◎ジェイド・タブレット-05-09
◎青春期の水平の道-8
クリシュナムルティは、道元のように概ね只管打坐一本で進んでいたわけではなかった。
ブラヴァツキー夫人の始めたスピリチュアリティの運動というのがあって、その流れをくむアニーー・ペザント夫人とリードビーターが中心(神智学)になってインドから少年を連れてきて、弥勒(マイトレーヤ)の霊をその少年に混ぜたまま(一つの肉体に二つの霊)にしようという実験を行おうとした。
アニー・ペザントとリードビーターは、弥勒(マイトレーヤ)の霊を乗り移らせるための肉体として、クリシュナムルティとその弟ニチャナンダや他の数人の子供を選んだ。ニチャナンダは優秀で聡明であったが、クリシュナムルティは、できの悪く、よく廊下に立たされたり、リードビーターにひっぱたかれてもいた。
そして、クリシュナムルティは、究極を体験した。『勧められるままに木の下に行き、私はそこで座禅を組んだ。そのようにしていると、私は自分が肉体を離れ出るのを感じた。私は若葉の下に坐っている自分を見た。私の身体は東を向いていた。私の前には自分の肉体があり、頭上にはきらきらと輝く美しい「星」が見えた。』
(クリシュナムルティの世界/大野純一から引用)
ところが、乗り移り訓練の結果、本命だったニチャナンダは夭折し、弟の夭折によりクリシュナムルティはひどく動揺した。一つの肉体に二つの霊を入れた場合、肉体に問題は起こりやすいものである。
さてクリシュナムルティは、既にマイトレーヤーの憑依実験は済ましていた。しばしば、ロード・マイトレーヤー(弥勒菩薩)がクリシュナムルティに憑依して、ロード・マイトレーヤーが説法を行った。
その時クリシュナムルティの様子には、いつにない威厳が備わり、また彼の顔は異様に力強く、いかめしくなり、半分閉じたその目は異様な輝きを宿していた。また声も一層深く充実して響き渡った。(ペザント夫人(神智学協会のリーダーの一人)の友人のカービー夫人の話)
この憑依セッションが終わって、カービー夫人がこの時のロード・マイトレーヤーの様子を、ひどく疲れた感じのクリシュナムルティに話すと、クリシュナムルティは、「私もそれを見られたら良かったのに」と語った。
憑依の乗り物(よりまし)になっている人は、その説教・説法を自分では聞いたり、見たりすることは、クリシュナムルティであってもできないのだ。※審神者はないと思われる。
このように準備ができていたにも係わらず、結果的にクリシュナムルティは、1929年彼を世界教師とする星の教団の発足宣言において、教団の解散を以下のように宣言した。
「私は、世界教師ではない。私は他の誰の魂とも一切関係がない。私は私自身であり、それ以上のことは何も語りたくない。」と、自分の生れ持った個性を放棄することを拒否することを宣言し、神智学から離れていった。以後彼は、只管打坐的境地を説きつつ世界を講演して回った。
まとめると彼は、特殊な霊媒(medium、よりまし)として育成され、それなりに相当な適性を持った優れた霊媒であって、出口ナオ並みの霊媒だった。ところが彼は組織宗教である星の教団の世界教師となることをよしとせず、組織宗教によらず各人が自分の道で大悟する自分の知性による究極を説いてまわった。
その究極の説明は、天国的だが天国は説かず、禅的只管打坐的であったが、只管打坐は説かなかった。彼は神がかりの道から入ったが、クンダリーニ・ヨーガ的脱身の窮極体験(星を見る)を経て、水平の道に入ったのだ。
彼の冥想遍歴の最大の特徴は、脱霊がかりをそのまま生きたということ。霊の憑依を基軸とする霊がかり教団ともいうべき星の教団を解散することで、脱霊がかりを果たし、アクアリアン・エイジ的な万人個人による悟りを目指したのである。
それは、出口王仁三郎が大正の末年には、教団内で数千人規模で行っていた憑依修行を禁止する指示を出したことと同時代に起こった
霊がかりの時代は150年前に終わったはずが、いまだに霊能力者のご託宣を期待する人々が引きも切らぬのは、奇怪なことである。