アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

田中陽希GreatTraverse-10

2022-11-28 10:18:55 | 修験道neo
◎道なき道

田中陽希GreatTraverseの二百名山では、何回か登山道のない道を進む。道のない山道では、それも獣道すらない所では、藪がルートらしきところにびっしりと生い茂り、その藪をかき分けて進んだり、藪の木の枝を足場に藪の上方を慎重に進んだり、ひどく根気と注意力と筋力を必要とする登山となる。

それと食事と水。登山では、夜間は危険なので進まないので、ルート上に有人の山小屋がなければ、食事は全日数分を自分で運ぶ。水も水場に指定された場所は限られており、そこから先に進む場合は、水場で必要な量を確保してそこから運ぶ。

よって、自分で運べる食事の量と水の量を越える深山幽谷には進めないものだとわかる。

装備が充実し、磁石と登山マップのある現在の登山でも、道なき道を進むのはこのような苦労であるから、昔の修験者の苦労はいかばかりだったか。そういうのに気づかせてくれる田中陽希GreatTraverseはありがたい。

『峯の尾根を進もうとしても、篠が茂り、大きな風倒木が横たわって、これらの密林を通り抜けることは非常に困難で、ときには方向を見失い、あるいは水も絶えるなど、不安な行程であった。

まだ未開の状況で、僅かな同行者だけで奥深く分け人るのは、途方もないことだっただろう。その頃のことと思われる不思議な禅師の記録がある。

熊野村に永興という禅師がいた。一人の禅師が山に居たいと願うので、彼は干飯の粉を一斗と優婆塞二人を副えたという。干飯の粉というのは、糯(もちごめ)を炊いた飯を干してから粉にして携帯食料にしたもので、水瓶一口も必需の持ち物であった。

こうして山に入って修行していたが、ついに命絶えた。しかし、なおも読経の声はつづいていたという(『日本霊異記』)。』
(大峯縁起 銭谷 武平/著 東方出版P126-127から引用)
※優婆塞(うばそく):民間の修行者

最澄は、比叡山に最初に修行した頃は、建物もない場所で冥想修行したそうだが、衣もぼろぼろ、食も乏しく、吹けば飛ぶような竹で編んだ円房に雨露をしのいで修行を継続したのだろうか。強い修行継続の意志力なしでは成らなかったと思う。だが最澄なくして、道元も親鸞も日蓮も出なかったのだ。
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