◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2
ヨーガ・スートラは、バラバラに章立てがされているところがあり、多分グルの口伝があったのだと思うが、説明が不足しており、そのままで読んでも、さっぱりわからず、とりつくしまがない。
その体験をしさえすれば、こんなものを読む必要はなく、その体験をしていないならば、こんなものを読んでも役に立たないということはあるとは思う。
だから解説付きのを読むことになるが、解説する人が、たとえばラーマクリシュナ並みの人でないとちゃんとした解説にはならないのだろう。
○定の分類
定と三昧は違う。定は人間個人としての体験であるのに対し、三昧は神の側の体験である。だから定の説明には認識をするとか、認識をしないとかいう表現が必ずある。
なおヨーガ・スートラでは、無想三昧が最高とされている。
(1)有尋定
『定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P71から引用)
(2)無尋定
『定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけが一人あらわれている。これが無尋定である。』
(上掲書P72から引用)
(3)有伺定と無伺定
『前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。』
(上掲書P73から引用)
※「尋」:感覚世界についての観念
「伺」:より精妙な世界についての観念
このように定では、客体・対象と観念が常に話題になっており、人間個人としての体験であることがうかがえる。