アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

陰極まって陽生ず

2024-04-06 15:33:50 | 老子neo

◎老子第36章 将欲歙之

(2009-04-28)

 

『ものをゆるめようと思う時には、しばらく反対にこれを張る。弱くしようと思う時には、しばらく反対にこれを強くする。廃れさせようとする時には、しばらく反対にこれを興させる。これを奪おうと思う時には、しばらく反対にこれを与える。

これを明をぼかすと言う。

柔は剛に勝ち、弱は強に勝つのである。魚は淵を出てはならない。国の利器は人に示してはならぬ。』

 

ここは、世俗の権謀術策のことを述べているのでは勿論ないが、かといって人為の起こり来たってこれを無為の治世とするときはこれをしばしほっておくがよいというような意味にとるのもまた相違しているように思う。

過去現在未来を通観する視点から見るならば、この世においてあらゆる物事は「陰極まって陽生ず」であり逆に「陽極まって陰生ず」(易経)であることからして、ここの章の言はいわばこの世的物事の基本である二元性の転々流転の姿を述べたものであり、殊更に謀略を説いたものとは言えない。

大なるものは小となり、小なるものは大となり、また強者は弱者となり、弱者は強者となる因縁を淡々と語っている。この法則の利用を『国の利器』とみているのだろうか。

 

共産中国、急速に興隆して、急激に・・・。

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無為の体験を経た言葉

2023-04-29 16:56:07 | 老子neo

◎老子第81章 信言不美

(2007-05-31)

 

『信(まこと)のある言葉には、飾りがない。飾りのある言葉には、信(まこと)がない。

 

善い人は言い訳をしない。言い訳を言う人は善い人ではない。知者は博かろうとしない。広く覚えている人は、かえって知者でない。

 

聖人は何ものも蓄積しない。人のため、ありったけを携えていくが、しかもそれでいよいよ富んでゆく。

 

天の道は、すべてものを利して、害することがなく、聖人の道は為して、しかも争うということがない。』

 

無為の体験という「体験を超えた体験」は、言葉による表現はできない。だから言わないのであり、言う者はその体験が無い者である。

 

無為の体験を経た人の言葉だけが、信(まこと)のある言葉である。

 

今の時代は、自分を守るための言い訳をしなければダメとされる時代であり、言い訳をしない「善い人」を造らない時代である。

 

争うことがないとは何か。自分という個人も世界の森羅万象もまた自分である実感があって初めて争うということが発生しないのである。争わない(不争)とは、意図的に他のものと争わないのではなく、自然に争うことがないという消息はこのあたりにある。

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不争の徳は水の如し

2023-04-29 16:52:21 | 老子neo

◎老子第8章上善若水

(2011-06-18)

 

『最上の善は例えば水の如しである。即ち水というものは、善く万物のためになって、それと争うことがない。そしてすべてのものの嫌うところに居る。だからこの水の精神はほとんど道の性質に近いと言って良い。

 

我等がこの水の精神を体得するならば、われらが居る場所は必ず、その地を幸福なものにするであろう。またそのような状態の心は、淵の水のように波立たず、すべてを受け入れて奥深い。また他と与(とも)に不争の徳を守れば、その仁を善くすることになる。

 

またその言において不争の徳を守るならば、その信を善くすることができる。

 

また政治において不争の徳を守るならば、その治を善くすることができる。また物事を為すにおいて真に不争を守るならば、どのような難事にあっても、これを能くすることができる。

 

行動において不争の徳を守る時は、自然に出処進退することができる。』

 

 

この世の根源的要素としてのイデアとしての水の話であり、ギリシャの哲人ターレスが「万物の根源は水である」と述べたが、その『水』に近い。

ここは、心の状態や、政治のあり方、行動の仕方に敷衍して述べているが、昨今の他人を蹴落としてでも自らの利益を確保しようとすることを是とする風潮とは、正反対の説である。

 

現代人は、金をもらうこと(金の見返りに何かを期待されること)、自分がメリットを受けることの弊害について、より敏感にならねば、この消息について直観するのも難しいのかもしれない。

そうしたものを受け取った瞬間に「争」の世界に入り、不争の徳を失うからである。

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冥想体験としての老子

2022-10-20 20:43:35 | 老子neo

◎老子第16章 致虚極

 

「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作(おこ)れども、吾れ以てその復るを観る。」

 

これは冥想体験そのものと見ることもできる。

 

「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ」とは、冥想の一つの目標である想念停止をイメージしているように見える。

死のプロセスの中で呼吸が止まれば想念の動きも停止し、『原初の光』を見ることになる。

つまりこの「虚を致すこと極まり」の部分は、呼吸、好き嫌いの感覚、情動、想念まで停止した死のプロセスと似た状態が、老子の冥想体験の中で発生したことを指しているようにも読める。

 

そして、その深い三昧の先に、「万物並び作(おこ)れども、吾れ以てその復(かえ)るを観る。」とは、あの世のあらゆる事物が生成しては、崩壊、滅亡していく姿を時間軸、空間軸をまたいで鳥瞰することができるポジションに進んで、次にそれらが一つのタオというポイントに帰っていくのを見るという意味にとれる。

 

※老子第16章の和訳

万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができるというのである。まことにすべての草木がそれぞれに繁茂しているけれども悉くそれは、その根に帰ることをしているのである。

 

この根に帰るのを(乃ち無に帰して行くのを)静というのである。そしてこの静に帰ることをあるべき自然の姿にもどると謂う。人が命に帰るのをまた古今変わりなき本来の姿という。この本来の姿を知ることを明と呼ぶ。

 

人があるべき本来の姿を知らなければ、必ずみだりに物事に動作して、不幸な目に会う。本来の姿を知ったならば、すべてを無為として容れることができる。このようになる時すべてを無為として受容すれば、真に公平無私である。

 

このように真に公平無私でありえたならば、それは王足り得るのである。王足り得たならば、それはまた天そのものである。天そのものであったならば、それはすなわち道である。

 

道であったならばそれは永遠である。だから身を没するまで、あやういということがない。

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あらゆるものに神性を見る

2022-10-07 11:06:00 | 老子neo

◎老子第39章 昔之得一者

 

『そもそも、この世界の発現においては、それは無有一如の玄なる道を得たからである。天は、この無有一如の玄なる道を得て以って清いのであり、地はこれを得て以って寧らかなのであり、神は是れを以って霊なのであり、谷はこれを以って水が盈ちるのであり、万物はこれを以って生じるのであり、候王は是れを得て以って天下の範となるのである。

 

これ等がこのようになるのは、天は決して清となろうとしてこのようになったのではなく、若し自ずからこうなろうとしたならば、忽ち天は裂けてしまうであろう。地もまた同じことで、自ずから寧らかになろうとしたならば、おそらく動揺して休む時がないであろう。

 

神が自ずから霊となろうとしたならば、おそらくは、その霊妙力が減じてしまうであろう。また谷が自ら水を盈たそうとしたら忽ち水枯れてしまうであろう。万物が自ら生じようとしたならば、忽ち絶滅してしまうであろう。候王が自ら貴く高い人間となろうとしたら忽ちその王位は失われてしまうであろう。

 

だから貴いものは、それだけで貴いのでなく、賤しいものがその根本を成しているのであり、高いものはそれだけで高いのではなく、低いものがその根基を為しているのである。これだから帝王たちは、自分を呼ぶのに孤(幼くして親のないもの)寡人(老いて配偶者のないもの)不轂(轂のない役立たぬ車)というようなことばを使うのである。

 

これは賤しいもの下のものをもって本と為しているということを表しているのではないか。そうではないか。事実、車でも、その部分をこれは輪、これは御光、これは心棒というようにいちいちその部分を数え立てていくと、車というものがなくなってしまうように、卑賤があって高貴があるので、卑賤を無視すれば、その上に立つ高貴も認められなくなるのである。

 

だから玉と石が一方はつやつやと光あって何処までも美しく貴く、一方は粗っぽく光なく、どこまでも賤しくて全く別々であるような、そういう考え方を好まない。』

 

単純な相対的なものの片側の有用を説く議論に堕していると読まれかねないところがある。

 

ところが、この世なる現実世界は、絶対なるものは何もない。絶対なるものが何もなければ、優劣は必ずあるものであり、五感による現実を越えた至聖の世界なる現実を優れたものとすれば、われわれの生活実感であるこの世こそが劣った世界である。

 

その2つの世界の微妙な中間なる天の浮橋に、我々は立ち位置をとっている。従って貴賤あるからといって賤しい側を毛嫌いして捨てるのはそのバランスを失うことになることを戒めるのが主旨だと思う。

 

賤しい者がやって来たとしても、拒めたものではないだろうと老子は言っているのではないだろうか。その中にも神性が輝いている。

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