アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

黄初平

2024-01-31 06:25:17 | 道教neo

◎石を羊に変容させる

(2010-10-15)

 

黄初平は、神仙伝に出てくる仙人。15歳の時に羊飼いとなった。ある道士がその実直なのを見込んで浙江省の金華山に連れて行き、その石室で40年以上修行に入った。

その兄の初起が山で何年も初平を捜したが出会うことはなかった。後に市中で初平を知る道士に出会い、その道士の案内で、山にいた初平に出会うことができた。

初起が初平に、40年前の羊をどこへやったと問うと、山の東にいるという。初起が山の東を見たが、一頭の羊もいなかった。すると初平は、「いや、いますよ。お兄さんには見えなかっただけですよ。」と答え、「羊よ、立て。」と叱ると、山中の数万の白い石は、ことごとく羊に変じた。

 

この逸話では、現実は思うがままに変ずることができるものだと思わせるが、その我が思いこそが曲者として、その修行の前途に立ちはだかる。その我が思いは、引き寄せの法則とか、安直な願望実現プログラムをいくらやったとしても、清浄になるわけではない。

我が思いの純粋なところがどこにあるかは、確かに何回もの人生の繰り返しの後に直観できるものだろうが、それは迂遠でもある。日々それを持って生きるのには、日々の冥想という習慣は要るのではないか。

画像は、黄初平のその様子で、雪舟が、南宋時代の画家梁楷の作を模写したもの。

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荘子の覚醒までのステップ

2024-01-27 04:47:20 | 道教neo

◎独存、不死不生

(2021-04-18)

 

荘子大宗師篇から。

聖人になる素質のある人間を聖人に育ててみたいがどうすればよいかと、女偊(じょく(亻禹))に対し南伯子葵が問うたところ。

『そうなる希望が持てないにしろ、聖人の道を聖人の素質のある人間に説くのは楽だ。私は改めてその修行を行って彼に教えてやった。

 

わたしは修行三日目にこの世(天下)を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること七日目に物質を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること九日目に生を超越することができるようになった。既に生を超越したので、光明を得た(朝徹:朝日がぱっと照るように大悟する。)

光明を得て後に独存となった。

独存となれば、古今はなくなり(今ここだけとなる)、古今がなくなってその次に不死不生という死も区別がない世界に入る。』

 

この次に攖寧(えいねい)の話が続く。

七つの身体論、特に第六身体から第七身体への展開や十牛図を知らないと、天下を超えるとか、不死不生が死の側から窮めるということであるなどは想像もつかないのではないか。

『原文:吾猶守而告之,參日而後能外天下;已外天下矣,吾又守之,七日而後能外物;已外物矣,吾又守之,九日而後能外生;已外生矣,而後能朝徹;朝徹,而後能見獨;見獨,而後能無古今;無古今,而後能入於不死不生。』

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機心

2024-01-26 04:50:59 | 道教neo

◎便利は危険

(2016-08-12)

 

機心は、荘子外篇の天地第十二に出てくる。

機械を使うと必ず機械に頼る仕事が増える。そうすると機会の便利さに慣れ、人間は注意を常に外に向け、本質ではない利害得失、メリット・デメリットばかり追うようになる。これが機心。

こうしてエネルギーと時間は節約され、本来でいえば、冥想によりそれを人間の内側に向けるべきものだが、逆にもっとエネルギーと時間を使わずに努力をせずに効果を得ることばかり考えがちになるものである。

現代人の日常生活では、機械ばかり使っているから、機心なき人はまずいないが、そこで人為的に冥想タイムを作り、心の純白を感得せねばならない。荘子では、更に、機心あれば、精神が定まらず、道はないとする。

 

『機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり。』

 

昨今世の中に狂人が多いのも、機心だらけのライフ・スタイルのせいか。

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社会的成功ほど失敗する

2024-01-25 04:52:28 | 道教neo

◎人生の安物買い

(2016-07-21)

 

この貧富の差が大きく、子供の貧困6割、非正規就業4割の下層が半数を占める時代に無用こそ真の用であることを理解させるのはなかなかむずかしい。千利休らが茶道具の値をつり上げて高く見せたのは、畢竟失敗だった。天下人秀吉に侘び数寄の無用の用を見せたのは、大成功だったが、後継者たちは軒並み茶道具の値の高さに目を奪われたきらいがある。

 

久松真一が茶道の徳を格調高く説明してみせたが、そんなに綺麗に説明できるものなら、世の中の茶の湯者はもっと増えていよう。

 

前世に荘子だったOSHOバグワンが荘子を語る。

 

『まわりを見まわしてごらん

成功した人々を見てみるがいい

政治家やら財産家、大実業家たちを

彼らにはどんなことが起こっているね?

彼らの所有している物を見るんじゃない

彼らそのものを直接見なさい

 

なぜなら物を見てしまったら欺かれる

物は胃カイヨウにならないし

車は心ぞう発作にもおそわれない

邸宅は入院することもない

 

だから物を見てはならない

見たらだまされる

人を見なさい

 

あらゆる所有物を取り除いたあとの

その人そのものを直接見るがいい

そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう

そうなったら乞食でさえ金持に見える

そうなったら、〈生〉に関するかぎり

貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

 

成功は失敗する

成功ほど失敗するものはほかにない

なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ

あらゆるものをつかまえそこなうからだ

 

成功する人は実際安物買いをする

ニセ物のために本物を投げ捨て

浜辺にころがる色のついた小石のために

内なるダイヤモンドを捨ててしまう

小石を集めてダイヤモンドを失うのだ

金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

 

だが、あなたがたは野心の眼で見るから

所有している物のほうを見る

政治家を見ないでその地位を見る

その大臣職を、その権力を見る

 

あなたはそこに坐っているまったく無力な

すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない

歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・

彼は権力を買った

が、その買物のなかで自分を失った

そしてそれはすべて安物買いなのだ』

(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)

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黄帝が広成子のアドバイスを受ける

2024-01-24 04:49:31 | 道教neo

◎至道の精、窈窈冥冥たり

(2015-09-08)

 

荘子の在宥篇から。

帝王である黄帝が引退し、師匠の広成子に会ってアドバイスを受けるために、個室を作り白茅を敷き、そこで3か月間精進潔斎した。そこで、再度広成子に質問をした。「どうすれば、長久たり得るでしょうか」と。

 

すると広成子は、以下のようにアドバイスした。

 

「至道の精、窈窈冥冥たり

至道の極、昏昏黙黙たり

視ること無く 聴くこと無く

神を抱きて以て静ならば、形将(まさ)に自ら正しからんとす」

 

至道の精は、奥深くぼんやりしている

至道の極は、ひっそりとして暗く静かである

見るでもなく、聞くでもなく

神を抱いて、静ならば、その肉体は、自ずから正しく矯正していくものだ。

 

静であって清であって、自分の肉体を労することなく、自分の精神を動揺させることがなければ、長生できよう。

 

目に見るところなく、耳に聞くところなく、心に知るところなければ、自分の精神は肉体を守ろうとするだろう。そこで肉体は長生するのだ。

 

上記の「目に見るところなく、耳に聞くところなく、心に知るところがない」とは感覚刺激を超えてはいるし、想念も停止している。想念停止とは、時間のない世界であるから、ここで云う長生とは、老人になって長生きすることを指すのではない。永遠に生きることを言っているように思う。

 

肉体の話にしないと、とっかかりがないからね。

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至人は己れなく、神人は功なく、聖人は名なし

2024-01-23 04:46:41 | 道教neo

◎荘子とOSHOバグワン

(2017-09-09)

 

荘子の逍遥遊篇から。

 

『若し夫(そ)れ天地の正に乗じて六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且(は)た悪(いずく)にか待たんとするや。

 

 故に曰わく、「至人は己れなく、神人は功(いさおし)なく、聖人は名なし」と。』

 

※六気:天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。または、寒・暑・燥・湿・風・火。

 

大意:

『もし天意を体して、六気により世界をコントロールし、無窮に遊ぶ者は、もはや何を頼みとすることがあろうか。

 

至人は、ニルヴァーナを承知しつつ生きるので己れなく、神人は天意神意を生きるので功(いさおし)なく、聖人はなにもかもないところに生きるので名がない。』

 

荘子はクンダリーニ・ヨーガの奥義体得者であるので、世界の気によるコントロールなどという表現がある。

 

OSHOバグワンは、自らの前世は、古代のチベット僧などととぼけているが、ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンの前世は、荘子であるとみている。

 

荘子は、全般に弟子たちの面倒を親身にみてやろうという姿勢が薄く、自らあちこち逍遥して遊びまくってはいるが憂き世の俗人の苦悩の解決にはあまり真剣とはいえないところがある。

 

こうしたところは、OSHOバグワンがプーナとオレゴンにコミューンを作りながら、あまりその経営に熱心とは言えなかった風であるところに共通点を感じさせられる。

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孔元方

2023-04-13 06:32:35 | 道教neo

◎道を伝授する相手を何十年も待つ

(2020-11-05)

 

孔元方は許昌の人。百歳になっていたが、茯苓などを服用していたため40代くらいにしか見えなかった。ある時大勢で酒を飲む機会があったが、彼は杖を立てて片手で杖を握って、身を翻して宙に逆立ちをしたまま反対の手で杯をとって酒を飲んで周囲の人を大いに驚かせた。

 

また、孔元方は寡欲であって、妻子もあったが、金品を貯蓄することもなく、彼の失火で自宅が火事になった時も、消火もせず、家財を持ち出す手助けもせず、垣の下にうずくまって見ていただけだった。

 

彼は、ある河のほとりに土窟を掘って、そこで3か月ほど断食を続け、その後自宅に帰っていった。土窟の前には柏の木が生えていた上に、雑草が茂って入り口を隠していたので、世間の人は土窟の存在を知らなかった。彼の弟子でも彼を捜しに行っても土窟を見つけられず空しく帰っていったそうだ。

 

さてここに仙道好きの憑遇少年がいて、何とかして孔元方に会ってみたいものだと思い、一生懸命に探したところ、かの土窟を見つけることができた。孔元方は、ここを見つけるだけでもよくよくの仙縁があることだと高く評価し、道の秘訣が書いてある素書二巻を授け、心して読むようにと語った。

 

さらに、この40年後になったら他人に道を授けてもよい。ただし、40年たったからといって誰にでも道を授けてもよいわけではない。その時に道を授けるのにふさわしい人物に遇わなければ、授けてはならない。その場合、80年目に二人の人物に同時に出会うことがあるだろう。

 

一体、授けるべき仙縁のある者にあっても惜しんで授けない場合、これを天道を閉じるといい、一方授けるべきでない人間に妄りに授けるのを天道を泄らすといって、その罪は子々孫々まで及ぶ。これをわきまえて決して誤るようなことをするな。自分のお役目はこれで済んだから、これから仙界に帰ると言って西岳に登っていった。

 

覚者は、その得た道を後継者に引き継がない限りは、生き続けなければならないの法則は、禅などとも同じ。伝授する相手は、金を見返りにするのでもなく、入門して何年たったからでもなく、義理のある筋から頼まれたからでもない。準備ができた者、それを受けるにふさわしく成熟した者だけが相手となる。

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先祖供養の実相

2023-02-08 21:21:57 | 道教neo

◎救霊の至難事

(2012-10-09)

 

釈迦前生譚には、釈迦自身が前世で鹿であったり、猿であったり、およそ昨今の四民平等な人間感覚からは遠いことが延々と述べられている。人間は死ぬと人間に生まれ変わる保証はないのだと。自分の都合だけ考えて地獄的に生きれば地獄で苦しむし、若い身そらで日がなエロばかり考えれば、エロに対応した動物となって転生するだろう。

 

チベット密教のチベット死者の書では、人は死ぬと中有に入り、後に転生のための子宮を自ら選びとるシーンが克明に描かれているが、それが人間の子宮に限るなんてギャランティーは出していない。秋の夜寒に鳴くこおろぎかもしれず、波間の岩に密集するフナムシとして転生することすらあるのだ。

 

霊能力などない人が先祖供養とか、天国とか地獄を考える際に、この70億人の人間は、死んだら人間に転生するのだろうかということである。

 

よく前世記憶の話が出るが不思議に人間の転生ばかり語るものであって、地獄だったり、天人だったり、虫だったり、犬だったり、猪だった転生のことは語られないものである。そうした前世記憶って信用できるものなのだろうか。要するに人間の転生を何回も繰り返す前世記憶って、世界人口が70億に膨らんだ現在の魂の過去と行く末を考えてみても極めてレアケースであって一般的なものではないのではないかと思うのである。

 

この辺に詳しい道者笹目秀和が「救霊の至難事」という一節で語っているのだが、水に溺れ火に焼かれて死する者は、死後完全に精霊をもって霊界に移り住むことはできないと説明している。なんと砕霊といって、アストラル体かなんかなんだろうがそれがばらばらにされて一片は蚊となり一片は蠅・虻・蜂、一片は砂虫か蟹のようなものになるという。

 

彼も言うのだが、このように虻蜂のようになってしまった者に対して百万遍の読経を試みても何の功徳なしという。他宗派では、砕霊を再生する手法はないが、道教では、砕霊を集めて元の一個の精霊に再生する手法があるというが、なまなかにできる供養ではない。

 

しかし本気で先祖供養するとすれば、そこまでやるのが徹底した供養というものだろうと思う。昨今の新興宗教の先祖供養でそんなことまでやっているのはないのではないか。

 

砕霊というのは、生きる者の日常感覚からすればとても残酷なものだが、笹目秀和氏は、冷たいようだが、これは天の法則を語ったに過ぎないとする。

 

まずは日々の積善と冥想を。

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朱橘

2023-01-24 20:30:58 | 道教neo

◎屍解

(2020-12-03)

 

朱橘は、淮南の人で翠陽と号す。彼の母が孕む時に大きさが斗ほどの一つの星が天上から飛んで口に入ると夢を見た。妊娠末期、なかなか生まれなかったところ、門前に一人の道士が来て、橘の実を与え、これを食べれば腹の中の子が直ちに産まれるであろうと告げ、母が食べると果たして直ちに生まれた。

 

朱橘はひたすら仙道修行にいそしみ、世の名利を厭い、風清き夕暮れなども一人池水の畔にたたずんで、葆光抱一の道の玄妙にして、服気飡霞が長寿を得る手段であることを悟った。

 

ある日一道人がやってきて、手に橘の実を持って、次のように歌った。

橘々識(し)る人無し 惟だ朱を姓とする人がある

まさにこの端的を知る

 

この道人の様子がいかにも気狂いじみていたので、人々は皆彼を指してあざ笑い、誰一人この歌に注意を払わなかったが、朱橘だけは、これが自分のことだと知って大いに喜んで、彼の後について行った。村はずれの野原に出たところで、朱橘は道人に『貴殿は鞠君子という名の真人ではないか』と尋ねると、道人は、その通りだと答え、皖公山に行って仙道を修行するようにと勧めるとそのまま雲に乗って昇天していった。

 

朱橘は、言いつけどおり皖公山(安徽省懐寧県。隋代、禅の三祖僧さんもここに棲んだ)で修行を重ねた。一日に一回小ぎれいな一人の小童が出て来て朱橘の門前にある池水で手を洗っていたが、その動作が極めて軽快で、ひらりひらりと往来する姿が丁度何か物の影が揺らめく様であった。

 

近所の人がこれを訝しんで密かに小童の後をつけると、彼は朱橘の家の中へ入って行ったので、室の中を覗いてみると、室の真ん中に朱橘が端然と坐っていただけだった。件の小童は、朱橘の出神だったのだと悟り、近所の人は彼を尊敬するようになった。

 

宋の理宗皇帝の淳祐二年、朱橘は、郷人の陳六に対し、自分は県庁の官舎の前で仙化するので、その際身体を清い土で上から覆ってくれと頼んだ。

やがてその日になって、朱橘の遺骸を陳六が泥で覆った。するとそこに酔っ払った警官がやってきて、その遺骸を見て大いに笑い、杖でもってこれを突き崩し、ぐしゃぐしゃにした。すると泥土は四方へ散ったが、朱橘の遺骸は見当たらず消え失せていた。

 

これは、全然長寿ではない。小童と見える出神はいかにも大きい。今生の修行だけで出来たものだろうか。

 

屍解を公表、公開するというのは、そのような狙いのあるもの。見聞した人は、いつかの来世でチャレンジするようなこともあるのだろう。

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孫不二の屍解

2023-01-24 20:25:46 | 道教neo

◎あるスーパー女性道士

(2017-11-22)

 

孫不二は、金代の女性道士。全真教の開祖王重陽には、七真と呼ばれる七大弟子がいるが、孫不二はその中で唯一の女性。七大弟子の一人馬丹陽の第二夫人だったので、『二』の字があるという。

 

彼女は、洛陽のそばの鳳仙姑洞という洞窟に住み、髪はぼうぼうで、時に気ちがいじみた行動をとったが、既に内丹を極め、すべての竅(チャクラ)を開放し、弟子もいた。

 

1182年12月29日彼女は、自らの死期を悟り、斎戒沐浴し、遺偈を歌った後、蓮華座に座り、太陽が天頂に達したことを確認して後、屍解したという。

 

弟子にしてかくの如し。

 

屍解したのに棺があったのは、禅僧普化と同じ。日本では、火定はあるが、屍解は聞かないが、それは日本人の民族性の問題なのか、風土の問題なのか、いずれにしても理由のあることと思う。

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人体に関する多次元モデル

2023-01-10 17:04:27 | 道教neo

◎七つの身体モデルへ

 

道教の内経図は、道教関連文書を漁れば、見たことがあるに違いない。wikipedia

 

内系図で、エーテル体相当は、水の部分で、アストラル体相当は、火の部分。

その伝でいけば、肉体は土(地)であるべきだが、土を牛を引いて耕している部分もあるものの、最下部には、坎水(川・海)が置いてある。坎水は個的ボディの表現ではあるまい。

 

最上部に泥丸(サハスラーラ・チャクラ)が置いてあって、これはボディでなくて、チャクラ。他に任脈、督脈も書き込まれていて、何でもてんこ盛りの図であって、そのまま想像をめぐらすと、とんでもない世界観になりそうな図である。

 

ただし、鍼灸関係の本では、必ず経絡図が置いてあって、ほとんど神経と重なるので、肉体レベルのことだと信じてそれから先へは想像が進まないことが多いのかもしれないが、経絡こそエーテル体の形状に近い。

 

エーテル体は気のレベル。冥想での様々な座法は、気のレベルでのエネルギー流出と発散をコントロールすることは、OSHOバグワンもちらりちらりと指摘する。

 

曰く、半眼では気の流出は止まる、閉眼・開眼は気が流出する。結跏趺坐、パドマ・アーサナは気の流出を防ぐポスチャー、云々。

 

これだけ各駅前にヨーガ・スタジオのある時代なのだから、肉体+エーテル+アストラル体の個的ボディ・モデルをエネルギー(心的、気、アストラル)の流路も含めて誰か描いて見せてほしいものだ。それには必ずニルヴァーナも描かないと。

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気の充実と狙い

2023-01-10 17:00:27 | 道教neo

◎年齢に応じた冥想の準備

 

道教の霊枢経本神篇第八では、「肝気が虚になると恐れ、実になると怒る。心気が虚になると悲しみ、実になると笑ってやまない」という。

 

※道教では五臓(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)にそれぞれ、怒、喜、思、憂、恐が配当される。

 

それぞれのシンボリックな臓器には気が充実している時と不足している時があるので、「肝気が虚になると恐れ、実になると怒る。心気が虚になると悲しみ、実になると笑ってやまない」と言われてみると思い当たることもある。

 

そこで、道教冥想修行者は、閉気でもって気を外に濫費しないことで気の充実を図り、充実させたその気を行気、導引などで肉体の健康を回復するようなこともでき、また体外への出神もする。

 

その結果の一例として彭祖の長命も実現したのだが、サンジェルマンやババジや崑崙山の仙人のように何か目的があって長命を狙うのは特殊なことであって、通例聖者たちには、寿命の短いことを嘆く人はいないので、気の充実の本来の目的は、長命ではなく羽化昇仙の方である。

 

それにしても中高年になると肉体の衰えは気の衰えに直結するので、柔軟体操やジョギング、ウォーキングなどだけでなく、閉気や呼吸法など気を充実させる技を平素から積極的にやらないとvividには生きられないと思う。そこは若い頃とは違うし、おのずとルーティーンは増えてしまう。

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99パーセントは、ロボット、もしくはブタ

2023-01-10 06:37:04 | 道教neo

◎本物のブタ

 

自分がブタ小屋から出たブタであることは知らぬが花。だがブタであることに気づいたら本物のブタになるしかない。

 

ダンテス・ダイジの未刊行の老子狂言の最後から2番目の詩を引用。

 

『格言5

 

知らぬが花なのよ、

少なくともブタ達にとっては。

言い古された言葉だが、

民主主義も共産主義も、

衆愚政治に他ならない。

不幸は、

ブタをブタ小屋から出したところから始まる。

現在の人間進化のステップでは、

99パーセントは、ロボット、もしくはブタである。

現文明の崩壊は、とっくの昔に始まっている。

そして、それは逃げるすべのない宇宙的テストでは、あるのだが・・・

 

ところで、ブタが本当にブタであり、

ロボットが本当にロボットなら、

それはそれで素敵だ。

賢者といい聖者といい超人というも、

結局、本物のブタでありロボットであることに違いはない。

老子よ、あなたは何という俗物なのか!

他のありとあらゆる者と同じように。

 

産まれて生きて死ぬというのに、

君は

この上、何を問題だというのかね?』

 

自由な石屋さんものを読むと、現代の大衆は、洗脳された奴隷だったり、マインド・コントロールされた子羊であるというように描かれている。

 

誤解を恐れずに言えば、洗脳される側と洗脳する側とに大した違いはない。

 

どうして自分はブタ小屋から出てしまったのだろうか。どうしてアダムとイブは楽園から追放されてしまったのか。

 

この時代は、人を効率的にブタにするシステムが発達、完備していて、ブタ王なるマスコミが四六時中提供するニュースに、民主主義的なあるいは共産主義的な教育カリキュラム、個人の人権を先験的に認める神なき私権擁護の法体系、そして人間とは肉体人間であるという大前提を疑わない現代科学と、あらゆるブタをブタ小屋の外の柵から逃さない工夫がこらされている。

 

最近は、世界中ほとんどの人がスマホを持って移動するようになり、スマホこそは窮極のブタ管理マシーンである。スマホを持つ限り、ブタはブタの悲劇から逃れられない。

 

そうした時代も長くは続くまいが・・・。

 

最近の洗脳手法はすごい。人を覚めた意識のままでトランスに入らせることなく、言うことを聞かせてしまう。これがアメリカ流の実験心理学の成果というものなのだろう。

 

意識の側の洗脳と無意識の側の洗脳を効果的に組み合わせれば、人は見知らぬ第三者に金も渡すし、人も殺してしまう。それがオレオレ詐欺であり、オウムの洗脳でもある。

意識の側の洗脳と無意識の側の洗脳のサンドイッチとは、かくの如く恐ろしいものだ。

 

こうして人はロボットとして生き、ブタとして生きる。意識の側の洗脳とは、偽情報や情報の一部や都合の良い情報しか出さないこと、情報操作。

無意識の操作とは、最初直接本人には関係のない情報として与えるが、恐怖・驚愕・意表をつくなど情動を揺り動かして、本人が判断する時に大きな要素として働く暗示。

 

さて99パーセントの先には一厘の仕組だが、それは1%の側の話なのか、99%の側の話なのか。

 

 

この詩は、ネットで出回っている老子狂言では、最後の詩だが、原作ではこの後ろにもう一つ詩がついている。

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坐忘、ある冥想法-2

2022-12-07 17:13:21 | 道教neo
◎肉体を落とす

荘子大宗師篇で、孔子に対して高弟顔回が、その境地を語る。
顔回「先生、私は進歩しました。」
孔子「どういうことですか。」
顔回「私は仁義を忘れました。」
孔子「それはいいけれど、まだまだです。」

他日二人は再び会った。
顔回「私は礼楽を忘れました。」
孔子「それはいいけれど、まだまだです。」

顔回「先生、私はまた更に進歩しました、今度は坐忘ができるようになりました。」
孔子は、驚いて「坐忘とは何のことかね」

顔回「肉体を放棄し、聡明を退け、形を離れ、知を去り、大通なる道と一つになりました。これを坐忘と言います。」
孔子「道と一体になれば、もはや好悪差別の心はなくなるし、道と同化すれば、無常がわかる。あなたは本当に賢人だ。今後あなたを先生としましょう」


仁義という社会性を忘れ、礼楽という形式を忘れ、肉体を落とす(原文:堕肢体)。肉体を落とすということは死の世界に入るということ。

孔子は道と一体になることが、好き嫌いを超えていることを知っている。大通なる道と一つになることは、輝くすべてであるワン・テイストに同化することなのだ。

そして孔子は、自分を超えた境涯の弟子を一人打ち出したのだ。
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坐忘、ある冥想法-1

2022-12-07 10:23:03 | 道教neo
◎欲の深い者は天機が浅い

荘子は、ストレートなもの言いなので、老子よりはわかりにくい。読者がちゃんと理解してくれることを前提としていないからである。とりあえず真実を語って見せるが、その場の人物に対し、必要な前提やら注意事項を必ずしも与えない。それはOSHOバグワンの語り口と同じである。

その境地にたどり着くには、ある冥想法が必要なのだが、そこは、グルに任せるとして、真理のみを語る。

荘子の大宗師篇から
『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。グルメをするのでもなく、呼吸は深い。真人の息は踵でし、衆人の息は喉でする。屈服する者の息は、喉につかえたものを吐き出すようである。欲の深い者は天機が浅い。
 
古の真人は、生も悦ぶことを知らず、死も悪(にく)むことを知らず、生死は無心に来て、無心に往くのみである。

生死の始まる所を忌まず、生死の終わる所を求めない。
受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。

このことを、心を以って道を捨てず、人を以って天を助けずと言う。このことを真人という。

このような人の心は『忘』であって、その様子は『寂』であってのびのびとしている。また寒々と凄然として秋にも似て、また暖かく春にも似て、喜怒の感情の動きはあるが、あらゆる変化に通じ、物と調和しているので、その極みは計り知れない。』


まず冒頭の『眠っても夢を見ず』は、ウパニシャッドの「熟睡中の夢も見ない状態」を言っている。夢をみないほどぐっすり眠ることなどではない。

『真人の息は踵でし』は、踵を巡る周天のような技法があるのだろうか。なお足のチャクラは足裏の中心であり、踵ではない。

そして最も重要な記述『受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。』。生は之(これ)を個で展開するが、死に際しては個で死の世界を展開するのでなく、死に際しては全体なるアートマンに帰るのだ。単純なマンツーマン輪廻説でなく、死の実態に即した表現を取っている。

このように生死を超えて生きる姿を『忘』と呼ぶ。
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