの『神のために神を捨て去る』という、言うなれば天国を捨てることが求められる。これが自我の死で、ハイレベル・トランスの先にあるもの。

『人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。ところで聖パウロは神を神のために捨て去った。彼は、神から受けとることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである。

彼がこれを捨て去ったとき、その時に彼は神を神のために捨て去ったのであった。

そしてそのとき、彼に残されたのは神であった。しかしその神は、彼に受けいれられたり手に入れられたりされる仕方での神ではなく、神が神自身の内においてあるような、それ自体において、みずからの内において存在している神である。

彼は神にいかなるものも与えたことなく、神よりいままでいかなるものも受けとったこともない。それはひとつの一であってひとつの純粋な同一化である。

ここにいたって人はひとりの真なる人間となり、このような人には、神的有の内にはどんな苦しみも生じないように、いかなる苦しみもない。

すでに何度となく言ったように、魂の内には神ともともと一であり、合一して一になったのではないというほどに神と一にして似ているあるものがある。この一なるものはいかなるものとも共通性をもたず、神より創造されたあらゆるもののうちのどんなものとも共通性をもつことがない。

創造されたものはすべて無である。ところがこのものはすべての創造性より離れ無縁である。』
(エックハルト説教集/エックハルト/岩波文庫/P89-90から引用)

チャクラと七つの身体-55
◎肉体-38 ハイレベル・トランス-11
◎天国もいいけれど
【ザ・ジャンプ・アウト 111】

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婆子焼庵(ばすしょうあん)

2024-02-26 03:32:31 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-12

◎天国まで-12

【悪魔との対峙は直ちに起こるか】-1

◎悪魔と対峙する準備なし

 

天国的な修行をしていても、それだけでは実生活で起こるさまざまな悪に対応できないということをシンボライズした禅の公案がある。

 

昔、一人のおばさんがいました。禅僧を庵に住まわして二十年間供養していました。

いつも16歳の娘を遣って食事など身の回りのお世話をさせていました。ある日、娘に因果を含め、庵主であった件の僧に抱きつかせて「こんな時、私をどうしてくれるの。」と言わせました。

その時、禅僧は次のように答えました。

「あなたがそんな風にいきなり私に抱きついても、私は、真冬の暖気のない岩に枯木が寄りかかっているようなもので、ぜんぜん熱くなっていません。」

 

娘は、このいきさつをおばさんに報告をしました。

おばさんは、「私は、二十年間も、こんな単なる俗物に供養し続けてきたのか。」と烈火の如く怒り、直ちに禅僧を庵から追い出し、庵を焼いてしまいました。

 

件の禅僧は、修行はまじめにやって、高みは極めていたに違いない。それで充分だと考える人もいるのだろうが、一歩世間に出てあらゆる俗事に出会えば、混乱して為すすべを知らなかったということになるだろうか。禅僧は体裁を繕うために、「枯木寒巌に倚る、三冬暖気無し」と逃げたが、おばさんには簡単に看破されてしまった。

この公案ではそれからどうすればよいかは何も書いていないが、求めるステップは、エックハルトの言う「神のために神を捨て去る」ということなのだろうと思う。大燈国師ですら大悟した後、鴨川の河原で20年乞食修行して、自由を求めた。

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最初の隠修士パウロス

2024-02-25 03:04:58 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-11

◎天国まで-11

【天国の側を窮めることだけが神仏への道】-2

◎人に知られない

 

隠修士パウロスは、3世紀頃の人物。西洋絵画展に行くとよく目にする「聖アントニウスの誘惑」で知られるアントニウスが、パウロスが砂漠に隠れてから60年目に彼を発見した人物として知られる。

 

パウロスは、テーベに生まれ、キリスト教徒に加えられる拷問の数々を見て、砂漠に隠れて修行することを選んだ。町で暮らして発覚すれば、拷問と死が待っているからには、当然の選択の一つである。キリスト教のテキストを見れば、殉教が人生上の主要選択肢の一つだったと考えられていた時代が初期にはあった。ところが、生活しながら信仰を維持し深めていく立場からすれば、準備ができないまま殉教すれば、殉教時に覚醒できればよいが、できなければ、もう一度輪廻転生して人生やり直して冥想修行のし直しということになる。(キリスト教では輪廻転生は認めていないが。)

 

イエスですら、十字架にかかるまで大悟できなかったことを思えば、殉教しさえすれば大悟できるということは厳しく見れば思い込みに過ぎない部分はあるのではないか。

よって、中国唐代の破仏(仏教弾圧)の時代、力のある禅僧が山に隠れて修行したように、初期のキリスト者であるパウロスが、水と食物の入手できる砂漠地帯の奥深い小オアシスのような場所に隠れて、60年修行したということはあることではある。そこは結界されて発見できない場所であったのではないか。

同時代の聖アントニウスが、「眠り」の中で、もう一人立派な砂漠の隠修士がいることを知り、パウロスに会いに行った。これは常人にとっては「眠り」だが、聖アントニウスにとっては、とある冥想状態であったのだと思う。

パウロスは、心眼によって事前に聖アントニウスの来訪を知ったのだが、これなどは王陽明もできたのであって、それしきで驚いてはいけないと思う。

60年間人に会わず冥想修行を継続するというのは、これぞ御神業であって、そういう人はいるものだが、何をやっていたのかは明かされることがないが、カトリックの見る目のある人は高く評価してきたのだ。

パウロスは、60年間、禁欲と観想という天国の側を窮めることに専念して神を求めたのだ。

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世界の終極に達しなければ

2024-02-24 03:50:43 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-10

◎天国まで-10

【天国の側を窮めることだけが神仏への道】-1

◎世界の止滅にみちびく道

 

釈迦が苦しみからの離脱の条件を語るには、

『「友よ。わたしは世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋(ひろ)の身体に則して、世界そのものと世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。

歩行したからとて、いつになっても世界の終極に達することはできない。

世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはありえない。

それ故に世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。

かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世をもかの世をも望まない」と。』

(ブッダ 神々との対話 岩波文庫p145から引用)

 

世界の止滅にみちびく道とは、冥想のこと。

『世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。』とは、【天国の側を窮めることだけが神仏への道】だと言っている。アッシジのフランチェスコみたいな人ですね。

釈迦は、この娑婆世界を苦と見たからこそ、そこからの離脱を問題とした。世界の終極に達しなければ、本当の愛や癒しやアセンションはない。

世界の終極に達することが現代人にとって必要であるという命題が正しくなければ、現代人に悟りは必要ではないということになる。

現代人は、世界の止滅に達すること、つまり悟りの必要性を直観できる高みに上ることができるかどうか、それが問題となる。

その高みは、全面核戦争の危機を感じることで至るのか、またはあらゆる場面での人間関係の荒廃にさらされることで至るのか、あるいは天変地異の予感によって起こるのか、はたまたあらゆるバリエーションの人間ドラマを充分に味わい尽くしたという感慨で起こるのか、それはその人の魂の成熟度や個性によるのだろう。

いずれにしても、そこまで本気で煮詰まれるかどうかなのだと思うが・・・。

そんな悠長なことでいいのだろうか。

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エクソシスト稲生平太郎

2024-02-23 03:42:48 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-09

◎天国まで-09

【大悟直前の悪魔の妨害】-2

◎稲生物怪録

 

稲生物怪録は、江戸時代、広島県三次市を舞台に、様々な妖怪が次々と登場し、16歳の稲生平太郎が、妖怪軍団をついに打ち破るというもの。これは内容が奇抜でバリエーションに富んでいることから、最近では、モバゲーのモンスターとして頻繁に登場している他、平田篤胤、泉鏡花、稲垣足穂、折口信夫、荒俣宏、京極夏彦らに採り上げられている。

 

だが、実際に稲生物怪録を読んで見ると、稲生平太郎と家族、親戚、近所の人が盛んに怪異に悩まされるが、稲生平太郎は、騙されずに正体を見破り続けたところ、特に物の怪側に攻撃をしたわけでもないのに、物の怪側が敗北のしるしとして木槌を平太郎に渡し、いづこともなく去っていったという、カタルシスという点では物足りない物語に仕上がっている。

 

クンダリーニ・ヨーギ(垂直の道)は大体エクソシズムの心得はあるものだが、日本の有名エクソシストと言えば、出口王仁三郎と本山博。本山博の著作を読むと各地で浮かばれない霊をどこかに逐うのでなく言い聞かせ、解脱させている。出口王仁三郎も無数の不成仏霊を言向け和し、改心させているが、中には苦労させられる手合いもあった。

 

出口王仁三郎の、稲生平太郎への言及は筑波山の一箇所のみであって、多くを語ってはいない。

ところが、出口王仁三郎は、随筆玉鏡の『筑波山の悪霊』にて、筑波山は兇党界の大将山本五郎右衛門が本拠地であって、稲生平太郎が、彼を封じ込めたので柔順しくなっては居るとしており、稲生平太郎はかなりの実力者であると評価している。

 

マントラにしても作法にしても、悟っていない人物が使えば良い結果にならないことを知っていたせいだろう。

カルロス・カスタネダのシリーズでも、霊界のどこかに何百年も取り込められている人を見かけるシーンがあったりするのだが、普通の人は、そういうものに関心を持つことは百害あって一利なし。

釈迦でもイエスでも大悟の直前に悪魔が登場する。稲生平太郎のケースでは、沢山の悪霊が登場して最後の魔王との対面の際、冠装束をした人の半身(昔の一万円札の聖徳太子みたいな)が稲生平太郎の背後に見え、平太郎自身は彼を守る氏神だろうと認識した。

だがこの際に稲生平太郎は、大悟したのではないか。ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、クンダリーニ覚醒時に1~3人の神霊がやってきて一人が本人の頭の封印を切る、とある。氏神と見えたそれが、そうだったのではないだろうか。

大悟して初めてイエスも釈迦も平太郎も悪魔を超えられたのだ。

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ダンテス・ダイジ、悪魔からの超越を語る

2024-02-22 03:37:23 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-08

◎天国まで-08

【大悟直前の悪魔の妨害】-1

◎暁の明星が釈迦を導く

 

釈迦成道直前に悪魔が出現することを例にとり、その時何が起きているのかを、ダンテス・ダイジが弟子たちを前に説明している。

 

ダンテス・ダイジが、釈迦成道直前の7日間を題材にして、釈迦はどのように大悟直前に出現するという悪魔を超越したかを語っている。悪魔は形を変え品を変え数回出現し、最後は大悪魔が登場する。最後の成道では、逆転のニュアンスがある。

 

この話は何回かカセットテープで聞いたことがあるが、お恥ずかしいことだが、全容の意味がつかめたのは何十年も経ってからのことだった。自分の出来の悪さを差し置いていえば、こんな高度で込み入った説明を、ダーっと一気に聞いて理解できるだけでももう相当にいい線行っている人なのだろうと思う。

 

『弟子「お浄めっていうのは、ダイジから見たらどういう感じ?」

 

ダイジ「それは誰がお浄めするかによる。」

 

弟子「お浄めっていうのは、求道者の立場から見れば、自分が修行するんじゃなくて、誰かの傍にいって受けるっていうことでしょ。」

 

ダイジ「実際は、どんな突っ張った人だってね、必ず誰かの傍について受ける形になるんだ。

 

独覚ってあるだろ、仏教の概念で。でも、厳密な独覚なんてただの一つも存在しない。」

 

弟子「釈迦もそう?」

 

ダイジ「もちろん! それは暁の明星がお浄めをしたといってもいい。釈迦の場合。あるいは、釈迦の場合はね、悟りに至る七日間があったんだ。奴さん、いろんなことやって、苦行して、無想定なんて簡単に入れるぐらいになった。奴さん、達者だからね、自分の瞑想の、禅定家っていうんだけどね、本当に禅定家だ。自分の意識のレベルを自由に持っていく術を体得している。

 

しかしそれでさえ、全然解決にならんということが、いやというほど分かった。だって、意識のレベルを変えたって、そのとき問題ない意識のレベルに入る、無に入る。が、出てきてみろ、相変わらず問題は続く。で、そんなことじゃどうにもならない。それにもう一切のものを付け足しても、どうにもならない。よーし、じゃあ俺はもう、本当に全部が吹っ切れるまでここを動かん、って言って、あの菩提樹の下でさ、座り込んだ。で、こうやって座り込む。そして、一日経ち、二日経つ。そして三日目だ。

 

三日目にね、女房が現れたんだ。ヤソダラって言ったか、女房が言う。『なんて貴方は薄情な人。自分のことしか考えてないのね。私はこんなに愛してるのに、何でそんな突っ張ってるの。馬鹿げたことは止めてよ。』そのヤスダラときたら、抜群の美人だ。(笑い)が、釈迦はそれを見つめる。だって今更どうなることでもない所まで来ちまった。それくらい神経症が高じてきた。そうすると、ラーフラという子供が現れる。『お父ちゃん、一緒に遊ぼうよ。人間は生まれていろんなことをして死んでいくものでしょ。それなのに、なんで、お父ちゃんはそんなバカげたことやってるの?一緒に遊ぼうよ。』

 

…が、何かがおかしい。本当はおかしいものなんか何一つないんだが、釈迦にとっちゃおかしい。何かおかしい。

 

それで釈迦は言うんだ、ヤソダラとラーフラに向かって。『悪魔よ去れ。』

 

でも相変わらず、まだ付きまとってる。

 

そして四日目。ヤソダラとラーフラと、一緒に修行してた4人ばかりの弟子が現れる。そして、それから、父が現れる。親父さんの王国、そんなに大きい王国じゃなかった。

 

常に外敵と戦ってる。今とても危険に瀕している。それで親父さんが言う。『なあ、シッダールタよ。そんなバカげたことを止めて、俺を手伝ってくれ。お前にはその気力もあるし迫力もあるんだ。お前がもし俺を手伝ってくれれば、この国も安泰だし、この国の住民もすべて平和に暮らせるじゃないか。なんでそんな訳の分からないことに一生懸命専念してるんだ?』それで、釈迦は言う。『何かおかしい、やっぱり。』で、『悪魔よ去れ。』が、一向去らない。

 

そして五日目に入る。五日目になると、今度はそれに付け加わるのが、あれが現れた。アングリマーラ、悪魔だ。言うんだ。『あなたは元々、偉大なることを完成するために生まれてきたんだ。あなたがもし今立ち上がれば、転輪聖王となって、世界すべてに完全な平和を与えることができるんだ。

 

なぜそんなつまらない、ちっぽけな所に座り込んで、何かに頑張ってるんだ。しかも、あてもないというのに。

 

何をやってるんだ、一体あんたは。あなたは大いなる星の下に生まれたんだ。今より転輪聖王となって、すべての人々の調和を実現したらいいじゃないか。あなたには十分その力がある。

 

そうアングリマーラが言ったときに、すべての、今まで出会った、父、釈迦を生んだと同時に死んだ母、そして子どもであるラーフラ、妻であるヤソダラ、一緒に修行した4人の仲間、それらすべてが現れる。『一体あんたは何を目指してるんだ?』みんな言う。『生まれて死ぬのは人間の定めじゃないか。生まれて、年老い、病気にかかり、死ぬ。それでいいじゃないか。何をあなたはこだわってるんだ。一体何が問題なんだ?』

 

そしてその間で、やっぱりおかしい。釈迦は一向にピンと来ない。酷いなあ、どうしようもないノイローゼだよ(笑い)。おまけに今度は、サタンというか、デビル、地獄の最高の王者が来てさ、自分の目の前で礼拝するんだ。

 

六日目だ。『あなたほど偉大な者はない。あなたが今立ち上がれば、すべては解決する。

 

あなたがつまらないことに囚われているおかげで、どうしようもなくなっている。そんなつまらないこと、一体何のあてもないじゃないか。何を頑張ってるんだ?あなたには人々を幸福にする力が十分備わってるんだ。止めろ止めろ。あてもない瞑想して一体何になるんだ。』そしてヤソダラの愛しい姿が現れる。ラーフラの、愛しい可愛い姿が現れる。一緒に求道活動を送った友人たちの、とても好ましい、爽やかな付き合いが現れる。それから父の愛情、父性愛が、じかに伝わってくる。

 

『ああ、俺は、これほどまでして、悟りなんてわけの分からんものを求める必要が一体あるのか?もう、当たり前に、人間らしく、それらに溶け合って、その中を生きればいいじゃないか。何で俺はこんなに頑張ってるんだ?』自分の中で声がする。『もういいじゃないか。もういいじゃないか。』『いや、よくはない!人は死ぬんだ、生まれて生きて死ぬんだ。それだけであっちゃいかん。絶対いかん!』

 

『いや、いいんだ。いいんだ。それでいいじゃないか。何をそれに付け足すんだ?』

 

そしてまたアングリマーラが礼拝する。『あなたはもう転輪聖王だ。あなたはもう最高の人間だ。あなたが為すことで不可能なことは一つもない。あなたが今立ち上がれば、すべての生命が喜びに燃え上がるんだ。さあ、立ち上がれ、立ち上がれ!立ち上がって下さい!』大魔王アングリマーラは礼拝するんだ。

 

だが、自分の一番深い所で何かがおかしい。何かが。一切の懐かしいものが自分の前に現れる。その懐かしいものを捨ててまで、なおかつ究極のものを求める意味なんて一体あるのか?それほどまでに愛しいものを捨てて、その先に一体何があると言うんだ?が、その瞬間、何かが、何かが…

 

『悪魔よ、去れ!!』

 

そしてそれはもう七日目になっていた。その瞬間、初めて分かった。究極を求める、その求めるという心、それだけが迷いだったんだ。そして、釈迦は目を開いて、暁の明星を見る。何一つ問題はなかった。すべては完璧だったんだ。今となっては何もかもが仏だった。何もかもが成仏していた。アングリマーラ、あの大魔王さえ。神だ、何もかもが。山川草木一切成仏っていうのは、そのことだ。そして、釈迦はその中にいる。いつでもそこにいたんだ。いつでもここにいた。

 

ただ自分の必死な欲望、自分の必死な求め、それのみが迷いだった。いや、それさえも迷いではない。それさえも神だったんだ。分かるかね、宇宙という花が開くという意味。人間の結論なんてみんな、花が開く過程の、その時々にすぎない。そしてそれは常に移り変わる。晴れた日もある、暴風雨の日もある。が、それは、同じ空の違った表情にすぎない。荒れた海もある、とても静かな海もある。でもそれは、同じ海の違った表情に過ぎない。そして君は知るだろう、君が海自身であることを。君が優しさそれ自身であったことを。」』

 

まとめ:

1.悪魔の誘惑は大悟直前に複数回発生。まさか愛しい妻子や両親まで悪魔とは!この辺についてはイエスの大悟直前に出現する悪魔と比較し、釈迦とイエスの自我の成熟ぶりの違いを別の場所で指摘しているシーンもある。釈迦の方がより文明生活を経てきているのだ。

2.大悟の水先案内は、誰か高級神霊ではなかった。暁の明星だった。明星がその役割を果たしたのは、空海とクリシュナムルティもそう。一般に本人の頭頂の口を切るのは2、3柱の高級神霊だと言いながら、この話のような説明をも出しているわけだ。

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功過格(毎日の行動を善悪に分けて採点する)

2024-02-21 03:59:57 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-07

◎天国まで-07

【天国志向と積善】-3

◎袁了凡

 

人が死んでまもなく、あの世の閻魔大王の前には、自分が乗る天秤はかりがあって、自分の体重より自分の犯した罪が重ければ、地獄行きになる。

それで中国では、他人が見てなくとも天はあなたの行動を見ているという通念があって、善行をたくさん積み重ねた家には、意外な慶び事があり、小さな悪事を積み重ねてきた家には、不慮の災難がふりかかると云う。

(積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃(よおう)あり:易経)

 

明の時代の袁了凡という高級官僚が、若年の時に、さる占い師に、貴殿は53歳の8月14日丑の刻に亡くなるが子供はいないという予言を聞いていた。

役人になってから、北京の雲谷禅師に会って、「今までの境遇や運命は、天から与えられたものであるが、これからの運命は、自分の努力で能動的に変えていくことができる。」と説得されたことで、功過格をやってみようと決心した。そこで功過格という善悪基準書に沿って行動したことにより、科挙の試験(高級官僚任官試験)も合格し、予言ではできないと言われた子供まで授かり、74歳まで生きたので、抜群の効果があることがわかり、「陰隲録」に所載されて、功過格は有名になった。(陰隲録(いんしつろく)/明徳出版社)

袁了凡は、まる三日冥想しても雑念が沸かなかったので、既に想念停止までできていた人であるが、善行実践にまで踏み込めなかったので、窮極の体験はまだなかったと考えられる。

そして功過格は、人間が生活の智慧として集めた良い行い・悪い行いの実例集ではなく、道(仏、神、宇宙意識)を知った人は善行だけ行い、悪事を行う事ができないが、その生きる姿『衆善奉行 諸悪莫作』を、世俗で生きる者のためのおすすめ行為とやってはいけない行為の実例に翻案したものであると言える。つまり功過格は人間の側から来たものでなく道の側から来た行動基準とも言えるように思う。

ところが、袁了凡の運命改善譚が、かえって世間の人に『願望実現のノウハウ』として強調されてしまったのだと思われる。

逆に、そういう誤解の起こることを承知で出したということもあるだろう。つまり功過格の外形はカルマ・ヨーガであり、無私の行動を積み重ねることにより、宇宙意識(道、仏、神)に至る道だからである。

 

功過格(善行/悪行)は、12世紀中国の金の時代の新道教「浄明道」に由来すると言われている。

また袁了凡は朝鮮に出陣し、咸鏡において加藤清正軍を打ち破ったと伝えられる。

なお、人間として、善を行い悪を行わないのは基本。また陰隲録全体としては、効果を得るべく善行を積みなさいという教訓ではあるが、もとより効果を期待して行う善行は善行ではない。だから、積んだ善行だけ見返りがあるということでとどまっていては、いけない。イエスも善行を行うなら右の手のやっていることを左の手は知らないようにやるように、と言っている。

 

積善は天国志向ではあるが、成果を期待せずにやらないと天国から先には進めないのではないか。

◎功過格の実際のやり方:

一例:

1.おじいちゃんが死んだのでがっかりしているAさんを慰めなかった(マイナス1点=一悪)。

2.Bさんにひどいこと言われたが、怒らなかった(プラス3点=三善)。

3.ペットの文鳥がごみ箱に入って動けないのを助けた(プラス1点=一善)

 

今日は合計でプラス3点でした。一カ月合計し、年でも合計していく。

 

◎功過格表-1(善行篇)

 

功格五十条(謝礼や代価を受けて行った物は除外すること)

(たとえば百善とは一回やると一善の項目百回と同等であるということです。)

 

百善

一人の死を救う

一人の婦女の貞節を全うさせること

子供を溺死させたり、堕胎しようとするのを諭し思い止まらせること

 

五十善

世嗣ぎの絶えるのを継続させてやること (先祖供養の継続)

一人の寄る辺ない人を引き取って養ってやること

一人の無縁者の死骸を埋葬してやること

一人の流浪者を救うこと

 

三十善

一人の者を出家得度させること

一人の無法者を教化して行いを改め善につかせること

一人の無実の罪を明らかにして救ってやること

自分の土地の一か所を無縁者の墓地に提供すること

 

十善

一人の有徳者を推薦し引き挙げてやること

一つの民の害になることを取り除くこと

一冊の世を救う法典を編纂すること

医術等をもって一人の重病人を治してやること

 

五善

一人の訴訟者を諭して思い止まらさせること

人に一つの生命を保ち益す方法を伝えること

生命を保益する書物を1冊編纂すること

医術等をもって一人の軽病者を治すこと

人間に役立つ1家畜の生命を救うこと

 

三善

一の不法な仕打ちを受けても怒らないこと

一つのそしりを受け手も受け流して弁解しないこと

一つの気に入らぬ言葉も甘んじて受けること

一人の打ち懲らしめてやりたいものに対して許してやること

人間に報いることもない一匹の畜生の生命を救う

 

一善

一人の人の善を讃えること

一人の欠点や悪いところをあばき立てないこと

人の非行の一時を諭しとどめること

一人の争いを諭しとめさせること

出かけていって人の病気を治療すること一回

捨ておかれた字一千字(文書のこと)を拾い上げること

饗応に招かれることになって受けないこと1回

一人の飢えを救うこと

死人を留めて一夜の宿を貸してやること

正しい道を説いて教化が一人に及ぶこと

事業を興しその利が一人に及ぶこと

人畜の疲労を世話して回復させること一時

一匹の自然に死んだ鳥類畜類を埋めてやること

一匹の微細な生物の命を救うこと

 

一万円相当が一善に相当する行い (注1.原典では、百銭相当が、一善または一悪に相当することになっているが、ここでは、仮に一万円相当とした。)

道路や橋を修繕すること

河川を通じさせ、井戸を掘って民衆を救うこと

神社仏閣などの聖なる像壇宇や供養などの者を修繕すること (他人に費用を与えてさせた場合には半減して計算する)

人のなくした品物を返すこと

債務を免除すること

人を教化し救うための文書を思考すること

功徳を作って非業に倒れて浮かばれない魂に回向すること

困っている者に恵んで賑わしてやること

倉庫を建て穀物の価格を調節すること

茶薬衣棺一切の物を施すこと

 

◎功過格表-2(悪行篇)

 

過格五十条(誤って犯した物は除外すること)

百悪

一人の人を死に至らしめること

一人の婦女の節操を失わしめること

一子を溺死させさたり、堕胎させることに協力すること

 

五十悪

他家を断絶させること

一人の婚姻を破談にさせること

一人の死骸を抛棄すること

一人の人を流浪者にしてしまうこと

 

三十悪

一人の者の戒行を破らせること

誹謗して一人の行為に疵をつけること

隠し事を摘発して人の行為の邪魔をすること

 

十悪

一人の有徳者を排斥すること

一人の邪な人を推薦し、挙げ用いること

一人のすでに節操を失った婦人に触れること

あらゆる生物を殺す道具を一つ所持すること

 

五悪

経典礼法を一つ破壊すること

一冊の教化を乱す書物を編纂すること

無実の罪を明白にすることができるのに捨ておくこと

一人病人が救いを求めてきても救わないこと

一人の者に訴訟をするように唆すこと

一人の者にあだ名をつけたり噂をしたりすること

悪口を言って人を傷つけること

道路や橋や渡し場などを妨害したり、切り崩したりすること

人間に役立つ一匹の家畜を殺すこと

 

三悪

一つの耳に逆らう言を聞いて怒ること

一つの尊卑の順序にそむくこと

酔って一人の人を害すること

一人のうち責めるべきでない人を打ちたたくこと

二枚舌を使って人の中を離間すること

一つの正しくない制服を着ること

一匹の家畜以外の畜生を殺すこと

 

一悪

一人の善行を無にしてしまうこと

一人の人に争うことを唆すこと

一人の人の過失を言い広めること

人の非行一つに協力すること

一人の盗みをする者を見ても諭しとどめることをしないこと

承諾も得ずに一本の針、一本の草を取ること

一人の無知の者を欺きたぶらかすこと

一つ約束に背くこと

一つの礼儀を失うこと

一人の心配事あるものを見ても慰めないこと

人や家畜を使役して、その疲労を憐れまないこと1回

湿気に生ずる微細な生物一匹の生命を奪うこと

 

一万円相当が一悪に相当する行い (注1.原典では、百銭相当が、一善または一悪に相当することになっているが、ここでは、仮に一万円相当とした。)

天の生ずる物を無益に浪費し尽くすこと

人の功績を破壊すること

公衆の利益に背いて自分だけが利益を受けること

他人に代わって金銭を使う場合、倹約せずにほしいままに使用すること

借りた金品を返済しないこと

人の遺留品を私して返さぬこと(1万円未満も1悪に計算する)

官の権力を借りて金品の贈与を要求すること

人や金品資材を取る方法のすべてのことを謀略によってなすこと

 

 

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ドン・ボスコの生活を変える7か条

2024-02-20 03:46:29 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-06

◎天国まで-06

【天国志向と積善】-2

◎地上天国、千年王国の入り口

 

ドン・ボスコは、19世紀イタリアのカトリック神父。ナポレオン後の政治的不安定の時代に、当時産業革命の影響で、イタリアでは、職のない若者が街で数々の悪事を行うことが多かった。今でも治安が悪いというのは、もともと若者の失業、無業が多いということで、この不景気の日本も程度の差はあれ、状況は似たりよったりである。

ドン・ボスコは、こうした若者のために職業訓練校をつくり、かわいそうな若者たちを不品行と不敬虔から守る手助けをした。職業訓練校は今では珍しくないが、当時は徒弟制度のもとで、若者は、親方に叩かれたり殴られたり、下男下女同然にこき使われ、平均寿命も短かったようだ。

こういう篤志の人物は、篤志の出てくるところの根源に深く純粋なものを秘めている。

 

ドン・ボスコ(ジョバンニ・ボスコ)は、神学校に入った当初、「生活を変える7か条」を自ら定め、自分に課した。

『一、ダンス、演劇、見せ物を避ける

二、手品、曲芸、狩りは二度としない

三、飲食と睡眠の点で節制を守る

四、宗教書を愛読する

五、純潔に反する考え、談話、言葉、読書を避ける

六、毎日、黙想と霊的読書のひとときをもつ

七、毎日、ためになる出来事や考えを口に出して語る』

(完訳 ドン・ボスコ伝/テレジオ・ボスコ著/ドン・ボスコ社P115から引用)

 

シンプルである。シンプルであることは誰にでもわかるが、これにより外部からの余計な洗脳、悪い交友からの影響を受ける余地がなくなることのほうが、現代においては意義があることだと思う。

今なら、さしあたり、テレビは見ない、スマホは触らない、更に残った時間を冥想と宗教書の読書に充て、飲食と睡眠を節制するというようなところだろう。

地上天国、千年王国の入り口は、いつの時代もこういうところにあるのであって、巨富や強権力やマスコミの祭り上げるスターダムなどにあるのではない。

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禅堂の生活と修道院の生活

2024-02-19 03:33:54 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-05

◎天国まで-05

【天国志向と積善】-1

 

禅堂の生活と修道院の生活が似ているのではないかと思ってはいたが、実際に両方を過ごした人の文に出会った。どちらも巷間の喧騒をはなれた、瞑想のための専門道場である。

この文の著者の門脇佳吉氏は、中学の5年間に毎年数日禅寺に泊まり込み、坐禅や作務を経験した。

『私は大学卒業後の3年後にイエズス会に入会し、広島の長束で、修練の2年間を過ごした。修練院に入ってみると、「霊操」にもとづく修道生活が多くの点で禅の禅堂生活に似ているのに驚いた。

毎朝5時に起床し、すぐに屋外に出て体操し、洗面後一時間黙想し、ミサに与った後に15分間反省する。

7時半には沈黙のうちに朝食をとり、食後30分間で家の内外を掃除する。

しばし休憩の後、修練長から1時間講話を聞く。正午前に15分間自己を究明する。昼食後しばらく休んだ後に、作務をし、霊的読書をした後、聖堂で黙想し、夕食をいただく、食後の休憩の後、修練長から翌日の黙想すべきことについて講話を受け、自己究明の後に床に就く。

この日課を少し変えて、5時の代わりに4時に起床し、黙想・反省・究明の代わりに坐禅とし、ミサの代わりに朝課(朝の勤行(ごんぎょう))とし、修練長の講話の代わりに老師の提唱とすれば、イエズス会の修練期の日課は、そのまま禅の僧堂生活に早変わりすると言ってよいだろう。

一日の日課は30分か1時間単位でみっちりと組まれており、鐘の合図で共同で行動し、沈黙が守られることも禅門と同じである。』

(霊操/イグナチオ・デ・ロヨラ著/解題/門脇佳吉/岩波文庫から引用)

 

イエズス会の黙想・反省・究明は、観想が中心であるのに対し、坐禅では、丹田禅か只管打坐という違いがあるが、その他の部分について類似している。こういった規則正しい生活の中で、精妙なエネルギーが培われるままに数か月送れば、神を見たり、本来の自己に出会うことが、巷で暮らすよりは、はるかに高い確率で発生することを、修道院を作った人も、禅堂を作った人も知っていたのだろう。

 

門脇氏はまた、霊操は4週間にわたる観想のカリキュラムであるが、これが一週間にわたる禅の接心(坐禅漬けの修行期間のこと)と似ていることも指摘している。修行のスペシャル週間のメニューも似ていたわけである。

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天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ないとどうなるか 

2024-02-18 03:28:53 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-07-04

◎天国まで-04

◎アポロン型文明の終わり

 

5.【天国のみを志向する時代の終わり】

『天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ない』とは、キリスト教をバックボーンにした近代西欧文明の特徴であって現代社会のテーマである。

冒頭に断らなければいけないことは、『天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ない』アポロンの時代の2千年を構築したイエスは大いに成功したということ。イエスなくして、自我を拡大させ知性が大いに発達した現代人が、その洞察力で神仏に臨んで行こうとする現代までの文明の発展はなかった。

またアポロン型文明が、この時代に終わることは、北欧神話のバルドルの死やノストラダムスの諸世紀の一部で予言されている。

さて死を恐怖して、忌避するのは、個人の心性だけではなく、社会全体がそうなっている。社会全体が死を恐怖して死を忌避するアポロン型文明になってしまっている。

すなわち日本も含めて、近代西欧文明では、光の部分だけを強調し、闇の部分を抑圧してしまおうとする共通の心性が見られる。これをアポロン型の文明と呼ぶ。

西欧では、この2千年、イエスの観想法を中心としたキリスト教が席巻したが、死の世界を究めようとする垂直の道(クンダリーニ・ヨーガ型の宗教)は結局根付くことはなかった。わずかに錬金術や魔術などの伝統が細々と続いてきたにとどまった。

その結果が、天国に代表される生の明るい面ばかりを強調し、死や無意識を徹底的に隠していくアポロン型文明としての近代西欧文明が、物質偏重の現代文明として世界をリードしている。

最近のこの文明では、楽しいこと、楽なこと、嬉しいことがとにかく優先されて、苦しいこと、つらいこと、不愉快なことはなかったことにされがちである。

 

死を予感した一部の老人は別にして、今の人々の一般的な死のとらえ方というのは、『自分に限って、死ぬことはあり得ない』というものではないだろうか。つまり自分の心の中の無意識にとっては、自然現象や老齢によって死ぬことは、およそ考えられないこと。従って死は、例えば死ぬことに値する自分が行った過去の悪業の報いである恐ろしい出来事として、運悪く出現するものと感じられよう。

そして近親者で死んだ人は、自分にとって自分を寂しい思いに陥れた悪い人物と認識されることもある。つまり死者たる人物(たとえば母親)は、生前は愛し求めてやまなかったものだが、死後は悲しい別れを引き起こした憎むべき者に変わることがある。その場合の原因は本質的な自己中心性に由来する、自分に不都合なことが起こったことに対する怒りである。

また今の日本の社会では、一般に子供に対して親族の死が発生しても隠すことが多いが、子供は、死という解決できなかった悲しい謎を抱えたまま成長することになる。死はタブー、忌み嫌われるのが当たり前なものとして、謎に満ちた恐ろしい出来事と見なして、たいていの人が成人する。

つまり死とは、死んだら何も残らなくなる不愉快でよくわからないことと思っている人が結構多いのではないだろうか。こういった影の部分(死)を徹底的に隠していく社会がアポロン的社会。アポロン的社会とは、光明の側のみにスポットライトをあてた社会のことである。そこでは死はタブー、あってはならないものとして扱われる。

 

死のことばかり挙げたが、無意識も死の世界である。無意識に大きく影響を与えているものとして、天国的楽しみの基幹技術のひとつであるヴァーチャル・リアリティがある。ヴァーチャル・リアリティとはイメージとか想念、感情の世界だが、それは現実に近いだけに無意識を通じて現実に相当に影響を与えてくる。

ゲームとか自分の想念、感情の世界の中で、利己性、経済性と便利を優先する行動は、ロジカルではあるが、その行動は実は地獄的である。そういう人が増えると、この世は地獄となる。

さらに、たとえば内心利己的であっても挨拶や礼儀を欠かさなければ、社会的に非礼ではないとして過去何千年やってきたのだが、実は利己的であるということは地獄の拡大再生産であって、ここに来てバーチャル・リアリティーの発展によりそのペースが急加速し急拡大している。

20世紀後半から食料、エネルギーの世界的増産と交通機関の発達により、世界は狭くなり70億人を超えたが、神知る人を少しは残さなければならない。

 

このようなやり方で、地上に地獄が拡大し過ぎると、助かる命も助からないということはあるので、その地獄を地上に拡大せんとする異形のペースが、ある一定の閾値を越えたのではないかと思う。

だが世の大きな流れが回転し始めると、行くところまで行かないと止まらないということはある。

アポロン型文明すなわち天国のみを志向する世界は、現代のように結局地獄的世界の蔓延を見ている。そして行くところまで行かないと反転は始まらない。

我々は、天国のみ志向することをもはや長く続けることはできないのだ。

なお、天国のみ志向することの反対語は、あるものはあると認めるということである。

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