アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を

2024-07-10 03:09:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎男神には、あの遙かな性愛三昧を

 

秦の始皇帝の母親の趙姫は、女盛りの34歳で前秦王である夫を失い、息子が秦の始皇帝であったので皇太后となったが、孤閨をかこつことになった。丞相呂不韋は、自分と趙姫の関係を清算しようとしたのか、にせ宦官ロウアイを趙姫のつばめとして送り込み、趙姫はこれを寵愛した。これは、儒教の支那でも不道徳と思われたか、あるいは曲がったことでもあるものはあるという支那の合理性の容認するところだったのかどうかはわからない。

後にロウアイは趙姫に息子二人を産ませ、秦王政9年には、ロウアイはクーデターを敢行したがロウアイと息子は処刑された。

儒家の声が大きい支那では、趙姫は淫乱ということになっているが、ことわざに三十後家は立たずとあるように、その年代の後家さんは性欲お化けになるのはむしろ自然であって、淫乱とまでは言えないと思う。

またこの話には、趙姫の性愛エネルギーの消費という視点はあるが、趙姫がツイン・レイと出会ったのかどうかという視点も、男性側に思いやり深き態度があったかどうかなど本源的な愛にまつわる彼女の幸福という視点もない。趙姫が呂不韋の愛妾としてキャリアをスタートしたのは不運だったというのは簡単だが、それだけなのだろうか。

さて、ダンテス・ダイジの性愛観では、まず神事が第一、すなわちまず悟ることが最低基準である。これは、『高次元意識への自己解放』であって、一般にニルヴァーナへの突入か身心脱落を指す。

第二にパートナーは、魂の半身であるソウルメイトに限ること。相手を取っかえひっかえはあり得ない。

第三に、その時『その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を受容せしめ』て、それは愛に変じ、時間・空間・物質の三元に展開する。

 

そもそも体位とか、テクニックとかの巷間の想像とはまったく違った方向で、彼は性愛冥想を論じているのだ。

 

『人間的営為が虚無に打ち勝つことは決してない。

人間があるということは、虚無があるということだ。

むしろ、虚無そのものによって人間が絶対的に否定される時、虚無はまさに虚無ゆえに自消自滅する。

 

ここにセックスは、不安としての享楽刺激から

言詮不及の愛の一表現として甦る消息がある。

すでに、いかなる対立も戦いもありえない。

時・空・物の三元のない至福は

もう至福と名づけるのも愚かしい。

 

女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を。

男神には、射精しない持続的快感と、

思いやり深き態度から、さらには、あの遙かな性愛三昧を。

 

男性の性愛冥想者は、自我意識を霊的広がりに

向かって捨て去らねばならない。

射精のはかない生理的快感は、とるに足らぬものだ。

 

女性の中に歓びと安住を頼るのではない

まず高次元意識への自己解放があり、

その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を

受容せしめるのだ。

 

性愛は何も産まない

悦楽も安らぎも産まない

子供も産まない

子供はおのずから生きる

子供は子供独自の生命を流れている』

性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-4

2023-09-22 03:43:26 | ダンテス・ダイジの風光

◎純粋冥想のみが人類の全面的平和と全面的幸福を明示できる

 

『純粋冥想には、初めも終りもない。

純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。

 

そして純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できるのである。

 

あたりまえに考えると、この人類は奇妙な文明と称する何ものかを生きている。

 

生とは何か?

死とは何か?

私とは何か?

存在とは何か?

真の幸福とは何か?

 

これらは、それぞれに分割できぬ全体をなしているのだが、人類史上、ごく少数の人々を除いて、これらが解明され実現されたことはなかった。

この余りにも、あたりまえな前提を抜きにして、人類は、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求して、文明と称する何かを作り出している。

そして、今や、人類全体をたやすく滅亡させることのできる巨大兵器を持て遊んでいる。

 

余りにも、あたりまえな基本抜きでは、単なる欲望追求の複雑化は、自滅に至って終るだけだというのに。

こころみに問う。

欲望とは何か?

人間とは何か?

これは、哲学的あるいは宗教的あるいは、どのような一定の立場の命題にもなり得ない。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅶ~ⅷから引用)

 

純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。ところが、純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できる、とくれば、全面的平和と全面的幸福は、人間の側に属していないであろう純粋冥想の彼岸に望むものなのだろうと思う。

ダンテス・ダイジの文明評価は、平たく言えば何人覚者を出したかということ。文明の成果とは覚者であって、神の香気。この近代西欧文明は、神を隠してしまおうという傾向が恐ろしく強く、ともすれば本物の覚者が出れば、イエスのように迫害して殺すし、OSHOバグワンのように域外に放逐し排斥するものである。

今や人間を至上とする民主主義と新旧の共産主義の皮を仮りた独裁国家が世界で角逐しているが、どちらにしても神の居場所はない世界となり果て、真の覚者はいたとしても息をひそめている。まるで、神への信仰を持つことが社会にとって危険であるというような言論思想圧殺の時代が、まもなく来ることをありありと予感しているが如くだ。

 

こんな時代に覚者が何人出ようが、神のかぐわしい香気が、人々の行住坐臥や街並みや野や山や海にどの程度残っているかどうかを気にする人はとても少ない。

このような姿をダンテス・ダイジは、『奇妙な文明と称する何ものか』と謂う。

 

まず、純粋冥想により、

生とは何か?

死とは何か?

私とは何か?

存在とは何か?

真の幸福とは何か?

を解明し、その悟りを持って生きる。

これらが『それぞれに分割できぬ全体』であるとは、今ここのことだが、それは人間性には属していない。

悟りのないままに、人類が、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求しても、その果てしない強欲は、核兵器による人類滅亡を人質に脅迫をお互いに繰り返すこの80年間を経て、その緊迫感は近年露骨で、さらに全面核戦争の危険度が高まりつつある。

大方の人類には、全く信じられないことかもしれないが、世界平和と世界人類の幸福を実現する手段は、軍事的優勢でも、経済的圧倒でも、巧緻な外交でも、インテリジェンスの勝利でもなく、各人が純粋冥想に取り組むことなのだ。

仮に今ここに世界平和が実現したとしても、万人が悟っていない以上は、早晩次の戦争が繰り返されるだけである。

 

たしかに、これまでの人類の歴史上大悟覚醒した人は稀である。覚醒する確率は低いけれど、それでも今ウクライナで戦争が行われている中、人類滅亡の戦慄に慄きながらも平和と幸福を実現する手段は、純粋冥想だけなのである。各人が純粋冥想により、悟りという意識の限界状況を通過していくことだけなのである。

悟りには、見神と神人合一の2段階あるが、神人合一により世界と合一し、世界に何の問題もないことを確認し、真の幸福と世界平和を生きるのだ。また真の幸福と世界平和は、上部から下部へと移りながら実現するものであり、霊的な言い方ならば、時間のない世界に実現し、神界に実現し、霊界に実現し、最後に現界に実現する。

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-3

2023-09-21 03:58:07 | ダンテス・ダイジの風光

◎成熟し切った自我とは何であるか

 

『真正の覚者についての、いかなる規定も説明も無意味である。

彼には、いかなる特定の立場も質もない。彼は、究極的覚醒そのものであるが、覚醒の何たるかを一度も垣間見たことのないあなたにとって、覚醒を見わける方法も手段も、その眼力もない。 したがって、苦悩するあなたにとって、真正の覚者は、決してわからないのである。

真正の覚者なしでは、純粋冥想はあり得ない。あなたは、覚者の行為しているその形式を実践することはできる。だが、あなたの覚者とその行為形式とは、まったくの欺瞞である。それは、最悪の狂信的イデオロギーになる可能性を持っているという点で、単なる社会的欺瞞よりも、たちが悪い。

 

ここで、あなたは、成熟し切った自我とは何であるかを理解しなければならない。 成熟し切った自我とは、いつでも死ぬ準備のできている自我である。成熟とは、世界とか社会とかに順応して、いわゆる円満な人格になった自我ではない。順応とか適応とかは、一つの妥協であり自己欺瞞にすぎない。

成熟し切った自我は、単に生きのびるために、決して自我の渇望や情熱を妥協させ摩滅させはしない。成熟し切った自我は、私達一切の苦悩と混乱との諸問題 からの全面的開放のために、額面通り命がけである。

そして、自我は、自我という欲望が、問題を作り出していて、それが、解決不可能であることを全面的に知っている。つまり成熟し切った自我は、いつでも死ぬ準備ができている。

この時、あなたは、真正の覚者と出会うに必要な直観を得る可能性を持つ。 真実の覚者が何であるかわかるに必要な空白を持つ可能性がある。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅴ~ⅶから引用)

 

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を実現するには、真正の覚者に出会わねばならない。

しかしながら、この部分では、あなた自身が悟っていなければ、真正の覚者に出会っていたとしても、真正の覚者を見分けることができないとしている。

ところが例外的に、あなたの自我が成熟しきっていれば、真実の覚者と出会った時にそれが真実の覚者であるという直観を得る可能性を持つことができるとする。

自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。

教義と坐法と金と生活の面倒を見てくれる誰かがいれば、純粋冥想という悟りが成るわけではない。真正の覚者と出会わなければ、ノーチャンスなのだ。

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-2

2023-09-19 06:54:02 | ダンテス・ダイジの風光

◎絶対者の体得・絶対の全面的覚醒が純粋冥想

 

 『ヨーガとは、純粋冥想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。

また、一切の仮設を排除した知的全面的探索は、ジュナーナ・ヨーガと呼ばれていたものだが、むしろ、真実の公案禅において完璧な結晶化が見られる。

そして、人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、 全面的に理解されれば、そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を、純粋冥想とすると、それが、どのような違ったアプローチに見えようとも、結局は、禅か、クンダリニー・ヨーガに包含されている。

最終的には、絶対者の究極的覚醒は、同一だとしても、それぞれのアプローチには、それぞれのニュアンスの違いが、最後までつきまとうことは、否定できない。

 

今、禅とクンダリニー・ヨーガに限って、絶対者のどの側面が強調されるかを見てみよう。

公案禅は、絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面。

クンダリニー・ヨーガは、肉体すなわちボディ・マインドの死後と絶対者の多次元存在として現出している全実在の構造的側面。

そして只管打坐は、絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面が、それぞれ強調されている。

以上は、真正の公案禅・クンダリニー・ヨーガが、只管打坐に関しての、その重点的な側面もしくは位相、すなわちニュアンスの違いである。

 

そして、真正の禅もしくはヨーガなどの純粋冥想は、真正の覚者との出会い抜きには、あり得ない。それが、純粋冥想が決してメソッドやセラピーとして成立しえないゆえんである。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅳ~ⅴから引用)

 

最初にクンダリニー・ヨーガの説明が置かれている。いきなりインド伝来のクンダリニー・ヨーガがクンダリーニ・ヨーガ系冥想の代表として置かれている。これで想定されているのは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において彼自身が披歴している、脱身からニルヴァーナの道筋であって、

『身体上の死の超越すなわち不死性の獲得』に至らなければ十分とは言えないということ。そのレベルに至って、脱身以降は、道教の柳華陽や、古神道の出口王仁三郎の示す『無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態』のように宗派を超えて共通の、肉体からニルヴァーナへのハイウェイが広がっていると見るべきなのだろうと思う。

 

禅といえば、公案禅と只管打坐という2テクニックが代表的冥想法。公案によってとある哲学的世界を構築し、絶対的に解のないことに素直に向き合えば、絶対無の自己同一化という恩寵は起こり得る。ダンテス・ダイジは、隻手の公案を透過した。彼は隻手の音声の中に『絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面』を見たのだ。

だが公案禅は、密参禅など悟りとは無縁の安易な道に逸れやすいという側面もある。

只管打坐のやり方は普勧坐禅儀などに出ている坐り方で、背骨を垂直にしさえすれば、身心脱落が起こるが、実際はいうほどに簡単ではない。『人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、全面的に理解』することが、只管打坐の冥想姿勢・ポスチャーにあるのだろう。また『絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面』は、彼の示す只管打坐の7ステップから当たりをつけることができる。

そして最後に、真正の覚者との出会いがなければ、その冥想は、なんちゃって冥想、ファッション瞑想、坐法・メソッド、セラピー止まりとなる。一時的にはよい状態があるかもしれないが、結局何も解決しないという手法群である。

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-1

2023-09-18 06:17:18 | ダンテス・ダイジの風光

◎純粋冥想とは何か

 

純粋冥想とは、冥想とどう違うのか、どのような冥想なのか。これについて集中的に書かれているのが、ダンテス・ダイジのアメジスト・タブレット・プロローグの序言である。

 

純粋冥想としての冥想法は、禅とクンダリーニ・ヨーガ。

どのように精神を成熟させていくのか、

どのように正しい師と出会うのか、

真正の覚者とは何か、

生とは何か、

死とは何か、

自分とは何か

などの主要な問題に対する方向性がすべて関連した形で呈示されているのは、空前絶後と言ってよいと思う。

 

『序言

 

あらゆる冥想も、

あらゆるセラピー、ムーヴメントも、

あらゆる宗教・思想・イデオロギーも、

おおよそ、

あらゆる人間性の営為が、

人間の根源苦、

一切万象の根本無明に対して

いかなる効能もないことを見抜く時、

私達は初めて、

人間苦そのもの・根本無明そのもの、

私達にとっての、

全現実そのものを、

ただ、

見守り、聞き守り、生きていく。

これが、

純粋冥想の発心修行である。

純粋冥想には、初めがあって終りがない。

そして、

純粋冥想には、初めも終りもない、

全体者の多様多元の戯れなるがゆえに。

 

あらゆる人間行為が、

情熱の最極点で行なわれ、

そこに、洞察と直観がともなう場合には、

行為は、必然的に無行為の入口へ

すなわち絶対無の行為の入口へ

純粋冥想へと変容する。

それは、また、

情熱・憧憬の最高形態、

渇望の最高開放である、

全面否定を通過するということでもある。

全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出かたの一つだ。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅱ~ⅳから引用)

 

日々のささやかなあるいは大それた願望とその実現に向かっての努力が水泡に帰す時、人間としてのどんな努力も何の意味もないのではないかと感じさせられることがある。

 

その時、人間苦そのもの、この世にあるものが永続するものだという誤った認識そのもの、それは私達にとっての全現実そのものだが、

それを、ただ「見守り、聞き守り、生きていく。」ことが、純粋冥想の発心修行だとする。

 

OSHOバグワン流に言えば、隙間を認知し、「見守り、聞き守り、生きていく。」ことだろうと思う。それは、悲しく、苦しく、情けなく、みじめで、割り切れないものだ。

 

これは、ネガティブな事象を中心に挙げているが、ドラッグのような中性的事象や、セックスのようなポジティブな事象でも純粋冥想の発心たり得る。だから上述の三種の事象を包含する「情熱の最極点で行なわれる人間行為」において、洞察と直観が伴うケースで、冥想の可能性を示す。さらにその状態での行為は、無行為すなわち絶対無の行為の入口へ、純粋冥想へと変容する、と結論が早々に置かれている。

 

人生の可能性のぎりぎりを徹見することで、十分に満足しちゃう人も多いのかもしれないが、それは冥想修業のスタートラインに立っただけなのである。

道教の魏伯陽は死に至る毒薬を飲めと指示することで、その人がスタートラインに立ったかどうかを弁別したという故事まである。

 

なんちゃって冥想、ファッション瞑想を始めただけでは、純粋冥想の始まりではないのだ。

 

また何かの拍子に隙間を見ることはあるだろうが、見るに際して十分な生きる情熱、情熱の最極点という“タイミング”は冥想の成就のために必要な要素なのだろうと思う。

 

そして、すべてを望めば、すべてが手に入らないという現実に直面する。これが、「全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出方の一つ」であって、世界の逆転となる。

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ダンテス・ダイジ、悪魔からの超越を語る

2023-08-09 06:47:06 | ダンテス・ダイジの風光

◎暁の明星が釈迦を導く

 

釈迦成道直前に悪魔が出現することを例にとり、その時何が起きているのかを、ダンテス・ダイジが弟子たちを前に説明している。

 

ダンテス・ダイジが、釈迦成道直前の7日間を題材にして、釈迦はどのように大悟直前に出現するという悪魔を超越したかを語っている。悪魔は形を変え品を変え数回出現し、最後は大悪魔が登場する。最後の成道では、逆転のニュアンスがある。

 

この話は何回かカセットテープで聞いたことがあるが、お恥ずかしいことだが、全容の意味がつかめたのは何十年も経ってからのことだった。自分の出来の悪さを差し置いていえば、こんな高度で込み入った説明を、ダーっと一気に聞いて理解できるだけでももう相当にいい線行っている人なのだろうと思う。

 

『弟子「お浄めっていうのは、ダイジから見たらどういう感じ?」

ダイジ「それは誰がお浄めするかによる。」

 

弟子「お浄めっていうのは、求道者の立場から見れば、自分が修行するんじゃなくて、誰かの傍にいって受けるっていうことでしょ。」

ダイジ「実際は、どんな突っ張った人だってね、必ず誰かの傍について受ける形になるんだ。

独覚ってあるだろ、仏教の概念で。でも、厳密な独覚なんてただの一つも存在しない。」

弟子「釈迦もそう?」

ダイジ「もちろん! それは暁の明星がお浄めをしたといってもいい。釈迦の場合。あるいは、釈迦の場合はね、悟りに至る七日間があったんだ。奴さん、いろんなことやって、苦行して、無想定なんて簡単に入れるぐらいになった。奴さん、達者だからね、自分の瞑想の、禅定家っていうんだけどね、本当に禅定家だ。自分の意識のレベルを自由に持っていく術を体得している。

 

しかしそれでさえ、全然解決にならんということが、いやというほど分かった。だって、意識のレベルを変えたって、そのとき問題ない意識のレベルに入る、無に入る。が、出てきてみろ、相変わらず問題は続く。で、そんなことじゃどうにもならない。それにもう一切のものを付け足しても、どうにもならない。よーし、じゃあ俺はもう、本当に全部が吹っ切れるまでここを動かん、って言って、あの菩提樹の下でさ、座り込んだ。で、こうやって座り込む。そして、一日経ち、二日経つ。そして三日目だ。

 

三日目にね、女房が現れたんだ。ヤソダラって言ったか、女房が言う。『なんて貴方は薄情な人。自分のことしか考えてないのね。私はこんなに愛してるのに、何でそんな突っ張ってるの。馬鹿げたことは止めてよ。』そのヤスダラときたら、抜群の美人だ。(笑い)が、釈迦はそれを見つめる。だって今更どうなることでもない所まで来ちまった。それくらい神経症が高じてきた。そうすると、ラーフラという子供が現れる。『お父ちゃん、一緒に遊ぼうよ。人間は生まれていろんなことをして死んでいくものでしょ。それなのに、なんで、お父ちゃんはそんなバカげたことやってるの?一緒に遊ぼうよ。』

 

…が、何かがおかしい。本当はおかしいものなんか何一つないんだが、釈迦にとっちゃおかしい。何かおかしい。

それで釈迦は言うんだ、ヤソダラとラーフラに向かって。『悪魔よ去れ。』

でも相変わらず、まだ付きまとってる。

 

そして四日目。ヤソダラとラーフラと、一緒に修行してた4人ばかりの弟子が現れる。そして、それから、父が現れる。親父さんの王国、そんなに大きい王国じゃなかった。

常に外敵と戦ってる。今とても危険に瀕している。それで親父さんが言う。『なあ、シッダールタよ。そんなバカげたことを止めて、俺を手伝ってくれ。お前にはその気力もあるし迫力もあるんだ。お前がもし俺を手伝ってくれれば、この国も安泰だし、この国の住民もすべて平和に暮らせるじゃないか。なんでそんな訳の分からないことに一生懸命専念してるんだ?』それで、釈迦は言う。『何かおかしい、やっぱり。』で、『悪魔よ去れ。』が、一向去らない。

 

そして五日目に入る。五日目になると、今度はそれに付け加わるのが、あれが現れた。アングリマーラ、悪魔だ。言うんだ。『あなたは元々、偉大なることを完成するために生まれてきたんだ。あなたがもし今立ち上がれば、転輪聖王となって、世界すべてに完全な平和を与えることができるんだ。

なぜそんなつまらない、ちっぽけな所に座り込んで、何かに頑張ってるんだ。しかも、あてもないというのに。

何をやってるんだ、一体あんたは。あなたは大いなる星の下に生まれたんだ。今より転輪聖王となって、すべての人々の調和を実現したらいいじゃないか。あなたには十分その力がある。

 

そうアングリマーラが言ったときに、すべての、今まで出会った、父、釈迦を生んだと同時に死んだ母、そして子どもであるラーフラ、妻であるヤソダラ、一緒に修行した4人の仲間、それらすべてが現れる。『一体あんたは何を目指してるんだ?』みんな言う。『生まれて死ぬのは人間の定めじゃないか。生まれて、年老い、病気にかかり、死ぬ。それでいいじゃないか。何をあなたはこだわってるんだ。一体何が問題なんだ?』

そしてその間で、やっぱりおかしい。釈迦は一向にピンと来ない。酷いなあ、どうしようもないノイローゼだよ(笑い)。おまけに今度は、サタンというか、デビル、地獄の最高の王者が来てさ、自分の目の前で礼拝するんだ。

 

六日目だ。『あなたほど偉大な者はない。あなたが今立ち上がれば、すべては解決する。

あなたがつまらないことに囚われているおかげで、どうしようもなくなっている。そんなつまらないこと、一体何のあてもないじゃないか。何を頑張ってるんだ?あなたには人々を幸福にする力が十分備わってるんだ。止めろ止めろ。あてもない瞑想して一体何になるんだ。』そしてヤソダラの愛しい姿が現れる。ラーフラの、愛しい可愛い姿が現れる。一緒に求道活動を送った友人たちの、とても好ましい、爽やかな付き合いが現れる。それから父の愛情、父性愛が、じかに伝わってくる。

 

『ああ、俺は、これほどまでして、悟りなんてわけの分からんものを求める必要が一体あるのか?もう、当たり前に、人間らしく、それらに溶け合って、その中を生きればいいじゃないか。何で俺はこんなに頑張ってるんだ?』自分の中で声がする。『もういいじゃないか。もういいじゃないか。』『いや、よくはない!人は死ぬんだ、生まれて生きて死ぬんだ。それだけであっちゃいかん。絶対いかん!』

『いや、いいんだ。いいんだ。それでいいじゃないか。何をそれに付け足すんだ?』

 

そしてまたアングリマーラが礼拝する。『あなたはもう転輪聖王だ。あなたはもう最高の人間だ。あなたが為すことで不可能なことは一つもない。あなたが今立ち上がれば、すべての生命が喜びに燃え上がるんだ。さあ、立ち上がれ、立ち上がれ!立ち上がって下さい!』大魔王アングリマーラは礼拝するんだ。

だが、自分の一番深い所で何かがおかしい。何かが。一切の懐かしいものが自分の前に現れる。その懐かしいものを捨ててまで、なおかつ究極のものを求める意味なんて一体あるのか?それほどまでに愛しいものを捨てて、その先に一体何があると言うんだ?が、その瞬間、何かが、何かが…

『悪魔よ、去れ!!』

 

そしてそれはもう七日目になっていた。その瞬間、初めて分かった。究極を求める、その求めるという心、それだけが迷いだったんだ。そして、釈迦は目を開いて、暁の明星を見る。何一つ問題はなかった。すべては完璧だったんだ。今となっては何もかもが仏だった。何もかもが成仏していた。アングリマーラ、あの大魔王さえ。神だ、何もかもが。山川草木一切成仏っていうのは、そのことだ。そして、釈迦はその中にいる。いつでもそこにいたんだ。いつでもここにいた。

ただ自分の必死な欲望、自分の必死な求め、それのみが迷いだった。いや、それさえも迷いではない。それさえも神だったんだ。分かるかね、宇宙という花が開くという意味。人間の結論なんてみんな、花が開く過程の、その時々にすぎない。そしてそれは常に移り変わる。晴れた日もある、暴風雨の日もある。が、それは、同じ空の違った表情にすぎない。荒れた海もある、とても静かな海もある。でもそれは、同じ海の違った表情に過ぎない。そして君は知るだろう、君が海自身であることを。君が優しさそれ自身であったことを。」』

 

まとめ:

1.悪魔の誘惑は大悟直前に複数回発生。まさか愛しい妻子や両親まで悪魔とは!この辺についてはイエスの大悟直前に出現する悪魔と比較し、釈迦とイエスの自我の成熟ぶりの違いを別の場所で指摘しているシーンもある。釈迦の方がより文明生活を経てきているのだ。

2.大悟の水先案内は、誰か高級神霊ではなかった。暁の明星だった。明星がその役割を果たしたのは、空海とクリシュナムルティもそう。一般に本人の頭頂の口を切るのは2、3柱の高級神霊だと言いながら、この話のような説明をも出しているわけだ。

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水平の悟りメモ-8

2023-06-23 06:42:31 | ダンテス・ダイジの風光

◎まとめ

 

垂直の悟りは、クンダリーニ・ヨーガの悟りの7ステップであり、七つのチャクラの意義が配当されている。これが冥想十字マップの縦軸。

一方横軸は、釈迦涅槃時に四禅から涅槃に入ったのだが、その主要なステップを目盛りとしている。これが水平の悟り。

水平の悟りと垂直の悟りを実現したのは、釈迦とダンテス・ダイジ。人間の求道は、水平の悟りと垂直の悟りのいずれかで足りるが、敢えて両方やって見せたことを示すのが現代における人間進化のポジションニングと言える。

水平の悟りの冥想(瞑想)技法と言えば、生の側からの覚醒である黙照枯坐の只管打坐系であり、老子、達磨、道元、クリシュナムルティが挙げられる。

この問答に出ているダンテス・ダイジの二人の弟子は、公案禅で見性している人物である。その二人を相手にダンテス・ダイジが水平の悟りの秘密を明かしている。

 

1.水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味。

2.水平に生きるとは、誰にも騙されず、ただ素直に、あるがままに生きられること。

3.水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。

4.水平の悟りにあっては、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって・・・。

5.人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄える。

6.水平の悟りは、生の側から窮める。垂直の悟りは、死の側から窮める。

7.恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみも、ありのままに見る。それがどんなに恐ろしいことであっても。

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』の第四章只管打坐では、例話として「絶対愛の目覚め」と「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」の二話が挙がっていて、何のことかわからず面食らう人も多いのだろうと思う。だが、水平の悟りとは、只管打坐を念頭に置いたものであると思う。

『只管打坐とは、即座に、この生きているまま、この肉体を用い、この世界に生きているまま、無限定な、永遠なる、覚自体なる覚に目覚めることなのである。神自身が神を神することなのである。』

(上掲書P113から引用)

 

水平の悟りとは禅的悟りだが、禅といっても、公案禅、マントラ、只管打坐、事上磨錬(作務など)など諸冥想法があるものであり、一口に水平の悟りとは畢竟只管打坐だと言い放ったところで、およそ論理性も説得力もないが、それでも感じるところのある人だけが、水平の悟りに向かうのだろうと思う。

 

同様に老子、達磨、道元、クリシュナムルティが只管打坐での悟りだと、誰が証明できようか。

それでも水平の悟りとは、この日常生活をまともにやっていくのさえ全身全霊を賭けないとならない時代に必要なものなのである。

大地震とか天変地異とか核戦争とか人類絶滅など恐ろしいものは数多いが、それより恐ろしいのは、一回きりのこの人生を不覚に終わることである。

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水平の悟りメモ-7

2023-06-22 03:52:28 | ダンテス・ダイジの風光

◎それがどんなに恐ろしいことであっても、ありのままに見る。

 

7.恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみも、ありのままに見る。それがどんなに恐ろしいことであっても。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『ダンテス・ダイジ「説明してやれ、H。それはとてもいい、坐禅についての正しい立場だ。いやなものが出てきたのを通過する感覚。」

弟子H「感覚は短くなると思う。自分が突き詰められる度合い自体が…」

ダンテス・ダイジ「その場合、突き詰められた度合いと、抜ける度合いとの関数は?」

弟子「関数?」

ダンテス・ダイジ「うん、数式で表せるはず。」

弟子「もう一回言って。」

ダンテス・ダイジ「突き詰める度合いと、それが通過できる間の時間的な関数だ。突き詰めた度合いが高まれば、通過する時間が短くなるか長くなるかってこと。」

弟子「短くなる。」

ダンテス・ダイジ「それが関数だ。本当に突き詰めれば、それだけ早く通過できる。」

弟子「緊張が起こってるときは引っ込んでることが多い?」

ダンテス・ダイジ「そのこと自体は、水平の悟りには多少役立つけど、たいして意味はないんだ。最後は、本当にジャンプしたいんならば、最後の緊張に耐えられる自己をつくるっていうこと。」

弟子「それは肉体的鍛錬じゃなく?」

ダンテス・ダイジ「最終的には、その人の意識だろう。どんなことにもくらまされない意識。それと気力だね。はっと気が付いたら10時間20時間くらい経ってたっていうところまで行くと、もう近いだろう。こうやって座り込んで、只管打座でもいいし、クンダリニー・テクニックでもいいけど、いつの間にか気づいて、昼ごろから始めたのがもう真夜中だったとか、そのときそれが坐禅の力というか、覚醒の力、切羽詰まってくればそうなる。10時間くらいあっという間に過ぎちゃうよ。静寂の中で。

その頃になるとだいぶ有望になってくる。」

 

弟子「それは定力?」

ダンテス・ダイジ「定に入ったこと。あれ、次の日だ。こうなってくると、もう近い。座った瞬間、ぐっと入っちゃう。」

弟子「そうならないってことは、まだやりたいことがあるってことか。」

ダンテス・ダイジ「十分に見てないってことだろうな、現実を。」

弟子「時期が来てないってこと?」

ダンテス・ダイジ「そうも言えるけど、単純に見てないだけだよ、現実を。自分が死ぬという現実。年老いるという現実。人間のエゴのトリックという現実。見てたらやらざるを得ない。定力もへったくれもなくなる。」

弟子「そういうのは後からつけた名前に過ぎないし説明の仕方にすぎないわけでしょ。」

ダンテス・ダイジ「うん。Hだって、この辺が調子悪いって(病院)行ったら胃癌だ、あと三日だ、なんていったらやるだろ。これをやれば助かるとか、これをやれば死を超えられるとか。それは感受性の度合って言ってもいい。つまり自分の中に少しでも嫌なものがあるということは嫌なことだ。

次に、自分の中のものを嫌だと規定していることを止めることだ。もし嫌だと思い続けていたら、それは通り過ぎる。それをちょうどこの薪(まき)を見るように見るんだ。

それは恐ろしいことだ。自分に近いことというのは、人はそういう風には見えない。ここにビールがこれだけ残っている。これをこういう風に見ればいいだけだ。自分の中のあらゆるものを、恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも何もかも。喜びも悲しみもこういう風に見ればいい。」

弟子「多くの場合は、偏見を持って見るってところがあるわけね。」

ダンテス・ダイジ「ていうより、自分のことだから見えない。見えるようになってくる、どういうわけか、只管打座をやってると。ここが不思議な所だ。坐禅ていうのは不思議なもんだな。仮に見えなかったら、今度は見えないという事実を見るという風に行っちゃうわけだな。そこだ。そこでもう、ドン詰まりになって、疑いようのないそこに達するわけだ。疑いのようのないここと言ってもいい。疑いようのない安定、絶対の地盤っていうか。ベース。」』

 

この問答の前半は、自分に向き合うことを突き詰めていくことと、『本当にジャンプしたいんならば、最後の緊張に耐えられる自己をつくる』ことがクリティカル・イシューだとしていること。

この問答の後半は、『最後の緊張に耐えられる自己』に必要なものは、どんなことにもくらまされない意識と気力(定力)だとし、その説明をしている。

漠然と読むと、(只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも(水平でも垂直でも))一日十時間も坐れるようになれば悟りに近いということは頭に残るが、どうすればどんなことにもくらまされない意識と気力(定力)ができるのかは、この問答では明かされていない。

『坐禅ていうのは不思議なもんだな。仮に見えなかったら、今度は見えないという事実を見るという風に行っちゃう』とは印象的である。

ダンテス・ダイジは、只管打坐については、ごちゃごちゃ理屈を言うよりまず坐りなさい。実際に坐るということに絶対性があるとも語っている。水平の悟りは、『疑いようのないそこ』なのだろうか。

また『本当にジャンプしたい』かどうかも問われる。

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水平の悟りメモ-6

2023-06-20 03:49:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎水平の悟りと垂直の悟り

 

6.水平の悟りは、生の側から窮める。垂直の悟りは、死の側から窮める。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『ダンテス・ダイジ「水平の悟りを選べば、水平の悟りっていうのは、面の皮が厚くなることも含めてだよ。鈍感になることも含めてだよ。

垂直の悟りっていうのはまた違った次元に出ることだ。これは決定的に違った次元だ。まさに信じられないような次元だ、死後とは。」

 

弟子「そのとき、横と縦の次元が完成したとき、立体的に生きる。」(笑い)

ダンテス・ダイジ「理論的にはそうなるよ。』

 

水平の悟りでは、鈍感になるが、垂直の悟りでは繊細になる。

ダンテス・ダイジの以下のハタ・ヨーガの定義からもそのことが裏付けられている。

『主に、無数のアサナとプラーナヤーマとムドラーによって、デリケートな感受性と柔軟性を実現していく。その結果、各ボディのブロックも徐々に消えていくわけだが、現代の生存競争と現代物質文明に必須の粗雑な自己防衛機能も消滅するエゴの危険も覚悟しておいたほうがいい。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ27-28から引用)

※ムドラー:冥想姿勢または体位

 

水平の悟りとは、生きている人間であるからには素直に選ぶべき選択肢かと思いきや、無数のあらゆる生命たちの、生きるということに対する神秘とその努力から来る渇望感を感じるが、それは恐ろしいことでもある。

垂直の悟りは、クンダリーニ上昇からニルヴァーナを目指す死の世界の道だが、自己防衛機能も消滅するエゴの危険があって、却って生きづらくなるリスクもはらむ。

さらに一般法則として、冥想法とその結果について二重の不確実性がある。

水平の悟りと垂直の悟りが交差するのが冥想十字マップだが、その図式を実体験する道は言うほど簡単ではない。

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水平の悟りメモ-5

2023-06-19 06:36:19 | ダンテス・ダイジの風光

◎本当に生きているエネルギーの充実感

 

5.人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄える。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『弟子「臨済の悟りっていうのは水平の悟り?」

ダンテス・ダイジ「臨済の悟りっていうのは、要するに全部そういう感覚を経験して分かっていながら、それを超越したときに起こるリラックス。人はたとえばいい状況だったらリラックスできるだろ?悪い状況だったらリラックスできないだろ?そういうことを抜きにした安定感。」

弟子「それを水平の悟りっていうわけ?」

ダンテス・ダイジ「うん、そう。そのとき本当に生きているエネルギーの充実感っていうのが流れる。」

 

弟子「ヘルマン・ヘッセっていうのはどういう人だったの?」

ダンテス・ダイジ「水平の悟りに達した人。水平の悟りっていうのは、おう、何でも来いっていうのが水平の悟りではないからね。嫌なものは嫌って、好き嫌いの激しい水平の悟りの人もいる。」

ダンテス・ダイジ「禅がおそらく最後の宗教になるだろう。人類がもし破滅しないで済めば。破滅するなら、その直前にクンダリニーが栄える。が、人類のどの程度がやるかは保証ないよ。全員がやるとは言わないよ。いろんなずっこけ方があるからね、人は。だって苦しみも実はまんざらでもないんだ。が、苦しみが本当に苦しいなら、坐禅組みたまえ。」』

 

臨済の悟りを典型的な水平の悟りとし、【俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって、】全部そういう感覚を経験して分かっていながら、それを超越したときに起こるリラックスにして、本当に生きているエネルギーの充実感と説明している。

 

なお臨済の悟りは臨済録では、こんな感じ。

※師:臨済のこと。

『問い、「祖師達磨が西の方インドからやって来た意とは何ですか。」

師は答えた、「もし何か意があったら、自分の救いさえ全うできない。」

問 い、「意がないとしますと、二祖はどのようにして法を得たのでしょう か。」

答え、「得たというのは、得ないということだ。」

問い、「得ないと いたしますと、その得ないことの意味は何ですか。」

答え、「君たち が、すべての所に馳せ求める心をやめきれないから、だから祖師はいわれた、『馬鹿者、丈夫たる者が、頭をもちながら頭を探すという愚かな まねをする』と。

君たちがその言下に、すぐに回光返照して自己に取って返し、断じて別に求めず、この自己の身心は祖仏と別でないと悟って、即座に無事である、その時こそ法を得たというのである。』

(禅家語録1 筑摩書房 臨済録P351から引用)

 

『断じて別に求めず、この自己の身心は祖仏と別でないと悟って』というところは、クンダリーニ・ヨーガなら第六身体アートマンにあっては、自分も祖仏も別でないということ。この七つの身体論の説明が、より理解しやすいからといって、だからといって水平の悟り(禅)より垂直の悟り(クンダリーニ・ヨーガ)の方がよいということにはならない。

 

人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄えるという予言は意味深長である。

ソドムの町には、破滅直前に10人の正しい者もいなかった。それを前提に、クンダリーニ・ヨーガが栄えると言っても少数の人間しかクンダリーニ・ヨーガをやってはいまいだろうというニュアンスが仄見える。

一方人類がもし破滅しないで済むシナリオの一例として、出口王仁三郎予言で言えば、山陽地方で10万人、山陰地方で10万人などと残存人口を見ているが、その伝でいけば、日本全体でもせいぜい残存数百万人。生き残った日本人の中で禅的冥想をするのがほとんどということはあるまい。ほとんどの人が禅的冥想をしていれば、そのような人口激減はないだろうし、困難に素直に直面する冥想という技に取り組まず、依然として苦労、困難がないとやってられないという旧時代タイプの心性の人も相当数残っていることを見ている。

新時代、至福千年、みろくの世では、苦労、困難がなくとも神仏道を実感できている人ばかりの時代である。その辺が、『が、人類のどの程度がやるかは保証ないよ。全員がやるとは言わないよ。いろんなずっこけ方があるからね、人は。だって苦しみも実はまんざらでもないんだ。』という彼の発言に出ていると思う。

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水平の悟りメモ-4

2023-06-18 04:21:17 | ダンテス・ダイジの風光

◎水平の悟りと垂直の悟りを同時に生きる

 

4.水平の悟りにあっては、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって・・・。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『ダンテス・ダイジ「水平の悟りっていうのはさ、今こうやっているときの、弟子A自身の充実感。それに腰を下ろしたっていう感じだ。何もかもいいっていう。リラックスっていえばリラックスだし。何一つ問題はないということ。たったそれだけ。単純明快、それを水平の悟りというの。」

弟子「すべてを受け入れることができたときっていうの?」

ダンテス・ダイジ「うん。でもそれだけじゃない。すべての感覚もキャッチしていると同時に、たとえば、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚がここに流れている。感じ取っている。何だって起こり得る。分かる?

そしてまた、永遠に俺が生きているという感覚もここにある。まったく同時にある。

あるいは、無数のあらゆる生命たちが考えている、生きるということに対する神秘と、その努力。神秘と渇望感。ここにある。

が、それは恐ろしいことだ。」

 

弟子「それはって?」

ダンテス・ダイジ「その両方を実現するっていうこと。つまり、ただここでリラックスできるわけだ。一切理屈抜きにリラックスするっていうことが水平の悟りだ。

それに対して、垂直の悟りっていうのは、実際に死後に入るっていうこと。

その二つが合わさって生きるっていうことは、恐ろしいものでもある。すべてであること。が、それはおそらく人間の最後の体験だ。人間っていう存在が持ちうる。」』

 

水平の悟りとは、何もかもいい、何一つ問題はないということ。そこに『俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にある。』のだが、それは恐ろしいことだと説く。

この弟子は、既に水平の悟りにあることを認められているのだが、水平の悟りの深みについて、自分の気づいていない部分をダンテス・ダイジから解説されている。

これも、起こることは起こったが何が起こったのかはわからなかった、の相。

ダンテス・ダイジの解説は思わぬ方向に向いていく。すなわち、水平の悟りと垂直の悟りを二つ合わさって生きることは、恐ろしいものでもあるとし、それはすべてであることだが、それはおそらく人間という存在が持ちうる最後の体験だとする。

当たり前だが、これを証明するには、自らも水平の悟りと垂直な悟りを同時に達成せねばならない。つまり禅の悟りとクンダリーニ・ヨーガの悟りを同時に達成せねばならない。一生のうちにそれができる人間は、この時代にはまだ稀だが、そういった人すらも続々と出てくる時期があると、彼は見ているのだろうか。

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水平の悟りメモ-3

2023-06-16 06:43:21 | ダンテス・ダイジの風光

◎救世主であることの条件は悟っていること

 

救世主であることの条件は悟っていること。それは、水平の悟りでも垂直の悟りでもよい。

以下ダンテス・ダイジ講話から。

 

3.水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。

『弟子「じゃあ水平方向で目覚めているのが救世主の必須条件?」

ダンテス・ダイジ「どっちでもいいよ、垂直方向に目覚めても(笑い)。」

弟子「しかし現実との対応ができない、垂直方向に目覚めただけの人は救世主として救うことはできない・・・」

ダンテス・ダイジ「うん、どっちかというと隠者になる。付き合っちゃいられないからね。水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。彼は一個超然としている。かといって付き合いづらいかというとそうでもない。

だが黙っていると怖い感じがする。話してみると気に置けない。それでいて、適当なことには調子を合わせているが、肝心なことになると一歩も譲らない。」

弟子「ダイジみたいなもんだ。」

ダンテス・ダイジ「それで、首をちょん切ると脅しても譲らないで、ああ切るなら切れ、これが真実だって言ってゲラゲラ笑って、軽くギロチンにかかる。『人に瞞着されず』って臨済録にある、これがそれだ。

人に騙されず。実は人間は人に騙され続けてるのだよ。人から人へ、条件付けされてるのよ。俺は俺だ。分からないなりに俺だ。分かったなりに俺だ。(笑い)どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。

俺は両方言ってるからこんがらがるかもしれないけどね。」』

 

垂直の悟りで行けば、隠者になりがち。ただし、空海、天海、役行者、出口王仁三郎のように隠者でない者も出てくることがある。

水平の悟りで行けば、本当に人々に役立つ存在になる。

『実は人間は人に騙され続けてるのだよ。』とは、教育、政治プロパガンダ、経済商業プロパガンダ、そしてそれに影響された周辺の人々からの口コミ・スマホによる壮大なマインドコントロールの日常に暮らす、われら人間を指す。

そして騙され続けている自分である限り、水平の悟りにはならない。禅的悟りが必要なのだ。

『俺は俺だ。分からないなりに俺だ。分かったなりに俺だ。(笑い)どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。』

この『分かった』とは悟っていることを指す。悟っても悟っていなくともいいんだというのがこの『どっちでもいいんだ』だが、これは、道元が悟り(身心脱落)も悟っていない者の修行も同じだ(修証一如)と言っているのと同義。

そのことについて、既に悟った者がそれを言うのは真実だが、まだ悟っていない者がそれを言うのは嘘だと思う。

OSHOバグワン風に説明すれば、万人は既に悟っているが、それに気がついている人と気がついていない人がいるだけ。

このダンテス・ダイジの『どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。』は、その辺の呼吸である。

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水平の悟りメモ-2

2023-06-15 03:14:18 | ダンテス・ダイジの風光

◎君が愛人と出会う時そこにはどのような意味での必然も偶然もない

 

2.水平に生きるとは、誰にも騙されず、ただ素直に、あるがままに生きられること。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『弟子「『イリュージョン』の中でね、飛行機乗り、リチャード・バック、あれはどうなの、最後は。ドンが認めるじゃない。リチャード・バックを。救世主卒業。あれはどういうこと?」

ダンテス・ダイジ「よきナワールになったな。水平の悟りができたな。お前は誰にも騙されず、どんな人にも引っかからず、媚を使わず、ただ素直に、あるがままの内発性を生きられるようになったな。

救世主だ、まさに!

禅的だな。全体は非常に神秘的だね。

で、あそこの卒業式、よくぞ言ったと。自己に忠実に話す、それのみが真実の在り方である。救世主卒業。いいじゃないか、自己に忠実に話す。人が何て言おうと。

そして初めて他人を他人と見る、そのあるがままに。』

 

リチャード・バックのイリュージョンという小説で、元祖救世主のドナルド・シモダが観客の一人にショットガンで撃たれ急逝する。死後ドナルド・シモダは肉体としてリチャード・バックの前に再生し、そこでリチャード・バックのことを、もう救世主として合格だと認める。

ここでは、垂直の悟りと水平の悟りとの比較は出てこない。

ただそれは、禅では通例神秘的などとは言わないが、禅的にして、全体は非常に神秘的、さらに誰にも騙されず自己に忠実に話すが、あるがままに初めて他人を他人として見る、と水平の悟り時の日常感覚を明かしている。

イリュージョンの中に「救世主入門」の断片が掲載されている。救世主入門は、かつてのベストセラーであるリチャード・バックのイリュージョンの中にその断片がいくつか出てくることで知られる。

後にダンテス・ダイジは、何期かあったアトランティス時代の末期に、“愛”を忘れた当時のアトランティス人のために出版した本が「救世主入門」であるとする。そしてリチャード・バックは、当時ダンテス・ダイジと会ってさえもいるという。

 

原典救世主入門から一部をご紹介

『救世主は

ただ一つの生き物しか

救うことはできない

その一つの生き物とは

君自身である

 

君は自分の中に

救世主が住んでいるのを知っている

救世主を閉じ込めてはいけない

それは絶対に避けるべきである

 

友人は君について

君の知人が

千年かかって知るより

はるかに多くのことを

出会いの一刹那で知るだろう

 

君が愛人と出会う時

そこには

どのような意味での

必然も偶然もない

時を忘れた時の中で

君は思い出すだろう

愛人との

いくたびもの戯れのすべてを

 

君達すべての者に告げる

君達が遭遇する事件はすべて

君達自らが招き寄せたものである

その事件の発展の方向を決めるのは

もちろん君達であって

神ではない

 

君が

生きたり死んだりするのは

君が選んだ

無数の見方のうちの一つにすぎない

君がその見方を

気に入っているのなら

生きたり死んだりすればいいし

気に入らないのなら

捨てればいい

 

世界の遊戯に寄与する

君達の使命が

終了したかどうかを判断する

簡単な基準がある

もし 君達が生きていれば

瀕死の重傷で

かすかに息がある場合でも生きていれば

まだ使命は終わっていない』

(十三番目の冥想 雨宮第慈講和録 渡辺郁夫編P111-113から引用)

 

生の側から窮めるのは、遊戯のようである。

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水平の悟りメモ-1

2023-06-14 03:32:34 | ダンテス・ダイジの風光

◎水平の悟りは生の側を極める、垂直の悟りは死の側を極める

 

おおまかに言えば、禅的悟りが水平の悟りで、クンダリーニ・ヨーガの悟りが垂直の悟り。水平の悟りは生の側を極める悟りで、垂直の悟りは死の側を極める悟り。

冥想十字マップ参照

 

水平の悟りについて、そのように一言で言えば、わかったような気になるかもしれないが、類似の概念や説明を見つけようとしてもなかなかないので、水平の悟りについて、ダンテス・ダイジの講話から抽出してみた。

 

1.水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味。

※この「死ぬ」は自殺のことではない。

 

『それは本当にパーフェクトなものだ。完全なものだ。至福なものだ。全生命がそれを求めている、その最後の底にあるもの。それは愛と言ってもいい。自由と言ってもいい。全知全能と言ってもいい。そういったものを誰でも持っている。

 

で、それは死によって起こる。自分が全部消える形によって起こる。今までの古い自分が死んだときに起こる。で、死に方に二つある。水平に死ぬのと、垂直に死ぬのと。垂直に死ぬっていうのは、霊的に死ぬという意味だ。水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味だ。」』

 

「霊的に死ぬ」で想定されているのは、クンダリーニ・ヨーガにおけるクンダリーニ上昇から脱身、そしてニルヴァーナへの突入。クンダリーニ上昇以降が死の世界で発生しているイベント。最後は自分も死ぬ。

 

「禅的に死ぬ」とは、自分の心は死に、外的対象も死に、そして両方とも忘れてしまうこと。(「心境双び忘ず。乃ち是れ真法なり。」:黄檗希運の『伝心法要』)

 

そこで禅では、本来の自己である仏に出会うためには、自分を死なねばならない(大死一番)などと言う。

 

なお、この講話の内容だと、水平の死でも垂直の死でもどちらも本当にパーフェクトなものに出会うとしており、違いは不分明。

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誰もが悟れるチャンスだが最悪のピンチでもある

2023-06-11 03:46:00 | ダンテス・ダイジの風光

◎のっぴきならないリアルな現実

 

あなたは、最愛の愛人と大親友が目の前で溺れている時に、どちらか一人しか救えないとしたら、どちらを救いますか?

 

ダンテス・ダイジの講話は、未悟の者が漫然と聞いていると半分以上はわからないで終わる。

以下の話は、過去一度は読んだことがあったが、その恐るべき重要性に今頃になって気がついたので出してみる。

 

ダンテス・ダイジの講話テープから。

『ダンテス・ダイジ「そうではない。たとえば、A女(最愛の愛人)とB男(大親友)が両方とも溺れていて、どっちを救うかっていったら、どっちを救ってもいいんだ。近い方を助ければ。

 

共産主義っていうのは、これに立脚しなかったが故に、駄目になっちゃった。こういうクレイジーな智恵に。

 

それは恐るべき知恵だ。なぜならその瞬間、自分が決断して、そして自分が一番大切なものを失ったときの全面的な悲しみと、しかしそれでも一つの命を助けたっていうことに関する全面的な喜びとが、拮抗しあうだろうよ、多くの人にとっては。その瞬間だ、ジャンプする可能性があるのは!

 

が、水平の面から言えば、自分の一番近い人から助ければ文句なしだ。僕はどっちがいいとは全然言っちゃいない。ただ宇宙構造の話をしているだけだ。」

 

C男「そのときジャンプの可能性があるの?」

ダンテス・ダイジ「うん。」

C男「そのときなの?」

 

ダンテス・ダイジ「まさにそのとき。その決断を下した決断そのものに覚めている。通常の人間ならそこで葛藤が起こるだろう。だからクリシュナムルティっていうのは、ある意味でいえば、ハートより上でしか生きていない。彼は常にそうするだろう。一番近い人から助けるだろう。どちらが大切ということはないと言い切るだろう。でも俺は、全部を生きてるからね(笑い)。時と場合によってどうなるか分からない。俺は七つ(のチャクラ)全部で生きてる。」

 

C男「クリシュナムルティは、胸から下で生きるとやばいからそうしてるの?」

 

ダンテス・ダイジ「ではなくて、胸から下で生きたら人類が破滅することを知ってるからだ。一方的に自分が胸から上、ハートから上の世界に生きなければ示しがつかないっていう。自分一人だけでも頑固に。」』

 

この対話で最ものっぴきならない部分は、大悟覚醒がまさに発生するタイミングが【自分が一番大切なものを失ったときの全面的な悲しみと、しかしそれでも一つの命を助けたっていうことに関する全面的な喜びとが、拮抗しあう】タイミングだと述べているところ。

 

※水平の面:これは、水平の悟りと垂直の悟りがあって、おおまかに言えば、禅的悟りが水平の悟りで、クンダリーニ・ヨーガの悟りが垂直の悟り。冥想十字マップ参照。

 

※胸から下で生きる:下方三チャクラで生きることを言う。

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