アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダンテス・ダイジの死と転生-2

2024-04-18 03:13:18 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-16

◎垂直上昇への仕掛け-16

◎輪廻転生の実態-6

◎死と転生のメカニズム

 

ここで質問者は、一つの個なる霊魂が死ぬと霊界に渡り、再生して現世に戻り、また死ぬと霊界に戻るみたいな通俗的輪廻転生観(マンツーマン輪廻)を想定しているのだが、ダンテス・ダイジは、そんな社会的通念みたいなものすらおかまいなしに、そのものズバリで、人間の輪廻転生のメカニズムを明かしていく。だから一見質問と回答はかみ合っていないように見えるが、実はパーフェクトに回答は尽くされている。

 

それは、人は死ぬとまずこの万霊万象が一つながりになったもの、それはアートマン・第六身体のことだが、それに帰る。ダンテス・ダイジは、アートマン・第六身体のことを、アラヤ識、アカシック・レコード、愛、光、「今、ここ」などとも呼んでいる。

人は死ぬと、本人の自覚の有無にかかわらず、この一なるものに帰っていく。そして一枚の葉である人間は、前に出たところに近い枝から再生する。それをもって輪廻転生と称する。転生前後の二枚の葉は、大体似ているけど実は違う。それが実相。

この見方はとても機能的であって、いわゆる人間の側から見た見方ではない。この見方からは、一見、善悪や真善美などは引き出せないように見える。よって、このメカニズムだけをもってこの世の展開を考えると、ろくでもないことを真実だ真理だと吹聴し、そういうことを考えたり実行したりする手合い(カルト、拝金主義、利己主義など)が相当数出て来ることが想定される。それをダンテス・ダイジは、「ダンテスの悪影響」と呼んでいた。

ただし一なる者、一者、アートマンとは、神のことであり仏のことでありタオのことなのだが、それを冥想の中で確認できた人間の心にも行動にも、もはや悪はないことをあらゆる成道者が証明しているともいえる。

それを今の社会常識、科学の論理性の枠内で証明することはできないので、それについては直観的に「あなたはどう感じているか」だけが鍵になってしまうのだが。

さて、このメカニズムこそチベット死者の書で死の冒頭に原初の光が出現するのと符合し、このメカニズムが正しい事を承知している人はその線に沿って輪廻転生の説明を行っているものだ。それが釈迦であり、ダライ・ラマだと思う。

また、このメカニズムのもとで、閻魔大王の死後審判、縁起、一生のパノラマ回顧などがあるので、この基本線の理解がなければ、こうしたディテールの見方も誤ってしまうのではないだろうか。

 

ダンテス・ダイジは、一者と合一する「体験とはいえない体験」のことを三昧と称し、それを冥想修行の目標のひとつとして掲げている。

 

ダンテス・ダイジと弟子の座談。

『ダンテス「ただし、今言ったように、ここに瓶がある、10分後もここに置いたままならあるだろう、そういう範囲で転生っていうのはあるよ。うん。」

弟子「そうすると、死ぬっていうのは本質的に、人間に生まれ変われる分においてはそれほど苦痛ではないとして、なんかこういろいろ転生するじゃない。その辺のカラクリっていうか、なんでそんなことをやってるのかとか、自分が選んでやってるのか、誰かに命令されてやってるのか、その辺のカラクリは一体どうなっているのかな。」

ダンテス「それはね、たとえば木を見ればいい。一本の木があるでしょ。その木から枝が出てるでしょ。それで枝に葉っぱが出るわけだ。すると、今年葉っぱが出て、冬になると落ちると。来年になるとまた同じ場所から葉っぱが出るわけだ。そのとき、その出る葉っぱは、去年出てた葉っぱとは違う葉っぱが出るわけだ。」

弟子「まあ大体似てるけど違うっていう。」

ダンテス「そのときに、葉っぱを出させようとする形成力が、この枝自体にあるわけだろ。形成力が。その形成力の影響を受けて、前に落ちた葉っぱの後続としての葉っぱが出るわけでしょ。

同じ場所から出るとしたら、必ず何らかの形で、前に落ちた葉っぱの後続でしょ。全然関係ない葉っぱではないでしょ。その範囲で転生っていうのは起こるわけ。」

弟子「永遠の命っていうか、魂的なものが枝に値して・・・」

ダンテス「うん。転生っていうのはね、正確に言うと、魂が時間の上をこういう風に渡り歩くものではない。ではなくて、時間と空間と物質を全部ひっくるめたね、今っていうものがここにある。これをアラヤ識とかアカシック・レコードとかアカーシャとか空とか言うんだ。ここにある。すべてが。

で、ここにあるものの中に帰るわけ。帰った自覚がないけど、帰ってるわけ。それを自覚するために、冥想っていう経験がそれをはっきりさせるわけ。」

弟子「たとえば、三つの転生があるとするじゃない。これが今で、過去、未来だとするじゃない。

で今ここにいるとすると、帰るっていうのはどういうことになるの?」

 

ダンテス「ここに帰る。いつでも。これをあらしめている、元に帰るわけ。過去・現在・未来は、すべてここにあるわけ。」

弟子「それは未来に対する原因がここに含まれているっていう意味においては分かるけれども、そういう意味で言ってるの?」

ダンテス「ううん、そうじゃない。すべてがここにある。つまり、ここから出ていくときに、どういう形で現象化するかっていうことなの。現象化するには、時間と空間と物質っていう枠の中に移さなくちゃいけない。もともとあるものは、時間も空間も現象もありはしないわけ。ところが人間の観念が、そういう枠から世界を見ようとしている、その枠を作り出している。その枠を取り払うために冥想しろって言ってるだけ。

その枠っていうのは人間の中にある枠なんであって、動物においては世界は全然違う世界なんだよ。人間の枠がたまたま、過去現在未来とか時間とか空間とか距離があるとか勝手に思い込んでるだけだ。一つながりの命がある。それは光といってもいい、愛といってもいい。そういう命がびっしり満ちわたって流動しているのさ。命自体が。」

 

弟子「その枠っていうのは、どっからできたもの? 発生として。」

ダンテス「発生っていうのは、全体の命自体が具象化して、個々のものになるときに起こるわけ。だから、その枠が物語の原因なんだ。だからその枠を消しちゃうと、もう一つながりの命の中に溶け込んじゃう。それを三昧っていうわけだ。その三昧っていうのが、今度、具象化して、Aという人間、Bという人間になるためには、必ず枠の形式の中でそれが行われる。」』

 

ただ一つながりのアートマンは、時間、空間、物質という人間に特有の認識の枠にはめて見たり、考えたりすることができるのみ。

本当に確かなもの、レアな、生(なま)なアートマンは人間には想像することすらもできない部分を含む。

輪廻転生は、マンツーマン輪廻転生などではないが、生と生の間に全体(あるいは「有」、本尊、あらゆる現象)を挟むことで、単純に一対多とか、多対一と考えるも愚かなほどの多面性を持っている。

ダンテス・ダイジは、過去現在未来のどこに帰るのかという質問に対して、いつでもすべての時間空間物質を含むここに帰ると答えている。

またダンテス・ダイジは、ここに『帰った自覚がないけど、帰ってるわけ。』と答えているが、死のプロセスの最後には、見仏見神だけが起こっているのではなく、自覚がないけど神人合一が起こっているのかもしれない。もちろんその現象は肉体死だけでなく、くしゃみなどの隙間でも起こっているのだろう。そこで彼は、いつでも帰ると言っている。

ゆえに、『すべての時間空間物質を含むここ』と人間の社会的認識枠間を往還するには、コンマ何秒かの時間がかかるのだろう。それが刹那。

覚者は二重の世界観に生きるというのは、その往復があるということなのだろう。

また合気道の植芝盛平やボクシングの4階級世界王者井上尚弥はその刹那に生きているわけだ。

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メスナーの直観的な認識

2024-04-18 03:02:09 | 究極というものの可能性neo

◎禅的悟りの展開

(2010-08-12)

 

『先鋭登山家は生き残るためにきわめて直観的な認識を必要とする。彼は論理も能力も通じないところをくぐり抜けるために、一種の本能を働かせなければならない。

そういうとき彼はまたさまざまな感覚を極度に受け入れやすくなっている』

(死の地帯/ラインホルト・メスナー/山と渓谷社P169から引用)

 

これは、登山家メスナー自身の言葉だが、ここで働かせた「一種の本能」こそが、禅者の求めるところのもの。禅的悟りが展開したのだと思う。

 

この極めて「直観的な認識」を求めて、山に登らない人は、坐るのである。

 

さらに

『先鋭登山家はしばしば生に非常に貪欲であって、死を受け入れるにいたるまで非常に長い時間を要する。むしろ場合によっては、他人を犠牲にしても自分を犠牲にしないくらいのバイタ リティがあるのである。

しかし瀕死の体験によって、自分と無とが同じであることを理解した者は、死に対する姿勢が変わる。死を憧れたり、死んでいたほうがよかったものをということでなく、死ぬことをそれまでほど恐れなくなるのである。

登山家が、しばしば格好いい言い方で「命を賭ける」のも、自殺とは何の関係もない。彼らは登攀ルートの「計算された狂気」によって死へ赴こうとしているのではなく、実は生へ、自分自身へ到達しようとしているのである。

このことをすでにランマーがその著『ユングボルン』の中で明確に述べている――

「このころは私は山に入ると、以前よりずっと生命のぎりぎりまで肉迫した。しかし断わっておくが、死んでもいいというような気分でではない。逆に、まさにそこでこそ、私は私の中の一番奥底から、あくまで生き抜こうとする建設的な力がわき上がってくるのを感じたのであ る。」』

(上掲書P178から引用)

 

まず、『自分と無とが同じであることを理解した者』とは、最低でも見仏見神した人のこと。死をそれほど恐れないということだが、瞑想家で言えば、素直に自分自身に向き合えているということ。自分自身に向き合うことほど恐ろしいものはない。

歴戦の先鋭登山家が皆このようであったなら、とても素晴らしいことである。武道のような“登山”道を半ば極めている。

航空機パイロットの訓練や宇宙飛行士の訓練メニューは、最後の最後までどんな意外なインシデントであっても生き残る方法を求める方向であるらしいが、死に向き合っていることに関しては、先鋭登山家と変わりはない。

航空機パイロットや宇宙飛行士で瀕死のピンチから生還した人はどう思っているのだろうか。

なお登山でも飛行でも、その道で悟れば、クンダリーニとか言わないので、それは禅的悟りである。

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