アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

グルは人間か高級神霊かそれ以外か

2023-07-31 07:02:25 | 人と神の「実際のところ」

◎グルの役割

 

グルとは正師のこと。

 

グルの役割とは、大悟覚醒の一歩手前まで持っていってくれることであって、それは人間であることもあれば、人間ではない高級神霊であることもあれば、高級神霊というようなものですらないことがある。

 

禅では、師が悟った弟子を打ち出すということが強く言われ、達磨⇒慧可⇒僧璨、あるいは大応⇒大燈⇒関山などの子弟の系譜は代表的なもの。この場合は、グルが人間である。

禅では、グルと並んできっかけが重視される。どのようなきっかけで悟ったかを調べてみると、鍵束を落とした音、闇で突然ろうそくを消されて真っ暗になった、ばあさんに箒で殴られた、投げた石が竹に当たった音、背中の壁によっかかろうとしたら後ろに倒れたなど他愛もないものだ。だからといって、この「きっかけ」がグルだと言う人はいない。

そこでOSHOバグワンは、意識・想念の連続の中に隙間があって、それが神仏だと指摘する。冥想家ではないが、合気道開祖植芝盛平やボクシングの井上尚弥のようにその隙間を見る人もいる。ところで隙間は目的地だが、グルではない。

禅の「きっかけ」も隙間への道も、人為以外の恩寵のようなものだが、それを起こすのは、日々の冥想修行や毎日精密に仕事や家事をこなすことだったり、一道専心だったりする。

 

さてソーマ・ヨーガでは、ソーマそのものが水先案内人として現れ、ソーマ冥想を導いてくれる。

ソーマ・パイロットの言葉

 

精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。

あらゆる個別的な生命形態は、そのどうしようもない束縛の中の有限性から自由になろうと永遠に願い続けている。しかし有限性という妄想は、実に陰険で楽しいトリックを個生命達に与えていて、あらゆる生命が本当は無限そのものであることを自覚しようとするのにブレーキをかけている。

有限性に慣れた人間は、有限な自己を唯一の本当の自分自身のようにいつのまにか見誤ってしまう。これが、無限な君を邪魔するブレーキであり無用である。

だから、君は死なねばならない。君は、君の見ている「現実」という名の妄想に別れを告げねばならないのだ。

 

何のために?それは君が最高に楽しく愉快で愛と安心に満ち自由になるために、あるいは、それらすべてから解放されるためだ。

単純明快なことだ、あたりまえなことだ。

君が、君を脱して君自身になろうとする働きが、ソーマ・パイロットで、そのパイロットあるいはガイドには、旅している君だけに与えられる言葉がある。ソーマは、あらゆる姿をとって君に君の消滅を最終的に告げている。君が無限である最後通告を語り続けている。』

(ダンテス・ダイジ/ソーマ・パイロットの言葉から引用)

 

ソーマは悟り薬であって薬が切れれば、元の凡人に戻る。それでも「自分が悟りを開く」とか「私は何か素適な神秘体験を得た」というようなことが妄想であることに気づくきっかけになることもあるし、そうでないこともある。だが、ソーマは、グルと見てよいのではないだろうか。

 

グルが、人間でなく高級神霊であるケースは、鍾離権から呂洞賓、ババジからダンテス・ダイジのように密教系統で頻出する。

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セザールへの手紙

2023-07-30 06:51:28 | 究極というものの可能性neo

◎実現しつつある未来

(2008-06-03)

 

ノストラダムスは、息子セザールへの手紙を公開し、不可解な迷宮の如き予言集全体への理解を図っている。

ところが、その内容たるや、この時代の終りについて言及しているとしか思えない記述が続く。

 

1.まず大洪水や高水位の大浸水が起こる。これによって、ほとんどの土地が水で覆われる。

(地球温暖化で、既にこれは現実のものとなりつつある。)

2.この水位上昇により、文芸(文明の諸記録全体を指すのだろう)がほとんど失われる。

3.同時期に、雨が非常に少ない国がいくつかあり、空から多量の火や白熱した石が降ってきて、文明を跡形もなく焼き尽くす。

(火の雨が降るってやつですね。)

4.こうした事件は短期的に発生して、次に最後の大動乱、過去と隔絶した変革が起こる。

5.これらの結果、世界は衰え、人影はほとんどなくなり、耕す者のない広大な田畑が残る。

 

ノストラダムスは、こうした大きな流れに沿って、本文中の予言が次々と実現することも断言している。最後の大動乱、大変革については、予言詩本文に散りばめられているということ。

 

これを見るとほんわか気分で集団アセンションとか、フォトンベルトでゆっくり覚醒というような悠長なことが起こるわけではないことを見ていたのがよくわかる。

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クール・ウェア-猛暑対策

2023-07-30 06:49:37 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎乾いた暑い日々

 

2023年7月24日からスタートした猛暑日は、昨日で6日目、今週も継続しそうである。昨日午前中に外出してみたが、水冷ベストと冷えタオル頭巾と冷え首タオルという装備で歩いたが、顔汗は出ずに済んだが、帽子の外側がバーベキューの鉄板並みに熱いのには驚いた。

上半身の冷却ウェアは、バッテリーを背負う空冷タイプが席捲しているようだが、空冷ではなく機動隊も使用していると言われる20cm四方の保冷剤三個を胴体前後に背負うタイプも試したことがあるが、ないよりまし感はぬぐえなかった。そこで私は水冷(といっても電動水循環しないタイプ:ドライクールベスト(ミドリ安全))ベストを愛用している。水冷も重いことは重いのだが、その厚みで熱線を遮るところが気に入っている。なるべく水が垂れないタイプなのだが、こればかりは、同じ水冷ベストでも実際に試してみないとわからないところがある。

 

頭に巻く冷却頭巾もヘアスタイルが崩れることを気にしなければ、タオル地を頭に巻くタイプがよいが、最近は吸水性蒸発性に優れた軽いタイプの素材のが出ている。首の冷却マフラーも最近は、二重巻できる長くて軽いのも出てきて進歩している。おまけにあまり濡れない。

 

というわけで、2年前ならクール・ウェアヲタクしかしないであろう装備を持っていたが、これがこの異常猛暑でフル稼働する時節を迎えるとは思いもよらなかった。こうした装備を揃えたのは、熱さに弱いせいで、無対策だと夕方には気力が尽きる経験を何回かしたからである。

 

一方で室内ウォーキング(室内散歩)は、継続している。最近は思うところがあってプランクを始めた(太もも前側の血流が刺激される)。1週間で10秒からスタートして25秒まで延びた。

またこの炎天下のアスファルトの熱さでは、犬の肉球もやけどは必定。ワンちゃんも受難の時。室内散歩で検索するとほとんど犬の記事であるのは、笑えない。

 

昨夜は、墨田川花火大会で百万人集まったというが、近所の町内のお祭りも例年になく人が出た。危険な熱さによる中の日中の外出自粛の反動ではないのだろうか。

かくして当面予想される連続二週間の猛暑日は、体力体調も心配だが、外出できないことで蓄積された心的エネルギーが暴発する危険をはらむことが心配である。その点でも室内ウォーキングと冥想(瞑想)の効果は馬鹿にできない。

 

こうした乾いた猛暑の夏の日々は、ノストラダムスのセザールへの手紙の一節『雨が非常に少ない国がいくつかあり云々』を思い起させる。

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霊で語る世界の進化

2023-07-29 06:47:33 | 人と神の「実際のところ」

◎最初から霊や神仏が絶対的に居るなどということはない

 

肉体があって、霊があって、諸神霊・諸仏がいて、最後に仏あるいは神がいるというのは、霊がかり好きな人が採用したがる世界観だが、それですら無数にある世界観の一つに過ぎない。要するに最初から霊や神仏が絶対的に居るなどということはない。

だから、ヤキ・インディアンのようにトナールやナワールやイーグルや忍び寄る者などで世界全体を語る者もいれば、古代インドのように輪となった大蛇の上に大きな亀がおりその背中に複数の巨象がいるとする世界観もある。

つまり先に世界の骨子を成す道具立てがあるということではなく、ひたすら自分が世界全体をどう見るかということ。

それを確認するには、悟りを開いて、自分が世界全体にならねばならない。

 

ダンテス・ダイジが弟子との座談で、珍しく霊での世界の生成と消滅までを語っている。それは次のようなものである。(素直になる/渡辺郁夫編P155)

1.無の段階

2.霊の段階

3.霊の霊の段階

4.霊の現象の段階(霊が現象化している段階)

5.現象が霊と関わる段階(これが現代)

6.現象の現象の段階(完全に物質の中に入っている世界)

7.無の段階(最初に戻る)

 

ひと頃AIが暴走して人類を奴隷化したり、AIが人類を支配して絶滅させようとする映画が盛んに作られたが、生成AI、ChatGPTは、その現実化の走りとも見ることができる。将棋七冠の藤井聡太は、“現象の現象の段階”であるAIと人間が対抗できる最終ディフェンスラインを死守する最後の戦士みたいなものとも言える。勿論この連日の37度越えの猛暑の中、冥想修行に打ち込む修行者も同じような立場とも言える。“現象の現象の段階”とは、地獄であり、世界全面核戦争後の廃墟の世界であって、神はそれをほとんど許し給わぬことは、世界各地の神話や古伝承に出ている。

 

また七つの身体論で言えば、第六身体は世界全体宇宙全体だが、自分が世界全体宇宙全体であるサマーディ(有相三昧、サビカルパ・サマーディ)にあって、そこで世界全体が無から始まり、エーテル体から微細身レベルに展開し、最後はニルヴァーナなる無に進む。ただし、その進化の全ステップを確認できるのは、なぜか自分が第六身体と合一した体験を経てからだと言われている。要するに“未悟の99%以上の普通の人”と覚者の間で、その進化の過程に関する共通認識を持つことはできないのだ。

 

無から始まり無に終わる輪廻のことをカルパ・劫と呼ぶが、それを見ることは大変だが、それを知的に理解することはまだたやすい。現代人は、そのように知的に納得しないと真剣な冥想には入っていくまい。

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鏡の前のストリッパーの踊り

2023-07-28 06:38:13 | 無限の見方・無限の可能性

◎カルロス・カスタネダの記憶すべき出来事

 

カルロス・カスタネダは、ずっと貧しかった。学生の時もそうだった。彼は二度の同棲経験があるが、その同棲の時期も金は主に同棲相手が出していた。求道者は、往々にしてそんな人生になることがある。

 

師のドン・ファン・マトゥスに命じられ、カルロス・カスタネダは、無数の出来事のうちで記憶すべき出来事として“鏡の前の踊り”を思い出せる限り克明に思い出し、語ることになった。

 

カルロス・カスタネダがイタリアの美術学校で彫刻を学んでいる時に、あるスコットランド人と親友になった。そのスコットランド人エディーは専門が美術批評だが、その土地の売春婦一人一人について実に詳しく知っていた。ある日エディーが、売春宿でえらく奇妙な体験をしたので、彼が金を出してくれるということで、カスタネダも体験しに行くことになった。

それは、鏡の前の踊りである。

薄汚いおんぼろの建物の前に、二人の

うさんくさい黒髭の男が立っていた。エディーとカスタネダは、階段を二つ上がって112号室に入ると、マダム・ルドミラがいた。

彼女は、背が低く肉付きがよく、白茶けたブロンドの髪で、赤いシルクのローブをまとっていた。年の頃は40代後半か。エディーは、部屋を去ってカスタネダだけになった。

マダム・ルドミラが“鏡の前の踊り”を見たいかと訊いてきたので、カスタネダはうなづくと、彼女は“鏡の前の踊り”は前戯にすぎず、気持ちが高ぶってきて、あっちがその気になったら、やめるように言ってちょうだいと言い、それから先は隣室のベッドで行われることを示唆した。

二人は、暗くて薄気味悪い小さな電球に照らされた部屋に入り、彼女は蓄音機でサーカスの行進曲のような悩まし気な曲をかけた。そこで二台の大型衣装ダンスの両開きの扉を開けると、中には全身を映す大きな鏡がついていた。

マダム・ルドミラは、赤いローブを落とした。肌は白く、大部分が張りがあったが、腹が少々たるみ、豊かな胸も垂れていた。顔もあごやほほのあたりにたるみがある。鼻は低く、唇を真っ赤に塗って黒いマスカラをつけている。それでもどこかあどけなさ、少女みたいな自由奔放さと信じやすさと優しさがあった。

カスタネダは、既に深く心を揺さぶられた。

 

マダム・ルドミラは音楽に合わせ、片足を高く蹴り上げ、次に反対の足を上げ、独楽のようにくるくる回り、「お尻、お尻」と言って、裸の尻をカスタネダに向けてカンカンのように踊った。これを彼女は何回も繰り返した。

カスタネダは、彼女が旋回しながら遠ざかりどんどん小さくなっていくと感じた。ふと絶望感と孤独感が心の奥底から浮かび上がり、カスタネダは、椅子から立ち上がって部屋を出て狂ったように階段を駆け下り外に出たのだった。

 

ドン・ファンは、このエピソードについて、あらゆる人間の心の琴線に触れるとし、われわれは老いも若きも誰もが“鏡の前の踊り”を踊っているのだと解説している。『彼らがどんな人間であろうと、あるいは彼らが自分をどう考えていようと、さらにはまた彼らが何をしようと、彼らの行為の結果はつねに同じだということが明確に理解できるだろう。そう、鏡の前の無意味な踊りだということがな』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房P43から引用)

 

“鏡の前の踊り”で、プラトンの国家7巻の洞窟の影絵を思い出す人もいるかもしれないし、空性の悟りを思う人もいるかもしれないし、色即是空を思う人もいるかもしれない。私は、閻魔大王が用いるというその人の人生すべてを映し出す浄玻璃鏡を思うのだ。

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丹田を錬る-7

2023-07-27 18:39:41 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-6

◎伊吹の神事

(2021-03-01)

 

一厘の仕組は、言霊。言霊を伊吹き払う。

『言霊(ことたま)の水火(いき)をこらして曲神(まがかみ)を

  伊吹き払へば消え失せにけり』

(霊界物語第77巻 第一五章 笹原の邂逅)

 

伊吹の神事は重要である。

やり方のポイントは、

1.両掌を臍の位に置き、勢よく十字形に組み合せ

 

2.腹式深呼吸を三回行う。

※腹式深呼吸:完全呼吸法(丹田呼吸法)

①意識を丹田(へそのやや下)において腹をひっこめ、息を十分に吐きだす

②1~2秒息を止めてから、腹の力をゆるめる。すると自然に鼻から息が入り、腹が少しふくれる。

③胸を広げ、まず胸の下部分に息を入れ、次に真ん中とだんだん上方に息を入れていき、最後に肩を上げ、胸の上部にまで一杯に息を入れる。息が胸に滿ちるにつれ、腹は自然に少し引っ込む。意識は、息で膨らむ部位とともに上へ上へと位置を変えていく

④しばらく息を止め、やがてゆっくり息を吐く。まず腹がすぼまり、次に胸の下部、中部、上部とすぼまりながら、完全に吐く。 意識をすぼまる部分にそって移動させる。

 

3.最後の吸気を全部呑んで呼出しない。

 

以下は霊界物語での伊吹の神事の説明。

伊吹の神事:

『雄詰を終りて、直ちに両掌を臍の位に置き、勢よく十字形に組み合せ、然る後腹式深呼吸を三回行ふ。而して最後の吸気を全部呑みて呼出せず、之を伊吹の神事と言ふなり。』

(霊界物語第75巻第一章 禊の神事から引用)

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OSHOバグワンの師匠、出口王仁三郎の師匠

2023-07-27 07:16:34 | 人と神の「実際のところ」

◎密教、古神道、クンダリーニ・ヨーガの大家には師匠がいないように見える

 

OSHOバグワンは、超能力、神通力、テレパシーは、ひらけらかさなかったが、七つの身体論の精妙なる説明やクンダリーニに関する説明が、ウパニシャッドからヴェーダ、チベット密教に至るまで、昔のマスター達が説明しなかった部分まで精密な解説を行っている部分がある。

だが、彼にはクンダリーニ・ヨーガの大悟覚醒時の師匠の大恩、思い出を語ることがないのは奇妙だと感じる人も多いのではないか。

これについてダンテス・ダイジは、OSHOバグワンは、師匠につかないで最後まで独力で大悟覚醒、神人合一にまで至ったという話をしている。それだけに彼は筆舌に尽くせぬ苦労をした由。

半端にクンダリーニを上げると、日常生活ができなくなったり、発狂したり、自殺したり、事故にあったりすることがあるものだが、OSHOバグワンは恐るべき好奇心と気力と冷静さで、それらのあらゆるピンチを凌ぎ切ったのだろう。

ダンテス・ダイジの『人がたとえ皆逆立ちして見えても、足に向かって話し掛ける冷静さを持つ人だけが、クリヤ・ヨガのブリザードを突破できる』という言葉はその消息を言っているのだろう。

 

釈迦でも、『ブッダ 悪魔との対話』という岩波文庫があって、人間に非ざる悪魔や神霊などと沢山のコンタクト、会話をしている記録が残っている。クンダリーニ・ヨーギとは、そういう肉体ではないクリーチャーと日常を過ごすということなのだろう。現代でそういう話を大真面目にするとまず“引かれ”たり相手にされなくなるが、クンダリーニを上げるというのは、そういう世界に片足を入れるということである。だが、彼ら先達にとってはそれが紛れもない現実なのである。

 

古神道の出口王仁三郎も、師匠としては静岡県清水の稲荷講社の長沢雄楯がいるが、力量的には出口王仁三郎の方が上であり、実態は師らしい師について修行していない。霊界物語では、師匠筋として小松林命とか松岡という高級神霊が出てくるが、それは人間の師ではない。出口王仁三郎は本当の古神道の師を明かしていないと見るべきだろう。

そして彼の一生をみると京都の皇典講究所を出てから彼の社会的活躍が大きく拡大する。その転換点での進路指導を誰か師匠がやっていたのではないかと思うが、それは肉身の師匠ではないのだろうと思う。

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北大路魯山人が出口すみの書を激賞す

2023-07-26 06:49:54 | 古神道の手振りneo

◎よがかわり てんかむるいの へたなじをかく

(2019-06-02)

 

北大路魯山人は悟っていたかどうかは知らない。毒舌、傲岸不遜だったから未悟だったのだろう。

彼は、明治末、朝鮮、中国国内を旅行、滞在し、書道や篆刻を学び、書家であり、篆刻家であり、加賀料理を極め、織部の作陶家であった。

彼の父は、彼が生まれる前に他界。京都の巡査のもとで育てられ、尋常小学校を出ると丁稚奉公した。いわゆる不条理の陰を出生直後から負うという、覚者によく見られる生い立ちである。

昭和30年陶工としての人間国宝を辞退。これには、イチローの国民栄誉賞を遠慮する心情と通底するところがあるのかもしれない。

 

さて出口すみは、王仁三郎の細君。王仁三郎は折に触れ自分の字よりすみのほうが良い字を書くと評価していた。

 

戦後、備前焼の金重陶陽(人間国宝、大本信者)のところに北大路魯山人が備前焼研究のため逗留していたのだが、床の間に仮名で「よがかわり てんかむるいの へたなじをかく」という掛け軸のあるのを発見。

北大路魯山人は、これほどの字を書く人が今の世にいるということが不思議だとして、亀岡まで彼女に会いに行った。後に北大路魯山人は、北鎌倉の自邸の床の間に彼女の手紙を表装して、来客にそれを自慢していたという。

北大路魯山人は彼女の字を天衣無縫と評している。

 

「よがかわり」は、敗戦。本守護神、本来の自己、第六身体は、もともと「てんかむるい」以外のなにものでもない。

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書と気合

2023-07-26 06:27:26 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎一刀艮(とど)めを刺す場合の意気と気合が必要

 

女優吉岡里帆は、書道八段で常時筆ペンと便箋を持ち歩いている由。PC、タブレット、スマホの時代になって、若い人の書く字が昔の人よりきたなくなったとは、よく言われる。私は悪筆なので、若い人たちのそれを言う資格はないが、妙齢の美女のメモの字が拙いのは少々がっかりもする。その点で吉岡里帆の心映えには、少々見上げるものがある。

 

というわけで、能筆で鳴る出口王仁三郎が水墨で達磨図を書いた。画ではなく書について彼の書道論を捜してみたのだが、ないので、画に関しての文章を上げてみるが、書道の精髄とはこのようなものであろうことはわかる。

『前代未聞の水墨大達磨を描きたる体験

一、調子の外れる事は意外の意外甚だし。

二、肉細なれば貧弱に見ゆ。

三、肉太にても矢張り貧弱を感ず。

四、一筆描きの本意として一線一点にも、有つてもよし、無くても好しと見るべき無用の筆は、一筆描きとして働きの真価なし。茲に於て、一筆描無二の大作品としては実に体験家以外に到底判るものにあらざるを断言して憚らず。又仮に試みたる画師のあるべきも、容易に成功し得ざりしなるべし。

 之を貧弱に流れず、権威ある剛健作に近づかさんには、

 第一全身の気合を固め、線を引くに一分刻み毎に腕の力を押込むること。

 急転直下脱兎の気合なるべき事。

 腕で描くといふよりも体力にて描き、殊に開眼の一点はカハセミの魚をねらつて飛び込む時の気分を要す。一投墨の真諦この辺に存するなり。

 如何に肉太の筆を用ゆるも只の勇気は紙上に上走り、決して剛健の力と権威は紙上に躍如たらず。要は一刀艮めを刺す場合の意気と気合を必要とす。

 快心の作に近づきて苦心体得上茲に告白するものなり。』

(月鏡/大画揮毫について/出口王仁三郎から引用)

 

彼の書道論には、自我を離れた筆こそ最高であってこれを「愚筆」と称しているのがある。すなわち出口ナオ出口スミの筆こそが小野道風、菅原道真、弘法大師を越えるものだとしているが、筆がすべったのだろうか。

『日本で書道の大家と云へば小野道風、菅原道真それに弘法大師の三人であるが、三人共まだ拙筆の域を脱していない。その点になると開祖様のお筆先の文字は一見甚だ拙いやうに見えるが、既に愚筆の境地に達した大文字である。二代の書もさうだ。

愚筆の文字は必ず筆の中心が働いてゐる。筆の心で字が書かれてゐる。弘法大師の文字は筆の中心から少し離れたところがある。愚筆の文字は稽古したからと云つて、又書こうと思つて書けるものではない。本当に自我を離れて、自然に筆を動かすやうな境地にならないと書けるものではない。知名の士の書の中に、一見甚だ上手な書を書いてゐる人があるが、大抵は技巧が上手な丈で愚筆の境地からは甚だ遠いものが多い。』(『神の国』昭和10年(1935年)9月号 拙筆と愚筆/出口王仁三郎から引用)

 

書とは、肚(丹田、スワジスターナ・チャクラ)と気合で書くものだとは、門外漢からすれば意外だが、一道専心とはそういうものだろう。

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気合訓練の必要性

2023-07-25 06:39:54 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎男性には必須、気で身体をつなぐ

 

この本気でやるということをできるだけ排する風潮の時代に、気合ということは半ば死語となっている。中高年向けのきくち体操では、どんなに筋肉があっても頭と筋肉が連動しないと改善しないと強調する。これは、頭で考えた通りに手足、筋肉が動かなくなってしまうと、精妙なるきくち体操をもってしても筋肉の復活はないということをいう。なお、きくち体操は、百歳まで自分の足で歩くが一つのスローガン。そのためには筋肉のやせを防ぎ、毎度頭と筋肉をつなげるという練習を行う。

 

私の毎朝の運動メニューには、古神道の禊の神事五種のうち二種(振魂の行事、天の鳥船)しか入っていない。残り三種もやるべきだとは思っていて、合気道用の帯まで買って(雄健(をたけび)の禊では帯が必要)、やらずにいたが、改めて始めてみようと思った。これは、出口王仁三郎の天の鳥船の解説で『天の鳥船:衆心一和の禊、渾身に力をこめる。特に臍のあたりに力をこめ、気合とともに、櫓を漕ぐ動作を百千回反復する。運動それ自体が修練となる。また、気合術の練習にもなる。』(霊界物語 第75巻第1章禊の神事から引用)という一文を見たせいである。天の鳥船も気合を入れてやるのだ。

 

なお大声を出すのは、いろいろあるので、無音でやらざるを得ない場合があると思う。なお、達人が本当に大声を出すと、街全体に聞こえるとか、三つの山を越えても聞こえる(唐代の高僧巌頭が賊に襲われ、数十里先まで聞こえるほどの大絶叫を上げた)とかあるので、近所迷惑以上のことになることもあり得る。

 

出口王仁三郎曰く、『禊の間は、食事を減らす。朝夕に一合の粥と三粒の梅干、少量のごま塩以外は食べない。しかし、内部の根本精神が興奮緊張するために、疲れたりやつれたりすることはない。』(上掲章)、とあり、気合が上達すれば、この連日の体温越越えの37度を越す猛暑の中でも、ある程度動けるようになるかもしれない。

 

きくち体操は、中高年女性向けとして発展してきた経緯があって、基本女性向けだと思う。そもそも女性は生まれながらに肚ができているので、男性のように後天的に練習して丹田(肚)を作る必要はない。つまりきくち体操はいわば既に丹田(肚)ができた人向けの体操なのだろうと思う。よって肚がふわふわしている男性としては、おそらく頭と筋肉をつなぐとは、肉体と神経系とエーテル体(気)を結ぶということであって、全身を一気につなげる気合の強化(エーテル体の強化)が必要なのだろうと思った。

 

【古神道の禊の神事】

1.振魂の行事

2.天の鳥船

3.雄健(をたけび)の禊

4.雄詰(をころび)の禊

5.伊吹の神事

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クンダリーニを上げるのは危険

2023-07-24 05:59:55 | 浅い霊感から神人合一まで

◎人生と思えるものすべてが失われてしまう危険性

 

youtubeでクンダリーニで検索すると多数の動画が上がって来る。まるでクンダリーニが目覚めたり、クンダリーニが上がることがよいことであるかのように。「クンダリーニ覚醒」という言葉を使っている例も多いが、クンダリーニが上がることが大悟覚醒ではない。

クンダリーニが上がるとは、霊道が開くということであり、それはチベット密教の学識経験者であるクショグ・ワンチェンが、霊的なものへのコンタクトを適切な指導なくして行うことの危険を指摘しているとおりであり、生兵法は大怪我のもとであり、知らぬが仏である。

クンダリーニ・ヨーガに取り組むに際して、あなたはこの人生も次の人生も賭ける準備ができているのか、すべてを棄てる覚悟ができているかが、入門時に問われる。

 

わりとその辺に無頓着に見えるOSHOバグワンもそこは説明している。

『ある友人が尋ねている。

「クンダリーニを目覚めさせるのは、危険なことなのでしょうか?もしそうであれば、 どのように危険なのでしょうか。また、危険があるのなら、どうしてクンダリーニを目覚めさせなければならないのでしょうか」

 

クンダリーニの目覚めには、多大な危険がともなう。実のところ、自分にとって人生と思えるものすべてが失われてしまう危険性がある。クンダリーニが目覚めると、人はそれまでとは 異なった人間となる。すべてが変化する。すべてがだ!

関係性、感情、世界といった、昨日まで馴染みのあったもののすべてが変わってしまう。変化をもたらすものは、すべて危険だ。

石炭がダイヤモンドになるには、石炭としての生命を断たねばならない。だから危険性は非常に高い。が、それは石炭としての危険にすぎない。石炭がダイヤモンドになるのは、それが石炭として消え去って初めて可能だ。 おそらくあなたがたは、ダイヤモンドと石炭とは、本質的にはまったく違わないことを知らないだろう。もともと、両方とも同じ元素に属している。ダイヤは非常に長い歳月を経るうちに、石炭が変化したものだ。化学的にいえば、石炭とダイ ヤモンドは基本的に何ら違いはない。しかし石炭がダイヤモンドになりたかったら、石炭のままではいられないし、非常に危険な状態に直面することになる。

同じように、神を求めて道を歩んでいく人も、危険に直面する。その人は、人間として死ぬことになる。河も海へ合流する時には、大きな危険に直面する。その時、河は消え去る。それを避けることはできない。だが「危険」とはどういうことなのか? それは消滅だ。消え去る覚悟、死にゆく覚悟のある者だけが、神へ至る旅へと向かうことができる。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社P120-121から引用)

 

クンダリーニが半端に覚醒あるいは上昇して、生活できなくなったり、統合失調症と診断される例は、気をつけて見ていればあるものだ。密教、古神道、道教内丹、西洋錬金術など広義のクンダリーニ・ヨーガに分類されるものには、そういう危険性がついて回る。

その道はモバゲーのように経験値を上げてレアアイテムをゲットして行けば必ず覚醒ステージに上がるというようなものではなく、クンダリーニが目覚めれば、経験値はおろか人間としてのすべてが失われる危険性がある。

 

霊界が出てくるものを読めば、何百年も霊界のある場所に人知れず囚われている人を見かける話などが出てくるものだが、その人の肉体はどうしているのだろうかと想像すると、そういう事故が発生したせいなのだろうかなどと思う。

唐代伝奇の猜娘(せんじょう)離魂のエピソードは禅の公案にもなっているのだが、5年も寝たきりの猜娘とは、そういう類のことだったのではないかとも思う。

また向精神性薬物の使用でそういうことが起こる可能性があることも知られている。

あらゆる手法がフリーハンドで可能であってそれが、メリットばかりを強調する動画やプレゼン資料などでネット配信される現状というのは、それを説いているのが正師かどうか検証する手段も判断する能力も自分にない以上は、慎重に構えるべきなのである。

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張陵の趙昇の得道をサポート-2

2023-07-23 06:19:20 | 浅い霊感から神人合一まで

◎自分のすべてを棄てる覚悟を試される

 

趙昇が崖の上に上がって来ると、師張陵は、「趙昇ができたからには、わしが同じことを試しても構うまい。わしなら桃の実を200個と言わずもっと沢山取って来れるだろう。」と言った。

王長と趙昇は黙っていたが、その他大勢の弟子は、「師がそんな危険なことをしてはなりません。」などと思い止まらせようとした。

ところが、張陵は、そそくさと崖から身を躍らせて谷に飛び込んでしまった。しばらく経っても張陵が戻って来ないので、弟子たちに不安と動揺が広がって行った。

 

王長と趙昇は、「師匠が亡くなってしまったら我々はどこに戻ったらいいのか。」と叫び、二人一緒に深い谷に身を投げた。崖の上に残された弟子たちは、二日間は待っていたが、そこまでの覚悟がなく、命あっての物種ということで、三々五々帰って行った。

 

さて王長と趙昇は谷底にゆっくりと降り立つと、張陵は、目の前の七宝台の上で端座し冥想していた。張陵は、莞爾として笑い、「そなたたち二名が来ることはわかっていた。」と言って、神丹、経書、秘訣を手渡した。

後に、張陵123歳にして、西暦156年天師の地位を息子の張衡に譲り、その後王長と趙昇を伴って青城山雲台峰から白日昇天した。

 

これは、魏伯陽の故事と類似したモチーフである。

つまり誰でも一生懸命努力すれば、成道するというものではないこと。弟子であってもその命を賭ける覚悟がないと秘伝を受けられないこと。だが、この世的なあらゆる経験をほとんど経て、俗世的な欲望が終わっていなければ、命を賭ける覚悟ができるものではないということ。

 

崖に飛び込んで、実際に生還できるものだとは思わない。過去の悪業を清算するために今生を終わらせたということもあるかも知れない。あるいは、チベットでよく言われる空中歩行術やまさに白日昇天で空中を進む術を用いたか。これらは、超能力、神通力を用いたということだが、カトリックでも教会内を飛び回る人物はいたものだ。ただし未悟の者が超能力、神通力を求めるのは、地獄への高速道路ではある。

よってここは、自分のすべてを棄てる覚悟を試されたと見るのだろう。

 

また、崖から落ちる話には、以下のようなものもある。

  1. カルロス・カスタネダが断崖に向かって勢いよく走って行って深淵に飛び込んだ。
  2. チベットのナロパは、師ティロパに崖から飛び降りろと指示されて、実際に飛び降りた。
  3. 四国山中で乗合バスが転落して、その死後の様子をレポートした件。(丹波哲郎の霊界探訪の「霊界旅行」)
  4. 古代ローマでティベリウスが占星術の占断を聞いた後、占断が終わったら崖下の海に、毎度占星術師を突き落とした。

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張陵の趙昇の得道をサポート-1

2023-07-22 06:34:15 | 浅い霊感から神人合一まで

◎断崖絶壁に飛び込む

明日から一週間ほどは、最高気温34度以上と予想され、外出が危険な時期になる。そうなると猛暑下の室内ウォーキング(Indoor Walking Workout)が有効となる。竹脇まりなの10分もの15分もの20分もののyoutubeをよく利用しているが、関連する会社uuumの赤字決算が東洋経済で報道されていたので、心配なことである。

 

さて竹脇まりなの動画を片目で見つつ、時に中国成都近郊の青城山Walkingの動画を同時に別モニターで再生しつつ室内散歩している。

※青城山

Walk China Mountain 4K - Mount Qingcheng Hiking from Front Gate Part.1 - YouTube

(Walk China Mountain 4K - Mount Qingcheng Hiking from Front Gate Part.1)

https://www.youtube.com/watch?v=xDyc_3DiM18

(Walk Qingcheng Mountain in Chengdu, China 4K - Part.2 | 四川,成都,青城山)

 

青城山は、中国スピリチュアリストの元祖黄帝も修行した場所であり、2世紀には張陵が出て、青城山に棲む魔を一掃し封じ込め、道教(五斗米道)の聖地に変えた。

さて張陵は、高弟趙昇の一月七日の到来を予言。趙昇がやってきても張陵は簡単に入門を認めず、美女、黄金、山鬼、乞食など六種のテストを行い、これをパスしたので、弟子にした。

ある日、張陵は、200人余の弟子たちにこの断崖絶壁の下に霊験あらたかな桃の実があるが、これを取って来た者に我が道法を伝授しようと宣言した。皆が二の足を踏んでいる中、高弟趙昇は、師匠が言うからには危険なことなどあるはずはないと申して、身を躍らせて崖を飛んだ。

すると真っすぐ落下して、うまい具合に桃の木の枝に降り立つことができた。

趙昇は、桃の実をなんと200個も摘み取り、上に向かって桃の実を投げると張陵が崖の上で受け取るという事を繰り返した。張陵は他の弟子に桃の実を一個づつ配り、最後に一個だけを残して、趙昇が藤蔓を伝って登って来るのを待った。最後の一歩では、張陵が片手を差し出して、肘を延ばすこともなく、趙昇を引き上げた。

 

この最後の一歩で師が登場して手を差し出すのは暗示的であり、単なる親切でやっているとは見ない。

また桃の実は、智恵の木の実であり、太母であり、聖霊であり、女陰であり、宇宙卵である。

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大燈国師遺誡

2023-07-21 07:17:45 | 達磨の片方の草履

◎冥想修行者は、悟らなければ駄目

 

大燈国師宗峰妙超は、花園天皇との対話で有名な禅僧。悟り後、大応禅師に印可(悟りを認められること)されたが、引き続き悟りを深める聖胎長養を鴨の川原で乞食として7年行った。

大燈国師は臨終に際し、長年曲がらなかった足を故意に折って出血しながら結跏趺坐し、この遺誡を述べた。

 

他宗派の聖者からも大燈国師は別格と見ている人がいる。ダンテス・ダイジの冥想道手帳の経文篇にも大燈国師遺誡が挙がっているが、長年どこが凄味があるのかピンときていなかったが、禅を『クンダ自体の中に没入する近道』と見た場合、近道は遠い道であるクンダリーニ・ヨーガ(密教、道教、古神道など)より困難なだから無理な修行を究め尽くせよというところで、禅の修行者はピンとくるのだなと感じるところがあった。

 

以下【】内は大意

『興禅大燈国師遺誡

 

汝ら諸人、この山中に来たって、道の為に頭をあつむ。 

【諸君はこの山中に来て、道のために集まっている。】 

           

衣食の為にすること莫(なか)れ。肩あって着ずということなく、口あって食らわずということなし。

【衣食を得るためにしないこと。肩があるので、着物を着ないということはなく、口があるので、食べないという事はない。】

 

ただ須(すべか)らく十二時中、無理会(むりえ)の処に向って、究め来り究め去るべし。 

【一日二十四時間、理屈が通らない無理な不可能な処(達磨が西からやってきた理由。公案を透過した大悟。)に向かって、究め来て、究め去ること。】

 

光陰矢の如し、慎んで雑用心(ぞうようしん)すること勿(なか)れ。

看取せよ。看取せよ。 

【時間はあっという間に過ぎる。くだらないことに心を用いてはいけない。(その心の動きを看て取れ。)】

 

老僧行脚(あんぎゃ)の後、或は寺門繁興し、  仏閣経巻に金銀をちりばめ、多衆閙熱(にょうねつ)、或いは誦経(じゅきょう)諷咒(ふうじゅ)、長坐不臥(ちょうざふが)、一食卯斎(いちじきぼうさい)、六時行道、

 

【私が(大燈国師)行脚した後、寺が栄えて寺やお経にも金や銀がちりばめられたり、大勢が集まり賑わったり、あるいはお経や、マントラを唱えたり、横にならず長時間坐禅をしたり、食事を朝だけの一食にしたり、一日に六度の修行に励んだりするかもしれない。】

 

たとい恁麼(いんも)にし去るといえども、仏祖不伝の妙道を以って、胸間(きょうかん)に掛在(かざい)せずんば、忽ち(たちまち)因果を撥無(はつむ)し、真風地に堕(お)つ。みなこれ邪魔の種族なり。

老僧世を去ること久しくとも、児孫と称することを許さず。

 

【たとえ、このようにしていたとしても、仏祖が言葉では伝えることが出来なかった真理(妙道)が胸にいつもあるのでなければ、たちまちそれまでの法を伝承してきた長年の努力(因果)が無くなり、本当のところはわからなくなってしまう。

そういうのは皆、悪魔の種族である。

私が亡くなって長い年月がたっても、そんな修行者は、私の法の子孫と名乗ることを許さない。】  

          

もし一人あり野外に綿絶し、一把茅底折脚鐺内(いっぱぼうていせっきゃくしょうない)に、野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に己事(こじ)を究明する底は、老僧と日日相見(にちにちしょうけん)、報恩底の人也。

誰か敢えて軽忽(きょうこつ)せんや、

勉旃勉旃(べんせんべんせん)。

 

【もし人里離れた野に一人でいて、小さなあばら家に、壊れた鍋で野菜の根を煮て食べながら冥想(瞑想)修行しているとしても、ただひたすら自分自身に直面、究明するような人こそが、私と日々顔を合わせて参禅しているようなものであって、私に恩を報いてくれる人である。

そのような人を誰があえて、軽んじようか。           

努力せよ。努力せよ。】

 

道元は、悟っていなくとも坐っているその姿が悟りだなどと紛らわしいことを言っているが、大燈国師はそれを許さない。とにかく、寺にあっては悟らなければ駄目だとする。現代の冥想修行者にとっては、それは当たり前だ。

また、ここでは、寺で修行する前提だが、万一寺で悟りを求める人が少なければ、現代では、冥想修行に適した環境を求めて、「寺を出るという出家もある。」と嘯いたダンテス・ダイジもいたことも承知しておきたい。

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クンダ自体の中に没入する近道

2023-07-20 06:30:32 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐からの身心脱落との類似

 

OSHOバグワンが、クンダリーニ・ヨーガのことをクンダという世界全体・宇宙全体(生の世界も死の世界も含む)に、個人が肉体からスタートして、一歩一歩徐々に進んで行く迂遠な道であると、簡単に説明している部分がある。80億もの個々人は、それぞれ自分のクンダリーニのエネルギー・コードに沿って上昇し、世界全体で見れば少なくとも80億本以上のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)が束になってニルヴァーナであるクンダに向かっている構図である。各人は、クンダ到着時には、自分の岸に到達したと思い込んでいるが、その岸は実はすべてを含む一つしかない大洋の岸である。

 

個々人のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)を船と表現し、究極であるクンダのことを岸と呼ぶ表現は、道教にも古神道にもあって、インド独自のものではない。仏教でも到彼岸などと言う。

 

このクンダリーニ・ヨーガの道は、迂遠ではあるが、進捗していることがわかりやすい。これに対してOSHOバグワンは近道である『クンダ自体の中に没入する』冥想法があることを説明している。これは近道だが、近道だから簡単だということでなく、かえって困難であるとも言っている。

 

『これまで話したことはないが、もうひとつの道がある。 クンダリーニの目覚めのために一般化されていることを説明してきたが、クンダリーニはクンダ、つまり池全体のことではない。これは個々に話さなければならないものだが、もうひとつ別の道がある。世界でもごく少数の 人しかこの道をとらなかったが、それは私たちがよく知っているクンダリーニを目覚めさせる道ではなく、クンダ自体の中に没入していくものだ。それはエネルギーの一部を目覚めさせ、 それを成長のために用いるようなものではなく、クンダつまりは原始のエネルギーの貯水池に、自分の意識をそっくりそのまま溶け込ませてしまうのだ。その場合には、どんな新しい感覚も目覚めないばかりかいかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸する。その場合人は直接、神あるいは至高なるものに遭遇し、それを体験する。

クンダリーニの目覚めを通じて起こる最初の体験は、魂のものだ。それとともにあなたは、自分の魂が他の人の魂とは別個であることを知る。 クンダリーニの覚醒によって成就した人々は、普通、複数の魂の存在を信じる。彼らは、この地上に生ける存在と同じだけの魂があり、すべての人は別々の魂を持っていると言う。

 

だがクンダの中に直接没入した人々は、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もないと言う。多くのものではなく、一なるものだけが存在すると言う。なぜならクンダに身を没入することで、自分自身のクンダと溶け合うばかりでなく、すべてのクンダ、集合的な宇宙的なクンダと溶け合うからだ。クンダはひとつだ。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社p353から引用)

 

このように『クンダ自体の中に没入する』冥想法とは、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もなく、さらにどんな新しい感覚も目覚めず、いかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸するということ。つまり只管打坐からの身心脱落では、超能力、霊能力が目覚めないことが知られているが、まさにそれと同じではないかと考えられる。

西洋錬金術も漸進型の前途遼遠な道だが、「近道」があることは言及されてはいるが、それがどんなものか説明されたものを見たことがない。

このクンダ自体の中に没入する近道が、只管打坐であることを証明するには、神人合一体験のある者が只管打坐で身心脱落することで確認できると思うが、一生で二度神人合一することであり、容易ではなく、これまた次の時代に証明されることを期待するテーマである。

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