アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

チベット密教と禅

2023-01-24 07:11:28 | チベット死者の書

◎臨終時の悟りと生前の悟り

 

『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧/ダライ・ラマ/地湧社』を読むと、ダライ・ラマは、生存中に実際に肉体死のプロセスが起きることはないと見ており、ニルヴァーナが起こるタイミングは、人生の最後の段階で起こる死における肉体死のプロセスの最後でニルヴァーナに入ることしかないと見ているように思う。

 

これは、チベット密教に一般的な考え方であり、そうでなければ、出家僧ばかりか在家の居士までが、七つの身体とか屍解を目指すなどということはあり得ないと思う。要するに臨終時の冥想修行にあまりにも重心がかかっているのであり、「悟りをもってこの世を生きていく」という日々の日常における悟りの発現という禅的な姿は見えないのだ。

 

以下のダライ・ラマの文では、彼が生前の死の体験を疑似体験と斬って捨てているが、ダライ・ラマ自身がそれを体験していない以上は、生前の死の体験からニルヴァーナに至ることがあるとは断言できないのだろうと思う。

 

『わたし自身は、無常・苦・空・無我という四つの基本的な教えを軸にして修行しています。さらに、毎日行なう八つの異なる儀式の一部として、死んでゆく段階を瞑想します。土の元素が水の元素に溶けこみ、水の元素が火の元素に溶けこみ・・・・・・と順に瞑想していくのです。

 

これといって特別な経験をしたわけではありませんが、すべての顕われの溶解を観想しなければならない儀式では、しばらく呼吸が止まります。もっと時間をかけ、より正確に観想する修行者なら、まちがいなく完全に近いヴィジョンを得ることでしょう。わたしが 毎日行なう 「本尊ヨーガ」の修行法には、すべて死の観想が含まれていますから、そのプロセスには慣れ親しんでいます。ですから、現実の死に直面しても、各段階をよく知っているはずですが、うまくいくかどうかはわかりません。

 

わたしの友人の何人か―――ニンマ派のゾクチェン (大究竟)の行者も含まれます―――は、溶けこんでゆく深遠な経験をしたといいます。それでも、それはあくまで生きているあいだの疑似体験にすぎません。ただし、医師に亡くなったと宣言されたあとも、長いこと肉体の腐敗が起こらなかったチベット人の例はたくさんあります。』

(上掲書P173から引用)

 

これは、死の8段階のプロセスで発生する母の光明(原初の光)を梃子にして、それを子光明に変ずるというニルヴァーナ達成を、死後の肉体が腐敗しない時間を長くすることで実現促進しようとするもの。だから呼吸停止、脈拍停止後○日遺体が腐敗しなかったなどと、腐敗しない時間を重視する。

 

ダライ・ラマ自身も死の観想で呼吸停止することは認めていても、ことさらにそれ以上踏み込んではいかない姿勢がある。法王とはそういうものだろうと思う。

 

そして死の観想に習熟しても実際の自分の人生最後の場面で、それがうまくいくかどうかわからないというのは、あまり語る人は少ないがそうなのだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チベット死者の書の読み方

2022-12-25 07:27:37 | チベット死者の書
◎無上の垂直道

チベット死者の書(バルド・ソドル)は、素直に読めば、人間が肉体死して、中有(バルド)に行って、49日過ぎたら、恐怖に堪え切れず子宮を選んで再生してくるという物語。

そのプロセスの節目節目にニルヴァーナへの覚醒のチャンスやら、より高いものへの再生のチャンスがあることが述べられていて、とても親切な本ではある。そういう読み方をして、実際にチベットで人の臨終に立ち会い、今や死なんとする人の耳もとで、チベット密教僧が「眠るな、醒めていよ」と語りかけ続けるシーンがTVのドキュメンタリーとして放送されたこともあった。

しかし、実際に肉体死した後のあの世のことばかり書いているのであれば、ほとんどの人は、チベット死者の書は日常の生活や冥想修行には使えないと思うのではないだろうか。そこにチベット死者の書があまり世間で読まれない原因があるように思う。

肉体死から転生までの49日間において、ニルヴァーナに入る覚醒のチャンスやよりよい転生先を選ぶチャンスは何度もあって、それを強調するチベット死者の書はとても前向きな本である。

しかしながら、そこで何回かあるチャンスのうち、最初に見る原初の光(原初のクリヤー・ライト)が最初にして最大のチャンスであることがわかる。そのヒントは『無上の垂直道』という一語だけ。

そして原初の光に出会えば、いかなる中間状態をも通ることなく、『無上の垂直道』を通ってダルマ・カーヤ(ニルヴァーナ)を得る(チベット死者の書/パドマサンバヴァ/講談社P24-25)とある。

だが、冥想修行において、呼吸停止、脈拍停止から極く短時間らしい肉体死状態に際して、クンダリーニ上昇から中心太陽突入までが起こることもあることは知られている(ダンテス・ダイジ/ニルヴァーナのプロセスとテクニック)。その中で、アートマンが中心太陽に向けて垂直道を上昇するシーンがあるが、これを『ニルヴァーナへの無上の垂直道』(上掲書P109)と呼んでいると読む。

道教慧命経では、無上の垂直道ならぬ『妙道』をたどって真源なる中心太陽に突入し、粉砕される。無上の垂直道を見ているのは、チベット密教、クンダリーニ・ヨーガ、道教なのだ。

このようにチベット死者の書は、クンダリーニ・ヨーガなどにおける肉体機能停止状態におけるニルヴァーナ到達のルートを確証したものであると読むのが、本筋なのだろうと思う。

一旦ニルヴァーナ到達を目指すならば、天国を含めよりよい世界に転生するなどあまり意味はあるとは思えなくなるのではないだろうか。だから最初に訪れる原初の光のチャンスの意義を強調しているのだろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする