アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

世の終末と立替

2024-08-20 07:00:11 | アヴァターラ神のまにまに

◎正しい教えが伝わらなくなった時と伝わり切った時

 

出口王仁三郎の説明では、立替には、破壊シーンと復興シーンがあって、破壊シーンが立替であってノア、復興シーンは立直しであってナオ

立替とは、自分の心のことであって、「立替を 世人のことと な思ひそ 立替するは 己が身魂(みたま)ぞ(出口王仁三郎)」のことで、神人合一を言う。この結果の人間を、水晶身魂、クリスタル・ピープルと呼ぶ。

 

出口王仁三郎の随筆集水鏡から。

 『世の終末と立替

 

キリストの本当の教が伝はらぬやうになつた時。仏法に於ては釈迦の誠の教が伝はらないやうになつた時、それが世の終りである。即ちキリスト精神の滅亡、仏法精神の滅亡を意味する。此時にあたつて、本当の耶蘇教、誠の仏法を起すのが世の立替である。』

(水鏡_世の終末と立替/出口王仁三郎から引用)

 

このようにキリスト教も仏教も本当の教えが伝わらなくなった時、それが世の終りであるとしているが、逆に一方で正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こるとしているのがイエスやノストラダムス

 

大悟覚醒、人間が逆転して神になる場合、自分も家族も人間関係も財産も名誉も社会的地位もすべてを捨てる段階が必ず起きる。これは自我の死だが、これが世の終わりにしてノア。自我は死んで、不思議なことに神知る自分として再生するのだが、これが復活、復興であってナオ。

未成熟の者は復興はないのだろうが、人間には、堪えられないことは起こらないの法則もある。その辺を踏まえて、キリスト教では、「正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こる」と、成熟が万人に起きるまで世の終わりがないかのような言い回しをしているが、これは出来上がりの至福千年からみれば結果的にすべての人は成熟を経て神を知っているので、「成熟が万人に起きたから」世の終わりと至福千年が発生したと言えることは言えるのではないか。

こうした人にやさしいキリスト教の教えには見るべきものはある。一方で砕霊という無慈悲なものがあることを唱える道教は、人に厳しい支那の風土を反映していると見るのか、神仏は必ずしも人間に都合よく動くばかりではないと見るのか微妙なところがある。

2024パリ五輪閉会式で、イエスの最後の晩餐のパロディが披露され、現代フランスは涜神の巷であったことを改めて証明した。現代フランスには、正しい教えが伝わらなくなった時が来たのか、はたまた伝わり切った時が来たのか。

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Amenty Meditation Way

2023-08-22 06:58:49 | アヴァターラ神のまにまに

◎神知る人の心の中にある

 

“Amenty Meditation Way”。何十年か前の夏の東京都内のどこかの木立で、この看板を目にしたことのある人もいるかもしれない。

アメンティとは古代エジプトの書にアメンチーとして出てくるのを読んだ人もいるかもしれない。

アメンティは古代アトランティスの中央官庁兼最高神殿のことで、そこからトオスの系流とダンテスの系流が発する。ダンテス・ダイジはこの講話で、アメンティの復興を目指すことを宣言しているが、これは、この世代に限らず、向こう1万2千年の千年王国、みろくの世において、ダンテスの系流たちが生き続けることを期待する。

“Amenty Meditation Way”とは、その道場の名だ。

 

要点は、

1.トオスの系流

固定した形式を重んじる組織宗教。個々のメンバーは、必ずしも自身が神人合一することを最終目標としているわけでもない。

2.ダンテスの系流

組織に依らず、自分らしい生き方をしながら、自分自身が神になることを目指す。

 

ダンテス・ダイジの講話から。

『ダイジ「道場っていうのはね、君たちはすでに知ってるはずだ。それはアトランティスの時代にあったアメンティっていうのが、基本的な形式なんだ。そして道場には二つのタイプがある。

一つは仏教の流れって言ってもいい。トオスの系統なんだ。その系統っていうのはどういうのかっていうとね、形式を中心に置く。だからもうガチガチだ。とにかくすべての形式を守るってことだけが要点。

それはどういう意味かって言ったらね、個々の人間の事情なんかどうでもいいんだ。とにかく宇宙という花を開かせるためのさ、基本的な流れっていうのを守ろうとするためにある。だから、形式だけ残ってりゃあ、伝統だけ残ってりゃあ、誰かそれに一致する奴がさ、百年に一人でも千年に一人でも出てくる。とてもとても長い展望を持ってるんだ。

だからこそ君たち、君たちはまともに鏡見てごらん。自分でさえ本当は知っちゃいないことがわかるだろう。知ってるつもりになってるだけだ。よく見てみろ、鏡を。初めて見るようなもんさ。本当にまじに見たら。あれ、この人誰だ?そのくらい神秘なんだよ、君たち一人一人が。

そして、宇宙っていうのは、君たちの神秘さと同じだけ神秘だ。それはまさに、一つの、一本の花だ。一本の野の百合だ。そしてそれは花開こうとひとりでに動いている。それで何だっけ?」

 

弟子「もう一つの流れは?」

ダイジ「それは形式の方の立場ね。どっちにしても、永遠の展望の上に立ってるっていうこと。宗教といってもいいし、成熟と言ってもいいし、あるいは君たちが最終的に安心する場所って言ってもいいし。そういうものは、無限の時間の中で成立している。無限の時間だ、本当の無限の時間だ。

宇宙ができ、宇宙が死に、宇宙が生まれ、宇宙が育ち、宇宙がセックスし、宇宙が死ぬ。また宇宙が生まれる。そして、幾たびも幾たびも幾たびも幾たびも宇宙は繰り返す。

そしてその中でもってさ、宇宙は宇宙自身を喜んでほしいと思っている。そのために君たちみたいな、神経症みたいなろくでもないのを生むんだ。そして、花開かせる。

それが形式の方から行くとトオスの系統、すなわち仏教とかキリスト教とか、ああいうがっちりした伝統とやり方を決めて、と

にかく形式っていうのが大切だ。禅宗がその一番純粋な形だ。座禅の作法。朝起きる時間。何もかもガチガチだ。で、みんな狂っちまう。まあ、ろくに見性なんかしてる奴、一人もいやしない。もう日本の禅宗も終わりだろう。だが、そんなことは本当はどうでもいい、禅宗の立場からは。とにかく形式だけ守りゃあさ。そのうち、1億年後にでもそれにあてはまる人間が出てくる。

それを待ち続けてるんだ。それが道場の形式だ。

 

そして、俺の道場の形式。すなわち君たちの道場の形式。それはそうじゃない。それはダンテスの系統だ。それはアメンティのやり方だ。それはどういうものかっていうとね、君たちの一つ一つ、君たちの今の立場の一つ一つ、それをよりよく味わっていくんだ。君たちの恋愛、君たちの楽しみ、君たちのあこがれ、その一つ一つをね、楽しむんだ。で、禅門っていうのは、ある意味では完全に純粋なものをそこにポンと置いておく。そして、アメンティっていうのはそうじゃない。全般的な雰囲気っていうのを作るため。

たとえば、ある人がある社会形態の中で生きている。ところがどうしても適応できなくなる。そしてもしアメンティというものの努力が、種がそこに蒔かれていなければ、そいつはもうまったく無駄な人間だ。が、その雰囲気が少しでも残っていれば、奴がひとりぼっちで自分の部屋に籠っているのを、『奴はノイローゼだ』って言ってる反面、心のどこかでは、『何か奴の中に真実への何かがあるんじゃないか、何か奴を守ってやらなくちゃいけないんじゃないか』、そういう思いが起こる。それがアメンティだ。

 

そして、1万2千年前に花が一度開いた。君たちがだよ。そして、その花は散って、その種が延々と続いて、今また新しい花を開こうとしている。ここ30年のうちに。そしてその花が見事に開けば、そこから種ができる。そして次の1万2千年の間、その種が続くだろう。これは人間の努力にかかっている。決して、放っておけば成立するようなものじゃない。

もし放っておいてそういう種というものを守らなかったら、人間というのは、もうどうしようもない苦悩の中でのた打ち回ってね、破局しちゃうだろう。そこが不思議な所さ。

 

つまりね、君たちがいなきゃ神は成立しないんだ。一方、神がいなきゃ君たちは成立しない。

だから、今君たちに守れって言ってる道場っていうのはね、その1万2千年間の種をまくためだ。だって幾度も幾度もその道場に接することになるんだぜ、君たちは生まれ変わり立ち代わり。

自覚はしないかもしれないけど。が、いずれにせよ、一番この世の中で大きい出来事っていうのはね、たった一人の人間の中で、花が開くっていうことだ。だからとにかく、この30年のうちに君たちの花を開かせねばならない。で、花が開くっていうのはね、すべての存在っていうのが、存在自身を、祝福するっていうか、賛美するっていうか、そのときすべてが(不明)、すべてが。そういうわけで、1万2千年間の人間の努力っていうのは、いまやその限界点まで達してるんだ。決して、いわゆる西洋文明がでっち上げたさ、価値観とか何とかに惑わされる必要はない。

君たちがね、道場を守り、そして自分の修行、何も全部を切り離して何かになる修行じゃない。人と触れ合ったり、さまざまなことをしながら修行するんだ。ただ必要なことは、心の底からの誠意でもってそれをやっていくっていうこと。それが存在の唯一の意味なんだ。どんなに

馬鹿げて見えるにしてもね。」』

 

ダンテス・ダイジの時代観では、次の一万二千年は、至福千年。それは、すべての人が神知る時代。

現代は神知る人はとても少ない。ところが老若男女を問わず、人生航路上の様々な出来事の中で、不適応になったり、うつになったり、ひとりぼっちで自分の部屋にひき籠もっているような場合もある。周囲の人がそんな人を見て、人間失格だとか社会人失格だとかクズだとかダメ出しをしないで、認めたり守ったりして行く雰囲気づくりが狙いなのだ。

『アメンティっていうのはそうじゃない。全般的な雰囲気っていうのを作る』

その雰囲気の中で、神を知る、悟りが花開く。開花した花は実をつけ、時代の花の種となって、千年王国が続いて行くのだ。

その雰囲気造りには、『君たちがいなきゃ神は成立しない。一方、神がいなきゃ君たちは成立しない。』という原理があり、人が努力しなければ、その種は蒔かれない。

なぜ雰囲気か。花は、かそけく失われやすいものだから、それが生え花咲ける雰囲気の場所にひっそり咲くだけのものだからである。

それなくして人類滅亡回避もないというのも現実。

 

また、その雰囲気を作るには、組織宗教に依らず個人として実際に悟りを持って神と共に生きる人物が何人か出てくることが必要だし、悟りとは何か、神とは何かを説明するテキストも必要だと思う。

このダンテス・ダイジの談話は、初耳な用語と世界観が多く、さらに悟りとは何かが大体見当がついている弟子と、将来の転生において悟りとは何かが見当がつくであろう弟子向けに語られているせいか、短い文章の中に内容が恐ろしくぎっしり詰め込まれている。だから前提知識のない人が読めば、とても晦渋な文章である。

 

そして、“Amenty Meditation Way”という道場は、どこかの街や山の中や浜辺に建物としてあるわけではない。始まりは、確かに建物としてあったにせよ。神知る人の心の中にあるのだ。

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悟りと生きる情熱の多寡-4

2023-08-20 03:07:19 | アヴァターラ神のまにまに

◎悟りに足る情熱の多寡

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

逆転とは、悟りのこと。日本では肉体死した人のことを「仏になる」と言い慣わすが、肉体死した人のほとんどが悟りを開くわけではないことをまず述べている。

そこで情熱を持つ人だけが、死に際して悟りを開くと述べる。その死は肉体死であるとは限らず、情熱がある人の精神の死であることがある。

 

『S「そういうふうに、逆転がない人も沢山いるんですね。」

ダン「うん、逆転がない人っていうのは折り合っちゃう。妥協しちゃうんだ。つまり、例えば、死っていうものを、死の経験をするとするでしょ。そうすると『ああ、死ぬのか』くらいで考えてさ『死ぬんだ。もうこんなことは、もうこれ以上関わってもしようがない』ってふうにさ、どっかへしまい込んじゃうのさ。懐へ奥深く、そしてパチンと蓋をしてさ、鍵を掛けて、その鍵をポン投げて。」

S「それが大半の人間でしょう?」

ダン「うん。大半の人間だ。だから、何よりも情熱が人をね、その人自身に変えさせる。情熱なんだ。本当に愛しさを感じた人でなければ、無限の広がりを経験することはない。

でも、大丈夫。ここにいる人達はさ、それに出会うだけの情熱を持ってるから、こういう縁が出来た。』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P5-56から引用)

 

「無限の広がりを経験する」ということも悟りを開くということ。

悟りには生きる情熱が必要だ。前段で迷いの大きな人だけが悟ると語っているが、生きる情熱が大きい人だけが、迷いが大きい。禅で言えば疑団。禅でも、坐れば坐るほど必ず疑団が大きくなるというものでもなかろう。禅僧洞山は、死んだばかりの僧(悟りきらないまま死んだ若い僧)の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するシーンがあるが、それはそのことを示した場面の一つ。その若い僧には情熱が足りなかったのだ。

 

ダンテス・ダイジは、弟子たちに対し、彼と知り合ったからには、そのための情熱は既に足りていると勇気づけている。

 

じゃあどのようにすれば情熱を増やせるのかという質問が来るのだが、どうもその情熱は生まれついてのものであるような感触である。坐り詰めに坐る、あるいは為すべきことを一つ一つこなしていく、そうしたことの先にあるのが、悟りに足る情熱量のその人生での若干の増加なのではないかと思う。

 

洞山には、この話の他に最上位弟子(首座)を問詰したあげく死に追い込んだ故事もあるが、それもその辺の理屈を反映している事象なのではないかと思う。

 

今生において「生きる情熱」をさして増やせないとした場合、万人一斉に悟るシーンが予定されているシーンが幻視されていることが新たな疑問点として浮かび上がってくる。

それは、キリスト教の空中携挙であり、出口王仁三郎の「凡夫の耳も菊の年」である。

これは、歴史的社会的な事件なのかどうかはわからない。ただし、チベット死者の書で、死のプロセスの最初の段階において、万人は必ず「原初の光」という神を目撃することができるシーンがあることを意味している可能性もあるように思う。

 

それは、ファンタジー好き、幻視好きの人には面白くない解釈かもしれないが、承知しておくようなことかもしれないと思う。充分な情熱なくしても、「原初の光」の目撃はあり得るのではないかということ。

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悟りと生きる情熱の多寡-3

2023-08-19 03:38:55 | アヴァターラ神のまにまに

◎この世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面すること

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

『渡辺「さっき言ったね、普通の宗教のメソッドの悟り方っていうのは、機が熟してないと起こらない?」

ダン「うん。全く偶発的に起こる。」

渡辺「偶発的?」

ダン「うん。」

 

渡辺「起こるだけの素地というか、経験ていうものがあるってことでしょ。」

ダン「もちろんある。それは、それに機が熟するというよりはね、その人が本当にこの世の仮の姿というのを認めてしまう。認めざるを得ないような事態に直面したっていうことだ。

 

そういう時は、本当にものすごくそれはきつい。最初は。きついけど、必ずその人の情熱が、本当にこの世のどうしようもなさっていうのをさ、簡単に認めるような人でなければないほど、つまり迷いが大きければ大きいほど、 必ず素敵な世界であったっていうことを気付く。」』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P55から引用)

 

ここでは、悟りがどのように起こるかを、微妙な言い方で語っている。

つまりその人が迷いが大きい人であって、本当にこの世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面する場合に悟りが起こるとする。それは、そのような事態が起こっても、誰もが悟るわけでもない。

それを承けて考えてみると、

 

迷いが小さい人の場合、行く先は次のとおりになる。

①元の社会的常識世界に退行していく

 

一方迷いが大きい人の場合、行く先は次の三種のどれかになる。

①元の社会的常識世界に退行していく

②発狂する、自殺する

③悟りを開く

 

翻って、例えば長年神の来臨を待望した人が、いざ神が不意に来臨した時に寝過ごしてしまうなどというのは、「起こることは起こったが、何が起こったかは分からないままだった。」という風に説明されてしまう事例の一つなのだろう。

 

なぜそのようなことが起こるのか。

 

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悟りと生きる情熱の多寡-2

2023-08-18 06:10:47 | アヴァターラ神のまにまに

◎既成組織宗教の中での悟りとその枠にとらわれない形での悟り

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。ここでは既成組織宗教の中での悟り実現とその枠にとらわれない形での悟り実現を述べる。

『渡辺「普通、いわゆる宗教家の場合はそれを越えようとするわけでしょ?」

ダン「いわゆる宗教っていうのはさ(笑)、つまり一定の概念というのか、用語とか、シンボルを使ってしか入れないさ。一つのテクニックを決めた中で入って行くからだ。だから、大抵の場合、相当出来る老師でもね、禅から入った人じゃあなくてさ、何か特別なきっかで悟りを開く、見証(まま)するっていう人いるんだ。例えば、本当にわけがわからない時に、自転車か何かに乗ってて、転がって、バターンと行った瞬間に、全部が帳消しになっちまう世界を見るとか。あるいは、自分の最愛の誰かが死んだ姿を見た瞬間に、全てがひっくり返って、そして自分が生きてるのではなく・・・いい?全てが、全てが全てがさ、自分となって生きてるんだ。そう気付くこともある。

 

でも多分、禅宗の老師でも、よっぽど出来た奴じゃあないと見抜けない。何故なら、一定の入り方っていうものをパターン化してるからだ。例えば、何でもいいんだ。TMでもあるわけよ。段階が。何故ならTMのやり方っていうのをすると、必ずその段階っていうのに入って行くわけ。

 

だから極端に言うと、ヨガのある団体ではさ、こういう図盤があるんだ。 それで、チャクラを冥想させるんだけどね『何かを見た』って言うとさ、すぐ図盤持って来てさ 『お前どれを見た?』ってこうやって調べるんだよ。そうすと『おっ、三番目を見たか。うん、三番目まで行った」なんてやるわけよ。で、次は四番目へ行くためのマントラか何か上げてさ。うん。それは一つの入り方だ。そしてそれにふさわしい人が、それはとても素敵だ。でも、それだけじゃあない。人の生きざまはそれだけじゃあない。 無数の生きざまが。」

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P54-55から引用)

 

TMは、transcendental meditation超越瞑想の略で、教祖マハリシ・マヘーシュ・ヨーギに一時ビートルズが心酔した時期もあったが、後に幻滅しビートルズは離れたので有名。

 

『禅から入った人じゃあなくてさ、何か特別なきっかで悟りを開く、見性』した人とは、いわゆる隙間から入った人。『禅から入った人』とは、只管打坐から身心脱落というルートや丹田禅で丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕から見性した人のことを想定しているのだろうと思う。また禅でいう段階といえば、十牛図だが、達磨の頃からあったわけではない。

 

ここで自転車で転んで悟る人の例を出しているが、まず悟った人には無名の人もいるし、自分で悟ったなどと言わない人もいる。キリスト者の鈴木秀子氏は、階段から落ちて見神したが、冥想の中で見神したのではなかったので、自転車で転んで見神したのと半ば同じということになろうか。

 

またこのチャクラ調べをする『ヨガのある団体』とは、本山博のことと思われる。

 

この一連の話の力点は最後の、人には無数の生き様があって、悟りも無数の形があるということ。悟りは、宗教団体に入信しなくても、続々と発生しているのだということ。だからダンテス・ダイジは、『(出家とは寺に入ることではなく)、寺を出る出家もある。』などと嘯く。

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悟りと生きる情熱の多寡-1

2023-08-17 06:43:16 | アヴァターラ神のまにまに

◎人間は結局は死ぬだけなんだ

 

悟りを考える上で、冥想方法や教義や正師や精神の成熟度の他に、生きる情熱の多寡という問題は避けて通れない。

悟りには三種あり、神下ろし、見ること(見神、見仏、見性)、神人合一とあるが、そのような形式と道具立てをいくら聞いたり読んだり理解したり、あるいはどんなに悟りたいと師にだだをこねてもできないことはできないということもある。

以下のダンテス・ダイジと弟子の会話は、思いつくままにばらばらに話が進んでいくようだが、ダンテス・ダイジの悟り観が散りばめられている。

 

『渡辺「玉城さんがね、冥想の中でさ、最後まで光がね、通らないような部分を感じるっていうのは、そ の自己なわけ?」

ダン「そう。つまり、哲学者玉城康四郎の持っている癖だ。」

渡辺「なるほどね。それは人によって最後に残るみたいなものが違うわけ?」

ダン「うん、もちろん残ったとしてもさ、完全に生き切る人もいる。」

渡辺「残ったままで?」

ダン「うん、残ったままで。それはね、クリスチャンなんかの場合でも、神と人間は絶対結び付かないという立場があるんだ。一つの立場としてね。キリストの教えじゃあないんだ。でも、そういうふうに、絶対結び付かないっていう中を、とても素敵に生きる人もいる。」

 

渡辺「どういうことなの?それは?」

ダン「うん、人はだから、それぞれっていうことさ。例えばね『ああ、この世はさ、結局死ぬだけなんだ』っていうふうに理解したとするとさ、『うん、この世はそんなもんなんだ』と理解したとしても、その中にいつでもバィヴレートしてるものがある人もいる。大切なことはね、彼がどういうことを語るかじゃあなくて、その語っている言葉が、どっから出て来るかだ。

 

いい?ある人が生きている。そしていろんな混乱に晒されている。で、突然死ぬんだっていうことを、何かのきっかけで理解する。理解した時、全てが吹き飛んじゃう。そうすれば、奴はまず、めったに人には語らないだろう。でも、同じだけ人生に直面した人に向かっては、ひょっとしたら漏らすかも知れない。『うん、そうなんだ。人間は結局は死ぬだけなんだ』その時、彼が言ってることはさ、普通よくこの社会の人達がさ、空しさとか倦怠感とかさ、不安とかの中で喋る意味ではなく、もっともっと深い彼自身の実感があるんだ。『死ぬだけなんだ』」

 

渡辺「例えば、パウロがさ、霊と肉と分けて言う時の肉みたいな、そういう感じ?」

ダン「ううん。パウロみたいな生き方ではないだろうな。恐らく完全にもし、タイプで分けるとすれば、 社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人の場合は、そういうふうな悟りの開き方っていうのかな、をする人は多いよ。ああ、人生はさ、全て過ぎ去って行くんだな。ということ。それだけで沢山だ。」

渡辺「いわゆる空しさとは違うわけ?」

ダン「うん、違う。空しさではない。だから、人はこういうふうに言うこと。

『人生なんて結局思い通りにならないのだ』『うーん、人生なんか本当に重いんだ。みんな死んじゃうんだ』

こういうふうに言うこともあるよ。うん。『人生は思い通りにならないな。人間は自分勝手に生きてるわけじゃあないんだから。人間は結局死ぬな』って。」』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P53-54から引用)

 

ここでは、神と人間は絶対結び付かないという立場とは、人は『死ぬだけなんだ』と感得しつつ、根源からバイブレートするものを感じながら生きられる人々の立場のこと。そういう人たちは、『社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人』の中に多いとしている。

 

人は『死ぬだけなんだ』という気づきは、例の隙間の気づきである。

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正師なくして悟る人

2023-08-13 06:42:32 | アヴァターラ神のまにまに

すぐにも教師を見いだせぬ者は虚しく一生を過ごすしかない

 

人は正師なくして悟りを得ることはできないが、例外的に正師なくして悟りを得た人間もいる。それが、OSHOバグワン。(ボーディダルマは達磨のこと。達磨は著述を残さなかった。)

 

すぐにも教師を見いだせぬ者は虚しく一生を過ごすしかない。人に仏性があるのは真実だが、教師の助けなくしてはついに会得することはできない。教師の助けなく悟るのは億万にひとりの者 だ。

 

これはボーディダルマからじかに来ているものだと言っていい。これは記録を取っている凡庸な弟子の能力を超えている。いかに学識を積んだ弟子であろうと、このようなことを口にすることはできない―――教師の助けなく悟るのは億万にひとりの者だ。ボーディダルマですら師の助けなくしては光明を得ることができなかった。』

(ボーディダルマ/和尚/めるくまーるP90から引用。ゴシック部分は経文。)

 

ここで、OSHOバグワンは、正師の役割とは確信を与えることであるが、それは、弟子に冒険心がないからだと説明する。さらに

 

『だが、いままでに起こってきたことはそうではなかった――教師の助けなく悟るのは億万にひとりの者だ。

たぶん私はそのひとりの者だ。なぜなら、私の知るかぎりでは、人類の歴史全体を通じて師を持たなかった〈光明〉の人はひとりもいなかったからだ。だがボーディダルマは、自分自身には師がいたにもかかわらず、その事実と可能性を認識していた。そして私は、彼の言明を成就した―――教師の、師の助けなく悟るのは億万にひとりの者だ。

(上掲書P91から引用)

 

ここで達磨自身は、正師のサポートを受けて悟ったにもかかわらず、正師なしで悟る者のいることを指摘したとする。その極めて稀な実例がOSHOバグワンであると自ら明かしている。

 

OSHOバグワンは、無師独悟の体現者としてそれを実現できる要件は冒険心だと明かす。冒険心とは彼のたゆまぬ好奇心と試行錯誤を恐れず進んで行くところ。一生をふいにする危険をも恐れないというのがその冒険心。断じて行えば鬼神もこれを避くので。そうした人には神仏もサポートするのだろうが容易なことではないだろう。

 

そしてOSHOバグワンは、ここで“新しい人間 new man”には冒険心があふれているから正師なしで悟る者が出ると予告している。この点については、悟りのメカニズムを知的に理解し、悟りとは自分と自分の宇宙を棄てることだと納得し、さらにその先に何かがあるだろうと確信できるほどに「生きるエネルギーが横溢している人」なのだろうと思う。新人類なら大体誰でもできるとかそういう類のことではない。

世界は人口激減し、寂しくなることを見ているのだろうか。

 

またOSHOバグワンが、正師なしで悟ったことは、不思議なことだが、この書が出版される以前の生前のダンテス・ダイジが指摘しているところでもある。

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イエスを見る、釈迦を見る

2023-08-07 06:49:26 | アヴァターラ神のまにまに

◎先入観と違う言葉は心に入って来ない

 

OSHOバグワンの『瞑想-祝祭の芸術/メルクマール』を何十年かぶりに眺めている。この本は最近再版されたようでもある。

その中で、大悟覚醒の直前の『死んでゆく心(マインド)はいまわの際にヴィジョンを見る』(上掲書P177から引用)のだが、それはキリスト教徒ならイエスを見るし、仏教徒となら釈迦を見るが、大悟覚醒においては、それをも棄て去ると書いてある。

これは、実は真摯な大方のキリスト教徒にとっても仏教徒にとっても、ひどくショッキングな事実なのだと思う。

 

実はキリスト教でも中世女性神秘家がイエスとほとんど愛を交わす幻視を繰り返すシーンがあるのだが、そのイエスは本物なのだろうかといぶかしく思ったりすることがあった。

また釈迦は、仏像仏画を生前も死後もしばらく許さなかったというのはその消息なのだろうと思う。仏教では、もともと釈迦とか仏という「唯一神、主神」があるわけではないのだ。

そのことは、『心の終焉は象徴の終焉だ。そして、その最期のときには 心は自分が知っている象徴のなかでも最も重要なものを使う。そのあとは心がなくなるから象徴もなくなる。』(上掲書P177-178から引用)という部分に書いてある。

ここについては、当時自分は神や仏が何であるのか想像もつかなかったので、「神や仏を見るというのは、ひょっとすればイエスや釈迦を見ることかもしれない」などと揺れ動いていたから、まさか本当の神や仏はイエスや釈迦を見ることすらも棄てることだとは想像だにできなかった。

よって、この部分は実質読み飛ばして、無意識の中に沈潜していたというわけだ。

※いわゆる見神、見仏、見性は、イエスや釈迦を見ることなのだろうが、その先へ進まねばならないということ。

 

該当部分はこれ。

『死んでゆく心(マインド)はいまわの際にヴィジョンを見る――そのときやってくるものの数々のヴィジョンを見る。だが、それらは隠喩(メタフアー)や図像や元型(アーキタイプ)を通してとらえられたヴィジョンだ。心はそのほかのものは 把握することができない。心は象徴で訓練を受けている。それ以外のものでは訓練を受けていない。

象徴(シンボル)には、宗教的なもの、芸術的なもの、審美的なもの、数学的なもの、そして科学的なものなどがある。だが、それらはすべて象徴であることにかわりはない。心はそのように訓練されているのだ。

キリスト教徒ならイエスを見るだろう。だが、数学者が死ぬときには、非宗教的に訓練されてきているその心は、その最期のときに数学的な公式しか見ないかもしれない。それはゼロの象徴かもしれな いし、逆に無限大の象徴かもしれない。だが、いずれにしても、イエスや仏陀ではない。

また、ピカソのような人が死ぬとき、その最期の瞬間に見るものは、ただの抽象的な色彩の流れかもしれない。彼にとってはそれが神なのだ。彼には神性をほかのかたちでとらえることはできない。

 

だから、心の終焉は象徴の終焉だ。そして、その最期のときには 心は自分が知っている象徴のなかでも最も重要なものを使う。そのあとは心がなくなるから象徴もなくなる。

それが、仏陀もマハヴィーラも象徴について語らなかった理由のひとつだ。彼らは、象徴はすべて〈光明〉より低いものだから語るのはむだだ、そう言った。

仏陀は象徴について語ろうとはしなかった。そのために、彼は、彼に尋ねてはならない質問が11あると言った。何びとといえどもその11の質問をしてはならないと言明されたのだ。そして、その11 の質問を尋ねてはならない理由は、それらの質問がほんとうのところは解答できないもの、隠喩を使わなければならないものだったからだ。

仏陀はよくこう言っていた、

「私はどんな隠喩も用いたくない。だが、あなたが尋ねても私が答えなければ、あなたはいい気持ちがしないだろう。それでは紳士的ではないし、失礼だろう。だから、どうかこの11の質問はしないで ほしい。もしそれを答えれば礼儀正しくはあるだろうけれど、真実ではない。だから、私を板ばさみにしないでほしい。〈真理〉に関するかぎり、私は象徴は使えない。私は象徴を非真理のおおよそ、あるい 真理のおおよそをつかむことにしか使えない。」

 

そういうわけで、どんな隠喩もどんなヴィジョンも使おうとしない人たちがいる。そういう人たちはあらゆるものを否定する。 心によってとらえられた真理は〈光明〉そのものではありえないからだ。これらは二つの別のものだ。心がとらえたものは、心が消え去るとき、ともに消える。そのときにはそこに〈光明〉がある。だが、それは心なしにそこにある。

だから、光明を得ている人には心はない。

<無心>の人だ。その人は生きている。ただしどんな概念もなしにだ。その人は行為する、ただしそれについては何も考えない。 その人は愛する、ただし愛という観念などないままに愛する。その人は呼吸する、ただしどんな瞑想もないままに――。だから、生 きることは瞬間から瞬間へとであり、〈全体〉とひとつになっている。が、そのあいだに心は介在しない。心は分裂をまねく。だが、いまでは分裂はない。』

(上掲書P177-178から引用)

 

この『瞑想-祝祭の芸術/メルクマール』が出たのは社会人になってまもない頃だったろうか、OSHOバグワン本と言えば、存在の詩、究極の旅(十牛図)とこの本くらいしかない時代だった。

 

今ならOSHOバグワン本なら、奇跡の探求Ⅰ・Ⅱと秘教の心理学を真っ先に挙げる。OSHOバグワンはなんだかんだ言ってもクンダリーニ・ヨーガのオーソリティなのだ。彼の無数の膨大な試行錯誤と体験が彼の本当にどうでもよさそうな本の片隅にも置かれていることがある。96台のロールスロイスに騙されない人は、そういう貴重な片言隻句を評価できるだろう。映画ワイルド・ワイルド・カントリーとかOSHO:アメリカへの道に幻惑されてはいけないのだ。

 

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大衆は何かに頼りたがるが真理は自分一人でしか捜せない

2023-07-14 06:34:02 | アヴァターラ神のまにまに

◎つゆくさも朝顔も自分から美しいと自己主張しない

 

道元は、『花は愛惜に散り、草は棄嫌に生(お)ふるのみなり』(花は人に惜しまれつつ散るが、雑草は嫌がられつつ生える。)と言った。

これは、真理はあえかで、デリケートで、はかないものであるのに対し、嘘は無神経で乱暴に根強く氾濫拡大するものだという譬えでもある。なぜ真理は、この1対多のSNSの盛んな時代にあってすら、広範に伝播されにくいのか。

 

戦後は、ファシズムもナチスも共産主義も国家神道も、大衆扇動をうまくやったから第二次世界大戦と共産主義大国が発生したということがよく語られた。なぜ宣伝・扇動がうまくいったかと言えば、大衆・群衆は個であることを望まず、一人で自立することをせず、何かに帰属することを依然として欲望しているからだ。これまでは、王や独裁者・為政者などの世俗権力と既成宗教という精神権威に黙って従えば、大衆・群衆は、「自分は誰か?」ということは考える必要がなく、安心して暮らすことができていた。

ところが20世紀になって、高等教育の普及、知性の発達、そして21世紀SNSの登場によって、いよいよ人は、既成の押し付けの権威・権力の正統性が根拠のないものであることに気づき、自分一人で外的な所与の定義に頼らずアイデンティティを確立せざるを得ないことに気がついている。だが確かなものは何もないので、相変わらずほとんどの人が、何か頼れる所与の権威・権力・理論がないか外を捜しまわっている。

本当に確かなものは外にはなく、冥想により内に求めるしかないが、冥想(瞑想)はさほどブームになっているともいえない。

こうなっている理由は、以上のような大衆・群衆の何かに頼りたい、従いたいという姿勢の他に、真理は謙虚に小声でささやかれるだけであるが、嘘は大声で繰り返し語られるからということがある。

いまやナチスや共産主義だけでなく、コマーシャルもカルトも、ある嘘情報を何度も繰り返せば、人は無意識にそれを信じるようになるという法則を活用しまくっている。だからPCやスマホ画面には無用の宣伝が出続ける。

一方、本当に知っている人は、それを言葉で表現できないので、真理を語らないか、『おそらく○○、たぶん○○』と言うか、一輪の花を見せるかくらいのものだ。

老子は、道を「知る者は言わず、言うものは知らず。」と言ったが、状況は21世紀の現代に至っても何も変わっちゃいない。

 

以上まとめると、真理に気づかないといけないと内心わかっているほとんどの人は、依然として、外に信じれらるもの頼れるものを捜しているが見つからない中途半端な神経症(ちょっとノイローゼ)の状態にある。だがそうした人は、再びファシズムやナチスや共産主義のようなマインドコントロールの犠牲となり、奴隷となる危険性を孕む。

だが、それは大衆・群衆の属性が原因であるだけでなく、真理そのものが、一律・繰り返しのワンパターン宣伝に適していないという性質にも起因する。真理そのものは、その人のためのその人仕様のユニークなテーラーメイドで一回きりしかありえないからである。

 

夏は、道端のつゆくさや朝顔に感じいることが多かった。それは、自分から美しいだろうと自己主張して来ない。真理、神、仏、道(タオ)は、そのように謙虚で、謙譲で、すぐこわされやすく、はかないものだ。

だが、それを得ることができれば、人は頼ったり信じたりできる指導者なしに、自分の足で立つことができる。それで初めて、先入観、固定観念なく、執着せず、どの組織にも帰属しないで一人で生きられる。

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この世のテーマ

2023-06-10 06:46:40 | アヴァターラ神のまにまに

◎霊感にはまらないことと「愛、ニルヴァーナ、永遠」

 

ダンテス・ダイジがこの世のテーマについて語る。

※ダン:ダンテス・ダイジのこと。

※渡辺:弟子の一人

 

『渡辺「この世が無常だということと、神の世界が瞬々刻々移り変わるということとはどう違うの?」

 

ダン「テーマがあるんだ。この世のテーマというのは何かというと、テーマのないテーマ。この世のテーマというのは欲望のテーマなんだ。一つの天気があるでしょ。そのいい天気が来たら、それを固定しようとするんだ。それがこの世のドラマなんだ。

 

この世の人類の歴史というのは、全ていい天気だけを固定しようとした努力なんだ。いい天気だけ固定することなんか人間にはできないんだよ。絶対に。

 

それと同じように悪い天気というのも固定できないんだよ。永遠に雨が降ってる国なんてどこにもないのさ。」

 

渡辺「例えば、アトランティスに全盛期があって、それがやがて滅び去ろうとした時にダンは再び出ていったわけでしょ? それはいい天気を固定しようとしたんじゃないわけ?」

 

ダン「うん、固定しようとしたんじゃなくて、本当にいい天気ということは、さっき言ったハッピーということは、天気を越えた空なんだ。それを忘れないでほしい。それが預言者なんだ。君達なんだ。君達の中にいる。

 

海は荒れたり、ものすごく静かになったりするよ。彼は出ては消え、出ては消え、それを無限に繰り返すよ。でも、海そのもの、それは常に実在している。空そのもの、それは常に君達の頭上にあるんだ。それが君達の中の預言者なんだ。

 

そしてね、天国の風景というのは、言うなれば、空のテーマというのは愛なんだ。愛というテーマの中で織りなされる 無常なんだ。一つのドラマが演じ終わるでしょ。すると次のドラマができる。そういうのが、霊界、天界の姿なんだ。

 

そして、天界というものを釈迦があまり語りたくなかったのは、霊感の方に人間が偏ることを嫌ったからなんだ。そして彼が言ったのは、ニルヴァーナなんだけど、ニルヴァーナというのは、言ってみれば、ドラマはいいから抜きにして、とにかく愛がある、空がある、海が永遠にあるということ。

 

言っておくけど、この地上の空や海というのは永遠じゃないよ。ただ比喩として言ってるだけだからね。この空も、この海も、この大地も必ず終わる時が来るよ。だけど、それをあらしめているもの、それをあらしめている空、それは永遠だ。」』

(十三番目の冥想 雨宮第慈講話録/渡辺郁夫編P73-74から引用)

 

この会話を文字に落としてくれたので、ダンテス・ダイジは、愛、ニルヴァーナ、永遠を同義で使っていることがわかる。

後に七チャクラあるいは七つの次元に七属性があり、その一つが愛だと説明しているので、ニルヴァーナの属性の一つを愛としているのを見れば、ここで何を言っているかがわかる。

またニルヴァーナは時間のない世界のことなので、永遠とも表現されることがある。

 

また『天界というものを釈迦があまり語りたくなかったのは、霊感の方に人間が偏ることを嫌ったから』とさらっと説明しているが、霊感にはまると際限がなくなり、なかなかニルヴァーナにたどり着かなくなるから。

 

禅で頓悟、漸悟などというが、霊感にはまるのは漸悟である広義のクンダリーニ・ヨーガ的行き方であり、冥想修行者は一生を費やしても結局わからなくて終わることになりがちなことがある。

 

世の中の宗教シーン、スピリチュアル・シーンでは高次元、高次というのが大流行だが、その考え方で進むと玉ねぎの皮むきのようになかなか探求に終わりが見えないまま沼(はま)って一生を終わる懸念がある。

 

ダンテス・ダイジの人類史観でいえば、既に人類はアトランティスの最盛期に霊能力・霊感万能の時代を経てその文明が滅亡を見ており、再度この時代に繰り返す必要はない。そのことは、釈迦も承知していた。

 

この回答の冒頭に『この世のテーマというのは何かというと、テーマのないテーマ。』などといきなり出しているが、これもわかりにくい。そしてその説明は、人は欲望実現した場合、その永続を期待するがそうはならないということと、逆に人には欲望実現しなくともいつか実現する時節があるものだという意味をもにおわせている。

 

そういうあまりにも覚者としての常識と日常感覚を平気でふんだんに盛り込んだ説明を面前で聞いた場合、半分も理解できないだろうという印象は、その会話の文字起こしを今読んでも変わらない。

 

受験勉強だけメインにやってきた大学生に、そうした求道方面の正しいガイダンスは、今でもほとんどなく、正体を隠したカルトやスピリチュアル詐欺師につけこまれる土壌は今でも変わらないのではないか。

 

スケベ心あるいは、余計な期待はせず、本物を求める情熱を持って探求し続ける人だけが最後まで行きつくということは、今でも変わらないのではないか。

 

道教の魏伯陽は自分が死んでみせて、スケベ心のある弟子を排除した故事がある。

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万世一系から地上天国へ

2023-05-25 06:42:37 | アヴァターラ神のまにまに

◎言ってはいけないし、言わないと判らないし

 

出口王仁三郎が、神の顕現である万世一系が日本だけから世界全体に広がることを言う。

 

『○経と緯の万世一系

 

天皇は天御中主神の顕現であって、名前が万世一系だ。今までは経(たて)ばかりの万世一系ばかりであったが、これから緯(よこ)の万世一系を拵えて朝鮮、支那というふうにして世界十字に踏みならすのだ。お筆先のことを開祖と自分(王仁)のことのみにとっているのは小さい事で、実はこの事である。

 

火は経であって日本は今まで経で来たのである。火だけではいかぬから緯をつくるのだ。言うてはいかぬし、言わな判らぬし、それで困るのだ。 この事は今までに書いていない。

(昭和十八年)

 

〇天皇

明治天皇・・・・・・天皇と申し上げるのはおくり名であって時代のことである。天皇は御名はないのである。

(昭和十八年)』

(新月の光 (下巻)/木庭次守/八幡書店P92-93から引用)

 

天御中主神の顕現という人間は、以前は社会組織の頂点に一人しか置かなかったが、万人が神知る地上天国の時代にあっては、各国にそれぞれ存在することになることを予言する。

 

天御中主神の顕現という人間のことをアヴァターラ、神人というが、君主として居るのではなく、友人として居る。

 

火は経(たて)で、水は緯(よこ)。火は経(たて)というのは、組織宗教トップの神人が火は経(たて)であって、トース型。一般民草の中に一友人としている神人が水は緯(よこ)であって、ダンテス型。

 

こういうのがトースとダンテスの合体の密意の一つなのだろう。

言ってはいけないとは、現今の社会秩序や将来の世界武装解除に悪影響があるからなのだろう。

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自分で自分を審神(さにわ)する

2023-05-06 06:42:51 | アヴァターラ神のまにまに

◎自己審神者、サビアンの審神

 

出口王仁三郎は、自分で自分を審神していた。これを自己審神者と言い、前例として和気清麻呂を挙げている。

 

さて弓削道鏡は、宇佐八幡大神の霊言だとして『道鏡をして天皇の後継者とすれば、天下は永遠無窮に太平であるだろう。』と天皇に奏上した。

孝謙天皇は、寵愛の道鏡と雖も、事はあまりに重大であるので、和気清麿に宇佐大神の霊言を再度降ろして確認すべきことを求めた。

清麿は、直ちに宇佐八幡に詣でて、神懸したところ、大神はたちまち清麿に神懸してつぶさに教えて下さった。

 

清麿は、『只今の大神のお言葉は、国家の一大事にて、にわかには信じ難しいものがあります。願わくは神異を示してその真偽を決めさせて下さい。』と、自己審神者の神術を修した。

 

すると大神は忽然として神形をご顕示してくださった。その身長三丈に余り、光輝満月のようであった。神勅に曰く。

『我が国家開闢以来君臣の大義明分定まって、未だ臣を以て君と為したり、君を以て臣と為した事なく、天津日継は必ず皇緒を立てなさい。道鏡の暴虐はもとより天地に容れざるの大罪である。宜しく速みやかに処断しなさい。道鏡を怖れる勿れ、吾は必ず相たすけよう云々。』

 

一般には、神霊に憑依されているよりまし・霊媒は、トランスに入っているから自意識がないので、憑依中に何が起こったのか記憶がないという説明がされる。

 

これは、思いつきだが、表層意識を神霊に憑依されている場合、よりまし・霊媒は、何が起こっているのかを自覚できないという状態は、例の熟眠中に夢を見ている人のように熟眠中という表層意識が眠っている状態のことなのではないかと思う。

 

その流れで、熟眠中に夢を見ないレベルの人は、表層意識が眠っている状態でも潜在意識を覚醒させていられるということではあるまいか。

 

「熟眠中に夢を見ない」というのは、アメリカの覚者ケン・ウィルバーですら見性後何年も達成に時間がかかったという代物。

 

孝謙天皇(称徳天皇)の時代、天津日継は必ず皇緒を立てなさいということを守ったが、その後については諸説あるようだ。

 

さて、サビアンの360のシンボルは、アメリカのサンジエゴで霊能者ミス・エルシー・ウィーラーが、マーク・エドムンド・ジョーンズの立ち合いの下に自動書記したようだ。ジョーンズが、審神者たりえたかどうか、つまり悟りを開いていたのかどうかということが問題となるが、それはわからない。ジョーンズは、牧師にして脚本家であり占星術者ではあった。

 

およそ占いは、何かをきっかけに自分をのぞき込むというものであって、そのきっかけが、おみくじだったり、筮竹だったり、タロット・カードだったり、サビアン・シンボルだったりする。きっかけだから何でもよいということでもなく、言霊とかバイブレーションというものは、最後まで影響してくるものだから、何をきっかけにするかは、慎重であるべきだと思う。

 

何年か前に京都高尾の神護寺のわきの山に和気清麻呂の墓があることに気づいたが、既に夕方なので、詣でることをあきらめたのが今でも気にかかっている。和気清麻呂の悟境は、世間で思われている以上のものだったと思う。

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熟眠中に夢も見ない悟った人

2023-04-09 06:06:54 | アヴァターラ神のまにまに

◎無意識の部分が意識化される

 

悟った人でも、熟眠中に夢も見ないのが真に悟った人。なぜ夢を見ないかについて、OSHOバグワンが説明しているが、要点は以下。

 

  1. 悟っていない人では、日中に未完結だった行為は夢の中において完結される。一方悟った人は、常に今ここの行為に生きているから、未完結の行為はない。よって夢は見ない。悟った人は、昼に思考なく、夜には夢がない。

 

  1. 夢を見るには、眠りに入らなければいけないが、眠りに入ると無意識になり、夢が起こる。悟っていない人は、ともすれば一晩中眠りながら夢で頭を使っているものだから、起きたら疲れ果てていることすらある。

 

  1. 悟りとは、無意識の部分が意識化されること。悟った人は眠りに入っても無意識にならないから夢を見ない。

 

(以上参照:ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへ)OSHO P246-252)

 

さらにパタンジャリのヨーガ・スートラ1-10では、『深い睡眠とは、目覚めた状態も夢を見る状態も否定された心のはたらきである。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックス P ixから引用)

 

さらに禅の三祖の信心銘

「夢幻空華、何ぞ把捉に労せん。

得失是非、一時に放却す。

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。

心若し異ならざれば、万法一如なり。」

つまり、眼が眠らなくて、睡眠時も意識的であれば、自ずと夢は見なくなるのだ。

 

荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)とあり、睡眠時での想念不発生を展望している。

 

だが、実際のところ、アメリカの覚者ケン・ウィルバーも古代インドのインドラの師であるプラジャー・パティも悟ったと称してから夢をみないようになるまでは、相当期間の修行が必要だった。簡単ではないのだ。

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雲ひとつない空のような意識

2023-04-03 06:13:35 | アヴァターラ神のまにまに

◎達磨とOSHOバグワンの説明

 

6世紀南朝の梁は地方王朝だったが、武帝は中国の王侯には珍しく仏教崇拝者だった。仏教的に見れば、敬虔な仏弟子だったが、本当のところはわかってはいなかっただろう。

 

さて梁の武帝が達磨に対して、「最上の仏法とはどういうものか?」と問うた。

達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう)(秋空のようにからっとして聖なんてものは無い)」と答えた。

 

この回答が出てくるということは、梁の武帝は今生で悟るかどうかはわからないが、近い将来の転生で悟るであろう雰囲気があったのだろう。

 

そして達磨は秋の青空で例えたが、OSHOバグワンも同じような大空で例えている。

 

『もっとも内奥の中心では、あなたはただの意識だ。想念は雲のようなものだ。想念はあなたにやってくる―――だがあなたのものではない。想念はすべて外側からやってくる。あなたの内側ではひとつの想念も生まれない。想念はすべて外からやってくる。内側で想念を創り出すのは不可能だ。想念とは、あなたにやってくる雲のようなものだ。だから考えているときには、あなたは 内にいない。思考というのは、外にいるということだ。たとえ、思考の対象が内的なものであろうと、魂についてであろうと、自己についてであろうと、あなたは内にいない。

 

このような「自己」や、内的なものや、内側についての想念は、すべて外からきたものだ。あなたのものではない。あなたのものであるのは、ただ単純な意識だ―――雲ひとつない空のような意識だ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P174-175から引用)

 

本来の自分の意識が青空であって、そこに雲のような想念や思考が浮かぶ。神社に鎮座する鏡は本来の自分の意識のシンボルであるというのは、もっともなことである。鏡を青空にたとえている。

 

本来の自己とは、第六身体アートマンのことだが、アートマンは世界全体、宇宙全体であり、その相が雲ひとつない空のような意識であることを証明するには、自分自身が体験するしかないと思う。

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老子狂言の最終の詩

2023-01-13 06:49:49 | アヴァターラ神のまにまに

◎「タオしかないもんな」から藤井風

 

ネットで出回っているダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』は、最後の詩一篇が欠落している。

それは、これだ。

 

『この地上に

新しい言葉も

新しい象徴も

新しい論理も

あり得ない。

 

だが、タオだけは、

日々に新しい。

 

それは、

私には果てしない成長成熟のように

思われる。

 

1981年4月26日

如意第慈拝』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは、時間のない世界から書かれたものだから、『果てしない成長成熟』という言い回しになる。

タオにはすべてのすべてがあるから、新しいものはない。

如意第慈は、ダンテス・ダイジの別号の一つ。

 

また、タオという言葉は使っていないが、タオがわかるのが次の詩。

『これしかないもんだ

 

 

人も浮世も猫もシャクシも 

そんなものありゃせん 

これしかないもんな・・・

 

これしかないもんな・・・ 

そうゆうわけで

一切万物は 

恐ろしく恐ろしく

甘美で至福なる——— 

これしかないもんだ

 

苦しいより

楽しいほうがいいのは

もっともだけれど・・・

それを超えるというのは、もっといい

なにしろ これしかないもんな・・・』

(上掲書から引用)

 

『これしか』とは、タオのこと。

『恐ろしく恐ろしく

甘美で至福』は、実際に体験しないとわからない部分。

 

『苦しいより

楽しいほうがいいのは

もっともだけれど・・・

それを超える』とは、

天国と地獄の結婚を指すが、今この日本社会で、両性具有すなわち天国と地獄の結婚を表立って唱えても、ほとんど理解される環境にはない。

 

さて日本は、信仰、宗教は自由だが、2022年NHK紅白歌合戦をきっかけに藤井風は、週刊新潮で、サイババのモチーフを叩かれているという。

サイババはダメだが、日蓮法然親鸞空海最澄道元神道イエスならいいという理屈は立たないのではないか。

 

そういう世間の宗教理解の土壌で、特に「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」を語ってもせいぜいLGBTを連想される程度に終わってしまうのではないか。

いうなれば、万教同根、宗派なき冥想、宗教の終わりの根幹は、「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」にある。

「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」を超えてタオなのだ。

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