アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

出口王仁三郎の逆転-3

2024-04-27 03:12:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-25

◎垂直上昇への仕掛け-25

◎大逆転と倒立-4

◎無我の聲(こえ)こゑなき聲(こえ)をききながら

 

出口王仁三郎が高熊山に入ったのは28歳の頃。

『われは空行く鳥なれや』で始まるその時の感激を歌った歌は、輪廻転生を繰り返す孤独な鳥が単に空を飛ぶだけでなく、人間を越え時空をも超えたことを暗示している。

 

出口王仁三郎の歌集霧の海にも「28歳の頃」というパートがあり、出口王仁三郎の超越体験の中の白眉が28歳の頃起きていることを示す。最初は霊界探訪と高級神霊との出会い、そして逆転に至る。天国から先に進んで行くのだ。

『緑の野辺

  二十八歳の頃

 

天も地も青きが中に唯一人こころ清しく笛の音を聞く

笛の音は虚空にひびき笙の音は地上を流れてわが魂おどる

さっと吹く風に裏葉のひるがへる緑の野辺のかんばしきかな

さみどりの栄ゆる野辺にただ一人立てども淋しと思はざりけり

天地をただ一人のものとして生まれしごとき霊界の旅

さえわたる虫のなく音を聞きながら霊界にさへ恋あるを知る』

(出口王仁三郎の歌集霧の海P191から引用)

 

『精神は澄みきらひつつ自ずから

まだ見ぬ国に踏み入りにけり』(上掲書P175から引用)

 

『たぐひなき珍(うず)の景色にひたりつつ

われは静に無我の聲きく

 

無我の聲こゑなき聲をききながら

われ神国(かみくに)の花に息すも』

(上掲書P141から引用)

 

出口王仁三郎の無我とは何か。彼の随筆集『月鏡』に『不退転信、絶対服従信、仏心、無我心、清浄心、菩提心、日本魂、之を三摩地と言ふのである。』という一文があり、三摩地はニルヴィカルパ・サマディーのことと考えられる。よって無我とは、三摩地はニルヴィカルパ・サマディーのことと思われる。出口王仁三郎は、最後のワンステップは、神仏の助けによらず自分で登ることも言っていて(新月の光(上巻))、わかっている。

出口王仁三郎は、ここに逆転した。入我我入が起こったのである。

サマディーは、水平の道の用語だが、垂直の道における第六身体と実質同じである。これが無我。出口王仁三郎には、霊界物語という主著があり、個なる霊の段階を抜けていないかのように思われているが、仔細にみれば、「無我」というサマーディに至り、既に天国も地獄も超越し、逆転している。

そして覚者の心境のキーワードは、絶対的な透徹した孤独と、見知らぬ、未知ということ。そして世界全体が、自分と一体であるということ(天地をただ一人のものとして生まれしごとき・・・)。

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上薬、中薬、下薬

2024-04-27 03:08:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎不老不死と仙人

(2016-05-30)

 

古代中国では、薬を上薬、中薬、下薬の三分類した。

上薬とは、不老不死を実現し、仙人になる薬であり、中薬とは、性を養い健康を維持するための薬である。下薬とは病気を治す薬である。

道教的冥想体系では、呼吸法、柔軟体操があり、坐忘などの冥想体験が語られているので、その体系の中の一部として、服薬=外丹があったということになる。

外丹の3分類が上薬、中薬、下薬であって、ヤキ・インディアンの冥想マスターであるドン・ファン・マトゥスが、ペヨーテ・サボテンを用いて人を別の世界での修行(ソーマ・ヨーガ)にいざなったが、ペヨーテ・サボテンのようなものが、上薬に該当する。

不老不死を実現し、仙人になるなどというのは、いわば客寄せの看板のキャッチ・コピーのようなものであって、文字通りの不老不死実現や仙人になることではない。魏伯陽のようにすべての世俗的なものを捨て去った者が初めて入れる道であって、その道の途中で望見するもの一つが、不老不死や仙人ということになるのだろう。

中国では世俗には王道があるが、世俗を問題にしない者にとっては、別の「道」がある。

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