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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

成仙公の物語

2025-07-09 06:23:18 | 人と神の「実際のところ」

◎鶴仙からの丸薬と屍解

 

『成仙公は名を武丁といい、後漢の桂易臨武烏里の人である。年十三の時、身長七尺堂々として偉丈夫の面影があった。県の小吏となって低い身分であったが、彼は人となり寡言沈黙であったので、人々は皆彼を指して痴者であると笑っていた。しかし彼は幼少の時から多くの書を読み、一定の師はいなかったけれど、元来叡明な性質であったので、蘊蓄が極めて深かった。

 

ある年、京都へ使いに行っての帰り道、長沙郡を通ることがあったが、途中で日が暮れ、次の駅舎へは道程もまだ大分あったので、とある路傍の樹の下に一夜を明かすべく腰を下ろして憩っていると、件の樹の上に二人の男が泊まっていて、何日か長沙の市中で傘をさしていたことなどを話していたが、夜が明けて見るとそれは人ではなく、すなわち二羽の白鶴であった。彼はこれを見て、世には不思議な事があればあるものだと心の中に大いに異しみながら、その翌日長沙の市へ出ると、そこで白い傘を差して昨夜長沙郡の林中に野宿したとなどを話しながら行く二人の奇妙な男に出逢った。

 

そこで彼は異しんで件の二人の後について少し歩いた後、やがて声をかけて件の二人を呼び止め、ある料理屋へ連れ込んで盛んにご馳走をすると、件の二人は散々に食べた後、礼の言葉も述べずに立ち去ってしまった。そこで仙公はまたもや彼二人の後について数里ばかり行くと、件の二人は振り返って見て大いに怪しみ、「君は何ぞ願い事でもあって、それが為めに始終我々の後に従って来るのであるか」と尋ねた。仙公は厚く礼を施し、「自分は身分の低い者であるが、公等の仙道に達しておられるという事を聞いたので、いかにかしてその道を授けてもらいたいと思って、ここ全て公等の後に付いて来たのである」と話すと、件の二人は互いに顔を見合わせて打ち笑い、やがて彼の名を問い尋ねた後、懐中から一巻の素書を取り出して中を調べて見ると、果たしてその中に仙公の姓名が記してあった。そこで件の二人は「汝は道を得られるべき宿縁がある。よってただ今道を授けて遺す」と言って、丸薬二つを取り出して彼に与え、次に彼が地仙となるであろうことを告げて、そのままどこへか立ち去ってしまった。

 

さて仙公は二人の異人から道を授けられ、喜び勇んで故郷へ帰ってきたが、それより彼は鳥の鳴く声、獣の鳴く声を聞いてもよくその意味を解する事ができるようになった。ある日、彼は県の長官から命ぜられて府君周昕の元へお使い物を持って行く事があった。この周昕という人は甚だ人物を鑑定する事に長じていたが、今仙公の容貌を見て大いに怪しみ、種々と彼の姓名、職業などを聞いた後、彼を自分の元へ差し留めて置いて文学の主簿となし、図書の管理を司らせていた。

 

ある日のこと、仙公は数多の同僚と一緒に役所において世間話をしていた。その時、たまたま庭の木に数多の雀が集まって何かべちゃくちゃと喋っていたのを聞いた。仙公は一人可笑しがって笑っているのを見て、側にいた人々は怪しんでその理由を尋ねた。すると彼が答えて言うには、「今窓の外の雀たちの話は、たった今、市の東端で米を積んだ荷車が転覆して米が路上に撒き散らされているから、お互いに仲間を誘ってそれを食べに行かないかと今相談をしているところである」。これを聞いた人々は、「どうして雀の話す言葉がお前に解るだろうか」と言って彼の言葉を容易に信用しなかったが、試しに人をそこへやって尋ねさせると、やはり仙公の言う通りであったので、人々は改めて彼の不思議な術を知っている事に驚いたそうである。

 

然るにこの事が大いに評判となり、仙公の名が一時的に郡中に広まったが、ここに寮吏の者たちはこれを聞いて大いに嘲笑い、かえって周昕を異様な男を取り上げて職位を乱すものだと大いに非難した。しかし周昕は「これはお前たちの知るところではない」と言ってまったく彼らの言葉を顧みなかった。ある年の元日、周昕は多くの人々を集めて酒を飲む事があった。杯が一通り座敷を一巡した頃、仙公は席に座ったまま一口の酒を含んでそれを東南の方に向かってハッと噴き出したので、これを見ていた人々は大いに驚いて彼にその理由を尋ねると、「それはたった今、臨武県で火災が起こったので、早速酒を噴いてそれを救ったのである」と答えた。これを聞いていた人々は「虚言というにも程がある」と怒り罵っていたが、翌日、臨武県の知事張済という者から急使を遣わして上申してきた。その書面によれば、「元日の祝賀の席で数多の役人が楽しく酒を飲んでいると、西北の近隣から俄かに火が起きて、全てが類焼し、なお炎を上げて全市が悉く焼土となるかと思われた時、今まで天気清朗で南風が激しく吹き荒れていたのが、この時見ると西北の方から一塊の黒雲が起きて、車軸を流すような大雨を降らしたので、火事もあまり大きくならずに消し止める事が出来た。ただここに一つ理解できない事は、右の雨が非常に酒の香りがした事である」云々。

 

ここに於いて初めて県中の人々は成仙公が凡人でないという事を知り、彼は急に諸人から尊敬されるようになった。

 

その後、府君は成仙公に郡城の西の地を与えてそこに宅を築いて住まわせておいたが、彼には一人の母と一人の弟と他に二人の子供がいた。そしてその後二年経つと彼はある病気にかかってついに亡くなってしまったので、府君は彼の葬式を執り行った。二日ばかり経った後、成仙公の友人某が臨武県の方からやって来ると、武昌岡のあたりで成仙公が白い駅馬に乗って西の方を指して行くのに出くわした。その時友人は彼に声をかけて、「もう日暮れに間もないのにどこへ行くのか」と尋ねると、彼は「少し迷渓へ行こうと思うが、すぐに戻ってくる」と答え、次に「自分が家を建てに来る時、大刀を戸の側に、履物を鶏小屋の上に置き忘れてきたから、自分の家に着いたらその事を家族の者たちに話して持ってくるように言ってくれ」と頼み、二人はそのまま東西に別れて去っていった。さて件の友人は仙公の宅に着いて見ると、家族の者たちは成仙公に死なれたので泣き悲しんでいるところであった。そこで彼は大いに怪しんで、自分は先ほど現に仙公に会った事を話し、かつ「大刀と履物を持ってくるのを忘れてきたから、それを持ってくるように」と仙公から頼まれた事を包み隠さず話すと、家族の者たちは大いに怪しみ、「大刀も履物も皆彼の死骸と一緒に棺の中に入れて葬ったはずだ」と彼に告げた。そこで彼は甚だ不審に思い、府君にも会ってこの事を残らず打ち明け、二人立ち会いの上、成仙公の死骸を埋めた場所へ行ってその棺を掘り起こし、よく中を調べて見ると、彼の死骸は何時の間にか消え失せていて中にはただ七尺ほどに切られた一本の青竹があったのみであったので、ここに初めて人々は彼が尸解仙化したのであるという事を悟った。そして彼が白い駅馬に乗って通った事に因んで、件の武昌岡の名をその後改めて黙岡とした。』

 

覚者には、完全に無名の人もいるし、成仙公のようにかろうじて超能力と屍解の例が伝えられている人もいるし、また華々しく皇帝の知遇を得る人は更に狙いのある人々なのだろうと思う。

 

この逸話では、丸薬二つの外丹であると書いてあるが、カルロス・カスタネダの外丹であってすら長期間の準備が必要とされる。

いきなり丸薬を服用してなんとかなるものではあるまい。

そこは一般人には無用として、真相は隠されている。

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張道陵の物語-4

2025-07-08 03:04:54 | 人と神の「実際のところ」

◎二人の弟子と妻も同日の昇仙

 

習近平失脚の噂が流れる今日この頃。

 

『そこで道陵は蒼渓県の雲台山に上って、ここが即ち自分の功が成就して、他日昇天する地であると定めて、ここに庵を結んで住んでいた 。ある日再び鳴り響く天楽の音が空中に聞えて、太上老君が再び現れ出た 。しかし高く雲の上に車を停めて下まで降りて来なかったので、道陵は地に平伏し、はらはらと涙を流しながら、「畏れ多くも詔を奉じ、秘文を賜って悪鬼と戦い、目出度く彼らを鎮圧することができたが、これも陛下の御稜威によることは言うまでもない 。とは言えながら、しかし臣が身命を惜しまず、微力を尽くした功労も少なくないことと存じております 。して今陛下は忝なくもわざわざここに御光臨になったにも拘らず、雲上高く留まらせ給うは臣が身になお未熟な点があってのことか、それとも大道が永くこの身を見捨てたのか 。願わくは一言の御言葉を賜って、臣の意を決せしめ給え」と、大地に身を転がして慟哭した 。

 

その時老君は一人の使者に命じて言わせるように、「汝の功労は確かに広大にして、九真上仙に拝するだけの価値は確かに在る 。しかし先日汝に命じて鬼神たちを鎮定させたのは、ただ彼らが狂暴な行いを止め、幽明を分け、人鬼の区別を明らかにし、もって清浄の化を布かせんがためであった 。

 

しかるを汝みだりに鬼を殺し、またみだりに風雨を起こし、鬼神を使役し、山川を震動せしめ、殺生をもって天地を汚したのは、元来慈悲を以て本旨としている大道に違反している 。これをもって上帝はひどく汝の罪を怒っておられるによって、我は汝に親しく近づくことができないのである 。

 

然らば汝暫時身を退いて、過ちを悔い罪を謝して謹慎の意を表し、さらに一層奮励して三千六百日の間道を修めた後に、我は更に再び汝と無何有の郷、上清八景宮の内に於て対面しよう」と言い終えて、再び天上へ昇って去られた 。

 

そこで道陵は王長と一緒に鶴鳴山に赴き、そこで暫時謹慎していた 。ところが、ある日どこかに妖怪が住んでいて人民を苦しめていると聞いたので、早速弟子の王長、趙昇たちを率いてそこに至ると、途中で十二人の神女に会い、この付近に一つの醸泉があると聞えているが、場所は何処であるかと件の神女共に尋ねると、彼処に見えるのが即ちそれである 。

 

但しそこには昔から一頭の毒龍が住んでいて、近づくものに害をなすと伝えられているから気をつけられよとのことだったが、これを聞いて道陵は件の大池に行き、法をもってその毒龍を呼び寄せたけれど出て来ない 。そこで彼は一枚の符を書き、化して金翅の鳥となし、池の上を飛び旋回させると、毒龍はこれを見て大いに驚き、急いで池を振り捨て、どこへか逃げ去ってしまった 。

 

するとその後池の水は悉く涸れ尽くし、遂に鹹泉(塩水が湧き出る泉)が湧き出るようになったので、住民たちはここに初めて再び塩水を汲んで塩を製することができた 。その時の十二の神女が再び出てきて、銘々一つの玉環を道陵に捧げ、長く彼の姿となって仕えんことを請うた 。道陵はこれを見て先ず玉環を受け取り、それを組み合わせて一つの大きな玉環となし、それを井戸の中に放り捨て、「離れて先ずその環を得たものを以て妾とする」旨を告げ 、そして神女たちが我先にと衣を解いて井戸の中へ入り、玉環を取ろうと争うのを見計らい、急に件の井戸に蓋をして、永く彼女らを封じ込めて井戸の神とした 。

 

これがためにその辺の住民は今になっても彼の神女の害に遭うことがなく、長く鹹泉の利を受けることができたので 、その後彼の功績をもってその町に付け、陵州と号したそうである 。

 

さて道陵は重ねて道を修めること前後二十年間であったが、ある日二人の仙使が突然彼の許に訪ねて来た 。一人は青い襟をつけた朱い衣を着て左手に板籍を執っている 。今一人は黒い髻をもって髪を包み、身に美しい絹の衣を着て、腰に剣を佩びていた 。そして手に一つの函を捧げ恭しく道陵の前に進み寄って、上帝の命によって彼を閬苑に呼び迎えんために態々ここへ来た事を告げ、上清真符を彼に渡した 。

 

そして暫時経つと、数千の天兵一頭の黒龍に紫の駕籠を曳かせ、雲に乗って煌々と現われて道陵をその駕籠に乗せて天上の仙宮へ連れて行った 。

 

道陵はやがて仙宮へ到着して見ると、その結構の宏壮にして美を凝らしている有様は見るに目も眩むばかりで、宮殿の門の上には擬太玄都正一真人 の九字を書いた扁額が掲げられてあった 。

 

その時数多の仙人が出て来て一人一人彼に拝謁し、それが済むと二人の仙人が現れて彼を老君の許に案内した。これより先き二人の従者がいて彼の傍に始終付き添っていたが、いずれも二十ばかりの少年で、ある人に聞くと、それは子房子淵の二人であるということだ。太上元始天尊のお住まいなさる宮殿というのは、石を巧みに削った玉で作り、土塀は黄金で固められていた。次に殿上を見渡すと、金碧燦爛として目も眩むほどである。ややしばらく経つと一人の仙人が現れて恭しく詔を奉じて彼に正一盟威の法を授け、なお彼を推して太玄都正一平気三天扶教輔元大法師となされ、更に昇天の期日をも予め彼に告げ知らせた。その後道陵は上帝の宮を辞して自分の住家なる巴西の渠亭山の赤石崖舎に帰ってくると、まず三天正一の秘法を弟子の王長、趙昇に授け、離沅山中に於て広くその法を世に推し広め、次に又陽平山に於て飛仙の法を嗣師に授けた。

 

桓帝の永寿元年正月七日、夜もほのぼのと明け方近くなった時、王長、趙昇の二人空中を見るとその場に太上老君がお出になり、張道陵の名を呼んで、「汝の功によって唯今秘籙を授け遺すぞ」と言い終えると老君は道陵に命じて白鶴に乗らしめて、成都へ連れて行き、ここで暫時正一盟威の大旨と北斗南斗経とを説いて聞かせ、それが済むと、老君は忽ち天上へ帰っていった。

 

その時道陵は長く自分の遺跡を後世に残そうと思い、雲台山の西北にある断崖の間に身を投げ込むと、石壁の中を穿って、その頂の方から再び飛んで出てきた。それがためにそこに二つの洞穴ができた。崖の中腹にあるのを峻仙洞といい、頂にあるを平仙洞という。同年九月九日彼はなお渠亭山に留まっていたが、上帝そこへわざわざ使いを遣わして彼に正一真人の号を授け、まもなく昇天すべきことを諭された。これにおいて、彼は盟威都功等の諸品の秘録及び斬邪の二剣、その他玉冊玉印をば長男の衡に授け、「三五歩置正一の秘法は詳しくこれらの書に説いてあって、妖邪を退治し、人民を安んずるの術もまたこの中に記してある。

我が子孫は代々自分の位を受け継ぐべきであるから、我が家の子孫でないものにはこれらの書を与えてはならぬぞ」と堅く戒め、また王長、趙昇の二人の弟子に仙丹の残部を分けて遣って自分と一所に昇天することを得させた。やがて多くの仙官たちの迎えを受け、洋々たる天楽の中に、紫の絞興に乗り黒龍を御して遥かに昇天していった。時に年百二十三歳、昇天の場所は即ち彼の雲台山である。その時彼の夫人の雍氏もまた共に一所に昇天していった。その後彼の子孫は世々異人の位を受け継いで、江西の広信府、貴渓県の龍虎山に住んでいた。』

 

ここでも、無何有の郷に至れば昇仙の資格ありということ。

同時に白日昇天できるのが、二人の弟子と妻というのは、実は同日の昇仙ではなく、後日だったのではないだろうか。

禅のホウ居士父娘ですら、同日の臨終ではなかった。

 

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張道陵の物語-3

2025-07-06 03:59:43 | 人と神の「実際のところ」

◎悪玉を言向け和して、幽冥界に追放

『魔王どもは、大声をあげて泣き叫び、「今日からここを引き払って遠い西方の娑羅の国へ赴き 、再び人民に仇をなさないようにするから、この苦痛を止めてくれ」と嘆願した 。そこで道陵も漸く怒りを収め、再び丹錐を逆に持って空中に描くと 、鬼兵たちは 再び元の様に起き上がった 。その時道陵は弟子の王長に命じて、一つの長い石を持って来させ、この石を一方の山から彼方の山へ架け渡して橋を作り、鬼兵たちをこちらへ渡らせた 。

しかし鬼兵たちは今や服従して帰順したとはいうものの、その内心がどうであるか俄かには信用もできないから、道陵はまず自分の法力を示して彼らを心から屈服させようと思い、八大魔王に向かい、「一つお互いの法力を試して見ようではないか」と発議すると、彼らは何の異議もなく承諾した 。ならばと言うので、道陵はまず身を盛んに燃えている火の中に投げ込むと、やがて蓮の葉に乗って浮かび出た 。

八大魔王たちもそれに倣って同じく火の中に身を投げ込むと、それぞれ大火傷して出て来た 。次に道陵は身をかがめて大木を目掛けて突き進むと、身は樹の幹を穿って彼方へ通り抜け、穴は再び元の様に塞がった 。これをまた石について試みるに、やはり同様の結果を得た 。魔王も同じくこれを試みたけれど、木も石も共に堅くて通り抜けず、互いに頭を砕き額を傷めて大地に転び落ちた 。

次にまたこれを山について試みるに、道陵は何の苦もなく向こう側へ通り抜けたけれども、魔王たちはただ身を傷つけるばかりで、誰一人としてそれを仕出来かすものはいなかった 。次に道陵は身を水の中に沈むと、やがて再び黄龍に乗って水上に浮かび出たけれど、魔王たちがこれを試みるとそれぞれ水に溺れた 。次に道陵は神符一枚を取って、口に呪文を唱えながら 、左の手でその神符を指すと、鬼兵たちは忽ち倒れて死ぬ 。さらに左の手でこれを指すと、鬼兵たちは再び蘇生する 。魔王たちもそれに倣って試みたけれど何の効験もなかった 。


その時件の魔王は忽ち化して八頭の猛虎となり、道陵を目掛けて突進すると、道陵は忽ち一頭の大獅子と化してこれに対抗した 。魔王がまた八頭の悪龍と化して攻め寄せれば、道陵は忽ち金色の翅を有する大鳥と化し、龍の眼を目掛けて飛びかかる 。魔王が更に身を転じて高さ数十万丈の大魔神となり、両手に大斧を持って道陵に撃ちかかれば、道陵は同じく身を転じて金剛神となり、身長七十二万文、肩幅五十三万尺、頭に大冠を戴き、円光を負い、十二種の無量相を具えて変幻出没の神通を現し、魔神に向かい撃ちかかった 。

次に魔王は身を躍らせて空中に飛び上がれど、一躍の高さが十二丈以上に及べば身は忽ち墜落して落ちる 。これに反して、道陵は一躍百余丈の高さに飛び上がることができた 。次に魔王たちが五色の雲を起こして天地を覆い暗ませれば、道陵は五色の太陽を出し、その輝き渡る光炎をもって悉く件の雲を吹き散らしてしまった 。

このようにすること為すこと全て魔王たちの敗北となり、今は術も尽き変化も極まって、皆大地の上に伏していると 、道陵は更に、魔王たちの頭の上に蜘蛛の糸のような細い糸で重さ数百斤もある大石を吊り下げた 。その時二匹の鼠がどこからともなく出てきて、件の糸を手早く噛み、今にも石が彼らの頭上に墜ちようとしているのを見て、魔王たちは最早生きた心地もせず、同様に泣き悲んで憐みを乞い、一日も早くこの地を去って二度と人民に仇をなさないようにするからと訴えた 。今は心から屈服した様子がはっきりと顔に現れて見えたので、道陵は深く件の八大魔王を戒め、それぞれ幽冥界に追放した 。』

八大魔王は、殺害されるのではなく、言向け和されて、幽冥界に追放であったのは、いわば作法どおり。幽冥界に追放というのは、封印されたというニュアンスなのかもしれない。稲生物怪録の稲生平太郎も悪玉を殺害するわけではない。
また法力比べは、まともな聖者は、原則やらないが、このようなケースでやむなくするのだろう。

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悟りとご来迎

2025-07-03 03:25:57 | 人と神の「実際のところ」

◎尊い仏たちのご来迎に騙されてはならない

悟りと臨終時のご来迎について、黄檗禅師が言及している。
『およそ人が命の終ろうとする時には、おのが肉体を構成する五蘊はみな実体なきものであり、四大には自我はな く、ただ本源の真心のみは姿かたちをもたずに、去ることも来ることもなく、わが身が生まれた時にそのもの自体が宿り来たったのでもなく、わが命果てる時にそのもの自体が離れ去るのでもないと諦観すれば、その人の境地は 円かな静寂のなかに安らいで、心と境とは一つになるであろう。

もしこのように端的な頓悟に至りえたならば、もはや過去現在未来の業縁に縛られることはなく、そのままで出世間の人――この現世を超脱した人である。ただそこにはチラリとでも志向があってはならぬ。たといその臨終の枕もとに、尊い御姿の仏たちが迎えに来られて、さまざまのありがたさを現わされたとしても、そのおん後に随いまつろうという心は起こらず、またたとい悪魔の相がさまざまに現前しても、恐れの心はさらさらない。ただ一心を忘却して万法と一体となれば、無碍自在の身となる。ここが、かなめのところである。 』
(禅の語録 8 伝心法要・宛陵録 筑摩書房p41-42から引用)

尊い仏たちのご来迎に騙されてはならないし、悪魔の現前を恐れてもいけない。ならばどうすればよいかといえば、『ただ一心を忘却して万法と一体となる』。

尊い仏たちのご来迎は天国的だが、それさえも悟りではないということは、以外に世間では語られていないので、改めて上げた。

わが一心を忘れれば、すべてのすべてとなる。

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東方朔の物語

2025-06-29 03:44:54 | 人と神の「実際のところ」

◎西王母の友人にして天下御免のトリック・スター

 

『東方朔

東方朔は字を曼倩といい、平原類次じ)の人である。永らく家を出て帰らなかったので、その兄が彼の無情を責めて、「お前は永らく家を留守にして今帰ってきたが、何一つ自分を慰めるような土産物も持っていないとは、あまりにひどいではないか」と恨み言を言うと、東方朔はさもいぶかしそうに兄の顔を眺め、「自分はしばらく紫泥に行っていたのだが、そこの海中に紫の水があって自分の衣を汚したから、ちょっと虞淵へ立ち寄って洗濯してきたのだ」と答えた。彼は今日の朝出発して帰ってきたのだから、少しも家を長く留守にしたわけでも何でもないと答えていたが、しかし仙界の一日は即ち俗界の三年に当たると昔から言い伝えられている 。

彼が漢の武帝へ上奏した文は、実に自らを高く称賛して少しも忌憚するところがなく、いかに彼が自信に堅かったか分かる 。その文の大要は以下のようである。「私は幼少の時父母に別れ、兄に養われて漸く成長することができた 。年十二の時書を学び、三年で広く経史に通じ、十五の時剣術を習い、十六の時詩書を学んで、二十二万言を暗誦し、十九の時孫呉の兵法及び戦陣に用いる鉦鼓等の名を学んで、二十万言を悉く暗誦することができた 。

臣今年二十二歳、身長九尺三寸、口は珠を連ねたように美しく、歯は貝を編んだように綺麗で、勇気は昔の孟賁を凌ぎ、戦いに臨んで敵を破ること慶忌にも劣らない 。そして清廉は鮑叔に等しく、信義は尾生にも優れている 。このようにして自分は天子の臣となるだけの資格は充分備えていると思う」云々 。帝はこれを見て大いに喜び、早速彼を召し抱えて侍中という役に任じた 。

彼が天子の御前において陪食を仰せ付けられた時に、彼は食いついてから残った肉を全て懐中へしまい込んだので、その汁が流れて全て衣服を汚したことがある 。時々皇帝から彼に練帛(ねりぎぬ)が下されることがあったが、すると彼はその品を携えて家へ帰り、前回に贈られた古い練帛を長安の商家に売って、その金で容貌のよい少女を買い入れては家に連れ込んでいたが、それも一年経つと追い出して更に新しい者を連れ込み、天子から下された贈物は皆女のために費やしていたので、当時の人々は皆彼を嘲り罵っていた 。

しかし彼は自分は「いわば朝廷の間に世を避けている隠者のようなものである」と言って、世間で何と言っても平気で通していた 。彼は酒を飲んで気も大分高ぶる頃になると、常に声高らかに歌い、そして自分は今俗間に埋もれて朝廷の内に世を避けているが、この立派な宮殿は自分の一生を託するに全く不足がない、それならば何も苦しんで深山の奥や蓬蒿(雑草の生い茂った場所)の下に身を置く必要があろうかと言っていた 。

その後、彼がまさに瞑目しようとした時、同名の者たちに向かい、「天下の人々誰一人として自分を知っている者はいない、ただ自分を知っている者は大伍公一人だけだ」と言われたので、その後武帝は右の大伍公を召してこの事を問われると、彼はただ知らない旨を答えた 。しかし帝は彼が歳星の精であると聞かれたので、彼を天文台に連れて行き、天を仰いで今諸々の星がそれぞれ皆その位置にあって一つも欠けているものがないか如何かと問われると、彼は熱心に星座を眺めて、「諸々の星はそれぞれその地位に備わっていて一つとして欠けているものはない 。ただこの間、一つ不思議なのは、四十年ばかり以来見えていなかった太白星が、只今再び現れていることである」と答えた 。

帝はこの時、東方朔が前後十八年の長い間自分の側にいたにも関わらず、自分は今まで彼が歳星の精であることを知らなかったのは、何と愚かなことであろうと言われて、ひどく気落ちされたということだ 。』

さらに、
『東方朔は、武帝の近臣でありながら、西王母の蟠桃園から桃を3回も盗んで食べた』という逸話があります。

東方朔は、西王母の蟠桃園から桃を3回も盗むように、天下御免のトリックスターだが、女性の扱いは、冷淡である。

他方、自分は「いわば朝廷の間に世を避けている隠者のようなものである」と、社会的に大活躍するタイプの聖者でなく、居ながらにして霊で働くタイプの聖者であることがわかる。

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霊を込める、心を込める

2025-06-25 03:03:26 | 人と神の「実際のところ」

◎何の仕事にも霊をこめる

 

出口王仁三郎は、心を込めると霊を込めるとを区別している。霊を込めるの方がより深い。

 

『霊と記念物

霊というものは、込めれば込めるほど深くなるものである。私は茶碗を一つひねるにもいちいち性念を込めてやるのであるから、深く霊が入っている。それ故、この器で毎日湯でも茶でも飲んでいると、相応の理によって、おかげを頂けるのである。私がやろうとも思わないのに、くれくれと言って貰っても、おかげは少ない。またやろうと思うものを辞退するのもおかげがなくなる。めったに人から記念物を貰うのも良くない事である。霊が反対していると、品物を貰ったが為めに、とんだ災難を受ける事がある。生前お互いが好意を持ち合っていたものの記念物でなくては貰うものではない。また自分が一番愛していたものに一番霊がこもるものであるから、昔はその一番愛していたものを御神体として祀ったものである。但し、心を込めると言うのと、霊を込めると言うのとは意味が違う。』

(水鏡/出口王仁三郎から引用)

 

『御手代と国替

 

国替をすると、御手代や、楽焼のお茶碗やお盃などをその人の所有として埋めてやれと聖師様がおっしゃったという怪宣伝があるそうだが、そんな事は決してない。それでは折角私が霊を込めて造ったものが、皆地中に埋もれてしまうことになる。そんなつまらない事をしてはならぬ、後に取っておいてお祭りの度に供えるようにしたらよいのである。』

(水鏡/出口王仁三郎から引用)

 

『何の仕事にも霊をこめる

 

どんな仕事にも霊を込めてやらねば良い結果を得られるものでない。田圃でも花園でも主人が毎日見回って霊を込めねば決して良くできるものでない、小作人や下男にのみに投げかけておいて、良くできるはずがない、天恩郷の植物は、松でも、萩でも、アカシアでも何でも皆非常な勢いで成長する、それは私が毎日見回って霊を込めて育てるからである。』

(水鏡/出口王仁三郎から引用)

 

現代に最も欠けているのが、この霊を込めるというもの。

社会全体で、本気でやるということを無視したり、軽視したりするから、外注や、業務マニュアル全盛の、労働を時間で切り売りして“霊を込める”、“心を込める”を頭の片隅にも置かない人まで出て来ている。

霊を込めて仕事をすることで神仏に至る道もある。それも冥想の道、水平の道。

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陶弘景の物語

2025-06-23 03:14:40 | 人と神の「実際のところ」

◎白日昇天のタイミングが遅れた理由

 

『陶弘景

 

陶弘景、字を道明といい、秣陵の人である 。彼が母の胎内にいたとき、一頭の青龍が懐の中から躍り出て、二人の天人が香を持って、自分の傍に立っているのを夢見たそうである 。

彼は幼い時から才智が人に優れ、十歳の時、葛洪の『神仙伝』を読んで、日夜これを研究したが、これより彼は養生の術を究めようという志を起こし、ある日人に向かって、人間が心を一つにして励めば、道を得るのは左程困難なことでもあるまいと言ったことがある 。

彼は身長七尺七寸、色白く眉秀で、顔は細長く額広く、耳は聳えていた 。そして耳の穴に七十本の毛が生えていて、外部に二寸ばかり出ていた 。右の膝には数十の黒いイボがあって、その形が七星の形に似ていた 。

彼の父は妾のために殺害されていたので、彼はひどく女色の害に懲りたものと見え、終身独身で暮らしました 。

彼は書を読んで学識が高かっただけでなく、琴に堪能で書道にも巧みで、すること全て何事においても尋常な人に優れていたから、幼少の頃より早くもその名が天下に聞え、斉の高帝に召されて諸王子の侍読に任じられました 。そして暇があれば門を閉じて書を読むことを楽しみ、古聖賢を友として、一人ひそかに精神を養っていました 。

家が非常に貧しかったので、皇陶(彼の父か?)に令とならん事と奔走したけれど、皇帝はその才智を惜しんでその願いを許しませんでした 。

そこへ彼は永明十年、ついに職を辞し官を辞めました 。朝廷ではその功労に報いるために、毎月茯苓(ぶくりょう)五斤と白蜜二斤とを賜り、諸々の公卿は盛んに送別の宴を張り、その席に列なることを非常な名誉としていました。そして当時人々は宋斉以来、このように優渥な朝廷の待遇を受け、このような名誉ある送別を受けた人は他に一人もいないと絶賛していたそうである 。

 

陶弘景は官を辞して故郷に帰ると、やがて句容の茅山に上ってそこに暫時留まっていましたが、ついにそこに一つの館を建て、華陽の隠居と称していました 。

彼は初め東陽の孫遊に師事して道を学び、符図経法を授けられましたが、その後諸々の名山を歴訪して薬草を尋ね回りました 。

 

風景のよい場所に出会えば、必ずそこに滞在して吟詠に日を送り、心長閑にその日を送っていました 。

その時、ちょうど沈約が東陽の領守となっていて、彼の名を聞き、その志節の高いのを愛して、書を寄せて彼を呼び迎えましたが、彼はついにその招きに応じませんでした 。

 

永元の初年、彼は三層の楼閣を築いて、自分は常にその上層で起居し、弟子はその中層に住まわせ、賓客は一番下の層に居させました 。そして彼は普段人に対面することを嫌い、唯一人の家令以外は、誰にも自分の部屋に出入りすることを許しませんでした 。

彼は幼時から騎射に巧みでしたが、晩年には一切それらを廃し、ただ平生笙を吹いて楽しんでいました 。また彼は常に松風の音を愛し、庭園には全て松を植え、風の朝、月の夕べ、その間を逍遙し、またはその颯々たる松籟の響きに耳を傾けて、一人恍然として物外の妙趣に神を遊ばせていました 。

彼もまた性質が著述を好み、学問は最も陰陽五行、山川地理、医術本草、帝代の年歴、地文星学、鉱物工業などの諸学に精通していました 。著述には『学苑百巻』、『孝経論語集註』、『帝代年暦』、『本草集』、『効験方』、『肘後百一方』、『今古州郡記』、『圖像集要』、『王匝記』、『七曜新旧術疏』、『占候合丹法式』の諸書があり、今も世に行われています 。そして平生常に張良の人物を崇拝していて、古来この人に及ぶものはないと言っていました 。

 

武帝はまだ太子であった時から陶弘景と親しかったのですが、位に就いてからは一層親しく彼を礼遇して、折々は努めて官に就かせようとの意思を示すこともありました 。その時、彼は毎回一匹の牛が愉快そうに水沢の間に彷徨い、もう一匹の立派な身装をした牛が、御者に連れられてどこかへ曳き行かれるところを描いて、帝に示していました 。

帝もまた彼が仕官する意思がないことを知って、深く彼に迫らず、ただ国家に関わる大きな事件が起こった場合には、即ち彼を呼んでいちいち啓問をなさるのみでした 。それで世間では当時彼を呼んで山中の宰相と解していました 。

 

そして八十歳以上になったけれど、容貌は少しも変わらず、少壮の人と同じように壮健でした 。その後、簡文帝が南徐州に行幸された時、彼の名を聞いて御前に召し、種々語られました 。その時、彼は頭に葛巾を戴いて帝に謁見し、数日道のことを談じてそして立ち去りました 。

彼の弟子に桓闓(かんかい)という者がいて、道が成就して昇天しようとしたとき、陶弘景は自分はこれまで長い間道を修行していて、自分ながらも大いに得る所があるように思われ、かつまたこれまでこれといった過失もないと思っているのに、自分だけはいつまでもこの世に留め置かれて、いつ昇天できるのか見当がつかない、これは果たしてどういう道理であるのか是非一度探って見てくれるようにと桓闓に依頼していました 。その後、桓闓はある日彼の元に帰ってきて、彼の陰徳はかなり大きなもので、すでに昔に昇天すべきはずだったが、ただ道を行い術を施す際に、多くの虫や魚などを用いて生物の命を傷つけたために、昇天の時期がちょうど一紀だけ遅れたのだと伝えました 。そして彼は昇天後は蓬莱山にあって、その仙都の水上監督の重任に就くように、おおよそ決まっている旨を彼に告げ知らせました 。

 

そこで陶弘景は仙薬を練る際、虫や魚などの生物を用いずに、単に草木だけを用いることを研究し、『別行本草』という書を三巻著して、多少自分の罪過を償うことができましたが、ある日自ら死期が近づいたことを悟り、その日を定めて辞世の詩を作り、大同二年八十五歳で亡くなりました 。顔色は平常の通り少しも変わらず、身体も別に硬ばるようなこともなく、伸縮も自由でした 。そして一種の香気が彼の住んでいた山に満ちて、久しい間消え去らなかったそうである 。』

 

陶弘景は、白日昇天時期が遅れた理由を、道を行い術を施す際に、多くの虫や魚などを用いて生物の命を傷つけたためとしているが、これは文字通りではないと思う。

人間は、善を行い、悪を行わないで生きるべきだが、肉体がある以上は、生物の命を傷つける側面は必ずあるものだと思う。

よって白日昇天すべきタイミングは、積善あるいは徳が満ちた時であるという説明は、如何にもカルマ・ヨーガだが、それでは、今生で白日昇天できる人は稀になってしまう。ここは、白日昇天を今生で狙っていくなら、必ずしもカルマ・ヨーガ的でなくて、イエス・キリストの信者になったパウロのように真実の回心が起こればよいのではないだろうか。

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安期生の物語

2025-06-18 03:23:24 | 人と神の「実際のところ」

◎千年経ったら己を再び蓬莱山の麓に尋ねるように

『安期生は瑯琊阜郷の人である 。平生あるいは海辺に出て薬を売っていたが、時の人々は皆彼を呼んで千歳公と言っていた 。秦の始皇帝は彼の賢明であることを聞いて宮中に呼び寄せ、共に語ること三昼夜 。安期生が帰る時に金帛数万贈られたが、いよいよ阜郷亭を出る時彼はその贈られた品々を皆そこに置き捨て、更に赤玉の沓一足と書一巻とを残し、これから千年経ったら己を再び蓬莱山の麓に尋ねるように皇帝へ伝言して、そのままそこを立ち去った 。ここにおいて始皇帝は使者数人を遣わして、海上遥かに彼の跡を尋ねさせたが、舟まだ蓬莱山に至らないうちに、大風波に遭って空しく帰ってきた 。そこで新たに阜郷亭の側と他の海辺十箇所とに祠を立て、永く彼を祀ってあった 。』

この『千年経ったら己を再び蓬莱山の麓に尋ねるように』という始皇帝への伝言は、千年後ではなく今すぐ冥想修行に打ち込みなさいということ。

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林霊素の物語

2025-06-16 03:24:32 | 人と神の「実際のところ」

◎人間以上の最も高いところ

 

『林霊素は字を通叟といい、宋の永嘉の人である。初め彼の母が彼を孕んだ時、或る夜、外から帰って室へ入ると、紅雲が自分の身の周囲を取り巻いているような心持ちがしたそうである。そして懐妊してから二十四ヶ月目の或る夜、夢に緑の袍衣を着て、玉を帯びた、一人の神人が現われ、手に筆を執って、明日ここを暫時借用するぞと認めたものを自分に差し示すと、翌日になって林霊素がにわかに生まれた。その時室一杯に金色の光が満ちていたとのことである。

 

林霊素は年五歳になるまで少しも言語を発しなかったが、或る日一人の道人がいてしばらく林霊素を見るや、その後おひさしぶりであると言って、互いに手を取り合い、さも嬉しそうに手を叩いて笑い興じていたが、それから林霊素はにわかに言語を話すようになったのである。

 

彼は幼少の時から聡明であって、一を聞いて十を覚えるの才智があった。年七才の時、誰に教えられたということもなく、巧みに時を賦し文を作っていたが、蘇東坡が一日彼と共に暦書を読んだ時、彼は一読して直ちにその文句を暗誦したので、さすがの蘇東坡も舌を巻いてその才智を褒め、この子は将来大成すべき人であると言うと、彼は笑いながら、生きて封侯を得、死して宗廟に祀られるとも、やはり人間の一部たることを免れない。自分の志は人間以上の最も高いところにあると答えた。

 

彼が年三十の時、西洛に遊んで天師の弟子趙昇と呼ぶ道士に逢った。その時その道士は、もしこれを奉じて熱心に修行するならば、神霊の主となり、兼ねて雷霆大判官に任じられ、そして東華帝君の輔佐となることができると言って、神霄天壇王書というものを彼に授けた。そこへその書を披いて観ると、それは神仙変化の法、雲を興し、雨を呼ぶの術、および諸の霊鬼を使役するの法を記したものであった。

 

崇寧五年八月十五日の夜、徽宗皇帝は一つの不思議な夢を見た。それは彼が天帝から召されて神霄府に遊んだ時の夢であって、雲の浮橋を渡って天上へ行くと、やがて立派な一つの天門に達した。その時一人の衣冠をつけた朝臣が手に圭(玉製の板状の道具)を執って出て来り、恭しく帝を導いて門内に入ると、天井に朱塗りの扁額が掲げられてあって、神霄玉闕之門の六字が記されていた。次に玉枢院と名付けた一つの小院から一人の朱衣を着た役人が出て来て、帝をその院内へ案内し、ここは帝君の昔の住居であったことを告げた。

 

そうして徽宗皇帝は天帝の在する宮殿に到って天帝に謁見された後、やがて暇を告げてそこを去り神門を出ておよそ百歩ばかり来られると、一人の道士が頭に青い頭巾を被り、身に同じ色の衣を着け、そしてまた一頭の青い牛に乗り、前後左右に数多の儀衛を連れて、ゆっくりとこちらの方を指してやって来るのに出逢ったが、その道士は皇帝の前に来ると、たちまち挨拶を唱え、そのままずっと天門指して行ってしまった。

 

大観二年、徽宗皇帝がちょうど天下に触れて有道の士を求められた時、茅山の宗師某が林霊素を推薦したので、帝は早速使いを遣わして彼を朝廷へ召し寄せ、汝は如何なる法術を知っているかと尋ねられると、林霊素申すよう、臣は上は天上の事から下は冥府のことに至るまで、悉く皆知らぬ所のものは無い。先年中秋の節、天上の仙帝へ参朝致した折、途中で偶然陛下にお会い申し上げたが、陛下は今も記憶してお出になるかと尋ねられたので、ここに始めて皇帝はあの夜夢に青牛に乗っていた道士は彼であったことを知ったので、その時乗っていた青牛は今どうしてあるかと尋ねられた。その時林霊素はその牛はただ今外国へ遣わして飼養させているが、もしや望みとあらば近々中に差し上げようと答えたので、帝も大いに不思議なことにおぼしめされ、早速彼を帝師に任じ、天上の仙宮に倣って神宮を新築して彼をそこに留めて置かれた。

 

そして右の宮が落成した時、皇帝は百官を引き連れてそこへ臨行し、「宣徳五門来万国」と一句を声高らかに吟じられた。その時帝の傍に侍っていた蔡京等の儒臣たちは、沈思してその聯句を考えたけれど、ついに句をなすことができなかった。しかし林霊素はこれを見て「神霄一府抱諸天」と後の一句をつけたので、皇帝は並々ならずその才智を褒められた。

 

その後皇帝は雷書金経が少し欠けていたのを惜しまれ、彼に命じてその欠けている部分を補足させた時、彼は天下に人を遣わしてちょうど同書を求めたけれど、ついにこれを得ることができなかった。そこで、彼は或る夜神を飛ばして上帝にこの事を詳しく上奏し、雷書五巻と霆司の印二個を借りて来てこれを写し取り、それを皇帝へ奉った。そうして政和七年、高麗の国から林霊素が乗っていた青牛を献上して寄越したので、皇帝は早速林霊素を呼び出してその牛を彼に下された。

 

重和元年、華山に三清殿を建てるために、その土を均らさせた時、地の中から一個の石匣を掘り出したが、その中に雷文法書一冊が封じ込められてあって、表紙は金色に塗った絹地であった。そうして中に記してある文句は、以前林霊素が天書を写したという雷書と一字一句も違わなかったそうである。その時皇帝はその法書に一封の青詞を添えてそれと密かに上帝に奉り、次の日突然林霊素に向かって、昨日上帝に奉った青詞は上帝の耳に達しただろうか、どうかと尋ねた。

すると林霊素は暫時考えていた後、やがて陛下は一字を書き誤ったので、仙官たちはそれを手元に差し留めて置いて、未だに上帝の叡覧に達していないことを奏し、皇帝の青詞を初めから終わりまで一字も違わず暗唱したので、皇帝は今さらに彼が神通に驚きなさって、先生の神通はほとんど測り知ることができないと仰って、彼に金門の羽客という称号を賜った。

 

或る日皇帝は林霊素に向かい、先年亡くなられた皇妃のことが思い出されて終始忘れる暇がない、先生の法力をもって、皇妃に会わせてくれることはできないだろうかと尋ねられた。その時、林霊素は容易く承諾し、その夜祭壇を築いて天地の神を祭り、一枚の神符を飛ばして暫時祈念していたが、やがて皇帝に向かい、皇妃はただ今玉華宮において、西王母と会見していらっしゃるので、暫時お待ちくださるならば、程なくここに見えられるだろうと上奏した。

こうしてしばらくすると、異香がにわかに四方に蒸し、天花が繽紛として天上より降り来り、荘厳な仙楽が空中に聞こえて、皇妃はやがて青鸞(伝説上の青い瑞鳥)に乗って下界なさった。そうして皇帝に拝謁すると、姿はかつて仙官を務めていた虚元君であって、暫時人間界に降って来て、図らずも陛下の玉体に親近して懇ろな契をさえ結び、身に余る恩寵を辱(かたじけの)うしていたが、仙籍が再び回ってただ今は天上においてまた旧の官に就いている、陛下願わくは忠良の臣を用いられ、永く国土を安泰に治められることに御心を留められたしと陳べ、更に皇帝は東華帝君の後身であることを奏上した。

その時皇帝は皇妃に向かって、今お仕えしている数多の臣の中で、天上から降って来た者が幾人あるかと尋ねられると、皇妃は言うように、明節は即ち虚玄霊夫人である。王皇后は献花菩薩である。皇太子は亀山の羅漢者である。林霊素は神霄致主大判官であって、徐知常は即ち東海にいた蛟竜の精である。また蔡京は即ち洞魔王大頭鬼、童貫は即ち飛天大鬼母であって、両人とも世に害をなす恐ろしい者ども故、一日も早く誅戮なさったが宜しいと。そこで皇帝は再び宋室の行く末は如何であるかと尋ねられると、皇妃はただ黙していて。何とも答えなかったが、暫時すると、そのまま姿を掻き消して天上へ帰っていった。

 

また或る日皇帝は林霊素に向かい、宋祖真武皇帝の姿を拝見したいものであると仰せられた。林霊素は委細承って、早速符を焚いて祈祷すると、今まで晴天であった空がにわかに曇って来て、雷鳴が起こり、すごい電光の中に数多の悪竜や蛇の恐ろしい姿が現われ出たが、しばらくすると、一本の大きな片脚が天から下りて来た。その時皇帝は心の中で聖祖願わくは全身を示して、親しく英姿の颯爽たるを示し給われと祈念すると、真武皇帝はたちまち全身を現された。見れば頭には数尺の円光があって、身の丈一丈余、金甲を戴き宝剣を帯び、黒色の法衣を召して玉の帯を締められ、髪は左右に乱して素足で、スックと庭前に立った有様は、昔太宗皇帝の時写し取らせられた御真影と寸分も違わなかった。その時皇帝は自ら筆をとって細かにその肖像を写されたそうである。

 

その後皇帝は更にまた或る日西王母を見たいと望まれた時にも、林霊素は快く承諾して、一枚の神符を焼くと、にわかに西王母が数多の仙女を引き連れて現われた。そして香を捨て恭しく礼拝する皇帝を見て、「東華帝君はその後人間であって、皇帝に神丹補益の法を授け、そして節度を失う時に臨んで童貫等の奸臣を誅し、都を長安に遷して太祖太宗の治に倣うように」と説き勤め、もしこれを疑うならば後日必ず後悔することがあるだろうと言い足した。

 

「林霊素は平生一室の中に閉居していて、皇帝が行幸になっても、一度も自分の室へ案内申し上げたことは無かった。そこで蔡京は或る日この事を皇帝に密奏し、林霊素の室の中には黄羅の帳や、鍛金の龍牀等を初めとして、そこにある椅子や卓などはどれも朱塗りの珍しい器具ばかりであるから、彼はわざと陛下を拒んでその内へお入れ申さないのだろうと奏上し、皇帝に自ら彼の室に行って調べるのがよいと説き勧めた。

そこで、皇帝も彼の言葉を事実と思い、或る日神宮に到って、蔡京と一所に林霊素の室の中へ入って見ると、室の中は空洞として待ち設けた物は一物も無く、ただ椅子と卓とがそこに据えられていたのみであったので、さすがの蔡京も案に相違し、平身低頭して深く己が粗忽の罪を詫びた。そうして林霊素は皇帝から詳しくその故を聞いた時、彼は笑って傍の壁を顧み、金殿、玉楼、龍牀、黄羅帳の類がそれぞれ銭ほどの大きさに映っているのを皇帝と蔡京とに指示したので、これには皇帝も思わず吹き出されて、蔡京の罪は深くも咎めず、その日はそのまま帰ってしまった。

 

その後皇太子は林霊素を妖術をもって人を惑わす者であると奏上し、そして諸の僧侶を召して彼とその法術を比べ、彼が邪法であることいよいよ明らかになった上は、一日も早く彼を誅戮すべきことを皇帝に強く勧め、その時法術を巧みに行っていた十二人の僧侶を凝神殿に招き寄せて林霊素とその術を競わせることとし、諸侯及び群臣を招いてこれを観覧させた。

 

その時林霊素は口の中に水を含み、それを空中に吐き出すと、それがたちまち五色の雲となり、その中には金龍、獅子、白鶴、鳳凰の類が現われて、種々の舞を奏した。これを見た伴の十二人の僧侶は異口同音に、その不思議な現象はただ紙を折った形に過ぎぬもので、今我々が大神咒を唱えるならばたちまちその法術が破れてしまうだろうと大言を吐き、そして各自熱心に呪文を唱えると、その霊禽は消失すると思いの外、かえって以前よりも一層多く現われて来た。

 

次にその十二人の僧侶は水を呪じて沸騰させる術を行ったが、果たしてその術に霊が留めて置かれた。そう、取り掛かろうとする時、林霊素は密かに水を盛った釜に近づき、一口の気をその中へ吹き込むと、その水は皆悉く凍ってしまった。

 

次に林霊素は薪を高く積んでその間に一つの通路を作り、それに火を点じると、火勢が天を撫でてその薪は盛んに燃え上がった。その時彼は自ら先に立ってその薪の中へ入ったが、彼のみは少しも火傷することが無かった、けれど彼の十二人の僧侶たちはどれも皆大火傷を負って、その火に近づくことさえできなかった。そこで道が頑強な僧侶たちも今は全く法術が尽きてしまい、ただ大地に平伏してひたすらその罪を詫び、皇帝を初めとして、そこに並び居た諸侯群臣はどれも林霊素の神通広大なるを賛嘆していたそうである。

 

そうして林霊素はその後朝政が日に衰え行くのを見るにつけても、深く蔡京や童貫等の奸悪を憎み、常に彼らを誅戮して国政を革新させられんことを皇帝に説き勧めたけれど、いつも採用されなかったので、今は朝廷を去って山に隠るに如かずと決心し、諸の弟子を集めて、これまで皇帝から下された品々を、一物も残らず密かに封じて室の中へ収め、私に弟子たちを引き連れて京師を遁れ去った。しかし皇帝は彼が勲功の多いことを愛でられて、特に温州に一つの道観を与え、長くそこに彼を留めて置かれた。

 

或る日林霊素は弟子の張如晦という者を近く呼び寄せ、自分は今度昇仙化してしまうけれど、他日再び神宮において彼に再会することを告げ、そのままその途中に卒してしまった。これより先き、彼は予め郭外に或る清浄な場所を選び、そこに自分の墳墓を築き、そしてもし自分が死んだら、普通の墓穴よりも更に五尺だけ余計に掘り、ヤマカガシ等が棲んでいるところまで到った時に直ちに地を掘ることを止めて棺を下してくれ、そして五色の光が立ち上るのを見たら、土を被せずに棺を打ち捨てておき、急に後方へ百歩ばかり引き退いてくれよと遺言した。そこで、彼が死んだ時、弟子たちは遺言通り彼の棺を穴の中へ下し終ると、急に百歩ばかり後へ引き退いた。この時早く、かの時遅く、爆然一発の恐ろしい響きと共に、砂埃が四方に飛散して、一時は雲霧のようなものが四辺を立ち籠めて何も見えなかったが、やがて雲霧が散じて見ると、彼の棺は既にどこへか飛び去っていた。

 

その後徽宗皇帝は金の兵に攻められて位を去り、皇太子がようやく天子の位に即かれた時、人を遣わして林霊素の塚を打ち砕かせようとしたが、彼の塚の付近には大石が散乱していて、一歩も側へ寄りつけないのみか、雨風が烈しく降り、電光がものすごく、誰一人塚に近づく者も無く、三日ばかりの間空しくその付近を逍遙していたのを見ても、ついにその目的を達することができなかった。

 

ここにおいて皇帝もようやく初めて自分が悪かったことを後悔し、急に彼を封じて通真達霊真人となし、天慶観に祠を建て懇ろに彼を祀っていた。その祠は今もなお現存しているということである。

 

ここに南宋の宰相に趙鼎という者がいて、まだ幼少の時分或る日林霊素が彼を観て、「汝は後日必ず宰相となるだろう、しかし不運にも春頭木会の賊に逢うことがあるから、その時は潔く官を辞して退隠するがよい、もし強いて踏み留まっていれば大いなる禍に逢うべし、その時は余再び汝と潮陽の駅で再会するだろう」と言っていた。その後果たして彼は高宗皇帝の時宰相となり、時めく勢いは旭日の登るようであったが、偶然したことから秦檜という者の讒言に逢って、海中の孤島へ謫流されることになった。その時彼は道すがら潮陽というところを通り、そこに一夜宿泊することになったが、そこに縮衣を着て朱鞋を穿いた一人の少年がいて、趙鼎を見ると、笑いながら、「先年自分が言ったことを今初めて思い当たったか」と言ったので、趙鼎は驚いてその少年を注視すると、それは即ち林霊素であった。その後趙鼎はこの事を逢う人ごとに語って、自分はその時始めて林霊素がその神仙であることを悟ったと言っていたそうである。』

 

林霊素は、皇帝周辺にいて、皇帝を助け続けたが、皇帝は好き勝手な要望を一杯出すわりに感謝している風でもなく、また林霊素の諫言に従うでもなく、最終的には亡国の一因となっていった。

 

林霊素の奇跡の数々は、神の居ることを示してはいたが、皇帝を正道に立ち戻らせることはできなかった。徽宗は、わかってはいなかったのだ。

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聖遺物と善霊悪霊、縁起がよい悪い

2025-06-14 03:37:35 | 人と神の「実際のところ」

聖者への本当のリスペクトがあるか

 

人は、縁起がよいものや善霊のものは手に入れ、集めたがるものだ。

 

紀元約1000年頃、隠者の誉れ高い聖ロムアルドゥスが、たまたまフランスから故郷イタリアに帰郷の途中に、イタリア中部のウンブリア山村に立ち寄り、村人はこのような高徳の人物がこの地を去ってはどんな災難がふりかかるかもしれないと恐惶を来たし、強引に引き止めにかかった。ところが、ロムアルドゥスは、翻意しなかったので、村人たちはロムアルドゥスを撲殺して、聖遺物として村に永久に留まってもらおうと考えた。

この計画を察知したロムアルドゥスは、剃髪した上に、にわかに暴飲暴食して、気ちがいになった振りをして難を逃れた。

 

1274年にトマス・アクィナスがフォッサ・ヌォヴァの僧院で没すると、そこの修道士たちは貴重な遺物が彼らの手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を、頭を切り離し、煮て、調理して、文字通り漬け込んでしまった。

 

テューリンゲンの聖エリザベートの遺体は、死後三日間公開されたが、人々は、彼女の顔に巻きつけてあった布片を切り取ったり引き裂いたりしてもち帰った。さらに彼女の髪や爪を切り取り、果ては耳や乳首までもちぎり去った者があった 。

 

生ける縁起物である、本物の聖人聖者の運命はそのようなものだ。出口王仁三郎は10年近く牢に入れられ、ダンテス・ダイジもほとんど真価を知られぬまま没した。

 

善霊悪霊、縁起がよい悪い、不安な未来、幸福な未来には、わりに関心が高いが、聖者への本当のリスペクトがあれば、彼らも上述のようなひどいことにはなっていないし、日本も地獄がそのまま現出したような、盛んに「他人をだまして金を取ろう」というような社会にはなっていないだろう。

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張果の物語

2025-06-13 03:02:13 | 人と神の「実際のところ」

◎一匹の白い蝙蝠

『張果 

張果はどこの者であるか、その伝記は詳しくない。彼は平素恒州の中条山に隠れていて、仙術を修行していたが、当時すでに余程の年になっていた老人がまだ見てあった時分に彼はもう数百年歳の若者であったといえば、彼の年はすでに幾百年歳になるか、ほとんど推測することができないくらいである。 

平生一匹の白い驢馬に乗って、毎日数万里の道を歩いていたが、休息する時分は件の驢馬を折りたたんでそれを箱の中に入れるに、その厚さわずかに紙くらいしかなかった。そしてまた乗るときには水を口に含んでそれに吹きかけると、またもとのように白い驢馬となるのであった。

唐の太宗・高宗の二帝は使いを遣わして彼を召し寄せたけれど、彼はその命を奉じなかった。そのご則天武后が彼を召した時に、彼は妬女廟の前でばったり死んだ真似をすると、時はちょうど夏の暑い盛りで、肉が忽ち腐敗して虫を生じ、堪え切れぬほど臭いが四辺に香し出した。そこへ武后の使者は彼を全く死んだものと思い、そのまま都へ引き返してしまった。そのご張果は再び起き上がって恒州へ身を隠した。 


開元二十三年、皇帝は通事舎人に命じて、恒州に到り張果を呼び迎えさせたが、その時張果は裴晤(はいご)と対座して寒暖の会釈を交わしていると、突然気絶して倒れ、たちまち息が絶えてしまった。

しかししばらくすると張果は再び起き上がって蘇生したが、裴晤はこれを見て深くも張果に逼(せま)らず、そのまま朝廷へ帰って事の次第を詳細に復命した。そこへ明皇帝はさらに中書舎人の徐と通事舎人の虎重玄の二人に命じて、天子の御書を持って張果を迎えに遣わし、彼を集賢院に留め置いて厚く遇し、公卿各大臣をしてそこへ行きて彼に拝謁(はいえつ)せしめた。

その時皇帝は言葉を低くして神仙の道を問い尋ねられたけれど、彼は一言も答えず、そして毎日唯々として眠っているような態度で何一つ食べるでもなく、ただ酒ばかり毎日飲んでいた。


 
ある日皇帝が彼を殿上に呼んで酒を勧めた時、彼は辞退して、「小臣は二升を過ごせばもう酩酊してしまうのでとてもお召しになることはできません。ただ小臣に一人の弟子がいて、この者なら一斗くらいの酒は大丈夫飲めるでしょう」と言ったので、皇帝これを聞いて大いに喜び、早速その弟子を呼び迎えさせた。須臾(しゅゆ)して一人の小道士が宮殿の軒の上から庭前へ降りてきた 。年は十五六位で、姿容美しく、態度飽くまでも閑雅であった。その時明皇帝は側近く彼を呼び、酒を賜って一斗ばかりに及んだとき、張果はもうこれ以上彼に酒を強いることを押しとどめ、「もし強いて勧めて彼に度を過ごさせるようなことがあれば、彼はきっと無礼なことをするでしょうから」と言ったけれど、明皇帝は少しも聞き入れず、無理に彼に酒を勧めると、彼は全く昏酔してしまい、そのままそこに倒れてしまった。

その時冠が頭から転がり落ちると、酒が噴水のように彼の頭から夥(おびただ)しく湧き出し、彼の姿は忽ち化して一個の水桶になってしまった。これを見て皇帝を初め殿上の公卿、宮嬪どもは皆驚いて目を見張ったが、じっとくだんの水桶を見るに、はからんや、それは集賢院の中に在るもので、その容積はわずかに一斗の酒が入るものに過ぎなかった。

 
この他、彼が宮中にあって行った仙術はどれも奇々妙々を極めていて、一つ一つここに書き尽くすことはできない。 

張果、或る日人に語って、自分は堯(ぎょう)の丙子の年に生まれて侍中という役に就いていたと言ったが、しかし彼の容貌を見ると未だ七十歳を超しているとは見えなかった。その時邢和璞というものがいて、この人はよく人の命を見分けるに妙を得た人であったから、或る日彼を呼んで張果の年齢を判断させると、ただ茫然(ぼうぜん)として何歳くらいになるか、とんと推測もできなかったそうである。またここに師夜光というものがいて、いかなる無形の鬼神でも明瞭と見ることができたが、張果だけはその姿がどうしても彼の目に見えなかったそうである。 

 

或る冬の寒い日、皇帝は密かに毒を入れた酒を張果に勧めた。この頃毒を飲んで、別に苦痛を発しないものは人間に以上の者だということが、一般の迷信となっていたのである。その時張果は三杯ばかり飲み干すと、もう微酔機嫌となり、いかにも不味い酒だと囁きながらそこへ倒れてしまった。そしてしばらくすると、彼はしきりに自分の歯が縮んで行くように思われたので、側の人々を呼んで如意(にょい)を取って来させ、歯を一つ一つ撃ち堕としてそれを懐に入れ、別に薬を出してつけると、また玉のように真っ白な新しい歯がぞっくり生え揃った。 

或る年皇帝は咸陽というところに狩をして一匹の大鹿を獲たので、大官に命じてそれを烹(に)て調理させようとすると、張果これをおしとどめて、「これは仙鹿で、すでに千歳の齢(よわい)を経て居る。昔漢の武帝の元符五年、臣が武帝に侍って上林(じょうりん)に狩をした時、やはり、この鹿を捕獲してあったが、その時も直ぐに放ち返してやった」と言うと、皇帝は冷笑って、「鹿といってもいくらでもある。それに時代が移り変わっているから何の鹿であったか確かには見分けがつきがたい。そして漢の武帝の時の鹿がそんなにいつまでも長生きしているはずがない」と言って、容易に彼の言を聞き入れなかった。

その時張果は重ねて、「武帝が彼の鹿を放った時、銅牌に月日を記して、左の角の下に結び付けたはずである」と言って、件の鹿の左の角の下を検めると、果たして二寸許りの銅牌があって、文字はすでに磨滅してもう読むことができなかった。

その時皇帝は「ならば元狩は今から幾年になるか」と張果に尋ねられると、彼は暫時頭を傾けて考えた末、初めて昆明池(こんめいち)を開墾したのは癸亥(きがい)の年であったと思う、そして今年はちょうど甲戌(こうじゅつ)であるから、かれこれ今から八百五十二年ばかり昔であろうと答えた。そこへ早速太史(たいし)を召して暦を調べさせると、果たして彼が言うところと大差がなかった。
 
或る日のこと皇帝は葉法善というものに向かって、「張果は随分不思議な人物であるけれど、果たして如何なる者であるか」と尋ねられた。その時彼は答えて言うよう、「小臣はそれをよく知っているけれども、若しそれを言えば、小臣は忽ち死んでしまわねばならぬから、お答えすることはできぬ。若し陛下是非にそれを聴きたいと思し召すならば、玉冠を脱ぎ、跣足(せんそく)になって、小臣の一命を救い賜うべき事を約束なさる、ならば、お話し申してもよろしい」との事であったから、皇帝は「若し話して聞かせるならばどんな事でもする」と堅く約束をなされた。

その時葉法善は、「張果は普通の人間ではない。彼は天地がようやく出来上がって、混沌(こんとん)がようやく分かれ初めた頃、そこに生まれた一匹の白い蝙蝠である」と言うと、たちまち目鼻から夥しく血を出して地上に倒れ伏した。これを見て皇帝は大いに驚き、急ぎ冠をとり跣足になって、深く自分の罪を謝罪されると、そこへ張果が忽然として現れ出て、「この奴は饒舌者で、天地の機密を漏らす恐れがあるから厳重に処罰してやりたいけれど、陛下がしきりに哀願なさるに免じて、今度だけは一命を助けてやる」と言って、水を含んで彼の顔に吹きかけると、彼はまたもとのように蘇生した。

 

そのご皇帝は益々張果を重んじて、その像を画工に描かせ、これを集賢院に掲げてさらに大号を贈って通玄先生と称していたが、張果はしきりに暇を乞い、終に恒州へ帰ってしまった。その時皇帝は彼に絹三百疋を賜った。天宝の初年、明皇帝再び使いを遣わして彼を呼び迎えさせると、張果はこれを聞き、何と思ったかにわかに卒してしまった。そこへ彼の弟子どもがその死体を葬ろうとして、ふとその棺を開けて見ると、彼の死体はすでにその中にはなかった。

皇帝これを聞いて接霞観(せっかかん)を立て、永く彼を祀られたそうである。』

張果は、西洋のサンジェルマン伯爵並みに時代を越えて活躍していて、その容貌は老いない。
張果を知っている葉法善が、褒美を目当てに張果の正体を語り、亡くなったのはややお粗末なエピソードだと思う。
張果の正体を語ろうとする求道者なら、後を追って道を極めるのが優先であり、褒美目当てということはあり得ない。

 

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呂巖(呂洞賓)の物語

2025-06-12 06:20:16 | 人と神の「実際のところ」

◎天皇(天帝、宇宙の最高神)に仕え、玉清(道教における最高の仙境)に上る

 

呂巖は、唐代に大周天で究極に達した呂洞賓のこと。以下の文は、一生の通観だが、成道前と以後では見方を変えねばならないが、参考となるのは成道前のことだろう。

『呂巖(りょがん)

呂巖、字(あざな)は洞賓(どうひん)、唐の蒲州(ほしゅう)永楽県(えいらくけん)の人である。その祖先は渭(い)の礼部侍郎(れいぶじろう)で、父の呂は海州(かいしゅう)の刺史(しし)であった。彼は貞元十四年(798年)四月十四日、巳の刻(午前9時から11時頃)に生まれたので、「純陽子(じゅんようし)」とも呼ばれていた 。彼が生まれた時、珍しい香りが四方に立ち込め、どこからともなく天楽の響きが聞こえ、ちょうどその時一羽の白鶴が部屋の中に入ってきて、窓に掛けてあった帳(とばり)の中に飛び込んだかと思うと、その姿がたちまち消え失せて、どこへ行ったか行方が分からなくなった 。

 

彼は生まれた時から首が長く、骨格が堂々として、額が広く、体が肥え太り、鼻が高く、色は黄白色であった 。そして左の眉の端に一つの黒子(ほくろ)があり、足の裏には亀の甲羅の形をした紋がついていた 。身長は八尺二寸(約2m48cm)で、普段から華陽巾(かようきん)を被り、黄禰(こうじ)のかたびら(麻製の裏地のない着物)を着て、その上に太皂(ふとくろ)の縦(たてぎぬ)を繋げた姿は、どう見ても昔の張子房にいた 。まだ幼児であった頃、馬祖(ばそ)が彼を見て大いに驚き、「この子は容貌(ようぼう)骨格が世の人と甚だ異なっている。後世必ず天下を救う仙聖となるであろう。もし他日 、廬山(ろざん)に行くことがあったら、必ずそこに長く留まるように。もし鍾山(しょうざん)に行くことがあったら、よく注意して軽率な振る舞いをするなと、固く戒めてあった 。呂巖は幼少の頃から才知が人に優れ、読書、詩賦、文章など何でもできないというもの一つもなく、特に仙道を最も好んで勤修して怠らなかった 。

ある年、廬山に遊ぶと、火龍異人(かりゅういじん)に会い、天遁剣(てんとんけん)の用法を詳しく授けられた 。そして唐の会昌(かいしょう)の年(841年から846年)、彼が六十四歳の時二度まで進士(しんし)に登用されたけれど、彼はいつも拒んで官に就くことを望まなかった 。

 

ある年、呂巖は長安(ちょうあん)のある酒屋で、一人の青い頭巾を被り、白い泡衣(ほうい)を着た隠者(いんじゃ)に会ったが、その時件(くだん)の隠者は壁の上に次の三絶句を題して彼に示した 。

 

「坐臥常携酒一毫(ざがじょうけいしゅいちごう)

不致雙眼識臺都(ふちそうがんしきたいと)

乾坤大無名姓(けんこんだいむみょうせい)

疏散二丈夫(そさんだいにじょうふ)

得道仙不易逢(とくどうせんにあいやすし)

幾時帰去相(いつのひかかえるべきや)

自言(みずからいう)住処滄海是蓬萊(じゅうしょそうかいこれほうらい)第一」

「莫厭追默笑語頻(まくえんついもくしょうごひん)

尋思離乱可傷神(じんしりらんかしょうじん)

間来屈指從頭数(かんらいくっしじゅうとうすう)

得到清平有人(とくとうせいへいゆうじん)」

【※

坐臥常携酒一毫(ざがじょうけいしゅいちごう) 座っても横になっても、常にほんの少しの酒を携えている。これは、酒に浸るというよりも、常に心にゆとりと楽しみを持っている状態を表します。

不致雙眼識臺都(ふちそうがんしきたいと) 両の目で、世俗の都や名声を認識しようとはしない。つまり、世間の名声や富には関心がなく、それらを追い求めないという心境を示しています。

乾坤大無名姓(けんこんだいむみょうせい) 天地(乾坤)は広大で、そこに名も無き存在である。自分自身も天地の一部であり、名声や身分にこだわる必要はないという思想が込められています。

疏散二丈夫(そさんだいにじょうふ) (私は)世俗にこだわらず、気ままに生きる二人の丈夫(立派な男、ここでは邵雍自身と彼のような生き方をする人を指すか、あるいは精神と肉体を指すか)である。世間から離れ、自由に生きる姿を表しています。

得道仙不易逢(とくどうせんにあいやすし) 真の道を得た仙人は、なかなか出会えないものだ。これは、仙人という境地は容易に達せられないことを意味しています。

幾時帰去相(いつのひかかえるべきや) いつの日にか、仙人の境地へと帰ることができるのだろうか。あるいは、いつかはこの世を離れ、あるべき場所へと帰るのだろうか、という問いかけです。

自言(みずからいう) (私が)自分自身で言うには。

住処滄海是蓬萊(じゅうしょそうかいこれほうらい) 私の住処は、広大な海の中にある伝説の蓬莱山(仙人が住むとされる理想郷)である。物理的な場所ではなく、心境として、世俗を超越した理想的な境地にあることを示しています。

後半の句の意味

莫厭追默笑語頻(まくえんついもくしょうごひん) 静かに過ごすことや、頻繁に笑い語ることを厭うな。つまり、一人静かに考える時間も、人との交流を楽しむ時間も、どちらも大切にすべきだという教えです。

尋思離乱可傷神(じんしりらんかしょうじん) 乱世のことをあれこれ考えても、心を痛めるだけである。世の中の混乱や争いについて思い悩むよりも、自分の心の平安を保つことが重要だというメッセージです。

間来屈指從頭数(かんらいくっしじゅうとうすう) 暇があれば、指を折って最初から数えてみる。(隙間理論を暗示しているか。)

得到清平有人(とくとうせいへいゆうじん) 清らかな平和を得た人がいる。これは、世俗の喧騒から離れ、内なる平和を見出した人がいることを示唆しています。】

呂巖はその男の風采が世の常の者でないのみならず、その時までが何とも飄逸の韻致(いんち)に富んでいるのを見て、これは必ず世に優れた隠者であろうと早くも悟り、じりじり と間合いを詰め、厚く盟交(めいこう)を請うと、件の隠者は自分のために是非一篇の詩を試みてその志す所を明らかにしてほしいと求めたので、呂巖は傍にあった筆を執って、次のような一篇を試みて彼に示した 。

 

「生在儒家週大平(せいざいじゅかしゅうたいへい)

重滞布衣誰能世上争名利(じゅうたいふいすいよくせじょうそうめいり)

欲事天皇上玉清(よくじてんのうじょうぎょくせい)」

【※

生在儒家週大平(せいざいじゅかしゅうたいへい) 「儒家の家に生まれ、太平の世(周の時代、または平和な時代)に生きている。」 これは、自分が儒教の教えを背景に持ち、争いのない平和な時代に生きていることを示しています。儒家は秩序と倫理を重んじ、平和な世を理想とします。

重滞布衣誰能世上争名利(じゅうたいふいすいよくせじょうそうめいり) 「襤褸(ぼろ)の衣に身をやつし、世の中で名声や利益を争うことに誰が関心を持とうか。」 「重滞布衣(じゅうたいふい)」は、ここでは質素な暮らしや、官職に就かずに民間で過ごす身分を指します。そのような境遇にあって、世俗的な名声や利益を追い求めることに意味を見出さない、という達観した態度が表れています。

欲事天皇上玉清(よくじてんのうじょうぎょくせい) 「ただ、天皇(天帝、宇宙の最高神)に仕え、玉清(道教における最高の仙境)に上りたいと願うばかりである。」 「天皇」は、ここでは中国の伝統的な宇宙観における最高神である天帝を指します。また「玉清」は、道教の教えにおいて仙人が住むとされる最も高い天界、あるいは最高の精神的な境地を指します。つまり、この句は世俗的な欲望を捨て、ひたすら道教のタオ(玉清)の探究を目指すという強い願望を示しています。】

 

この時、件の隠者は自分の名は雲房(うんぼう)というもので、住居は終南山(しゅうなんざん)の鶴嶺(かくれい)であることを告げ、「君は自分と一所に遊ぶ心がないか」と尋ね、二人は共に連れ立ってある宿舎に泊まったが、雲房が自ら手を下して炊事(すいじ)をしている隙に、呂巖はふと枕について身を横にすると、眠ってしまった 。その時彼はこのような夢を見た 。

 

「自分は進士の試験に及第して、署から台諫、翰苑、秒閣及び諸清要の官に累進(るいしん)し、位は身に添え、家は富み栄え、またある富豪の娘を娶(めと)って子を生むと、その子供はたちまち成長して妻を迎え、こうして数多(あまた)の孫や甥などを儲けて四十余年の間、一家宗族(いっかそうぞく)それぞれが富み栄え、自分は二十年ほど宰相(さいしょう)の役を務めていて、権勢(けんせい)に並ぶものがなかったが、ある事から罪を得て一家離散し、自分は嶺表という所へ流されて悲しい憐れな境涯に沈淪(ちんりん)した 。そして彼はここで初めて浮沈(ふちん)定まらない世のありさまを悟り、独り熟々と儚(はかな)き身の運命を嘆いていると夢見て、忽ち(たちまち)目が覚めた。」

 

目を覚まして見ると、雲房はまだ傍にあってせっせと飯を炊いている最中であった 。

 

てあったが、彼は今呂巖が目を覚ましたのを見ると、独りくすくす笑いながら、「黄梁猶未熟、一夢到華胥」(キビ飯がまだ炊き上がらないうちに、夢の中で理想郷にたどり着く)と声高らかに吟じたので、呂巖は大いに驚き、「君は自分が今何を夢見たか、それを知っているのか」と尋ねた 。

雲房は言うように、「それはよく知っている。しかし君がこれから浮世(うきよ)にいて見る夢は最も複雑で最も変化のあるものである。しかし要するに五十年の人生は一瞬の夢で、志を得たからといって別に喜ぶにも及ばない。また失敗したからといって別に悲しむにも及ばない 。そしてこの人世そのものが既に大きな一つの夢であるということは、ただ浮世の夢を見尽くした後初めて悟ることができるものである」 。呂巖はこれを聞いて忽ち自分の未熟であったことを後悔し、それより彼は雲房について一心に長生の道を学んだ 。

 

ある日雲房は呂巖の心を試してみようと思い、彼に向かって、「君の身体は道を求めるべくまだ十分に完成してはいない。強いて道を求めようと思うならば、少なくとも今数世を経て、身体が十分に練り上がる時を待たねばならぬ」と言って、そのままどこかへ立ち去ってしまった 。そこで呂巖は大いに発奮して、今迄学んだ儒教の学問を全然捨て去り、一意専心になって仙道の研究に力を込めた 。

 

呂巖を発奮させるために一時姿を隠した雲房は、その後間もなく帰ってきたが、今度は彼の精神を試すために前後十回の試験を行った 。即ちある日のこと、呂巖が他所から家へ帰って見ると、家族の者たちはいつの間にか悉く病死していた 。

 

しかし彼はこれを見たけれど少しも悲しいという気色もなく、ただ厚く葬式を行ってやると、今迄死んだと思った家族たちは一時に蘇生して、少しも異常がなかった 。

 

次に、ある日呂巖は市に出て商売をしていると、買い手はどの者も代金の半分しか払わなかったが、しかし彼は少しもこれを嫌がる気色はなく、その半分の代金を取ってその品物を買い手に渡してやった 。

 

次に、ある年の元日、呂巖の門前に一人の乞食が来て、しきりに施しを請い続けて止まないので、呂巖は財布の中からお金を出して彼に与えてやると、件の乞食はなお飽き足らず、強情に要求した上、最後には悪口雑言を放って散々彼を罵ったけれど、呂巖はただ微笑しているばかりで少しも怒らなかった 。

 

次に、ある日呂巖が山の中で羊を飼っている所へ、一匹の飢えた虎が迷い込んできたので、彼は羊を悉く隠し、自身親ら件の虎に向かうと、件の虎はこれを見て忽ちどこへか逃げ失せてしまった 。

 

次に呂巖は、ある日山中の茅屋(ぼうおく)に座って静かに書物を読んでいると、そこへ年の頃十七、八歳と思える美しい女がやって来て言うには、「自分はここから遠く離れた都に住んでいる者であるが、自分の両親がこの付近に住んでいると聞いて、久しぶりに訪ねて来たけれど、道に迷って人里へ出ることができない。しかも日は既に暮れ果て、お腹も空き、足も疲れてもはや一歩も先へ進むことは難しいから、今宵一夜の宿を貸してくれ」と、涙を含んで頼み入る様子は、いかなる道心堅固(どうしんけんご)な聖者でも心を動かさない者はいないと思われた 。そして彼女は夜更けになると、呂巖の側に膝行(しっこう)寄ってしきりに秋波(しゅうは)を送り、落花流水(らっか りゅうすい)の情を寄せて、しきりに彼の心を動かそうと試みたけれど、彼は毅然(きぜん)と座ったままで、少しもみだらな変態を見せなかった 。そして彼女は三日ばかり彼の野宿の場に留まっていたが、呂巖の道心堅固でついに動かすことができないのを見ると、結局どこへか立ち去ってしまった 。

 

次に、ある日呂巖が外出から戻った後、盗賊が忍び込んで、彼の多くもない家財道具を悉く盗み去り、朝夕の食糧の用意にさえ差し支えることとなったけれど、呂巖は少しも悲しいと思う様子はなく、自ら他人の田畑を耕してその賃金で少しずつ道具を買い求めていたが、ある日例の如く畑を耕していると、土の中から数十の古銭が出た 。その時彼は件の古銭をそのままそこにおき、その上に以前のように土を覆い被せてしまった 。

 

次に、ある日彼は市へ出て数個の銅器を買い求めてきて、よく観ると、それは悉く金で造った器物であったので、彼は大いに驚き、早速その店へ出掛けていって件の器物を悉く銅製のものと取り替えてきた 。

 

次に、ある日この付近に一人の怪しい道士がいて、大道の真ん中に店を開いて薬を売っていたが、その言う所によると、「この薬を服用すれば忽ち死んでしまうけれど、後再びこの世に生まれ出て仙道を得ることができる、世にも珍しい妙薬である」とのことであった 。しかし世人は死ぬということを怖がって誰一人その薬を買う者はなく、彼は十日ばかりの間毎日路に出て客を求めていたが、一文の商売もなかった 。然るに呂巖はある日ふとそこを通って件の薬の効能を聞くと、大いに喜んで早速それを買い求めて服用してみたけれど、別に何の異常もなかった 。

 

次に、ある年、春雨が長く降り続いて何かの河水も溢れて大洪水となった時、彼は多くの人々と一緒に舟を浮かべて河の中頃へ到ると、波が荒くて危険極まりない様子だったので、他の人々は怖れて後へ引き返してしまった 。しかし彼のみは少しも怖い気色なく、万難を犯して向こう岸へ渡り、ついに多くの罹災者を救った 。

 

次に第十回目の試験は就中(なかんずく)困難なものであった 。即ちある日彼が独り一室の中に座っていると、どこからともなく奇妙な姿態をした鬼魅(きみ)がたくさん集まってきて、彼の家の周りを取り囲み、手に得物(えもの)を提げて彼を害しようと企てた 。その時彼は少しも恐れる気色なく、端然と座ったまま静かに彼らの為すに任せていると、鬼魅たちはこれを見て互いに何事か囁き合って、どこへともなく立ち去ってしまった 。たちまちすると今度は数千の夜叉(やしゃ)が現れて一人の死んだ男を引き立てて来た 。

件の死人を見ると、これはまたどうしたことか、満身に生血が滴っていて、見るからに身の毛もよだつほどである 。その時件の死人はかっ(と)大きな目を開いて、恨めしそうに呂巖を睨み、苦しい声を上げて、「自分は前の世に汝の為に殺害された者である 。それ故に今来て仇を報いようと思うのである。何事も自分が作った罪の報いであると観念して、覚悟を極めるが良い」と言いながら、起き上がり様、彼を目掛けて掴みかかろうとした 。その時呂巖は落ち着き払って、「自分の生命を殺して、それで汝の怨みが晴れるのならば、自分にとっても少しも構わない」と言いながら、刀を執ってまさに自害しようとすると、忽ち空中に彼の男を叱る声がして、夜叉も件の男も共に一時に消え失せてしまった 。

 

かと思うと、そこへ思いもかけない雲房が現れてきて、掌を打って笑いながら、呂巖に向かい、「これまでの種々の出来事は皆自分が仕組んだ芝居で、全く君の心を試そうとしたのであるから、悪く取っては困る。もはやこれ以上は君に於て少しも疑う所がない」と言って、直ちに彼を伴って鶴嶺へ赴き、そこで悉く上真(道教の大悟のこと)の秘訣を詳しく授けた 。その時清渓(せいけい)の郷思遠(きょうしえん)と太華(たいか)の施真人(せしんじん)の二人が東南の方から雲に乗ってやって来て、雲房の側に座を占め、呂巖がそこにいるのを見て、雲房に「彼は何者であるか」と怪しみ尋ねたので、雲房は「呂海州(りょかいしゅう)の譲の息子で、呂巖という者である」と告げ、呂巖を呼んで二人に紹介すると、思遠は呂巖を熟々と眺めて、「容貌といい、目つきといい、どこからともなく精気がこもっていて普通の者と異なっている。後にはきっと広徳(こうとく)の仙聖となるであろう」と言って、甚く彼を褒め称えた末、暇を告げてどこへともなく立ち去ってしまった 。

その時雲房は呂巖に向かって、「自分が天上の仙宮(せんぐう)に詣でるのに一定の期日があって、その期日に臨まなければ、私には天上に詣でることはできない 。もし仙宮に詣でる機会があったら、老君(ろうくん)に汝のことを奏薦(そうせん)してやろうから、今暫時(ざんじ)ここに留まっていろ 。しかしそれとても長いことはない。これから十年経った時に再び洞庭湖(どうていこ)のほとりで汝と会うことがある」と告げて、奇妙な法と霊丹数粒とを彼に授けた 。

 

然るにそこへ 突然として二人の仙人が現れ出て、金簡寶符を捧げてそれを雲房に授け、かつ上帝が彼を以てにわかに九天金闕(きゅうてんきんけつ)の選仙に任じられる旨を告げたので、雲房は重ねて呂巖に向かい、「自分は今急に上帝から召されて昇天しなければならぬ 。汝は暫時人間界に留まって徳を建つることに努めるが良い 。いずれにしても早晩は自分と同じような身分になるのであるから、その時の到来するのを気長に待つが得策であろう」と言って、彼を迎えた二人の仙人と一緒に雲に乗って忽ち昇天してしまった 。

 

さて呂巖は雲房に別れた後、江淮(こうわい)の通りに遊んで人民に害をなす妖邪(ようじゃ)を除き、あるいは湘潭(しょうたん)、岳郡(がくぐん)、両浙(りょうせつ)、汴(べん)の地方を往来して人民に災いを為す者を除いていたが、当時彼は自ら名を弾じて回道人(かいどうじん)としていたので、彼こそ世にも名高い呂巖その人であるということは、世間の人々もあまり知らなかった 。

 

宋の政治年間(1111年から1118年)一個の妖鬼(ようき)がいて白昼宮中に現れ、種々の崇(わざわい)をなす外に、数多の金銭財宝を始めとして、宮中に仕えている女官たちを盗んでどこへか立ち去るので、宮中の騒動は一方ならず、諸々の陰陽師(おんみょうじ)を招いて禁厭(きんえん)の法を行ったけれど、少しも鎮定する様子がない 。そこで皇帝は大いに心を悩まし、何とかしてこの妖魔を退治してやろうと、六十日の間斎戒(さいかい)沐浴して天地の神々に祈られると、ある日夢に一人の異様な道士が現れた 。頭に碧蓮の冠を戴き、身に紫鶴の衣を着て手に水晶の如意を持ち、東華門の方からゆっくりとやって来て皇帝の前に跪き、「自分は上帝の命によって宮中に災いを為す妖鬼を除くためにわざわざここへ来た者である」と告げ、一人の金甲を着けた丈夫に命じて、その災いを為す妖鬼を捕らえて、一つ一つこれを滅殺させた 。

 

その時皇帝は件の丈夫を召してその名を尋ねると、「崇寧真君の関羽である」と告げたので、皇帝は試みに「汝の義兄弟の張飛は今どこにいるのか」と尋ねられると、「張飛は代々男子の身と生まれ変わり、天子の為に忠を尽くしている 。今後相州の岳氏の家に生まれる男の子は即ちこの張飛の後身である」と答えた 。次に皇帝は件の道士に向かってその名を尋ねると、「姓は陽(よう)といって四月十四日に生まれた者である」と答え、そのまま姿が消え失せてしまったので、その後皇帝は姓は陽氏で四月十四日に生まれた者はいないか、広く天下に詔(みことのり)を下して詮索させると、それは疑いもなく呂巖のことであったから、皇帝は呂巖に「正妙通真人(せいみょうつうしんじん)」の称号を贈って厚く彼を祀(まつ)ってあった 。

 

さてその後、彼の相州の岳武穆(がくぶもく)即ち岳飛(がくひ)が生まれた時、彼の父がある夜、張飛が自分の妻の胎内を借りて再びこの世に生まれ出ることを夢に見たので 、張飛の「飛」の字を取ってその子に名付けたとの事である 。』

 

※張子房:中国の前漢時代に劉邦の覇業を大きく助けた名軍師、張良のこと。

※「彼は雲房について一心に長生の道を学んだ 。」:不老長寿の方法を学んだのではなく、不死の道を学んだ。

呂巖は飲むと死ぬが代わりに仙道を得られる毒薬を買い求め、躊躇なく飲んだが、魏伯陽の故事が思い起こされる。

第十回目の試験は、日本の稲生物怪録を思わせるものであり、稲生物怪録が単なるモンスターのパレードでなく、開悟直前の悪魔との対決であることを思わせる。

大周天は、クンダリーニ・ヨーガと異なりボディの縦側の周回であることは、意外に門外漢には知られていない。呂洞賓は、大周天という新技術を開発したので、大物覚者として評価されている。

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カルロス・カスタネダの最終跳躍

2025-06-10 03:14:13 | 人と神の「実際のところ」

◎下降か上昇か

 

カルロス・カスタネダは、最後は崖から飛び込むのだが、無限やイーグルと呼ばれる窮極は、中心太陽への上昇であって下降ではないと思っていた。よってカルロス・カスタネダの最終跳躍が、意外にも崖からの下降であったのには驚いた。

そこでカルロス・カスタネダのことはちゃんと読んでいるっぽいGEMINIに分析してもらった。

『質問:カルロス・カスタネダで、無限とは中心太陽のこと。飛び込もうとチャレンジした者の多くは宇宙の藻屑として消えてしまう。

最後にカスタネダはこれに飛び込むが、なぜか断崖に向かって勢いよく走っていて深淵に飛び込むと書いてある。飛び込んだ先のことは下降でしょうか?

 

GEMINIの回答:

』カルロス・カスタネダの著作における「無限(インフィニティ)と中心太陽」の概念、そして彼自身の最後の行為に関するご質問ですね。

 

カスタネダの著作で語られる「無限」や「中心太陽」への「飛び込み」は、通常の物理的な行動とは異なる、非常に形而上学的かつエネルギー的な意味合いを持つものです。

 

まず、「無限とは中心太陽のこと」という理解は、カスタネダの著作から派生した解釈の一つとしてよく聞かれます。これは、彼が「精霊の領域」「意識の源」「鷲」などと表現する、宇宙の根源的なエネルギー源を指していると考えられます。そこに「飛び込む」とは、個別の意識がその根源的なエネルギーと融合し、自己を消滅させる行為を指します。

 

「飛び込もうとチャレンジした者の多くは宇宙の藻屑として消えてしまう」という部分も、カスタネダの教えにおける重要な点です。これは、真の「停止点(ジャンピング・オフ・ポイント)」に到達せずに、あるいは十分なエネルギーと意識の変容を伴わずにこの行為を試みれば、自己を完全に失い、単なるエネルギーの残渣として宇宙に散ってしまう、という危険性を示唆しています。彼が語る「ナワルの道」は、この危険な行為を乗り越えるための具体的な修行と準備の道でした。

 

カスタネダの最後の行為と「下降」について

カスタネダ自身が最後に「断崖に向かって勢いよく走っていて深淵に飛び込む」と描写されているのは、彼の著作における**「最後の跳躍(the final leap)」あるいは「無限への跳躍」**と呼ばれる行為を指しています。

 

この行為は、肉体的な死を超越し、個別の意識が宇宙の無限の意識へと完全に統合されることを意味します。それは、通常の意味での死ではなく、彼らが目指した「自由(freedom)」あるいは「意識の全体性(totality of oneself)」の達成でした。

 

ご質問の「飛び込んだ先のことは下降でしょうか?」についてですが、カスタネダの宇宙観において、これは**「下降」というよりも「消滅」または「拡散、統合」**と捉えるのが適切です。

 

物理的な下降ではない: 彼は肉体を持ったまま、あるいはエネルギー体となって、物理的な深淵に落ちていくのではありません。

個の意識の消滅と統合: 彼らが目指したのは、エゴとしての自己、個別の意識、そして肉体の限界からの解放でした。断崖への跳躍は、その瞬間に個としての存在が終わり、無限のエネルギーと一体化する象徴的な行為です。

「鷲(The Eagle)」への回帰: カスタネダの思想体系では、すべての意識は最終的に「鷲(The Eagle)」と呼ばれる宇宙の根源的な力に回帰するとされます。最後の跳躍は、この「鷲」へと完全に意識を献上し、融合する行為なのです。

したがって、物理的な「下降」というよりは、個の意識が形を失い、より高次の、あるいはより広大な宇宙のエネルギー体へと移行・拡散・統合されるという、非常に非線形な出来事として描かれています。それは、彼らが「人間という形からの自由」と呼んだ境地への到達なのです。』

 

GEMINIが個が全体に突入する意義をわかっているのは、偉いと思うが、もう一歩踏み込んだ回答を聞きたかった。

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司馬承禎の物語

2025-06-09 03:46:05 | 人と神の「実際のところ」

◎夜寝ていて自然に言語を発する

 

『司馬承禎、字は子微、温州の人である。潘師正に従って仙道を学び、その秘訣を授けられ、その後しばしば諸国の名山を遊歴していた。唐の武后に召されて朝廷へ行ったが、まもなくその地を立ち去った。そして陳子昂、王維、李白、孟浩然、賀知章、盧蔵用、宋之問、王道、畢構らと往来して、悠々自適に過ごしていた 。世人は以上の十人を指して「仙宗十友」と言っている 。

 

睿宗の時代、京師に召されて身を修める道を尋ねられた時、彼は「道は日に減損していき、無為という静寂の境地に達するのが極致であり、これがすなわち身を修める法である」と答えた 。また重ねて国を治める道を尋ねられたことに対しては、「国は身体と同じ理屈であり、心を静め、気を養い、物と共に消長して相容れないところがなく、また何事についても私心を持つことさえなければ天下は自ずと治まるだろう」と答えた 。

 

司馬承禎が朝廷を辞して天台山に滞在していた時、盧蔵用は終南山を指し示して、「あの山中には大変景色の優れた場所があるから、あそこへ行って住んだらどうか。何も天台山に限ることもあるまい」と言うと、承禎は「いや、そうではない。私の身から見ると、あの終南山は仕官を望む者が選び住むところで、彼らのためには至極都合の良い山であろう」と答えた 。初め盧蔵用がこの終南山に隠れていた頃、朝廷から呼び出されてしばらく官途に就いたことがあったので、彼はわざわざこのように言ったのである 。

 

ここに焦貞という婦人がいて、良師を求めるために遥かに海を越えて蓬莱山に辿り着いた時、そこで偶然一人の道士に会って、天台山に司馬承禎という有徳の異人がいると聞き、急ぎ本国へ帰ってくると、すぐに天台山に上って承禎に面会し、彼に従って大いに道を究めた 。その後まもなく、彼女は昇天していった 。しかしその後、彼女は再びこの下界へ降りてきて、薛季昌という者に、司馬承禎の道徳は高く、やがては東華上清真人(とうかじょうせいしんじん)の位に任じられるだろうと告げたそうである 。

 

唐の開元年中、文端天師が承禎と一緒に千秋の賀節に赴いた時、終夜斎をして独り長生殿に直立して居ると、夜半になり、あたりも物静かになった時、どこからか清い声で小児の経を読む声がするので、そっと物陰から覗いて見ると、その声の主は承禎であった 。よく見ると、彼の額の上に銭の大きさほどの光があって、それが四方に輝き渡っている 。そしてその声の出どころを注意深く見極めると、それは全く承禎の頭の中から自然と出てくる声であった 。彼はその後人に向かって黄庭経に「泥丸九真皆房あり、方四一寸此中に処る」と言って、真人の脳中には一個の円光が在るということを聞いている 。また昔、左神公子という仙聖は夜寝ていて自然に言語を発していたと聞いているが、今承禎は果たしてそれと同一である 。彼は実に世にも稀なる高徳の仙聖であると言って、深く彼を嘆賞していた 。

 

承禎は一日、弟子たちに向かって玉霄峯に上って東の方の蓬莱山を望むに、「近頃そこへ新たに一人の神仙が降りてきている 。そして、自分は今東海小清君東華君の許より使いによって呼び出されているから、すぐにそこへ行かねばならぬ」と告げて、その場で蝉脱して昇天していった 。年はちょうど八十九歳であった 。玄宗皇帝が自ら彼の碑文を撰した 。世人は彼の住んでいた場所を馬仙村と言っていた 。

彼の著書には『修異秘旨』、『天地官府』、『坐忘論』、『登真系』など数種がある 。その後彼は皇帝から銀青光禄大夫の位を贈られ、さらに貞一先生の号を賜った 。』

 

この中で『昔、左神公子という仙聖は夜寝ていて自然に言語を発していたと聞いているが、今承禎は果たしてそれと同一である 。』の話は、熟眠中に夢をみないということではあるまいか。

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YouTube開始2カ月半

2025-06-08 03:32:31 | 人と神の「実際のところ」

◎地味ですが、着実に登録者、視聴数増加中

 

2025年3月23日にスタートしたYouTubeもおかげさまで、コンテンツ数も170を越え、日に視聴回数も200を越えるようになってきました。登録者は69人。過去28日間では視聴回数3千越え、総再生時間は90時間と地味ですが、着実です。

シリーズは、

・冥想の手ほどきウェブ

・冥想の手ほどきチャット(音声概要、アップ完了)

・ジェイド・タブレット

・ジェイド・タブレット・トーク(音声概要)

・老子狂言ジャム(音声概要)

・冥想非体験(性愛冥想)を語ってみる(アップ完了)(音声概要)

 

と沢山あるが、ほとんどの方はシリーズを気にせずサムネイルで見るかどうか決めているっぽいです。

 

なお過去最高視聴数のコンテンツは、「肉体が死んでもほとんどの人は悟らない 冥想の手ほどき チャット0206 2025/05/13」で498回です。

 

また「冥想非体験(性愛冥想)を語ってみる」は、文字起こしの確認に非常に肉体的に負荷がかかり、以後体調はあまりよくないです。このYouTube単体の視聴は多くはないですが、講話テープと数冊の著書しかなかったダンテス・ダイジの教えの全容に新たなGeminiのアングルを添えることになって「冥想非体験(性愛冥想)」を読む人が増えればよいかなと思っています。

 

また音声概要が多いですが、GEMINIの読み込みの深さは定評があり、参考になることも多く、GEMINIの読み間違いがあるのはご容赦下さい。

 

音声概要でない、冥想の手ほどきウェブとジェイド・タブレットは、全部ひらがなにして音声変換の読み間違いチェックをしている関係で、日に1本上げるので精一杯です。

スライドの絵入りは、改めてわかりやすいのではないかと思い直しています。

 

今後は、そろそろと英語のブログもYouTubeに上げて行こうと思っています。

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