アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

現代人はすぐに悟れる

2022-10-31 06:49:28 | Overview of the meditation 冥想の全体像

【第二章】神仏と冥想の関係

◎3.現代人はすぐに悟れる。

 

ダンテス・ダイジが、現代人は数分の冥想で悟ることができると言ったことがある。これは、神仏を見ること、すなわち見神、見仏、見性、一瞥を、悟ると称している。

 

OSHOバグワンは、人間の意識は自分では終始連続しているように思っているが、映画フィルムのコマとコマの間に隙間があるように、その意識の連続の間には、実は隙間があるとし、その隙間に覚醒のチャンスがあるとする。

 

またチベット密教は、自然発生的隙間に着目していて、その隙間は、くしゃみ、失神などでも発生し、その隙間では人間の肉体死の最後のステップで目撃される原初の光を見ることができるとする。

 

さらに禅では、禅語録でどんなきっかけで大悟するかを記録しているのだが、小石が竹に当たったり、暗闇でろうそくを吹き消されたり、花の咲くのを見たり、座っていて後ろに倒れたりなど、日常でありがちな出来事が並ぶ。

 

これらの例は概ね短時間な例であって、まずは現代人は数分の冥想で悟ることができる可能性の高さを示しているように思う。

だが本当に悟れるかどうかは、現代人の現実感覚が、いわばいつでも悟りを認識できるほど、「不条理、理不尽に出会って、オープン・マインドできるフランクさがあるかどうか」にかかっているように思う。この点を、現代人は数分の冥想においてクリアできるとダンテス・ダイジは見たのだろう。同様の認識は、万人が同時にその状態に至る日が来るということで、『死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。』(ヨハネによる福音書5章25~29節。)とか『凡夫の耳も菊の年』(伊都能売神諭 大正8年1月27日)という言葉でわかる。

 

勿論、突然の災害ですべてを失うなど、長時間の自然発生的な隙間、裂け目もあるが、裂け目であることに変わりはない。

 

こうした隙間で見ているのは、神仏であって、本来の自己とか神性、仏性と言われるもの。七つの身体論で言えば、アートマン。

 

ダライ・ラマは、こうした自然発生的、偶発的な隙間、裂け目の発生は、時間がたてば消えてしまい元にもどる。だからそれを永続化する冥想修行が事前に必要なのだと言う。チベット密教では、偶発的な隙間で見るものを母光明と呼び、冥想修行で得る同等の境地を子光明と呼び、母光明と子光明の合体により悟りを永続化できると考えている。

 

禅の十牛図で言えば、母光明は牛、子光明は牧人に当たる。十牛図でも二者合体して後、覚醒に至るわけだが、図らずも二つの要素を立て、合体するステップを見ているのは、チベット密教と共通しており面白い。

 

だが、隙間、裂け目が発生しても、何が起きているか認識できない人の方が多い。

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船頭になった巌頭和尚

2022-10-30 15:43:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎杜鵑 月に叫んで夜三更

 

巌頭和尚は、徳山の嗣法。845年会昌の破仏に遭遇し、寺を焼かれた上、追放されたため、還俗して船頭をやりながら修行。最後は賊に襲われて首を斬られて死ぬがその「 吽 ( うん ) 」と叫ぶ声が数里の外まで響いたという。

 

一休が、巌頭和尚を歌った詩がある。

 

会昌以後 僧形を破る

一段の風流 何似生

トウ(木へんに早)を舞わして未だ為人の手を懐にせず

杜鵑 月に叫んで夜三更

 

巌頭は杜鵑が月に叫ぶような自然法爾に生きたと歌っている

 

白隠は、この巌頭の無残な最期を知って、当初は修行を積んだ高僧でも賊に首を斬られて死んでしまうのなら、禅も大したことはないなどと高をくくっていたが、後に、「巌頭はまめ息災であった」と悟る。

 

今は国家による信仰弾圧こそないが、風俗紊乱で冥想修行が難しい時代、社会であることには変わりはない。まず自分から。

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見神、見仏、見性の限界

2022-10-30 15:39:51 | 現代冥想の到達点neo

◎見性だけでは不徹底

 

イエスは見神体験は有していたが、神人合一を得たのは十字架上だった。

 

見神、見仏、見性とは、禅の十牛図でいえば、第三図見牛であり、全然最初のほうであり、その後の人生の送り方によっては、悪に陥ることすらある。

 

江戸時代の白隠は、多数の出家・在家の弟子を見性せしめ世間的には評価の高いところであるが、なぜかダンテス・ダイジは、白隠を不徹底であるとして評価していないところがあった。

 

その理由を想像するに、見神、見仏、見性だけでは、いわゆる最終解脱ではないからである。禅の十牛図でいえば第八図の円相までいって届く。筆で円を描いたからといってその人が人牛倶忘であるということではない。

 

第三図の境涯しか持たぬのに人を指導してよいのかというところすらある。

 

ただし世間的には、見性した人すら極めて少なく、見性すれば悟った人と称して差し支えはあるまい。

 

そんな中、同じ禅僧でも至道無難は、見性だけの人の危険性を指摘しており、わかっている禅僧であると思う。

 

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イースター復活祭

2022-10-30 15:29:46 | キリスト者の秘蹟neo

◎イエスはいつ大悟したか

 

イースターは、イエス・キリストの復活の祝い。肉体でなく、アストラル体での復活っぽいが、例によって現代科学で検証するすべはない。現代科学はそもそもアストラル体など認めていないので。

 

イースターと言えば、卵型のチョコがスーパーなど店先に並ぶのがキリスト教国の習いだが、日本ではまずあまりみかけない。

 

さてイエスはいつ悟ったかというのは問題である。超能力がばんばん使えたからといって、それは覚醒の証拠とはならない。

 

小学生の頃、旧約聖書を読んでいて、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしか」とつぶやくのを読んで、あれ、イエスは神の子なのに何を言っているのと不審に思ったものだ。

 

要するに、このつぶやきの時点で、人と神は別であり、神人合一は未だ成らなかったのだ。その後神と人との境目がなくなったと見るのが穏当な推理なのだと思う。

 

逆にイエスは、神の側の立場でなく、無力な一個の大工として、その愛のゆえに十字架にかかることから逃げなかった無私と勇気こそ、人として驚異的な生き様であったと思う。

 

釈迦成道では、最初四禅から入ったなどと実況中継よろしく解説する神秘家がいたが、イエスの場合は、西洋人向けには神秘主義からの解説は良しとされなかったのか、十字架上でのプロセスを解説するものは出ていない。

 

それにしても、イエスは、あれだけこの21世紀の危機の時代のことを「終わりの時代には・・・」とその生涯で語ったからには、その昇天による影響のターゲットは現代人に向けられていると考えるのが素直だろう。

 

彼は本当によくやったし、成功した。けれども一人の大工の影響力には限界があった。今一人ひとりが自分に向き合わないと。

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呪殺の論理

2022-10-30 15:25:32 | 超能力・霊能力neo

◎勘違いの所業

11世紀チベットの大霊能力者ドルジェタクは、霊能力者としては一流だが、求道者としては、どのような位置づけとなるのだろうか。

 

まずドルジェタクの言い分は、呪殺(度脱)の動機は、慈悲菩提心を起こし、衆生を救済しようという気持から出ているとのことであるから、その人がそれ以上悪いことをしないように、早々に命を奪うことが、慈悲であるというようなものである。

 

実際は、ドルジェタクが自分が呪殺される危機に瀕して、呪殺合戦になり、呪殺合戦の勝者が正義であり、慈悲であるという論理で、数しれず呪殺を繰り返している。

 

一体どんな修行をすれば、人殺しでも、他人の財産の略奪でも、何をやってもいんだという心境になるのだろうか。

 

さて、その手がかりとなるような記事が2つある。

 

ひとつは、江戸時代の禅僧至道無難の「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ」というものである。その人には、確かに神を見る、窮極を見るという体験は、間違いなくあるのだが、それを至上のもの、最終的なものであると見誤ると、「俺は、すべてを知った。だから何をやってもいいんだ」という本人の自覚のない増上慢に陥るのだと思う。そして、その後、悪業三昧ということになるのではないだろうか。

 

もうひとつは、ダンテス・ダイジの「で、このくらいまで行けばさ、もうブラック・マジックも成立しない。ブラック・マジック、つまり破戒っていうけど、破戒無慙とか破戒僧とかいうのはね。ゼロポイントのひとつ手前に留まるんだ。」。

一方で神や仏の実在を確認はしているものの、他方で物欲や性欲、名誉欲、財産欲など、この世的な欲望を棄てきれない状態にあると、このような勝手気まま、なんでもありというとんでもない状態があることを示唆している。

 

このような人は、何しろ神仏のことは実体験として知っているから、議論をしても向かうところ敵無しだろうし、ましてや霊能力がつかえるとなれば、ドルジェタクのように無類の強さを発揮するというのも不思議なことではないと思う。信者も沢山集まるだろう。

 

そしてこのような人が自分の恐るべき行動を後付けで理由をつけたのが、呪殺も慈悲の名の下にどんどんやっていいというロジックになるのだろう。そういうロジックは、本当の愛や慈悲とは無縁のものだから、本質的なところでは、決して通用することのないものだと思う。

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神降ろし

2022-10-30 15:21:21 | 夢と真実neo

◎神降ろし

 

神降ろしについては、古神道には古くからの歴史と伝統があって、また善悪真偽深浅取り混ぜて巷のあちらこちらで見聞きすることがある。チャネラーやシャーマンもその一種である。

 

これは、神と出会うのでも一体化するのでもなく、我が身に一時的に引き入れるものである。大正10年以前の出口王仁三郎が盛んにこのやり方を広めようとしたが、結局邪霊の発動がしきりであったようで、結局うまく行かなかった。入れ物である人間の浄化の程度に応じて憑る神霊の程度が変わるので、人間の御魂の磨き具合がいま一つだとかかる神霊もいま一つということのようなのだ。

 

平たく言うと、たとえば泥酔すると乱暴になる人は、その深層意識が表面化して乱暴になるのだが、憑依においても、その依代(よりしろ)の深層意識の程度に応じて憑依してくるという法則があるようだ。

 

つまり憑依、神降ろしは、憑依される方の人間と、憑依してくる神霊のレベルの2要素で決まる。

 

出口王仁三郎は、依代としての適性については、年齢性別など細かく適不適のあることを指摘している。結局依代として、老女は不適当、子供は早すぎる、中年以降の人は総じて不合格ということなので、「神降ろし」という技術は万人に適用できる技術とはなり得ないと最後は見切っていたようである。

 

一方憑依する神霊のレベル付けは次のようなものである。神がかりには3種類あるとする。

(注.精霊とは、肉体に宿るもののことで、エーテル体以上の総称。)

 

『1.帰神

人間の精霊が直接大元神(主の神または大神)に向かって神格の内流を受け、大神と和合する状態

 

2.神懸(しんけん)

大神の御神格に照らされ、智慧証覚を得、霊国にあってエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に下り来たり、神界の消息を人間に伝達すること。

 

3.神憑(しんぴょう)

外部より、人件の肉体に侵入し罪悪と虚偽とを行うところの邪霊を悪霊または副守護神というが、副守護神に侵入されたこの状態を神憑という。

 

チャネリング(交霊術)の達人には、神憑が多く、このような副守護神は、地獄の団体に籍を置き、人間の善霊を亡ぼし、肉体をも亡ぼそうとするもの。

 

大神が予言者と物語りたまう時は、太古すなわち神代の人間におけるがごとく、その内分(霊覚)に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先ず、おのが化相をもって精霊を満たし、この満たされた精霊を予言者の体に遣わしたまふのである。ゆえにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、その言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達というべきものである。伝達とは、霊界の消息や大神の意思を現界人に対して告示する所為をいふのである。』(霊界物語第48巻/天声社から引用)

 

神降ろしとはこのように非常に達成条件のきつい技術であるが、成功の暁には、その神の言葉を一生抱いて、その感動の中に生きることもできたのではないだろうか。

 

ただし神降ろしの場面では、審神者のコメントはよく出てくるが、依代となった人の体験談はまず伝わっていないので、いわば依代の人格はないがしろにされており、依代はあまり相手にされてこなかったという印象を持っている。

 

その意味で,神降ろしは自己主張の盛んな現代人にとっては、レトロな技術と位置づけられるのではあるまいか。

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悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一

2022-10-30 06:51:41 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

2.悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一

 

人が神仏を悟るやり方の区分は次の三種類。

(1)神仏に憑依される

(2)神仏を見る

(3)神(仏)人合一

 

(1)神仏に憑依される

「神仏に憑依される」(帰神)の神仏は、大神、根源神、主神、大神、大日如来など無形の神を指すのであって、八百万の神、天使、菩薩、邪神、邪霊などの有形の神霊は含まない。

「神仏に憑依される」の欠点は、大神が憑依している際、本人は神仏の言葉を語るが、それを聞く他人は何を語っているかわかるが、当の本人はわからないということ。よって本人は、やがて「神仏を見る」などの方向を目指すことになる。

 

(2)神仏を見る

見神、見仏、見性、一瞥を神仏を見ると言う。これは禅の十牛図では第三図。これも悟りではある。

世間では、神仏を見ただけの人でも師匠、グル、マスターとして活躍しているということはある。

だが、「神仏を見ただけの人」の欠点は、ややもすればその後、元に戻ったり、悪化する人さえいるということ。それでも神仏を見た人は、現代では悟った人として差し支えないのだろうと思う。

 

(3) 神(仏)人合一

只管打坐の身心脱落、密教で言う入我我入、クンダリーニ上昇してモクシャに至るというようなものが神(仏)人合一。

神仏、ニルヴァーナは言葉で表現できないので、神(仏)人合一も言葉では表現できない。

 

神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。両方とも神、仏、タオであるが、どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。アートマンのことは、古神道では、天照大御神と素盞嗚神の事であり、ニルヴァーナ、無の側が、天御中主神。天御中主神の特性は無形、無声、無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊(出口王仁三郎説)。いわゆる大神とは、無の側の方である。

 

神(仏)人合一にあっては、既に見ている自分はないので、「体験とは言えない体験」と呼ばれる。禅の十牛図では第八図。

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新婦の部屋で結ばれる-2

2022-10-29 16:45:24 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎エデンの園追放以前のアダムに戻る

 

グノーシスにおける単独者とは、原人、完全な人のこと。それは、エデンの園追放以前のアダムのことである。

フィリポによる福音書§71にエバと分離する以前のアダムが完全体、原人であることが示される。そのやり方は、エバを再び合体させることであって、それが聖なる結婚となる。

 

フィリポによる福音書から。

『§71 エバがア〔ダ〕ムの〔中〕に在ったとき、死はなかった。彼女が彼〔から〕離れたとき、死が生じた。もし再び彼女が入〔り込み〕、また彼が彼女を自分に受け入れるならば、死はなくなるであろう。』

(ナグ・ハマディ文書2/荒井献ほか訳/岩波書店P86から引用)

 

これに対し、トマス福音書の語録75では、逆にアダムが新婦エバの部屋に入るという比喩で両性具有が実現し、原人となることが覚醒であることを表現している。これが天国と地獄の結婚である。

 

『イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている。しかし新婦の部屋に入るであろう者は単独者(だけ)である」。』

(荒井献著作集 7 トマス福音書 荒井 献/著 岩波書店P186から引用)

 

両性具有とは、男女の違いもなく、生死の違いもなく、神と人との分離もなくということで、個なる人間の立場の極みに近い。神仏を知る、見る、ワンタッチするという一過性のものよりも、両性具有は難しい。法律により私権が保護され、合法の名のもとに神仏の目から見れば明らかに悪であることを平気で大規模に行っているこの時代に生きる我らの頭では、理解しがたい種類のものであるから。

 

イエスが活躍した時代ですら、原人、両性具有をテーマにしていた。

 

神人合一と言うは易いが、両性具有を生きるというのは、禅の十牛図で言えば、第六騎牛帰家なのだろうから、見仏見性見神の第三見牛よりも上の境地である。

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新婦の部屋で結ばれる-1 

2022-10-29 16:42:49 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎聖なるものの聖なるもの

 

フィリポによる福音書で、イエスがマグダラのマリアにしばしば口づけするのを見て、あなたは我々弟子のすべてよりもなぜマリアの方を愛すのですかと質問したところ、イエスは、なぜ私は、あなた方をマリアのように愛さないのだろうかと問い返してきた。

 

 

フィリポによる福音書§76では、洗礼が聖なる家であり、「聖なるものの聖なるもの」とは新婦の部屋のことである。さらに洗礼には復活と救済があるが、救済は新婦の部屋の中にある、と新婦の部屋を解説する。

 

さらに§79では、女は、新婦の部屋で夫と結ばれるものであり、新婦の部屋で一つになったものたちはもはや離れることがないだろうが、アダムとエヴァは新婦の部屋でないところで結ばれたから分かれたのだ、と。

 

復活と救済の先にあるので、神を知っていることは勿論のことだが、不可分の両性具有の起きる場が、俗人の想像するような場ではないことを強調して、「新婦の部屋」と言っているように思う。

 

この両性具有のことを花婿と花嫁から成ったものと説明もしているが、それでは却ってわからないのではないだろうか。

古事記でも両性具有の伊都能売について全く解説していないように、準備のできた者だけに語るべきことなのだろう。

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死神死仏から伊都能売

2022-10-29 16:39:22 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売の神

 

古事記に一行だけ神名が書かれてあって、日本書紀には記述のない伊都能売神。

キリスト教では聖霊を非常に広い意味で使っているが、伊都能売神は、あらゆる二元対立を超えた至誠であり、聖霊でもある。

 

古事記に一か所だけ出て来て、しかも神名しか出てこない。この伊都能売神こそは、空であり、本来の自己である。出口王仁三郎は、伊都能売神を殊更に強調したのだが、その意図は汲まれるべきである。

 

古神道は一般に多神教と言われるが、一神教であると出口王仁三郎が断言するアーキテクチャーが、伊都能売である。自らが鎮魂して伊都能売に至るのだ。

 

出口王仁三郎が自らを変性女子と唱えたのもそういう意図。平たく言えば、天照大御神は、高天原の天の真名井での誓約で男神を生み、須佐之男命は女神を生み、これにより、天照大御神は変性男子、須佐之男命は変性女子。この二者の誓約により両性具有の伊都能売が成立した。

 

古神道はともすれば自分自身の悟りとあまり関係のない帰神、チャネリングが主流と思われているが、むしろクンダリーニ・ヨーガ系の鎮魂の方がメインの時代となっている。鎮魂の一つの里程標が伊都能売である。

 

『世の中の百の出来事おしなべて伊都能売の神の守らぬは無し

上下の差別も付けず平等に世を救ひます伊都能売の神

地の上に建てる宗教悉く伊都能売の神守りますかも

 

山川も百も樹草も禽獣も恵みに浴せる伊都能売の神

肉体のなやみは更なりたましいのいたづき癒し玉ふ伊都能売

宗教や政治文学芸術に産業幸ふ伊都能売の神

 

天震ひ地は鳴り響く災厄も只一声に止むる伊都能売

渇きたる教に真清水あたへつつ死神死仏を生かす伊都能売

国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売の神

 

伊都能売の神の出でまし寿ぎてあなたこなたに万年青はやれる

天も地も皆伊都能売のいさほしに安く治まる御代近づきぬ

もろもろの聖の教は多けれど伊都能売教に優れるは無し』

 

(昭和二年 四号 神の国/出口王仁三郎から引用)

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神仏は天国と地獄の先にある

2022-10-29 06:39:40 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

1.神仏は天国と地獄の先にある。

 

神仏と言えば、天国的極楽的なものとほとんどの人が思い込んでいる。究極の真理を悟った者の生きる姿は常に天国的であるし、人は天国的に行動せねばならないからでもある。

 

だが、人間は、肉体と精神でできており、精神は常に天国的にあることも可能だが、肉体の方は、排せつがあり、老病死があり、地獄的なものを持って生きざるを得ない。

 

神仏は天国的なものだけの先にあるのであれば、釈迦の成道直前に悪魔は出現しなかっただろうし、イエスも大悟覚醒直前の荒野で悪魔は出現しなかっただろう。

 

つまり神仏は、天国的なものと地獄的なものを両方含めた先にあるのだ。これを天国と地獄の結婚とか両性具有といい、やや現代人にはなじみがない。

 

天国と地獄の結婚あるいは両性具有とは、男女の違いもなく、生死の違いもなく、神と人との分離もないということ。こうした状態は、個なる人間の立場の極みに近い。

 

だが、これは既に常識的社会人の通念を越えたものであって、経済的メリットと便利優先に凝り固まった人には理解しがたいものである。

しかしながら、ここから『無駄なもの、意味のないもの、無用の用』の価値が出現する。

 

これが、神仏は天国と地獄の先にあるという意味である。

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窮極の呼吸法・胎息

2022-10-28 12:27:03 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎まず食事のコントロールから

 

道教でこれぞ窮極の呼吸法というべきものは胎息である。胎息を極めた葛玄は、ひどく酔った時や夏の暑い盛りには、必ず深淵の底に潜って一日ほど経ってから上がってきたそうだ。

 

抱朴子によると胎息のやり方は次のとおり

1.鼻の中に気を引き入れて閉ざし、心の中で120まで数える。

 

2.120になったら、かすかに口から息を吐き出す。吸うのも吐くのも音が聞こえないほどにして、水鳥の羽毛を鼻と口の上に付けておいても、羽毛が動かない程度。入る方が多く、出る方が少ないようにする。

 

3.慣れてきたら120から段々数を増やしていく。千になると老人も日一日と若返る。

 

4.気を巡らすのは、毎日夜半から正午までの生気の時間帯とすること。

 

5.大食してはいけない。生の野菜や脂っこいもの、生魚などを食べると、気が強くなって閉ざしにくくなるので、これを食べてはだめ。それに、怒ると気が乱れ、気が自然に溢れ出ることができなくなるので、怒ってはならない。

(参考:平凡社/抱朴子)

 

 

抱朴子では、房中術だけやってもだめ、呼吸法だけやってもだめで、この二つに金丹を飲むことを併せた3つやって初めて成るとしているので、これはクンダリーニ・ヨーガの厳格な修行ルールと見た。

 

平素から高級食材コーナーを見て回るグルメの方や、油料理の多い外食中心の方では、まずトライする前提条件がないということになるだろう。ダイエットでも、まず食事のコントロールからということだが、食事のコントロールもそれなりに志が必要なのものだと思う。

 

 

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慧春尼

2022-10-28 12:25:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎周囲に理解者なし

 

室町時代のこと。慧春尼は、相模の糟谷の人で、物凄い美人だった。兄が小田原・最乗寺(曹洞宗)の開山である了庵慧明。

 

彼女は、女ざかりの若い時期に男に興味を持たず30歳を超えてしまったのだが、ある日、最乗寺に兄了庵を訪ねて出家したいと切り出した。兄が断ると、慧春尼は鉄火箸を真っ赤に焼いてそれを顔に縦横に押し当てたので、兄も出家を認めざるを得なかった。

 

禅寺での修行に入ってからも、彼女の美貌の面影を慕う男性は引きも切らず、さる男僧は、彼女の袖に長い恋文を投げ入れた。

 

慧春尼は即座に「とてもおやすい御用です。但しお互いに僧の身の上なので、世間並みにデートすることもできない。あなたと会いたい場所は甚だ険難な場所なので、あなたは約束通り来て思いを遂げることができないでしょう」と意味深な返事を書いた。

 

了庵禅師が上堂して、一山の全員が集まって水を打ったように静まっているところに、突然衣を脱いで素っ裸になった慧春尼が出てきて、ラブレターの男性を指さして、「約束は守るから、さあ今ここで、さあさあ。」と招く。

 

禅師も師匠もあっけにとられたが、かの男性は、脱兎の如く山を逃げ出した。

 

この脱俗ぶりは、臨済の同僚の普化もびっくりだが、臨済も普化のことをやりすぎだとなじったことがあるが、なぜ普化がそうなのかをちゃんと理解していた。

 

一方慧春尼は、周囲に彼女のことを理解してくれる同じ境涯の人物がいなかったようだ。つきまとって修行の邪魔になるストーカー僧はいたが。兄も今一つだったようだ。

 

さて最乗寺山門前の大岩に薪が山と積み上げられた。慧春尼は、自ら周りの薪に火をつけ、薪の中央に坐った。

 

これにうろたえたのか、兄の了庵は、「熱いか、熱いか。」などとわかりきったことを問うのに対し、彼女は「冷熱は生道心にはわからぬ」と。・・・・最後まで誰も彼女のことをわからなかった。

 

 

同じ火定では、霍山の景通禅師は、仰山との問答が残っている人だが、正午に自ら蝋燭をとって薪の上に上り円光相を示し、紅炎の中に降魔の勢いを示したという。

 

甲州恵林寺の快川禅師が、山門楼上で織田信長に焼かれて、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」と云ったのは、受動的に火に焼かれたものであり、上記2例とは異なるように思う。

 

華亭の船子和尚は、悟りを得た弟子をゲットできたので、自分で船を転覆させて死んだ。

 

これらは、死にざまを自由にするということだが、生死を超えるという本来の意味は、死にざまだけのことではないだろう。

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無想の境

2022-10-28 12:21:56 | 究極というものの可能性neo

◎意識下に座る

 

道者笹目秀和氏が、崑崙山頂ムッツァータンゴにて重要なレクチャーを、疏勒仙人より受けた。仙師とは、疏勒仙人のこと。そして、

 

『その日の夕刻、月を拝する鎮魂(坎水印)を終えて、山上洞窟の最後を行じたのであった。

 

翌日意識下に座っていたようでもあるが、眠っていたもののようでもあるし、失神状態であったようでもある。

 

フト己に還ったとき、仙師は、・・・・・・

「気がついたか。天界遊行とまではゆかないまでも、しばらく今のような無想の境にある修行が必要なのだ。坎水、離火、別々に行じても、やがて自然に合一の境に入るものである。さてこれから地の玄境に行って‘坎離印’の秘法を授けることにしよう」といって洞窟を出た。

 

日は中天にあったのをみて、洞窟の打坐は昨夜来のことで、随分長かったことに気づいたのである。』

(神仙の寵児/笹目恒雄/国書刊行会P265から引用)

 

笹目秀和氏は、クンダリーニ・ヨーギ。クンダリーニ・ヨーガでも、このように無想の冥想がある。想念停止は只管打坐の専売特許ではないことがこれでもわかる。ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスも時間を止めると言う。

 

その先に天界遊行があることを示唆してくれている。天界遊行とは、レジャー、トリップとしての天界遊行ではなく、人間の本来持つ自由の発揮・行使というようなもので、決して霊がかりなアストラル・トリップもどきのものではないのだろうと思う。

 

これだけ長時間座れる人も多くはない。道元や松島の瑞巌寺の雲居希膺などもそうした人。

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観想法専用ルーム サムデ・プク

2022-10-28 12:20:03 | 密教neo

◎タシルンボ寺郊外の洞窟修行

 

20世紀初め、スェーデン人スヴェン・ヘディンは、チベットのシガツェのタシルンボ寺に逗留した。タシルンボ寺は、巨刹ではあるが、中共成立時以降さんざんに破壊された。

 

ヘディンは、タシルンボ寺の郊外のサムデ・プクという絶壁の麓に作られた冥想用石小屋を見た。洞窟には戸も窓もなく、石で封じられている。

 

この洞窟の奥には泉が沸いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。これは上下水完備し、環境的に恵まれている。この溝を通してツァンパとバターの食事が差し入れられる。6日連続で食事を受け取らないときは、死んだものとして洞窟の入り口が開けられる。

 

中には一人のチベット密教僧が修行していて、既に3年になるという。通例山の封鎖された洞窟での観想修行は数か月なのだと思うが、3年は長い。この洞窟の主は死ぬまでここに居ることを誓ったという。

3年前にこの洞窟で死んだ先住僧は12年ここで生きたという。

 

食事の差し入れが毎日あるだろうから、ヘディンが気にするように真っ暗闇だけの生活ではないと思う。

 

ただ社会性を一切断ち、一生洞窟で修行することを選んだ僧の覚悟には凄みを感じる。キリスト教でも一室から一生出ない修行もあった。補陀落渡海はこれに似ているが、数日で勝負がつくところは厳しい。

 

20世紀の感覚遮断実験の環境は似たような環境だが、ギブアップ・ボタンを押せば出れる。

 

さはさりながら、観想修行を邪魔されない環境は得難いものである。

(参考:チベット遠征/スヴェン・ヘディン/中公文庫p368-375)

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