◎見ないのに信じた人は幸いである
(2005-07-07)
12使徒の一人ディディモのトマスは、イエスが復活して来られたとき、他の使徒と一緒にいなかったので、会いそびれた。そこでディディモのトマスは、言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちは家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じた人は幸いである。」
《ヨハネによる福音書20章24~29節》
このたびは、イエスのまねびとしての聖痕がある人の話ではなく、イエスそのものの傷跡の話である。
見ないのに信じる人は、今の時代では、だまされ易い人とか、ひとの良い人などと呼ばれ、マルチ商法などの悪徳商法の格好の標的となるので、あまりよいこととされない。
この世をわたる場合は、見ないのに信じることは、あまりあってはならないが、ここの見ないのに信じるというのはそのことではない。
イエスの言う見ないのに信じるとは、イエスが復活した話を聞いて、人間の魂の永遠性に思い当たり、その永遠性を確信することを言っているように思う。イエスのその教えは、ある種バクティ・ヨーガであり、父なる神への献身の教えである。ところが復活を含め、その超能力を使いまくる姿は、地味で堅実なパクティ・ヨーガ行者の姿ではなく、一流のクンダリーニ・ヨーギ(行者)の姿に見える。日本で言えば、弘法大師のような感じだ。イエスの復活は、キリスト教では神の恩寵によるものと説明するのだろうけれど。
ディディモのトマスは、イエスの釘跡を見て、手まで入れないとわからなかった。
肉体には永遠の性質はないので、使徒にここまでさせて信じさせようとしたのは、人間の持つ潜在的能力の無限性を披瀝する一方で、人間というのは、肉体をまとった人間である以上は、どんなにすばらしい超能力を駆使できる者であっても、死を迎えねばならないので、永遠性というものは、肉体には属していないことを示したのだろうと思う。
結局のところ、超能力がいくらできても、永遠の命とは何にも関係がない。復活するほどのパワーがあっても、人間のはかなさからは逃れられないということを見せてくれたのだろうと思う。しかしディディモのトマスは、まだ超能力のすごさに関心があったということになろう。