アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

上実下虚と下実上平

2024-06-20 06:40:14 | 浅い霊感から神人合一まで

◎憑依と脱身

 

日本では、古事記以来帰神の伝統があるので、神下ろしすなわちシャーマニズムが津々浦々にある。神下ろしに好適な状態は、上実下虚。本山博によれば、上実下虚は、気が胸、背部、頭部に上がった状態で(上実)、特にスワジスターナ(丹田)とムラダーラ(会陰)で気が足りなくなった状態を言う。

この状態は、非常に不安定な状態であって、変な霊がとりつきやすい状態である。こうなると呼吸は速く、浅く、心拍も速く、意識はぼーっとしていて、神仏の信仰心がないか薄い場合は、アストラルの変な霊がとりつきやすいという。

これに対して、ムラダーラ、スワジスターナが気が充実し活性化され、胸部、頭部が羽毛のように軽く、明るく、呼吸がないようになるのが、これが、下実上平。

(以上参照:神秘体験の種々相1/本山博P172-179)

 

下実上平は、定(有想定、無想定)の状態で、自分がまだ残っている状態。この場合は、上実下虚はダメで、下実上平はよしというように書いているが、

脱身直前は、あらゆるエネルギーが頭部に集まることは知られている。ババジの絵で、両目が上方を向いているのを見たことがあるだろう。つまり、脱身直前は、上実下虚になるのだ。

 

だから一概に、上実下虚はダメで、下実上平がよいとは言えない。

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オージャスの実際

2024-06-18 03:23:19 | 浅い霊感から神人合一まで

◎エクソシストよりニルヴァーナを生きること

 

房中術といえば、接して洩らさずであって、それでため込んだエネルギーのことをオージャスと呼ぶ。

 

ダンテス・ダイジのオージャスへのコメントは、次のようなところ。

1.隠者タイプのヨーガ行者は、ある行法によって、情欲をオージャスという霊的エネルギーに変換することができる。

2.だがそれは隠者タイプの人間に適合した生き方であって、この世の人間生活を余すところなく全うする生き方ではない。

3.オージャスというエネルギーは超能力・霊能力といった心霊能力に変換できる程度のもの。

4.そうした心霊能力でもって、邪悪な霊を追い払ったり支配するよりも、もともと邪悪な霊など存在しないという大悟覚醒の中で、あるがままの人間生活を送ることの方がより豊かな霊的生活である。

 

これは、オージャスを蓄積する中で、霊能力が開けるが、霊能力行使に気をとられることなく、ニルヴァーナという神人合一を目指し、神である自分を生きることの方が健全だということ。

 

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ホルスの目

2024-03-25 07:44:56 | 浅い霊感から神人合一まで

◎護符の効果と功罪

 

ホルスの目(ウェジェトの目(左目))は、ホルスが父オシリスの仇であるセトを討つ時に失われたが、(この左目はホルスの下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後)知恵の神にして月の神・時の神であるハトホルによって癒され(ホルスの下に戻り)、回復した。

そのため、「ホルスの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルスが癒された目を父オシリスに捧げたというエピソードもある。

また、守護神としてのウェジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。

 

大英博物館の猫像(Gayer-Anderson:https://www.britishmuseum.org/collection/animals/gayer-anderson-cat)は、猫神バステト神の一変化だが、胸のホルスの目の護符が印象的。

またツタンカーメンの副葬品でもホルスの目の護符(https://egypt-museum.com/winged-scarab-pendant-of-tutankhamun/)が見事である。

 

護符というものは、用いれる人と用いれない人がいると思う。霊道が開いている人、霊道が開いていない人ということであって、誰もがアクセサリーだから買ってもよいということにはなるまい。護符効果については、よくよく考慮すべきだと思う。生兵法は大怪我のもと。

違法賭博ではないが、素人が手を出すべきものではないものは世の中には多い。

 

北欧神話でも片目を捧げて全智を得るモチーフはある。

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死んだ犬の霊を猫に移す

2024-03-06 15:43:16 | 浅い霊感から神人合一まで

◎出口王仁三郎と野良猫

 

出口王仁三郎が、野良猫を年季を定めて飼ってやる話。これは、昔は、猫が普通にネズミを捕って野良猫として自活できていた頃のこと。猫は去勢しなければ1年で37匹に増えるそうだから、明治大正では、野良猫としてリリースすることに何の抵抗もなかったのだろう。

なおこの話には、死んだ犬の霊を猫に移したくだりが出てくる。結果としては不調に終わっているのだが、リードビーターらがクリシュナムルティでも同じようなことをしようとしたのは有名な話。

『猫

 

猫の毛を逆に撫なでると火が出るのは、強い電気が起おこつてゐるからであつて、猫ほど電気に感じ易い獣はない。天候をよく感知すると云はれてゐるのもこれが為である。それがため又また霊的には甚だ怜悧であり且つ執拗である。昔から犬や馬の化けて出た話は滅多に聞かぬが、猫の化けて仇をした話は屡々しばしば聞く所である。最初に飼ふ時に『お前は一年間だけ飼つてやるから』といひ聞かしておいて、もし一年経つて飼主が前に云つたままで忘れて了つてゐると、猫の方はチヤンと覚えてゐて、知らぬ間まにどこかへ行つて了ふものである。

だから一年経つた頃に『これからもう一年だけ飼つてやる』と年期を延ばして云ひ聞かしておくのである。斯うして猫に年期を切ると云ふのは、もし飼ひつ放ぱなしにしておくと、中には年月が経つと共に一種の霊力を具へて人を驚かしたりする事がままあるからであらう。猫が死人を踊らした実例は私も知つてゐる。

犬の霊が猫に憑(うつ)つた面白い実例があるから話さう。綾部のある信者の家に一匹の犬を飼つて非常に可愛がってゐた。この犬が病気で死ぬる時、主人が『お前の肉体は死んでも、魂は残って飼猫に憑(かか)れ』と云ひ聞かした。すると間もなくこの犬の死と共に飼猫の生活状態は俄然変化して来て、食物から挙動から一切が犬と同じやうになつて了(しま)つた。そして家族の人等が他出する時などには、何時も前の犬のやうに先に立つて送り迎へをするのであつた。私が其の家から帰る時などには必ず送つて来た。併(しか)し何分本来肉体は猫なのであるから、食物の関係などから身体の工合を損じ間もなく斃れてしまつた。

所が又不思議なことには、その猫が死ぬる時に『この肉体が亡びても、この仔に憑(かか)つて居れ』と云ひつけた所、その猫の死と共に今度はその仔猫が急に犬の真似をやりだしたのであつた。がこれも亦(また)不幸短命で終つた。精霊が二つであるから勢ひ肉体の統一、調節がとれ難く、無理が多くなるので短命に終り勝ちなのである。世間一般の千里眼とか天眼通とかの出来る霊術家が大抵短命で終るのも、実は自己以外の他の精霊の助けを借りてゐるが為で、前の猫の例と同じ理由によるのである。

兔に角かく家畜でも草木でも元来が人に属してゐるものであつて、主人の身代りに飼犬や飼猫が死んだり、又主人の死ぬる前に愛木が突然枯れたりなどするのをみても、如何に人と是等とが密接な関係にあるかが分かる。家畜や庭木が元気なのは、その家の盛運を物語つてゐるものである。

又人の言霊が如何に痛切に是等のものに作用するかといふ事も、前の猫に対して年期を切る場合などで分わかる。果樹などに対しても『来年沢山実みをつけぬとブチ切つて了ふぞ』と威(おど)すと、その翌年は思つたよりは沢山になるものだと云ふことである。』

(出口王仁三郎全集第五巻P561-563から引用)

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白猫のしろちゃんはかなくも死す

2024-03-06 03:19:35 | 浅い霊感から神人合一まで

◎なきがらも残さず去りぬ

 

2月に零度近い朝が続いた二晩目の夜、前夜からずっと寝床を動けなかった猫のしろちゃんは、あっけなくも去りました。

 

しろちゃんは、地域猫で、純白の白猫で目が青いです。もともと7,8年前に白猫の母から生まれた三兄弟の一匹で、他の兄弟は、茶白とキジトラ。ごみ集積場の前で母子が餌を探しているのが朝の風物詩でした。

母猫も兄弟猫もとっくにいなくなりました。

 

4年ほど前に、ベランダに猫の寝床用に置いたダンボール箱にしろちゃんが疥癬を罹患して黒まだらの汚い姿で動けなくなっていたのが、本格的なお世話の始まり。

洗濯ネットに収容し、そのまま動物病院に運び、疥癬の治療と、寄生虫駆除薬や三種混合ワクチンを打ってもらいました。

疥癬の治療は、3か月くらいかかったのだが、その間去勢も行い、3か月後には純白青目のイケメン猫として元気に野良に戻って行きました。

しろちゃんはわりに凶暴な猫で、最後までだっこはできませんでした。最初の頃は餌を上げようとするとその手にパンチが来ましたが、最近は餌を上げようとするとちょっと下がるようになってくれました。

 

疥癬から回復して再リリース後、地べたに寝ていると白が灰色になるので、見かねて、外に木製猫ハウスを置いて、中の床に断熱スチロール、上にクッション、タオルを重ねて入れたら、2週間くらいで猫ハウスを定宿にしてくれるようになりました。晴れて白猫になったのです。えさは三食。

冬は、零下5度くらいになる日があり、4年ほど前からシリコンみたいなゲル状の湯たんぽ(湯たロン:(株)アイスジャパン;アマゾンで買えます。)をタオルの下に入れてあげるようにしました。ユタロンは、電子レンジで600W4分で42度になり、暖かさは外気温0度ならさめて外気温になるまで6、7時間。また外気温10度なら外気温になるまで8時間程度はもつ。湯たロンは電気火災の心配がなく、野良猫向け保温用具として優れモノです。

耐久性は、200回程度使用と箱には書いてありますが、1回に湯たロン2個加熱、8時間毎に1日3回交換、4個体制で回して、一日に1.5回加熱、一冬で100日として、一冬150回加熱ですが、3冬くらいもつ印象です。湯たロンのビニール袋が破けて中味が出てきて1個オシャカになったのが、3年目くらいでした。

猫は寒がりで、人間より体温が高いです。漆黒の深夜、湯たロン交換する際、冷えた湯たロンはしろちゃんのお腹の形にいつも凹んでいます。

湯たロンがあっても家の中で暮らす人間や家猫の方がはるかにぬくぬくと暮らしていることを思い、厳寒にユタンポ(湯たロン)だけで堪える野良猫の苛酷さを改めて考えさせられるものでした。

しろちゃんは、やもりを捕まえるのも下手でハンター(ハンター猫ならジャンプ一番真上から捕まえるが、しろちゃんは横パンチであって捕まえられない。)ではなく、人から餌をもらえないとやっていけない悲しい宿命を持った猫なのです。その癖、しろちゃんは喧嘩っ早く、武闘派でした。

 

最期の夜中に、私は床の中で、しろちゃんが鳴く声を何回か聞いたのですが、それが最後になりました。翌朝猫小屋に、しろちゃんの姿はありませんでした。

享年は、7,8歳。野良猫の寿命は3,4年というが、長い方ではある。それにしても猫小屋で寝込んで動けなくなってから3日くらいで亡くなるものなのか。人間も水と食料がないと3日で死ぬが、猫も一緒か。

 

出口王仁三郎の随筆に野良猫を〇年だけ飼ってやると言い含めて飼ってやるシーンがあるが、その年季が明けたら猫は野良に戻る。私はそれを猫に対して残酷なしうちだと思ったのだが、今皮肉なことに自分も瀕死の野良猫に対して何もできなかったという無力感に打ちひしがれている。もっとお金と情熱があれば、さらに数年の延命はできたかもしれない。だが、自分の力ですべての野良猫を幸福にすることなどできやしないのだ。

 

わたしは、しろちゃんのなきがらを確認してはいないが、猫は屍解する(死体を残さず虚空に消える)ということを信じている。出口王仁三郎も猫の屍解を認めているのだ。

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西洋錬金術の皮をかぶった冥想道

2024-02-10 19:44:43 | 浅い霊感から神人合一まで

◎OSHOバグワンとC.G.ユング

 

OSHOバグワンが、西洋錬金術は、冥想道だと言明している。

『化学は錬金術の副産物だ。

錬金術は、僧侶や法王から瞑想の真理を隠すための努力であったにすぎな い。

その外観の裏側には、純粋な宗教性以外の何ものもなかった。』

(狂人ノート/OSHO/和尚エンタープライズジャパン P93から引用)

 

西洋錬金術は、神にアプローチするためのメソッドだが、そうであることを教皇にも枢機卿にも平信徒にも知られてはならなかった2千年。

 

心理学者C.G.ユングは、西洋錬金術文書を題材に、心理における人間の人格的統合を目指すみたいなことを頻繁に述べているが、西洋錬金術が神に至る冥想メソッドであったことは百も承知だったのだろう。

それを公然と言ってはならない、宗教の伝統、社会規制、タブーというものが依然として厳然とあるのだろう。

 

あのニュートンが、西洋錬金術の大研究者であったことは、生前は秘密であって、死後の現在は有名だ。

 

異端、村八分というものは、どの社会であっても恐ろしいものだ。

 

本当のことだからといっても、言えないことはある。

 

西洋錬金術は垂直の道である。

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霊肉脱離

2023-12-28 06:36:29 | 浅い霊感から神人合一まで

◎善霊の場合は頭から脱け出す

 

以下は肉体死に際しての出口王仁三郎による説明。肉体死のほとんどでは、大悟覚醒には至らないが、垂直の道の修行者は、心得ておくべき知識だろう。

『靈肉脱離

霊肉脱離の状態は善霊の場合は頭から脱け出し次に胴体、手足と順次に脱け出して霊体を形づくり全部脱離した時、すっくと立ち上る。その時現在までの肉体に相対してそれを見守りつつとすこしも怪しまぬ、他を見るやうな態度になつて居る。悪霊の場合には足から一番に脱離を初め、胴、手、頭と順々に離れて来て最後に頭が分離するや否や霊体はするするとすべって奈落の底に墜ちて行くのである。』

(月鏡/出口王仁三郎P132-134から引用)

 

善霊の場合というのは、天国・極楽行きの場合を想定しているが、大悟覚醒(大神)に向けて発出する場合のヒントも含まれている。それが『頭から脱け出し』の部分。サハスラーラから出るということである。

この文では、離脱して自分の肉体を見ると書いてあるが、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』では、そういうシーンは描かれていないものの、OSHOバグワンの最初の肉体離脱体験をはじめ、アストラル・トリップものでそういう描写を見ることはままある。

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石槍の雨の密意

2023-09-09 07:08:44 | 浅い霊感から神人合一まで

◎人の生き血を食らう人の頭を砕く石の雨

 

9月8日の仕組について参考となる石槍の雨(霊界物語第16巻第六章)の密意について。

この部分のあら筋は、

  1. 神素盞嗚大神、国武彦命、また亀彦、英子姫、悦子姫らは聖地桶伏山の蓮華台上に上り、天神地祇・八百万の神々を集めた。神素盞嗚大神は、国武彦に何事かを密かに任命し、ミロク神政の三十五万年後の再会を約して、丹頂の鶴に乗って東を指して飛んでいった。
  2. 国武彦命は亀彦、英子姫、悦子姫らに何事かをささやき、万神に厳格な神示を与えた後、ひとり四王の峰の彼方に姿をお隠しになった。
  3. 残った亀彦らは再び大江山に進むこととなった。ところが悪玉の鬼彦らは、秋山彦の館を襲い、遠く去ったはずの神素盞嗚大神、国武彦を始め、秋山彦ら三五(あなない)教の七神人たちを生け捕って、その駕籠を担ぎながら悪の本拠地大江山の山道を登っていった。
  4. すると、一行を石つぶての槍雨が襲ってその場に打ち倒されてしまう。気がつくと、捕らえたはずの神素盞嗚大神らは駕籠を抜け出して、笑っている。
  5. なおも悪玉軍団は改心しないので、天から今度は鉄の切っ先の槍が雨あられと降って来て、悪玉軍団は重傷を負う。
  6. 秋山彦は天の数歌を唱えた。すると悪玉軍団らの身体は癒え、あちこちに喜びの声が満ちた。秋山彦が三五教への帰順を促す宣伝歌を歌うと、悪玉鬼彦らは感謝の涙に咽んだ。
  7. 悪玉軍団の様子は、皆虱の如き弱虫な人の生血を朝夕に 漁って喰らう奴ばかりであって、沢山絞つて蓄えた身体の中の生血をば、吐き出すための神の業が、頭を砕く石の雨なのだと説明している。

 

霊界物語では、悪玉の命を奪うことなく、生かしたまま改心させる。悪玉を命の危険があるような重傷にさらして、マントラでその怪我を回復させて、神威を悟らしめれば、善人として復活するというのは、思えば何でも現実化する霊界風の安直さだが、現世の人にはそこはやや説得力がないように思う。この部分が密意。

また人の生き血を食らう人の頭を砕く石の雨のくだりも密意。

もう一つの密意としては、神素盞嗚大神、国武彦など善玉軍団の中心メンバー全員が拘束され、悪の本拠地大江山に護送されるようなことがあるということ。これは、本物の聖者であるほど殺されがちという法則に則るもの。

さらにもう一つの密意としては、善玉軍団に石つぶても鉄槍も降り注ぐがなぜか当たらず、悪玉軍団にだけ当たるということ。これを子供だましと考えない人だけが真相を知るのだろう。

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9月8日のこの仕組雑感

2023-09-08 07:49:46 | 浅い霊感から神人合一まで

◎日付としての9月8日とシンボルとしての9月8日

 

2023年9月8日は、本州を台風が直撃している。

『9月8日のこの仕組』については、過去何回か書いているが、暦日・日付としての9月8日とシンボルとしての9月8日という意味がある。暦日・日付としての9月8日は、その日付を神様がお使いになったということで、それなりの意味はあるが、我々凡俗にとっては、自分自身の覚醒という点でシンボルとしての9月8日の意味の方が大きい。

 

1.暦日・日付としての9月8日

 1868年九月八日 明治と改元。

 1921年九月八日 出口王仁三郎霊界物語の開始の神命を受ける。

 1931年九月八日 満州事変勃発。

 1945年九月八日 出口王仁三郎、治安維持法、不敬罪共に棄却(約7年収監、1942年8月7日に保釈)。

 1951年九月八日 サンフランシスコ講和条約 調印。

 

2.シンボルとしての9月8日

9月8日とは、至福千年つまりみろくの世のスタートを9月9日としてその前日。現代はその前夜であり、9月8日の晩に当たる。

花は咲いて実を落とし再生する。これが梅で開いて松で治める、その間に竹という最終戦争が挟まっている、松竹梅。時系列で言えば、先に完成である松があるのは変だと思うかもしれないが、これは、ニルヴァーナを先に置く、古代秘教風の書き方であってオカルティスト的には普通ではある。

9月9日は、ニルヴァーナであり、モクシャであり、至福千年だが、四四十六の十六菊で表現する。ツクシは筑紫で尽くしだから、十全、完成の義。

 

『九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治めるといふ意義である。九月とは松で治める意義、八日とは梅で開く意義である。』(霊界物語第7巻総説から引用)

さらに、

『今日は九月八日という記念すべき日であります。由来大本では九月八日を非常に尊重するのであります。何故なれば九月九日は菊の節句であり、九月八日は之に先立つ事一日であつて、何事も世の中に先端を切り、来らむとする事を前つ前つに覚つて実行してゐるからであつて、之を九月八日の仕組といふのであります。

 又五月五日は菖蒲の節句でありまして、六菖十菊といつて六日の菖蒲は後の祭であり、十日の菊はもう時節が済んでゐるのであります。宗教家でも、政治家でも、教育家でも、悉く世の後端を行つてゐるのに反して、皇道大本は常に九月八日の仕組で先端を進むのであります。

 霊界物語を始めましたのは大正十年旧九月十八日でありましたが、御神命は九月八日に降つたのであります。その時は恰も大本事件、九月五日の第一審で懲役五年を言ひ渡された当時で、その日から三日目に神命が降つたのであります。』

(出口王仁三郎全集第5巻言霊解・其他_【随筆・其他】_九月八日の仕組から引用)

加えて、

『まして神様が因縁によりお引きよせになった皆様方は、最も責任の重い因縁があって御出でになったのであって、此の際は只今迄とは違って、めいめいに鉢巻を締め、褌を締めて、そしてせかず、あわてず、時の推移に従って、少しずつ早く、時代よりも早く活動する様に、九月八日の晩より、即ち九日より一日前であり、凡て大本は世界から出て来るものより早く出て来るのですから、此の考えで世の中より遅れない様に、御一同に御活動あらん事を希望する次第であります。』

(出口王仁三郎著作集第5巻人間王仁三郎_第1部自叙_野に生きる_梅花ひらく_開教四十周年から引用)

 

以上を受けて、ある年の9月8日に何か重大事件があるかと言えば、それはそうかもしれないが、個人にとっては、神一厘の仕組みが起こる前に一刻も早く神を知り神人合一を実現することが求められるということである。

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下実上平

2023-09-04 07:52:09 | 浅い霊感から神人合一まで

◎中間段階におけるとある状態

 

クンダリーニ・ヨーギ本山博は、行をしたいという人に限って全然信仰を持っていない人が多いようであって、行法だけ習って神様の方に心の向いていない、信仰心のない人は、いけないと言う。(神秘体験の種々相/本山博P174)

 

神秘生理学的な人間の状態について「下実上平」はよいが、「上実下虚」はいけないとされる。本山博の説明はこんなかんじ。

『では、「下実上平」とはどういう状態かと言うと、まず、

「ムーラダーラのクンダリニーが十分に気、アストラル、カラーナの次元で活性化され、ムーラダーラ、ス ワディスターナに生命力が充実し、胸部、頭部は無いように羽毛のように軽く、明るく感じられ、呼吸が無 いように」なります。

ムーラダーラ、スワディスターナに生命力が充実するのには、結跏趺坐もいいが、やはりシッダアーサナがいいように思います。 会陰のところに踵を付けて刺激をするのがいいように思います。

それからよく尋ねられることですが(アメリカの学生とか弟子達というのは、そういう点は本当に恥ずかしげ もなく質問するのですが)、「自分は精力が強いので、それをコントロールしたいと思ってクンダリニーヨーガを始めたのに、坐るようになったらもっと強くなって困った。どうしたらいいだろうか」と尋ねられるのです。しかし、坐ったら、まず初めにそういうふうにならないとだめなのです。いつもよく皆さんに言うことですが、アジナの下垂体のところに意識を集めると、性的エネルギーを十分にコントロールできるようになる。しかし、まずムーラダーラとかスワディスターナの性的なエネルギーが十分動くようにならないと、モノにはならない。

ただ、それを低い、物理的な次元で出してしまったら性的エネルギーの浪費になってしまうが、そうしないで、それを周天法その他によって高い次元のエネルギーに変えることが大事なのです。そうしたら、十分にコントロー ルできるようになるわけです。「ムーラダーラのクンダリニーが十分に活性化される」というのはそういうこと なのです。

クンダリニーヨーガをしてクンダリニーを目覚ますのだから、初めはどうしても、クンダリニーの力が気の次元とか物理的な次元で性的なエネルギーとして動くわけです。それを今度は、周天法その他によって、スシュム ナを通して高い次元のものに上げなければなんにもならないのです、出してしまったのではね。高い次元のものに上げれば、アストラルとかカラーナの次元でクンダリニーが活性化され、そしてムーラダーラもスワディスターナも十分に、物理的な次元ではなくて、アストラルとかカラーナの次元で動くようになって充実してくるわけです。

物理的な次元だけで活性化されると、落ち着かなくなってしまう。これは自然に起きる現象だから仕方がないのです。そういうふうなことで落ち着かないようではどうにもならない。ですから、それをスシュムナの浄化法や周天法などによって、アストラルのものあるいはカラーナのものに変えていかないといけない。変えることができ、スワディスターナやムーラダーラがカラーナの次元で十分に動くようになると、今度は下腹に気力が充実して、光が出てきたり、非常に熱くなったり、そうしているうちにだんだん下腹部の方から外に自分の存在が滲み出ていくというか広がっていく。』

(神秘体験の種々相/本山博/宗教心理出版P176-178から引用)

※シッダアーサナは男性だけがやる。(密教ヨーガ/本山博P68)

※クンダリーニ・ヨーガは男性の行法

 

若い時分には、このアメリカ人の男性のような人は多いのだろうと思うが、神様のことが全く念頭になく行でこれをなんとかしようと思い立つのは不純な発想なのだろうと思う。

引用文は長いが、「出さないで」、スシュムナの浄化法や周天法によってそれをコントロールするというのが、広義のクンダリーニ・ヨーガであるクリヤ・ヨーガ、道教周天、古神道、チベット密教などに共通する原則なのだろうと思う。

「下実上平」とは、本山博の造語のようだが、究極を指し示す言葉ではない。クンダリーニ・ヨーガに取り組むには、神様への関心とか信仰心という一見簡単な条件が必要条件として説明されているが、実は人生すべてを賭ける覚悟がないとできるものではなく、またそれを成就させるためには正師に出会わなければならない。

また正師に出会っていたとしても、自分の側に覚悟と準備が無ければ、魏伯陽の弟子達のように修行をあきらめさせられることがある。

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「ももいろクローバーZ」の高城れにが幽体離脱

2023-08-15 06:30:20 | 浅い霊感から神人合一まで

◎アストラル・トリップかメンタル体トリップか

 

2023年8月2日の日本テレビ「上田と女が吠える夜」で、高城れにが幽体離脱体験を発表。その時の発言では、着地はできないが、練習を重ねていくうちに近場から遠くに行けるようになり、アマゾンまで見物に行けるようになったとのこと。帰る時は一瞬で帰って来る由。

この話は珍しいのか、yahooニュースにも上がっていた。高城れにの幽体離脱のカミングアウトは、2020年12月27日のテレビ朝日系特番『ビートたけしの知らないニュース 超常現象XファイルSP』でも行われた。その時は、「高校時代、芸能活動と学業に追われ、どこにも遊びに行くことができずストレスを感じていた高城は「幽体離脱で空を飛べたらいいのに」と思いついて、寝る前に幽体離脱のイメージ・トレーニングをしていた。ある時、突如、身体が浮く感覚に襲われ、魂が肉体から抜け出した。当時は、よく“幽体離脱”した。」と明かしている由。

 

さて幽体離脱、体外離脱は、宗派の別を問わず古来から世界的に見られるもの。モンロー研究所の専売特許でもなく、道教でも昔からある。古神道では出口王仁三郎がアストラル・トリップをしまくった。

悟りと関係のある幽体離脱は、メンタル体トリップのほうで、幽体離脱と言えば、アストラル・トリップかメンタル体トリップかがまず問われる。純粋に悟りを目指さないアストラル・トリップは、危険ではある。

 

高城れにを真似て、イメージ・トレーニングで幽体離脱をしてみようと思う人もいるのだろうが、危険千万なことである。その意味でマスコミが、こういう情報を安易に流すのはいかがなものかと思う。霊の世界にも善霊もいるが悪霊もいるのだ。戻って来れなかったり、統合失調症のきっかけになる場合もあり得る。

ただし、微細身があることが当たり前であると万人が思う時代は、このように静々とやって来るのかもしれないとも思う。次の至福千年は霊的時代である。

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サハスラーラの開花と隙間

2023-08-11 06:22:36 | 浅い霊感から神人合一まで

◎隙間自体が落ちて行き広がって行く

 

OSHOバグワンが隙間の覚知とその後を描写している。

まず前提として七チャクラは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体にそれぞれ存在する。サハスラーラ・チャクラは、各ボディに存在するのだが、遊園地の順路のように肉体サハスラーラ・チャクラを突破すれば、次はエーテル体ムラダーラ・チャクラというようにすべてのボディ上のチャクラを飛ばさずに進むものではないようなので、以下の文でいうサハスラーラ・チャクラとはメンタル体上のそれを言うのだろうと思う。

 

よってサハスラーラ・チャクラとその開花時の宇宙全体との隙間は、個と宇宙全体との隙間に相違ないのだろうと思う。

 

『サハスララの開花がはじめてやってくるとき、それはあなたとは別の何ものかだ。未知で、なじみのないものだ。それは、あなたに浸透してゆく。あるいは、あなたがそれに浸透してゆく。あなたとその開花とのあいだにはひとつの隙間がある。だが、その隙間はだんだん落ちてゆき、あなたはその開花と一体になる。そうなったら、あなたはそれを自分に起こっている何かだとは見なくなる。あなたがその起こることになるのだ。それは広がりつづけ、あなたはそれと一体になる。』

(瞑想-祝祭の芸術/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマールP169から引用)

 

OSHOバグワンは、インド・チベット伝統の隙間論を展開しているわけだが、隙間が意識の上で認知されたら、その先は隙間自体が落ちて行き広がって行くと説明していくわけだ。その広がりは最後は宇宙全体に拡大するのだが、この点こそ体験し何が起こっているのかわかっている人間しか描きえないところである。

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クンダリーニを上げるのは危険

2023-07-24 05:59:55 | 浅い霊感から神人合一まで

◎人生と思えるものすべてが失われてしまう危険性

 

youtubeでクンダリーニで検索すると多数の動画が上がって来る。まるでクンダリーニが目覚めたり、クンダリーニが上がることがよいことであるかのように。「クンダリーニ覚醒」という言葉を使っている例も多いが、クンダリーニが上がることが大悟覚醒ではない。

クンダリーニが上がるとは、霊道が開くということであり、それはチベット密教の学識経験者であるクショグ・ワンチェンが、霊的なものへのコンタクトを適切な指導なくして行うことの危険を指摘しているとおりであり、生兵法は大怪我のもとであり、知らぬが仏である。

クンダリーニ・ヨーガに取り組むに際して、あなたはこの人生も次の人生も賭ける準備ができているのか、すべてを棄てる覚悟ができているかが、入門時に問われる。

 

わりとその辺に無頓着に見えるOSHOバグワンもそこは説明している。

『ある友人が尋ねている。

「クンダリーニを目覚めさせるのは、危険なことなのでしょうか?もしそうであれば、 どのように危険なのでしょうか。また、危険があるのなら、どうしてクンダリーニを目覚めさせなければならないのでしょうか」

 

クンダリーニの目覚めには、多大な危険がともなう。実のところ、自分にとって人生と思えるものすべてが失われてしまう危険性がある。クンダリーニが目覚めると、人はそれまでとは 異なった人間となる。すべてが変化する。すべてがだ!

関係性、感情、世界といった、昨日まで馴染みのあったもののすべてが変わってしまう。変化をもたらすものは、すべて危険だ。

石炭がダイヤモンドになるには、石炭としての生命を断たねばならない。だから危険性は非常に高い。が、それは石炭としての危険にすぎない。石炭がダイヤモンドになるのは、それが石炭として消え去って初めて可能だ。 おそらくあなたがたは、ダイヤモンドと石炭とは、本質的にはまったく違わないことを知らないだろう。もともと、両方とも同じ元素に属している。ダイヤは非常に長い歳月を経るうちに、石炭が変化したものだ。化学的にいえば、石炭とダイ ヤモンドは基本的に何ら違いはない。しかし石炭がダイヤモンドになりたかったら、石炭のままではいられないし、非常に危険な状態に直面することになる。

同じように、神を求めて道を歩んでいく人も、危険に直面する。その人は、人間として死ぬことになる。河も海へ合流する時には、大きな危険に直面する。その時、河は消え去る。それを避けることはできない。だが「危険」とはどういうことなのか? それは消滅だ。消え去る覚悟、死にゆく覚悟のある者だけが、神へ至る旅へと向かうことができる。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社P120-121から引用)

 

クンダリーニが半端に覚醒あるいは上昇して、生活できなくなったり、統合失調症と診断される例は、気をつけて見ていればあるものだ。密教、古神道、道教内丹、西洋錬金術など広義のクンダリーニ・ヨーガに分類されるものには、そういう危険性がついて回る。

その道はモバゲーのように経験値を上げてレアアイテムをゲットして行けば必ず覚醒ステージに上がるというようなものではなく、クンダリーニが目覚めれば、経験値はおろか人間としてのすべてが失われる危険性がある。

 

霊界が出てくるものを読めば、何百年も霊界のある場所に人知れず囚われている人を見かける話などが出てくるものだが、その人の肉体はどうしているのだろうかと想像すると、そういう事故が発生したせいなのだろうかなどと思う。

唐代伝奇の猜娘(せんじょう)離魂のエピソードは禅の公案にもなっているのだが、5年も寝たきりの猜娘とは、そういう類のことだったのではないかとも思う。

また向精神性薬物の使用でそういうことが起こる可能性があることも知られている。

あらゆる手法がフリーハンドで可能であってそれが、メリットばかりを強調する動画やプレゼン資料などでネット配信される現状というのは、それを説いているのが正師かどうか検証する手段も判断する能力も自分にない以上は、慎重に構えるべきなのである。

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張陵の趙昇の得道をサポート-2

2023-07-23 06:19:20 | 浅い霊感から神人合一まで

◎自分のすべてを棄てる覚悟を試される

 

趙昇が崖の上に上がって来ると、師張陵は、「趙昇ができたからには、わしが同じことを試しても構うまい。わしなら桃の実を200個と言わずもっと沢山取って来れるだろう。」と言った。

王長と趙昇は黙っていたが、その他大勢の弟子は、「師がそんな危険なことをしてはなりません。」などと思い止まらせようとした。

ところが、張陵は、そそくさと崖から身を躍らせて谷に飛び込んでしまった。しばらく経っても張陵が戻って来ないので、弟子たちに不安と動揺が広がって行った。

 

王長と趙昇は、「師匠が亡くなってしまったら我々はどこに戻ったらいいのか。」と叫び、二人一緒に深い谷に身を投げた。崖の上に残された弟子たちは、二日間は待っていたが、そこまでの覚悟がなく、命あっての物種ということで、三々五々帰って行った。

 

さて王長と趙昇は谷底にゆっくりと降り立つと、張陵は、目の前の七宝台の上で端座し冥想していた。張陵は、莞爾として笑い、「そなたたち二名が来ることはわかっていた。」と言って、神丹、経書、秘訣を手渡した。

後に、張陵123歳にして、西暦156年天師の地位を息子の張衡に譲り、その後王長と趙昇を伴って青城山雲台峰から白日昇天した。

 

これは、魏伯陽の故事と類似したモチーフである。

つまり誰でも一生懸命努力すれば、成道するというものではないこと。弟子であってもその命を賭ける覚悟がないと秘伝を受けられないこと。だが、この世的なあらゆる経験をほとんど経て、俗世的な欲望が終わっていなければ、命を賭ける覚悟ができるものではないということ。

 

崖に飛び込んで、実際に生還できるものだとは思わない。過去の悪業を清算するために今生を終わらせたということもあるかも知れない。あるいは、チベットでよく言われる空中歩行術やまさに白日昇天で空中を進む術を用いたか。これらは、超能力、神通力を用いたということだが、カトリックでも教会内を飛び回る人物はいたものだ。ただし未悟の者が超能力、神通力を求めるのは、地獄への高速道路ではある。

よってここは、自分のすべてを棄てる覚悟を試されたと見るのだろう。

 

また、崖から落ちる話には、以下のようなものもある。

  1. カルロス・カスタネダが断崖に向かって勢いよく走って行って深淵に飛び込んだ。
  2. チベットのナロパは、師ティロパに崖から飛び降りろと指示されて、実際に飛び降りた。
  3. 四国山中で乗合バスが転落して、その死後の様子をレポートした件。(丹波哲郎の霊界探訪の「霊界旅行」)
  4. 古代ローマでティベリウスが占星術の占断を聞いた後、占断が終わったら崖下の海に、毎度占星術師を突き落とした。

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張陵の趙昇の得道をサポート-1

2023-07-22 06:34:15 | 浅い霊感から神人合一まで

◎断崖絶壁に飛び込む

明日から一週間ほどは、最高気温34度以上と予想され、外出が危険な時期になる。そうなると猛暑下の室内ウォーキング(Indoor Walking Workout)が有効となる。竹脇まりなの10分もの15分もの20分もののyoutubeをよく利用しているが、関連する会社uuumの赤字決算が東洋経済で報道されていたので、心配なことである。

 

さて竹脇まりなの動画を片目で見つつ、時に中国成都近郊の青城山Walkingの動画を同時に別モニターで再生しつつ室内散歩している。

※青城山

Walk China Mountain 4K - Mount Qingcheng Hiking from Front Gate Part.1 - YouTube

(Walk China Mountain 4K - Mount Qingcheng Hiking from Front Gate Part.1)

https://www.youtube.com/watch?v=xDyc_3DiM18

(Walk Qingcheng Mountain in Chengdu, China 4K - Part.2 | 四川,成都,青城山)

 

青城山は、中国スピリチュアリストの元祖黄帝も修行した場所であり、2世紀には張陵が出て、青城山に棲む魔を一掃し封じ込め、道教(五斗米道)の聖地に変えた。

さて張陵は、高弟趙昇の一月七日の到来を予言。趙昇がやってきても張陵は簡単に入門を認めず、美女、黄金、山鬼、乞食など六種のテストを行い、これをパスしたので、弟子にした。

ある日、張陵は、200人余の弟子たちにこの断崖絶壁の下に霊験あらたかな桃の実があるが、これを取って来た者に我が道法を伝授しようと宣言した。皆が二の足を踏んでいる中、高弟趙昇は、師匠が言うからには危険なことなどあるはずはないと申して、身を躍らせて崖を飛んだ。

すると真っすぐ落下して、うまい具合に桃の木の枝に降り立つことができた。

趙昇は、桃の実をなんと200個も摘み取り、上に向かって桃の実を投げると張陵が崖の上で受け取るという事を繰り返した。張陵は他の弟子に桃の実を一個づつ配り、最後に一個だけを残して、趙昇が藤蔓を伝って登って来るのを待った。最後の一歩では、張陵が片手を差し出して、肘を延ばすこともなく、趙昇を引き上げた。

 

この最後の一歩で師が登場して手を差し出すのは暗示的であり、単なる親切でやっているとは見ない。

また桃の実は、智恵の木の実であり、太母であり、聖霊であり、女陰であり、宇宙卵である。

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