アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

十牛図-12

2023-01-11 03:01:42 | 十牛図

◎第十入鄽垂手(にってんすいしゅ)

【大意】
『序

ひっそりと柴の戸を閉ざしていて、どんな聖者も、その庵の内を知ることはできぬ。自己の風光を隠すとともに、昔の祖師 (達磨大師など)の歩いた道をゆくことをも拒んでいる。徳利をぶらさげて町に行き、杖をついて家に還るだけだが、それだけでもって酒屋や魚屋たちを感化して成仏させる。


彼は胸をはだけ、裸足で町にやって来る。砂土にまみれ、泥をかぶりながら、顔じゅうを口のようにして笑う。
神仙の超能力(真の秘訣)を用いず、ただ枯れ木に花を咲かせる。』
※ただ枯れ木に花を咲かせる:枯れ木に花を咲かせれば、成道する(達磨が西から中国にやって来る)。枯れ木に花を咲かせるのは超能力だが、枯れ木は枯れ木のままで何も問題などない。

牛飼いは、第八人牛倶忘で、即身成仏した。そのまま亡くなってもよかったが、敢えて復活して生きる道を選んだ。だが、彼は密教者のように超能力・霊能力は用いない。

ただ存在しているだけで、町をよくする聖者の姿がここにある。彼は、酒屋や魚屋たちが仏であることを知っているのだ。彼の聖なるバイブレーションが枯れ木に花を咲かせるように、かつて不可能であったことを可能にする不可思議な流れを作り出す。

人間は悟りを開いて、仏(空、神、絶対無)を知らなければ、真の意味で、生きている価値を見いだすことはない。また悟りを開いて、衆善奉行諸悪莫作(善いことをする悪いことをしない)を生きる人も、外形は単なる社会的不適応者が一人いるだけに見えるかもしれないが、その人がいるだけで周辺にも世界全体にも好影響を与えることができる。

そして冥想により、あらゆる因縁を見切って解脱した覚者にとっても、自分のことは二の次で、他の人々のためになることばかりする生き方しかできないことは、人間の感情としては、とても苦しいシーンがあるものだと思う。覚者は当然感受性がオープンになっているし、社会の矛盾からくるあらゆる問題とその痛みが良くわかるので、なおさらである。

ただ、人間は本当はその境遇のみじめさだけではないという実感、つまり神がその人を生きているという実感があるからこそ、その苦しさを堪えられるものだと思う。
そこに第十入鄽垂手の覚者から見たむずかしさがあるように思えてならない。その二重の世界観は、人間として正視すべきものだと思う。

それはまた、いつまでもそんな社会であっていいのかという疑問や、そんな社会がいつまでも続くのかという疑問になっていく。弥勒菩薩出現の前夜。

【訓読】
『第十 入鄽垂手
(鄽(まち)に入って手を垂る)
 序の十

柴門独り掩(おお)って、千聖も知らず、
自己の風光を埋(うず)めて、前賢の途轍(とてつ)に負(そむ)く。
瓢(ひさご)を提げて市(まち)に入り、杖を策(ひ)いて家に還る、
酒肆(しゅし)魚行、化して成仏せしむ。


胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして鄽(まち)に入り来たる、
土を抹(な)で灰を塗り、笑い腮(あぎと)に満つ。
神仙の真の秘訣を用いず、直(た)だ枯木をして花を放って開かしむ。』

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十牛図-11

2023-01-10 03:37:25 | 十牛図

◎第九返本還源

 

【大意】

『序

 

始めから清らかで、塵ひとつ受けない。有相(あの世この世)の栄枯盛衰を観じつつ、無為という靜寂(ニルヴァーナ)にいる。

(有相とは不壊だから)空虚な幻とは異なる。だからどうしてとりつくろう必要があろうか。

川の水は緑をたたえ、山は青く、居ながらにして、万物の発生と衰滅を観じる。

 

根源に立ち返ってみると、(これまで)努力の限りを尽くしてきたものだと思う。ただ単に盲聾のように、何も見ず、何も聞かずにいるのと同じではない。

庵の中にいると庵の外の物は見えない。

川の流れは自ずから果てしもなく、花は自ずから紅く咲く。』

 

※庵の中にいると庵の外の物は見えない。:世界と自分は一体なのだから庵の中も庵の外も同じ、庵の中も庵の外も見えない。逆に、見えると言うならば、庵の中も庵の外も見える。見ずして見る。

※川の流れは自ずから果てしもなく、花は自ずから紅く咲く。:無為無相のニルヴァーナに居れば上々の機であって、自然に無事であり、水は自ら茫茫 花は自ら紅である。

 

第九返本還源に至って、これまでの悟りのプロセスを回顧している。悟り後のポジションに至って初めてわかる事はある。代表的なのは、生の側を極めれば、死の側も極めたことになるということ。換言すれば、禅でニルヴァーナに至れば(大悟、心身脱落)、クンダリーニ・ヨーガを極めたのと同様に、第一身体から第六身体の各ボディのことがわかるということ。OSHOバグワンは、第七身体ニルヴァーナまで行かないと第六身体以下のことがわからないとも言っている。

 

個人と宇宙全体の逆転、倒立、サプライズについては、庵の中と庵の前がみえるとか見えないかという文で比喩しているが、わかりにくい。それを明文で書かないというのは、それを実体験した際の感動のエネルギーをネタバレで小さくしてしまわないという配慮なのだろうか。確かに大悟した際に、『教えてくれなくてありがとう』と言って感謝した禅僧もいるが・・・。

 

さて密教者は、霊能力、超能力を人間の幸福のために使用する。だから例えば加持で川の水を別の場所に流そうとしたり、山をスピリチュアル・パワーで開墾しようとしたりする。それを死の世界を操作すると言い、極めれば死の世界をクリアするなどと言ったりする。

 

一方禅で極めれば、水は自ら茫茫、花は自ら紅のままでよしとする。自然をスピリチュアル・パワーで改変しようなどとは思わない。これが生の側から極めるということ。

 

また、本来、クンダリーニ・ヨーガのステップならば、第八人牛倶忘の前に第六身体である牛と人とが合体するシーンを置くべきだが、十牛図ではそうせず、第八人牛倶忘の次に第六身体である牛と人とが合体したという説明の第九返本還源を置いている。これが禅の特徴なのだろうと思う。

 

さらにインド的な伝統からすれば、人間にとっては、一円相(仏、神、ニルヴァーナ)の第八人牛倶忘で冥想の旅は完了する。

事実、ニルヴァーナにたどりつけば、その人には全く問題はないのだから、そこから帰還せず、そのまま肉体はあの世行きとなる人の方が多いと言われるのも当然である。

 

ところが、既に解脱(ニルヴァーナに到達)している人が、この世の人間ドラマの味わいが好きだという嗜好により、陋巷(ろうこう)にもどり、生ける光明として生きる生き方がある。これは、中国と日本の覚者の伝統として、最後まで人間が好きだという姿勢のあらわれである。この伝統が第九返本還源の動機である。

 

禅で正念相続という言葉があるが、これは解脱というあらゆる人間的立場を超えた神秘体験を継続しつづけ、その神秘体験を日常生活そのものにしてしまうことを言う。そのことが『平常心是道』であり、『日々是好日』であって、解脱、神人合一の「体験と呼べぬ体験(人間の側の体験でなく、神・仏の側の体験)」がないフツーの人の気楽な生活が、『平常心是道』や、『日々是好日』ではない。

 

【訓読】

『第九 返本還源

序の九

 

本来清浄にして一塵を受けず、

有相の栄枯を観じて無為の凝寂に処す。

幻化に同じからざれば豈に修治を仮らんや、

水は緑に山は青くして坐(いながら)らに成敗を観る。

 

 

本に返り源に還って巳(すで)に功を費す、

争(いか)でか如(し)かん直下に盲聾の若くならんには。

庵中には庵前の物を見ず、

水は自ら茫茫 花は自ら紅なり。』

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十牛図-10

2023-01-09 06:33:34 | 十牛図

◎第八人牛倶忘   

 

【大意】

『序

 

迷いの気持が脱け落ちて、悟りの心もすっかりなくなった。悟りの世界に遊ぶ必要もなく、悟りのない世界にも足をとめずに通り抜けなくてはならぬ。人と牛のどちらにも腰をすえないので、観音の千眼さえ、この消息を見抜けない。沢山の鳥が花をくわえてきて自分に捧げることなど、恥ずかしくて顔の赤らむ一シーンだ。

 

鞭も手綱も、人も牛も、すべて姿を消した。青空は空しく大きく、連絡の通じようがない。真っ赤な溶鉱炉の炎の中に、雪の入り込む余地はない。ここに達して初めて、祖師(達磨大師=中国での禅の始祖)の宗旨にかなう。』

 

青空も真っ赤な溶鉱炉もニルヴァーナの比喩。

クンダリーニ・ヨーガでは、

自分が死に、宇宙全体となり、

第六身体アートマン(宇宙全体)が中心太陽ブラフマンに突入し、

ニルヴァーナに至る。

ところが、十牛図の第七忘牛存人では自分がまだ残っており、この第八人牛倶忘(人も牛もともに忘れる)に至って、自分が死ぬ以降の段階をすっ飛ばして、いきなりニルヴァーナが登場する。これが禅的悟りの特徴。逆転、倒立、サプライズの表現がないのだ。

 

このすっ飛ばすという点について、ダンテス・ダイジは、実は禅者も各段階を経過しているが、高速すぎて意識に上らないということをつぶやいている。

 

ここは、第七身体であり

禅でいう無

仏教でいう仏、涅槃、空(空の意味は多様に使われるのだが)

密教では、大日如来

道家でいう道(タオ)

気功なら太極

ヨーガなら宇宙意識、ニルヴァーナ

ヤキ・インディアンの呪術ならイーグル

キリスト教なら神

であり、言葉で表現できないものを、仮に名前をつけたものである。大日如来などと人格神ぽい名前がついていても人格神のことではない。

 

迷い(マーヤ)にも悟りにも腰を落ち着けないので、廓庵も慈遠も手のつけようがないと述べている。

 

またここに到達することを解脱とも言う。

 

本来もなき いにしえの我なれば

死にゆく方も 何もかもなし

(一休)

 

『連絡の通じようがない』とは、宇宙全体が自分一人になったのだから、誰か別の連絡する相手はもういないということ。

 

【訓読】

『第八 人牛俱忘

序の八

 

凡情脱落し、聖意みな空ず、

有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず、無仏の処、急に須らく走過すべし。

両頭に著(お)らざれば、千眼も窺い難し。

百鳥花を含むも一場の懡玀(もら)。

 

 

鞭索人牛ことごとく空に属す、

碧天寥郭として信 通じ難し。

紅炉焰上争(いか)でか雪を容れん、

此に到って方に能く祖宗に合う。』

 

※百鳥花を含むも一場の懡玀(もら)。:

禅僧牛頭法融が、山中で一人修行して空の境地を達成した時、多くの鳥が花をくわえて捧げ、彼を祝福した。ところが、禅の四祖道信の弟子として修行を始めたら、牛頭法融に花をくわえた鳥が集まることは二度となかったという。修行過程で、超能力、霊能力が発現することがあるが、それにこだわると、進境が止まるということ。

 

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十牛図-9

2023-01-08 03:40:14 | 十牛図

◎第七忘牛存人

【大意】
『序
真理が二つあるわけではない。仮に牛を主題としただけだ。罠とうさぎが別物であるのと同じく、魚と網の別があるようなものだ。まるで純金が金鉱石から出てくるように、月が雲を抜け出るのに似ている。
一筋の透明な月の光は、遠い昔の威音王仏出現以前つまり天地創造以前のものである。


牛に乗ってもう家に到着することができた、牛は空しくなり、人ものんびりしている。朝日が高く昇るころになっても、まだ人は夢を見て眠りこけている。鞭と手綱は藁屋に置きっぱなしである。』

第六騎牛帰家までは、自分と牛では自分の方が主人然として、コントロールしようと躍起になっていた。だからといって、第七忘牛存人では、自分が牛を鞭や縄で慣らしつけたから、自分の思惑どおり牛がよく馴れておとなしくしている、と読むのは間違いだと思う。

鞭や縄で慣らしつけてみたら、牛は確かに自宅にいるが、牛(世界全体、真理、有、第六身体)のことはすっかり忘れて、牛と共存することでゆったりとくつろいでいる。

よってまだ牛と人とは一体になっていない。そして見ている自分を残している。見ている自分を残しながら、世界全体(真理、有、第六身体)である牛のことも見ているが、そこに緊張感はもうなくなった。だが視点はまだ人間の側にある。だが、自分は牛であったという逆転、倒立、サプライズは発生していない。これは、十牛図の大きな特徴である。

この図は、大悟直前には、牛飼いの少年が余裕を見せて自宅でごろごろしている、という図ではない。

聖書でいえば、こういうのを、見ている自分を残しながら見るレベル

神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。
神は大空を作って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。(創世記)

聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。               (ヨハネの黙示録)

【訓読】
『第七 忘牛存人
 序の七

法に二法なし、牛を且(しば)らく宗と為す。
蹄兎(ていと)の異名に喩え、筌魚(せんぎょ)の差別を顕わす。
金の鉱より出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり。
一道の寒光、威音劫外。

牛に騎(の)って已(すで)に家山に到ることを得たり、
牛も也(ま)た空じ人も也た閑(しずか)なり。
紅日三竿 猶お夢を作す、
鞭縄空しく頓(さしおく)草堂の間。』

※蹄兎、筌魚:ウサギを罠で捕まえれば罠のことはすぐ忘れウサギのことしか覚えていない。魚を漁具で捕まえれば漁具のことはすぐ忘れ魚のことしか覚えていない。鞭や綱のことは忘れ去られる。

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十牛図-8

2023-01-07 03:21:44 | 十牛図

◎第六騎牛帰家

 

【大意】

『序

 

争いはとっくに終わって、捕らえることも放すことも忘れた。木こりの歌う村歌を口ずさみ、童謡を口笛で吹く。

牛の背に跨がり、目は雲のある空を見ている。牛も人も呼び返すこともできず、引き止めようもない。

 

 

牛にまたがって、悠揚として家路を目指せば、えびすの笛の音が、一節、一節、夕焼け雲を見送る。

一つの小節、一つの歌曲にも言いようのない情感(意)がこもっていて、真にこのバイブレーションを解する人には、言葉の説明は不要である。』

 

えびすの笛の音とは無限光明の精妙なるバイブレーションのことである。すなわち窮極(仏、空、神、ニルヴァーナ)から来る波動のことである。

メンタル体上のチャクラは、中心太陽(ニルヴァーナ、空、無限光明)の7つの属性(窮極、智慧、自由、愛、歓喜、安心、力)の現れであるが、そのエネルギーの流れがえびすの笛の音とも言えよう。

 

この笛の音は、究極から来るものであるだけに、人々の生活を根底から変えてしまうことを本能的に知っているがゆえに、人々はその笛を聞くのをこわがるものだ。笛を奏でる人の仲間に身を投じようとしたり、恥ずべき自分の生き方を思い知らされたり、自分自身に出会う恐怖を直観的に感じるのだ。

 

本来の自分(仏、神)を見るという体験を第三見牛で得たが、この第六騎牛帰家までは、牛(仏、神、空、涅槃、無)と自分とは別の存在である。従って第六騎牛帰家の位相は、最後の個別性を残したポジションである第5身体のコーザル体のレベルであると見る。

 

牛という世界全体は見ていて、見ることに大分慣れてきた。だが、見ている自分がまだ残っている。

 

【訓読】

『騎牛帰家

 序の六

 

干戈(かんか)已に罷(や)み、得失還た空ず、

樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。

身を牛上に横たえ、目は雲霄(うんしょう)を視る、

呼喚すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。

 

牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す、

羌笛(きょうてき)声声 晩霞を送る。

一拍一歌 限り無き意、

知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓せん。』

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十牛図-7

2023-01-06 03:17:04 | 十牛図

◎第五牧牛

 

【大意】

『序(慈遠禅師)

ある思いが起こるやいなや、後から他の思いがついてくる。

悟りにいれば真となり、迷いにいるから迷妄となる。心の外の対象のせいでそうなるのではなくて、わが心から生じているのに過ぎない。牛の鼻の綱を強く引いて、もたついていてはならない。

 

鞭と手綱を片時も手放さないのは、牛が勝手に歩いて、塵埃の中に引き込まれるおそれがあるからだ。

よく飼い馴らせば、おとなしくなり、手綱で拘束しなくても、自分の方から人についてくる。』

 

この段階では、窮極をチラリと見ただけなので、全体なるものへの倒立、逆転はしていない。つまり、悟りと迷いの違いはわかるが、ふらふらとどちらにでもよろめく可能性のある不安定さを生きている。

 

鞭は覚醒の側へ戻す道具のこと。手綱は生活全体の悟り側へのコントロールのこと。覚者には悟りを維持する精妙な生活上のルールがある。例えばカルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズに出てくるドン・ファン・マトゥスは、ペヨーテ・サボテン(メスカリンの原料)をきっかけとしたソーマ・ヨーガ(薬物冥想)での覚者であるが、彼は酒もタバコも飲まないなどの、目に見えない精密な規律を守っている。

 

一方見性・見仏・見神を経ただけの修行者にも、規律、戒律、ルールが与えられているものだ。例えばハタ・ヨーガ行者にあっては、菜食を行い守るということが、ヨーガ冥想における重要なファクターとなっている。只管打坐修行者にあっては、清規と呼ばれる精密な規則にそって、一挙手一投足を行うことが基本である。

 

このようにすでに窮極を見ただけの者達には、窮極と自分が逆転する必要性からくるところの冥想上の注意や工夫、日常生活の細密な規律によるコントロールが必要なのだ。これが鞭と手綱。

 

万一牛が暴れ出したら、修行者の手に負えなくなる危険性がある。無意識の暴走とは、狂気や死であって、恐ろしいものである。時に異次元空間に立往生した人の描写を読むことがあるかもしれないが、そのような人もそれなのだろうと思う。まことに正師が必要なのだ。

 

【訓読】

『第五牧牛

序の五

 

前思纔(わず)かに起これば、後念相随(したが)う。

覚りに由るが故以(ゆえ)に真と成り、迷いに在るが故に妄と為る。

境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず、

鼻索牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容れざれ。

 

 

鞭索 時時身を離れず、

恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵に惹かれんことを。

相い将(ひき)いて牧得すれば純和せり、

羈鎖(きさ)拘することなきも自ら人を送う。』

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十牛図-6

2023-01-05 05:23:32 | 十牛図

◎第四得牛

 

【大意】

『序

長らく野外に隠れていたその牛に、やっと今日はめぐり逢った。

牛飼い人は四辺の美しい風景に見とれて、牛に追いつくことが難しく、牛もおいしい草むらが、気になって仕方がない。

人も牛も、頑な心が依然として奮い立ち、野性がまだ残っている。

おとなしくさせたいと思うなら、どこまでも鞭を与えることだ。

 

精力の限りを尽くして、その牛をとらえたが、牛は頑固で力も壮んで、簡単には手におえぬ。

突然高原に駆け上ったと思うとさらに深い雲の中に居すわってしまう。』

 

牛(仏、神、ニルヴァーナ)が手におえぬとは何か。やや分不相応な形で見性、見仏(ニルヴァーナとの一時的遭遇)が起こったことを示唆しているようだ。

つまり十分な精神の成熟なくして、それが起こってしまった。従って自分でも手にあまるペットを飼わされるようなもの。しかし十分に精神が成熟した場合は、手に負えぬ場面があるとは思えない。

 

白隠は、大悟〇回小悟〇回などと数えているのだが、最初の悟りは見性であって、第三図の見牛。その牛を慣らし始めるのだから、2回目以降の悟りが、第四図得牛にあたる。

 

白隠は、江戸時代の禅者で、自分の禅病をクリーム白色のエネルギーの観想法で治したことで有名。これを軟ソ(柔らかバター)の観と呼んだ。至道無難の弟子が正受慧端で、その弟子が白隠。白隠は禅の中興の祖とまで言われている。

 

さて白隠は24歳新潟県高田の英巌寺で十数日徹底して坐禅をして、ある朝、鐘の音を聞いて突然大悟したと思った。そこで白隠は『過去3百年間でおれほど悟った奴はいない。天下無敵である。』と宣言したが、性徹和尚は評価しなかった。それにもかかわらず白隠は、意気揚々と長野県飯山の正受慧端に弟子入りした。

 

正受が「趙州という坊さんの無という字は何か」の公案をぶつけた。白隠は、「趙州の無にどこに手足などありましょう」と応えた。が、正受(70歳)は何も言わない。そのうち急に振り返り白隠の鼻をぐいぐい押さえて、「ちゃんと手足をつけているではないか」とやった。これで白隠は、自分の大悟はまだまだであることがわかった。

 

正受老人は『お前のような穴ぐら禅坊主は自分一人でわかったつもりでいるとんでもない奴だ、しばらく叩かれろ』と言って、そのあと8カ月にわたって滞在した白隠を怒鳴りつづけて、まったく何も教えない。ある時白隠は数十発げんこつで殴られた上に、引き倒され、縁側からころげ落ち、死んだようになり動けなかった。白隠はずっとただ怒鳴られるだけで、作務(労働)をしているばかりだった。

 

しかしある日托鉢をして他家の門に立ったとき、夢中で経を読んでいたので、老婆のあっちへ行けという声に気がつかなかった。

その時老婆が箒を持ってきて、ぐずぐずするなと白隠の腰をしたたかに叩いた。その途端に、白隠は与えられた南泉遷化の公案(南泉という坊さんの死はどういう意味か?)がはっとわかった。その見解を正受老人に呈すると、にこやかに微笑し、以後穴ぐら禅坊主とよばれなくなった。

 

正受は、8カ月間白隠が何を言っても相手にせず、怒鳴り続け、なぐりつづけたが、これは、今ならパワハラでイジメ。

意識のブラックアウト、孤独と不条理と絶望の真っ暗な深淵にたたき込むための、とっても親切で徹底したいじめ。

ユダヤの生命の木では、深淵(十球中上位三球が深淵の上側に位置する)を経ないとその先の『聖杯』にはたどりつけない。

 

このいじめは、正受に、ちょっとでもいじめそのものを楽しむサディズムや支配欲の満足があっては、単なる曲がった人間性の発露に落ちてしまう。だからむずかしいのである。これは師匠の話。

 

このように牛(仏、神、宇宙意識)をちら見した(見牛)だけでは、まだまだ遠く、牛を得ても手に負えぬ牛は殴りつけるなどしないといけないものであることがわかる。

 

【訓読】

『得牛

 序の四

 

久しく郊外に埋もれて、今日渠(かれ)に逢う、

境の勝れたるに由って以って追い難く、芳叢を恋いて已まず。

頑心は尚お勇み、野性は猶を存す、

純和を欲得せば、必ず鞭楚を加えよ。

 

 

精神を竭尽して渠を獲得す、

心強く力壮(さかん)にして卒(にわ)かに除き難し。

有る時は纔(わず)かに高原の上(ほとり)に到り、

又た煙雲の深処に入って居す。』

白隠-1(初期の悟り)
  白隠-2(正受にしたたかに殴られる)
  白隠-3(世界はどう変わるか)
  白隠-4(生死はすなわち涅槃である)
  白隠-5(白隠の最後の悟り)
 

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十牛図-5

2023-01-03 03:06:55 | 十牛図

◎第三見牛

 

【大意】

『序

牛の声をたよりに発見したルートに入り、目にしたその場で根源に出会う。

六つの感覚の各々が、まごう事なく、日常の動きの一つ一つがそれを現してくる。水に含まれている塩分や絵の具の中の膠(にかわ)のようなものだ。目をかっと見開けば、まさしく他のものではない。

 

 

鶯は樹上に声を上げ続け、日光は暖かく、風は穏やかで、岸の柳は青い。ほかならぬこの場所より、他に逃れる場所はない、威風りんりんたる牛の角は、画にもかけない風格がある。』

 

第三図にして早くも絶対なるものを見てしまった。仏をちら見することを、禅では見性(けんしょう)というが、日本でも見性できた坊さんは数えるほどしかいないはず。全然簡単ではない。

 

鶯の声が聞こえ、春光は暖かく、春風は穏やかで、岸の柳は青い。これほどありのままに、すべてのものを感じ取ることができれば、立派な牛の角ははっきりと見えすぎるほどである。

何かの拍子に、あるいは老師のよき指導を得て、あるいは様々な工夫の末に、牛への手がかりを発見し、牛であるアートマン第六身体=仏=本来の自己を見る。

 

牛(仏、神、宇宙意識)を見る手法というのは、必ずしも丹田禅(公案と一つのマントラで丹田を作る禅)である必要はなく、只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも、ラーマクリシュナのようなバクティ・ヨーガ(神と一体であるという信愛に溶け込むタイプ)などいくらでもある。

 

中国に、禅と念仏を一所に修行する禅浄双修と呼ばれる修行法があったが、公案でのムー(無)やセキシュ(隻手)の代わりに南無阿弥陀仏で丹田を作るというアイディアだったようだが、これもありだろうとは思う。

 

なお、見性、見仏は、チラ見であり、glance(一瞥)とも訳される場合がある。

 

しかし臨済義玄(臨済宗の開祖)に象徴される、『絶対なるもの』から直接喝を食らわすというような手法が主流になったのは、その後の禅の正当性を守ったのではあるまいか。つまり禅は、牛を発見するだけのためのものではなかったのである。

 

【訓読】

『第三 見牛

 序の三

 

声より得入し、見る処に源に逢う、

六根門著著差(たが)うことなく、動用中頭頭顕露す。

水中の塩味、色裏の膠青、

眉毛を貶上(さつじょう)すれば是れ他物に非ず。

 

黄鷺枝上 一声声、

日暖かに風和して岸柳青し。

只だ此れ更に廻避する処なし、

森森たる頭角 画(えが)けども成り難し。』

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十牛図-4

2023-01-01 18:41:43 | 十牛図

◎第二見跡

 

【大意】

『序

 

経典をたよりに、筋道を了解し、教えを学んで牛の足跡がわかった。様々の器物が、もとは同じ金属であることをはっきりさせ、万物が自分と同じであることを知的理解する。

足跡の正邪を判断できぬのに、どうして本物か偽物かを見分けることができよう。まだ門に入ってはいないので、仮に足跡を見つけたところとする。

 

頌(廓庵禅師)

川のほとり、林の木陰にやたらと足跡がついている。芳草が群がり茂っているのをあなたは見たか。

たとえ深山のそのまた奥でも、天に向いているその牛の鼻をどうして隠せようか。』

 

これは、いろいろな書物で知的理解を深めたり、いろいろな人に会ったり、師匠の指導よろしきを得て、本物の香りや息吹に少々鼻が利くようになったレベル。

 

ここは、見性、見仏以前のレベルであるので、大方の冥想修行者が、このレベルに位置している。

魔境は、ある程度の冥想の深まりがなければ、起きないが、魔境もここである。

一生懸命冥想しても決定的なものが起きない人や、単なる冥想ヲタクまでがこの『見跡』レベル。霊能力の発現、超能力の発現は冥想レベルの深まりとは何のかかわりもない。

 

またやすらかさや喜びというようなあらゆる肯定的感情の深まりを体験することがあるが、それも決定的なものに出会ってなければ、このレベルである。

 

【訓読】

『見跡(足跡を見る) 序の二

 

経に依って義を解し、教えを閲(けみ)して蹤(あと)を知る

衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己となす

正邪弁ぜざれば、真偽なんぞ分かたん

未だ斯の門に入らざれば、権(かり)に見跡と為す

 

 

水辺林下 跡偏えに多し

芳草離披たり 見たるや

縦是(たとい)深山の更に深き処なるも

遼天の鼻孔 怎(なん)ぞ他を蔵(かく)さん』

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十牛図-3

2023-01-01 15:11:27 | 十牛図

◎第一 尋牛

 

【大意】

『序(慈遠禅師)

はじめから見失ってはいないのにどうして探し求める必要があろう。もともと覚めているその目を反らせるから、そこに隔てが生じるので、塵埃に立ち向かっている内に牛を見失ってしまう。

故郷はますます遠ざかって、別れ道でにわかに間違える、得失の分別が火のように燃え上がり、よしあしの思いが、鋒(つるぎ)の穂先のように鋭く起こる。

 

頌(廓庵禅師=十牛図の作者)

あてもなく草を分けて探してゆくと、川は広く、

山は遥かで、行く手はまだまだ遠い。

すっかり疲れ果てて、牛の手がかりもつかめず、楓の枝で鳴く、遅れ蝉の声がするばかり。』

 

序と頌がついているが、十牛図の説明の本体は頌の方。

廓庵のコメントのほうが、直接牛の説明をしているのに対し、慈遠のコメントは、禅の専門道場での修行者向けに書かれているためか、牛それ自体の説明はなく、修行者の心得のような部分があり、かえってわかりにくくしているところがある。

だからどちらかというと廓庵の頌を見てもらったほうがよいように思う。

 

一人で地図もない見知らぬ山に入っていく。その山のことは、釈迦の本にもイエス・キリストの本にも出ていない山だ。本来の自分の山だからである。

探索に疲れ果てて、やめようかと思った時に、耳に入る蝉の声が、その先の道を示すインスピレーションになる。

 

禅は、クンダリーニ・ヨーガのような段階型の冥想ではない。禅は、公案をやる看話禅と黙照枯坐の黙照禅に分類されるなどと言うが、禅問答の大半は、悟ったか悟らないかだけなので、その分類に意味があるとも思えない。公案で行き詰って大悟する場合もあろうし、黙照枯坐なる只管打坐で身心脱落することもあるだろう。要は、悟ったか悟らないかだけ。

つまり2段階だけなのである。

 

翻って十牛図のように十段階も立てるのは、「本来二段階だが」という注意書き付きで、そうしているということである。

 

【訓読】

『尋牛

 

序の一

従来失せず、何ぞ追尋を用いん、

背覚に由って以って疎と成り、向塵に在って遂に失す。

家山漸(ますま)す遠く、岐路俄かに差(たご)う、

得失熾然として、是非蜂起す。

 

忙忙として草を撥い去いて追尋す、

水闊(ひろ)く山遥かにして路更に深し。

力尽き神疲れて覓(もと)むるに処なし、

但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずるを。』

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十牛図-2

2023-01-01 08:13:46 | 十牛図

2.覚者の生きる世界

そこで認識を再確認しておかなければならないのは、窮極(仏、神、宇宙意識、なにもかもなし)と一体化した体験を持たない方が、『人は皆そのまま仏(神)である』と言う場合は、そのことを実証する体験を持たないので、嘘になる。他方窮極と一体化した体験のある方、すなわち覚者が、『人は皆そのまま仏(神)である』と言う場合は、絶対の真実であるという点である。

それはなぜかというと、悟ってないこちら側から見れば、その違いは、『仏と合一する体験の有無』の違いがあると見えるが、一方覚者の側から見れば、覚者と普通の人は、違いなどなく全く同じ世界を生きているからである。

十牛図は一つながりだけれど、生きている世界ということで言えば、八番目の『人牛倶忘』からは、覚者側の世界に変わると考えられる。仏と自分が一体になった世界に変わるのである。
兎角心理学者は、これを変性意識とか、心理現象として見たがるが、心理ではなく、本当に別の世界に生きている。
最初は発心に始まり、第三段階で見仏し、第八段階で悟りを開き、運よく生還すれば第九段階以降は生き仏として生きる。なお禅の発想からすれば、悟りに中間段階はなく本来第八段階の一円相だけが評価される。

なお、覚者は別の世界を生きていますという歌には、次のようなものがある。この歌では、自分は仏であり、個人という自分はなく、悪事はできないと言っている。普通の人は、自分は仏だなどとは思わないし、個人だし、悪事も時々する。

①身の業の つきはてぬれば 何もなし
かりにほとけといふばかりなり
(我が身のカルマが尽きてしまえば何もない。カルマのなくなった我が身をかりそめに仏というだけのことである。)

②本来のものとなりたるしるしには
をかす事なきみのとがとしれ
(本来の者となった証拠は、身の咎(悪行)を犯す事がなくなるものと知りなさい。)

③死して後を仏と人やおもふらん
いきながらなき身をしらずして
(死んだ後に仏となると人は思うらしい。生きながら、すでに実は自分は無いことを知らないで)
    以上三首とも至道無難(江戸時代初期の坊さん)

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十牛図-1

2023-01-01 08:12:17 | 十牛図

1.十牛図の考え方
十牛図解説本を読むと、とにかく禅の坊さんが書くものだから、いきなり、牛は『本来の自己』とか『本来の面目』のことなどと書かれるので、何のことやら、早速さっぱりわからなくなるものだ。本を買ってきた手前、一応最後まで読むのだけれど、なんとなくわからないで終わるのが多いのではあるまいか。

十牛図は、人と牛の出会いの物語である。人は自分であり、牛は仏(神、宇宙意識、なにもかもなし)である。
作者は、12世紀後半の中国北宋の廓庵禅師で、禅の基礎的な手引として使われてきたが、心理学者のユングやOSHOバグワンも注目しているもの。

今の日本では、きちんと見性(窮極なるものをちらっと見ること)したと思われる坊さんでも、十牛図の三番目の『見牛』段階の方がせいぜいと思われるので、なかなか八番目の『人牛倶忘』すなわち窮極と一体化した体験を持つ人に出会うことは難しいと思う。よくインドからグル(師匠)が来日するが、三番目の『見牛』レベルの人が結構いるように聞く。もっとも『見牛』レベルでもなかなか行けるものではなく、十分に冥想の先生が務まるレベルだが。

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