アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

瑞宝十種(十種神宝(とくさのかむだから))

2022-12-16 19:40:08 | 【七チャクラ】【ザ・ジャンプ・アウト-03】neo

◎饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

十種神宝(とくさのかむだから)とは、物部氏の祖神である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が伝えたとされる十種の神宝である。

先代旧事本紀によると、饒速日命の天下りにあたり
『正哉吾勝勝速日天押穂耳の尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみとのみこと)は、天照大御神に奏上してのべました。
「私がまさに天下ろうと思い、準備をしている間に、生れた子がいます。これを天下すべきです。」

そこで天照大御神は、これを許した。
天神の御祖先神は、みことのりして、天孫の璽(しるし)の瑞宝十種を授けた。すなわち

嬴都鏡(おきつかがみ)
辺都鏡(へつかがみ)
八握の剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(よみかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返の玉(みちかへしのたま)
蛇の比礼(おろちのひれ)
蜂の比礼(はちのひれ)
品物の比礼(くさぐさのもののひれ)

の十種である。
天神の祖先神は、次のように教えた。

「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、
一(ひと)・二(ふた)・三(み)・四(よ)・五(いつ)・六(むつ)・七(なな)・八(や)・九(ここの)・十(たり)と言ってふるわせよ。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう。」これはすなわち「布瑠の言(ふるのこと)」の起源である。』
(古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎/安本美典/勉誠出版から引用。)

十種神宝が身体の10チャクラのことであると書いたものは勿論ないが、チャクラ活性化が布瑠の言であり、振玉であると見れば、十種神宝が10チャクラであると見るのが自然である。

また多くの人の死では、マニピュラ・チャクラから肉体を出て行くが、それが、死返玉になっており、また大安心の座であるスワジスターナ・チャクラは足玉になっており、またクンダリーニが三周半とぐろを巻くムラダーラ・チャクラは道返の玉となっており、雰囲気は出ていて、バッチリである。よってこのように十種神宝を身体の10チャクラに当ててみる。

嬴都鏡(おきつかがみ)・・・《サハスラーラ・チャクラ》
辺都鏡(へつかがみ) ・・・《アジナー・チャクラ》
八握の剣(やつかのつるぎ)・・・《ヴィシュダ・チャクラ》
生玉(いくたま)・・・《アナハタ・チャクラ 》
死返玉(よみかへしのたま)・・・《マニピュラ・チャクラ》
足玉(たるたま) ・・・《スワジスターナ・チャクラ》
道返の玉(みちかへしのたま)・・・《 ムラダーラ・チャクラ》
蛇の比礼(おろちのひれ)・・・《太股のチャクラ》
蜂の比礼(はちのひれ)・・・《ふくら脛のチャクラ》
品物の比礼(くさぐさのもののひれ)・・・《足裏のチャクラ》

『このようにすれば、死んだ人が生き返る』とは、チャクラ活性化を行い、クンダリーニの覚醒により、肉体を飛び出して死の世界に入っても、死の世界から帰還できることを言ったものではないかと推測できる。

このことから、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の天下りとは、神と分離して、人間が10のチャクラを備えて、登場したステージのことを言うように思う。

◎石上神宮への奉遷

さらに、旧事本紀によると、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)は、天磐船(あまのいわふね)に乗って、大空を飛翔して、空から大和の国をみて(「そらみつ大和の国」の起こり)、まず河内のいかるが峯に天降り、次に奈良県桜井市三輪山に遷座されたという。

この宝は、饒速日尊の御子、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)より神武天皇に奉献され、天皇が橿原宮で御即位された時、宮殿内に奉斎された。

その後崇神天皇の時代に、饒速日尊の六代目の子孫伊香色雄命(いかしきおのみこと)によって、瑞宝十種は、宮殿より石上(いそのかみ;天理市布留町布留山)へ奉遷され、布留大神として祭られる。これが石上神宮の始まり。また七代目大新河命(おおにいかわのみこと)が垂仁天皇より物部という姓を賜り、これが物部の始まりとなった。

神武天皇から9代開化天皇までの皇后は、饒速日尊の血族から出ているので、饒速日尊は天皇家と非常に近かったようだ(母系天皇制?)。

饒速日尊はまた三輪山に葬られ、大神神社に大物主櫛甕尊(おおものぬしくしみかだまのみこと)という神名で祭られている。
また天理市の大和神社に大和大國魂大神の神名で祀られている。

さて瑞宝十種は、神武天皇においては、統治権の継承のシンボルとされているが、それが10チャクラをコントロールする秘儀の継承であったとすれば、その秘儀は、神武天皇がまず継承したが、崇神天皇の時代に、何らかの事情で石上神宮で継承することになったのだろう。

古神道の粋の継承というものは、最初は血縁のつながりでもって継承したい(体統、血統)と思うものだと思うが、そもそも死の世界を極める技術なのだから、体統の継承では無理があって、自ずと霊統による継承ということに移っていったのではないか。

要するに直接的な血縁にはよらないが、饒速日尊を始祖とする教団内における霊統の継承(教団内での覚者による)に移行したのが、石上神宮への奉遷ではなかったかと思われる。

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