アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

柳華陽の脱身

2023-10-15 03:23:00 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-07

◎思春期の垂直の道-7

 

道教内丹の柳華陽の脱身は、時代が古いせいか、また大周天系のせいかダンテス・ダイジほど論理的に整然と書いているわけではない。

慧命経を著した柳華陽は、清時代の人(1736年生れ)。その知り得た眼目は、伍守陽先生にめぐり会って教えてもらったと書いてある。ところが伍守陽先生は、1644年に亡くなったとされている人であるので、何らかの形で200年くらい生存して、柳華陽にノウハウを伝えたことになる。

 

さて慧命経の挿絵を見ると、大周天という独特な手法による冥想であることがわかる。

慧命経では、肉体を飛び出す体験が三界(欲界・色界・無色界)を飛び出す体験であると補足してあり、その点でも真正のニルヴァーナを目指す体験を語っているように思う。アストラル・トリップでは、三界を超越できないので。

 

1.慧命経の粉砕図

道教の柳華陽においては、慧命経の挿絵の第四図道胎図から第五図出胎図において、気が満ち足りて、やがて円熟すると胎児(道胎)は頭頂より出て行き、身外に出る。これを陽神の出現とも言い、千弁の花びらがある蓮華中の如来とも呼ぶ。これがメンタル体の離脱と考えられる。

 

第六図化身図では、この陽神が妙道を通って虚無と化していくとあり、無上の垂直道ならぬ「妙道」を通って中心太陽に向かうことを言っているのだろう。

有より出て無に入るとは、文字通りアートマンからニルヴァーナへ。

第七図面壁図は、アートマンとブラフマンの合体(ニルヴァーナ突入の直前に起きる:「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP101参照」)と思われるが、「心印は空に懸り月の姿は浄い」とは、アートマンを月に見立てている。

「筏は岸に到って日光に融ける」とは、アートマンの中心太陽突入を比喩しているのだと思う。

 

柳華陽の凄いところは、この後のモクシャのところまできちんと記録しているところ。それが第八図の粉砕図である。これは「一片の光輝が法界を周り、日も月も忘れて寂浄にして霊虚」また、「不生不滅にして、無去無来」そして、「碧空に雲が散り山色浄く、慧は禅定に帰し、月輪は孤である」

 

粉砕図は十牛図の第八図と同じ一円相ではあるが、そこに到る道程は、禅などの只管打坐系メディテーションとは全く異なったものであり、その終着点もまたフツーの人々の夢にも思わない世界に隠されているのである。

 

2.禅機直論

以下は、柳華陽の修行上のメモみたいなかんじ。

『(第十二章禅機直論から)

 

<寂滅の定を久しく続けていれば、紛々とした情景が現れてくる。つまり、「雪が空に乱れ飛ぶ。」と言われる情景であり、これはまた機である。そしてその時こそ出定の好機である>

これすなわち真景である。

 

<遅滞を忌む>

速やかに出定すべし。

 

<この時、もし出定せずに胎中にとどまれば、神通変化に至ることができない。>

これでは一人の愚人に過ぎなくなる。

 

<すなわち出定すべし>

頭頂より出定する。

 

<これが「三界を超出する」ということである。さらにやすんじて、しばらく待つ。>

肉体から、一・二尺(約32~64cm)離れた状態のままでいる。

 

<それは禅である。そして一片の金光が虚空に現れるが、これまた機である。やがて(それらを自分の陽神に)収め入れ、定を行い、これまた禅をなす。こうした長く久しい定を行っていると形神はことごとく変化する。以上が禅機の説明である。>

古来より伝えられてきた禅機を今ここに漏らし尽くした。』

(慧命経/柳華陽/たにぐち書店P200-201から引用)

 

冒頭の寂滅の定とは、呼吸も脈拍も停止するものであろう。

一片の金光が虚空に現れるとは、アートマ光の輪のことかどうかは体験者に確認しないとわからない。

頭頂から脱身して肉体から1・二尺離れるというのが、メンタル体の離脱であると考える。

 

3.集説慧命経

注意点など。

『(第九章 集説慧命経から)

 

法身が出定して、凡体を離脱したなら、最初はすぐに泥丸に帰ってくるようにする。その後、まる七日間、さらにこれを養い育て、そしてまた出定する。最初の出定の際、仏祖や菩薩の姿や、美しげな情景が見えてくることがあるのだが、この時、決してこれらに心をとめてはならない。

これらは魔の変化したものであり、もしそれらに心を奪われると、魔の虜になり、魔の誘いのまま自己の帰るべき所を見失ってしまう。

これでは寂に帰すといえども、仏果はいまだ果たせず、自立して存在することができないため、必ず後世において再び生まれ変わることになる。必ず九地から十地を修し、更に十一等覚にまで修し、無色界を越える程まで心境を高めておく必要がある。

また初めて出定する際、肉体から3~5尺程まで出るようにし、驚いたり恐れたりしてはならない。やがて車輪のような一つの金光が現れるのを待ち、念をもって〔意識的に〕その光の中に入り、性の中に収め入れる。

 

〔肉体に帰ってくる。〕

これが形を変えるための微妙な基本方法である。』

(慧命経/柳華陽/たにぐち書店p134-135から引用)

※泥丸:サハスラーラ・チャクラ

※仏教の修行者(菩薩)は、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚の合計52段階の修行をする必要があるが、九地は49番目、十地は50番目、等覚は51番目の境地。等覚は、仏の正しいさとりに等しいさとり。

※「性の中に収め入れる」の「性」は心・精神を一般には指す。

 

『法身が出定して、凡体を離脱した』とは、メンタル体の離脱を言うのではないかと思われる。慧命経では、クンダリーニ・ヨーガとは異なり、大周天で気を前後(任脈・督脈)に周回させることで、身体外に陽神を作成するのだが、これがやがてメンタル体離脱となっていくのではないかと思われる。

クンダリーニ・ヨーガとは全く異なる方法で脱身するのだ。

 

だが肉体を出ると魔がお待ちかねであるので、それにかかわってはならない。拳銃と防弾チョッキの完全武装が当たり前の街に、丸腰で登場してはならないということでしょう。

そこで必要な拳銃と防弾チョッキにあたるものが、無色界を越える程の心境であり、無色界を越えるとは、欲界・色界・無色界の三界という、物質世界も精神現象の世界も超えた人間を超えた境地である。これには冥想修行を通じた魂の熟成が必要である。

慧命経では、まず有餘涅槃(サビカルパ・サマーディ、有相三昧)の呼吸がある状態があり、その後、無餘涅槃(ニルビカルパ・サマーディ、無相三昧)となり、無餘涅槃の無餘とは出入りの息がないことであると断定している。

このように臨死での冥想は、チベット密教の専売特許ではなく、道教・煉丹(慧命経)でも同じであったことに、双方とも同じクンダリーニ・ヨーガとして同根であることを感じさせられる。

 

このように死そのものを扱う超マジな技術であるからこそ、以下のような修行者は相手にしてはいけないと柳華陽は戒める。

(1)金やもうけのことばかり気にして、真の生き方にあまり関心のない人

(2)修行を初めてもすぐ飽きてしまう人

(3)心にもないうまい言葉を並べる人

(4)過度に慇懃な態度で言葉な丁寧で巧みな人(心に誠がない)

(5)先祖に徳がない者(子孫が修行しても成就しがたい)

(参考:上掲書)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ダンテス・ダイジの脱身 | トップ | 出口王仁三郎の脱身 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ジェイド・タブレット」カテゴリの最新記事