アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

黄初平

2024-01-31 06:25:17 | 道教neo

◎石を羊に変容させる

(2010-10-15)

 

黄初平は、神仙伝に出てくる仙人。15歳の時に羊飼いとなった。ある道士がその実直なのを見込んで浙江省の金華山に連れて行き、その石室で40年以上修行に入った。

その兄の初起が山で何年も初平を捜したが出会うことはなかった。後に市中で初平を知る道士に出会い、その道士の案内で、山にいた初平に出会うことができた。

初起が初平に、40年前の羊をどこへやったと問うと、山の東にいるという。初起が山の東を見たが、一頭の羊もいなかった。すると初平は、「いや、いますよ。お兄さんには見えなかっただけですよ。」と答え、「羊よ、立て。」と叱ると、山中の数万の白い石は、ことごとく羊に変じた。

 

この逸話では、現実は思うがままに変ずることができるものだと思わせるが、その我が思いこそが曲者として、その修行の前途に立ちはだかる。その我が思いは、引き寄せの法則とか、安直な願望実現プログラムをいくらやったとしても、清浄になるわけではない。

我が思いの純粋なところがどこにあるかは、確かに何回もの人生の繰り返しの後に直観できるものだろうが、それは迂遠でもある。日々それを持って生きるのには、日々の冥想という習慣は要るのではないか。

画像は、黄初平のその様子で、雪舟が、南宋時代の画家梁楷の作を模写したもの。

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OSHOバグワン-5-今生-5-自我の結晶化

2024-01-31 03:07:57 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-37

◎青春期の垂直の道-37

◎願望実現と謙虚さ

 

第五身体とは、七つの身体の五番目でコーザル体のことである。OSHOの説明では、第四身体たるメンタル体の次に来るスピリチュアル体のこと。

これは自我の最後のステージであり、人間として最後のポジショニングとなる。

OSHOの説明だと、第五身体以下には中心がない。第五身体では中心があり得るが、通常は中心はない。そこで第五身体に中心を創り出す必要がある。そのことをグルジェフは結晶化と呼んだ。その中心は自我である。

第五身体に入ると自我の結晶化が起こる。自我の結晶化が起こって初めて無我が視野に入ってくる。無我はニルヴァーナであり、第七身体。

OSHOは、自我の結晶化した人の例としてヒトラーや、ムソリーニや、多くの富を享受した人や、一国の大統領になった人、そして釈迦やマハ-ヴィーラを挙げる。黄初平もそうした人の一人だろう。

OSHOの説明からすると、巨富や権力によっても、人は第五身体での自我の結晶化を実現することができる。しかしそれは第五身体単独のものであり、その場合、最後は身の破滅を招くことになる。

一方釈迦などの覚者が身の破滅を招かずに、その先のボディに進む理由について、OSHOは、肉体からメンタル体までのつまり第一身体から第四身体までのボディが協調していないと、その先には進めないとする。

その協調とは、何か。明快には書いていないが、その協調、バランスの証拠として、本心から来るところの謙虚さが見られることを、OSHOは暗に言いたいようである。その調整メソッドは冥想以外にはないだろう。

 

欲望・願望の実現という形で、人は自我の結晶化を進めるものだ。だから欲望実現・願望実現は否定されるべきではなく、王道であることは間違いないと思う。しかし、それも行き過ぎれば身の破滅となる。そのバランス、さじ加減が実に難しいものなのだと思う。悟りは難しいのだ。

ルネッサンスで近代的自我の構築という、第五身体での結晶化事業をこの近代西欧文明は始めたが、その結晶化は跛行的であり、決して美しくはなく、成功しているとはいえない。そして結晶化事業はその後も500年も継続され続けている。

今日も文明全体で、第五身体の結晶化を、人によりてんでんバラバラにトライアルしている。第五身体の自我の結晶化は文明の最終ステージであるが、その意義は、その先に飛び出すジャンプ台を構築しているようなものだ。悟りそのものではない。

OSHOは、自我の結晶化には気づいているだけでよく、しがみつけばその先のボディ(身体)へとジャンプできないとする。

(参照:秘教の心理学/OSHO P164-P168)

 

自我の結晶化は、見神(見性・見仏)の前段階なので、自我が結晶化して初めて棄てられることのできる自我ができるのであって、結晶化できる以前は、棄てようにも棄てる自我はないとOSHOバグワンは説明している。

ところがOSHOバグワンは、結晶化した事例として、ヒトラー、チムール、チンギス・ハーンなど権力欲で自我を結晶化させた人物をも挙げている。(秘教の心理学p172など)これらは悪玉だが、同様に結晶化した事例として、釈迦、クリシュナ、マハーヴィーラを挙げているのだが、真摯な求道者としては悪事の限りを尽くした権力者が自我の結晶化事例として挙がってきていることに当惑せざるを得ない。

これについては、デヴァとプレータという霊的存在の話が出されているが、それが参考になるように思う。

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OSHOバグワン-5-今生-4-コーザル体

2024-01-30 03:00:20 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-36

◎青春期の垂直の道-36

◎第五身体と両性具有

 

第五身体=コーザル体は最後の個別性。これより男女の別がないということであるから、両性具有という日常性を完全に逸脱したシンボルが、ここに登場する。

両性具有とは男女の別がないということであり、二元性つまり生と死やあなたと私の違いを超えるということであり、既にある種の悟りと称して差し支えないだろう。かなり決定的なシーンである。

幕末の剣豪山岡鉄舟が行きついた男女の別を超えた境地が、激しかった女郎屋通いをやめた口実くらいにしか考えられていないとすれば不幸なことである。

OSHOバグワンによれば、第五身体に到達した人間は睡眠中でも醒めている。ここにウパニシャッドの有名な課題である「熟睡中の夢も見ない状態」の回答がここにある。無意識的なところがすべてなくなるのだ。24時間常に醒めている。

OSHOバグワンは、この状態において至福があるという。

 

また彼によれば、コーザル体では無思考だから、第五身体に至った人のその思考なき実存の波動が、同じく思考なき猫などの動物を周辺に招き寄せるとするが、それを見て禅者は犬に仏性ありやなしやなどといじわるクイズをしかけたのではないか。犬は思考のないコーザル体のシンボルだとわかっている人間がその公案を置いたのかもしれない。

(参照:奇跡の探求2/和尚P179-P189)

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OSHOバグワン-5-今生-3-肉体からメンタル体まで

2024-01-29 03:33:06 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-35

◎青春期の垂直の道-35

◎七つの身体はそれぞれ別次元にある

 

七つの身体はそれぞれ別の世界、別の宇宙、別の次元に存在する。

七つの身体と呼びならわしているが、肉体からコーザル体までは個であり、個人であり、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナは、個ではない。第六身体アートマンは世界は一つというようなものだが、第七身体ニルヴァーナ=神=仏=道は、そういうことですら表現できないようなしろもの、つまり言葉をも現象をも超えたものであると語られる。

第一身体である肉体は、物質宇宙に存在する。

第二身体であるエーテル体は、エーテル宇宙に存在する。19世紀の英国降霊術で出て来るエクトプラズムがそれにあたるが、人間の死後数時間でエーテル体は、通常は崩壊すると言われる。エーテル体は半物質であり、「気」「プラーナ」である。

OSHOバグワンはエーテル体を感情の次元とするが、ダンテス・ダイジでは、感情は、アストラル体、メンタル体と見ている。

第三身体であるアストラル体は、アストラル宇宙に存在するが、もはや半物質ですらもなく、物質でない宇宙である。

OSHOバグワンは、アストラル体の機能を疑いと思考と言っているが、疑って何が正しいか判断し、それに向かって進むというのは自己実現self-expressionであり、この説明はアストラル体の説明というよりも、むしろマニピュラ・チャクラの説明であるように思う。

第四身体であるメンタル体は、アストラル体より微細な霊的宇宙つまりメンタル宇宙に存在するが、これも物質でない宇宙である。想念の次元とされる。

 

OSHOバグワンによれば男女の区分があるのはここまで(奇跡の探究2/市民出版社P180)。

この次元の特徴は想像と夢見、つまり想像することが完成までに達すると、物事はビジョンにとどまらず現実として実現する推進力を持つ。第三者がそれを目にした場合は、決断力・意志力に見える。

また遠隔透視・ビジョンの超能力もこのボディで起こる。マクモニーグルもこの能力でいろいろなことをやったのだろう。

このように想像を現実化する能力を手に入れればさぞ面白いだろうが、ダンテス・ダイジは、「そういうことが面白いということに留まっていれば、この世に生まれては来ない」という意味深なことを言っている。

またメンタル体は、夢見であると言うと、自分の日常のことだなどと誰も思わないが、OSHOバグワンは、ほとんどの人の日常が夢見にあって覚醒などしていないと指摘する。彼によれば人が本当に意識的であって覚醒しているのは、強盗にナイフを突きつけられて金を出せとやられているような時だけだという。(禅では醒めよ、覚醒せよと、この練習を繰り返すのだが・・・・)

こんなわけでOSHOバグワンは、この世は、完全に眠っている人の世界、夢遊病者の世界だと言う。メンタル体の夢見とは、我々の日常なのだった。ヤキ・インディアンの呪術師の下で修行したカルロス・カスタネダの小説でも夢見を盛んに言うが、それは単に観想法専修者の夢見を指すものではなかったのだ。

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OSHOバグワン-5-今生-2-幼少期

2024-01-28 03:19:59 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-34

◎青春期の垂直の道-34

 

OSHOバグワンは、勿論最初から悟りすました大宗教家然としていたわけではなく、最初の光明に出会うまでには2年位精神病みたいな時期があったし、肉体から初めて別のボディが分離した時は、ビックラこいたものだ。

彼の生家は、敬虔なジャイナ教徒であり、彼の父は毎日4~5時間冥想をする、相当に坐れる人物であって常人ではなかった。

彼は、今生では、生れ落ちてから、事情があって母方の祖父母に7歳の時まで育てられた。7歳の時に祖父が話をすることができなくなって、医者やアユールヴェーダの治療師もいない田舎の村だったので、牛車に載せて24時間かけて32マイル離れた街に運んで行った。

OSHOは、牛車に同乗して、言葉を失い、次に聴覚が失われ、目を閉じてと、緩慢に進む死の姿を真近にみた。チベット死者の書の「死のプロセス」を幼少にして実地に体感したのだ。

街に着いた時は、祖父は呼吸をしているだけで、3日を生きて、そして死んだ。

 

これ以後他人に対する愛着はなくなり、OSHOは一人でいることが彼の本質になったと述懐している。

一人でいるというのも重要なキーワードである。

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荘子の覚醒までのステップ

2024-01-27 04:47:20 | 道教neo

◎独存、不死不生

(2021-04-18)

 

荘子大宗師篇から。

聖人になる素質のある人間を聖人に育ててみたいがどうすればよいかと、女偊(じょく(亻禹))に対し南伯子葵が問うたところ。

『そうなる希望が持てないにしろ、聖人の道を聖人の素質のある人間に説くのは楽だ。私は改めてその修行を行って彼に教えてやった。

 

わたしは修行三日目にこの世(天下)を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること七日目に物質を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること九日目に生を超越することができるようになった。既に生を超越したので、光明を得た(朝徹:朝日がぱっと照るように大悟する。)

光明を得て後に独存となった。

独存となれば、古今はなくなり(今ここだけとなる)、古今がなくなってその次に不死不生という死も区別がない世界に入る。』

 

この次に攖寧(えいねい)の話が続く。

七つの身体論、特に第六身体から第七身体への展開や十牛図を知らないと、天下を超えるとか、不死不生が死の側から窮めるということであるなどは想像もつかないのではないか。

『原文:吾猶守而告之,參日而後能外天下;已外天下矣,吾又守之,七日而後能外物;已外物矣,吾又守之,九日而後能外生;已外生矣,而後能朝徹;朝徹,而後能見獨;見獨,而後能無古今;無古今,而後能入於不死不生。』

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OSHOバグワン-5-今生-1-七つの身体論

2024-01-27 03:40:54 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-33

◎青春期の垂直の道-33

 

OSHOバグワンの今生の成果というべきものは、七つの身体についての具体的な説明の数々だろう。クンダリーニ・ヨーガ修行者にとっては、ダンテス・ダイジの冥想法の説明だけではわからない部分が多く、OSHOバグワンの散発的ながらも論理的な説明の数々は、冥想修行の先の見えない道程を照らす灯台の光のようなものになるのではないかと思う。

たとえば、クンダリーニ・ヨーガについてパタンジャリのヨーガ・スートラやウパニシャッドを読んでも相互に矛盾することが書いてあったりして困惑することがある。

あるいは、ダンテス・ダイジがクンダリーニ・ヨーガを学ぶなら本山博のところに行きなさいと推薦していたことから本山博の著作を読んでも六つの身体なので、OSHOバグワンの言っている七つの身体ではないので、これまた当惑させられるものである。

クンダリーニ・ヨーガに限らず、チベット密教や西洋錬金術もそうなのだが、一つのテクニカル・タームが一つの段落の中で3通りの意味で使われるようなことはざらにあるもの。およそ神秘学徒、垂直の道の修行者の経典の読み方はそうしたものだが、それにしても真義がわからないと理解は進まない。

そしてそうした真義はしばしば正師から与えられる。

 

さらに垂直の道では、七つの身体についていえば、第一身体から第二、第三、第四、第五、第六、第七と順序に進むものではない。

それについてダンテス・ダイジは、

『肉体・意識・現象・宇宙・・・

そのありとあらゆる出来事・ ・・

これらは、

すべて肉体に属するものにすぎぬ。

どれほど高尚な形而上学的悩みも、

肉体あってのものだねだ。

一般に、

クンダリニー・ヨーガは、

アストラル体を基点とする。

マントラ禅や丹田禅は、

エーテル体を基点とする。

公案禅や只管打坐は、

メンタル体を基点とする。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P122-123から引用)

と示してくれている。

 

一個人についていえば、その人生においても、以前の何回かの転生においても一つの冥想法で最後まで行く人は少ないのではないか。ほとんどの人は、その人生において複数の師についたりして複数の冥想修行をやることはままある。だが、ある冥想段階において出て来た結果が、必ずしもその時に打ち込んでいる冥想法での結果とは限らず、過去世で修行していた冥想法の結果が出てくるということはあるもの。これは冥想の二重の不確実性の一つ。

このように確かなものが確定しにくい冥想修行の道であって、また言及したカテゴリーが広汎なOSHOバグワンではあるが、七つの身体それぞれについての説明をかいつまむのは、彼の全貌を知る一つのよすがになるだろうと思う。

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切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言)

2024-01-26 06:50:04 | 古神道の手振りneo

◎たまほこからみろくの世の光が始まる

(2017-01-10)

 

『切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言)/誰も知らなかった日本史/出口恒/ヒカルランド』は、内容的には、孝明天皇の話は『幕末戦慄の絆/加治将一』にも出ている話が多く、目新しさはあまりなかったが、出口王仁三郎に関する部分では、新月の光を相当に参照しており、このブログと似たような読み方をしていると思った。

孝明天皇の神社について、気になったのは、玉鉾神社の場所のこと。玉鉾神社のある武豊町は知多半島の根っこに近く例の『尾張半田の分断』の半田の分断ライン上である点である。孝明天皇は、封印を置かれたわけである。

本書では遺勅によると伊勢と熱田の中間などと述べているが、実はそんな悠長なことではなく、まさに玉鉾神社は地球ロゴスののど元、新時代の天の岩戸として置かれたという印象を持った。たまほこからみろくの世の光が始まるのである。

孝明天皇は尾張半田の分断まで霊眼で確認したのではないか。そうであれば、アメリカが21世紀になっても『末に日本を取る悪だくみ』についても見たことになる。それだからこそ、徹底攘夷だったのではないか。

 

切紙神示の

『一、大日本の三山はミセン山、ヨツヲ山、ホン九山、

一、ヨツヲ山は世をツグカミ山、寺山へコム、十里四方神のミヤコトナル』の

弥山山、四尾山、本宮山はいずれも綾部。大本の人なら誰でも知っているのだろう。この二文は綾部が世界の都となることを示す。(だが、まずは、いまここ)

この本は全体として出口王仁三郎フリークでないと興味もわきにくいのではないかと思った。

出口王仁三郎はあまりにも巨大すぎて一般人には捕まえづらく、大本教の教義の大要も、悲しいかな裁判記録での出口王仁三郎の発言に多くを依ったところがあるのではないか。霊界物語は古事記の復刻という位置づけではあるが、基本は古神道の修行者(クンダリーニ・ヨーギ)が修行のおりおりにヒントがないか参考とする本でもあり、あまり何年にどんな事件があったことがどう書かれているということにこだわってもどうかと思った。

 

出口王仁三郎はいまだに信者に対し、アストラルでもって白昼あるいは夢の中で出現しアドバイスを与え続けているというが、これはキリスト教におけるイエス出現のようでもあり、改めて出口王仁三郎は真正の宗教家であると確認した。

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機心

2024-01-26 04:50:59 | 道教neo

◎便利は危険

(2016-08-12)

 

機心は、荘子外篇の天地第十二に出てくる。

機械を使うと必ず機械に頼る仕事が増える。そうすると機会の便利さに慣れ、人間は注意を常に外に向け、本質ではない利害得失、メリット・デメリットばかり追うようになる。これが機心。

こうしてエネルギーと時間は節約され、本来でいえば、冥想によりそれを人間の内側に向けるべきものだが、逆にもっとエネルギーと時間を使わずに努力をせずに効果を得ることばかり考えがちになるものである。

現代人の日常生活では、機械ばかり使っているから、機心なき人はまずいないが、そこで人為的に冥想タイムを作り、心の純白を感得せねばならない。荘子では、更に、機心あれば、精神が定まらず、道はないとする。

 

『機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり。』

 

昨今世の中に狂人が多いのも、機心だらけのライフ・スタイルのせいか。

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OSHOバグワン-4-チベット密教高僧としての前世

2024-01-26 03:46:33 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-33

◎青春期の垂直の道-33

 

OSHOバグワンは、直前世ではチベットの高僧であって、山中で教団を率いていた。106歳の時、21日間の断食修行に入り、その修行が終われば入寂する予定になっていた。ところがその修行終了の三日前にその高僧は暗殺され、21日間の断食修行は、完成しなかった。

OSHOバグワンは、今生で誕生した直後の三日間は、乳を飲まなかったが、これは前世の断食修行を継続したもの。さらに21歳で大悟覚醒したのは、チベットでの前生の最後三日間の修行について、1日あたり7年かけて三日分で21年をかけて完成したのだという説明をしている。

さらにOSHOバグワンが、この話をした理由は、彼自身の過去世そのものに何か価値があるからではなく、弟子たちが自分自身の過去世を知れば、前世での冥想修行の到達点を確認してそこから今生で冥想修行を積み重ねて行けるからであるとしている。それがなければ、無限の生の中で迷子になって、どこにもたどり着くまいと言っている。

(参照:反逆のブッダ  ヴァサント・ジョシ  めるくまーる社P41-51)

 

カルマパ十六世もダライラマ14世も、OSHOバグワンの神性を評価しているが、世間は必ずしもそうではない。

その言説は高邁過ぎて側近でもちゃんとわかっている人は一握りだったのではないか。

 

またOSHOバグワンは、第三の目についても言及があるが、ロブサン・ランパ第三の目の外科手術の話の真偽とは全く別の話である。

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社会的成功ほど失敗する

2024-01-25 04:52:28 | 道教neo

◎人生の安物買い

(2016-07-21)

 

この貧富の差が大きく、子供の貧困6割、非正規就業4割の下層が半数を占める時代に無用こそ真の用であることを理解させるのはなかなかむずかしい。千利休らが茶道具の値をつり上げて高く見せたのは、畢竟失敗だった。天下人秀吉に侘び数寄の無用の用を見せたのは、大成功だったが、後継者たちは軒並み茶道具の値の高さに目を奪われたきらいがある。

 

久松真一が茶道の徳を格調高く説明してみせたが、そんなに綺麗に説明できるものなら、世の中の茶の湯者はもっと増えていよう。

 

前世に荘子だったOSHOバグワンが荘子を語る。

 

『まわりを見まわしてごらん

成功した人々を見てみるがいい

政治家やら財産家、大実業家たちを

彼らにはどんなことが起こっているね?

彼らの所有している物を見るんじゃない

彼らそのものを直接見なさい

 

なぜなら物を見てしまったら欺かれる

物は胃カイヨウにならないし

車は心ぞう発作にもおそわれない

邸宅は入院することもない

 

だから物を見てはならない

見たらだまされる

人を見なさい

 

あらゆる所有物を取り除いたあとの

その人そのものを直接見るがいい

そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう

そうなったら乞食でさえ金持に見える

そうなったら、〈生〉に関するかぎり

貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

 

成功は失敗する

成功ほど失敗するものはほかにない

なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ

あらゆるものをつかまえそこなうからだ

 

成功する人は実際安物買いをする

ニセ物のために本物を投げ捨て

浜辺にころがる色のついた小石のために

内なるダイヤモンドを捨ててしまう

小石を集めてダイヤモンドを失うのだ

金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

 

だが、あなたがたは野心の眼で見るから

所有している物のほうを見る

政治家を見ないでその地位を見る

その大臣職を、その権力を見る

 

あなたはそこに坐っているまったく無力な

すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない

歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・

彼は権力を買った

が、その買物のなかで自分を失った

そしてそれはすべて安物買いなのだ』

(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)

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OSHOバグワン-3-荘子としての前世-3

2024-01-25 03:39:34 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-32

◎青春期の垂直の道-32

◎荘子-3

 

7.荘子の7つのチャクラ

儵(しゅく)という名の南海の帝王と、忽という名の北海の帝王とが、ある時、世界の真中の『渾沌』の支配する国で、一緒に出会った。渾沌に歓待されたお礼として、儵と忽は、穴のなかった渾沌に毎日一個づつ穴を開けていったら、一週間目に混沌は死んでしまった。

七つの穴とは、目2、耳2、鼻2、口1の合計七つの穴だという解説もあるが、実は7チャクラのこと。7チャクラを窮めれば、死の世界に入らざるを得ない。

 

8.荘子の覚醒までのステップ

まず女偊(じょく(亻禹))の覚醒までのステップ。

『わたしは修行三日目にこの世(天下)を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること七日目に物質を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること九日目に生を超越することができるようになった。既に生を超越したので、光明を得た(朝徹:朝日がぱっと照るように大悟する。中心太陽を見たか。)。

光明を得て後に独存となった。

独存となれば、古今はなくなり(時間のない世界で、過去現在未来が一体になった今ここだけとなる)、古今がなくなってその次に不死不生という死も生も区別がない世界に入る。』

(荘子 大宗師篇)

 

独存は、クンダリーニ・ヨーガのテクニカル・ターム。宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る状態があるが、この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。

 

次に攖寧(えいねい)の説明が続く。

『生きている者を殺す者に死はないし、生き物を生む者に生はない。

道というものは、送らないものはなく、迎えないものはなく、破壊しないものはなく、作り上げないものもない。

その名を攖寧(えいねい)という。攖寧とは、攖(みだ)れて後に成るものである。』

(荘子 大宗師篇)

 

ここは、道(タオ)と自分が合一した立場であって、道は生きる者を殺すが死はなく、道は生きる者を生むが生はない。(生は死の一部であって、その意味で生は死と同じという、垂直の道の立場。)

これは、死の中に生が包含されるがゆえに、死と生を区別しない立場。

 

9.我は死に憩う

『大自然は、

我を大地に載せるために身体を与え、

我を労するために生を与え、

我を安んずるために老いを与え、

我を憩わせるために死を与える。』

(荘子 大宗師篇)

 

だから、こんなことも言う。

『古の真人は、生を喜ばないし、死をいやがらない。生から死に出ても喜ばないし、死から生に入っても拒まない。』

(荘子 大宗師篇)

 

詮ずるところ、荘子にとっては、生と死を比べると死の方が憩いを与えてくれるものであり、生より好もしい。そして何より生から死に入ったり、死から生に出たりするのも自由であるということ。

 

生より死の方がメインであって、道を中心に据えているのは、垂直の道の立場である。

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黄帝が広成子のアドバイスを受ける

2024-01-24 04:49:31 | 道教neo

◎至道の精、窈窈冥冥たり

(2015-09-08)

 

荘子の在宥篇から。

帝王である黄帝が引退し、師匠の広成子に会ってアドバイスを受けるために、個室を作り白茅を敷き、そこで3か月間精進潔斎した。そこで、再度広成子に質問をした。「どうすれば、長久たり得るでしょうか」と。

 

すると広成子は、以下のようにアドバイスした。

 

「至道の精、窈窈冥冥たり

至道の極、昏昏黙黙たり

視ること無く 聴くこと無く

神を抱きて以て静ならば、形将(まさ)に自ら正しからんとす」

 

至道の精は、奥深くぼんやりしている

至道の極は、ひっそりとして暗く静かである

見るでもなく、聞くでもなく

神を抱いて、静ならば、その肉体は、自ずから正しく矯正していくものだ。

 

静であって清であって、自分の肉体を労することなく、自分の精神を動揺させることがなければ、長生できよう。

 

目に見るところなく、耳に聞くところなく、心に知るところなければ、自分の精神は肉体を守ろうとするだろう。そこで肉体は長生するのだ。

 

上記の「目に見るところなく、耳に聞くところなく、心に知るところがない」とは感覚刺激を超えてはいるし、想念も停止している。想念停止とは、時間のない世界であるから、ここで云う長生とは、老人になって長生きすることを指すのではない。永遠に生きることを言っているように思う。

 

肉体の話にしないと、とっかかりがないからね。

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OSHOバグワン-3-荘子としての前世-2

2024-01-24 03:22:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-31

◎青春期の垂直の道-31

◎無用の用

 

4.無用の用

OSHOバグワンが無用の用を語る。

『卑小な精神だけが一貫性をもつ

マインドは狭ければ狭いほど、より一貫性をもってくる

 

マインドが広大であるときには

そこにはあらゆるものが巻きこまれて入っている

 

光があり、暗闇がある

神があり、また悪魔もある

すべてがその十全な栄光の内にある

 

もしあなたに

〈生〉のこの神秘的なプロセス、逆のものを通じて動く

この弁証法的なプロセスが理解できたら

逆のものどうしが助け合いバランスをもたらし

抑揚を生み背景を創り出すこのプロセスが理解できたら

そのときこそはじめてあなたは荘子を理解できる』

(虚空の船(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社P49-50)から引用)

 

OSHOバグワンは、無用の用のことをここでは、『逆のものどうしが助け合いバランスをもたらし、抑揚を生み背景を創り出すプロセス』としている。

 

さて時間には瞬間と瞬間の間に隙間がある。その瞬間と瞬間の隙間についてOSHOバグワン(Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から)は、『この隙間があるからこそ、現象全体、世界全体は一瞬して無に帰すことができるのだ』ととれるような怪しげな説明をしている。原子と原子の間に隙間があるようにこの隙間があるのだとして、その隙間により世界全体、現実全体は無となる、と。そう言えるのは、パタンジャリが、その無になるシーンを見たからこそだ、とも言う。

すべては無から出て無に消える。これは空のことであり、現実の色即是空、諸行無常に加え、アートマンがニルヴァーナたる道に晋(すす)むことをちらつかせている。

この現実、この世界全体が無から出て無に帰るのであれば、それは無用で無駄、非効率の極み、メリットなしである。すなわち、この現実、この世界全体が無用なのだが、それは見る者であるあなたが覚醒するためだけにおいて有用である。

 

5.社会的成功ほど失敗する

OSHOバグワンが荘子を語る。

『まわりを見まわしてごらん

成功した人々を見てみるがいい

政治家やら財産家、大実業家たちを

彼らにはどんなことが起こっているね?

彼らの所有している物を見るんじゃない

彼らそのものを直接見なさい

 

なぜなら物を見てしまったら欺かれる

物は胃カイヨウにならないし

車は心ぞう発作にもおそわれない

邸宅は入院することもない

 

だから物を見てはならない

見たらだまされる

人を見なさい

 

あらゆる所有物を取り除いたあとの

その人そのものを直接見るがいい

そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう

そうなったら乞食でさえ金持に見える

そうなったら、〈生〉に関するかぎり

貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

 

成功は失敗する

成功ほど失敗するものはほかにない

なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ

あらゆるものをつかまえそこなうからだ

 

成功する人は実際安物買いをする

ニセ物のために本物を投げ捨て

浜辺にころがる色のついた小石のために

内なるダイヤモンドを捨ててしまう

小石を集めてダイヤモンドを失うのだ

金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

 

だが、あなたがたは野心の眼で見るから

所有している物のほうを見る

政治家を見ないでその地位を見る

その大臣職を、その権力を見る

 

あなたはそこに坐っているまったく無力な

すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない

歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・

彼は権力を買った

が、その買物のなかで自分を失った

そしてそれはすべて安物買いなのだ』

(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)

 

6.機心

生成AIもPC、スマホも人間の覚醒の邪魔である。生成AI、PC、スマホを使う心を機心と云う。

機心は、荘子外篇の天地第十二に出てくる。

機械を使うと必ず機械に頼る仕事が増える。そうすると機械の便利さに慣れ、人間は注意を常に外に向け、本質ではない利害得失、メリット・デメリットばかり追うようになる。これが機心。

こうしてエネルギーと時間は節約され、本来でいえば、冥想によりそれを人間の内側に向けるべきものだが、逆にもっとエネルギーと時間を使わずに努力をせずに効果を得ることばかり考えがちになるものである。

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至人は己れなく、神人は功なく、聖人は名なし

2024-01-23 04:46:41 | 道教neo

◎荘子とOSHOバグワン

(2017-09-09)

 

荘子の逍遥遊篇から。

 

『若し夫(そ)れ天地の正に乗じて六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且(は)た悪(いずく)にか待たんとするや。

 

 故に曰わく、「至人は己れなく、神人は功(いさおし)なく、聖人は名なし」と。』

 

※六気:天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。または、寒・暑・燥・湿・風・火。

 

大意:

『もし天意を体して、六気により世界をコントロールし、無窮に遊ぶ者は、もはや何を頼みとすることがあろうか。

 

至人は、ニルヴァーナを承知しつつ生きるので己れなく、神人は天意神意を生きるので功(いさおし)なく、聖人はなにもかもないところに生きるので名がない。』

 

荘子はクンダリーニ・ヨーガの奥義体得者であるので、世界の気によるコントロールなどという表現がある。

 

OSHOバグワンは、自らの前世は、古代のチベット僧などととぼけているが、ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンの前世は、荘子であるとみている。

 

荘子は、全般に弟子たちの面倒を親身にみてやろうという姿勢が薄く、自らあちこち逍遥して遊びまくってはいるが憂き世の俗人の苦悩の解決にはあまり真剣とはいえないところがある。

 

こうしたところは、OSHOバグワンがプーナとオレゴンにコミューンを作りながら、あまりその経営に熱心とは言えなかった風であるところに共通点を感じさせられる。

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