アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

神がかりにだまされる者は、神の綱が切れる

2023-06-26 06:21:46 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎Coolな出口王仁三郎

(2014-04-18)

 

大本教の大立者であった出口王仁三郎は、音に聞こえたクンダリーニ・ヨーギ(行者)。雲にのってアストラル・トリップをしまくるなど、超能力を自由自在に使える人であった。また明治31年の高熊山の洞窟修行で、この世の行く末を見たようである。

 

『日本は二分、外国は三分になる。信仰のないものは助からぬ。経済界は目茶目茶になる。』

(新月の光/八幡書店/木庭次守編から引用。以下『』内は同様)

これは、大本神諭に人類は三分しか残らないとあるのを意識した発言。

それでは、信仰とは何か。

むらきもの心に神の宿るとき 三千世界一目に見えすく(王仁三郎)

『聖師を真渓涙骨氏の案内にて西本願寺の大谷光照法主が訪問されての一問一答

問:今後の宗教はどうしたら良いでしょうか。

答:拝みたい者には、富士山でも造って拝ましたらよいでしょう。』 

築山として富士山でも造ってとは、まだ自分以外の何かを拝むことが宗教だと思っている人もいるだろうから、そういう人には築山も必要。しかし本筋は、自分の内なる神、主神に自らアプローチすること。

『問:聖師様(王仁三郎)を友達のようにしては、いけませんね。

答:いやこのほうが王仁三郎は好きじゃ、神様は民主主義じゃからな』

預言者が、一般人の友人として現れる時代であることを肯定している。

 

『○○○には、○さんの霊がついている。

○(○○○)には○○の霊がついているのである。

神がかりにだまされる者は、神の綱が切れる。』

スピリチュアル系ブログでも、プレアデス、オリオンなど天体の名を冠した霊がかりをいう者あり、古代の聖人の霊をいうものあり、ガブリエルなどの天使や龍の名を語る霊がかりあり、多彩なことである。

出口王仁三郎も、 霊がかり、神がかりに騙されてはいけないと諭している。

霊がかり、神がかりは、ポジティブなインスピレーションを採用する程度で十分であって、懸かる霊の先に本流が流れているなどと見誤り、帰依してしまうと「だまされた」ということになりがちであることを言っている。

 

それを見分けるために王仁三郎は、審神(さにわ)をいうが、その違いの分かる人は、昔も今も少ないのだろう。

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宇宙人は猫をいやがること

2023-05-28 10:23:02 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎ホイットリー・ストリーバーの未知との遭遇

(2014-05-08)

 

アメリカのホイットリー・ストリーバーは、ビジターと呼ばれる宇宙人との遭遇体験を繰り返した内容を描いた「コミュニオン」がベストセラーとなったが、「宇宙からの啓示」はその続作。

 

「宇宙からの啓示」の中に、宇宙人が猫を嫌がって、猫を気絶させるシーンがある(1986年12月23日の章)。

 

彼女はニューヨークにいた。ベッドに入って3時半頃目を覚ますと、(身体から違和感を感じながら)人間みたいな1人の宇宙人が部屋に入ってきた。部屋には複数の飼い猫がいる。

 

彼女が足を止めると、彼女は宙に浮かんで滑るように動き始め、宇宙人(ビジター)に押されていることで、彼女の身体にわずかに電気的な刺激が感じられた。・・・ということで、彼女はエーテル体かアストラル体でもって宇宙人にボディを押されていることを感じているのがわかる。

 

その後、彼女は別の状態に入り、猫のサディーを抱えながら、前方の目も眩むような闇を見て、次に見知らぬ部屋に入った、そこには4人の宇宙人がいた。

この部屋では電気的刺激云々という表現がないので、彼女はアストラル体でいたのだろう。

 

そこで宇宙人から、「なぜ猫を連れてきた」となじられ、宇宙人は猫のサディーの腿に金属片を当てて、猫を気絶させた。

 

猫は宇宙人が去った後、蘇生するが、以前とは違って何時間も座って宙を見つめ不安そうにしていたりしたので、猫にはかわいそうな体験だったらしい。

 

この事件から、ホイットリー・ストリーバーは、猫には何かあることに気が付いている。

 

私の見方では、猫も楽々と人間とともにエーテル世界と、アストラル世界を出入りできる生き物のようであること(猫を抱いたまま、人が各世界を出入りする)、そして、猫の見ている前では、宇宙人も人間を好き勝手に操作できなくなるものであることが推察される。

 

出口王仁三郎は、猫は魔の王と評しているが、猫の全容は、ホイットリー・ストリーバー件で気が付いただけのポイントではなく、更にあるのだろうと思う。

 

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離魂

2023-05-10 06:32:31 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎死期と分身 

(2014-05-26)

 

その肉体を離れて魂が漂泊することを離魂という。

 

北勇治という人が外出から帰ってきて、居間の戸を開けると机におしかかっている人がいた。誰だろうと思ってみると、ヘア・スタイルから衣類まで自分がいつもセットしたり着ているものと同じである。顔を見ようと歩いていくとその人は向こうを向いたまま障子の細く開いたところから縁先に出てしまって、後を追ったが、姿はみえなくなっていた。

 

それから勇治は病気になり、その年のうちに亡くなった。母やその家の家来は、勇治の父もその祖父もそのような病気で亡くなったことを知っていたが、敢えて勇治本人には教えないままにしていた。(参考:栗原清一/日本古文献の精神病理学的考察)

 

このように自分自身の姿を見ると死ぬという言い伝えは日本とドイツにあるという。

                

さて似たような話で、唐代伝奇の猜娘(せんじょう)離魂のエピソードは禅の公案にもなっている。

 

猜娘は王宙と相思相愛の恋仲になるが、猜娘の両親はそれとは気がつかず、猜娘はやがて、両親の言いつけのままに他の男性と婚約させられる。王宙はこのことを不本意として、都に上る旅に出る。

 

その日の暮れつ時、思いもかけず猜娘が裸足のまま後を追ってきて、二人はその足で、蜀に逃避行を敢行する。蜀で5年暮らすうちに、子供も二人生まれたが、猜娘が父母を恋しがるので、故郷へ帰ることにした。

 

猜娘の実家の近くで猜娘を待たせ、王宙が猜娘の実家に挨拶をすると、母親は、「娘は病気で5~6年寝たきりなのに、でたらめなことをいう」と言って怒る。

 

両親がそれを確かめに猜娘に使いを出すと、間違いないことがわかった。寝たきりだったもう一人の猜娘はこれを知ると起きて着替えて迎えに出て行った。すると不思議や二人の猜娘は一つに合体し、着物までぴたりと一致した。

 

 

北勇治の話と猜娘の話は、全く別のスキームの話であると思う。

 

死期が近づき、人生の最終ステージになると、次のステージののぞき窓がへその下にちょっと開く。これでもって、何かの拍子にちょこっとアストラル・トリップしてわが肉体を見た。これが北勇治の話ではないだろうか。

 

猜娘の話は、フィリス・アトウォーターの8分身のことを知っていれば、練達のクンダリーニ・ヨーギであればできることだとわかるだろう。猜娘の思いの純粋さがこうした人間離れした出来事を起こしたのだと思う。

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人間の善悪

2023-02-20 12:24:40 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎自由から善へ

(2014-05-05)

人間の本性は善だと信じ込んでいたが、そうでもないということを知るに至った。

 

人間は、善悪のバランスの中で成長していくことで、本当の自由な意志を得て、悪を去り善を植えることができるようになるというのだ。この立ち位置のことを天の浮橋と呼ぶのだろう。

 

教派神道の教祖である出口王仁三郎によると、

 

1.人の精霊(アストラル体やメンタル体のことか)は、善悪両方の要素を含んでいる。出生後子供の時分までは、人は概ね悪の要素の方が旺盛であり、長ずるに従って善の要素が強くなるものである。

 

2.人の精霊には、別途2種の精霊(アストラル体以上の存在のことを言っているようだ)が同伴しており、一体は、天国と交流している善玉精霊(正守護神)であり、もう一体は、地獄と交流している悪玉精霊(副守護神)である。

 

3.ところがこの正守護神、副守護神も、自分のついている人間が自分とは別のものであるという認識がなぜかなく、人間が自分のものであると信じ込んでいるがために、一生懸命その人間を守護するという。

 

4.特に出生してからは、人間は直ちに悪の裡(うち)に落ちるため、その後の幼少期は、この両守護神がいなければ、肉体を維持していくことができない。(体主霊従でないと肉体も成長しないということか)

 

5.また長じては、善玉守護神がいなければ、悪を脱して善に覆(かえ)ることができない。

 

6.人間はこの両者の徳によって、天国と地獄の圧力を受けながらそのバランスを保持できることで、真の意志の自由を得ることができる。

 

(参考:出口王仁三郎全集二巻/あいぜん出版)

 

正守護神と副守護神は、どちらも人間のサポーターであり、アストラル以上の微細身の次元に分類されると思われる。より肉体物質に近いほうが地獄的であるから副守護神とし、想念主体とは天国的だから正守護神とする説明のように思われる。だからといって単純に副守護神がアストラル体次元のサポーターであり、正守護神がメンタル体次元のサポーターであるという説明ではないように思う。

 

人間にとってこの両者は更に密接な隣人というべきものであるような感じだが、なぜだかそのからくりをきちんと明かした説明は見かけない。

いずれにしてもこの天国と地獄のバランスにおける自由、天の浮橋をもって初めて善に進むことができるのだ。

 

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親鸞の愚禿鈔

2023-01-13 10:24:36 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎横超=選択本願・真実報土・即得往生

 

親鸞の愚禿鈔の冒頭『賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。

賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。

愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。』

愚禿は、親鸞のこと。賢者すなわち悟った人の信仰のありようを聞けば、自分のそれとの違いがはっきりして、自分の愚なることが明らかになる。親鸞がこれを書いた頃は、字面では悟ってないと広言しているわけだ。29歳で信心決定したが、そのピーク・エクスペリアンスは、過去のものになったから、殊更に愚禿と卑下しているのか。

 

大乗の中に頓教(すぐ悟る)と漸教(だんだん悟る)の二教あるが、念仏は頓教に分類される。

頓教には、二つの悟りに至る道があり、一つは竪超であり、即身成仏や即身是仏を目指すもの。いまひとつは横超であり、弥陀の本願を信じて死後たちどころに真実報土に往生すること。

 

弥陀の本願を信じて念仏を唱えれば、死後たちどころに浄土への往生が実現すると主張しているのだが、念仏を一生懸命となえても、必ずしも死を待って浄土に往生するわけでなく、人によっては、即身是仏というようなことも起きる。たとえば妙好人浅原才一などは、どうも既に仏に出会うという体験は通過してしまっている。

 

先入観なく見れば、念仏で到る悉地=マントラ・シッディはマントラ・シッディに留まるものではないというのが、不思議ではあるが、そのことは現代科学の解明手法では手に負えない。自分で察するしかないところがある。

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一厘の仕組

2023-01-07 06:47:31 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎古事記の仲哀天皇の段

 

戦争の噂どころか戦争報道を聞くようになった。

 

一厘の仕組とは、世の立替の時に、99.9%滅亡のところから大逆転するメカニズムのこと。出口王仁三郎は、そのヒントは、古事記の仲哀天皇の帰神の段にあるという。

 

仲哀天皇の帰神の段。大后息長帯比賣命は神功皇后のこと。

「その大后の息長帯比賣〔オキナガタラシヒメ〕命はある時、帰神をした。それは、天皇が筑紫の香椎宮にいて、熊曾国を討伐しようとした時で、天皇は琴を弾いて、建内宿禰の大臣は沙庭にいて神託を求めた。すると大后が帰神となると、「西の方に国がある。金銀をはじめとして目の輝くような種々の珍宝が、その国に多くある。私が今から、その国を与えよう」との御告げであった。

 

しかし天皇は、「高い所に登って西の方を見ても、国土は見えず、ただ大海があるだけだ」と答え、偽の神だと思って、琴を押しやって弾こうとせず、ただ黙っていた。

 

すると、その神は大いに怒り、「全てこの天下はおまえが知ろしめす国ではない。おまえは一道(死者の国)に向かえ」と告げた。

 

そこで建内宿禰の大臣が、「畏れながら、我が天皇よ。やはりその琴をお弾きあそばせ」と申し上げると、やっとその琴を引き寄せて、もとのように弾いた。すると、しばらくして琴の音が聞こえなくなった。火を灯して見ると、すでに亡くなられていた。

 

そこで驚き恐れて、殯宮に移し、さらに国の大幣を取り寄せて、生剥、逆剥、あはなち、溝埋め、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚等の罪の類を様々に捜し出し、国の大祓を行った。

 

そしてまた、建内宿禰が沙庭にいて神託を求めた。このようにしたところ、告げられた内容は具さに至るまで先日と同じであり、「全てこの国は、息長帯比賣命の御腹にいる御子が治める国である」との神託であった。

 

さらに建内宿禰が、「恐れながら、我が大神よ。其神の腹にいる御子はどちらでしょうか」と申し上げると、「男子である」との答えであった。そして、「今このように教えてくださる大神の、その御名を知りたいと思います」と詳しく求めると、「これは天照大御神の御心である。また、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である。【この時にその三柱の大神の御名が明らかとなったのである。】

 

今、本当にその国を求めようと思うのならば、天神地祇、また山の神と河海の諸々の神に、ことごとく幣帛を奉り、我が御魂を船の上に乗せて、眞木の灰を瓢に納め、また箸と比羅傳(ひらで:柏の葉の皿)を多く作り、それぞれを大海に散らし浮かべて渡るがよい」と答えた。」

 

西の方の国を与えようとは、新羅を与えようということではなく、人間の苦悩からの救済を与えようということで、死の世界を超えたニルヴァーナに渡らせようということ。

 

仲哀天皇は、そんなうまい話などないと合理的に考えて、その神をニセモノだと断定したことで、命を落とした。理屈で考えれば、ニセモノだと思うのは当然ですね。

 

天皇がいよいよいなくなった後、日本人は「あれっ、ヤバイぞ」と初めて気づき、わが魂をあらゆる宇宙を渡る船とも呼ぶべきクンダリーニのエネルギー・コードに乗せ、死の世界のシンボルたる真木の灰をも瓠に納めるように通過しなければならない。また箸も皿も一人には1組で足りるので、ここは、大勢の人がそのクンダリーニ・ヨーガ技でもって渡ること(アセンション)を見ているのだと思う。箸と皿は、(草薙の)剣と(八咫の)鏡でもあり、剣と盾の表象でもある。

 

底筒男、中筒男、上筒男とは、クンダリーニは筒だから筒でしょう。底筒男は肉体のクンダリーニ、中筒男はエーテル体クンダリーニ、上筒男は、アストラル体クンダリーニと当てるとすれば、メンタル体には届かないが、どう見るのだろうか。古事記も露骨に表現しているものですね。

 

※クンダリーニとは古神道では玉の緒のこと。クンダリーニは、すべてのボディを貫くエネルギー・コードと見られるので、“エーテル体クンダリーニ、アストラル体クンダリーニ”というような表現は間違いかも知れないが、ここは敢えて筒男を3段に分ける意味を推測してみた。

※参考「生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人はそのもとを大切にせねばならぬ。」出口王仁三郎の水鏡より

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縁がない人たち

2022-12-22 20:53:59 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎上意下達のスタイルは去った

ここに霊がかりにこだわる人につける薬がないことを挙げる。

明治36年出口王仁三郎が、拝み屋みたいなことを盛んにやって霊能力で病気直しなどをしきりに実施していた頃のこと。

ある日出口王仁三郎が、西原に行ってこの道を述べ伝えて迷える信徒を救おうとしている時、開祖出口ナオがこれを押し止めた。王仁三郎これを怪しみて、「神は人を救うをもって心とし給うべきなのに、今これを押しとどめなさるのはどうしてでしょうか。われらはこれを傍観するに忍びずとして息まいています。」

出口ナオがおもむろに諭すに
「西原は、超能力でしばしば不思議を示したり、病気を癒したり、家を富ませたりして、今まで幾度となく信仰の手がかりを与えてくれて、私も自らしばしば行って教えさとしたけれど、疑い深くて、正しき道につくものはなかった。

行ってはいけません。行けば行くほど説けば説くほど、彼らは自分のけがれた心にひきくらべて、神の御心を曲解するでしょう。

あわれむべき者だけれど、因縁のない者はこれを助ける手段はありません」と教えてくださった。
(出典:道の光/出口王仁三郎/天声社)

霊能力の有無に限らず、大方の人は想念でビジョンを形成し、願望を現実化するということは多かれ少なかれ自らやっているものだと思う。

霊がかりで典型的なのは高級神霊のサポートということになるが、この逸話では憑依には三種あって云々ということは深入りせず、縁の有無ということを問題にしている。

高級神霊が自分のそばに降臨しても、眠っていて気づかないということもあるし、貴重なアドバイスを耳から聞いていても理解できなくて無駄に終わるということもある。

縁とは、そういう、カルマ的な部分とタイミングの部分、精神の成熟の部分、相性など複合的な要素で成るように思うが、結果からみれば本人がキャッチするかしないかということだけである。釈迦も縁なき衆生は度し難しとした。

出口王仁三郎も霊がかりを大正末年の頃には脱して、第一次大本事件以降は別のやり方になった。

いささかドライに見えるが、現代の伝道・布教というのは、伝統的な上意下達で上にある布教師が下である平信徒に教えを伝えるというスタイルではもはや通用しなくなっている。
平信徒自らの覚醒を至上命題とするからには、グルですら平信徒のサポート役しかできないからである。

明治の頃とは正しい教えとの因縁の形が変わっている。

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