アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想の深浅高低-5

2022-12-14 19:56:35 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類-2

原始仏教の遊行経において、釈迦の前生の一つ、大善見王の物語の中に四禅の解説がある。

大善見王が人間としての幸福を得たので、次に天としての幸福を得る実践をしようとして冥想すると、
『そこでむさぼりと淫欲という悪不善について、じっくりと考えをめぐらし(そのような座禅の中で)覚と観がとあり、(欲望や悪を)離れることから、純粋な喜と楽とを生じて(そのような境地からなる)、第一禅(初禅)を獲得した。』
(阿含経を読む/青土社P799から引用)

※この中で「覚」と「観」は、いろいろな物事をあれこれ考える働きの中で、心の粗い働きを「覚」とし、細かい働きを「観」とよぶ。「喜」は喜び、「楽」は楽しみ、幸福感。

『(つぎには)その覚と観とをすっかり除いてなくし、心の中は浄らかなまことに満たされて、心の底からすっかりよろこび、うれしくて、しかもその心だけをひたすら見つめて統一し、こうして覚もなく、観もなくなり、禅定から喜と楽とを生じて、(そのような境地からなる)第二禅を獲得した。

(つぎには)その心にある喜を捨て去ってしまい、(心を)どこまでもしっかりと守り、ひたすら念(こころの思い)のみに集注して、散乱することがなく、自らの身体の楽をよく知り、賢聖の求めたところである「念をまもりつつ楽が実践される」という、(そのような境地から成る)第三禅を獲得した。

(つぎには)そこにもなお残っていた苦(不快)と楽(快)との両方をすっかり捨ててなくし、それよりもまえに、すでにこころの様々な憂いと喜とを除いてあって、こうして苦楽を超越した不苦不楽の境地に達し、そこでは念を守ることが浄らかであり、純粋そのものであって、(そのような境地から成る)第四禅を獲得した。』
(阿含経を読む(下)/青土社p799-800から引用)

全体としては、釈迦の前生である大善見王の、天としての幸福を実現するためには、第四禅の冥想をすることが必要であるという説明である。天とは仏教十界説の天(上から5番目)のことであり、最高の「仏」に至る冥想ではないのである。

この四禅の段階では、ちょっとスピリチュアルな冥想体験でよく出会う、楽しさ、うれしさ、平静さ、調和した感じなどが、冥想の深まりとともに純粋になっていく消息がうかがえる。

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