アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダ自体の中に没入する近道

2023-07-20 06:30:32 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐からの身心脱落との類似

 

OSHOバグワンが、クンダリーニ・ヨーガのことをクンダという世界全体・宇宙全体(生の世界も死の世界も含む)に、個人が肉体からスタートして、一歩一歩徐々に進んで行く迂遠な道であると、簡単に説明している部分がある。80億もの個々人は、それぞれ自分のクンダリーニのエネルギー・コードに沿って上昇し、世界全体で見れば少なくとも80億本以上のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)が束になってニルヴァーナであるクンダに向かっている構図である。各人は、クンダ到着時には、自分の岸に到達したと思い込んでいるが、その岸は実はすべてを含む一つしかない大洋の岸である。

 

個々人のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)を船と表現し、究極であるクンダのことを岸と呼ぶ表現は、道教にも古神道にもあって、インド独自のものではない。仏教でも到彼岸などと言う。

 

このクンダリーニ・ヨーガの道は、迂遠ではあるが、進捗していることがわかりやすい。これに対してOSHOバグワンは近道である『クンダ自体の中に没入する』冥想法があることを説明している。これは近道だが、近道だから簡単だということでなく、かえって困難であるとも言っている。

 

『これまで話したことはないが、もうひとつの道がある。 クンダリーニの目覚めのために一般化されていることを説明してきたが、クンダリーニはクンダ、つまり池全体のことではない。これは個々に話さなければならないものだが、もうひとつ別の道がある。世界でもごく少数の 人しかこの道をとらなかったが、それは私たちがよく知っているクンダリーニを目覚めさせる道ではなく、クンダ自体の中に没入していくものだ。それはエネルギーの一部を目覚めさせ、 それを成長のために用いるようなものではなく、クンダつまりは原始のエネルギーの貯水池に、自分の意識をそっくりそのまま溶け込ませてしまうのだ。その場合には、どんな新しい感覚も目覚めないばかりかいかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸する。その場合人は直接、神あるいは至高なるものに遭遇し、それを体験する。

クンダリーニの目覚めを通じて起こる最初の体験は、魂のものだ。それとともにあなたは、自分の魂が他の人の魂とは別個であることを知る。 クンダリーニの覚醒によって成就した人々は、普通、複数の魂の存在を信じる。彼らは、この地上に生ける存在と同じだけの魂があり、すべての人は別々の魂を持っていると言う。

 

だがクンダの中に直接没入した人々は、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もないと言う。多くのものではなく、一なるものだけが存在すると言う。なぜならクンダに身を没入することで、自分自身のクンダと溶け合うばかりでなく、すべてのクンダ、集合的な宇宙的なクンダと溶け合うからだ。クンダはひとつだ。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社p353から引用)

 

このように『クンダ自体の中に没入する』冥想法とは、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もなく、さらにどんな新しい感覚も目覚めず、いかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸するということ。つまり只管打坐からの身心脱落では、超能力、霊能力が目覚めないことが知られているが、まさにそれと同じではないかと考えられる。

西洋錬金術も漸進型の前途遼遠な道だが、「近道」があることは言及されてはいるが、それがどんなものか説明されたものを見たことがない。

このクンダ自体の中に没入する近道が、只管打坐であることを証明するには、神人合一体験のある者が只管打坐で身心脱落することで確認できると思うが、一生で二度神人合一することであり、容易ではなく、これまた次の時代に証明されることを期待するテーマである。

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シャクティパット・メモ

2023-07-05 06:56:55 | 開拓されるべき地平たち

◎男性はシャクティパットを受け取れない

 

シャクティパットには2説あって、ダンテス・ダイジは口を切るだけという説明であり、OSHOバグワンは、何らかのエネルギーを注ぎ込むという説を採る。

 

以下はOSHOバグワンの説明。

OSHOバグワンのシャクティパットの説明は、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体の4ボディをクンダリーニ上昇させるための梃子であるというのが基本線。

 

さらにシャクティパットは、クンダリーニが目覚めていない場合に、第一身体に起こり、クンダリーニが目覚める。その場合、通常数か月かけて起こるクンダリーニ上昇が数秒のうちに起こるので、最初の三つのボディが十分に準備できていない人にとっては有害になることがある。

さらにエネルギーが妨げられないように三つの身体にはつながったラインが必要である。肉体で止まると相当な害があるが、エーテル体、アストラル体まで広がると害はない。

シャクティパットは、見神見仏のために、準備ができている者には、ある程度役立つが、準備ができていない者には害になる。シャクティパットは暗夜を照らす一瞬の雷光のようなものだが、それでその先の道程を一瞥できることは、準備のできた冥想修行者には大いに助けになる。一方、準備のできていない一般大衆に直接シャクティパットを与えるのは有害となる。ところがいつの時代もシャクティパットを希望するのは、一般大衆だという皮肉。

 

事前準備は重要であって、うまい話はない。それを、楽して労せず手に入れることはできない。ただほど高いものはない。ただで何かを得ようとしてはならない。シャクティパットも例外ではない。人は受け取るのにふさわしいものしか受け取れない。

しかし、シャクティパットの事前準備とは、大金を払うことでは絶対ない。

 

ここまで説明しておいて、OSHOバグワンは、重要な原則をいくつか挙げる(例外はあるとしている)。

  1. シャクティパットを与えられるのは男性のマスターに限る。女性のマスターはシャクティパットを与えられない。
  2. シャクティパットを受け取れるのは、女性に限る。男性は受容性がないからシャクティパットを受け取れない。女性は、明け渡しが容易。
  3. シャクティパットを受け取る際に、女性は男性マスターから直接受け取ることはできない。女性は必ず間に媒介を入れ、媒介経由でシャクティパットを受けとる。(OSHOバグワンは、媒介が何かを示していないが、よりまし、シャーマンのことを言うのだろうか。)
  4. 男性と女性では微細身の性別が異なる。

男性は、肉体-男、エーテル体-女、アストラル体-男、メンタル体-女。

女性は、肉体-女、エーテル体-男、アストラル体-女、メンタル体-男。

これを以て、男性は肉体で起こるシャクティパットを受け取れず、女性だけが受け取れるという。

 

OSHOバグワンは、シャクイティパットとは別に、人を究極に導く恩寵というのがあって、恩寵は第四身体メンタル体で起こるので、男性だけが受け取れ、女性は受け取れない。なぜなら男性の第四身体は女性であって受容的だが、女性の第四身体は男性であって受容的でないから。

(以上参照:奇跡の探求Ⅱ/和尚の“シャクティパット-生体電気の神秘”の章)

 

またこの図式は、古神道で変性男子、変性女子という説明でもある。

世にシャクティパットを与える話は多いが、その真偽はよく考えるべきだろう。

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周天とクンダリーニ・ヨーガの違い

2023-07-01 07:00:01 | 開拓されるべき地平たち

◎周天は前後回転、クンダリーニは垂直上昇

 

道教では、気を回すことを周天という。周天を繰り返すことで、出神し、ニルヴァーナに至る。これは呂道賓によって知られる技法であり、柳華陽の慧命経でも伝えられている。

周天は、身体の前方部分に位置する任脈と背中部分に位置する督脈を経由して、気を回転させる。これは頭頂を頂上とし会陰を底として身体の前後に回転させるもの。この前後回転というのは、クンダリーニ・ヨーガや仏教の密教から入った人にとっては意外である。

クンダリーニ・ヨーガでは、脊柱付近にスシュムナー、イダー、ピンガラーと三つの脈管があり、中央のスシュムナーをクンダリーニが上昇すると説くからである。つまりクンダリーニ・ヨーガでは、回転ではなく上昇であり、そもそも身体の前後の管には関心がない。

経絡は、肉体レベルではなく、エーテル体レベルであって、半物質。エーテル体の全体図は傘の骨のようだというのは、経絡の全体図のイメージ。

 

そこで、任脈図とか督脈図だけを見てもわかりにくいが、スシュムナーに該当するのは、衝脈であり、これは背中の督脈のやや前方に位置する経絡である(道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P279の挿絵)。

支那にもクンダリーニは軍荼利として入ってきたが、周天はそれを承知しつつ発展させた。呂道賓は、その大成者として、眼力のある周天修行者たちに尊崇されているのだろう。逆にインドに周天によるニルヴァーナ到達技法が入っていかなかったのはどういうわけなのだろうか。

 

周天は前後回転で、クンダリーニは垂直上昇というのは、率直に両方を学んだ人なら知っているが、意外に言及している人は少ないものだ。気は半物質でエーテル体と、とりあえず説明するが、出神がエーテル体なのかメンタル体なのかはわからない。

また出神なる別ボディでニルヴァーナに到達するのかどうかもわからない。ぼんやりとした説明しかないのだ。

さらにネットで経絡関係で言及している人は多いが衝脈について言及している人は多くはない。

またクンダリーニは、最初は、エーテル体レベルの存在だが、最後にアートマンからニルヴァーナに突入していく様を思えば、クンダリーニの存在レベルは、エーテル体レベルだけではないと考えられる。

 

これら周天とクンダリーニ・ヨーガの違いも、大周天とクンダリーニ上昇を一身に両方極める人が複数出てこないと解明することはできますまい。

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屍解からモクシャ往還まで-9

2023-06-13 07:07:07 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐あるいは身心脱落の謎

 

ダンテス・ダイジの言行の中に、クンダリーニ・ヨーガと並んで、只管打坐こそ最高の冥想メソッドの一つだというものがある。

 

これは、只管打坐で身心脱落へと進むメソッドが、究極であるニルヴァーナに到達できる単純にして優れた冥想手法であることを言っている。

 

ところがいわゆる禅的悟りと言った場合、その悟りは、どんな坐法で起こるのかという点で只管打坐に関しては、怪しい議論となってしまう。

 

中国で禅は、看話禅と黙照禅に分かれ、おおまかに言えば看話禅が臨済禅の流れとなり黙照禅が曹洞禅の流れとなる。

ところが禅は達磨以来しばらくはそもそも看話禅と黙照禅に分かれていなかった。

 

また達磨、二祖慧可の頃は、多分公案はなくて、ただ坐るだけだったのではないか。

臨済宗では、数息観、公案、マントラ禅(無、隻手)などを行い、只管打坐はなかったことになっている。ところが坐法(ポスチャー)は、意識状態に対応して発生するの法則があり、臨済宗の修行者でもとある意識状態に立ち至れば、只管打坐から身心脱落は起こり得るのだろうと思う。

 

臨済系は、大応、大燈、関山、至道無難、正受、白隠と覚者がずらりと並び、ニルヴァーナ(モクシャ)に到達したことは紛れもない。曹洞宗系は、道元を一つのピークとしている。

 

禅的悟りだからと言って、臨済系の覚者たちが、最終シーン直前では、只管打坐の姿勢になり身心脱落したかといえば、そこまでは言えない。だからと言って、曹洞系の祖師たちが(只管打坐により)全員身心脱落したかと言えば、それもまた言えない。

 

冥想には、あらゆる可能性がある。そして坐らなくとも可能性があるかに見える。事上磨錬というのは、毎日仕事を一生懸命かつ精密にやることで悟る方法である。禅の六祖慧能は坐らず毎日米つきばかりやっていたが、それでも悟ったのは、その一例とも言える。

 

そのように人は、さまざまな冥想法で悟り得るが、坐る冥想でない場合もあり得ることを、冥想のあらゆる可能性という。

 

一方でダンテス・ダイジは、公案禅のジュニャーナ・ヨーガとしての可能性は認めている。また、それに併用される場合があるマントラ禅(隻手・無)などの可能性も認めている。特筆すべきは、身心脱落において、七つの身体を急速に突破しているとつぶやいていること。

 

七つの身体を突破するとは、クンダリーニ・ヨーガのプロセスであるが、身心脱落においては、そのプロセスがあまりに早すぎて途中の段階に気がつきにくいということも言っている。というのは、禅的悟りを開いた者が、釈迦と背比べしたら、釈迦の足は雲の遥か下の地獄の底まで届いているのに、自分のは短くて釈迦の背丈の上の方で足をばたばたさせているという話も出している。

 

これは、ダンテス・ダイジは、老子の悟境は禅的悟りだと見ており、急速に起こったがゆえに、高さは十分だが深さは今一歩であると見ていることを言っている。

 

この辺は、論証も追実験も容易ではないが、いつかやってくれる人も出てくるのではないかと思う。

 

釈迦臨終時に、四禅から出て最後涅槃に入ったなどというのは、おそらく事後にそれを見に行った人物が確認したからこそ言えることだと思う。そのように只管打坐あるいは身心脱落にまつわる謎を解明してくれる人が出ることを期待したい。

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屍解からモクシャ往還まで-8

2023-06-05 03:30:42 | 開拓されるべき地平たち

◎肉体を残したままニルヴァーナに入り、肉体に回帰する-2

 

2.ダンテス・ダイジ

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版』によると、

クンダリーニ冥想を行い、

  1. 三柱の神霊が本人の封印を切る
  2. クンダリーニが各ボディ(肉体からアストラル体など)を上昇していく。
  3. メンタル体で肉体を離脱。
  4. クンダリーニが各神霊界(アストラル界、メンタル界など)を上昇。
  5. アートマンがブラフマンに合一
  6. モクシャ(ニルヴァーナ)
  7. 肉体に帰還

 

これは、個たるクンダリーニのエネルギーコードがニルヴァーナに合体して、その後帰還するということ。

ここまで詳細に書いてくれた人は他にはない。

 

生死を越えると言えば、わかったような気になる人も多いだろうが、それは彼我を越える、男女の別を越える、天国と地獄を越える、選り好みをしないという事であって、実はわかりにくい。輪廻転生の実情やニルヴァーナなる神と人間の関係などその知的理解の基盤となるようなある程度の確信がないと、想像もできにくいことなのだろうと思う。

 

また、ニルヴァーナに突入した場合、人間として帰還しないものだと書いている人は少なくない。だが、禅の十牛図では、最後にきっちり帰還している。その消息について、インドでは、ニルヴァーナに突入後に人間として帰還することに関心がないが、中国・日本では関心がある、とダンテス・ダイジは説明している。

 

このクンダリーニ上昇のプロセスについては、超能力・霊能力始めいろいろな悪用のされ方もあるし、またこの冥想修行を我流でやったり、わかっていない師匠についてやったりして、あたら人生を棒に振る可能性もある。それでなくても最近は、スピリチュアルに関心ありますとか天国に興味があると言った瞬間に、カルトや詐欺師が引き寄せられるの法則があるそうだから、難しい時代になった。

 

それでも本当に本物や納得できるものを求めたいという気持を持ち続けている人は少ないながらもいるものだと思う。

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屍解からモクシャ往還まで-7

2023-06-04 06:20:27 | 開拓されるべき地平たち

◎肉体を残したままニルヴァーナに入り、肉体に回帰する-1

 

尸解では、肉体消滅シーンあるいは肉体縮小シーンがつきものである。これらを有から無に向かうものとすれば、何もないところから肉体を生成するという無から有の逆方向の事象も呈示した。何もないというのは死の側で、肉体があるというのは生の側とすると、以上の2ケースは、共に生死を意図的に超える自由を実証する点においては共通している。

 

それらに対して、『肉体を残したままニルヴァーナに入り、その後肉体に回帰する』というものがある。これもニルヴァーナという死の世界に肉体を置いたまま到達し、再び肉体に帰還するということで、生死を超越し、それを実証するという点では、これまた同様の技法と見ることができる。

 

それについて、柳華陽とダンテス・ダイジの例を挙げる。

 

1.柳華陽

道教の柳華陽の慧命経に、微細身が肉体から離脱して、妙道(クンダリーニのエネルギーコードか)を上昇して「有」(アートマン)を出て「無」(ニルヴァーナ)に入る(面壁図第七)。

さらに心印懸空月影浮(大悟した心は月のように空に浮かぶ)、筏舟到岸日光融(有なる筏舟は太陽の岸に着いて融ける)と、有は無に転ずることを示す。

最後の粉砕図第八は、一円相(ニルヴァーナ)。

 

全体としてダンテス・ダイジの示したクンダリーニ上昇の秘儀に、とてもよく似ている印象がある。五番目の出胎図で体外に出たボディをメンタル体と見れば、ダンテス・ダイジの説明に似てくる。

 

チベット死者の書の無上の垂直道は、ダンテス・ダイジの言うニルヴァーナへの無上の垂直道であって、ここでは妙道として表現されているかに見える。

柳華陽は、このような世界の秘密、あるいは体験とは言えない体験をして生還したから慧命経を書き残せたのだ。よって柳華陽は、肉体を置いたまま、ニルヴァーナという死の世界に到達し、再び肉体に帰還するという離れ業をやってのけたと見ることができる。

 

ただし、生死を超える三種の方法の外形が、いずれも自分個人という肉体を中心にまわっているような説明をしているところは、霊がかりな考え方に陥りがちなので、そこは注意すべきだろう。

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屍解からモクシャ往還まで-6

2023-06-03 06:36:48 | 開拓されるべき地平たち

◎虚空からの肉体形成

 

尸解は、有から無の方向への肉体変成だが、これに対して無から有の方向への肉体変成の例もある。

ここでは、イエス・キリストの弟子ディディモのトマスとババジの弟子ラヒリ・マハサヤのケースを挙げる。

 

1.ディディモのトマス

十二使徒の一人ディディモのトマスは、イエスが復活して来られたとき、他の使徒と一緒にいなかったので、会いそびれた。そこでディディモのトマスは、言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」

 

さて八日の後、弟子たちは家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。

イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じた人は幸いである。」

《ヨハネによる福音書20章24~29節》

 

現代科学は、見て触れて信じるのが基本原則だが、かつまたカルトや様々なマインドコントロールにやられないためには、見ないのに信じるのは一般には危険とされる。

そうすると、何が正しく何が邪なのかを判別するのは、直観ということになるが、一言で「見ないのに信じる」のがベターと言われてもなかなか難しいところがある。

 

またイエスは岩の洞窟の墓に葬られたのだが、遺体が既になくて、イエスの遺体を包んだ亜麻布だけが残っていた。

屍解をよく知っている者にとっては、遺体は空中に煙のように分解し、跡に服や毛髪だけが残るという屍解の定番の進行に似ている。そういう目で見れば、イエスは死後三日間で屍解を行ったのではないかと思われる。

 

イエスは、尸解を行い、逆方向の肉体再形成もしてみせたのかもしれない。

 

2.ラヒリ・マハサヤ

ラヒリ・マハサヤは20世紀の人物。かれはヒマラヤの山奥でクリヤ・ヨーガの秘伝をババジから受けた。その際、どこで呼んでもババジが出現するという許しを得た。

 

その後まもなくのこと、ラヒリ・マハサヤが働いていたモラダバードの役所の友人たちに、うっかりババジのことを洩らしたところ、友人たちはババジの存在を信じなかった。

 

そこでラヒリ・マハサヤがババジを呼び出すと、その密室にエーテルから肉体を出現させ、友人達にババジは肉体に触れさせた。

そしてまもなくババジの肉体は光の蒸気のように消えた。

 

この一件でラヒリ・マハサヤはババジに叱責され、今後は呼んだ時はいつでも来るのではなく、必要な時には来ることに格下げされた。

(参照:あるヨーギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP320-325)

 

生と死を出入自在のババジであれば、このようなことは朝飯前だと思う。

 

3.ババジについて

ババジは、世が爛熟を極めた時だけに短期間にこの世に出現する神人(アヴァターラ)であって、歴史の表舞台に出てこないことと、一般人のように出産と肉体死という一生のプロセスをとらず、真剣な求道者の必要に応じて時折出現し消えるのが特徴。アヴァターラの本来の意味は、そういうものなのだと思う。

 

ババジの直弟子としては、ラヒリ・マハサヤ、スワミ・ラーマ、ダンテス・ダイジが挙げられる。密教系の秘儀の相承は、肉体を持たない師匠から弟子に行われることがままあるので、その伝で言えば違和感はない。

 

また世の中にはほとんど誰にも知られない聖者覚者もいることも忘れてはならないと思う。

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屍解からモクシャ往還まで-5

2023-06-02 05:50:23 | 開拓されるべき地平たち

◎求道と逆方向の物質に非ざる肉体操作という逆説

 

そもそも広義のクンダリーニ・ヨーガの極みとは、人が神になること。一(個)が全となり、全が一となる神人合一。よって、屍解のような一見一対一だけの流れは窮極とは関係がないように見える。

 

ところが、パラマンサ・ヨガナンダは、大聖クリシュナのバガヴァッド・ギータの中の以下の言葉を引いてクンダリーニ・ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)の本質と見ているようだ。

『至高の目標を求めつつ、視線を内なる眉間の一点に固定し、鼻孔と肺の内を流れるプラーナとアパーナの均衡した交互の流れを制止することによって外界の刺激を断ち、感覚と理知の働きを制し、我欲と恐怖と怒りを追放せる瞑想の熟練者(ムニ)は、永遠の解脱を得るに至る』

(あるヨーギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP244から引用)

※広義のクンダリーニ・ヨーガ:

 クリヤ・ヨーガ、古神道、道教、日本密教、チベット密教、ユダヤ教、西洋錬金術など。

※プラーナ:生命力(気)

※アパーナ:体内の老廃物を排除する機能を営む生命力(気)

 

これは、プラーナとアパーナという気のコントロールで生命力を統御し解脱に至るとし、気のコントロールがニルヴァーナに至る中心テクニックであることを明かしている。最終目標は、ニルヴァーナへの到達だが、それが練達のクンダリーニ・ヨーガ行者が見せる臨終が屍解であることどのような関係があるのだろうか。

 

これは、尸解であることを周辺に知らせているのだから、明らかに後進の求道者に見せている。そしてその意図は、人間は肉体という物質すら意のままに操ることさえできるということを示すということではないか。

物質を意のままに操れるということを知れば、人は自分のために悪用しようとすぐ考えがちなものだから、聖者たちは、尸解のタイミングを臨終に置くことで、そうした邪な願望を未然に阻止する。

 

人は髪の毛一本白くも黒くもできない。さらに聖者たちはそうした超能力を駆使する時は、天意天命の命ずるままの場合のみであり、我欲に随って超能力を用いることはない。

 

さらに馬には鞭を見せただけで走る馬もいれば、実際に鞭で叩かれなければ走らない馬もいるように、人にとっても究極を直感するには、百聞は一見に如かずということがある。そこで、ことさらに尸解を見せることが、相当に冥想修行が進んだ者にとっても、そういうものを信じない者にとっても必要だと聖者たちは考えたのだろうと思う。

 

密教家、超能力者は、何のために霊能力、超能力を見せるかといえば、自分の欲得のためでなく、他の人間を利するためという千古不易の基本原則がある。

 

他の人間を利するということであれば、肉体や物質上の現実操作は避けて通れない部分がある。

悟りに向かう修行において、一般に肉体や物質上の願望実現は二の次に置かれるが、密教者あるいは、広義のクンダリーニ・ヨーギがその人生の最後において尸解を見せるのは、逆に肉体や物質も重要であることを示しているように思う。肉体がありながらの大悟覚醒というのも、生身の人間にとってはのっぴきならない現実なのだ。

 

人は物質・肉体でないニルヴァーナを志向するものだが、死に際して肉体を縮小したり消したりするという尸解という肉体操作を逆説的に行うことを、その道のメルクマールとして置いていることは不思議なことである。

 

なおパラマンサ・ヨガナンダは“あるヨーギの自叙伝”で、虚空からものを取り出すアフザル・カーンなど超能力悪用の事例も上げ、悟りと関係ない超能力が危険なものであることも説明を忘れていない。

 

人は超能力と言えば自分と関係のないことだと思う人も多いのだろうが、他人の視線を感じるというのも立派な超能力だし、ある願望を立てて努力し実現していくというのも無から有を成すと言う意味で立派な超能力と言えないこともないと思う。

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屍解からモクシャ往還まで-4

2023-06-01 05:46:46 | 開拓されるべき地平たち

◎葛玄、アチョク

 

屍解の例の続き。

8.葛玄

葛玄は、中国後漢末期から三国時代の呉の道士。

『弟子の張大というものに語ったことには、「私は、天子に無理にひきとめられて、丹薬を作る暇もなかった。これから尸解(しかい)するつもりじゃ。8月13日の日中に発つことに致す」と。

 

その日になると葛玄は、衣冠を整えて室に入り、横になったまま息が絶えたが、顔の色には変わりがなかった。弟子たちが焼香しながらこれを守ること3日。夜半にわかに大風が吹き起こり、屋根をめくり樹木を折り、雷鳴のような音がして、炬火(たいまつ)も消えた。

 

しばらくして風は歇(や)んだが、見ると忽然として葛玄の姿は消えており、ただ床の上に衣服が遺され、帯を解いた形跡もなかった。翌朝隣家に訊いてみたが、隣家の人の話では、大風なんかまったく吹かなかったとのこと。風が歇むと、ただ一軒の家だけが、垣根も樹木も悉く吹き折られていた。』

(抱朴子、列仙伝・神仙伝、山海経/平凡社P416から引用)

 

9.アチョク

1970年頃の話。アチョクというチベット人行者が、

『ある日弟子たちに、「ダライ・ラマ法王の長寿を願う儀式を行いなさい」と命じた。

そして儀式が終わると、「わたしは、逝く」と宣言して、皆を驚かせたのです。

 

彼は僧衣をまとい、七日のあいだ自分を部屋に閉じ込めておくように言いました。弟子たちが師の言葉を忠実に守り、一週間して、部屋に入って見ると、師の姿は完全に消え、僧衣だけが残っていたそうです。

 

ダラムサラのわたしのもとに、弟子のひとりと、彼について修行をしていた者が、訪ねて来て、その話をし、残された僧衣の一片を贈ってくれました。』

《ダライ・ラマ死と向き合う智慧/地湧社/ダライ・ラマP179から引用》 

※わたし:ダライ・ラマ。

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屍解からモクシャ往還まで-3

2023-05-31 03:44:46 | 開拓されるべき地平たち

◎シャルザ・タシ・ギャルツェン、董仲君

 

屍解の例の続き。

 

6.シャルザ・タシ・ギャルツェン

シャルザ・タシ・ギャルツェンは、19世紀半ばのボン教僧。出生は、東チベットのカムだから、今の四川省。

彼は12歳にして受戒し、まだ少年であった時に師であるテンジン・ワンギャルに、風を押しとどめるべく剣を持っているように言われて剣を持っていると、師はその剣を力づくで奪い取り、その剣で彼をしたたかに打ったところ、彼は意識不明に陥った。やがて彼が目覚めると、師と同レベルで心の本性(アートマン)が理解できるようになった。これは、禅でいう見性。

 

34歳卍山に冥想小屋を建て、孤独に冥想に専念した。これは一時期であって、彼は基本は僧院にあって後進の指導をしたり著作をしたりして、75歳まで暮らした。

75歳になって漸く、重要な論題だけでなく、一般的な教えや助言を与えるようになり、どんな贈り物でも受け取るようになった。

 

76歳の時、隙間のないテントに入り、絶対に開けないように弟子たちに命じて、結跏趺坐でテントに座った。弟子の一人が聖遺物欲しさに何日か後にテントを開けると、その肉体は1歳の子供ほどの大きさに縮まっていたという。

(参考:智恵のエッセンス/シャルザ・タシ・ギャルツェン/春秋社P29-36)

 

7.董仲君

『董仲君は臨淮(安徽省)の人であった。若年より呼吸を整え、身体を鍛練して、歳百余歳になっても老けなかった。

 

ある時無実の罪で誣告され、牢に繋がれたが、死んだふりをして、腐爛して蛆がわいた。牢役人にかつぎ出されてから生き返り、尸解して去った。』

(平凡社/中国の古典シリーズ/抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経P441より引用)

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屍解からモクシャ往還まで-2

2023-05-30 03:03:30 | 開拓されるべき地平たち

◎朱橘、パオハリー・バーバー寇謙之

 

屍解の例の続き。

3.朱橘

朱橘は、淮南の人で翠陽と号す。宋の理宗皇帝の淳祐二年、朱橘は、郷人の陳六に対し、自分は県庁の官舎の前で仙化するので、その際身体を清い土で上から覆ってくれと頼んだ。

やがてその日になって、朱橘の遺骸を陳六が泥で覆った。するとそこに酔っ払った警官がやってきて、その遺骸を見て大いに笑い、杖でもってこれを突き崩し、ぐしゃぐしゃにした。すると泥土は四方へ散ったが、朱橘の遺骸は見当たらず消え失せていた。

 

4.謙虚の聖者パオハリー・バーバー

パオハーリー・バーバーはベナレスの近郊でバラモンの両親のもとに生まれた。青年時代に、彼はインド哲学の諸学派を学んだ。のちに彼は世を捨てて、禁欲生活に入り、ヨーガやヴェーダーンタの教えを実践し、そしてインド中を旅して歩いた。最後に、彼はガージープルに落ち着き、その町のガンジス河畔の人目につかないところに小屋を建て、時間のほとんどを瞑想のうちに過ごした。

 

死ぬ前の数日間、家に閉じこもっていた。それから、ある日、肉の焼ける匂いと一緒にひっそりとした小屋から、煙の立ちのぼっているのに人びとは気づいた。この世の終わりが近づいているのを知った聖者は、至高の犠牲(いけにえ)として、主への最後の供物に自分の肉体を捧げたということが発見されたのである。

(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯 スワミ・ニキラーナンダ/著 法律文化社P95から引用)

 

5.寇謙之

 寇謙之は、442年、道教を北魏の国教にすることに成功した人物。

幼少の時仙人の成功興について修行。嵩山、華山を遍歴し、嵩陽に定住した。

ある日彼は、師匠の成功興のことを夢に見たと語り、天帝に召されて嵩山の仙官に任ぜられたことを告げるとそのまま死去した。

 

その際、煙のような青い気が口から出て、高く空中に立ち昇り、半ばにして消えると、彼の身体は見るみる縮小し、ついにはその姿は消えてしまった。

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屍解からモクシャ往還まで-1

2023-05-29 06:33:30 | 開拓されるべき地平たち

◎孫不二、普化

 

屍解とは、死に際して肉体を虚空に消滅させること。分解しきれずに髪や爪が残るケースもある。所要時間は、およそ数時間から1週間とまちまちである。

何よりも疑問なのは、その狙いである。

そして特徴的なのは、屍解は宗派の垣根を飛び越えて様々な宗派で見られるということ。

そして屍解そのものもいろいろな種類があるように見える。

 

それらの動機、プロセス、技法も勿論謎だが、ここでは、敢えて屍解の狙いと所要時間を『開拓されるべき地平たち』として挙げる。

 

屍解は、神秘生理学的事象であって、大っぴらに公衆の面前で行われることはないが、逆に大衆に知らしめることもまた企図されている。

 

悟りを目指し、神人合一に向かって日々努力するというのは、精神的な行為がメインのはずだが、聖者、覚者、成道者の一部が肉体変成による屍解という奇妙な技を古今東西にわたって見せているのは、実は何か重要な意味があるに違いないと思う。

 

屍解の例:

 

1.孫不二

孫不二は、金代の女性道士。1182年12月29日、彼女は、自らの死期を悟り、斎戒沐浴し、遺偈を歌った後、蓮華座に座り、太陽が天頂に達したことを確認して後、屍解したという。

屍解の所要時間は不明。

 

2.普化

普化は、唐代の人で、臨済禅を興こした臨済義玄より一枚上手の禅者。

ある時普化が、「俺もそろそろ冬支度なんかで、ちゃんとした服装がほしくなった。」と言い出した。すると周りの本当に普化の価値をわかっている檀家が、きれいな衣を普化にあげるが、普化は「そんなもの駄目だ」と断る。

 

そうすると臨済だけがわかって、棺桶を作ってあげた。

普化は「臨済が俺の服を作ってくれた。」

「臨済が俺の服を作ってくれた。」と言って棺桶にひもをつけて、引きずりながら、村中を練り歩く。

それを見に村の野次馬が集まったところで、普化は、「俺は、明日北の門で死ぬことになる。俺は午後3時に死ぬぞ」と宣言する。

 

翌日午後3時、物見高い村人が、北の門にそれはそれは大勢集まった。ところが普化は大分遅れてやってきて「今日はちょっと日が悪いな。うん明日にしよう。俺は、明日南門で死ぬから。」とまたも予告する。

 

その翌日午後3時、好奇心旺盛な村人が、南の門にそれは大勢集まった。ところが普化は大分遅れてやってきて「今日はちょっと肌寒いしな。うん明日にしよう。俺は、明日東門で死ぬから。」と予定変更する。

 

そのまた翌日午後3時、本当に物好きな村人が、東の門に若干名集まった。集まった村人は、「普化は、きちがいだとか聖者だとか言われているが、さっぱりわからないけれど、死ぬ時にはわかるかもしれない。」などと考えている。

ところが普化は遅れてやってきて「今日もちょっと調子悪いなあ。うん明日にしよう。俺は、明日西門で死ぬから。」とまたも延期する。

 

そのまた翌日午後3時、西門には誰も来なかった。普化が棺桶を引っ張ってきて、周りを見ていると、一人の旅人が通りかかる。普化がその旅人に「頼むからここに穴を掘って、俺が棺桶に入ったら、そこに釘を打って、それから埋めてくれればいいから。」と頼む。

それで、普化が棺桶に入って、釘を打ってもらって、土をかけてもらった。

 

旅人はびっくりして、「なんか乞食坊主みたいなのが、西の門の原っぱで生き埋めにしてくれって言うから、そのとおり、棺桶に入れて生き埋めにしたけれど、あれどうなっているんだ。」などと言うと、村人は、驚いて西門に駆けつけて、掘ってみると棺桶に釘が打ってある。それをこじ開けて中を見ると草履が片方残っているだけで、もぬけの空。そして突然ちりーん、ちりーんと音がして、ずっと空の方に上がっていって、『ワッハッハッハ』なんて大笑いが聞こえてくる。

 

(これは、もともと臨済録に出てくる話で、ダンテス・ダイジが座談で語ったもの(素直になる/ダンテス・ダイジ講話録4/P162-165参照)をアレンジ。)

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