◎想念微弱と想念停止の相違
(2010-08-11)
想念が不活発になるところで、感情だけが生き生きと駆けめぐるのは、登山ばかりでなく、冥想の深まった状態で起きる。
牧師の長谷川正昭さんは、本業の他に密教冥想や仙道、禅などにもチャレンジしていらっしゃる方。彼は空海の断言する『三密加持すれば速疾に顕わる』がわからないという。要するに密教修業すれば悟れる(即身成仏)ということに疑いを持つ。
『しかし私は自分の経験に照らして、不可解である。私だけではない。密教僧はすべてこのような方法(三密加持)で瞑想し行を積んでいるわけであるが、悟っている人が本当にいるだろうか。即身成仏を本当に実現できているだろうか。
試みに密教のお坊さんたちに次のように問うてみればよい。「あなたは悟っていますか。解脱できていますか。心身脱落(ママ)を経験しましたか。」自信をもって「然り」と答えることができる人はどの位か。百人中、一人か二人というところだろう。それくらい悟りというのは難しい。皆一生懸命行に励んで、ことごとく失敗する。このことは『密教とイスラーム』という、目茶苦茶面白い「高野山修業記」をものした小滝透という人が言っている。
多年の行をいくら積もうが、仏教書を山と読もうが、たいがいの場合は見るも無残に失敗する。突出した意識は、とうてい意志の力で制御できず、かえって猛威をふるう自我意識が心の中を荒れ狂うことになる。『密教とイスラーム』(東方出版)
これは禅宗の坊さんでも同じことであろう。密教の方法、即ち手に印契を結び、口に真言を誦し、心を信仰の対象に向けることは意識の集中法として優れている。しかし空海が言うように「速疾に顕わる」のであれば、密教の修業をする人はすべて即身成仏していなければならないはずである。しかし現実は全くそうではない。』
(瞑想とキリスト教/長谷川正昭/新教出版社から引用)
この中では、密教僧で百人に1~2人でも即身成仏するというのは多すぎるように思う。万人に一人いたら良い位のものではないだろうか。クンダリーニ覚醒での脱身(中心太陽突入)とはそれほど簡単ではないように思う。
文章全体の趣旨である、だれでも密教修業すればすぐに悟れるというのは誤りというのは、意味が違うように思う。覚者である空海から見れば、即身成仏していない僧も悟りの展開のひとつであるから、あるいは時間のない世界が真実の世界であるから、その世界では修業を一度始めたら(いつかは)必ず悟るのでそれを見て、「誰でも密教修業すればすぐに悟れる」と言っているように思う。
小滝透さんの見解の部分が、「想念が不活発になるところで、感情だけが生き生きと駆けめぐる」という、登山の話とからむ。
修業でもトランスになるが、小滝透さんの言う猛威を振るう自我意識とは、この感情の部分を言うのではないか。想念とは意志のことなのだろうから、トランスでは、意志・想念のコントロールは弱まり、感情だけが残る。その暴虐な感情をして猛威を振るう自我意識とみるのではないだろうか。
そうは言っても想念の弱まった状態と想念停止した状態とではまったく違う状態なのだろうから、登山で現れるこうした状態がピークであると速断することはできない。想念停止こそ時間を止めるということなのだろうから。