アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

時間は心理である

2022-11-30 07:35:04 | 冥想いろいろ
◎只管打坐の道

時間は心理であると見ているのはクリシュナムルティ。電波時計だから正確だなどと言っているレベルの話でなく、過去も未来もなく現在だけがあるのが時間であるとするところが立脚点。

『真の危険が身に迫ったときは、時間的余裕などありえない。直ちに身を守る行動をおこすのがふつうであろう。ところが、われわれは多くの問題をかかえていてもその危険が目前に迫っていることがわからないために、その問題を克服する手段として時間を利用しようとするのだ。だが、時間はわれわれが自分自身を変えるのをまったく助けようとしない。時間は、ただわれわれを欺いているだけである。時間は過去・現在・未来の三つに分割される一つの動きである。 そして、時間を分割するかぎり、人間は常に争いと不一致に苦しまなければならない。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ヶ関書房P151から引用)

真の危険が身に迫った時こそ人が本当に意識的であって覚醒している、と言うのは、OSHOバグワンだが、クリシュナムルティが、こうした意識の隙間を出してくるのは偶然ではあるまい。
真に醒めれば、過去もなく未来もなく現在だけがある。

さらに
『時間とは何か。それは時計が刻む時間ではなく、年代的な時間でもなく、心理的な時間である。それはまた、観念と行動の中間に介在するものである。観念は明らかに自己を守るためのものであり、自己を安定させるためのものである。 行動は常に敏速である。それは、過去のものではなく、未来のものでもない。行動は常に現在に基づくものでなければならない。だが、行動はあまりにも危険で、あまりにも不確かであり、それゆえわれわれは確実な安全を保証してくれる観念にしたがうのである。』
(上掲書P153-154から引用)

この段階では、過去現在未来を区分してみている。この文に続いて、行動は観念によるが、行動と観念は必ずしも一致せず、そこに間隙が発生する。その間隙を人は観察と欲望で埋めるのだが、その間隙が時間であるとしている。

『こんどは、大部分の人にとって何よりも大きな問題である死の問題をとり上げることにしよう。あなたは死について知っている。死は毎日、あなたのそばを歩いている。死をまったく問題としないですむくらいに完全にそれと対決することができるだろうか。そのような対決をするには、死に対するあらゆる信念、あらゆる希望、 あらゆる恐怖を捨てなければならない。そうしなければ、一つの結論やイメージや予め抱いた不安をもって死と対決することになる。つまり、時間をもって死と対決することになるのである。
時間は、観察するものと観察されるものとのあいだに介在する隔たりである。つまり、観察者であるあなたは、死と対決することを恐れているのである。それが何を意味するか、あなたは知っていない。あなたは死に関するあらゆる種類の希望と学説を知っている。あなたは生まれ変りや死者の復活、もしくは魂、霊、さまざまの名でよばれる時間を超越した霊的実体を信じている。だが、魂がほんとうに存在するかどうか、あなたは自分でそれを発見したのだろうか。あるいはただそうした考えをあなたは他人から受けいれただけなのか。思考を超えた永遠に持続するものがあるだろうか。もし、それを思考が考えついたとしても、それは思考の分野の中 にあるものであり、思考の分野には何ら永久的なものは存しないのであるから、それもまた永久的なものではない。何一つ永久的なものがないということを発見することは心の自由にとって何よりも重要なことである。その事実を発見したとき、はじめて大きな喜びを生じるのである。』
(上掲書P156-157から引用)

時間は、観察するものと観察されるものとのあいだに介在する隔たりであって、観察するものであるあなたは、観察されるものである死と分離している。この分離に時間が発生している。

この引用文は、観察するものと観察されるものが合体すればどうなるかをあからさまに描写せず、いきなり自明のものとして記述している。観察するものと観察されるものが合体すれば。時間はなくなり、現在しかなくなる。よって時間は心理なのだと見ていることが暗にわかる。

観察するものと観察されるものが合体するのは、いわゆる大悟覚醒なのだが、仮にそう書けば、どうすればそうなれるのかという、技術だの方法だの目的だのという『観念論』に落ちていくので、クリシュナムルティは注意深くそれを避けている。只管打坐の道とはそういうものだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見ている自分と見られている宇宙全体との間の時差

2022-11-29 07:32:19 | 覚醒のアーキテクチャー
◎悟りのメカニズムと悟りの所要時間

クリシュナムルティのエネルギーと時間に関するする言及。この中で、見ている個なる自分と見られている宇宙全体(アートマン、第六身体)との間には時差があると重要な指摘をしている。
見ている個なる自分と見られている宇宙全体(アートマン)は、“普通は”つまり悟る前は同時には存在しないのだ。

『われわれがエネルギーを必要とするのは、自分自身の中で全的革命を成就するためだけではなく、何かを探求し見つめ行動するためである。 夫と妻、人間と人間、社会と社会、国と国、イデオロギーとイデオロギーといったすべての関係に何らかの摩擦が存するかぎり、―――何らかの内的摩擦や何らかの形の外的不一致があるかぎり(それがいかに微細なものであっても)それはエネルギーの浪費をもたらすものである。

観察するものと観察されるものとのあいだに時間的間隙が存在するかぎり、それは摩擦を生み、エネルギーの浪費をもたらすのである。そのエネルギーは、観察するものが観察されるものとなる、時間的間隙がまったく存在しない瞬間に結集される。そして、エネルギーは動機をもたないエネルギーとなり、「私」がそのときには存在しないのであるから、エネルギーはそれ自体の行動の道すじを発見するのである。

今日われわれが生きている混乱を理解するには相当量のエネルギーが必要であり、「私は理解しなければならないのだ」という感情は発見しようとする活力を生みだしてくれる。だが、発見とか探求は時間に関係したことであり、これまで見てきたように、心を束縛する条件を徐々に解いてゆくのは適切な方法ではないのである。時間は適切な方法にはならない。年をとっていようと若かろうと、人生のすべての過程がいまや異なった次元をもつことになったのである。あるがままのわれわれの姿と反対のものを求めるのも適切な方法ではないし、方式や教導者、哲学者または教師によって課された人為的な規律もまた適切な方法ではない。こうしたやり方はすべて、まったく子供っぽいものである。そのことを悟るとき、何世紀にもわたって存続してきたこの過重な条件を直ちに克服し、他の条件を受けつけずに自由を確保し、それによって心をまったく新しい感受性にとんだ、生き生きした、自覚と強さにみちた、力あるものとすることが可能かどうか、ということが問題となるのである。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ヶ関書房P252-254から引用)

この引用文の主旨は、何らかの冥想手法で、第六身体アートマンと個なる我との合体を果たせば、もともとあるエネルギーは、それ自体の行動の道すじどおり動き、天意、神意を履み、悪事をせず善行ばかりする(諸悪莫作衆善奉行)という覚者としての生き方に変わるということであると思う。
クリシュナムルティなので、何らかの冥想手法とは只管打坐を指す。

むしろ注目すべきなのは、見ている個なる自分と見られている宇宙全体(アートマン、第六身体)とのあいだには時差があるという点。さらにこの時差を埋めるには、『そのエネルギーは、観察するものが観察されるものとなる、時間的間隙がまったく存在しない瞬間に結集される。』とあり、相当量のエネルギーが必要とされるとしている点。

そのために、ほとんどのまともな宗教では禁欲してオージャスなるエネルギーを蓄積して、見ている自分とみられている宇宙との合体を目ざす。

見ている自分とみられている宇宙には、時差がある。この時差のことを仏教では刹那と名付け、偶発的な世界の隙間とも呼び、あくびやくしゃみでも感得できるチャンスがあるなどと説明している。

またこの隙間の往復にかかる時間は、おそらく数秒であることをいくつかの伝承や文献が示している。それが、悟りの所要時間。

この秘密を解明すれば、文明は大きく進展すると思う。多くの人が次々に自分で解明する。

2022年11月27日支那では、学生によるうねりが始まった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリシュナムルティも人の子

2022-11-28 10:21:21 | 只管打坐neo
◎虚栄心

ある時、インドの有名俳優と女優がクリシュナムルティのところを訪れ、ランチを共にすることになった。女優の方は、映画スタートレック・ワンに出演することになっていた人で、映画出演のために豊かな黒髪を丸坊主にしなければいけないと語った。彼女は青地に金の縁取りのある優雅なサリーをまとっており、それが所作のしとやかさを際立たせていた。

映画の会話をしていると、クリシュナムルティが、「俳優は恐ろしく虚栄心が強い」と言い出した。すると女優はこの言葉が自分に向けられた言葉だと思ったからだろう。目が光り、居住まいを正して、立腹するのでもなく、冷たい口調で言い返してきた。

「でもクリシュナムルティさん。あなたにも虚栄心があるのではないですか。前額の禿を隠すため、頭髪をなでつけているではありませんか。」

クリシュナムルティはこの鋭い観察に対して応酬の言葉はなく、静かに彼女を見つめ、唇に笑みを浮かべただけだった。ランチの会話はその後も楽しく続いていった。
(これは、キッチン日記/マイケル・クローネン/コスモス・ライブラリーにある話)

女性の観察眼は、冷徹で、鋭い。流石のクリシュナムルティもたじたじである。クリシュナムルティは、(世界教師となるべく)若くしてイギリス上流のマナーを身につけさせられたので、気品ある所作の人だったろうし、身だしなみもオシャレもそこそこのレベルであっただろう。

でもオシャレのもともとの出所は虚栄心。社会、世間で受けを良くするためには、虚栄心を何がしか持たねばならないものだ。

空だ、他性(otherness)だ、永遠だと、究極にしばしば出会うクリシュナムルティでも、人であるからには禿は隠したかったとしてもいいじゃない。十牛図でも出腹の禿おやじが街に帰ってくるが、究極に出会ったら社会に帰るのだ。そして社会に居るにはマナーと若干のオシャレという虚栄心が要る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中陽希GreatTraverse-10

2022-11-28 10:18:55 | 修験道neo
◎道なき道

田中陽希GreatTraverseの二百名山では、何回か登山道のない道を進む。道のない山道では、それも獣道すらない所では、藪がルートらしきところにびっしりと生い茂り、その藪をかき分けて進んだり、藪の木の枝を足場に藪の上方を慎重に進んだり、ひどく根気と注意力と筋力を必要とする登山となる。

それと食事と水。登山では、夜間は危険なので進まないので、ルート上に有人の山小屋がなければ、食事は全日数分を自分で運ぶ。水も水場に指定された場所は限られており、そこから先に進む場合は、水場で必要な量を確保してそこから運ぶ。

よって、自分で運べる食事の量と水の量を越える深山幽谷には進めないものだとわかる。

装備が充実し、磁石と登山マップのある現在の登山でも、道なき道を進むのはこのような苦労であるから、昔の修験者の苦労はいかばかりだったか。そういうのに気づかせてくれる田中陽希GreatTraverseはありがたい。

『峯の尾根を進もうとしても、篠が茂り、大きな風倒木が横たわって、これらの密林を通り抜けることは非常に困難で、ときには方向を見失い、あるいは水も絶えるなど、不安な行程であった。

まだ未開の状況で、僅かな同行者だけで奥深く分け人るのは、途方もないことだっただろう。その頃のことと思われる不思議な禅師の記録がある。

熊野村に永興という禅師がいた。一人の禅師が山に居たいと願うので、彼は干飯の粉を一斗と優婆塞二人を副えたという。干飯の粉というのは、糯(もちごめ)を炊いた飯を干してから粉にして携帯食料にしたもので、水瓶一口も必需の持ち物であった。

こうして山に入って修行していたが、ついに命絶えた。しかし、なおも読経の声はつづいていたという(『日本霊異記』)。』
(大峯縁起 銭谷 武平/著 東方出版P126-127から引用)
※優婆塞(うばそく):民間の修行者

最澄は、比叡山に最初に修行した頃は、建物もない場所で冥想修行したそうだが、衣もぼろぼろ、食も乏しく、吹けば飛ぶような竹で編んだ円房に雨露をしのいで修行を継続したのだろうか。強い修行継続の意志力なしでは成らなかったと思う。だが最澄なくして、道元も親鸞も日蓮も出なかったのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセイン・マンスール・ハッラージ-3

2022-11-28 10:16:34 | 現代冥想の到達点neo
◎自分の逆転、世界の逆転-9

ハッラージの、処刑台上での続き。

『それから、目がくり抜かれた。人びとからどよめきが起った。涙する者あり、石を投げつけるものあり。彼の舌を切り取ろうとすると、彼は、「少しだけ待ってほしい。一言いうことがあるのだ」と言った。

彼は天に向ってこう言ったのだった。
「神よ、この者たちが汝のために味わうこの苦しみに鑑み、彼らを不幸な身となさいませぬよう、また、この者たちに恵みを与えぬことなきよう。神に賛辞を、この者たちは、汝のために私の手足を切り取ったのでございます。私の首を彼らが切り落すなら、それは、汝の栄光を目の当りにする中でのことでございます」
そして、耳と鼻が切り落され、石が投げつけられた。』
(前掲書P359から引用)

イエスですら、ここまでひどい目には会わなかった。こんな目にあったのは、古代ローマの競技場でのペルペトゥアが有名である。
だが、イエスという大聖者を惨死せしめた反作用は○○人のディアスポラに現れたと見れないこともない。大聖者は、洋の東西を問わず、丁重に扱われなければならない。
覚醒した人間の多くは、法を説くことはないので、積極的に真理を説く覚者であればなおのこと貴重なものである。

イスラムの当時の人たちは、ハッラージをここまでの姿にしなければ気づかなかったのだろうか。

釈迦が、鞭の影を見て悟る人は上根であると言ったのは、誠にこのあたりの消息である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセイン・マンスール・ハッラージ-2

2022-11-28 10:14:48 | 現代冥想の到達点neo
◎自分の逆転、世界の逆転-8

ハッラージは、処刑台の上で、四肢を切り落とされつつ、冷静にいや何も感じていないかのように、わが身に起きていることを評価してみせる。

『それから手が切り落されたが、彼はにやりと笑った。「笑うとはどういうことだ」と言われて彼は言った。
「縛られた者の手を切り離すことは容易い。真の人間というのは、意志の王冠を玉座の先端から奪ってしまう、あの属性という代物の手を断ち切る者のことだ」
それから足が切り落とされた。彼は微笑をうかべて言った。
「この足では地上を旅したものだが、私にはこうしている今も二つの世界を旅する別のもう一本の足がある。できるものなら、その足を切ってみよ」
すると、彼は血まみれの両手で顔をこすり、顔と腕を血だらけにした。
「なぜ、そんなことをするのか」
「血が私の肉体からあふれ、私の顔色が蒼白であることが私にはわかる。あなた方が、私が恐怖のあまり青ざめたと思うのではと考え、顔に血をぬり、血色良く見えるようにしたのだ。
ほんとうの人間たる者の化粧の紅はその者の血だ」』
(前掲書P357-358から引用)

腕を切り落とされても、真の人間は我が身の属性には一顧だにしないのだと微笑してみせる。これは、例の禅の三祖の信心銘の好き嫌いのことを属性として表現している。こういうのを高度に人格を解放したとでも云うのだろうか。

足を切られて後のもう一本の足とは、微細身のことだが、もう一つの世界である永遠不壊なる今ここなる第六身体に到達するものでなければならない。

真人間の化粧とは、真紅の血によるとは、人と人との出会いの窮極形である愛は、血によらなければ成就しないということか。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセイン・マンスール・ハッラージ-1

2022-11-28 10:12:44 | 現代冥想の到達点neo
◎自分の逆転、世界の逆転-7
◎私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある

ホセイン・マンスール・ハッラージは、9世紀のスーフィの聖者。私は神であると唱えたばかりに、イスラムの組織宗教側から斬首命令を受けた。ところがその斬首台の上で四肢を切り刻まれつつ語った言葉が、21世紀の今に大きく伝えられている。

私は神であると唱えた時点で、自分と神は逆転を遂げた。

しかしながら組織宗教では、教派の如何を問わず、人間である信者が、私は神であると唱えた瞬間に、異端のそしりを受け、磔にあったりする。中東や欧州では、どの宗派であっても最終的には神人合一を目指すはずなのだが、教団側は、神人合一の一歩手前に留まることをベストとし、実際に神人合一になると排斥しがちである。

これは、後進の者が「私は神だ」とやると、教祖の権威を犯すことになるので、組織防衛の見地からそういうことをやるのだろうが、お粗末なことである。

ハッラージは、刑死前夜、刑務所に300人いた囚人を超能力で枷を解き、扉を開け、全員逃がしてやったのだが、自分だけは牢内に留まった。その理由を問われて、「私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある」と応えている。

彼の処刑には10万人が集まり、早速彼に石を投げ始めたが、途中から知り合いの聖職者が泥を投げたのを見て嘆息して言うには、
『自分がしようとしていることを知らぬ者たちは許されるが、石を投げてはならぬことを知っている者のことは私には辛い。』(イスラーム神秘主義聖者列伝/ファリード・ウッディーン・ムハンマド・アッタール/国書刊行会P357から引用)

求道者の立ち居振る舞いは、かくの如く厳しさを求められる。曹洞禅の師家でも悟りなどないと主張し、未悟の修行者を混乱させる方がいたことを知った(「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々)。これでは悟りと修行は一つ(修証一如)と唱える方にはきついのではないか。

エックハルトも神との合一を表現したが、異端認定されないように苦労したらしい。

人間が神に逆転するということは、人間の側から見れば、狂人とされ相手にされない、異端と認定され迫害される、神人として尊敬されるの三種類があるが、この世界的近代西欧文明では、狂人とされるか異端とされるかがほとんどである。あのOSHOバグワンへの扱いは、その典型である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界観の二重性

2022-11-28 06:55:14 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第七章】冥想に取り組む姿
4.世界観の二重性

世界観の二重性とは、悟っている人は、二重のリアリティ、二重の現実に生きているということ。

よくある間違った見方は、悟っている人は、世界のすべてや他の人間と一体なので、どんなひどいことをされても怒らないとか、衣食住が不足しても平気だとかいう見方。これでは、悟っている人は無制限な虐待にさらされることになる。悟っている人は、動物園のパンダでもパンチング・ボールでもない。

そうした甚だまずい仕儀となったのは、イエスだけでなく、イスラムのホセイン・マンスール・ハッラージなどがいる。

登山や荒れ地の旅行だとわかるが、人間は飲み水や食べ物が三日手に入らないと死んでしまうのが普通。肉体人間とは、はかないものだ。そうした物質面もさることながら、精神面ではほとんどがみじめで情けない自分を抱えながら生きている人が多いのではないだろうか。

人は一人で生まれ、一人で死んで行く。人間には現実として救済などない、と見切ったところから求道をスタートさせ、幸運にも神仏(ニルヴァーナ)という無上の至福を見たり一体化できたのが数少ない悟った人。

彼らは、みじめで情けなく無力な自分という一つの現実(リアリティ)に生きると同時に、何の問題もない至福という現実(リアリティ)も生きている。

彼ら覚者のまわりに集まって来る連中が、どうしても幸福や解脱に関心が高いので、ニルヴァーナこそ現実であるとことさらに強調されるのだが、冷静に公平に見てみれば、彼らは二重の現実(リアリティ)に生きていることに気がつくのではないだろうか。

釈迦は胃癌で死んだ、イエスは磔で死んだ、日蓮はお腹をこわして死んだ、禅の巌頭は盗賊に首を斬られて大声で悲鳴を上げて死んだ。こういうものは、すべて悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。

一休は70代になっても30代の妾と情欲に爛れた生活を送っていた。臨済は「今日の御馳走のメニューは昨日のと比べてどうだ」などとつまらないことに関心を持っていた。クリシュナムルティは禿を気にしていた。出口王仁三郎は子供が死んで大泣きした。こうしたものも、悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。

そうであっても、なにものにも傷つけられない自分があることを知っているのが悟った人。

そして、その二重の現実(リアリティ)相互には時差がある。同時には存在しないのだ。それは葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる。

わたしの見るところ、自分と全体が一致する瞬間はあるが、それに居っぱなしでは、社会生活できないので、そこから出て社会生活する。その際、自分と全体が一致することこそ真実であり真理だと承知はする。だが、『時間は、自分と全体の間の刹那にある。』換言すると自分と全体の一致から出れば、『自分と全体は分離し、そこには時間差が生じる』。時間は心理上のものなのだ。

この辺が、迷い(マーヤ、無明)なくして真理は存在しないという消息だろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリシュナムルティが潔癖性だったこと

2022-11-27 14:54:10 | 只管打坐neo
◎聖者の弁別

ニルヴァーナを生きるクリシュナムルティなどにとっては、自分が殺されようが、傷つけられようがそんなことは、自分の知ったことではないというのが基本姿勢のはずだが、彼は潔癖性だった。

彼の専属の典座(コック)のクローネンがクリシュナムルティが探していてみつからなかった本「ソローのパタゴニアン急行」を町の古書店で見つけた。

クローネンが食事の後、クリシュナムルティを呼び止めて、その本を献じようとしたとき、
『彼の応答は私が期待していたのとは違っていた。私が手渡そうとした本を手に取る代わり、何か危険なものが隠されてでもいるようにそれを不安そうに見た。彼はおずおずと片手を伸ばし、一本の指先で。プラスチックカバーにちょっとさわり、すぐに引っ込めた。
「それを洗いましたか?」と彼は尋ねた。

私は当惑した。「洗いましたかって?」と私は繰り返した。
「それは古本でしょう?いろんな人が手を触れているから汚いんじゃない?」
彼の考え方の流れを辿るのに少し戸惑った。それから吹き出したくなる思いに駆られた。私が流し台に立って本の一頁、一頁を石鹸とスポンジで洗っているイメージが全くおかしく見えたからである。「その通りです。クリシュナジ」と私はまだどうしようかと迷いながら答えた。

「カバーと内側を洗ってから、あとで私に下さい」と彼は台所を出る前に言った。

石鹸と水で本をこすりながら、衛生と清潔に対する彼の態度を考えてみた。現実的なものに対する彼の敏感さは前から気づいてはいた。―――――清潔な容姿、衣服の評価だけでなく、何であろうと汚れ物に触れたり、多くの手で触れられたものに触れることを彼は極端に嫌悪していた。車や、汽車や、飛行機で旅行するときに皮の手袋をはめるのはこうした理由からなのだろう。』
(キッチン日記/マイケル・クローネン/星雲社から引用)

だからといって、聖者を見るのに、その人の人間的なところばかり見てはいけないと思う。こんなふうだから、現代人は、何が正しい行為で何が邪な行為か見分けられないし、聖者と悪人も見分けられないなどと、辛らつな評価を受けるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地でのオープン・マインド

2022-11-27 14:51:25 | 時代のおわりneo
◎人間の現実と救い

『リフトンはdeath in lifeの中で被爆初期の状態を「被爆直後の経験で心理学的に最も重要なことは普通の生活体験から急激に、しかも完全に驚くべき死と遭遇したことである。死そのものを想像すること以外に生と死が交錯し、転倒し、もはや区別できないという感覚に襲われた被爆者も数多くあった。

生と死の交錯に深い関係のあることは、個人的社会的秩序の崩壊すなわち人間関係の喪失と物理的環境の喪失である。秩序の突然の崩壊は人の心に深い影響を及ぼした。」』
(原爆放射線の人体影響1992/放射線被曝者医療国際協力推進協議会編/文光堂P146から引用)

これは原爆の被爆者についての記載である。だが、この状態は、今般津波の被害で家を失った人も同じである。帰って安らぐ家を失い、家族、隣人が亡くなったからである。

伝統的な心理学では、被災者は「心理的閉め出し」とよばれる、心の扉を閉ざし意図的に無感覚となる状態に入り、やがて徐々に旧知の人との人間関係を復活させながら社会性を回復していくものとされる。

現代アメリカの覚者ケン・ウィルバーは、この初期段階で、あえてオープン・マインドにすることが大切であると説く。

この残酷で、非人間的な光景にさらされた、人間にとって最も先入観が揺らいだ心理状態において、心を開いて見よと、ケン・ウィルバーは勧めるのである。
昨日までの社会性が、突然崩壊した中で、あえて正気でいなさいと言う。

NHKの番組の被災者からのビデオ・レターで、何人もの被災者が「私は、生き残って元気です。」と語った後に、被災者はまず泣くものだ。

不条理に直面せよ、人間の現実を直視せよ、と言うは易いが、残酷なものだ。でもそこを越えていかないと、人間のあらゆる苦悩を超克するなんてのは夢物語なのだろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想する気分にならなくても坐る

2022-11-27 07:09:48 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第七章】冥想に取り組む姿
◎3.冥想する気分にならなくても坐る

生きていれば、いやなことはあるものだ。だが、いやな気分や沈んだ気持ちを払拭しようとして冥想するのは、本来邪道である。例えばマントラ禅に分類される念仏やお題目を唱えて、南無阿弥陀仏になりきったり、南無妙法蓮華経に成り切ったりすれば、血行はよくなるし、気分はスッキリ爽快となる。だがそうしたポジティブな効果があったとしても、効果だけを求めるのは邪道なのだと思う。
だがそれは、十分に冥想が深まった場合のこと。

実際問題として、平日朝夕30分の冥想時間をとるのは相当に大変なことである。全く冥想しないのはまずいので、そこでやむなく短時間の冥想をすることになる。その場合、冥想する気分になってから坐るというのは、ほとんどあり得ないことになる。実際に時間に追われて暮らしていけばそうなりがち。

われわれの大部分は、死ぬことと同様に生きることをも恐れている。すなわち家族のことを心配し、世間の批判を恐れ、仕事や生活の保証を失うことや、その他多くのことに恐れを抱いて生きている。こうした、不安定、不愉快な気分をかかえて、毎日生きていく中で冥想するとは、
まさに毎日の生活に直面するということ。

つまり平素の面白からざる気分で冥想を始めざるを得ないことの方が多いということ。

冥想熟達者は数分で定に入ることができるという。だが、そういう他人の冥想のことを言っても仕方がない。自分の冥想に上手下手はないのだ。どんな気分でも坐るしかないのだ。

ケン・ウィルバーが、東日本大震災でオープン・マインドを説いたのも、被災後の鬱屈した気分でもオープン・マインドを、ということだが、どんな気分でも坐るということと発想は同じ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みじめで情けない自分と向き合う

2022-11-26 07:05:29 | 現代冥想の到達点neo
◎恐怖パワーと期待しないで坐ること

自分が人間である限り、自分はみじめで情けないものだ。それは悟った人を除くすべての人に共通している。

落ち着いて自分に向き合ってみれば、ここは冥想するという意味だが、そのまま、あるがままの自分が次第に見えてくる。

自分が、実は元気がなく、愚かで、空虚なことを追い求め、お愛想と外面とは裏腹に、醜い存在であることを感じる。

さらに日々、自分の生活、生存のため、あるいは、自分のメリットのため、自分がちょっと便利になるためにやってきた大小様々な行動や他人への仕打ちを振り返ると、自分が罪深い一方で、不安におののく、ちっぽけでつまらないものであることを感じている。

こういうアプローチは、開運招福、恭喜発財、ラッキー引き寄せなどとは、対角にあるのだが、これが人間の真実である。ネガティブな故にマスコミでは、「本当はネガティブな自分」という題材は、視聴率もとれないし、アクセス数も稼げないので稀にしか取り扱わない。

だが、それを正面から見据え、逃げないことがまともなアプローチである。

その時、自分は何ものにも頼れない、寄る辺のない孤独感を味わう。資産数兆円の大金持ちでも、金メダルのスポーツのヒーローでも、人気絶頂の芸能アイドルでも、アクセス数トップのユーチューバーでも、権力の頂点にある大統領でも国家主席でも首相でも、官僚の事務方トップでも、孤独でみじめで情けないことには変わりない。

この時代は、自分にあった職業で自己実現するという教育、宣伝が行き渡りすぎた悪影響で、人生のポジティブさを尊重しすぎる弊風がある。そのおかげで、「孤独でみじめで情けない」自分に向き合うことはますます恐ろしく、暗いものに感じられるものとなった。

当たり前の人間として生きるとは、「孤独でみじめで情けない」自分を認めつつ生きるということ。それは恐ろしいことである。それはとてもいやなことである。でもそこから逃げずに向き合ってみるのが冥想。

冥想する。ただ坐る。背骨を垂直に伸ばして腰を入れて、脚を組んで坐る。あるいは姿勢は自由で、目を閉じ、目を開け、あるいは半眼で、聞き守りつつ坐る。

時に、私は、こんなにまじめに坐っているのに、頭が混乱して翻弄されるだけで、気分も落ち着きやしないなどと思うかもしれない。

それでも坐るのが健全な自分自身への向き合い方。

誰もが簡単に悟れはしないのだが、覚者は「悟った人は、悟ってない人との差はない」と言い、「悟りは簡単なこと」だとも言う。

さはさりながら、禅でも密教でも古神道でも念仏でも、覚者の修行ぶりで伝えられるものは、冥想フリークのように冥想に打ち込む者が多いというのも事実なのである。

大災害にあって停電でスマホ携帯も繋がらないと自ずと自分に向き合う。孤独と不安と恐怖。でも自分に向き合う訓練は平常時から行わなくてはならないのだと思う。

世の終わりというマスで発生する大量死の時期も、自分が孤独に死んでいく死の時期も死としては自分にとって同じなのだ。

悟っていない身にとっては、どちらもとてつもない恐怖であることに変わりない。自分が自分に向き合うためには、いかに本気で向き合うかがためされる。

その本気には、「本気1.0」「本気2.0」「本気3.0」・・・・・「本気max」がある。

本気に向き合うエネルギーは恐怖から供給されることもあるのを見て「恐怖の恵み」などとも言われる。

「本気1.0」から「本気max」への深化は、只管打坐でもそうだしクンダリーニ・ヨーガでもそうだし、その皮の向け具合を玉ねぎの皮に例えてシュンニャとも言う。

ある程度進んだところで、真正な師匠に出会うことがある(自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もある)。

何の期待もせずに坐る。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独な生活と身だしなみ

2022-11-26 07:01:19 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎心の社会性と正気

現代社会では、衣食住さえ安く手に入れば、ほとんどリアルな人と接触せずに日々を過ごすことができるほどに文明の利器はそろった。

そんな中で、通勤も通学も結構な量の家事もないとなれば、人は自分を飾ることを放棄するようになる場合がある。

すると、奇妙なことではあるが、その人間の本性とも言うべき潜在意識が表面に出てくる。

具体的には、深い意識に根付いた欲望が驚くほどストレートに現れた状態で、露出する。性欲、支配欲、金銭欲等々。

これを社会規範や法律や道徳やしつけなどで、厳しく自己規制しようとするモチベーションが働くと、更に大きなストレスが高じて、逆に先に挙げたような欲望がより強く呼び起こされて自分をコントロールしづらい状態にまでなることがある。

このような状態は、ひきこもりや出家生活など孤独な生活では出現しがちな状態である。

古来宗教家たちは、この状態のコントロールは心得ていて、オーム、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などのマントラを繰り返し念唱させて、すべてがマントラになりきる一念専心やすべてがマントラである世界までもっていくとか、心に浮かんでくるあらゆる想念を相手にしないとか、消えていく姿であると見るとか、激しい身体運動とかで肉体を消耗させて後坐らせるとか、空性の観想とか、様々な手練手管を用意していたものだ。

身だしなみとは社会性のことであって、着るものとか持ち物などファッションだけが社会性ではない。

このおひとり様が三分の一にも達しようとする時代、心の社会性こそ身だしなみである。心の社会性とは、真に厳密な意味で正気であることだが、ちょっとノイローゼ、ちょっと偏執的なのがまともとされるこの時代に、誰が真の正気を見分けられるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

省みる、恥じる、悔いるがない者たち

2022-11-26 06:58:56 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎正気に立ち返る

漠然と『終わりの世には、分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間が増える』というような過去の予言を見ることがある。

それはどういう人間かといえば、出口王仁三郎は、破廉恥なことを平気でする人間のことであり、人間に元から備わった覚る、畏る、省みる、恥じる、悔いるの五情のうち、省みる、恥じる、悔いるがない者をいう。

破廉恥なことを平気でする人間とは、一般に世間では反社と言い、通俗表現では恥知らずという。

昔と違って、電車に乗ればぐいぐい背中をスマホ・携帯を持ったひじや手で押されるのが普通となり、誰かとみれば女性だったりするので、そら恐ろしい時代になったと思う。こういうのも破廉恥と言わずや。

だが電車に乗っているくらいの人だから、ある程度の社会性はあるのだろう。

もっとひどいのが、思考がまとまらない、思考が混乱している人で、最近は電車のなかでもぶつぶつ独り言を言うそれと思しき人を見かけるので、そういう人だろうと想像される。

こういう人は、事実上の感覚遮断環境となり、思考が混乱するだけではなく、ある特定の思考を維持することさえできなくなり、白昼夢がたえまなくひき続きおこるということを繰り返しているのだろうと思う。

こういう人たちも『分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間』に、残念ながら分類されるのだろう。

マスコミは日々能天気な明るい雰囲気を伝播しようとしているが、受け手の方では、そのマスコミのおかげか、各個人の自己責任のなれの果てか、相当数の『分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間』が拡大再生産されている。

正気に立ち返るということ、何が正気なのかを悟るということが社会全体の大きなテーマになっている時代となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あがきすぎる、何も手を打たない、完全にあるがままにある

2022-11-26 06:50:18 | 密教neo
◎自分自身を成長させる意志

ソギャム・リンポチェの問答から。
『Q
非常な混乱を感じ、その混乱から脱け出そうとすることはあがきすぎのように思われます。しかし、何も手を打とうとしないことは自分を騙しているだけだといつかは気づくのではないでしょうか?

A
そうだ。しかしあがきすぎるか何も手を打たないかの、両極端の生き方しかないわけではない。

完全に〈あるがままにある〉という〈中道〉的な生き方を見いだすべきだ。これを説明する言葉にはこと欠かないが、実際に自分でやるほかはない。本当に中道を生きはじめたとき、あなたはそれを理解し見いだすだろう。

自分自身を信頼し、自分の知性を信頼することを自分に許さなければならない。私たちは本来豊かな人間であり、豊かなものを内にもっている。ただ自分がありのままの自分であることを許すべきだ。

外的な救いは役に立たない。自分自身を成長させる意志がなければ、混乱して自己破壊のプロセスに陥るだけだ。それは外部からの破壊ではなく自己破壊であり、だからこそ効力があるのだ。』
(タントラへの道/チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ/メルクマール社P35から引用)

さすがにリンポチェだけあって、本当にわかっている人物であることがわかる。混乱を感じることは誰にでもできるが、その混乱から抜け出すことは誰にでもできるというわけにはいかない。「自分自身を成長させる意志」というある種の生きる熱源、パワーを必要とする。それなくしてあがくだけであれば、スピードや程度の違いはあれ、自己破壊が進行していくだけである。

ところが「自分自身を成長させる意志」とは、実は生得的、先天的なものであって、いわば自分ではどうにもならないところのものであるように思う。

この質問者が、その意志をどの程度有していたのかはわからないが、そのことに言及すべき質問者だったのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする