アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリシュナムルティ-3-クリシュナムルティの冥想遍歴

2023-10-31 07:37:39 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-09

◎青春期の水平の道-8

 

クリシュナムルティは、道元のように概ね只管打坐一本で進んでいたわけではなかった。

ブラヴァツキー夫人の始めたスピリチュアリティの運動というのがあって、その流れをくむアニーー・ペザント夫人とリードビーターが中心(神智学)になってインドから少年を連れてきて、弥勒(マイトレーヤ)の霊をその少年に混ぜたまま(一つの肉体に二つの霊)にしようという実験を行おうとした。

アニー・ペザントとリードビーターは、弥勒(マイトレーヤ)の霊を乗り移らせるための肉体として、クリシュナムルティとその弟ニチャナンダや他の数人の子供を選んだ。ニチャナンダは優秀で聡明であったが、クリシュナムルティは、できの悪く、よく廊下に立たされたり、リードビーターにひっぱたかれてもいた。

そして、クリシュナムルティは、究極を体験した。『勧められるままに木の下に行き、私はそこで座禅を組んだ。そのようにしていると、私は自分が肉体を離れ出るのを感じた。私は若葉の下に坐っている自分を見た。私の身体は東を向いていた。私の前には自分の肉体があり、頭上にはきらきらと輝く美しい「星」が見えた。』

(クリシュナムルティの世界/大野純一から引用)

 

ところが、乗り移り訓練の結果、本命だったニチャナンダは夭折し、弟の夭折によりクリシュナムルティはひどく動揺した。一つの肉体に二つの霊を入れた場合、肉体に問題は起こりやすいものである。

さてクリシュナムルティは、既にマイトレーヤーの憑依実験は済ましていた。しばしば、ロード・マイトレーヤー(弥勒菩薩)がクリシュナムルティに憑依して、ロード・マイトレーヤーが説法を行った。

その時クリシュナムルティの様子には、いつにない威厳が備わり、また彼の顔は異様に力強く、いかめしくなり、半分閉じたその目は異様な輝きを宿していた。また声も一層深く充実して響き渡った。(ペザント夫人(神智学協会のリーダーの一人)の友人のカービー夫人の話)

この憑依セッションが終わって、カービー夫人がこの時のロード・マイトレーヤーの様子を、ひどく疲れた感じのクリシュナムルティに話すと、クリシュナムルティは、「私もそれを見られたら良かったのに」と語った。

憑依の乗り物(よりまし)になっている人は、その説教・説法を自分では聞いたり、見たりすることは、クリシュナムルティであってもできないのだ。※審神者はないと思われる。

このように準備ができていたにも係わらず、結果的にクリシュナムルティは、1929年彼を世界教師とする星の教団の発足宣言において、教団の解散を以下のように宣言した。

「私は、世界教師ではない。私は他の誰の魂とも一切関係がない。私は私自身であり、それ以上のことは何も語りたくない。」と、自分の生れ持った個性を放棄することを拒否することを宣言し、神智学から離れていった。以後彼は、只管打坐的境地を説きつつ世界を講演して回った。

 

まとめると彼は、特殊な霊媒(medium、よりまし)として育成され、それなりに相当な適性を持った優れた霊媒であって、出口ナオ並みの霊媒だった。ところが彼は組織宗教である星の教団の世界教師となることをよしとせず、組織宗教によらず各人が自分の道で大悟する自分の知性による究極を説いてまわった。

その究極の説明は、天国的だが天国は説かず、禅的只管打坐的であったが、只管打坐は説かなかった。彼は神がかりの道から入ったが、クンダリーニ・ヨーガ的脱身の窮極体験(星を見る)を経て、水平の道に入ったのだ。

彼の冥想遍歴の最大の特徴は、脱霊がかりをそのまま生きたということ。霊の憑依を基軸とする霊がかり教団ともいうべき星の教団を解散することで、脱霊がかりを果たし、アクアリアン・エイジ的な万人個人による悟りを目指したのである。

それは、出口王仁三郎が大正の末年には、教団内で数千人規模で行っていた憑依修行を禁止する指示を出したことと同時代に起こった

霊がかりの時代は150年前に終わったはずが、いまだに霊能力者のご託宣を期待する人々が引きも切らぬのは、奇怪なことである。

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クリシュナムルティ-2-クリシュナムーティの死

2023-10-30 03:51:01 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-08

◎青春期の水平の道-8

 

道元の非思量底とは、自分が大切に思うもの、苦悩の種となっているものをすべて捨て去って、自分が死に、自分の家族や自分の思い出や自分の世界全体も死ぬことである。なお自分が死ぬとは自殺のことでなく、様々な隙間の中の最大の隙間のこと。

それが次のようなクリシュナムーティの文に現れる。

『もしあなたが、家族や想い出やいろいろの感情を含めて、あなたが知っているすべてのものを捨て去るならば、死は一つの浄化作用となり、あなたを若返らせるものとなる。そして死は人間を清浄な天真爛漫な人間にする。

死後に何が起こるかを知ることができるのは、こうした情熱を持った天真爛漫な人間だけであって、それを信じたり、知ろうとする人々ではないのである。

死ぬときに何が起るかを実際に知るためには、あなたは死んでみなければならない。これは決して冗談でいっているのではない。あなたは自分が大事にしているものや苦しみを感じているものすべてを捨てさって、肉体的にではなく、心理的に内的に死ななければならないのである。

一番小さな楽しみであろうと一番大きな楽しみであろうと、あなたが味わっている楽しみの一つを無理やりではなく、自然な気持で捨て去れば、死が何を意味するかわかるであろう。死ぬことは、まったく空っぽな心、毎日の願望や楽しみや苦悩のない心をもつことである。

死は再生であり転生であり、そこでは古い存在でしかない思考は全くその働きを失う。死のあるところには、全く新しいものが生まれるのである。つまり既知のものからの自由は死であり、あなたはいったん死ぬことによって生きるのである。』

《クリシュナムーティ/自己変革の方法/P161-162から引用》

 

道元の普勧坐禅儀で「箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。」とあり、この認識できないものを認識しなさい。どうすれば認識できるか。それは認識しないことであるというような意味である。

クリシュナムーティは、この認識しないことを心理的内的な死と言っている。心理的内的な死が訪れるときに、不可思議な転換が起こり、全く新しいものが生まれ出るとしている。

「情熱を持った天真爛漫な人間」とは、日々の不条理や理不尽をまんざらでもないと妥協し受け入れることなく、ありのままに受け入れることのできるほどの情熱を持ち、教育、マスコミ、歴史、プロパガンダなどの影響を受けないで天真爛漫に生きる人のことであって、結構むずかしい。

つまり只管打坐のような冥想により、大死一番を経験し、自分が内的に死に、再生できて初めて不可思議な転換が起こる。

しかしながらクリシュナムーティの特徴は、どのような冥想をすれば、「あなたの知っているすべてのものを捨てる」ことができるか、さっぱりわからないことである。何にも書いていない。この、かざりけもなく、とりつく島もないところが、身心脱落の特徴ではある。

 

ところが、とりつく島もないところから先に何かがある。

『その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

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クリシュナムルティ-1-冥想を教えなかったこと

2023-10-29 06:56:03 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-07

◎青春期の水平の道-7

 

クリシュナムルティで問題なのは、只管打坐での悟りを説きながら、その境地がどのようなものかは盛んに語るが、冥想つまり只管打坐によってそこに到達するとは言わなかったこと。それが結果的に彼への賛同者が少なかった原因になっている。

クリシュナムルティは、自分の死の直前にあたって、自分の成し遂げたことの理解者がとても少ないと嘆いている。

 

なぜクリシュナムルティがそう考えたかと言えば、心理状態が坐相を決めるという側面があったからではないかと思う。只管打坐における身心脱落が発生する坐相というのは特定のものだが、それを教え込んでも実際に何百万種あるうちの坐相のうちの身心脱落が発生する坐相が実現するには、師匠が教え込んだだけでは実現せず、自分自身が準備できているタイミングでないと起きないのではないかと思う。

只管打坐の姿勢というは単純なだけに、この時代なら多数の肉体センサーを用いて坐る姿勢を矯正するマシンや、鉄骨などでその人にあった坐相に背骨や首などを矯正する座椅子のようなものまで製造できるようになっていると思う。だが、それが成功しない理由は、自分自身が悟りに堪えられるに至っていないからだと思う。

冥想修行とは、畢竟悟りに堪えられる肉体と心理を作り上げていくことなのだ。

つまりクリシュナムルティは、逆に悟りに堪えられる肉体と心理が出来上がれば、自ずと悟りは起こると見ていたから、只管打坐という冥想を勧めることはなかったのだろう。

 

クリシュナムルティの著作は数少なく講演録が大半である。講演録は御多聞に漏れず、聴衆の質が低ければ、その内容はそれに対応して低いものになる。だから彼の本については読むべき本は選ばなければならない。

 

クリシュナムルティは、ある現実を理解するロジックを取れば、自ずととある心理状態が発現し、そうすればやがて真理がやってくるかの如き説明をしている。事実彼には、頻繁に真理がやってきた。ところが、彼の説明するところのある現実理解のロジックでは必ず割り切れないところにぶちあたる。そこで、ぶち当たったきりで止まる場合と、元に戻っていく場合と、真理がやってくる場合の三通りがある。すんなり真理がやってくる人は稀なのだが、彼はそう思わなかったのだろう。

そのようなことは、クリシュナムルティやダンテ・ダイジ(著書の巻頭で『クリシュナムルティがちゃんと世に聞き入れられれば、この本を出す必要がなかった』と彼に言及)などの大物覚者にとっては常識だろうが、われら凡俗にとってはそうはいかない。それにたどり着く方法、すなわち冥想法が必要なのである。

水平の道の冥想では、至る所に只管打坐がちらつく。

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塩沼亮潤大阿闍梨-5-一歩一歩無事に歩けること

2023-10-28 03:53:39 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-06

◎青春期の水平の道-6

 

GreatTraverseで有名な田中陽希の、急登を常人の倍以上のスピードで進む能力も一種の超能力のようなもの。また20代で大峯千日回峰行(一日で48キロの山道の往復を繰り返す)を満行した塩沼亮潤大阿闍梨も50代になって、それを振り返り「人間のやることではない。」などと評していたが、そのスピードだけでなく、無事故で進めることも一つの奇跡である。

奥山の道を進めば、風雨あり、熊、猪、鹿、猿、蛇あり、意識のゆらぎでの霊異あり。

田中陽希が、足元が不安定になる濡れた木の根、細かいガレ(大小さまざまな岩や石がゴロゴロ散乱しているもの)場を進むには、一歩一歩これを踏んだら次にどうなるかを瞬時に予測して進むと語っていたが、特に下りでは、それが重要。だがそれは、誰でもできる技ではない。

また四囲をガスに覆われて視界が効かなくなると、人の心理は内側に下降していくもの。このようなシーンは、TV的には何も面白くないので、ほとんどカットされているが、冥想ヲタク的視点からは、一般にこのタイミングで狐狸などが登場し化かされるものである。狐狸は、見かけは人として現れるもの。

 

そういうテレビ画面に出てこない登山のいろいろな障害を承知している人なら、塩沼亮潤大阿闍梨の千日回峰行満行の偉大さを一層わきまえているのだろう。また、彼の過去のカルマの集大成という側面も無視はできない。

最初の頃は怖い幻覚を見たが、だんだんきれいなものに変わり、三年目からは神様仏さまを見るようになった。これで天国には届いたのだ。(人生生涯小僧のこころ/塩沼亮潤/致知出版社P155)

また回峰行中に黄金色に光り輝く世界に入り、空中に大日如来やいろいろな観音様が宙に浮いているのを目撃したのが、見仏(有想定)。

土砂降りの雨の中で、おにぎりに雨が当たり米粒が崩れ落ちながら食べている時に、「自分はなんて幸せなんだろう。食べるものも家も風呂もあるが、そうでなく命の危険に晒されて生きている人も多い。」などと感じて、涙が止まらなかった。これは、『』。

千日回峰行の最後のほうで、

『朝から生あくびが出て、なんだか気持ちが悪く、吐き気を催していました。出発して二キロほど登ったところにある水分(みくまり)神社の手前で、心臓の様子がおかしいことに気づきました。と同時に、体の力 が抜けていくような感じになり、水分神社に到着して般若心経を唱えている間にふらふらしてきて、そのまま神社の石段に倒れこんでしまいました。死ぬのかもしれないと思いました。気が遠くなって、体がふわっと軽くなりました。あぁ心臓が苦しいな気持ち悪い、吐き気がする・・・・・そう思いながらも必死に祈りました。

「水分さん、お願いします。行を続けさせてください」

そう強く祈りながら、それからあとの記憶はございません。しばらくして気がつき、 「あぁ、今、寝てたんだ」と思って時計を見ると、いつもより十五分遅れています。 気がつきますと、心臓が元に戻り、それから以降はいつものとおりです。』(上掲書P124から引用)

この眠ってしまった時間に何が起きたかは、大いに興味を惹かれる部分である。

 

千日回峰行あるいは、四無行という、一行専心の中で、とあるタイミングで見仏が起こり、さらに自分が仏となる逆転もあったかもしれない。

『人生生涯小僧のこころ/塩沼亮潤/致知出版社』という本には、足ることを知る事、人を思いやることなど事上磨錬に必要なあらゆることが書いてある。そして彼は、夜寝る前に正座して一日を反省するという。

千日回峰行あるいは、四無行とは、カルマ・ヨーガ的だが、その人の適性によっては、禅や只管打坐やクンダリーニ・ヨーガ系(古神道、密教など)もあり得ると思った。

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塩沼亮潤大阿闍梨-4-見仏だが神秘体験にこだわらない

2023-10-27 03:59:45 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-05

◎青春期の水平の道-5

 

塩沼亮潤大阿闍梨は、さらっと書いてあるので気がつきにくいが、回峰行中に黄金色に光り輝く世界に入り、空中に大日如来やいろいろな観音様が宙に浮いているのを目撃したのが、見仏である。

また同じく、あたり一面が金剛色に輝いており、眼前にダイヤモンドの山があり、そこで二人の天女が30センチくらいの袋にダイヤモンドの塊を2、3個入れてくれた。これは親鸞が女人から玉をもらう故事に似ている。

もう一つ、身長三メートルくらいのぼろぼろの衣を着て杖を持った仙人が空中に出現し、「金(かね)の御嶽(みたけ)金の御嶽と言う愚か者どもよ、ここは神の御嶽なり」と言うなりすーっと消えていった由。金峯山に金の鉱脈があるという伝説には出口王仁三郎も新月の光(八幡書店/木庭次守編)で触れているが、時が来ないと掘り出せないとしている。

歩きながらトランスに入り、このような神秘体験を得るのは既に世俗の欲をほとんど卒業した証拠。だが、何かをやるために出生してきてはいる。

 

土砂降りの雨の中で、おにぎりに雨が当たり米粒が崩れ落ちながら食べている時に、「自分はなんて幸せなんだろう。食べるものも家も風呂もあるが、そうでなく命の危険に晒されて生きている人も多い。」などと感じて、涙が止まらなかった。これはアナハタ・チャクラが開いたということ。わざわざそれを書いているのは、本人にとってもインパクトがあったということ。

なお回峰行の初期における彼の神秘体験には、2、3人の餓鬼に石を投げられたことや、武士の亡者に身体を押さえつけられ、首を絞めて殺されそうになったが、必死で亡者の手首にかじりつくことで体制を入れ替え命拾いしたことも書いてある。

 

いずれにせよ、どんな素敵な神秘体験も千日回峰行満行したことも、それにこだわっていない態度が素晴らしいことだと思う。「人生生涯小僧のこころ/塩沼亮潤/致知出版社」は、そういう書きぶりである。

そういう方だから、布団をかぶって泣いたなどと書けるのだ。

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塩沼亮潤大阿闍梨-3-悟りと人格の陶冶は別物、人間関係に悩む

2023-10-26 03:54:09 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-04

◎青春期の水平の道-4

 

悟った人でも怒りはするし、悲しみはするし、悩みもするが、二重の現実であることを知っている。

塩沼大阿闍梨が、大峯千日回峰行と四無行とを満行した後でも、人間関係がうまくいかない相性の人がいると率直に述べている。そのことを明かすこと自体、権威も名声もある方だからこそ、大変に勇気がある方だと思う。

そして満行した後もそれをひらけらかさないこと。やはり師匠に「行を終えたら行を捨てよ」と、行に入る前23歳の時に師匠に言われていたが、実際に名声も地位も金もできてからするのはすごい。

逆転したかどうかは定かでないが、「回峰行の一歩一歩が感謝と謙虚」という生真面目さ、真摯さは、若い時のアッシジのフランチェスコを思わせるものがある。

 

「回峰中の体調は悪いか最悪かのどちらか」というのには、苦笑した。我ら60代の人間は日常的にそう思っても不思議はないが、わりにアスリートと呼ばれる人たちもそうなのではないかと思った。彼は痛みを隠しながら千日を歩くのだそうだ。

回峰行中に中途でやめなければならない時は、持っている短刀で切腹するか、死出紐で首吊りするかどちらかにするよう定められている。その死出紐の他、袴の紐、小物入れの紐を腰に結ぶが、紐の結び加減できつすぎれば全身の血が回らないようになり、緩すぎたら下腹に力が入らないようになるという。

下腹を中心にして山を登り降りしているのですね。顎を引いて腰を入れて下腹を意識して歩くのだそうだ。曰く、姿勢が悪いと呼吸が乱れ、呼吸が悪いと精神が乱れる由。

笠をかぶり提灯と杖を持って、大峯山頂まで標高差1400m、往復48キロの旅がスタートするが、スタートしたら暗闇の中、以後15時間は無言の行となる。水筒はないので水の補給は2本の川のみ。

思春期に片親となり、誰も知らない布団の中で何回も泣いたそうだ。そんなことを書いて公表できるフランクさこそ常人ではない。

 

回峰行490日目から熱が38度あった。494日目には下痢20回。道端に倒れて泣く。

495日目に下痢による脱水症状で、激しく転んで起き上がれなくなり、ここで腹を切ることになるのかと思った瞬間、母から言われた「どんなに辛くとも苦しくとも、岩にしがみついてでも、砂を噛むような思いをしてでも、立派になって帰ってきなさい」(人生生涯小僧のこころ/塩沼亮潤/致知出版社P119から引用)という言葉が浮かんだ。その時、わずか数分の間に人生のいろいろな場面が走馬灯のように甦ってきたという。パノラマ現象である。

ここが大峯千日回峰行のクライマックスだったのでしょう。

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塩沼亮潤大阿闍梨-2-四無行、断食、断水、不眠、不臥

2023-10-25 03:34:03 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-03

◎青春期の水平の道-3

 

塩沼亮潤大阿闍梨は、大峯千日回峰行の翌年、9日間にわたる断食、断水、不眠、不臥の四無行を満行した。この間何をやっているかと言えば、半跏趺坐で、お不動さんの真言10万遍と蔵王権現の真言10万遍を唱える。

四日目に、自分では真言を唱えているつもりでも、そばにいたアシスタントの人が、目は開いて真言は唱えているけれど、ぼーっとして意識がなかったのに気がついて、真剣に起こしてしまった。ところが本人は真言を唱え続けており大丈夫なのに、なぜ周囲は血相を変えて自分のことを呼ぶのかと思った由。

これは、本人は意識がどこかに飛んでいってしまっていたのではないかと推測しているだけだが、重要なシーンである。

ここは、周囲が、行者が死んでしまうのではないかと思って、「誤って」トランスから起こしてしまったのではないか。

行者本人は、行を続けている自覚があるので、意識清明である。チベット死者の書では、死にゆく人が眠りに落ちて意識を失うのを避けるために耳元で大声で呼び続けたりする。だが、この件では、本人は意識を失っていないから定から無理に出すタイミングではなかったのではないか。

このような深いトランスほどチャンスなのであって、練達の正師がついていれば、乱暴にトランスから呼んで出すことはなく、まずは行者の状態を見守って、介入すべきタイミングがあれば、介入していくということではなかったか。

 

OSHOバグワン自身の覚醒の7日間では、最初身体は眠っていて、自分が目覚めている状態にあった。それが上記の状態である。OSHOバグワンのケースでは、誰もそのトランスを破りに来なかったので、やがて目が開き本当の現実である神を感じた。それがOSHOバグワンの大悟。そこで誰かが介入したのかどうかについては言及がない。

出口王仁三郎の高熊山7日間では、トランスに出たり入ったりしながら、数多くの高級神霊が登場してくる。

 

天台の十万枚大護摩供達成者の筒井叡観師は、四無行の中で、『「5日目に人生観が変わったその瞬間があった。」「これまで生きてきて、うれしくて涙を流し、悲しくて涙を流す。でもそれは、まだ自分が何かをやっているという考えの段階です。それを超えて、自分はやらされているんだと気づいた時、口から出る言葉は、ただありがたいです。」』行とは何か/藤田庄一/新潮選書から引用)と述べたが、これは、OSHOバグワンの覚醒時の実感と同じ。この時逆転、逆立ち、神人合一が起こった。そして高級神霊の導師として不動明王が登場。

※十万枚大護摩供とは、百日間の穀断ち、塩断ちの前行を経て、まる七日七夜の断食、断水、不眠をしながら、10万枚の護摩を焚くものである。断食七日はよくあることだが、断水は3日で死ぬとも言われるので、これを7晩行うのは死の危険を伴う。何もしないで、単純に7日断水を行うだけでも危険だが、人々の願文の書かれた10万枚の護摩木を焚くという重労働を行うのである。

 

さて四無行は死に接近する行であるが、行者のアシスタント(助法)のあり方はそれでよかったのだろうか。生還させることが目的なのだろうが、どこから生還させるかの方が問題なのではないかと思う。

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塩沼亮潤大阿闍梨-1-九百九十九日、人生生涯小僧の心

2023-10-24 06:34:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-02

◎青春期の水平の道-2

 

水平の道の一つに、仕事を精密にやり抜くことを繰り返す事上磨錬という技法がある。これは最近のようにまず転職ありきのようにひとつの仕事が一生のものでない時代にはわかりにくいかもしれないが、仕事が行であり家事が行となって、大悟覚醒に至る道である。

本来の純粋な水平の道は、道元やクリシュナムルティの只管打坐による究極が単純で綺麗だが、ここではとっつきの良さから、また事上磨錬、一行専心の例として、敢えて修験の塩沼亮潤大阿闍梨を挙げる。

 

大峯千日回峰行は、吉野の大峯山1300年の歴史で達成したのはたったの2人。その一人が塩沼亮潤大阿闍梨。二人とも最近の達成だが、一日で高低差1400m距離48キロの獣道を踏破できたのは、最近になってアップダウンの少ない新ルートが開発されたためだと言う。ルートは、標高364メートルの蔵王堂を0時半に発ち、闇の中、提灯と杖を頼りに片道24キロの山道を登り、8時過ぎに標高1719メートルの大峯山頂に至る。同じ道を下って15時半に帰る。

夜半の出発前におにぎり二個、昼食としておにぎり二個、山頂での軽食で走り抜く。これを春から秋の年間4か月で100日を10年休まずやる。台風の日も大雨の日も落雷の日も、30cm踏み外すと転落するような道を暗闇の中を進む。山中の架け橋はせいぜい丸太が3本わたしているようなところがいくつもあって雨の日はすべる。熊も猪も蝮も出る。

こうした行を千日やるというのは、迷いがあったらできないし、本人がいうようにネガティブになってはできない。

そんな彼でも、満行の前夜なかなか眠れず、『九百九十九日、人生生涯小僧の心』と色紙に沢山書いた。すると身体はぼろぼろだけど、20歳の自分の小僧の心は変わっていない。九百九十九日も小僧の心のままずっと体力が続く限り歩いて行きたいと思ったら、非常にうれしくなって眠りについた。

千日目はいつものように行って同じように帰って来た由。

 

テレビの特集と春秋社の大峯千日回峰行という本を見たが、この方は難しいことは一切言わないが、『悟りとは態度である』を実地にやっている方のようにお見受けした。菩薩とはこういう人のことなのだろう。賞金も出ないし、今日死ぬかもしれない行を10年も継続できるものだろうか。彼の言うように、人はまことに謙虚と感謝であって、神仏の加護がなければ行も日常も成るまいと思う。

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科挙不合格組、不登校組-4-ダンテス・ダイジ

2023-10-23 07:29:48 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-04

◎日の国の純粋なきらめき

 

ノストラダムスの見た日の国の純粋なきらめきとは、ダンテス・ダイジのことであるとも言われる。

 

ダンテス・ダイジの意義は、ちゃんと理解されているとは言い難い。彼の講話を今読んでも彼独特の言葉の定義や概念はふんだんに散りばめられており、なかなか彼の宗教観、人間観の全容をつかむことは容易でない。

そうした中で、ダンテス・ダイジの事績をいくつか挙げてみると、

 

第一の事績は、クンダリーニ・ヨーガの窮極とそのプロセスの概要をイラスト入りで世に伝えたこと。(著書:ニルヴァーナのプロセスとテクニック)

これは巻頭に、クリシュナムルティがちゃんと世に聞き入れられれば、この本を出す必要がなかったとあるが、要するに20世紀後半にもっと悟る人が続々と出現すれば、出版する必要はなかったということ。

 

第二の事績は、只管打坐の身心脱落とクンダリーニ・ヨーガの中心太陽への合一を両方達成した釈迦以来の人物であり、人類救済の冥想の方向性として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ両方を推したこと。

これは冥想十字マップ的宗教観、冥想観に連動している見方。

禅では大悟小悟、見性などというが、ダンテス・ダイジ自身一生のうちに二回大悟するのは大変だみたいなことを言っている。二回も大悟する必要があるのかという疑問がまずあり、たとえば一回身心脱落(大悟)した道元が二回目にチャレンジしたかった風だったのはどうなのかという疑問すらある。クンダリーニ・ヨーガ系の真言密教の覚鑁は、9回も虚空蔵求聞持法にチャレンジしたというが、毎回大日如来(ニルヴァーナ)に合一したのかという疑問もある。また古神道家の出口王仁三郎は6回死んだが毎回神人合一できたのかという疑問もある。なお、神人合一時には、呼吸停止脈拍停止の肉体死が起こるとされる。

そうした困難さがある中で、ダンテス・ダイジは、只管打坐の悟りである身心脱落という体験とは言えない体験を経て、当時の愛人に「ちょっと、醤油を買いに行く」と言い残してインドに渡り、大聖ババジに道端で出会いクンダリーニ・ヨーガの窮極を伝授された、というのが二回目の大悟。

一人生において只管打坐とクンダリーニ・ヨーガの大悟を別々に体験せねばならなかったのは、トースとダンテスの合体をわが身で具現せざるを得なかったのだろうか。

 

第三の事績は、冥想の全体俯瞰図として冥想十字マップを残したこと。これは水平の悟りと垂直の悟り両方の道がわかって初めて理解できる。組織宗教・大衆宗教がトース系であり、個人あるいは少数グループの宗教がダンテス系とされるが、トース系が禅を含む只管打坐系かといえば必ずしもそうではなく、垂直の道である密教系(クンダリーニ・ヨーガ系)にも組織宗教・大衆宗教がある。またダンテス系にも、只管打坐系も密教系もある。

冥想十字マップを見れば、水平の道の最終段階である無相三昧と垂直の道の最終段階ニルヴァーナは同じなのだろうと思うが、それを交点としないで、「愛」を交点としたのが、人間への愛優先の教えが窺える。釈迦が四禅から涅槃に入ったのも同じ消息。

 

第四の事績は、霊がかりを排していこうという動きを始めたこと。これは戦後の大本系の新興宗教(生長の家、世界救世教など)隆盛の時代にあってはエポック・メイキングなことであった。

世の中には、ともすれば、霊能力者個人やカリスマを備えた個人を崇拝することで事足れりとする宗教信者、カルト信者が多いのだが、それを婉曲に否定している。

ダンテス・ダイジの基本姿勢は、誰か有名宗教家や他人の修行法について、まず否定はせず肯定するのが常だった。『それでも、いつかは窮極に至ることはできる』などと云って・・・・。真言立川流とか、宗教ではないが国家を邪境化する共産主義には否定的だったが、それは例外的である。

つまり彼は、その修行法が間違っていようが、彼の目からは誤った修行法に打ち込んでいる人も既に神であり、またそんな修行者も何生か後には大悟するという遠大なサイクルの下にそう言っているのだろうと想像される。

 

第五の事績は、出口王仁三郎と縁があり、鎮魂も修していたこと。その他「ご神業」みたいな凡俗には知りえないことも多々あったに相違ないが、知る由もない。

 

ダンテス・ダイジは、高校に入学したが学校に行くのがいやになって中退した。猛烈な読書や冥想の日々の中、さる古代ローマ時代のキリスト教の映画を見ていたら、あるキリスト者の殉教のところで、「それでも私は神を愛する」という言葉を契機に絶対愛に目覚めた。漫然と不登校だったわけではない。

 

生涯に二度大悟するということは二度死んだということで、もう文字通り生死出入自在だったということ。大悟すれば再度人間として転生することはないのだが、ダンテス・ダイジは、生前から残った寿命の半数を残して、残りをフロリダのビミニ沖に浮上するネオ・アトランティスにおける人生で使うと言っていた。

果たしてそのとおりに、ダンテス・ダイジは、37歳で坐脱。残り37歳をネオ・アトランティスで生きるのだろう。ダンテス・ダイジは自殺したわけではないことは、以上のような人生航路を知ればわかるのではないか。

 

ダンテス・ダイジは、現代日本を駆け足で走り抜けた超弩級の聖者であって、見る目のある人が見れば、日の国の純粋なきらめきだったのだ。

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科挙不合格組、不登校組-3-空海

2023-10-22 06:41:07 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-03

 

空海は774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦で誕生。桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父、阿刀大足(あとのおおたり)から詩や漢語、儒教を学んでいた。15歳になると阿刀大足に誘われ平城京へ上り、氏寺の佐伯院で学問に精進。

18歳の空海は叔父大足を家庭教師にした受験勉強が実り、大学寮の明経科(高級官僚になるための学校)に入学。

それなりに一生懸命学んでいたが、大学寮での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。不登校になったのだ。以後、入唐までの空海の足取りは不詳である。

 

20歳で空海は、親戚の反対を押し切り、奈良大安寺の高僧・勤操(ごんぞう)のもとで出家。さらに彼から、虚空蔵菩薩求聞持法を伝えられた。

空海は、奈良県の大峯山や、阿波の大瀧ガ嶽など名山や石窟で修行。土佐の室戸崎で虚空蔵菩薩のマントラを百万遍唱える修行をしていたところ、明星が口の中に飛び込んできた。これが小悟と思われる。

明星を見ることが悟りであったとする例は、釈迦、クリシュナムルティであり、「太陽」ではないことにこだわらなくてよいように思う。

 

虚空蔵菩薩求聞持法とは

ノウボーアーカーシャギャラバヤ オンアリカマリボリソハカ

という虚空蔵菩薩の真言を日に一万遍、百日間唱え続け、同時に印契を結び、虚空蔵菩薩を観想し、牛酥(牛乳を煮詰めて濃くしたもの)を加持するもので、成就すれば牛酥が霊気を発したり、光を放ったり、煙が立つなどの奇瑞があり、その牛酥を食すると超人的な記憶力を得て、一度聞いたことはその言葉も意味も決して忘れないというもの。

空海が虚空蔵菩薩求聞持法の典拠としたものは、善無畏訳「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」とされ、今残っている最古の求聞持法テキストは、覚禅鈔(求聞持同異説)か阿娑縛抄(第百四)(承澄作)とされる。

このテキストに、蝕とヨーグルトのことやら、虚空蔵菩薩のイメージ・トレーニング(観想)をしながら、マントラ百万遍を唱えることが書かれてある由。

またその中に毎日早朝(後夜)、明星を拝む手順があるが、朝に金星を拝めるのは一年のうち半分だけなので、蝕日を満行の日とし、また金星が朝出ている時期を修行期間に当てるという当時ではかなり高度な天文知識がないと修行期間の設定すらできなかったのではないだろうか。

山岳修行という点では、役行者没後百年ほどということで、役行者直伝のエッセンスを伝える者がまだ残っていた頃なのだろう。同時代の最澄もまだ堂宇のない比叡山で竹を編んだ筒みたいな庵で修行した。

山岳ということで言えば、笹目秀和の出会った崑崙山中の年齢500歳の仙人が思い起こされるが、彼は地のパワースポットで修行する人物であり、同様に空海の時代も山岳の各所に地のパワースポットがあり、それを利用した修行があったのではないかと想像する。

もっとも田中陽希のグレートトラバースで感じたのは、人は3日間、水も食料もなければ、生きていけないということ。山であれば水場は限られ、雨露をしのいで冥想する場所もさらに乏しく、さらに五穀など望むべくもなく、木の実、草の根などで露命をつなぎつつ修行していたのだろう。

それらの条件は、塩沼亮潤大阿闍梨の成し遂げた大峯千日回峰行とは全く異なったものだったのではないかと想像する。

 

また虚空蔵菩薩求聞持法のマントラ百万遍というが、それはマントラという点では、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経と同じであって、それで引き起こされる、

  1. マントラシッディ
  2. すべてがそのマントラである世界
  3. トランス

というような状況が想定されるが、おそらくは、トランス経由でクンダリーニ・ヨーガ的究極に至る指導に沿って修行が行われたのだろうと思う。記憶力増強というのは、虚空蔵菩薩求聞持法の狙いの極く一部なのだろう。

 

ところが明星感得後、空海は大日経を当たり、自分が究極に達していないことを知った。

かつ日本では、適当な指導者がいなかったことから、空海は803年唐に入り、804年12月23日に長安に入った。

これは、ダンテス・ダイジがインド入りし、大聖ババジにクンダリーニ・ヨーガの奥秘を開示してもらったことに似ている。

805年5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安の青龍寺の恵果和尚を訪ねた。恵果は、初対面の席で、以前から空海が来ることを知り待ちわびており、会えてうれしいと伝え、自分の寿命が尽きようとしているのに密教の奥義を伝授する者がいないので困っていたので、早速伝授を始めようと伝えた。空海は大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受ける。さらに8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。

これが、長安修行のピークであって、この時、大日如来(ニルヴァーナ)に到達したものと思われる。

このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

果たして805年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。恵果に師事できたのは、初対面時の予言どおり約半年だけだった。

 

806年空海は、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具などを持って帰国。

809年、空海はまず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月和気氏の私寺であった高雄山寺に入った。

以後の空海は、嵯峨天皇の帰依を梃子に、東寺を真言密教の道場とし、高野山を開いたなど事績は多い。

就中、承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を行ったが、これはいまだに継続しており、古神道家の天皇家が真言密教をもバックボーンとする嚆矢となったことは端倪すべきではない。

 

空海は、亡くなる三年前から、五穀断ちをしている。832年12月12日に「深く世味を厭ひて、常に坐禅を務む」となり、五穀を食べないで、メディシーションだけをやる状態となって、残り2年ほどを過ごすのである。

こうして冥想三昧の2年が経過し、835年の正月に水や飲み物も受け付けなくなった。困惑した弟子たちは、なおも水や飲み物を勧めるが、空海は、「やめなさい、やめなさい、人間の味を使わないで下さい」と峻拒する。

十万枚大護摩供でも、断水七日が限度であるが、空海は3月21日に亡くなるまで、凡そ2か月、これを続けるのである。

熟達したクンダリーニ・ヨーギは、肉体を変成して「霞を食べて」も生きられるものだというが、水分をとらなくなる正月の時期には、既にそういう肉体に変成し終えていたのだろう。

あれだけ超能力を使いこなせる空海のことだから、肉体の変成などはお茶の子だったのだろう。最後の数年を冥想に生きたのは、一流の神秘家として当然の生き方だったのだろう。列仙伝などの仙人を思わせる行状ではある。既に肉体に執着なく、アストラルな生き方が中心になっていたのだろうか。

3月21日に右を下にして亡くなるのだが、空海としては、肉体を残す死に方を選んだということになろう。水分も取らずに生きられるのだから、やろうと思えば屍解もできただろうが、殊更に肉体を残して死んで見せたところに、空海の意図を感じる。まことにクンダリーニ・ヨーギである。

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虚空蔵求聞持法の道場

2023-10-21 11:47:02 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎感受性の深化

(2006-12-01)

 

受験生にとっては、記憶を増してくれる方法というのは睡眠学習などと並んでとても魅力的な響きを持つものである。記憶力増進法と言えば、虚空蔵求聞持法である。

円通寺律院(高野山事相講伝所)は、古くから虚空蔵求聞持法の道場として知られる。50日の修行が成就した奇跡もいろいろと伝えられているそうだ。

ここは女人禁制であり、虚空蔵菩薩を祀るお堂に籠もり、そば粉と牛乳という食事だけで50日間にわたって真言(マントラ)を唱え続けるというもの。

この真言百万遍を誦すれば、一切の教法の文義を暗記する事を得る、だそうだから記憶力増進ではなくて、この世のあらゆる教法の意味を感得する感受性を持てば、文義も暗記できる状態になる。つまり、記憶力増進ではなくて、記憶力のベースとなる感受性の深化をこのマントラ・シッディで得ようとするものだと思う。

真言密教中興の祖、覚鑁は九度もチャレンジしたそうだから、ますます記憶力とは関係なさそうなことがわかる。

本当に、このような修行ができる場所があることに日本の伝統の深みを感じる。

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虚空蔵菩薩求聞持法もいろいろ

2023-10-21 11:43:11 | 密教neo

◎洗脳に無防備な状態

(2009-11-24)

 

あの覚鑁(かくばん)ですら、虚空蔵菩薩求聞持法を9度も満行しないと、ものにならなかった。

この行法にチャレンジしていると、いろいろなことでダメになることがある。以下は、渓嵐拾葉集にある記事。

1.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法に打ち込んでいる時、まず大海の塩水が道場の外にひたひたと満ちてきた。そのうちに潮水は、道場の中に波打って入り込んできて、行者と本尊の他にはことごとく大波が打ち寄せてきた。

驚いた行者は、行をやめてこの場を去って逃げ去った。それから程なくして、帰ってみると水もなく波もなかったそうだ云々。

 

2.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法に打ち込んでいる時、金星を拝見する窓の間から死人の首が突然現れてきて、だんだん巨大化して道場の中に一杯に充満するほどになった。杖を振り回して追い払おうにも振るだけのスペースがない。

しょうがないので行者はこの場を引き払って逃げ去った。

 

3.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を積んで、結願の時に当たって露地の儀式を執り行っていたところ、乳器の上に肉のついた馬の足が突然出現し、その臭いことは卒倒するほどだった。行者はやむなく立って、これを取って遠くに捨てたが、このために行を妨げられることになった。

 

4.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を行っている時、壇上に乾糞の雨が降ってきた。これを取り去るために仏壇を西に寄せたり、北に寄せたりしたが、とても行法の邪魔になった。

 

5.またある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を積んで、ようやく結願の時になった。すると、金星を拝見する窓から、突然鳶が飛び込んできた。鳶は壇上でバタバタ羽を打ちつけまくり、肝心の乳(この行で用いるもの)をこぼして、行の邪魔をしてくれた。

 

6.またある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行をしていたことろ、黒犬がにわかに走り込んで、乳を食ってしまった。

 

意識レベルが落ちているといろいろなことがある。行者の方も、そんなのには慣れているはずだが、まましてやられる。首尾よくこれに引っかからなくて、満行成就しても何も起こらないかもしれないということもある。

テレビや映画を見るのも、それに入り込めば結構意識レベルが落ちていることがあるように思う。それに気がついていないというのは、洗脳されやすいということに自覚がないことでもあり、怖いものがある。日本人は、つい先だって素直に現人神洗脳でやられたばかりではなかったか。

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ヨーグルトと明星

2023-10-21 11:39:07 | 密教neo

◎虚空蔵菩薩求聞持法の周辺

(2009-11-28)

 

釈迦は6年間の苦行を捨てて、ヨーグルト(乳糜)を食べて体力を回復し、菩提樹下でメディテーションに入った。

そして、中国に伝わった最古の仏伝とされる修行本起経では、釈迦の覚醒時、『明星が出た時、釈迦は廓然として大悟し、無上の正真道を得た。』とする。

キーワードはヨーグルトと明星。ヨーグルトを食し、然る後に明星が出た途端に大悟したという二つにアクセントを置いた修行法、それが虚空蔵菩薩求聞持法のステップの中にある。

空海が虚空蔵菩薩求聞持法の典拠としたものは、善無畏訳「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」とされ、今残っている最古の求聞持法テキストは、覚禅鈔(求聞持同異説)か阿娑縛抄(第百四)(承澄作)とされる。

このテキストに、蝕とヨーグルトのことやら、虚空蔵菩薩のイメージ・トレーニング(観想)をしながら、マントラ百万遍を唱えることが書かれてある由。

またその中に毎日早朝(後夜)、明星を拝む手順があるが、朝に金星を拝めるのは一年のうち半分だけなので、蝕日を満行の日とし、また金星が朝出ている時期を修行期間に当てるという当時ではかなり高度な天文知識がないと修行期間の設定すらできなかったのではないだろうか。

空海はあらゆる経法の文義を暗記する力を得るために、高知県室戸崎で虚空蔵菩薩求聞持法を修した。すると谷響を惜しまず、明星来影した。ごうごうたる阿吽(オーム)の響きたる谷響のうちに、明星がやってきたということだろうか。(空海はヨーグルトにはこだわっていないようだ。)

中心太陽は、クリシュナムルティには星と見えたことがあり、ダンティス・ダイジでは紛れもなく太陽と見えていることから、空海がだんだんと中心太陽に接近する様子を「明星来影す」と表現している可能性がないわけではない。

いずれにしても明星とヨーグルトで、求聞持法の修行者は自分を釈迦に擬する。

明星来影について、空海はそれ以上明かにしなかったし、覚鑁(かくばん)も何が起きたかについて多くは語らなかった。

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西洋の記憶術と虚空蔵求聞持法

2023-10-21 11:24:25 | 超能力・霊能力neo

◎記憶術と観想法

(2010-04-05)

 

西洋の記憶術と虚空蔵求聞持法。どちらも記憶力を増進させる方法で受験生には重宝されるもの?である。不思議なことに、どちらもそれに連続するメソッド=引き続いてやるべき修行法が何かはっきりしないのが奇妙である。

西洋の記憶術は、長時間演説を行うためには,膨大な記憶力が必要とされていたので、雄弁術の付随的な技術として発展したというのが定説のようである。ところがローマ時代以前のギリシア哲学者には、哲学者もいたがクンダリーニ・ヨーギたる冥想家が少なからずいたようであり、冥想技術のひとつとして記憶術がもともとあったようにも見える。しかし記憶術とは、ただそれだけのものだったのだろうか。

虚空蔵求聞持法を空海は成就した由。「記憶術増強」がその後の密教修行にそれは必須の技術だったのだろうか。あるいは、現代の密教ではそこまで記憶力が良くないとダメとされているのだろうか。

ローマ時代の賢人キケロは、その著「弁論家について」において、シモニデス(大きな宴席で天井が落ちて客人全員がなくなった時、彼は客の座席位置と名を記憶していたことにより、見分けのつかないほどになった遺体の識別ができた。これによって記憶術を発見したとされる。)の記憶術発明について次のように、記憶するもののイメージをそれぞれ特定の場所にセットすることであると述べる。

『彼の推論によると、この[記憶能力]を育みたい者は、一連の場を選定し、頭の中で、記憶したい事柄を意味するイメージを形づくり、これらのイメージをそれぞれの場に貯えて置かねばならない。

その結果、場の秩序が事柄の秩序を維持し、事柄のイメージが事柄そのものを表すこととなる。かくして、われわれは場とイメージを、それそれ蝋引書板とそこに記された文字として、用いることになる。』

(記憶術/フランセス・A・イエイツ/水声社P22から引用)

キケロは更に、五感のうちでは視覚の印象が最も記憶に残るとする。

この操作でやっていることは、イメージの形成とそれをあるポジジョンに据えるという操作である。

つまりある程度意識レベルを低下させたところで、心中にイメージを思い浮かべ、ある位置に固定するとは、観想法と同じ技法なのである。よって虚空蔵求聞持法が以後の連続的な観想法修行の前駆として置かれることは、何の不自然さもないように思われる。

同様に西洋では、記憶術はもともと観想法主体のクンダリーニ・ヨーガのウォーミングアップとして利用されていたとしても、不思議はないように思う。雄弁術以外の視点で記憶術に関心を寄せていたのは、観想法を駆使するキリスト教修道士たちの他に、神秘家とされるジョルダーノ・ブルーノなどがいて、その効果の親近性は経験的に知られていたのだと思われる。

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記憶術からコンピューターまで

2023-10-21 10:57:51 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎奥の深い魔法

(2012-04-15)

 

記憶術は、古代ローマの昔から、単なる思い出以上の利用価値あるものと展望されていた。

事実我々は日常生活の中で、様々な家電、PC、自動車、携帯電話などで、ロム上のメモリーをフル活用して生活している。

ジョルダーノ・ブルーノは、まず頭の中に大きなリングを作り、その上に5つの同心円のリングを置く。この6つのリングには、様々な記憶の一つ一つを置く。これによって、リングを回転させれば置かれている記憶を取り出すことができる。そして6つのリングがそれぞれ回転すれば、バラバラだった記憶が結びついて新しい知識が得られると考えた。

もともとのこの着想は、スペインの錬金術師ライムンドゥス・ルルスに由来すると言われる。また、それから100年後のライプニッツは、これをヒントにいくつもの同心円盤から成る初期の計算機を作った。

更にブルーノは、『「奥の深い魔法は、結合点を発見したあとに正反対のものを引きはなす」。ふたつの正反対のものは「結合点」で一致し、そこを出ると正反対に分かれて「反対」となるというのだ。』

(メンデレーエフ 元素の謎を解く/ポール・ストラーザン/バベル・プレス社P125から引用)

 

この奥の深い魔法のことは、世界の始まりと終わりを見た者しか言えないことを言っている。ジョルダーノ・ブルーノは、世俗的には決して恵まれなかったが、相当のところまで行っていたように思う。

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