アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一休-3-生きる姿-1-男色女色酒食

2023-11-30 03:00:09 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-33

◎青春期の水平の道-32

 

一休は大悟の後、大酒を食らっては、男色、女色に耽るという悪業を繰り返したので、来世では馬に転生するなどという詩を書いている。

 

『(訓読)

大燈国師の尊像

酬恩庵常住

古今の仏祖師 草鞋の埃

遊戯三昧は南岳と天台。

昼夜の清宴 爛酔して盃多く、

女色勇巴 馬腹驢腮

児孫の純老 大笑咍々(かいかい)たり。

三尺の竹箆掌握の内

臨済 徳山 命乞いに来る』

 

(大意)

古今の仏教の祖師は、草鞋が埃(ほこり)にまみれて、真摯に修行して

南岳や天台山で自由自在の境地を得た。

それにひきかえ、私は、昼も夜も宴会で杯を重ねて酔っ払い、

女色も男色も楽しんだ結果、遂には来世は馬に転生する。

大燈国師の法孫の一休は、アハハと大笑い、

ウン

大燈国師が三尺の竹箆を握って来れば

臨済や徳山ですらも命乞いに来るだろう。

 

(原文)

大燈国師尊像

酬恩庵常住

 

古今仏祖師草鞋挨

遊戯三味南岳天台

昼夜清宴爛酔多盃

女色勇巴馬腹驢腮

児孫純老大笑咍々

三尺竹箆掌握内

臨済徳山乞命来

 

一休を風狂と称するのはたやすい。しかしそれでは何も分かったことにならない。

光明を得た者の生きざまは、すべからく諸悪莫作・衆善奉行のはずだが、一休は、逆に男色女色酒食を重ね、一見悪業三昧。

普化という臨済の同僚は、檀家の用意した折角の御馳走のテーブルを躊躇なく蹴り倒した。聖性というものを徹底すればするほど、日常の不徹底な部分はより捨象されていく、普化からは臨済ですらも不徹底のそしりを受けたほどである。

一休は要するに、この詩では、普化と同じ側に立って、みせたのだ。

 

それにしても、世間から見れば、覚醒した者が、なぜ悪事を働かなければならないのか、そこに関心が集まりがちなものだ。

覚者は大悟しても肉体が残る。肉体が残るゆえに働いたり、飯を食ったりしなければならない。肉体が残るが故に、外形だけ見れば何らかの悪事を敢えて犯すような側面が残る。そこに、そもそも人間として生まれてくる意味が潜んでいるように思う。

悟った後、別天地は、逆転した世界だが、その後も肉体を持って生きるからには、肉体に由来するいろいろなことがある。飯を食う、風呂に入る、身だしなみを整える、ねぐらを求める、服を手に入れる、金を稼ぐなどなど。悟ればその人にとって何の問題もないはずだが、どうしてその後も生きなければならないのか。そのことは、ときどき課題として出て来ることがある。

道元は、気に入らない弟子を追い出して、それに飽き足らずその弟子のいた庭の土を掘って捨てさせた。正受は、弟子の白隠を半殺しにするほど殴りつけた。クリシュナムルティは、禿を隠したかった。

なぜ悟後の大燈国師は鴨川の河原で20年も乞食をしなければならなかったのか。その20年の乞食生活こそ、一休にとっては、男色女色酒食の生活なのだとする。その点も「世界が変わる」という視点では逃せない視点である。

それに目をそむけずに、一つ一つ直面していける、受け入れていける。それが真人間の生き方というものなのだろうと思う。それが別天地での日常なのだろうと思う。

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一休-2-悟境-2-本来もなきいにしえの我

2023-11-29 03:21:01 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-32

◎青春期の水平の道-31

 

一休が自分の肖像に賛をするには、

 

生也死也(せいやしなり) 死也生也(しやせいなり)

柳は緑 花は紅

柳は緑ならず 花は紅ならず 御用心ご用心

一休筆題

 

科学性ということでは、生は死ではなく、死は生ではない。かつまた柳は緑 花は紅というのは科学的真実かもしれないが、100年の後柳は枯れ花は散る。諸行無常、色即是空もまた時間軸を採用すれば科学的真実だが、永遠を課題にした瞬間に科学的真実は、絶対性を失い相対的真実に落ちる。

 

さらに見ている自分を喪失したのを踏まえて次のような道歌がある。

 

本来もなきいにしえの我ならば

死にゆくかたも何もかもなし

 

更に

 

はじめなく をはりもなきに 我が心

生まれ死するも 空のそらなり

 

また

 

ゆくすゑに 宿をそことも 定めねば

踏み迷ふべき 道もなきかな

 

最後の歌では、宿を失い、道も失うというところに絶対の孤独と、あらゆるものが未知であるという実感が隠れているのではないかと想像される。

 

山水画によくある孤舟沙笠の翁が一人小舟を操って雪の中を川を下るモチーフこそ、この未知と孤独を云っているように思う。

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一休-2-悟境-1-足元に世界樹あり

2023-11-28 03:07:59 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-31

◎青春期の水平の道-30

 

一休の別号は、めくらのロバである。しかし、臨済の後継者三聖は臨済の後継者に値しなかったが、自分こそそれに値すると意気高い。逆にそれほど厳しく修行してきたのだろう。

一休にの生きる別世界の根本に次の漢詩がある。

 

閻浮樹(えんぶじゅ)

 

閻浮樹 乾坤に逼塞し

葉々枝々 我が脚跟

太極 梅花 紙窓の外

暗香 疎影 月黄昏

 

『閻浮樹 乾坤逼塞

葉々枝々 我脚跟

太極 梅花 紙窓外

暗香 疎影 月黄昏』

 

(大意)

時間のない世界で、天地の中央にある閻浮樹は、天地を塞(ふさ)ぎ、

たわわな葉も繁れる枝も、私の足の下にある。

陰陽の分かれる以前の万物の根源(太極)のシンボルである梅花は、障子の外にある

どこからともなく漂う香りと障子に映る梅花のまばらな影をたそがれの月が映じている。

 

閻浮樹は、世界樹であり、北欧神話ならイグドラシルである。世界樹は、根の側が頭頂サハスラーラ・チャクラに当たるのだが、世界樹を足元に置いている一休の立ち位置は現象世界の外側に立つ。つまり個性の極点を超えた位置にある。これはつまり、合気道植芝盛平の言う天の浮橋に居るということなのだろうと思う。

太極である梅花が、障子(紙窓)の外にあるというのも同義。

その障子に現象世界の転変が、シネマのように月の光を受けて映写されるのだ。

これはとても秘教的な詩だが、一休自身が、生死も超え、現象の相対性をも超えた外側を生きていることを自分で説明している印象的でロマンチックな詩に仕上がっている。

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小雪(初冬)のウォーキング・バランス改善・筋トレ

2023-11-27 06:06:07 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎片足立ち時間の延長にチャレンジ

1.歩行バランス改善に着手した理由。

椅子からスット立てるようになったが、歩行の距離は改善していないので、どうやら歩行姿勢を制禦するバランス系の筋肉が痩せすぎているようだということに思い当たった。

おまけに何か月か続けた毎日の3分間片足立ち練習も、1回せいぜい5秒と、事実上片足立ちになったとたんに終了ということで進歩がなかった。

(参照1:高齢者のリハビリにおける、バランス感覚を鍛えるトレーニングをご紹介!https://rehab.cloud/mag/2807/)

また、(A)有酸素運動等を主体とした運動では バランス機能回復は遅延する。

(B) バランスと下肢筋力が歩行能力に影響し,筋力低下は最高酸素摂取量や6分間歩行の独立規定因子である。由。

(参照2:赤十字リポジトリ (nii.ac.jp)

【“心臓リハビリテーションにおけるホームエクササイズの重要性を再認識した一例”/沖縄赤十字 医誌 Med. J. Okinawa Red Cross Hosp. 】

https://redcross.repo.nii.ac.jp/records/11877  )

要するに、スクワットとフロント・ランジと踏み台昇降による有酸素運動で大きな筋肉をつけることには成功したが、歩行全体から見れば、バランスには何も着手されてなかったので、歩行全体としては顕著な進歩がなかったということ。

 

2.歩行バランス改善トレーニングメニュー

歩行とは、片足立ちの連続なので、片足立ちの練習がバランスの練習となる。

(1) youtube:” 【日替わりトレーニング総集編】立ったまま靴下が履きたい等バランスを良くしたい方に向けた片足立ち向上を目的としたトレーニング集/フラミンゴの介護予防チャンネル“

https://www.youtube.com/watch?v=HUi7TZ104oU

これは、高齢者向け約20分のメニューだが、ポーズの種類も多く、地味にきつい。世の中には、片足立ちが3分、5分でできると主張する動画も多いが、関連筋肉の瘦せ具合にもよるが、実際には10種類以上あるこのメニュー位はやる必要があるのではないか。

始めて数日しか経っていないので、筋や筋肉が張っているところがある。

このメニューに習熟してくれば、次の(2)に進める日もあるか。

 

(2) youtube :“【立ったまま】1日10分を1週間でしなやかな体をつくる!体幹バランストレーニング【インナーマッスル強化】”/SAKI エレコアメソッドhttps://www.youtube.com/watch?v=ij9l7JtzmtE

これは、主にバレリーナ向けの筋トレとストレッチ。動きの基本は、(1)は、(2)に似たところがある。

 

更に海外ページでは、

(3) youtube :“10 Minute Standing Abs & Balance Workout for Seniors & Beginners” /SeniorShape Fitnes

https://www.youtube.com/watch?v=zG2jc6P3nC8

これは、高齢者向けで、基本は上記(1)に共通しているものが多い。

 

(4) youtube :” Top 5 Gluteus Medius Exercises”

https://www.youtube.com/watch?v=GwPe0JwYbrA

これはややハードだが、医師の患者に対する中臀筋のリハビリ・エクササイズを紹介しているもの。

 

(5) youtube :“10 MINUTE BALANCE WORKOUT AT HOME - Improve Balance and Coordination”/ OutWork

https://www.youtube.com/watch?v=Wes6zK8HxGE

これは、アスリート向けだが、動きの基本は高齢者向けと同じであることがわかる。

 

なお、ストレッチはこれで対応しています。

youtube :”8 MIN POST-RUN STRETCHING - NO EQUIPMENT”/ Run and Stretch

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=UAcO8sb7KWc

 

ありがとう、荻野秀一郎さん(フラミンゴの介護予防チャンネル)。

ありがとう、SAKI(SAKI エレコアメソッド)さん。

Thank you,  Lauren(Senior Shape)! 

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一休-1-先師と求道-4-一休の名の由来

2023-11-27 03:43:38 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-30

◎青春期の水平の道-29

 

一休は、25歳で小悟があった。

京都の祇王寺に参ると次のような説明を目にする。

「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、仏御前に寵愛が移ったことにより、清盛に捨てられ、祇王は母と妹と共に出家して、この祇王寺に移り住んだ。

後にやはり清盛に見限られた仏御前も祇王を追い、四人の女性はここで尼としての余生を過ごした。」

そこで「女所帯のわび住まいの場所なのだろうが、出家して納得したところがあったのだろうか。そういえば、平安文学に、悟りの概念などなかった」などと感慨を新たにしたものだ。

 

さて一休が25歳の時、ある日盲目の琵琶法師が、平家物語の祇王が清盛の寵愛を失うの段を歌うのを聞いている時、公案の『洞山三頓の棒』のことで突然悟るところがあった。このことで、師匠の華叟は、一休の二文字を与えた。(祇王の悲話と公案にはストーリー的に何も関係はない。)

『洞山三頓の棒』の公案とは、これ。雲門、洞山とも中国の有名な禅匠。曹洞宗の洞の字は、洞山の名から来ている。雲門は、肝心なことをわかっていない禅僧が来ると、親切にも棒で20発たたいてあげた(棒を食らわすとは、このこと)。

******

「雲門は洞山が初めて参じたとき、いきなり尋ねた。「何処からやって来られたか」

洞山「査渡からやってきました」

さらに「この夏(安居)は何処で過ごされたか」

「湖南の報慈寺でございます」

「いつそこを出てこられた」

「8月15日であります」

すると、

「お前さんに三頓の棒(六十棒)を食らわせてやりたいところだよ。」とすげない応えが返って来た。

翌朝洞山は雲門和尚の室に行って、「昨日は六十棒を食らわせたいと言われましたが、私のどこが間違っているのでしょうか」と尋ねた。すると雲門が言った。「この大飯食らいの能無しめ、江西だの湖南だの、お前はいったい何処をうろついていたのじゃ」

洞山はその途端に大悟した。」

*****

 

大悟するしないは、薄皮一枚の差とは承知しているが、そこに飛び込む勢いがないと飛び込めるものではないのではなかろうか。現代はテレビやブランド漁りを始めとして、その勢いを消耗させるものがあまりにも多い。

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肥田春充の丹田強化-6

2023-11-26 20:29:16 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎爪先の踏み込み

◎丹田を錬る-14

(2021-03-12)

 

踵の踏みつけとつま先の踏み込みはペア。肥田春充は、脚の働きから腰を据え、千変万化の自由を得るのがつま先の踏み込みだと唱える。これは、合気道開祖植芝盛平が、『左は発し右は之を受ける、左足は豊雲野神でありますから、これが千変万化の無量無限、神変、神秘を表す』などというように、片足が軸で、自由な運用が他の片足と言うのに似ている。

 

『(イ)上体の力をスッカリ抜き。

(ロ)両足は爪先で立つ。

(ハ)右膝を曲げて、十分右側方に上げ、右足で右前に、円を描くように廻し、左足の左真横に踏み込む。

 

(ニ)右足が地に着くや否や、左足をつま先で立ったまま、五寸ばかり後へ引く

(ホ)それから右足の時と同様に、左脚を高く左側方に上げて、左前に円を描き右足の右真横に踏み込む。こうすると、足の位置はいつでももとのところにいる。』

(川合式強健術/肥田春充P157-158から引用)

これは、つま先を軸に上げた足を180度回して踏み込み、シザーズのようになるもの。肥田春充はコツとして、踏み込んだ時には息を吐き出す、とする。曰く、動作の敏捷はつま先。速度はつま先、重量は踵、と。

 

アキレウスはトロイア戦争で踵をパリスに射られて死んだが、その際につま先の動きでかわせなかったのだろうか。

クラシック・バレエは、つま先立ち偏重だが、バレエでは、下腹が大きく出ているのは良しとはされないので、丹田は気にしないのだろう。だが、バレーでもヌレエフ、ニジンスキーなどの達人が出ている。達人と大悟覚醒したかどうかはよく区別して見るべきである。

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一休-1-先師と求道-3-華叟

2023-11-26 03:33:57 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-29

◎青春期の水平の道-28

◎冷たい灰をかき混ぜて炭火を見せる

 

自殺未遂をして、傷心癒えきらぬ一休は、求道の志やみがたく、22歳にして堅田のやはり貧乏寺の華叟宗曇の祥瑞庵の門を叩いた。華叟は、「印証(悟りの証明)を得てより20年、仏法の二字を道(い)わず」とし、大徳寺門下ながら、一生近江堅田から大徳寺に戻って布教することはなかった。華叟はなかなか入門を許さず、一休は四、五日門前にあったが、ある朝華叟の目に留まり、「すぐに水をぶっかけて、棒で叩いて追い出せ」と弟子に命じられたものの、夕方には入門を許された。

華叟宗曇は、大徳寺の大燈国師の系譜に連なる師家。一休は、堅田の岸辺の葦の間やあるいは知り合いの漁師の小屋を借りたりして徹夜で坐禅を続けた。食事も一日二回とれなかったので、その漁師からもらったもので食いつないでいたらしい。なおその漁師の妻は鍋や釜をかきならしては夜坐の邪魔をした。

 

また華叟が病気になった時、一休は窮迫のあまり、香包や雛人形の衣装などをこしらえては京都で売って、薬代を稼いでいた。

ある日、一休は華叟に命じられ薬草を刻んでいたところ指から血が出て作業台を赤く染めた。華叟はこれを睨みつけて、お前の身体は頑丈だが、手の指は軟弱なことよと言った。これを聞いて一休の指はますます震えたが、華叟は微笑んだ。

一休25歳。平家物語祇王失寵の段で小悟。

一休27歳の夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。華叟は「それは羅漢(小乗の悟り)の境涯であって、すぐれた働きのある禅者(作家の衲子)にあらず」といわれた。そこで一休は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。すると華叟は「お前こそ真の作家だ」といい悟りを認め、偈を作って呈出するようにいった。

その偈の大意は以下。

「悟る以前の凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢の起こるところを、即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。

前漢の班婕妤は昭陽殿に住んで、成帝の寵愛を受けたが、趙飛燕姉妹のために寵を失った。その際、彼女の美しかった顔は、寒い時の鴉にも及ばないと嘆くようなことになった(それは羅漢と同じ)。」

その後華叟は、一休に印可(悟りの証明)を渡そうとしたが受け取りをことわったので、彼の同席のもとに一休の縁者の橘夫人にこれを渡した。

華叟は、腰痛がひどく、おまるも自分で使えないほどだったので、弟子たちが交代で下の世話をした。弟子たちは竹べらで始末したが、一休は素手で始末した。

一休は、大燈国師にならったのか以後放浪の風狂(聖胎長養)の一生を送る。一休35歳の時に華叟は亡くなった。

華叟の遺偈。

「滴水滴凍  七十七年、 一機瞥転し 火裡に泉を酌む」

(七十七年間、滴った水がすぐに凍ったように時間のない世界(間髪の入らない世界)であった。ここで見方を転換し、火の中に湧き出る泉を酌む)

前半は時間も動きもない世界のこと。後半は、絶対者からあらゆる事象が生まれ出るエソテリックな風光を云う。

 

さらに一休の頂相(ポートレート)の自讃に

「朦々として三十年 淡々として三十年。

朦々淡々六十年。

末期に糞を晒して梵天に捧ぐ」

とあり、あまりデリカシーはないが、デリカシーのないところを、敢えてこれがリアリティだとばかりに押した一休の露悪趣味が「糞を晒す」にある。しかし、これは禅的だが、師華叟のことをも連想させる。

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一休-1-先師と求道-2-謙翁

2023-11-25 03:28:06 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-28

◎青春期の水平の道-27

◎瀬田橋で身を投げようとする

 

一休は二人の先師に師事したが、その師事ぶりは、聖者である師匠に仕えるということは、これほど心酔し、へりくだってかつ信愛を注ぎ込むものかと思われるほどである。絶対服従という言葉が滑稽に思えるほどの、濃密な師弟の間柄である。

 

謙翁と言えば、一休(周建)が17歳から21歳の多感な修行時代に師事した和尚で、その死に際して自殺未遂までしたほどの大物覚者。謙翁は、師匠妙心寺の三世、無因禅師が印可(悟りの証明書)を授けようという仰せに対して、謙遜して受けなかったので謙翁という。

謙翁は、門を閉じて誰も寄せつけず、その宗風は孤高嶮峻であった。それがゆえに、ぼろぼろの今にも壊れそうな貧乏寺だった。

一休が20歳の時に、謙翁が彼に「私の法財はもうすべてお前に与えたが、私には印可がない。だからお前を印可しないのだ。」と一休の悟りを認めた。

一休が21歳の12月、その心酔する謙翁和尚が亡くなったが、葬式をしようにも金がなく、ただ心だけで喪に服するのみであった。

一休は、壬生の寺を去って清水寺に参詣したが、折しも大晦日から正月15日までは寺全体が、人の出入りを禁じ、断食し香を焚いて経を読む時期に入っていた。仕方なく母親のところに行き、再び清水寺に参詣し、大津に出た。

穴倉に入ったような一休の喪失感を見て、一人の人が、暮れによく作るきな粉餅数枚をくれ、それを食べながら、ふらふらと石山寺に向かった。

石山の観音像前で、自分の道心の堅固なることを七日間祈っていると、これを見ていた曹洞宗の僧が一休を自分の庵に招いて手厚くもてなしてくれた。かの僧が曹洞宗の古則百則を書写することを求めてきたので、さっさと書き上げたところ喜んで、旅費のたしにせよとて、お金をくれた。

一休はその足で、琵琶湖にかかる瀬田橋に着いて、川に身を投げようとしていた。虫が知らせたのか一休の母の使いの者が、ここに追いつき、入水を思い止まらせた。

このあまりにも純粋なエピソードには、後年の男色女色に溺れつつも、衆善奉行諸悪莫作の基本線を逸れない自由自在の覚者一休の原点をうかがうことができる。

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肥田春充の丹田強化-5

2023-11-24 05:54:48 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎踵の踏みつけ

◎丹田を錬る-13

(2021-03-11)

 

肥田春充は、実家の姓は川合。彼の『川合式強健術/肥田春充』に踵の踏みつけの詳細の記述がある。

『(イ)自然体で独立

(ロ)全身どの筋肉にも力を入れない。踵と踵の間は、約五寸位離して居る。

(ハ) 規定の如き拳(こぶし)を作り、軽く握る。

 

(ニ)腹に力を入れ、グイと首を上げて眼光を定める。

(ホ)重心が両足の中央に落ちる様に、腰を据える。

(ヘ)右足で軽く地を踏み、続いて左足でも軽く踏み、すかさず右足つま先を、右側方に向けて、踵を強く踏み附ける。

 

(ト)同時に左脚は、膝を曲げないで、左側方に上げる。その上げる程度は、右脚と直角となる位である。そして左足と右足とは直角となる様にする。(右足踵と左足爪先が直角)

(チ)上体は力を入れずに、やや前に屈(かが)める。

(リ)左様すると下腹部だけが、石の様に固く緊張する。

 

(ヌ)右脚の踏みつけと同時に、左脚を上げるから、上から来た上体の重さと、下から行った衝動力とは、腹筋でぶつかり合う。そして一つの力となり、腹筋を緊張させる其の緊張力の強弱は、踏み附けの強弱に比例する。その間(かん)実に秒時である。

(ル)左脚の踏み附け方も、要領は之(これ)に同じ。』

(川合式強健術/肥田春充P155-156から引用)

 

これに続いて、『最後の踏み附けは全生命を打ち込むの気合でやる』と注意書きがある。全体として相撲の四股に似ているが、彼はそれについて、『脚から行って腹をしっかりさせるため』とコメントしている。

若い人ならいざ知らず、中高年が四股を踏むのはバランス的にも筋力的にもおいそれとはいかない場合があり、ある程度の練習期間が必要なのだと思う。大相撲はTVでずっと流されているが、腹なる丹田を脚を動かしながら踵の踏み附けで定め固めていくとは、実際にやらないがために気がつくこともなかった。

だが丹田の強化は、丹田をターゲットにした観想法ではないので、このやり方もよくチャレンジしてみるべきだろうと思う。

※拳(こぶし)の作り方は今後書きます。

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一休-1-先師と求道-1-阿育王寺から

2023-11-24 03:20:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-27

◎青春期の水平の道-26

 

中国の寧波のそばの杭州湾に臨む古刹が阿育王山阿育王寺。阿育王は、インド古代のアショーカ王のことであり、お決まりの如く仏舎利を収めてある。

平清盛も後白河法皇もここ伝来の仏舎利を保有していたという。

平安、鎌倉、室町の日本人にとって、この寺は、イスラムにおけるメッカ、チベット密教におけるポタラ宮のように最高に崇拝された寺であって、一生のうちに一回は参詣するのが知識階級の夢だった。

東大寺の大仏再建の際の首を鋳造した仏師陳和卿は前世において阿育王寺の寺男だったのだが、その当時の住持が三代将軍実朝であったことを告げ、それを受け実朝は、阿育王寺参りの船を製造させようとする。

実朝は1219年、暗殺されて本懐は遂げられなかったのだが、実朝の歌が残っている。

世も知らず 我も得知らず唐国の

いはくら山にたき木こりしを

それから数年、嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)に道元がここを訪れる。

 

さて日本臨済宗のルーツ、虚堂智愚は、74歳にして阿育王山の住持であったのだが、1256年(宝祐三年)讒言にあい、僧籍を剥奪されて一か月獄に入った。

その直後の1259年、大応国師南浦紹明は、虚堂智愚に出会い、嗣法して帰国。その後大徳寺隆盛の端緒となる。

さて虚堂智愚は、入獄して、臨済より伝わる伝法の衣を破れ草鞋のように捨て去った。もっとも臨済自身も自分の法を伝える弟子がないことに怒って死んでいった。

 

伝えるものなどない。

 

なにもかもなし。

 

禅は、肉身のマンツーマンで伝承され、一休は虚堂七世の孫と称している。

虚堂-大応-大燈-徹翁-言外-(謙翁)華叟-一休

 

伝わることは伝わったが・・・・。

 

一休は、21歳で自殺未遂。27歳で大悟。冥想法は、公案禅と只管打坐なのだろうから、水平の道。

以後の人生は、十牛図でいえば、第十入鄽垂手(にってんすいしゅ)であって、悟りを持って、街の人々と友人として暮らすというもの。悟っていない街の人々を異類などと区別することもない。

最後は、念仏者として終わった。

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肥田春充の丹田強化-4

2023-11-23 06:39:30 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎足の踏みつけと踏みこみ

◎丹田を錬る-12

(2021-03-10)

 

肥田春充によれば、踏み込みはつま先でやり、踏みつけは踵でやる。踏み込みは敏捷を司り、踏みつけは強固を司る。彼は特に踵の踏みつけが最強として重視する。

そしてつま先のアングルは正面を向くこと。踵の踏みつけの強弱は中心力(丹田)の強弱に正比例する。その上で、眼光を定め、呼吸を整え、精神を集中したのが真の気合だと説く。

この修練により、頭寒足熱を実現できる。

また肥田は、観劇、スポーツ観戦などで観客が感情が激して立ち上がることをして、『激烈な感情は(意図せず)足に来る』と見る。この原理から合理的な足の踏みつけは、意志力の養成となるとまで推論している。

彼は、足の使役と目の支配は、面白い課題であって、禅の修行法の根幹もここに隠れているのではないかと見ている。

また動作のスタートでは足は0度だが、三船八段の空気投げの姿勢も踊りの名人の両足の開いている角度は90度になるとも語っている。

(以上参照:聖中心道肥田式強健術 肥田春充/著 壮神社P132-137)

 

禅では、半眼で目の支配のレベルを半分にする。一方で、作務と経行で足を動かさせる。その上で、公案禅や無字などのマントラ禅に取り組ませる。

また現代のライフ・スタイルは、『目の支配』が強烈であって、足を動かして丹田強化がそれを緩和させる機能を持っている可能性があると思う。

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松尾芭蕉-5-芭蕉の臨終

2023-11-23 03:29:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-26

◎青春期の水平の道-25

◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-4

 

所思

此道(このみち)や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮れ (ばせを)

この句は、一般には芭蕉は門人多数に囲まれていながら、俳諧の先駆者としての道を孤独の中に歩んでいる心境を歌っているなどと説明されているが、それは俳諧人としての解釈。

彼を求道者として見れば、その求道の道は、自分だけが歩む道であって、誰が助けてくれるわけではない。自分でその秋の道を歩むしかない、という虚心坦懐な句と見える。ここには霊がかりもエンジェルも八百万の神々もない。

芭蕉逝去の2週間ほど前の句であるから、体調も思わしくなく、すでに死の影は兆しており、自分でも覚悟ができつつあった時期の句ではないか。悲しいことにその心中を理解してくれる人とてない。求道者も覚者も大方が孤独に生きる。

 

旅懐

この秋は何(なん)で年よる雲に鳥 (ばせを)

これも同じ時期の句。この秋は、いつもの年にもまして肉体の衰えが感じられる。雲に鳥は、まもなく飛び立つ我が身を予感している凄味がある。

 

病中吟

旅に病で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る  翁(芭蕉)

これは亡くなる四日前の句。2日後に遺書3通をしたため、その2日後に没す。

芭蕉最後の句である。既にパノラマ現象並に記憶がかけ廻っている。この世に別れを告げる時は、見性体験のある人でも、あらゆる愛着が意識の表面に一斉に浮かんでくるものと見える。

芭蕉はこの時、「・・・・なおかけ廻る夢心」とも作って弟子支考に見せたが、上の5文字をどうするか問うことができず、結局そのままになったという。

 

文明に別れを告げる時も、一斉に様々な深刻なエモーションが増幅されて出てくるものだと思うが、ミュージック・シーンやシネマ、テレビ・ドラマなど芸術方面で、そうなり始めたら(もう充分にそうなっている?)、切迫していることがわかるに違いない。逆に、いかにも人工の作り物っぽいところが見えるうちは、まだ時間があるということになる。

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松尾芭蕉-5-パッションすらも忘れて

2023-11-22 03:27:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-25

◎青春期の水平の道-24

◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-3

◎自発的パッションすらも忘れ去り

 

芭蕉が、伊勢神宮に至り、新緑の木立の中、御神前に向かおうと歩を進めていると、そこはかとなく、香が流れてきた。

何の木の花とはしらず 匂ひかな

(芭蕉)

あらゆる懸命な人間的営為の後には香りが残る。求道の行きつくところは、なにもかもなしだが、OSHOバグワンは、「このかぐわしき香りは物質ですらない。香りは宇宙の中に消え去り、それと一つになる」といい、道元は、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなりとするが、そこにも香りが残る。

道元は、悟りを得るのは水に月が宿るようなものだ(正法眼蔵の現成公案篇)というが、そこにも同じ匂いが漂っている。

だからこそ、これだけは、強烈でかまびすしいプロパガンダや洗脳トライなどとは全く無縁なのである。本当に深遠なる奥深い所から来る自発的パッション、それすらも忘れ去られて匂い哉。

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松尾芭蕉-5-一生の終わりも幻住なるべし

2023-11-21 03:24:37 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-24

◎青春期の水平の道-23

◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-2

◎一生の終わりも幻住なるべし

 

昔、NHKの朝ドラで、「おしん」というのがあって、子供のおしんをいじめ抜いた父親(伊藤四郎)が、何十年も経って後、死ぬ間際になって、意外にもおしんにやさしい言葉をかけるなど、人格が真人間に立ち返っていく場面があり、ぎょっとさせられたことがある。

 

一休も病気がちだったが、芭蕉も病気がちだった。

松尾芭蕉は、30代で見性し、50歳間近になって、滋賀県大津市の中古木造住宅に住むことになった。これを幻住庵と名付けた。

(芭蕉の幻住庵記を現代語拙訳)

『私は、ただひたすらに閑寂を好むというのではない。ただ病身のため人にうみ、世を逃れた人に似ている。

なんということか、仏法を修行するでもなく、世の職務をつとめるでもなく、仁にもつかず、義にもよらず、若い時から、ただむやみと好きなことがあって、それが、ひとまず生活の手段とさえなったので、わが身の無能無才により、とうとうこの一筋につながれたもの。

およそ西行・宗祇の風雅の道におけるもの、雪舟の絵におけるもの、利休の茶におけるものについて、我と彼らとの賢愚は異なるが、これらに一貫しているものは一つであろうと、痛む身体の背中を押したり、腹をさすったり、痛みに顔をしかめたりするうちに、いつのまにか人生の初秋も半ばを過ぎた。

一生の終りもこれに同じく、夢の如くにして、又々幻住なるべし

 

先ずたのむ 椎の木もあり 夏木立

 

頓(やがて)死ぬ けしきも見えず 蝉の声』

 

芭蕉は、頼りになる椎の木を見つけた。椎の木(本来もなき古(いにしえ)の我)を見つけた自分も、見つけなかった人も

頓(やがて)死ぬ けしきも見えず 蝉の声

芭蕉は、蝉の声に現象世界全体の生成化々を見ている。

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松尾芭蕉-5-捨て子

2023-11-20 03:21:48 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-23

◎青春期の水平の道-22

◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-1

◎捨て子

 

悟りすました後でも、現実の貧しい生活は変わらないし、思いのままにならない、どうしようもないことばかり多い。「俺は神・仏に出会った。でも、なぜまたその後も毎日しようもない労働をして金を稼いで生き続けなければいけないのだろうか」とは、覚醒した方たちが、等しく思うところの感慨に違いない。

そこで芭蕉の野ざらし紀行

 

「野ざらしを心に風のしむ身かな。」(芭蕉)

野に捨てられたされこうべである「のざらし」になると決意して旅に出たものの、やはり秋風は身にしみるわい。

 

「猿をきく人すて子にあきのかぜいかに」(芭蕉)

芭蕉が富士川のあたりを通っていると三歳くらいの捨て子を見かけた。その鳴き声を聞けば誰しも何とかしてやりたいとは思うものだ。このままほっておけば、飢えて死を迎えるのは必定。

ところが芭蕉は、「父がお前を憎んでそうしたわけでもなく、母がお前をうとんでそうしたわけでもなく、ただ天命がそうするのであって、自分の運命(性)のつたないことを泣きなさい。」と、この世に生まれ落ちる以前から、自分でそういう環境を選びとってきたことを思い出せ、と言わんばかりの、まるで一人前の大人に対するような言葉を残してその場を逃げ去ってしまう。

和歌や漢詩で猿の声を風流と聞くような、鋭敏な感性を持つ人は、この捨て子の泣く声を何ときくのだろうか。現代も「虐待」という名の捨て子が増える時代となった。

現実の無慈悲さは変わらないが、本当は無慈悲ではないことを知っている自分があることを見極められるか。

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