アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

今ここは口に苦し

2024-07-09 03:22:57 | 冥想いろいろ

◎生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる

 

口に苦い絶望を前面に出さない『今ここ』は嘘っぽい。

OSHOバグワンが、そこを指摘する。

『この現瞬間に生きるよう努める。けっして希望を抱かない―――どんな希望であれ。現世のものにしろ、彼岸のものにしろ、何の変わりもない。たとえ宗教的な希望であったとしても・・・・・・未来なり、彼岸なり、天国なり、ニルヴァーナなり、死後に関わるものであっても、何の変わりもない。希望を持ってはいけない。

 

たとえ今ここにおいてまったく絶望的であっても、ここにとどまり、今この瞬間から動かない。動いてはいけない!それを苦しみなさい。けっして希望を入り込ませてはいけない。

希望を通じて夢が現れる。だから絶望するのだ。もし生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる。けっして未来の物事にしがみつかない。すると突然そこに変化が現れる。現瞬間にとどまりさえすれば、夢はやむ。もう夢は生じない。なぜならその源泉が引っこんでしまうからだ。夢に手を貸しているからこそ、夢の母となっているからこそ、夢が生じる。だから夢に手を貸したり、夢の母となったりしない。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへOSHOP192-193から引用)

 

日本人は、生が絶望的だったら、絶望はするが、それをまんざらでもないと考え、それを受け容れる悪い癖がある。これは、今ここにある絶望を無条件に受け入れているのではなく、馴れ合っているのだ。これでは、突然の変化などいつまでたっても現れることはない。

そんな人は、後世の人に、まだ抑圧を必要とする人々として分類され、進化の準備ができていない人と判定されてしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セクシュアル・メディテーション雑感

2023-10-17 07:14:51 | 冥想いろいろ

◎原担山、LGBTQ、釈迦

 

江戸末期から明治にかけての禅僧原担山は侍だったが、若くして妻帯した。そんな新婚のある日、予定外に日中に帰宅してみると、なんと恋女房が他の男と寝ていた。

これを見た原担山は、剣を抜いて間男に切りかかろうとしたが、その瞬間にすべてのことが馬鹿馬鹿しくなって、剣を振り下ろすことなく出家してしまった。彼は性愛そのものを見切ったのだ。

セクシュアル・メディテーション、性愛冥想、カーマ・ヨーガ、房中術といえば、その行為自体に何かあると思われていることが多いと思う。あるいは、オルガスムス、オルガズム、エクスタシー、絶頂というものに何かあると思われていることが多いと思う。

だが、女性の絶頂は全身的であるのに対し、男性の絶頂ははかないものだ。求道という観点で言えば、性的な男性の絶頂は大したことがないが故に、男性は自分のすべてを賭けて冥想に挑むのだということはある。逆に女性は性において程度の満足があるがゆえに冥想の極みを求めるケースは少ないのだと言える。

 

中国養生思想や酒池肉林の悪影響か、何十人もの若い女性と関係して気を得ると長生きするとかいう説も見かけるが、一方でダンテス・ダイジは、不倫だと性愛冥想は成功しないとしていることから房中術の相手は最適最愛な一人である。

そして行為自体が問題ではなく、行為の後の冥想にこそ眼目があるのではないかと思う。すなわちメンタル体離脱に至る道は様々だが、メンタル体離脱以降は共通らしい。つまりセクシュアル・メディテーションにおいても、行為の後の冥想こそ本来の狙いなのではないかと思う。

OSHOバグワンは、性愛冥想について、いろいろなことを語っているが、行為の後の冥想にはあまり関心はないようだ。サンバラ(交合図)の原理は説くが、彼の教団のフリーセックスを咎めることに彼はあまり関心を持っていなかったのだろう。

 

将来学校で冥想道を説く場合、性愛の問題は避けて通れない。特に昨今、愛と性が完全分離しているが如くなのはどうかと思う。LGBTQ全盛のこの時代だが、本来愛と性は相伴って男女関係の基礎となり、人によっては、セクシュアル・メディテーションの土台にもなっていくもの。

なお求道としてのセクシュアル・メディテーションの道は極めて困難な道であり、あの釈迦ですら、その厳しさに忌避したという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルクレティアの自殺

2023-09-20 03:39:56 | 冥想いろいろ

◎貞節と一夫一婦

6世紀、古代ローマの貴族セクストゥスは、ローマ軍のアルデア攻囲戦での宴会で、いとこのコッラティヌスに妻の比べ合いの余興を持ちかけた。セクストゥスの妻らはローマで宴会を開いて遊んでいたが、コッラティヌスの妻ルクレティアは召使いたちと夜遅くまで糸紡ぎをしていた。ルクレティアの貞淑さに瞋(いか)ったセクストゥスは、数日後、剣で脅しながらルクレティアを強姦。
傷心のルクレティアは、夫と父にこの経緯を伝え、短剣で胸を突いて自刃した。

キリスト教では、貞潔が求められる一方で自殺は禁止されている。人生場裡には、そういう理不尽な事件はままあるものだ。
後にシェークスピアは、この事件を題材に『ルークリース凌辱』(The Rape of Lucrece)を書いた。

事情はやや異なるが、明智光秀の娘細川ガラシャの自殺、明治維新の大田垣蓮月の貞節など、こうした事件には見るべきものはある。

魂の伴侶、一夫一婦のビジョン、イスラムの一夫四妻のビジョン、サンヴァラ(交合図)など、一夫一婦の正統性について考慮すべきファクターは多いが、歴史的に不倫乱倫は一律に悪とされてきたのには、それなりの理由があるのだろうと思う。

(ルクレティア/クラナッハ・ザ・エルダー/ドイツ,バンベルク,バンベルク図書館蔵)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃれな場所でマインドフルネス冥想

2023-08-06 07:04:58 | 冥想いろいろ

◎ファッション瞑想と本気の冥想

 

マインドフルネスは、効果を求める冥想の一種。効果とは、心が落ち着くとか、ストレスが軽減されるとか、気持ちがよくなるとか。こういう冥想は、真剣に冥想修行している人たちからは、ファッション冥想などと呼ばれている。

2023年8月5日のNHK総合サタデーウオッチ9 でマインドフルネスが紹介されていて、パソナの淡路島の禅坊 靖寧と銀座の化粧品店(資生堂?)の地下にある卵型カプセルが紹介されていた。

靖寧は、崖に突き出した空中楼閣に一列に窓を向いてならび座布ではないお尻固定クッション上に坐って冥想するもの。4時間の体験で2万3000円。

銀座の卵型カプセルは、ヘミシンクの水タンクを連想させるが、単に蓋の閉まるカプセル内でヘッドホンで冥想音響を聞きながら冥想するもののようだ。料金は30分で4400円。

冥想音楽は、ambientと言われ、テクノ系だが、アメリカでは60年代から大きく発展してきた。瞑想アプリを使ってみるとambient音楽が流れることがままある。youubeでambientを検索するといくらでも出てくる。だがそもそも内に向かって自分に直面するのに、中途で音楽は不要で邪魔になるのではないか。

 

確かに体調が悪い時期、気力が落ちて何も手につかない時期はあるものであって、そんな時に音楽は効果がある。そうした状況を改善する呼吸法もあるし、マントラもある(南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメンなどなど色々使える)。

 

だが、ambient音楽もファッション瞑想も癒しになるのかもしれないが、真摯に自分の人生の問題を解決しようと思えば、外の冥想場所や風光明媚や心地よい音楽など振り捨ててて、自分に向かう、内側に向かうものなのではないか。

最澄は竹で編んだ筒みたいな中で何も堂宇のない比叡山で冥想に取り組み、一休は日に二食も食べず琵琶湖畔の葦の繁みで坐った。最近だと、用具小屋で坐ったりするインドのグルまでいた。

坐る場所は一人になれればそれでよい。

座物(座布団、クッション)では、背骨が垂直になることが眼目なので、外部施設であてがいのクッションを用いるのは、自分の尻の高さに合っていないことの方が多いのだろうと思う。クッションの形状によっては掌の位置、腿の場所が制限されるのも問題ではある。

 

マインドフルネスでは、トランスに入りながら正師の指導がないというのは、本当は課題なのだと思う。トランスに入るというのは、あらゆる暗示にかかりやすいということで、この時代では特に要注意の心理状態。

冥想を指導できるのは、悟った人だけであって、ハタ・ヨーガや体操を教えるのとは訳が違う。冥想の指導者というのは、弟子の一生を背負う、弟子を一生面倒みるという側面があることは否めないのではないか(金の話ではないです)。

 

さはさりながら、冥想というものがあることも知らないのが普通の時代に、冥想を紹介してくれるNHKは貴重だとも思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

単独行遭難

2023-05-17 06:54:07 | 冥想いろいろ

◎遭難の理由と変性意識の隙

 

登山に良い季節になった。『ドキュメント 単独行遭難/羽根田治/山と渓谷社』を読んだ。

 

登山には、グループで登るのと単身で登るのがある。警察庁の統計では、全遭難者中の3~4割が単独行。登山は冥想修行と同じで、他の誰かが登ってくれるわけではなく、自分で登らなければならない。

 

この本に上がっている遭難例は、ほとんどが50代から60代であって、泊まる可能性がある登山をできるのはほぼ中高年だけに限られることがわかる。

 

また遭難した山岳は、

奥秩父・唐松尾岳、

北海道・羅臼岳、

秩父・両神山、

北アルプス・徳本峠、

加越山地・白山、

北アルプス・奥穂高岳、

尾瀬・尾瀬ヶ原(豪雪時)

である。

 

遭難の理由は、やや無理をしてその日の踏破距離を伸ばそうとしたとか、ちょっと別ルートに入ったとか、道に迷ったとか、予定ルートを進んでいたが、足を踏みはずして転落滑落したというのが多い。一律ではないが、生還例だけが挙がっていることに注意。

 

道迷いについては、迷った後で『迷った』と気がつくもの。

 

足を踏みはずして転落滑落ということについては、Great traverseの田中陽希が700名山を踏破しても足を踏みはずして手指を骨折したのが1回きりであるということを思うと、田中陽希の心肺機能が凄いとか、筋力が凄いということもさることながら、目に見えない浮石の踏み方、目に見えない滑りやすい草の踏み方が精妙であって、ほとんど何年も転落滑落がない一歩一歩を履めるからこそ名人なのだと思う。

だが、それを名人と言えば判断停止しがちだが、変性意識のブレ(隙間)を防ぎつつ歩くことが何年も何秒も継続してできていることこそ見逃せない。

 

また、ちょっと別ルートに入っても必ずしも遭難するわけではない。

 

そして日本の山岳では、標高8千メートル以上の死の地帯という呼吸が苦しくて異常心理になりがちなエリアはない。だが標高数十メートルの低山や平地であっても、夜に単独で歩けば、狐や狸を人と認識して化かされるような変性意識状態はあり得る。

この本には、いるはずのない人物を認識した話はいくつか出ている。

 

大悟覚醒は、トランスとも呼ばれる変性意識状態の近所にあるわけだが、聖者覚者はそれを心理と見ることを戒める。最終的には現実そのものなのだ。

 

単独行遭難は、生還した事例ばかりだが、バス転落事故で亡くなった方たちの死以後のルートを霊視した丹波哲郎の「霊界旅行」という本もある。

 

瞑想修行でも単独行遭難は無数の例があることはご承知のとおりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沈黙の行を動物たちと行う

2023-05-03 06:45:57 | 冥想いろいろ

◎少年スヴェタケトゥの動物との共生

古代インドのウパニシャッドの時代。少年スヴェタケトゥが、悟った師グルクルの許に父親から送り込まれた。
スヴェタケトゥは、ヴェーダの全編など当時あったすべての科学を暗記し、偉大な学者としてその令名はインド全土に聞こえた。彼は師からすべてを学んだと考え、故郷に戻った。

故郷では、威張りくさった歩き方で傲然とあたりを見回すしぐさのスヴェタケトゥを見て、父親が非常にがっかりした。
父親はスヴェタケトゥに「すべての苦しみが消えるのを学ぶ事で学んだかね。すべての苦しみが消えるのを知る事で知ったかね。教われないものは教わったかね。」
(私の愛するインド   和尚/講話  市民出版 P19から引用)

スヴェタケトゥは師の許に立ち戻ると、師は、「師の400の雌牛、雄牛、他の動物を誰もいない深い森に連れて行き、話をせずに1000に増やしなさい」と命じた。これでスヴェタケトゥは、すべての学識を落とすことになった。

スヴェタケトゥは、長年の沈黙の生活で学識を落とし、牛になって、動物を1000に増やして、動物とともに師の許に帰って行った。

OSHOバグワンは、これをスヴェタケトゥは動物たちと共感し、お互いをわかちあったと評価する。

自分の症状を自分で訴えられない乳児、幼児を相手にする小児科の医者や母親、共通言語のない獣医やペットの飼い主も同じようにのっぴきならない沈黙行を強いられる。

スヴェタケトゥは1000頭の動物レベルまで落ちたが、それはしばしば破戒物語に出てくるような人間として恥ずべき行為を行って動物レベルまで落ちるという意味ではない。

万物との共感、一体であると言う直観、実感を得るために、逆行ではあるが、動物たちだけとの共生が修行として行われた。そこで、不可視で言葉で表現できないものが実感された。これが師からの法の伝授。

このエピソードは美しいが、現代では、土地の余裕も動物供給の手当もなかなか容易ではない。
スマホを常時手にする現代人は、すでにスヴェタケトゥ並みの学識は得ている。ただ自室などで冥想に向かうだけだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想(瞑想)の種類と分類-3

2023-04-12 06:47:48 | 冥想いろいろ
◎体験とは言えない体験に耐えられるかどうか

2. 悟りを目指す求道冥想

これまでのセラピー瞑想については、「精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局」を参照してきたが、セラピーではない悟りを目指す求道冥想については、これまでどおり準備冥想と本番の悟りに至る冥想を述べる。

OSHOバグワンは、多数の準備冥想を発案・紹介しているのだが、それでストレス発散やカタルシス、頭の想念・思考の掃除をやることが多い。そうした技法と究極に至るヴィパッサナーや只管打坐、クンダリーニ・ヨーガなどの技法を同列には論じられない。

そして何よりも大事なことは、自分自身が究極と言う体験とは言えない体験に耐えられるかどうかということであって、それを無視して、瞑想技法の種類と効果だけを論じるわけにはいかない。

またクンダリーニ・ヨーガ系(古神道、道教内丹、チベット密教、西洋錬金術等)などは段階があるが、只管打坐は段階なくいきなり窮極に到達する。また冥想といえば、坐相ポスチャーだが、意識状態が坐相を決めるという側面があり、その姿勢を自分ではとったと思っても正確に求められる坐の姿勢をとれたかどうかは別である。その一方でその坐相の効果の絶対性というものもある。
参考:【Overview of the meditation 冥想の全体像】

(1)冥想の準備
 (a)柔軟体操(柔軟体操)
 (b)食事・嗜好品(食事・嗜好品)
 (c)呼吸法(呼吸法)
 (d) マインド・コントロール対策

(2)単体冥想のいろいろ
 (a)イメージ・トレーニング(観想法)
 (b)気功、導引
 (c)ハタ・ヨーガ
 (d)カーマ・ヨーガ(性愛冥想)
 (e)ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)
 (f)占星術
 (g)マントラ禅
 (h)只管打坐
 (i)クンダリーニ・ヨーガ
 (j)丹田禅

もちろん冥想法には、宗派による区分もある。一例として、クンダリーニ・ヨーガ系のカバラ瞑想では、観想法である「イメージ形成」「イメージ想起」に加え、「神の姿勢」という椅子上の坐法があり、呼吸法もある(参照:魔法修行/W.E.バトラー)。この冥想法は西洋魔術、魔法と呼ばれるが、これもいくつかの冥想技法の集合体ではある。どこの宗派のそれも大方冥想技法の集合体であって、宗派に関係ないマインドフルネスとかフルフィルメントであっても冥想技法の集合体である。

ところで、このように準備冥想メニューや窮極に至る単体冥想メニューを並べてみたが、ホテルの朝食ビュッフェよろしく、自分の気に入った冥想メニューばかりやってはならない。いろいろな宗派の「いろいろな行法を混ぜてはいけない」(魔法修行/W.E.バトラー/平河出版社P60から引用)のだ。

同様に、日蓮が、禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊と他宗派排撃を言っているのは、「いろいろな行法を混ぜてはいけない」から南無妙法蓮華経を専一に唱えなさいと言っているだけのことである。禅にも、念仏にも、真言にも・律にも覚者は出ているし、それが証拠に日蓮直筆の曼荼羅に天照大神が記載されているのは、そのような消息である。どの宗派においても、その宗派の冥想技法一本でやりなさいと言うものだ。

準備冥想であっても単体冥想であっても、人をトランスに導き不安定にさせる可能性がある以上は、悟った正師の指導を受ける必要があるのは言うまでもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想(瞑想)の種類と分類-2

2023-04-11 05:36:01 | 冥想いろいろ

◎エンカウンター・グループからレイキ、NLPまで

 

〔1. 悟りを目指さないセラピー(精神療法)のいろいろ〕の続き

 

(6)他人との交流

 

エンカウンター・グループ(カール・ロジャーズ-グループセラピー)

来談者中心療法(カール・ロジャーズ-Client person centered approach-カウンセリングの原点)

アドラー心理学(劣等コンプレックスをみつめる)

ロゴ・セラピー (対話での人生の意味追求-V.E.フランクル)

交流分析Transactional Analysis(エリック・バーン-自我構造の分析)

家族療法(ルードリッヒ・フォン・バータランフィなど)

ロールプレイ(役割を意識的に演じる)

サイコドラマ(ヤコブ・レビ・モレノ)

 

(7)霊能系

 

チャネリング(降霊、降神)

クリスタル・ヒーリング (アメリカで隆盛)

チベッタン・パルシング・ヒーリング(tibettan pulsing healing)

レイキ(臼井 甕男(うすい みかお))

 

(8)自然でのセラピー

 スウェット・ロッジ(アメリカ・インディアンの癒しの儀式)

ビジョン・クエスト (アメリカ・インディアンの大自然での数日間の孤独な修行)

ネオ・シャーマニズム(シャーマニズムを応用したセラピー)

 

(9)セックス・セラピー

愛のヨーガ(ルドルフ・V・アーバン-)

タントラ(和尚がタントラのセックス修行を紹介しているが、他の人はもっと狭義のものを言っている場合が多い。)

 

(10)思考から働きかける

一般意味論(general semantics-アルフレッド・コージブスキー)

論理療法(rational theory-アルバート・エリス)

神経言語プログラミング(NLP)

エニアグラム(スーフィの口伝図)

 

(参照:精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局)

 

以上のようなセラピー技法の出自は、精神医学、心理学、代替医療などであり、癒しという効果を狙ってはいる。さらには、ネットにあふれるセラピー、癒しテクニックの広告宣伝から、インストラクター資格をとりましたというつぶやきまで、このようなセラピー技法を目にすることは多いのではないかと思う。

 

社会的には、当座の効果があり、それで問題ないかもしれないが、悟りを目指さないと言う点では、一生の最後あるいはそれ以前に食い足りないと思う人もいるのではないか。そういう人達が、悟りを目指す冥想(瞑想)を求めていくことになる。

 

なお、チャネリング(憑霊、降神)は、三種に分類される神仏へのアプローチ方法の一つだが、主神、大神を降ろすのは容易ではないので、ここでは、セラピーの一種に挙げられているのももっともなところがある。

 

また、セックス・セラピーは、邪教真言立川流を俟たずとも、洋の東西を問わずセックス・カルトにつきものなものである。だが極めて困難な道だが、真正の求道としての性愛というものがあることも承知しておくべきだろう。

本来房中術もカーマ・ヨーガも悟りのための技法である。

 

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想(瞑想)の種類と分類-1

2023-04-10 07:09:43 | 冥想いろいろ

◎セラピー(精神療法)と求道冥想と価値観操作

 

SNSでは、冥想には種類がありすぎて、よくわからないという声が上がっている。

 

まず冥想の分類を考える上で基本は、個々の冥想は、単一テクニック、単一冥想だけであることはほとんどなく、例えば最もシンプルなテクニックであるとされる只管打坐ですら、専門道場においては、只管打坐、読経、経行、作務、食事作法、トイレ作法、公案など複数の冥想法の組み合わせである。

 

このように冥想は、一般には複数のテクニックの集合の呼称である(メディテーション・コンプレックス)。

 

それを踏まえて、現代冥想を二分類すれば、悟りを目指さないセラピー(精神療法)と、悟りを目指す求道冥想となる。

 1.悟りを目指さないセラピー(精神療法)のいろいろ

 

個々のテクニックについては、ライヒ系、OSHOバグワン系、心理学者のC.G.ユング系が多い。そうした技法を大真面目に実践し、資金も出し研究してきた、ビッグサーのエサレン研究所のような組織が継続できていることがアメリカの良心であり、人類の良心であり、日本の因習的な環境にはない部分であると思う。

だが日本は、神国としての伝統的ライフスタイルがあり、日本人は神に仕える民族であり、外人は神に祈る民族である(出口王仁三郎)という、潜在的基盤がある。だがいまやそういう惟神(かむながら)精神は、拝金と物質欲で風前の灯となっている。

セラピーが悟りを目指さないままでは、審神者のいないチャネリングの如きものにとどまる。

 

(1)肉体やエーテル体関連

 ボディ・ワーク。体をほぐしたり、ブロックをとったり。呼吸法もあり。

具体的には、以下。

 

アレクサンダー・テクニック(F.M.アレクサンダー)

フェルデンクライス・メソッド(フェルデンクライス身体訓練法)

センサリー・アウェアネス(チャールズ・ブルックス)

ライヒアン・セラピー(W.ライヒ)

バイオエナジェティックス(アレクサンダー・ローウェン/ライヒの弟子)

バイオシンセシス (デイビッド・ボウデラ/ライヒ系)

マッサージ

ロルフィング(呼吸法の一種)

リバランシング(和尚)

ポラリティ(ランドルフ・ストーン)

フォーカシング (ユージン・ジェンドリン)

カラーパンクチャー(ピーター・マンデル)

センタリング

整体

 

(2)呼吸法関連

 

リバーシング(レオナルド・オー)

ホロトロピック・セラピー(スタニスラフ・グロフ)

 

(3)心理学関連

プロセス指向心理学(アーノルド・ミンデル)

ゲシュタルト・セラピー(フリッツ・パールズ、ローラ・パールズ)

プライマル・セラピー(アーサー・ヤノフ)

ヒプノセラピー(催眠術)

サイコシンセシス(ロベルト・アサジオリ)

 

(4)イメージ、価値観、観想

 

ソマグラム (スタンリー・ケルマン)

ポジティブシンキング(観想法)

アクティブ・イマジネーション(C.G.ユング)

箱庭療法(C.G.ユング)

 

(5)芸術活動、芸能活動

 

アート・セラピー

ダンス・セラピー

ミュージック・セラピー

(参照:精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局)

 

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一厘の仕組-2

2023-03-07 03:35:44 | 冥想いろいろ

◎なぜ出口王仁三郎だけが知っていたか

 

一厘の仕組とは、九分九厘悪玉ペースで進んでいた世界の趨勢が、最後の一厘で大逆転すること。逆転と言えば、タロット・カードの吊るされた男で有名だが、出口王仁三郎を読んだ人なら、一厘の仕組が古事記の仲哀天皇の段に描かれていることは知っている。

 

冥想シーンで、九分九厘から一厘の大逆転は、個人が逆転して世界全体になること。

 

古事記の仲哀天皇の段で、九分九厘の崖っぷちシーンは、仲哀天皇が神託のとおりにせずに、なまなまに琴を弾じているうちに人知れず崩御されたこと。

 

次のとおり出口ナオは一厘の仕組を知らなかったと言っている。なぜ出口王仁三郎だけが知っていたか。出口王仁三郎には、体験とは言えない体験があったからではないか。

 

※二代様:出口スミ

『◯一厘の仕組

(『大本神論』に啓示された三千世界救済の大神策・天地の祖神の大経綸)

 

二代様  「一厘のお仕組は開祖様でも御存じなかった。」

聖師    「王仁は知っていた。」

(昭和二十年九月四日)

 

(大正時代に聖師は『古事記』の大后息長帯日売命(おほきさきおきながたらしひめのみこと)の帰神のところに一厘の仕組が示されてあると教えられた)

 

(参照)『霊界物語』第一巻第三十五章「一輪の秘密」。第三十六章「一輪の仕組」』

(新月の光(下巻)/木庭次守P301-302から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和魂の構造

2023-03-05 07:26:40 | 冥想いろいろ

◎慈悲心(善の方へ働く感情)、理性、意志

 

出口王仁三郎は、大和魂とは、菩提心のことであるとし、慈悲心(善の方へ働く感情)、理性、意志の三つで成るという。

この中で慈悲心・愛は、知性の劣った者でも鳥獣でも理解できるから最上と位置付ける。

 

知性、理性を武力、軍事、情報戦に優先投入する時代は、過去何千年続いてきたわけだが、この知性の優れた人間がどんどん出現している時代に、誠の力は世を救うとか、言向け和(やわ)すなどと得々と語る者もいるが、世界を平和裡に新時代に向けて移行させていく根源的パワーは、軍備強化でもなく、インテリジェンスの強化でもなく、経済力の強化でもなく、反戦キャンペーンでもなく、まず自分が神知ること。

 

神知る者に独特の思考様式、行動形態が、自ずと時代を正しい方向に向かわせる。これは不思議なことだが、爛熟腐敗を極めた時代に必ず聖者、覚者、神人(アヴァターラ)が地上に投入されるというのは、そのメカニズムがあるからではないのだろうか。

 

そして、知者の多いこの時代は、聖者覚者が一人出てもどうにもならず、続々とフツーの人が悟って行かねばならないのだ。

 

以下、出口王仁三郎の大和魂の説明。

『『大和魂は仏の道で云ふ菩提心の事だ。此菩提心は三つの心が集つて出来たものだ。其第一は神心、仏心又は覚心と云つて善の方へ働く感情を云ふのだ。要するに慈悲心とか、同情心とか云ふものだ。第二は勝義心と云つて即ち理性である。

 

理性に消極、積極、各種の階級のある事はもとよりである。理性の階級については到底一朝一夕に云ひ尽されるべきものでないから略する事として、第三は三摩地心と云ふのだ。

 

三摩地心とは即ち意志と云ふ事である。尚よき感情とよき意志とよき理性と全然一致して不動金剛の大決心、大勇猛心を発したものが三摩地心であつて、以上三者を合一したものが菩提心となり大和魂ともなるのだ。

 

何程理性が勝れてゐても知識に達してゐても、知識では一切の衆生を済度する事は出来ない。智識あるもの、学力ある者のみ之を解するもので、一般的に其身魂を救ふ事が出来ない。これに反して正覚心所謂神心、仏心は感情であるから、大慈悲心も起り、同情心もよく働く。此慈悲心、同情心は智者も学者も鳥獣に至るまで及ぼすことが出来る。これ位偉大なものはない。』

(霊界物語 第40巻 第2篇 寒梅照国 第6章 仁愛の真相から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャネリングのメカニズムを考える

2023-03-04 06:33:12 | 冥想いろいろ

◎霊能力、超能力志向の冥想修行は、時代遅れ

 

七つの身体論と輪廻転生は切っても切れない関係がある。その辺縁にチャネリングという技術もある。

 

チャネリングとは、自分のボディに他神霊を感合させて、当該他神霊の言葉をわが身が語るという技術。チャネラーとは霊媒とも云う。出口王仁三郎は、身辺に長命の優秀な霊媒がいたのにこんなことを言っている、

 

『【霊媒】

 

霊媒などになる人を、身魂が磨けて居るから霊覚がある、などと思うて居る人がだいぶんあるやうであるが、決してさうでは無い、意志が弱いから、霊に左右せらるるのである。霊の方では使ひやすいから使ふので、かうした人間には大した仕事は出来無い、確かりして居て、しかも霊覚があると云ふやうな偉人は、滅多に出るものではない。

 

大抵意志薄弱で、一生涯憑霊に支配されて、真の自我と云ふものの確立がない、情ない状態で終つて仕舞ふのである。霊媒になるやうな人は、一寸人がよいやうで、さうしてどこかにぬけた所がある。しまひには悪い事を仕出かし勝である。命も短いものである。』

(月鏡/ 出口王仁三郎から引用)

 

さらに、

『【霊媒は短命】

 

霊媒の物理的現象を起す精力素(エクトプラズム)は精液の変形したるものである。そして外気にふるれば九分迄は汚れて其の精気を失ふものであるから、再び身体にかへつても駄目である。ああした実験を度々やるのはよくない、生命が短くなる。私は皆一通りやつたが、この原理が分つたからやめたのだ。』

(月鏡/ 出口王仁三郎から引用)

 

チャネリングの話ではないが、霊能の得方について大本教で鎮魂帰神に邁進していた若き谷口雅春が霊能の得方には2種あると述べている。

 

彼は肉体をコップとし、霊を水とする。水(霊)の分量がコップ(肉体)より過剰となれば、水が外に流れ出すから霊能力が発現する。また逆に水(霊)の量が変わらなくてコップ(肉体)の大きさが小さくなれば、水は外に流れ出す場合も霊能力の発現。

 

これは神懸、憑依等の話なのでアストラル体以上の説明だろうと思うが、霊の方が充実し過ぎて溢れ出すようになった出口ナオのようなケースが前者であり、肉体が衰弱してコップの容量が小さくなったので霊が外に発現するのが後者。後者は、よく内臓が弱いと霊能力があることがあると言われる巷説を裏付ける。(参考:雑誌神霊界93号(大正8年9月)の大本霊学座話)

 

以上を踏まえるとチャネリングでの、いわゆる霊とは、エーテル体、アストラル体、メンタル体から、時に第六身体アートマン(大神)まである。

 

エクトプラズムは、エーテル体レベル。一口に霊をボディに引き入れる、感じ取るといってもレベルの差は相当にある。

 

ただしチャネリングとしては最高レベルの、大神の言葉を伝えるチャネリングであっても、チャネラー本人は何を伝えたか全くわからないという事がある。チャネリングは、それが限界なのだろう。

 

霊能力、超能力志向の冥想修行は、時代遅れのものとなって久しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出口王仁三郎の鎮魂法-6

2023-03-03 06:58:10 | 冥想いろいろ

◎帰神術、神人感合、高弟たち

 

彼の大衆向けの修行法は、神下ろしメインだったが、それを中止したのはわかるが、次の段階として、信者をなぜ見神や神人合一の道に進ませなかったのだろうか。

本物の覚者は、このような場合、高弟向けの冥想指導と一般信者向けの冥想指導を分けるもの。高弟向けの冥想指導は、彼の著述には具体的にはほとんど出てこない。だが高弟向けのものこそ、見神や神人合一の道があるのだろうと思う。

 

さて日本の新興宗教で戦後勃興したもので古神道系のものは、生長の家、世界救世教など大本関連が多いことが知られている。また裏神業とも呼ばれる小規模なものもある。こうした大本系の新興宗教の指導者や小規模グループあるいは個人の古神道系の弟子たちこそ高弟に当たるものではないかと思う。つまり高弟向けの冥想法は、彼らに引き継がれたのではないかと思われる。そうしたものには植芝盛平の合気道も含まれる。

 

また大規模にチャネリング(神下ろし)をやらせたことが、結果的に霊がかりを脱却しきれぬ遠因になったことも見逃せない。その延長線上に、大正10年に世の立替があるという予言が大々的にはずれた(出口王仁三郎自身ははずれることをわかっていたし、主導していた幹部に予言取り消しを要請していた。)事件がある。順路としては、霊がかりを脱却して、見神して、神人合一を目指すもの。

 

後に生長の家を開いた谷口雅春は、出口直日に次のようにその予言取り消しの伝言を依頼した由。

 

『三代教主直日の回想によると、一九二一(大正一〇)年の秋のある日、谷口は王仁三郎をたずねたが、王仁三郎が不在であったため、直日にたいし、大本は一九二一(大正一〇)年に世の立替えがあるといったが、なにもかわったことがない。信者のおおくは家業を放棄し、会社をやめてきているので、いま生活ができなくて困っている。「大本はまちがいであったと天下にあなたの名で謝罪して下さい」と要請したという(「おほもと」昭和33・4)』

(大本七十年史 上巻 第4編第2章 一部の離反/谷口正治/著者大本七十年史編纂会・編集から引用)

 

さて既述のような経緯で、出口王仁三郎は、大正時代には集団における神下ろし行(チャネリング、神託、シャーマニズム)はやめてしまったが、最後に彼の見る神下ろし行の全容を挙げる。

 

『神感法については、一度説明しておかねばならぬ必要があろうと思うから、ここに大略だけを記しておく次第である。

 

そもそも感合法なるものは神人感合の術であって、至厳至重なる事柄であるから、濫りに語るべきものでないのであるが、神界の許可を蒙りて、ちょっと付記しておく次第であるから、謹んで拝すべきである。

 

この神感法とて神人感合の術なるものは、神様と吾人の霊魂とが相一致するの道であって、帰神なるものが即ちそれなのである。

 

帰神術は精細に調べてみると三百六十二法という大多数の方式があるが、まずその概略を並べると、無形の感合法と有形の感合法とがある。しかして無形の感合法には神感法と他感法と自感法との三大法がある。また無形の神感法にも他感法にも自感法にも、各上中下の三法があって、これを合すと九法となって来るが、有形の感合法も同じく神感法と他感法と自感法の三大法があって、同じく三大法ともに上中下があるから、前と同じく合して九法となるのであるが、この無形法と有形法とを合してみると十八法となるのである。

 

話が後先になったが、そもそも神界には正神界と邪神界がありて、正神界とは俗に善神界と云う界なり。邪神界とは妖魅界と同じ事であるが、前記の如く、正神界の感合法には無形と有形とを合して十八法あるが、邪神界も同じく無形と有形とを合して正神界と同じく十八法あるのであるから、すべて感合法というものは、正邪を合して三十六法となるのである。これを細別すると、前に記した如く三百六十二法となるのである。今入門の子弟に解し安き様、左に図を以て示す事にしよう。

 

   帰神の標目図

 

善神界

    無形

  自感法  上中下  三法

  他感法  上中下  三法

  神感法  上中下  三法

         合わせて九法

    有形

  自感法  上中下  三法

  他感法  上中下  三法

  神感法  上中下  三法

         合わせて九法

     有形無形合わせて十八法

邪神界

    前に同じく合わせて十八法

     正邪合わせて 三十六法

  これを分かって 三百六十二法

 

このほかに、巫女なり法華坊主の行う感法はあるが、これらは下々の下法で等外である。現今の淫祠教に行うて居るのは、みな邪神界の感合法であるから、信仰すべきものでは無いのであるから、ちょっと参考のために付記しておく。』

(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間 本教創世記 第三章から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出口王仁三郎の鎮魂法-5

2023-03-02 07:19:46 | 冥想いろいろ

◎集団向け幽斎修業の実際

 

大本教は明治時代にチャネリング、憑神霊をメインとした古神道修行をカリキュラムとして持っていた。とはいえ大神が憑依できるほどに浄化されたレベルのシャーマンは、出口ナオ、出口王仁三郎だけだったのだから、集団修行の現場には、修行の指導者としてそのレベルに届いていない人物が当たったようだ。

 

その点では、指導者を神知る者にするという最近では常識的なラインも意識されていなかったか、意識はされていたが、現実的には無理だったか。

 

神知る手法には、神下ろし、見神、神人合一の三種あるが、大正の終わりには神下ろしを大々的にやるのは、やめてしまった。

 

この手法では、鎮魂法という臍下丹田に意識を集中させることで、トランスに導くのだが、トランスに導く方法は、マントラを唱えるのやら、観想法やら薬物摂取やら無数の方法がある。だが、トランスに導くのは比較的容易でも、そのトランスから正しい方向に進ませるのは、容易なことではない。とりわけ集団でトランスをやらせる場合は難易度が高い。最近でも教団が信者を何千人何万人集めてイベントを行いその熱狂的マス陶酔でもってトランスを狙うようなこともあるのだろう。

 

真正の悟りを目指すには、既に100年前からマスターが悟っていないとだめなようだというのはわかっていた。それは、大教団でも少人数グループでも同じ。

 

それがわかって以後、出口王仁三郎は、神下ろしメインでなく信者が大神を知ることをメイン目標に転換しようと思っていたのだろうが、さらに神人合一を大目標にするには、国家神道で現人神のおわす時代にそれは不可能だったのだろう。

 

終戦後の吉岡発言では、「日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。」と手厳しい。

 

以下に出口王仁三郎の当時の、集団神下ろしでの幽斎修行すなわち「トランスをメインに据えた修行法」の実際を挙げてみる。

概要は次のような具合。

1.審神者は「ウー」の言霊によって霊をおくる。

2.憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発する等発動のはげしいものは、別室で特別に審神した。

3.三日間岩戸のなかにこもり、無言で、鎮魂の自修や、神書の黙読、浄書するというメニューもあった。

『だが、修業者の聴講する課目については、一定のさだめがなく、講師の都合によって、その日その日の課題がかえられることもあった。そして、それ以外に特別の講座が、必要に応じて臨時におこなわれている。こうした講座とともに、希望者にたいしては幽斎修業がなされている。

 

幽斎修業は、修業者にたいして、手を一定の形式に組みあわせて、瞑目静座させ、審神者は天津祝詞を奏上し、天の数歌をとなえ、石笛を吹きならして、「ウー」の言霊によって霊をおくる。

 

本来、鎮魂は各自の浮遊せる霊魂を臍下丹田にしずめるものであったが、なかには憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発するものもあった。そこで発動のはげしいものは、別室へみちびいて特別に審神した。

 

また別に、希望者に、岩戸修業をおこなわせたりもした。この修業は、三日間岩戸のなかにこもり、無言の業をなすものであって、鎮魂の自修や、神書の黙読あるいは、浄書などをした。食物はハッタイの粉と梅干・水だけが許された。三日日のおわりに先達者にしたがって、「う、し、と、ら、の、こ、ん、じ、ん、うしとらのこんじんさま。ひ、つ、じ、さ、る、の、こ、ん、じ、ん。ひつじさるのこんじんさま」ととなえ、つぎに「三千世界一同に開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ。しゆみせん山にこしをかけ、うしとらの金神まもるぞよ。三千世界の神、仏事、人民用意をなされ」と発声した。そして天津祝詞一回・神言一回を奏上し、「惟神霊幸倍坐世」を四回となえてそののち、五六七殿に参拝しておわることになっていた。

 

しかし、以上のような講話や鎮魂については、一九二〇(大正九)年五月二三日の公告で、

「従来の鎮魂帰神の実修法を更め、単に静座瞑目せしめて、お筆先を守護神に聴かしむるに止め、施術者の霊を注ぎ気合を掛くることを廃す。(但し静坐の姿勢は従前の通り)病気鎮魂及び憑霊の発動者には、特別鎮魂を施すことを得。其要領は従前の通りとす」

 

さらに同年六月には講座修業の方法を改め、

「神諭の拝読及び解説に主力を用ふる事、神諭の精神を体得するに必要な霊学講話を行ふ事、霊魂教育法として修業者に静座瞑目せしめ、その守護神に神諭を読み聞かせること」

と通達し、各支部や会合所も本部の方式にならうように指示した。』

(大本七十年史 上巻第3章 教勢の発展 修業者の激増から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンテス・ダイジの気合訓練

2023-02-03 03:12:16 | 冥想いろいろ

◎日本人は、気合の抜けた人間ばかりとなった。

 

戦後、根性論、精神論が忌避される世論が長い間形成された結果、日本人は、気合の抜けた人間ばかりとなった。が、それは、マクロなマインド・コントロールの影響もさることながら、老人比率が多いこともその原因だとは思う。

 

しかしながら、若くても年をとってもこの競争社会を生き抜いていくには定力が必要なものだ。毎日冥想修行だけすればよいような恵まれた環境の人はいざ知らず、大半の人は、世の人と交わって定力を必要とされるシーンが必ず出てくるものである。

 

だが、気合術は廃れ、古神道の天の鳥船雄詰(をころび)の禊が残る程度と思う。

 

ダンテス・ダイジは、冥想道手帳に気合訓練の一章を挙げている。

『気合訓練

 

気合とは、必ずしも絶叫するものとは限らない。自己の心身のとどこおりをほどいて、宇宙的ヴァイブレーションと溶合していくことが気合である。

気合訓練は、定力を養成するための準備となる。

 

カーッ

 

シヴァ

 

 これらは、全身全霊で叫ぶものである。

 

 

アーウームー

 

ホー

 

 自分の形式を越えて、自由にのばすように発声する。

 

 

ムー

 

 全心身の力を込めてうなることと一気に力を抜くこととの反復。

 

 

天之数歌

 

「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )』

(冥想道手帳/ダンテス・ダイジから引用)

 

久しぶりに読んでみると、『ムー』には、『一気に力を抜くこと』というパートがあったのですね。

 

冥想は特に実際にそのとおりにやってみて、そのやり方の絶対性に気づくということはある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする