◎安心と自由
(2010-08-09)
死には肉体死と自我の死がある。登山家メスナーも生き残っているからには肉体死ではなく、自我の死の方を問題にする。しかし登山においては、肉体死が間近に迫ったときに自我の死を強く意識することになる。
この日、メスナーは、弟ギュンターと共にヒマラヤ8千メートル峰の一つナンガパルバートの高低差4500メートルを超えるルパール壁ルートの登頂に成功したものの、高山病によりギュンターは、ルパール壁を下山したが遭難。メスナーはやむなく反対側のディアミール壁ルートで下山したが、足指を凍傷で失うなど死を覚悟し、意識喪失したりしながらも山麓の村人に救われた。
『1970年7月1日、私が完全にばてて、凍傷の足を引きずりながらナンガ・パルバート山麓のディアミール谷の上部を下山しているとき、私は一度意識を失って倒れていたことがあった。
再び意識を取り戻したとき、私はもう何の不安もなかった。意気消沈もしていなかったし、何も望まなかった。
無の中での解放を経験して初めて自由になったかのようであった。
こういう体験を論理や弁証法で分析する人は、《理解し難いこと》が非常に多いことに首を振るだろう。しかし、私の確信するところでは、この種のものは悟性を越えているのだ。
私はディアミール谷で意識を失っただけではない、私は主観的には自分の死を自覚し、体験したのである。山頂から谷底までのあらゆる段階を、たぶん私は通り抜けてきたのだろう。
ある時以来、私の意識では私は一度《死んだ》のだった。
しかし《死ぬこと》を体験するために、必ずしも具体的な死の危険に直面する必要はない。ただし次の例からもわかるとおり、死の危険は非常に示唆に富み、刺激的なのである。』
(死の地帯/ラインホルト・メスナー/山と渓谷社P163から引用)
無酸素山岳登山では、8000メートル以上は死の地帯と呼ばれる。メスナーの著作を読むと、幽体離脱(自分がアストラル・トリップ)、守護神霊のサポート・会話、強烈な万有の一体感(上掲書P18)、一生の瞬間的回顧(パノラマ現象)が、よく発生することがわかる。
8000メートル級の山岳の登山では、至るところ死の危険の連続だから、メスナーがここで『必ずしも具体的な死の危険に直面する必要はない』と語っているのは、面はゆい感じがする。
彼は、むしろ登山以外の場面で、そうした《死ぬこと》が起こり得ることを指摘しているのだ。
この部分では、自我の死とそれに伴う、不安のないことと自由の感じを短く語っているのが印象に残る。・・・・おそらく、言葉では語り得ない部分があるのだ。
ラインホルト・メスナーは、文字通り大死一番を経た悟った人である。
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