【第二章】神仏と冥想の関係
◎3.現代人はすぐに悟れる。
ダンテス・ダイジが、現代人は数分の冥想で悟ることができると言ったことがある。これは、神仏を見ること、すなわち見神、見仏、見性、一瞥を、悟ると称している。
OSHOバグワンは、人間の意識は自分では終始連続しているように思っているが、映画フィルムのコマとコマの間に隙間があるように、その意識の連続の間には、実は隙間があるとし、その隙間に覚醒のチャンスがあるとする。
またチベット密教は、自然発生的隙間に着目していて、その隙間は、くしゃみ、失神などでも発生し、その隙間では人間の肉体死の最後のステップで目撃される原初の光を見ることができるとする。
さらに禅では、禅語録でどんなきっかけで大悟するかを記録しているのだが、小石が竹に当たったり、暗闇でろうそくを吹き消されたり、花の咲くのを見たり、座っていて後ろに倒れたりなど、日常でありがちな出来事が並ぶ。
これらの例は概ね短時間な例であって、まずは現代人は数分の冥想で悟ることができる可能性の高さを示しているように思う。
だが本当に悟れるかどうかは、現代人の現実感覚が、いわばいつでも悟りを認識できるほど、「不条理、理不尽に出会って、オープン・マインドできるフランクさがあるかどうか」にかかっているように思う。この点を、現代人は数分の冥想においてクリアできるとダンテス・ダイジは見たのだろう。同様の認識は、万人が同時にその状態に至る日が来るということで、『死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。』(ヨハネによる福音書5章25~29節。)とか『凡夫の耳も菊の年』(伊都能売神諭 大正8年1月27日)という言葉でわかる。
勿論、突然の災害ですべてを失うなど、長時間の自然発生的な隙間、裂け目もあるが、裂け目であることに変わりはない。
こうした隙間で見ているのは、神仏であって、本来の自己とか神性、仏性と言われるもの。七つの身体論で言えば、アートマン。
ダライ・ラマは、こうした自然発生的、偶発的な隙間、裂け目の発生は、時間がたてば消えてしまい元にもどる。だからそれを永続化する冥想修行が事前に必要なのだと言う。チベット密教では、偶発的な隙間で見るものを母光明と呼び、冥想修行で得る同等の境地を子光明と呼び、母光明と子光明の合体により悟りを永続化できると考えている。
禅の十牛図で言えば、母光明は牛、子光明は牧人に当たる。十牛図でも二者合体して後、覚醒に至るわけだが、図らずも二つの要素を立て、合体するステップを見ているのは、チベット密教と共通しており面白い。
だが、隙間、裂け目が発生しても、何が起きているか認識できない人の方が多い。