◎天皇(天帝、宇宙の最高神)に仕え、玉清(道教における最高の仙境)に上る
呂巖は、唐代に大周天で究極に達した呂洞賓のこと。以下の文は、一生の通観だが、成道前と以後では見方を変えねばならないが、参考となるのは成道前のことだろう。
『呂巖(りょがん)
呂巖、字(あざな)は洞賓(どうひん)、唐の蒲州(ほしゅう)永楽県(えいらくけん)の人である。その祖先は渭(い)の礼部侍郎(れいぶじろう)で、父の呂は海州(かいしゅう)の刺史(しし)であった。彼は貞元十四年(798年)四月十四日、巳の刻(午前9時から11時頃)に生まれたので、「純陽子(じゅんようし)」とも呼ばれていた 。彼が生まれた時、珍しい香りが四方に立ち込め、どこからともなく天楽の響きが聞こえ、ちょうどその時一羽の白鶴が部屋の中に入ってきて、窓に掛けてあった帳(とばり)の中に飛び込んだかと思うと、その姿がたちまち消え失せて、どこへ行ったか行方が分からなくなった 。
彼は生まれた時から首が長く、骨格が堂々として、額が広く、体が肥え太り、鼻が高く、色は黄白色であった 。そして左の眉の端に一つの黒子(ほくろ)があり、足の裏には亀の甲羅の形をした紋がついていた 。身長は八尺二寸(約2m48cm)で、普段から華陽巾(かようきん)を被り、黄禰(こうじ)のかたびら(麻製の裏地のない着物)を着て、その上に太皂(ふとくろ)の縦(たてぎぬ)を繋げた姿は、どう見ても昔の張子房にいた 。まだ幼児であった頃、馬祖(ばそ)が彼を見て大いに驚き、「この子は容貌(ようぼう)骨格が世の人と甚だ異なっている。後世必ず天下を救う仙聖となるであろう。もし他日 、廬山(ろざん)に行くことがあったら、必ずそこに長く留まるように。もし鍾山(しょうざん)に行くことがあったら、よく注意して軽率な振る舞いをするなと、固く戒めてあった 。呂巖は幼少の頃から才知が人に優れ、読書、詩賦、文章など何でもできないというもの一つもなく、特に仙道を最も好んで勤修して怠らなかった 。

ある年、廬山に遊ぶと、火龍異人(かりゅういじん)に会い、天遁剣(てんとんけん)の用法を詳しく授けられた 。そして唐の会昌(かいしょう)の年(841年から846年)、彼が六十四歳の時二度まで進士(しんし)に登用されたけれど、彼はいつも拒んで官に就くことを望まなかった 。
ある年、呂巖は長安(ちょうあん)のある酒屋で、一人の青い頭巾を被り、白い泡衣(ほうい)を着た隠者(いんじゃ)に会ったが、その時件(くだん)の隠者は壁の上に次の三絶句を題して彼に示した 。
「坐臥常携酒一毫(ざがじょうけいしゅいちごう)
不致雙眼識臺都(ふちそうがんしきたいと)
乾坤大無名姓(けんこんだいむみょうせい)
疏散二丈夫(そさんだいにじょうふ)
得道仙不易逢(とくどうせんにあいやすし)
幾時帰去相(いつのひかかえるべきや)
自言(みずからいう)住処滄海是蓬萊(じゅうしょそうかいこれほうらい)第一」
「莫厭追默笑語頻(まくえんついもくしょうごひん)
尋思離乱可傷神(じんしりらんかしょうじん)
間来屈指從頭数(かんらいくっしじゅうとうすう)
得到清平有人(とくとうせいへいゆうじん)」
【※
坐臥常携酒一毫(ざがじょうけいしゅいちごう) 座っても横になっても、常にほんの少しの酒を携えている。これは、酒に浸るというよりも、常に心にゆとりと楽しみを持っている状態を表します。
不致雙眼識臺都(ふちそうがんしきたいと) 両の目で、世俗の都や名声を認識しようとはしない。つまり、世間の名声や富には関心がなく、それらを追い求めないという心境を示しています。
乾坤大無名姓(けんこんだいむみょうせい) 天地(乾坤)は広大で、そこに名も無き存在である。自分自身も天地の一部であり、名声や身分にこだわる必要はないという思想が込められています。
疏散二丈夫(そさんだいにじょうふ) (私は)世俗にこだわらず、気ままに生きる二人の丈夫(立派な男、ここでは邵雍自身と彼のような生き方をする人を指すか、あるいは精神と肉体を指すか)である。世間から離れ、自由に生きる姿を表しています。
得道仙不易逢(とくどうせんにあいやすし) 真の道を得た仙人は、なかなか出会えないものだ。これは、仙人という境地は容易に達せられないことを意味しています。
幾時帰去相(いつのひかかえるべきや) いつの日にか、仙人の境地へと帰ることができるのだろうか。あるいは、いつかはこの世を離れ、あるべき場所へと帰るのだろうか、という問いかけです。
自言(みずからいう) (私が)自分自身で言うには。
住処滄海是蓬萊(じゅうしょそうかいこれほうらい) 私の住処は、広大な海の中にある伝説の蓬莱山(仙人が住むとされる理想郷)である。物理的な場所ではなく、心境として、世俗を超越した理想的な境地にあることを示しています。
後半の句の意味
莫厭追默笑語頻(まくえんついもくしょうごひん) 静かに過ごすことや、頻繁に笑い語ることを厭うな。つまり、一人静かに考える時間も、人との交流を楽しむ時間も、どちらも大切にすべきだという教えです。
尋思離乱可傷神(じんしりらんかしょうじん) 乱世のことをあれこれ考えても、心を痛めるだけである。世の中の混乱や争いについて思い悩むよりも、自分の心の平安を保つことが重要だというメッセージです。
間来屈指從頭数(かんらいくっしじゅうとうすう) 暇があれば、指を折って最初から数えてみる。(隙間理論を暗示しているか。)
得到清平有人(とくとうせいへいゆうじん) 清らかな平和を得た人がいる。これは、世俗の喧騒から離れ、内なる平和を見出した人がいることを示唆しています。】

呂巖はその男の風采が世の常の者でないのみならず、その時までが何とも飄逸の韻致(いんち)に富んでいるのを見て、これは必ず世に優れた隠者であろうと早くも悟り、じりじり と間合いを詰め、厚く盟交(めいこう)を請うと、件の隠者は自分のために是非一篇の詩を試みてその志す所を明らかにしてほしいと求めたので、呂巖は傍にあった筆を執って、次のような一篇を試みて彼に示した 。
「生在儒家週大平(せいざいじゅかしゅうたいへい)
重滞布衣誰能世上争名利(じゅうたいふいすいよくせじょうそうめいり)
欲事天皇上玉清(よくじてんのうじょうぎょくせい)」
【※
生在儒家週大平(せいざいじゅかしゅうたいへい) 「儒家の家に生まれ、太平の世(周の時代、または平和な時代)に生きている。」 これは、自分が儒教の教えを背景に持ち、争いのない平和な時代に生きていることを示しています。儒家は秩序と倫理を重んじ、平和な世を理想とします。
重滞布衣誰能世上争名利(じゅうたいふいすいよくせじょうそうめいり) 「襤褸(ぼろ)の衣に身をやつし、世の中で名声や利益を争うことに誰が関心を持とうか。」 「重滞布衣(じゅうたいふい)」は、ここでは質素な暮らしや、官職に就かずに民間で過ごす身分を指します。そのような境遇にあって、世俗的な名声や利益を追い求めることに意味を見出さない、という達観した態度が表れています。
欲事天皇上玉清(よくじてんのうじょうぎょくせい) 「ただ、天皇(天帝、宇宙の最高神)に仕え、玉清(道教における最高の仙境)に上りたいと願うばかりである。」 「天皇」は、ここでは中国の伝統的な宇宙観における最高神である天帝を指します。また「玉清」は、道教の教えにおいて仙人が住むとされる最も高い天界、あるいは最高の精神的な境地を指します。つまり、この句は世俗的な欲望を捨て、ひたすら道教のタオ(玉清)の探究を目指すという強い願望を示しています。】
この時、件の隠者は自分の名は雲房(うんぼう)というもので、住居は終南山(しゅうなんざん)の鶴嶺(かくれい)であることを告げ、「君は自分と一所に遊ぶ心がないか」と尋ね、二人は共に連れ立ってある宿舎に泊まったが、雲房が自ら手を下して炊事(すいじ)をしている隙に、呂巖はふと枕について身を横にすると、眠ってしまった 。その時彼はこのような夢を見た 。
「自分は進士の試験に及第して、署から台諫、翰苑、秒閣及び諸清要の官に累進(るいしん)し、位は身に添え、家は富み栄え、またある富豪の娘を娶(めと)って子を生むと、その子供はたちまち成長して妻を迎え、こうして数多(あまた)の孫や甥などを儲けて四十余年の間、一家宗族(いっかそうぞく)それぞれが富み栄え、自分は二十年ほど宰相(さいしょう)の役を務めていて、権勢(けんせい)に並ぶものがなかったが、ある事から罪を得て一家離散し、自分は嶺表という所へ流されて悲しい憐れな境涯に沈淪(ちんりん)した 。そして彼はここで初めて浮沈(ふちん)定まらない世のありさまを悟り、独り熟々と儚(はかな)き身の運命を嘆いていると夢見て、忽ち(たちまち)目が覚めた。」
目を覚まして見ると、雲房はまだ傍にあってせっせと飯を炊いている最中であった 。
てあったが、彼は今呂巖が目を覚ましたのを見ると、独りくすくす笑いながら、「黄梁猶未熟、一夢到華胥」(キビ飯がまだ炊き上がらないうちに、夢の中で理想郷にたどり着く)と声高らかに吟じたので、呂巖は大いに驚き、「君は自分が今何を夢見たか、それを知っているのか」と尋ねた 。

雲房は言うように、「それはよく知っている。しかし君がこれから浮世(うきよ)にいて見る夢は最も複雑で最も変化のあるものである。しかし要するに五十年の人生は一瞬の夢で、志を得たからといって別に喜ぶにも及ばない。また失敗したからといって別に悲しむにも及ばない 。そしてこの人世そのものが既に大きな一つの夢であるということは、ただ浮世の夢を見尽くした後初めて悟ることができるものである」 。呂巖はこれを聞いて忽ち自分の未熟であったことを後悔し、それより彼は雲房について一心に長生の道を学んだ 。
ある日雲房は呂巖の心を試してみようと思い、彼に向かって、「君の身体は道を求めるべくまだ十分に完成してはいない。強いて道を求めようと思うならば、少なくとも今数世を経て、身体が十分に練り上がる時を待たねばならぬ」と言って、そのままどこかへ立ち去ってしまった 。そこで呂巖は大いに発奮して、今迄学んだ儒教の学問を全然捨て去り、一意専心になって仙道の研究に力を込めた 。
呂巖を発奮させるために一時姿を隠した雲房は、その後間もなく帰ってきたが、今度は彼の精神を試すために前後十回の試験を行った 。即ちある日のこと、呂巖が他所から家へ帰って見ると、家族の者たちはいつの間にか悉く病死していた 。
しかし彼はこれを見たけれど少しも悲しいという気色もなく、ただ厚く葬式を行ってやると、今迄死んだと思った家族たちは一時に蘇生して、少しも異常がなかった 。
次に、ある日呂巖は市に出て商売をしていると、買い手はどの者も代金の半分しか払わなかったが、しかし彼は少しもこれを嫌がる気色はなく、その半分の代金を取ってその品物を買い手に渡してやった 。
次に、ある年の元日、呂巖の門前に一人の乞食が来て、しきりに施しを請い続けて止まないので、呂巖は財布の中からお金を出して彼に与えてやると、件の乞食はなお飽き足らず、強情に要求した上、最後には悪口雑言を放って散々彼を罵ったけれど、呂巖はただ微笑しているばかりで少しも怒らなかった 。
次に、ある日呂巖が山の中で羊を飼っている所へ、一匹の飢えた虎が迷い込んできたので、彼は羊を悉く隠し、自身親ら件の虎に向かうと、件の虎はこれを見て忽ちどこへか逃げ失せてしまった 。
次に呂巖は、ある日山中の茅屋(ぼうおく)に座って静かに書物を読んでいると、そこへ年の頃十七、八歳と思える美しい女がやって来て言うには、「自分はここから遠く離れた都に住んでいる者であるが、自分の両親がこの付近に住んでいると聞いて、久しぶりに訪ねて来たけれど、道に迷って人里へ出ることができない。しかも日は既に暮れ果て、お腹も空き、足も疲れてもはや一歩も先へ進むことは難しいから、今宵一夜の宿を貸してくれ」と、涙を含んで頼み入る様子は、いかなる道心堅固(どうしんけんご)な聖者でも心を動かさない者はいないと思われた 。そして彼女は夜更けになると、呂巖の側に膝行(しっこう)寄ってしきりに秋波(しゅうは)を送り、落花流水(らっか りゅうすい)の情を寄せて、しきりに彼の心を動かそうと試みたけれど、彼は毅然(きぜん)と座ったままで、少しもみだらな変態を見せなかった 。そして彼女は三日ばかり彼の野宿の場に留まっていたが、呂巖の道心堅固でついに動かすことができないのを見ると、結局どこへか立ち去ってしまった 。
次に、ある日呂巖が外出から戻った後、盗賊が忍び込んで、彼の多くもない家財道具を悉く盗み去り、朝夕の食糧の用意にさえ差し支えることとなったけれど、呂巖は少しも悲しいと思う様子はなく、自ら他人の田畑を耕してその賃金で少しずつ道具を買い求めていたが、ある日例の如く畑を耕していると、土の中から数十の古銭が出た 。その時彼は件の古銭をそのままそこにおき、その上に以前のように土を覆い被せてしまった 。
次に、ある日彼は市へ出て数個の銅器を買い求めてきて、よく観ると、それは悉く金で造った器物であったので、彼は大いに驚き、早速その店へ出掛けていって件の器物を悉く銅製のものと取り替えてきた 。
次に、ある日この付近に一人の怪しい道士がいて、大道の真ん中に店を開いて薬を売っていたが、その言う所によると、「この薬を服用すれば忽ち死んでしまうけれど、後再びこの世に生まれ出て仙道を得ることができる、世にも珍しい妙薬である」とのことであった 。しかし世人は死ぬということを怖がって誰一人その薬を買う者はなく、彼は十日ばかりの間毎日路に出て客を求めていたが、一文の商売もなかった 。然るに呂巖はある日ふとそこを通って件の薬の効能を聞くと、大いに喜んで早速それを買い求めて服用してみたけれど、別に何の異常もなかった 。
次に、ある年、春雨が長く降り続いて何かの河水も溢れて大洪水となった時、彼は多くの人々と一緒に舟を浮かべて河の中頃へ到ると、波が荒くて危険極まりない様子だったので、他の人々は怖れて後へ引き返してしまった 。しかし彼のみは少しも怖い気色なく、万難を犯して向こう岸へ渡り、ついに多くの罹災者を救った 。
次に第十回目の試験は就中(なかんずく)困難なものであった 。即ちある日彼が独り一室の中に座っていると、どこからともなく奇妙な姿態をした鬼魅(きみ)がたくさん集まってきて、彼の家の周りを取り囲み、手に得物(えもの)を提げて彼を害しようと企てた 。その時彼は少しも恐れる気色なく、端然と座ったまま静かに彼らの為すに任せていると、鬼魅たちはこれを見て互いに何事か囁き合って、どこへともなく立ち去ってしまった 。たちまちすると今度は数千の夜叉(やしゃ)が現れて一人の死んだ男を引き立てて来た 。
件の死人を見ると、これはまたどうしたことか、満身に生血が滴っていて、見るからに身の毛もよだつほどである 。その時件の死人はかっ(と)大きな目を開いて、恨めしそうに呂巖を睨み、苦しい声を上げて、「自分は前の世に汝の為に殺害された者である 。それ故に今来て仇を報いようと思うのである。何事も自分が作った罪の報いであると観念して、覚悟を極めるが良い」と言いながら、起き上がり様、彼を目掛けて掴みかかろうとした 。その時呂巖は落ち着き払って、「自分の生命を殺して、それで汝の怨みが晴れるのならば、自分にとっても少しも構わない」と言いながら、刀を執ってまさに自害しようとすると、忽ち空中に彼の男を叱る声がして、夜叉も件の男も共に一時に消え失せてしまった 。
かと思うと、そこへ思いもかけない雲房が現れてきて、掌を打って笑いながら、呂巖に向かい、「これまでの種々の出来事は皆自分が仕組んだ芝居で、全く君の心を試そうとしたのであるから、悪く取っては困る。もはやこれ以上は君に於て少しも疑う所がない」と言って、直ちに彼を伴って鶴嶺へ赴き、そこで悉く上真(道教の大悟のこと)の秘訣を詳しく授けた 。その時清渓(せいけい)の郷思遠(きょうしえん)と太華(たいか)の施真人(せしんじん)の二人が東南の方から雲に乗ってやって来て、雲房の側に座を占め、呂巖がそこにいるのを見て、雲房に「彼は何者であるか」と怪しみ尋ねたので、雲房は「呂海州(りょかいしゅう)の譲の息子で、呂巖という者である」と告げ、呂巖を呼んで二人に紹介すると、思遠は呂巖を熟々と眺めて、「容貌といい、目つきといい、どこからともなく精気がこもっていて普通の者と異なっている。後にはきっと広徳(こうとく)の仙聖となるであろう」と言って、甚く彼を褒め称えた末、暇を告げてどこへともなく立ち去ってしまった 。

その時雲房は呂巖に向かって、「自分が天上の仙宮(せんぐう)に詣でるのに一定の期日があって、その期日に臨まなければ、私には天上に詣でることはできない 。もし仙宮に詣でる機会があったら、老君(ろうくん)に汝のことを奏薦(そうせん)してやろうから、今暫時(ざんじ)ここに留まっていろ 。しかしそれとても長いことはない。これから十年経った時に再び洞庭湖(どうていこ)のほとりで汝と会うことがある」と告げて、奇妙な法と霊丹数粒とを彼に授けた 。
然るにそこへ 突然として二人の仙人が現れ出て、金簡寶符を捧げてそれを雲房に授け、かつ上帝が彼を以てにわかに九天金闕(きゅうてんきんけつ)の選仙に任じられる旨を告げたので、雲房は重ねて呂巖に向かい、「自分は今急に上帝から召されて昇天しなければならぬ 。汝は暫時人間界に留まって徳を建つることに努めるが良い 。いずれにしても早晩は自分と同じような身分になるのであるから、その時の到来するのを気長に待つが得策であろう」と言って、彼を迎えた二人の仙人と一緒に雲に乗って忽ち昇天してしまった 。
さて呂巖は雲房に別れた後、江淮(こうわい)の通りに遊んで人民に害をなす妖邪(ようじゃ)を除き、あるいは湘潭(しょうたん)、岳郡(がくぐん)、両浙(りょうせつ)、汴(べん)の地方を往来して人民に災いを為す者を除いていたが、当時彼は自ら名を弾じて回道人(かいどうじん)としていたので、彼こそ世にも名高い呂巖その人であるということは、世間の人々もあまり知らなかった 。
宋の政治年間(1111年から1118年)一個の妖鬼(ようき)がいて白昼宮中に現れ、種々の崇(わざわい)をなす外に、数多の金銭財宝を始めとして、宮中に仕えている女官たちを盗んでどこへか立ち去るので、宮中の騒動は一方ならず、諸々の陰陽師(おんみょうじ)を招いて禁厭(きんえん)の法を行ったけれど、少しも鎮定する様子がない 。そこで皇帝は大いに心を悩まし、何とかしてこの妖魔を退治してやろうと、六十日の間斎戒(さいかい)沐浴して天地の神々に祈られると、ある日夢に一人の異様な道士が現れた 。頭に碧蓮の冠を戴き、身に紫鶴の衣を着て手に水晶の如意を持ち、東華門の方からゆっくりとやって来て皇帝の前に跪き、「自分は上帝の命によって宮中に災いを為す妖鬼を除くためにわざわざここへ来た者である」と告げ、一人の金甲を着けた丈夫に命じて、その災いを為す妖鬼を捕らえて、一つ一つこれを滅殺させた 。
その時皇帝は件の丈夫を召してその名を尋ねると、「崇寧真君の関羽である」と告げたので、皇帝は試みに「汝の義兄弟の張飛は今どこにいるのか」と尋ねられると、「張飛は代々男子の身と生まれ変わり、天子の為に忠を尽くしている 。今後相州の岳氏の家に生まれる男の子は即ちこの張飛の後身である」と答えた 。次に皇帝は件の道士に向かってその名を尋ねると、「姓は陽(よう)といって四月十四日に生まれた者である」と答え、そのまま姿が消え失せてしまったので、その後皇帝は姓は陽氏で四月十四日に生まれた者はいないか、広く天下に詔(みことのり)を下して詮索させると、それは疑いもなく呂巖のことであったから、皇帝は呂巖に「正妙通真人(せいみょうつうしんじん)」の称号を贈って厚く彼を祀(まつ)ってあった 。
さてその後、彼の相州の岳武穆(がくぶもく)即ち岳飛(がくひ)が生まれた時、彼の父がある夜、張飛が自分の妻の胎内を借りて再びこの世に生まれ出ることを夢に見たので 、張飛の「飛」の字を取ってその子に名付けたとの事である 。』
※張子房:中国の前漢時代に劉邦の覇業を大きく助けた名軍師、張良のこと。
※「彼は雲房について一心に長生の道を学んだ 。」:不老長寿の方法を学んだのではなく、不死の道を学んだ。
呂巖は飲むと死ぬが代わりに仙道を得られる毒薬を買い求め、躊躇なく飲んだが、魏伯陽の故事が思い起こされる。
第十回目の試験は、日本の稲生物怪録を思わせるものであり、稲生物怪録が単なるモンスターのパレードでなく、開悟直前の悪魔との対決であることを思わせる。
大周天は、クンダリーニ・ヨーガと異なりボディの縦側の周回であることは、意外に門外漢には知られていない。呂洞賓は、大周天という新技術を開発したので、大物覚者として評価されている。