アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

完璧な分断と絆幻想

2023-02-06 21:11:47 | マインド・コントロールneo

◎平時でも分断孤立した生活と意識

(2017-09-17)

 

大規模災害の後は絆がスローガンになる。それは、大規模災害でライフラインが破壊されると、生活は分断、孤立しがちになるもので、生存を維持するためには、食料、水、情報などの絆が要るということ。

 

ところが、個々人の生活の分断は、ライフラインが整った日常にあっても既に常態化している。個人主義的生活とは、個々人が分離した生活スペースで暮らし、日常意識も他人と分離し、独立していることであり、常に孤独感、孤立の影が差す。

 

平均主義、平等主義、不公平なしを社会秩序の根底に据えている日本社会は、残念ながらねたみそねみが心情の根幹にある。

 

「他人よりちょっと得をする」というのは、大いにやる気スイッチを刺激するが、これは、ねたみそねみを身上とする日本民族にとっては、諍(いさか)いの種である。

 

だから、人は「ちょっと足りない、ちょっと不足気味」で満足しなければ、際限のない他人との分捕り合戦の罠に落ちる。

 

核家族化と個人主義的ライフ・スタイルで、各個人は孤立し、こうした「ちょっと得」の罠にかかれば、その人たちは、最終的に親子など家族同士でも争うことになることは、古代の歴史や経験、予言などでいくらでも予見されている。

 

古代ギリシアのオウィディウスの変身物語には、金の時代、銀の時代、銅の時代と進み最後は鉄の時代になる。

 

鉄の時代には、こっそりあるいは合法的に他人の物を奪うのが基本となり、主人は客の、婿は舅の安全を守らず、兄弟愛も稀であり、夫は妻の、妻は夫の死を画策し、息子も父の死期を探るなどと、現代の油断も隙もない時代が幻視されている。

 

こうした反作用のせいか「すべてはつながっている」「ノンデュアリティ」などと言い立てる人もいるが、「すべてはつながっている」観想や「ノンデュアリティ」観想をすれば、いつかわかることもあるのかもしれないが、孤独で不安でみじめで情けない自分から本当に解放されるのは、それとは全く別の事態かもしれないのだ。

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修行の結果に個人差

2023-01-04 05:55:02 | マインド・コントロールneo

◎二重の不確実性

 

チベット密教では、数知れない観想法をこなすものだが、学者さんの書かれたものでは、その修行結果に個人差があることがしばしば指摘される。

 

つまり、カリキュラムや経典に従って、生起次第を行なっても、一時的な大日如来の円満相の示現もできないということがままあるということなのである。

 

これは今更ながら、修行者個人の準備ができていない、すなわちまだこの世の楽しみに充分な未練を残しているため、それに入る時期ではないという原因によるものだと思う。

 

円満相の示現とは、我が身が円満相そのものに成りきることで、観想法のひとつの成就だとは思う。これとて、日常の生活の次元を越えて、それらの世俗のものをすべて振り捨てて飛び込んでいくようなところがないと実現するようなものではないだろうと思う。

 

つまりまずその超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがないと、そうしたジャンプをしようとまでは思わないのだと考える。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、それが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。

 

そしてジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。その人は魂の経験値がそこそこ積み上がっているので、やがてジャンプもした。ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。直地したところが仏の場合もあれば、悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。

 

これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。

 

要するに、ある一定の修行方法ではある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではないし、その上、結果がその修行方法で予期された結果になるものではないという二重の不確実性があるのである。

 

この二重の不確実性も、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由と考えることができる。

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ブランドに価値があると考える人々

2022-11-11 10:01:35 | マインド・コントロールneo

◎金のない奴は、価値のない奴

 

第一回十字軍により1099年エルサレムが陥落した。そこでテンプル騎士団の創設メンバーの9人が、キリスト教巡礼者の保護にあたりたいという名目でエルサレムの神殿跡を借り受け、厩舎を建てた。そして7年間彼らは厩舎の中で発掘を続け、何の成果も得られないままフランスに帰国した。

 

グラハム・ハンコック説によれば、彼らはそれを手にいれた者は世界最強の力を手に入れることができるという噂のモーゼの契約の聖櫃を探していたが、結局見つからず、ゴシック建築の技術を持ち帰ったとなっている。

 

テンプル騎士団の9人は帰国後まもなく、有力者聖ベルナールの後ろ楯を得て、やがて欧州で最も有力な教団に成長していく。

 

ところが、14世紀初頭テンプル騎士団は、フランス王により壊滅させられた。

 

この後、19世紀になってレンヌ・ル・シャトーの教会にやってきた貧乏神父のソニエールが、教会の改築工事で、羊皮紙の巻物の暗号文を見つけたら、なぜか大金持ちになったというのが、レンヌ・ル・シャトーの謎になっている。

 

日本にも三種の神器というのがあって由緒から言えば、モーゼの契約の聖櫃に劣らぬものであるが、そこまで世俗の権力を保証するような器物ではないと思う。

 

モーゼの契約の聖櫃は紀元前10世紀にエチオピアに持ち込まれたという伝承こそあるものの行方不明である。

 

さてテンプル騎士団のように12世紀の人が、あるものを手に入れればパワーが授かるということを真剣に信じるのは当然としても、現代においてもそうした物があると信じている人は、決して少なくなってはいない。

 

キリスト教社会では、モーゼの契約の聖櫃は絶対的・正統的な価値をもつものだろうが、現代社会では,価値観の多様化を反映して、ちょっとした価値を持つものをクリエイトして、売り物とする。

 

代表的なものは、ブランドもののファッションで、ティファニー、ブルガリなどのブランド店の宝飾などもそうである。食品でも有名店のチョコやケーキもそうだし、およそデパートに並んでいるようなものは、皆そうだと言える。その延長で寺社などで霊力を封じたとする壺や御札や器物もその流れ。

 

つまり物そのものに価値があるのではなく、価値はむしろ精神的なものである。最近の人は自分自身の好みの有り様を自分で日夜感じているわけなので、この点で異論のある人は少ないのではないか。

 

他人に認められる価値=ブランドを手に入れるには金を払わなければならない。そして沢山金を払えば、払うほど手に入れる価値の評価は高まる。これが日本人の平均的なブランドに関する考え方ではないだろうか。(マルチ商法はここを巧みについて金を吐き出させる)

 

こうした考え方全盛では、物を離れて精神性のみに価値ありとする考え方に賛同する方は激減してしまう。現代日本で、ほとんど真の宗教性のニーズがなくなってしまったのはこのあたりにある。

 

この裏返しで、「金のない奴は、価値のない奴」という社会通念がないとは言い切れないところがあるのではないか。女性でも男性でも、相手の身につけている服装、装飾品の値定めをしない人は稀だが、人品をまず一等重視しようとする見方をとる人は少ないのではないだろうか。

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あらゆるプロパガンダと考えない人々

2022-11-11 09:48:57 | マインド・コントロールneo

◎頭人間のとる受動と能動

 

このところNHKニュースは、西側のウクライナによる戦争プロパガンダを放送しては、ロシアの戦争プロパガンダを放送する。また、2022年5月のバイデン米国大統領来日時の、アメリカは台湾有事に軍事的関与を示すという発言のNHKニュースでは、引き続いて中国の反発を流すと同時にNHKの人物がバイデン大統領は失言が多いとコメントをして、視聴者の判断を迷わせる報道になっていた。

 

こういう正反対のプロパガンダ合戦は、昨今多いと言われる「考えない人々」すなわちあらゆるプロパガンダに対し頭を受動的にしたままにする人々をさらに思考停止させる効果があるのではないか。

 

NHKの大河ドラマは、一般に時代設定が室町以前になると上下関係、人間関係がわかりにくくなるせいか、概して視聴率がとれないということが経験的に知られている。要するに不慣れな分野で複雑で大量な知識を動員する必要のあるドラマは歓迎されなくなるほどに、洗脳されやすい国民性になっているということなのだろう。

 

冥想修行は、そうしたあらゆるプロパガンダを払拭し、神祓いに祓い、受動的に受けた情報をすべて棄て去ることから始まる。先入観をなくすということである。

 

そこで神仏を知り、今の社会通念は、無数にある世界の見方のうちの極く一つであるという見方を知る。

 

翻って、神人合一者における能動というものを考えると、一体それが能動と言えるものかどうかわからなくなるのである。それが天機、天意、天命を生きるということ。

 

SNSの世界は、この3年のコロナ是非論、最近はウクライナ戦争に係るロシア中国是非論で席捲されてきたが、その中で確実に言葉狩りは進行している。第二次世界大戦もさび釘から寺の梵鐘まで戦争に供出されたものだが、次もIT化の進展でさらに物質供出は徹底的なものになるのではないか。兵器の威力は、かつてとは比較にならず、戦争が半年以上長引けば日本民族も絶滅の危機になると見たのは出口王仁三郎。

 

言葉狩りは年を経るにつれ深刻となり、〇〇ブログでは禁止ワード急増で密教系の記事が書けなくなった。たとえば、密教経典である秘密集会などには精液、経血などがばんばん登場、朝鮮の神人甑姜甑山の言行録にも出てくるのだが、そういった記事がアップロードできなくなった。(その世界では一つの言葉が三重四重に意味を変えることがままあるのではあるが、そんなことはお構いなしの言葉狩り)

 

ソーマ・ヨーガ記事も書きにくくなった。カーマ・ヨーガは、風俗エロ業界が政界の支持があるせいかどうか知らないがまだ緩いが、じきに戦乱の機運の高まりで禁止されていくのだろう。

 

万教同根などどこ吹く風か。

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他人を監視することと幸福

2022-11-11 09:44:26 | マインド・コントロールneo

◎他人のプライバシーへの異常な関心と巨大監視システム

 

かつて職場に二人の還暦越えの男性がいて、その両人の話題は、いつも組織内の人物のプライベートな境遇のことであった。その話題は、不幸であったり気の毒であったりする内容であれば、興趣が盛り上がっている風であった。たまにその様子を見て、私はいつもどうしてそこまで他人の私生活に興味を持たねばならないのかと、訝しんでいた。

 

それは要するに他人の生活ぶりを妬み、そねんでいたのであり、自分が不幸であれば、他人が同様に不幸であることを以って自分を慰める類のことであった。

他人の不幸は蜜の味。

 

そうした蔭には、同等の生活環境であれば、できれば、その中で少しでも上回りたいという願望が蠢いているのだが、その際限のない堂々巡りを繰り返しても何十年倦むことのない心的エネルギーこそ恐るべきものだと思った。

 

これが、他人を監視したいというものに発展していく。世の中には異常に他人を監視したいとする願望を持つ者がいる。大はGoogleやfacebookやLineや、さる共産主義国家や独裁国家であり、自分が権力を持った証の一つが他人のプライバシーを握れることとでも考えてでもいないと、このように大規模な監視システムは成立しないのではないだろうか。

 

その結果が、大規模な強制収容所で、中国と北朝鮮では毎度話題になる。他の自由主義国家でも、どんどん監視の程度が進み、やがて国家ごと巨大な牢獄と化すことを予言されてもいる。

 

その元をたどれば、他人より少しでも良い目をみたいとか上回りたいという競争意識である。近代社会では、それにより自己実現ができると教え込まされて来てもいる。これぞ社会まるごと自我を膨張させるシステムであり、そのシステムは、ねたみそねみに寛容であって、人間相互の小競り合いを増殖拡大させていき、世界戦争にたどり着くまで終わらないのだろうと思う。

 

殺伐、乾燥したその世界の風よ。

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ニュースを見ない人々

2022-11-11 09:39:12 | マインド・コントロールneo

◎戦前以上の思想統制の足音

 

新聞を取らずニュースを見ない人々は中高年だけかと思ったら、青少年・若い人にも増えており、愕然とした。

 

例えばオレオレ詐欺防止策の宣伝をテレビなどで盛んにやっているが、ニュースもほとんど見ないのでは、世の流れの変化についていけてないどころか、世の流れに関心を持たず生きているということである。

 

これは社会性の喪失の始まりであり、スマホを持って動画や漫画やモバゲーばかりやっていて時事ニュースを見ないけれども、人間関係はフツーにこなしてはいる人々は、一朝事あればニート・ひきこもりに転化する可能性を有している。

 

それほどまでに日本は平和であり、治安が良好であり、お人よしが大量に生息し得たので、期せずして家畜型人間がここまで増えてしまったのだろう。

 

古代ローマでは、市民に対して皇帝が見世物と食べ物を十分に与えて腐敗堕落を招き、帝国は滅亡するに至ったと同じ軌道を走っている。

 

日本は、ここまで時事ニュースを見ない人が増えると、政府の思想統制方針は効き過ぎるほど効いて、あっというまにSNS監視を含めた非国民排除の雰囲気が完成するのだろう。「それが戦後の平和教育の総決算となるとは、夢にも思わなかった」、あるいは「こんな生きづらい社会になってしまうとは」などと慨嘆する人も出てくるのだろう。

 

SNSなどITの進展は、国民思潮の統制速度を、戦前に比較すると圧倒的に速める効果があるものだと思う。

 

日本人で覚者が多数出るためには、ニュースもそこそこ見て自分でものを考えたり感じたりする習慣のある人間が多くないとならないが、どうもそういう感じではないように思う。

 

出口王仁三郎が玉串を座布団の下に隠し、戦前以上の思想統制があることを予言して75年。そういう暗黒時代が目前に迫っていることを感じさせられる。

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マインド・コントロールと冥想

2022-11-11 06:20:25 | マインド・コントロールneo

◎「縁」

 

マインド・コントロールも冥想修行も無意識を操作し、時にトランスに導入していくという点では、似たところは大いにある。両者の相違は、マインド・コントロールは、だますという「目的を持った」心理操作、無意識操作であるのに対し、冥想は「目的を持たない」心理操作、無意識操作であるということ。

 

だが、広義のマインド・コントロールは、政府、企業が広告宣伝、コマーシャル、SNSなどを通じてテレビ、ビデオゲーム、スマホなどを通じて行っている他、ネットワークビジネス、カルト宗教、カルトじゃない宗教、怪しげなヨーガ団体、まともなヨーガ団体が行っている。要するに手法としてのマインド・コントロールは本来それ自体白黒の色はついていないものだ。

 

また、リラックス冥想や五体投地、マントラ念唱など、カルト宗教は宗教であるがゆえに冥想手法すらマインド・コントロール手段として用いる。だから冥想手法だからといってそれ自体聖なる手法だと主張することもできない。

 

その相違は指導者が悟っているかどうかというところに行き着く。手法そのものに善悪がついていなければ、指導者、グル、マスター、師が本物であることだけが頼りとなる。

 

しかし残念なことに、人は上座にいるその人が悟っているかどうかを見分けることができない。なんとなれば、自分が悟っていない限り、悟りの何たるかはわからないし、ましてその人物が覚醒した人物かどうかはわからない。

 

それでは、人はどうやって悟りに行き着くかといえば、「縁」という不可思議なものに行き着く。

 

こうした堂々巡りの状況を踏まえて、釈迦は縁なき衆生は度し難いと言ったわけだ。

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神殺しの日本-梅原猛の見方

2022-11-11 06:17:29 | マインド・コントロールneo

◎冥想がなければ始まらない

 

梅原猛によれば、近代日本には、二回の神殺しがあったという。一回目は、明治維新の時の廃仏毀釈である。廃仏毀釈は仏を否定し、神をほぼ天皇とアマテラスオオミカミなどの天皇のご祖先に限ったが、現人神であった天皇も戦後人間となり、神であることをやめ、共産主義国を除けば(共産主義国では大体宗教は阿片であるとして禁止)、日本には、仏も神もいない、世にも珍しい国となった。

 

二度目は、修験道の禁止である。廃仏毀釈とほぼ同時に、修験道が禁止されことにより、日本各地の土着の神々と仏教を融和させてきた修験者が大量に失職することで、神仏習合を体現した宗教者を失った。

 

この結果神道しか残らなかったが、残った神道を天皇中心に再編成した。

 

このように神も仏をも失った国は、無宗教、無道徳の戦後を歩んだというのが、梅原猛の主張である。

 

歴史的な経緯はあるものの、政治などの社会的な権威からの押しつけの信仰がなくなったのは、日本にとっては、真の意味で自由な信仰の芽生える素地があると前向きに考えることもできる。つまりもっけの幸いというべきものなのである。

 

そのホワイト・キャンバスに、本当に納得できるものを描くのは、おそらく既存の組織宗教ではなく、そうした権威から離れた、ひとりひとりの冥想習慣の中から自然に出てくるところのものしかないだろう。

 

ところが、日本社会には全然冥想の習慣などないので、何も出てきていない。

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ネット・ポルノ中毒or依存症

2022-11-11 06:15:08 | マインド・コントロールneo

◎ポルノを繰り返し見て深みにはまる

 

スマホでどんどんポルノ画像、ポルノ動画が見られるようになった。他人に見られる場所では見ていないのだろうが、日本人をダメにする依存症として、ネット・ポルノ中毒or依存症は無視できない比重があるものと考えられる。

 

ネット・ポルノを毎日見続けることによって、脳の快楽中枢が繰り返し刺激されることにより、脳内のニューロンがネット・ポルノを見ると興奮するというニューロン結合を固定化する。固定化した回路(マップ)はますます使用しようとする傾向があり、これによって、見ないことで禁断症状が起きるまでに脳内のドーパミン回路が変化してしまうのだ。

 

ネット・ポルノの悪影響は、自慰はできるが実際の女性とセックスできなくなるとか、ネットポルノに登場する女性像が実際の生身の女性像と同じと誤解することによる男女関係の不和とか痴漢や淫行等の性犯罪の誘発まで様々なものが考えられる。

 

ネット動画やネット画像のかなりの部分がポルノだとも言われており、また電車内スマホでも、モバゲーも問題だが、こっそり見ているポルノも大いに問題なのである

 

『中毒と可塑性の切っても切れない関係

 

ネットポルノ中毒というが、それは比喩ではない。中毒症状がでるのは、薬物やアルコールだけではないのだ。ギャンブル中毒もあるし、ランニング中毒さえある。中毒とは、その行為をコントロールできなくなることだ。悪い結果になるとわかっていても、駆りたてられるように求めてしまう。そして耐性ができるので、さらなる刺激を求めて満足を得ようとする。ついには、その行為ができないと、禁断症状がでるのだ。

 

長期(ときには一生)にわたる脳の可塑的変化によって生じる中毒を治療するには、節制などとんでもない話だ。その物質や行為とは、きっぱりと手を切らなければならない。アルコール中毒者更生会は、「元アルコール中毒者」など存在しないと言う。実際、もう何十年も一滴も酒を飲んでいない人にも、こんなふうに自己紹介させるのである。「ジョンといいます。アルコール中毒者です」。脳の可塑性という観点からすると、これが適切な言い方であることも多い。

 

(中略)

 

マーゼニツクの研究で見てきたように、ドーパミンは可塑性にも関係している。喜びのもとになるドーパミンだが、同時に、目標を達成するための行動をするニューロンの結合を固定化するのだ。 マーゼニックは、動物に音を聞かせながら、電極を使ってドーパミンの報酬システムを刺激した。するとドーパミンの放出によって脳に可塑的変化が起こり、その動物の聴覚マップにおいて、その音の部分が大きくなったのだ。ポルノとの関係で注目しておかなければならないのは、ドーパミンは、性的な興奮によっても放出されるということだ。男と女、両方のセックスに対する要求を高めて、オーガズムを得やすくする。そして脳の快楽中枢を活発にする。ポルノが人を夢中にさせるわけである。』

(脳は奇跡を起こす/ノーマン・ドイジ/講談社インターナショナルp132~133から引用)

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無明と洗脳

2022-11-11 06:12:02 | マインド・コントロールneo

◎君は最高我であって、輪廻しない

 

現代の洗脳とは、無明(迷い、マーヤ)である方が現実だと考えていることである。

 

シャンカラから。

『四九 弟子は

「その無明とは何でしょうか。その対象とは何なのでしょうか。また明智によって自分の本性に立ち帰るわけですが、その明智とは何なのでしょうか」と尋ねた。

 

五〇 師は答えた。

「君は最高我であって、輪廻しない。それにもかかわらず『私は輪廻しています』と言って、

正反対に理解している。

 

また行為主体でないにもかかわらず『〔私は〕行為の主体である』、

 

経験の主体でないにもかかわらず『〔私は〕経験の主体である』、

 

〔永遠に〕存在するにもかかわらず、『〔私は永遠には〕存在しないと』と、〔正反対に考えている〕。

―――これが無明なのです。」』

(ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探求 [岩波文庫] シャンカラ/著 岩波書店P231から引用)

 

この『師』は、アートマン(最高我)=本尊=本守護神がここでいう私であり、行為主体であるという立場である。その立場を体感するには、ニルヴァーナという実証体験が必要となる。それはもはや体験とはいえない体験なのだが、そのことについて哲学的思弁を凝らしても今一つ勘所に届かないのではないだろうか。

 

マスコミもtwitterもfacebookもブログも大半が、無明の闇を拡散しているだけだが、そういう暗い海に沈没しないためには、自分を見つめる作業から入らないと。

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あらゆる手段で精神を揺るがせる生活環境

2022-11-11 06:09:00 | マインド・コントロールneo

◎現代の洗脳の全容

我々は自分では、正気だと思って生きている。そうした中で洗脳とはこんな風に見えてくる。

 

洗脳をインプットしてくるものは以下である。

1.食物

食欲をそそる3要素とは塩、糖、脂だと広汎に知られるようになって久しい。この3種を入れるとバカ売れするからだ。

安くてうまいとは、塩、糖、脂が入って安いと、ほとんど同じ意味。口福の天国は身近にあった。

その代表格は、夏ならアイスクリームであり、通年であれば、スイーツ。

またステーキ、魚食にデザートは、食欲を充足させるという点では満点である。

感覚刺激に際限はない。その点で人間の真の幸福の方向性を大いに誤解させ得るものである。

 

2.飲料

精神を変容させる飲料の代表はアルコール。

コカ・コーラの初期には、本当にコカが入っていたらしい。

 

これらは現実と向き合わないで、特定の自分の精神を拡大あるいは狭窄して見せるもので、人間の真の幸福とは関係のないものではある。

 

日本では、アヘン、大麻など向精神性薬物の規制が厳しいが、欧米ではレイブなど野外でのドラッグパーティがあるなど緩い。オランダみたいに妙に緩い国もあれば、アメリカのようにほぼ建国以来ドラッグが文化の一部だった国もある。

 

3.嗜好品

日本では、タバコ、コーヒー、茶が代表格。いずれも意識をちょっと覚ますのに好適である。

連続的に意識を覚まし続けないと現代社会では勝者となりえないから、いわば合法ドラッグとしてタバコ、コーヒー、茶がたしなまれる。

これで効かなくなるとカフェイン剤とか、レッド〇〇とかリポ〇〇とかまで行ってしまう。

この社会に適応するために必要な悲しい嗜好品だが、これなしでは大半の人がやっていけない。

 

4.音楽

1960年代のビートルズの頃から彼らは薬でラリッて作曲しているんだと言われていたが、後年そうであったことが露見し、日本の音楽シーンもそういう状況証拠が仄聞されるようになっている。

 

また最近は、電車内でモバゲーをやっていない人は耳にイアホン・ヘッドホンがつけられている。

BGMという言葉があるが、音楽にはなにがしか「いやな気分を深刻化させない」という効果はある。そうしたものが何もなければ、通例倦怠や退屈という形で余剰心的エネルギーが顕在化するのだが、音楽はそれを緩和する。

そのように、スマホ・携帯での音楽は十分に洗脳効果を果たしている。

 

5.映像

代表格はテレビであったが、映画の洗脳機能は、見終わったあと数分間は映画世界に入ったままだから言うまでもない。

最近はyoutube動画も加わり、視聴覚で人を別世界にいざなう。

 

6.イデオロギー・ドグマ

ソ連・中国など赤い国家では、その共産思想を国民全体に対して洗脳することが国是であったので、非常に政治イデオロギー洗脳の方法が発達した。それを研究したリフトンの著作は、第二次世界大戦終了後まもない時期のことであったが、その後彼がオウムについても研究を発表しており、世界の終末の強要と暴力的な救済がその動機であったことは、赤い洗脳と似た路線であるように思う。

宗教も政治も「世界の終末の強要と暴力的な救済」を応用すれば、小はカルトとなり大は地上の地獄が現出する。

 

7.マスコミ

「現代文明は、マスコミをとってしまえば何もない」というのは、人々の意識の中身の9割以上が、教育、宣伝、マスコミからのニュースで流されたものの蓄積でできあがっているという意味。

これを広義のマスコミによる洗脳でないとしたら、何と名づけるべきだろうか。

逆に個々人の本当のオリジナリティなど何処にあるというのだろうか。

 

8.スマホ/携帯

意識の隙間埋めマシーン。

熟達した瞑想家の目には、一見連続しているかのように見える意識の流れに隙間が見える。

その隙間は、死の世界。

 

スマホ/携帯はパケット通信で、パケットとパケットの間には必ず隙間がある。意識と意識の隙間もそれと同じ。禅ではどういうきっかけで悟りが起こったかを非常に熱心に記録している(禅関策進など)。それは隙間のひょっとした瞬間に起こっている。

スマホ/携帯は、その瞬間への気づきを失わせ、人間進化の可能性をノーチャンスにしている。

 

このように自分は何も悪いことはしていないと自覚している大多数のおじさん、おばさん、青年、少年少女、老人が、あらゆる手段、それも日常的な手段でもって、覚醒している一日18時間程度はのべつまくなしに、外的刺激でもって受動的に精神を揺るがされる脅威に晒されている。

 

オレたちはいつから本来の自主性、能動性、自発性を失ったのだろうか。それを何者かに奪われたのだと気づく間もないうちに。

 

古代ローマの大衆はパンと見せ物を要求したとことを、我々は嗤うが、確たる人生の目的についての自覚がなければ、このような目まぐるしく変わる目先の欲求を充足することばかり繰り返す「動物」に成り下がり、それではもはや人間である意味を喪失する。

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マインド・コントロールのない宗教

2022-11-11 06:04:20 | マインド・コントロールneo

◎それを払しょくするか、相手にしない行法

 

天国は良く、地獄は悪いというマインド・コントロール。この教団は、教祖も教義も正しく、聖なるものであるというマインド・コントロール。

 

考える時間を与えず、次々に繰り出されるイメージと音楽・効果音と情報。これを人間に四六時中投入することでポジティブな気分やポジティブな世界観を何年かは維持することができるかもしれない。こうしたスマホを眠る時以外は手離さないライフ・スタイルはほとんど完成の域に達した。スマホ・ホリック、ゲーム・ホリック。

 

組織宗教である以上は、どうしても組織、教団の維持のために、他の教団は誤っていて、わが教団は正しいとやるものだが、これもマインド・コントロール。

 

その教団では、ある修行をやれば、どんな信者も同じように同じステージをだんだん上がって行って、最後は同じ悟りに至るという、修行内容と結果が連動するという誤解。

 

人間の本当の幸福はそういうレベルにあるものだろうか。

 

いずれも記憶と想念の改変、注意力を内側に向けさせないことが狙いであって、そのマインド・コントロールで最大のメリットを受ける者は、教祖だったり、教団だったり、ゲーム会社だったり、スマホ会社だったり、政府だったり、企業だったり、外国政府だったり、政党だったり・・・・であって、本人はマインド・コントロールされている限り、真理にはたどり着けない。

 

人間は、メディア・マスコミ経由、教育経由、家庭経由などそれまで生きてきた環境に応じて、あらゆる洗脳を経てきたので、その頭の中は外部からインプットされた情報とそれをもとに頭の中で組み立てられた派生的な情報で満タンになっている。

 

人間はニルヴァーナにコンタクトすれば、見神、見仏、見性するなどというのも、いわば洗脳情報である。論証の手段がなく、証拠がないから。

 

釈迦といふいたずらものが世にいでて

おほくの人をまよはするかな(一休)

 

そうしたバイアスを一枚一枚玉ねぎの皮をむいていくタイプの修行法がクンダリーニ・ヨーガ。

 

一方一足飛びに真理そのものニルヴァーナそのものに飛び込もうとするのが只管打坐。

 

どちらにしても、まともな冥想というのは、

マインド・コントロールを払しょくするか、相手にしない行法なのである。

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