

◎何も変わっていない
(2021-03-21)
オウム真理教事件があってから、世に宗教勧誘と聞けばそれだけで拒否反応を起こされるケースが多くなり、ヨーガ教室や能力開発セミナーなどの形で、カルトの勧誘は地に潜ったと言える。
いまや半島系などの新興カルト信者も、家庭を作り子供を持ち、二代目信者三代目信者ができてきており、時々社会面をにぎわす事件報道として出ることがある。カルトの世襲の時代ということになる。
日本では政教分離。国家神道が国家総動員、治安維持、戦争遂行の重要なエンジンとして機能した時代の教訓から政教分離となったのだが、某政党が公然と政教分離していないのは、これまではアメリカの意向があったのだろう。これからは知らない。
カルトでは、百パーセント終末思想(世の終わり、末法)で人を脅し、十中八九現世利益で人を釣り、その宗教に加入する以外のベストな選択はないのだと思い込ませる。そして、家産を教団に思い切って寄付できた人間が、教団の幹部にのし上がるなどの構図があった。その中で、一旦内部の信者となってしまえば、宗教教義や道徳が必ずしも優先するわけではなく、組織維持と組織締め付けの論理が優先されてしまう。
その典型例がオウム真理教であって、殺人もテロも組織の命令として信者に実行させたようだ。
長年オウム関連本を読んで来て思う謎は、
- なぜ無差別テロを行わなければいけなかったかという理由が未だに明らかになっていない。教団自らハルマゲドンを起こすなどというマンガチックな説明がなされているが、組織も人もそんな動機では無差別テロを起こさない。
- 覚醒剤工場を作ったり、自動小銃工場を作った目的が不明である。それはまず宗教的動機ではない。そしてそれらはすべて信者が作ったことになっているが、資材・原料調達にしても、工程管理にしても、設計にしても「新入社員」が何百人集まっても短期間にできるものではない。別にプロの顧問団がいて、彼らが高学歴信者を隠れ蓑にしていた可能性があるのではないか。
- 信者にLSD入りドリンクなどをふんだんに提供しているが、材料、製造管理、保管、用法用量など、これまた実際の利用の側面では、「新入社員」では手に負えないのではないか。アドバイザリーがあったのではないか。
- チベット密教教義では、一般に初歩の生起次第は明らかであるが、ハイレベルな究竟次第は公開されていない。それにしても、真に覚醒を求める教義であれば、魔境を避ける教義になるのではないか。
- オウム真理教事件は、教祖周辺の13人が死刑執行され、後継団体も監視継続で一応の決着は見たことになっている。だが当時から政治家やマスコミ関係者、他の宗教関係者、反社などの関与が噂されてはいたが、表面化していない。
他にも謎はいろいろあると思うが、大まかに言って、終末思想と現世利益で一旦人を信者にしてしまえば、思想規制と行動規制と組織の論理で信者を奴隷となし、政治家やマスコミ関係者を取り込めば、同様の事件は起こせるのだろう。
当時に比し、世界の事態は更に深刻となり、クロスボーダ-勢力が真剣に世界の終末実現を企図していたり、スマホでもって万人の金と思想と行動を監視し操作しようとしていたりする。
今般のLineデータが中国韓国に流れていたなどは、如何に政治家を含め日本人が日本に敵意を持つ国家や、他人を悪意を持って利用しようとするグループに対し、脳天気かという証左であり、オウム真理教事件がまた起こる素地が変わっていないということである。
なお、このブログは何年も多くの宗派の本を漁っているので、オウム系の読書録も少々ある。
真相不明のままのオウム真理教事件(麻原の最終解脱の真偽など)
オウム真理教特番〔オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画〕(松明に火がついたけれど何も変わっちゃいない)
私にとってオウムとは何だったのか(組織宗教の悪しき面の露見)
オウム真理教 無罪主張と死刑(アンチ・テーゼは呈示されたが)
日々冥想を。
◎オウムの闇は日本の闇
(2021-03-28)
『オウム真理教事件とは何だったのか?/一橋文哉』。この本は、麻原が最初から宗教詐欺のカモを集めるためという意図も持って組織宗教を立ち上げ、最後は、教団がどうなっているかを描き出した衝撃の本。
著者が問題にしているのは、百億円単位とされる資金と、製造されたり、輸入されたりした大量の武器と薬物、そして細菌兵器とレーザー砲、核兵器の行方である。
これらは、本来の宗教とは、全く関係のない部分だが、この教団が、立ち上げ以前から暴力団と関係を有し、1995年の最盛期もその後もその関係は切れていないらしいこと。ロシアのエリツィン政権とは、深い関係を有していたこと。教団武装化の過程で、ロシア、欧州、アジアの闇商人との関係があり、特に北朝鮮との関係があること。
ただこうした大きな構図はオウム・プロパーの人間だけではできないので、暴力団を含め、各方面の政治・兵器・外国など闇社会のプロの人間が各所にいて、全体を操作するオウムの外の『司令塔』がいたこと。
要するに、資金も物の流れも人の流れも、官憲からの規制の緩い宗教団体は、一万人も信者がいれば、様々な闇社会のフロントとして機能できたのだ。無差別テロが官憲の手入れの分水嶺となったのだが、実は無差別テロでなく、クーデターまで狙っていたという話もある。
著者は、この本は、そうした「驚くべき真実」を公開する先駆けであると謙遜しているが、十分に全容と将来がわかる本になっている。
オウム真理教事件以後、新興宗教の信者が増えないというが、それは、却って幸運なことだったかもしれないと思わせる書である。
だが、貧困化が進み、頼るべき者を求める若者たちが、権力志向で反日の本心を隠した教祖による『スマホ教』みたいな宗教が万人規模で立ち上がれば、温存された資金や薬物や兵器も出てくるのだろう。
結局、オウムの闇とは日本の闇だったのだ。
このブログでは、求道心とそれを利用されたかわいそうな信者たちという視点からの取り上げがメインだが、眼を覚まさせられた思いである。
また南シナ海と台湾の一触即発の危機の中、今度は日本の貧困が、別のカルトを生む土壌になっていく可能性をはらむように思う。
◎出家信者たちが描いた疑念
(2018-12-01)
『オウム真理教を検証する/井上順孝/責任編集 春秋社P121-129』に出ている、信者が脱会するきっかけになった情動(出家信者たちが描いた疑念のパターン)の分類をまとめると、以下。
1.度が過ぎている。
暴力容認、殺人など手段を選ばないなど。
2.嘘、矛盾、言行不一致
人は、嘘、矛盾、言行不一致があると、その師やその組織に疑いを持ち始めるものだ。
3.宗教者としての麻原や幹部たちの能力への疑念
麻原には空中浮揚などの超能力、予言能力、神通力があるとされていたが、空中浮揚写真はあっても、麻原は空中浮揚を人前で実演することはなかった。
スパイが誰かを見抜けなかった。予言は外しまくり。
4.一部の人だけ特別扱い
教団内で性行為を禁止していたが、特別扱いされる人たちがいた。
まとめは以上だが、更に「教団の外に出ると様々な恐怖がある」と煽っているので、なかなか脱会に踏み切れないというのが、マインド・コントロールの構図。
オウムの出家者というのは、全財産を教団に寄付したりしているので、のっぴきならない立場での生き方だが、それでもこのような情動で、その生き方に疑念を抱く。
翻って、人と人とが争いを事とし地獄的と言われるこの世がこうしたカルトの一種であると見立てれば、『この社会からの脱出』は、『カルトからの脱出』とメカニズムは似ている。
まず、この世、この社会を疑うことから始まり、本音と建て前により騙されていることに気づき、超能力があるスーパーな人などいないことを直視し、万人が幸福ではなく極く一部の人だけがいい目を見て幸福になっていることを見れば、疑団は確実となる。
瞑想生活、冥想を組み込んだ生活に入るというのは、こうした疑いを持たれては続かないし、広まらないのだろうと思う。また社会生活をするには常に社会から疎外される恐怖がつきまとう。それは社会で生活する以上は払拭はできない。そこで『迷いのままに悟る』という姿勢しかないのだと思う。坐るのに適当な場所も時間もなく、今ここで坐るしかない。
古神道ではそういうのを含めて清よ明き心と言うが、黄泉の国から帰還して、両性具有を伊都能売として実現して初めて清よ明き心である。清濁の清だけで清よ明き心と言うわけではない。
※超能力はあるが、覚者の超能力は恣意的には使うことはできず、天意・天機に沿った行使しかできないとつくづく思う。ここは敢えて超能力はないと書くが、出産なんかは、実に超能力のようなものだ。
◎虹の階梯は物質科学レベルのものではない
(2021-03-23)
オウム関連書籍は、どうしても存命中の死刑囚や元信者の証言を元に構成するので、早々と暗殺されたオウム真理教ナンバー2の村井秀夫への印象は薄くなりがちだ。
村井秀夫と言えば、TVカメラの動いている前でオウム真理教本部前において刺殺され、その際に『〇〇〇にやられた』と言ったことが現場にいたマスコミから伝えられている。
村井秀夫の役割を大きく評価しているのが、心理学者のリフトン。リフトンは、朝鮮戦争後に米兵の多数が中国共産党の独特の思想洗脳にやられていることを指摘した人物。まさかリフトンがオウム事件に関する研究をするのかと、彼の「終末と救済の幻想 オウム真理教とは何か/ロバート・J.リフトン/岩波書店」が出て来た時は、驚いたものだった。
この本で示す村井秀夫像は、次のようなものである。
1.麻原も激賞するほど、自分を空しくして麻原に同化することができるほどに帰依しており、宿舎で残飯を食べたり、寝にくいベッドで寝たりできた。
2.幼少時には超能力獲得に情熱を燃やしていた。
3.オウムで展開していたあらゆるマッド・サイエンスの元締め。サリンなど生物化学兵器や自動小銃、あるいはマントラを正確に電気信号によって表す装置、磁場を使ったクンダリーニ覚醒の装置などの開発を指揮し、科学で釈迦の教えを証明できたなどと主張していた。
つまり妄想めいた麻原の考えを科学の衣で現実化してきたのが村井だったのである。
よって周囲からは、村井は教団の武器開発、殺人などの暴力行為、対外向けの欺瞞的な宣伝のすべてを知っている人物と目されていた。
だが、教団のエンジンの片方が村井であったことが、サリン事件を始め大きな被害者を出した原因の一つとなったのだろう。
問題となるのは、グルを見る目だが、未悟の者にそれを求めるは酷だろう。だからと言って、グルにほとんど同一化すれば、グルが本物かどうかはっきりわかる瞬間が何度もあったはず。
そして物質レベルの科学で悟り・成就を追うのはそもそも無理筋だと思わなかったのだろうか。虹の階梯は明らかに物質科学レベルのものではない。
まことに、鞭を見ただけで走る馬と、鞭で叩かれなければ走らない馬はあるものである。
◎組織宗教の悪しき面の露見
(2016-10-29)
「私にとってオウムとは何だったのか/早川紀代秀 川村邦光/ポプラ社」は、オウムの主要幹部早川紀代秀の回顧録。
オウム信者の回顧録は何冊も出ているが、不幸な生い立ちだったり、数奇な事件に遭遇したのがきっかけで入信した人物が多い中、早川は順風満帆な人生を送りながら純粋な求道心により入信してきた人物であるところは珍しい。
地下鉄サリン事件発生時に、彼は国外にいて事前謀議には加わっていないものの、坂本弁護士一家殺人事件の実行犯でもあり、教団内の多くの犯罪に関与してきたことを明かしている。
どうしてもオウム本は地下鉄サリン事件をピークに描くのだが、本書はわりに教団内で行われていた各種修行が体系的に記述されているので、そこについて気のついた点は次のようなところになる。
まず食事を少なく与え、栄養失調にしておいて、マントラ念唱、五体投地、結跏趺坐での観想など、体力、精神力の極限までの長時間修行をさせることで、思考力を奪うのはカルト教団の定番。ただし、まともな組織宗教でもそういう側面がないことはない。
冥想を長時間強制的にがっつりやらせたことは、それ自体はすごい部分があった。ただし、それに見合った覚醒者が続々と出たかどうかについては、世間もよく承知しているところである。
またこれだけ強制的にやらせると、精神のバランスを崩す人も相当数出るものだろうし、まともな教団ならば専門病院に送り込むところが、そうした人が初期には殺害されたりしている。その殺人が次の殺人を呼んでいった。
冥想修行は一気にいけるスーパーエリートみたいな人もいるのだろうが、ほとんどの人は行きつ戻りつで、人生上のバランスや精神面でのバランスをとりながら進むもの。怖いものはこわいし、できないものはできないというところはある。それができるようになる時節があるし、そこを調整指導するのが正師というもの。
それと「成就」と呼ばれる悟りと思われる基準がゆるいこと。魔境あるいは欲界定ぐらいのを「成就」認定していたことが描かれている。古来から悟っていないものは人を指導してはいけないのだが、恐ろしいことである。
温熱修行では、47度のお湯に15分入るのだそうだが、何人もがこれで亡くなったそうだ。教団崩壊までこれを続けていたとのことだが、こういうのもやめなかったところは、「命の悲しみ」を感じない所業といわざるを得ない。
LSDについては、早川がロシアから原材料を購入したことが書いてあるので、教団内ではふんだんにあったのだろう。ソーマであっても準備のできていない者に与えるのは、思わぬ霊道が開いて本人も希望しない好ましからざる世界に入る可能性があるので、カスタネダに代表されるソーマヨーガの世界でも投与には慎重を期しているものだ。この教団では、金と引き換えにどんどん与えていった雰囲気だが、その効果はどうだったのだろうか。
思わぬ霊道が開くデメリットについては、「チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店」に詳しいが、この本を獄中で読んだ早川も推薦していたのは皮肉なこと。
悟りは難しいし、いわんや悟る人を出すことも難しい。禅では一人の正師が打ち出す悟った弟子のノルマは一人あるいは半人などというように、覚者を大量に打ち出すのは悟ったマスターであっても簡単ではない。この教団がそういうチャレンジだったかどうかは知らないが、この事件の後、既成宗教が自らの姿勢を見直し始めたという効用はあったかも知れぬ。
それから略20年、時代は、日本が外国からの侵略による亡国の危機に瀕し、国民は貧困化に苦しみ、国民精神は、あらゆるメディアからの情報洪水により、無思考化、白痴化した。
結局この事件は、組織宗教の悪しき面を露見させ、かえって人を宗教から遠のかせる結果になっただけと思う。
◎アンチ・テーゼは呈示されたが
(2019-09-08)
オウム真理教裁判で、教祖が最後の数年は行為能力に疑問を持たれるような状態で、拘禁反応か何かだろうと推測されていた。独房に長期間入ると拘禁反応は出やすいものらしいが、戦後最大の被害者を出した事件の首謀者らしい人間がそのような状況で、何年も裁判を続けるのは、傍目にも異様に感じられた。
オウム真理教事件関連本を精密に読んでいるわけではないが、どうして教祖がそうなったかは、『オウム死刑囚 井上嘉浩すべての罪はわが身にあり 魂の遍歴』などを読んで思い当たることがあった。
教祖は一貫して自分の無罪を主張し続け、いわば弟子たちの暴走が事件の構図であったというような主張を裁判ではし続けたのだが、教祖の裁判において最愛弟子井上嘉浩が、教祖の指示によって犯行が行われたことを証言したことをきっかけに拘禁反応が強く出ることになったようだ。孤立無援を実感したのだろうか。
井上嘉浩がこれを証言した時に、法廷で教祖からは「地獄に落ちるぞ」みたいな恫喝的発言があったらしい。その頃から、他の弟子たちからも一連の犯行が教祖指示によるものだという証言が増えてきたようだ。それはますます教祖自身の拘禁反応を強めたのだろうと思われる。
地獄に落ちるぞというマインド・コントロールを振り切って教祖の指示による殺人などを証言するのは、帰依が深ければ深いほど、容易なことではなかっただろう。
オウム真理教が公安審査委員会の観察処分対象となる以前の時期、オウム真理教は、いわばマスコミの寵児だった。TVの報道番組では、しばしばオウム真理教の宣伝VTRが流され、優れた修行者として井上嘉浩の他の信者とのなごやかな会食シーンの動画が流されたことは、なごやかであったがゆえに印象的に記憶している。
どんな修行をしていたかには関心があったが、彼は空中浮揚という名の膝ジャンプの修行をやらされていたようだ。宗教はすべからく、善いことをして悪いことはしないもの。正師に出会えなければ、修行は正しい方向には進まないもの。
一直線に大悟覚醒に至る者は稀にいるが、出生してくる人で、幼児は別として、生まれながらにして大悟している人間はいない。大悟する人間であっても、まず人生航路上で紆余曲折を経てそれに至る。
出生時に牛のしっぽを捕まえて生まれてきたとしても、牛に乗るまでは時間がかかるものだと思う。白牛だと思ったら、カルトの黒牛だったということもある。
『オウム真理教 偽りの救済/集英社』の著者瀬口晴義氏も似たようなことを言っているが、最初に誤った師に出会っていれば、我らもかの死刑囚になっていたかもしれないという、ヒヤリとする感覚はぬぐえないところがあるものだ。
オウム真理教は、求道とは、外的力による世界変革でもなく、超能力でもなく、神秘体験でもないというアンチ・テーゼを呈示した。その教訓を踏まえた先は、天国と地獄の結婚となるが、それは現代社会の論理の止揚という水平的展開の地平では見つからない。その辺が、事件後25年以上経つが、事件が教訓とはなり得ていない部分である。
◎天国と地獄の結婚に至らず
(2019-09-06)
人に『悟りとは何か』とか『救済とは何かと』問えば、ほとんどの人は口ごもったり、ちゃんと説明などできるものではないだろう。
『オウム真理教 偽りの救済/瀬口晴義/集英社』は、網羅的ではあるが、実によくわかっていて、緻密に組み上げられている本だという印象を受けた。何が本当の問題だったのかがわかる本に仕上がっている。
教団内では、救済とは、地獄から天国への救済であるとして、そこで救済してくれるのは教祖の力であるとし、信者にLSD、覚醒剤などを投与して、意識レベルを低下させて、リアル地獄を体験せしめた。
著者は、そのリアルな地獄体験を有する人が今の中堅幹部だと指摘する。地獄体験の恐怖がいまも厳然として影響を与え続け、それが信仰をサポートしているであろうことは想像できる。
まともな宗教では、平素の生き方は勿論善を行い、悪をしないという天国的なものを志向する。だが、そのような現世的天国に飽き足らぬ情熱が、天国をも地獄をも突き抜けようとする方向性があるものだ。
西洋ではそれは、両性具有者の原人間アダムカドモンだったり、楽園追放以前のアダムや、天国と地獄の結婚として現れ、古事記では、女性天照大神が男神を生み、男性素戔嗚神が女神を生み、それを交換してみせることで、両性具有、天国と地獄の結婚である伊都能売を示唆する。
クンダリーニが上がるだけでは悟りではなく、破天荒な神秘体験をするのが悟りではない。悟りは人間の聖性ではあるが、社会性の縁に腰かけているところはあるものだ。人間の苦悩と無力さ、絶望は、天国と地獄をも越えて行かざるを得ないと結論できるものなのだと思う。
◎平時でも分断孤立した生活と意識
(2017-09-17)
大規模災害の後は絆がスローガンになる。それは、大規模災害でライフラインが破壊されると、生活は分断、孤立しがちになるもので、生存を維持するためには、食料、水、情報などの絆が要るということ。
ところが、個々人の生活の分断は、ライフラインが整った日常にあっても既に常態化している。個人主義的生活とは、個々人が分離した生活スペースで暮らし、日常意識も他人と分離し、独立していることであり、常に孤独感、孤立の影が差す。
平均主義、平等主義、不公平なしを社会秩序の根底に据えている日本社会は、残念ながらねたみそねみが心情の根幹にある。
「他人よりちょっと得をする」というのは、大いにやる気スイッチを刺激するが、これは、ねたみそねみを身上とする日本民族にとっては、諍(いさか)いの種である。
だから、人は「ちょっと足りない、ちょっと不足気味」で満足しなければ、際限のない他人との分捕り合戦の罠に落ちる。
核家族化と個人主義的ライフ・スタイルで、各個人は孤立し、こうした「ちょっと得」の罠にかかれば、その人たちは、最終的に親子など家族同士でも争うことになることは、古代の歴史や経験、予言などでいくらでも予見されている。
古代ギリシアのオウィディウスの変身物語には、金の時代、銀の時代、銅の時代と進み最後は鉄の時代になる。
鉄の時代には、こっそりあるいは合法的に他人の物を奪うのが基本となり、主人は客の、婿は舅の安全を守らず、兄弟愛も稀であり、夫は妻の、妻は夫の死を画策し、息子も父の死期を探るなどと、現代の油断も隙もない時代が幻視されている。
こうした反作用のせいか「すべてはつながっている」「ノンデュアリティ」などと言い立てる人もいるが、「すべてはつながっている」観想や「ノンデュアリティ」観想をすれば、いつかわかることもあるのかもしれないが、孤独で不安でみじめで情けない自分から本当に解放されるのは、それとは全く別の事態かもしれないのだ。
◎二重の不確実性
チベット密教では、数知れない観想法をこなすものだが、学者さんの書かれたものでは、その修行結果に個人差があることがしばしば指摘される。
つまり、カリキュラムや経典に従って、生起次第を行なっても、一時的な大日如来の円満相の示現もできないということがままあるということなのである。
これは今更ながら、修行者個人の準備ができていない、すなわちまだこの世の楽しみに充分な未練を残しているため、それに入る時期ではないという原因によるものだと思う。
円満相の示現とは、我が身が円満相そのものに成りきることで、観想法のひとつの成就だとは思う。これとて、日常の生活の次元を越えて、それらの世俗のものをすべて振り捨てて飛び込んでいくようなところがないと実現するようなものではないだろうと思う。
つまりまずその超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがないと、そうしたジャンプをしようとまでは思わないのだと考える。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、それが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。
そしてジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。その人は魂の経験値がそこそこ積み上がっているので、やがてジャンプもした。ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。直地したところが仏の場合もあれば、悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。
これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。
要するに、ある一定の修行方法ではある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではないし、その上、結果がその修行方法で予期された結果になるものではないという二重の不確実性があるのである。
この二重の不確実性も、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由と考えることができる。
◎金のない奴は、価値のない奴
第一回十字軍により1099年エルサレムが陥落した。そこでテンプル騎士団の創設メンバーの9人が、キリスト教巡礼者の保護にあたりたいという名目でエルサレムの神殿跡を借り受け、厩舎を建てた。そして7年間彼らは厩舎の中で発掘を続け、何の成果も得られないままフランスに帰国した。
グラハム・ハンコック説によれば、彼らはそれを手にいれた者は世界最強の力を手に入れることができるという噂のモーゼの契約の聖櫃を探していたが、結局見つからず、ゴシック建築の技術を持ち帰ったとなっている。
テンプル騎士団の9人は帰国後まもなく、有力者聖ベルナールの後ろ楯を得て、やがて欧州で最も有力な教団に成長していく。
ところが、14世紀初頭テンプル騎士団は、フランス王により壊滅させられた。
この後、19世紀になってレンヌ・ル・シャトーの教会にやってきた貧乏神父のソニエールが、教会の改築工事で、羊皮紙の巻物の暗号文を見つけたら、なぜか大金持ちになったというのが、レンヌ・ル・シャトーの謎になっている。
日本にも三種の神器というのがあって由緒から言えば、モーゼの契約の聖櫃に劣らぬものであるが、そこまで世俗の権力を保証するような器物ではないと思う。
モーゼの契約の聖櫃は紀元前10世紀にエチオピアに持ち込まれたという伝承こそあるものの行方不明である。
さてテンプル騎士団のように12世紀の人が、あるものを手に入れればパワーが授かるということを真剣に信じるのは当然としても、現代においてもそうした物があると信じている人は、決して少なくなってはいない。
キリスト教社会では、モーゼの契約の聖櫃は絶対的・正統的な価値をもつものだろうが、現代社会では,価値観の多様化を反映して、ちょっとした価値を持つものをクリエイトして、売り物とする。
代表的なものは、ブランドもののファッションで、ティファニー、ブルガリなどのブランド店の宝飾などもそうである。食品でも有名店のチョコやケーキもそうだし、およそデパートに並んでいるようなものは、皆そうだと言える。その延長で寺社などで霊力を封じたとする壺や御札や器物もその流れ。
つまり物そのものに価値があるのではなく、価値はむしろ精神的なものである。最近の人は自分自身の好みの有り様を自分で日夜感じているわけなので、この点で異論のある人は少ないのではないか。
他人に認められる価値=ブランドを手に入れるには金を払わなければならない。そして沢山金を払えば、払うほど手に入れる価値の評価は高まる。これが日本人の平均的なブランドに関する考え方ではないだろうか。(マルチ商法はここを巧みについて金を吐き出させる)
こうした考え方全盛では、物を離れて精神性のみに価値ありとする考え方に賛同する方は激減してしまう。現代日本で、ほとんど真の宗教性のニーズがなくなってしまったのはこのあたりにある。
この裏返しで、「金のない奴は、価値のない奴」という社会通念がないとは言い切れないところがあるのではないか。女性でも男性でも、相手の身につけている服装、装飾品の値定めをしない人は稀だが、人品をまず一等重視しようとする見方をとる人は少ないのではないだろうか。
◎頭人間のとる受動と能動
このところNHKニュースは、西側のウクライナによる戦争プロパガンダを放送しては、ロシアの戦争プロパガンダを放送する。また、2022年5月のバイデン米国大統領来日時の、アメリカは台湾有事に軍事的関与を示すという発言のNHKニュースでは、引き続いて中国の反発を流すと同時にNHKの人物がバイデン大統領は失言が多いとコメントをして、視聴者の判断を迷わせる報道になっていた。
こういう正反対のプロパガンダ合戦は、昨今多いと言われる「考えない人々」すなわちあらゆるプロパガンダに対し頭を受動的にしたままにする人々をさらに思考停止させる効果があるのではないか。
NHKの大河ドラマは、一般に時代設定が室町以前になると上下関係、人間関係がわかりにくくなるせいか、概して視聴率がとれないということが経験的に知られている。要するに不慣れな分野で複雑で大量な知識を動員する必要のあるドラマは歓迎されなくなるほどに、洗脳されやすい国民性になっているということなのだろう。
冥想修行は、そうしたあらゆるプロパガンダを払拭し、神祓いに祓い、受動的に受けた情報をすべて棄て去ることから始まる。先入観をなくすということである。
そこで神仏を知り、今の社会通念は、無数にある世界の見方のうちの極く一つであるという見方を知る。
翻って、神人合一者における能動というものを考えると、一体それが能動と言えるものかどうかわからなくなるのである。それが天機、天意、天命を生きるということ。
SNSの世界は、この3年のコロナ是非論、最近はウクライナ戦争に係るロシア中国是非論で席捲されてきたが、その中で確実に言葉狩りは進行している。第二次世界大戦もさび釘から寺の梵鐘まで戦争に供出されたものだが、次もIT化の進展でさらに物質供出は徹底的なものになるのではないか。兵器の威力は、かつてとは比較にならず、戦争が半年以上長引けば日本民族も絶滅の危機になると見たのは出口王仁三郎。
言葉狩りは年を経るにつれ深刻となり、〇〇ブログでは禁止ワード急増で密教系の記事が書けなくなった。たとえば、密教経典である秘密集会などには精液、経血などがばんばん登場、朝鮮の神人甑姜甑山の言行録にも出てくるのだが、そういった記事がアップロードできなくなった。(その世界では一つの言葉が三重四重に意味を変えることがままあるのではあるが、そんなことはお構いなしの言葉狩り)
ソーマ・ヨーガ記事も書きにくくなった。カーマ・ヨーガは、風俗エロ業界が政界の支持があるせいかどうか知らないがまだ緩いが、じきに戦乱の機運の高まりで禁止されていくのだろう。
万教同根などどこ吹く風か。
◎他人のプライバシーへの異常な関心と巨大監視システム
かつて職場に二人の還暦越えの男性がいて、その両人の話題は、いつも組織内の人物のプライベートな境遇のことであった。その話題は、不幸であったり気の毒であったりする内容であれば、興趣が盛り上がっている風であった。たまにその様子を見て、私はいつもどうしてそこまで他人の私生活に興味を持たねばならないのかと、訝しんでいた。
それは要するに他人の生活ぶりを妬み、そねんでいたのであり、自分が不幸であれば、他人が同様に不幸であることを以って自分を慰める類のことであった。
他人の不幸は蜜の味。
そうした蔭には、同等の生活環境であれば、できれば、その中で少しでも上回りたいという願望が蠢いているのだが、その際限のない堂々巡りを繰り返しても何十年倦むことのない心的エネルギーこそ恐るべきものだと思った。
これが、他人を監視したいというものに発展していく。世の中には異常に他人を監視したいとする願望を持つ者がいる。大はGoogleやfacebookやLineや、さる共産主義国家や独裁国家であり、自分が権力を持った証の一つが他人のプライバシーを握れることとでも考えてでもいないと、このように大規模な監視システムは成立しないのではないだろうか。
その結果が、大規模な強制収容所で、中国と北朝鮮では毎度話題になる。他の自由主義国家でも、どんどん監視の程度が進み、やがて国家ごと巨大な牢獄と化すことを予言されてもいる。
その元をたどれば、他人より少しでも良い目をみたいとか上回りたいという競争意識である。近代社会では、それにより自己実現ができると教え込まされて来てもいる。これぞ社会まるごと自我を膨張させるシステムであり、そのシステムは、ねたみそねみに寛容であって、人間相互の小競り合いを増殖拡大させていき、世界戦争にたどり着くまで終わらないのだろうと思う。
殺伐、乾燥したその世界の風よ。
◎戦前以上の思想統制の足音
新聞を取らずニュースを見ない人々は中高年だけかと思ったら、青少年・若い人にも増えており、愕然とした。
例えばオレオレ詐欺防止策の宣伝をテレビなどで盛んにやっているが、ニュースもほとんど見ないのでは、世の流れの変化についていけてないどころか、世の流れに関心を持たず生きているということである。
これは社会性の喪失の始まりであり、スマホを持って動画や漫画やモバゲーばかりやっていて時事ニュースを見ないけれども、人間関係はフツーにこなしてはいる人々は、一朝事あればニート・ひきこもりに転化する可能性を有している。
それほどまでに日本は平和であり、治安が良好であり、お人よしが大量に生息し得たので、期せずして家畜型人間がここまで増えてしまったのだろう。
古代ローマでは、市民に対して皇帝が見世物と食べ物を十分に与えて腐敗堕落を招き、帝国は滅亡するに至ったと同じ軌道を走っている。
日本は、ここまで時事ニュースを見ない人が増えると、政府の思想統制方針は効き過ぎるほど効いて、あっというまにSNS監視を含めた非国民排除の雰囲気が完成するのだろう。「それが戦後の平和教育の総決算となるとは、夢にも思わなかった」、あるいは「こんな生きづらい社会になってしまうとは」などと慨嘆する人も出てくるのだろう。
SNSなどITの進展は、国民思潮の統制速度を、戦前に比較すると圧倒的に速める効果があるものだと思う。
日本人で覚者が多数出るためには、ニュースもそこそこ見て自分でものを考えたり感じたりする習慣のある人間が多くないとならないが、どうもそういう感じではないように思う。
出口王仁三郎が玉串を座布団の下に隠し、戦前以上の思想統制があることを予言して75年。そういう暗黒時代が目前に迫っていることを感じさせられる。
◎「縁」
マインド・コントロールも冥想修行も無意識を操作し、時にトランスに導入していくという点では、似たところは大いにある。両者の相違は、マインド・コントロールは、だますという「目的を持った」心理操作、無意識操作であるのに対し、冥想は「目的を持たない」心理操作、無意識操作であるということ。
だが、広義のマインド・コントロールは、政府、企業が広告宣伝、コマーシャル、SNSなどを通じてテレビ、ビデオゲーム、スマホなどを通じて行っている他、ネットワークビジネス、カルト宗教、カルトじゃない宗教、怪しげなヨーガ団体、まともなヨーガ団体が行っている。要するに手法としてのマインド・コントロールは本来それ自体白黒の色はついていないものだ。
また、リラックス冥想や五体投地、マントラ念唱など、カルト宗教は宗教であるがゆえに冥想手法すらマインド・コントロール手段として用いる。だから冥想手法だからといってそれ自体聖なる手法だと主張することもできない。
その相違は指導者が悟っているかどうかというところに行き着く。手法そのものに善悪がついていなければ、指導者、グル、マスター、師が本物であることだけが頼りとなる。
しかし残念なことに、人は上座にいるその人が悟っているかどうかを見分けることができない。なんとなれば、自分が悟っていない限り、悟りの何たるかはわからないし、ましてその人物が覚醒した人物かどうかはわからない。
それでは、人はどうやって悟りに行き着くかといえば、「縁」という不可思議なものに行き着く。
こうした堂々巡りの状況を踏まえて、釈迦は縁なき衆生は度し難いと言ったわけだ。