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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

なぜ人間はみな問題を抱え、不幸を抱えているのか?-4(完)

2025-03-07 03:19:56 | 開拓されるべき地平たち

◎少なくとも自分自身を幸せにするために冥想を

 

OSHOバグワンの、パタンジャリのヨーガ・スートラ巻末(Yoga The Alpha and the Omega CHAPTER 10. I AM IN FAVOR OF LOVE)の問答の回答の続き。

ポイントは、以下。

  1. もしあなたが真実でないなら、今あなたは不幸である。
  2. 人々は幽霊のように生きているからこそ、彼らは惨めなのだ。
  3. 注意深い人は、自分が幸せであり続けるように反応し、他の人に不幸を引き起こさないようにしている。あなたが助けることができるなら、他の人を幸せにしよう。それができないなら、少なくとも自分自身を幸せにしよう。
  4. 自分が幸せになるには、意識を高め、瞑想し、自分が惨めで不幸になるためのすべてのコントロールを手放さなければならない。

 

※社会全体がお互いが惨めで不幸になるように出来上がっていることは明らかになった。それに気づいた時に、社会の中で、蓄財したり、社会的地位を得たり、名誉を得たりしようとすることは、“天国と地獄の間の往復である生存競争”の無限の繰り返しであって、一時的に幸福になるかもしれないが、結局は不幸への道である。

そこで幸福の道とは、OSHOバグワンは、『意識を高め、瞑想し、自分が惨めで不幸になるためのすべてのコントロールを手放さなければならない。』と説くものの、普通の人は、瞑想し、意識を高めても、一時幸せな気分になるだけだろうと思う人が多いのだろうと思う。

ところがOSHOバグワンは、冥想により、最低でも見神、見仏、できれば神人合一(ニルヴァーナ、カイヴァリヤ)まで行くことを求める。そこだけにしか、真実の永遠不壊の幸福の道はないからである。

つまり、

(1)あなたの不幸には、あなた以外には誰も責任がないという気づき。

(2)社会全体がお互いが惨めで不幸になるように出来上がっていることへの気づき。

(3)“天国と地獄の間の往復である生存競争”の無限の繰り返しを脱却する方法は、冥想により、神仏を知ることしかないと、気づく。

※気づきを、ここでは3例だけ上げたが、気づきの種類も深まりも人によって異なる。気づきから瞑想にすすむ理由は、論理でなく、飛躍している。飛躍しなければ先がないと直観できるかどうか。

(4)メリットを求めない冥想を始める。

(5)冥想の深まりにより、大悟覚醒した正師に出会う。(以後の展開は、水平の道、垂直の道で異なる)

(6)冥想の深まりにより、天国と地獄を越え悪魔の誘惑をも退ける。

(7)意識の絶対的な極限状況を通過。

(8)冥想により神人合一する。

(9)生還すれば、真人間として自分らしく生きる。

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なぜ人間はみな問題を抱え、不幸を抱えているのか?-3

2025-03-06 03:25:40 | 開拓されるべき地平たち

◎皆が惨めで不幸な人々がいる社会に、あなたは生まれたが、気にせず悟りを目指す

 

OSHOバグワンの、パタンジャリのヨーガ・スートラ巻末(Yoga The Alpha and the Omega CHAPTER 10. I AM IN FAVOR OF LOVE)の問答の回答の続き。

 

ポイントは以下。

1.不幸で惨めな人々で構成されている社会では、幸せな人は見知らぬ人で、私たちは幸せな人たちと一緒にいると決して安心できず、どういうわけか、それらは私たちのエゴを非常に傷つけるので、私たちはソクラテスを毒殺し、イエスを殺し、マンスールを十字架につけた。

2.幸せなイエスに対して、あなたは敵対心を感じるが、逆に十字架につけられたイエスには同情することができるので、シンボルとして十字架が使える。まず幸福な人は破壊されなければならず、幸せな人を崇拝した人は誰もいない。だから、笑い踊るイエス像は崇拝も同情もされない。彼らはイエスを殺し、十字架につけ、それ以来彼を崇拝している。今ではイエスは扱いやすくなり、崇拝も同情もされる。

3.同様に、踊ってフルートを吹くクリシュナには、ヒンドゥー教徒でも多少の罪悪感があり、ジャイナ教は、クリシュナは地獄に落ちたという。このように、聖者ですら惨めなままであることが世間に期待されるが、そのような社会では、1 つの悲惨な状況が止むと、別の悲惨な状況が生み出され続ける。だからこそ人々は惨めで不幸なのだ。

4.本来、あなたの幸福はあなたの運命で、誰もそれに干渉する権利はない。あなたは、幸せになることに全力を注ぎ、他人のことを気にしないのがよい。しかし、社会は惨めになるように干渉し続ける。それは悪循環だが、皆が惨めで不幸な人々がいる社会に、あなたは生まれたのだ。

5.『本当に幸せになりたいなら、若く、生きていて、泣いたり笑ったり、あらゆる次元に対応し、流れ、流れ続けなければなりません。そうすればあなたは幸せなままになります。ただし、同情は得られないことを覚えておいてください。人々はあなたに石を投げるかもしれませんが、それはそれだけの価値があります。人々はあなたを無宗教だと考えたり、非難したり、悪口を言ったりするかもしれませんが、心配する必要はありません。それは問題ではありません。重要なのはあなたの幸せだけです。 』

※OSHOバグワンは、こう言っているが、これはやや無理筋で、社会が受け入れないだろうし、果たしてOSHOバグワンは、アメリカで毒を飲まされ世界中から村八分になった。

6.生存していくためには、自分の生命エネルギーを硬直させたり、萎縮させて、いわば偽善者として生きねばならない。ところが、幸せとは自分の生命エネルギーに忠実であること。幸福は真実であることの機能。幸せはどこかにあるわけではなく、行って得るもの。幸福はどこかであなたを待っているわけではなく、あなたが道を見つけてそこに到達しなければならないもの。幸福は真実で本物であるかどうかによって決まる。あなたが真実であるときはいつでも、あなたは幸せ。あなたが真実でないときはいつでも、あなたは不幸になる。

※生存していくためには、自分を偽らなければならないが、そこで、自分を偽らず、幸せとは自分の生命エネルギーに忠実であることと説く。これは、いわば自分が生存できようができまいが、そこは気にせず、自分が真実で本物であれば幸福だと言っている。つまり悟りを得さえすれば幸福だという主張だが、天国と地獄の間の往復である生存競争には負けて惨めに思っている人が多いが、“天国と地獄の間の往復である生存競争”を意に介しないことが、悟りの一歩目であることは、論理飛躍のせいか説明がない。

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なぜ人間はみな問題を抱え、不幸を抱えているのか?-2

2025-03-05 03:40:40 | 開拓されるべき地平たち

◎あなたの不幸には、あなた以外には誰も責任がない

 

OSHOバグワンの、パタンジャリのヨーガ・スートラ巻末(Yoga The Alpha and the Omega CHAPTER 10. I AM IN FAVOR OF LOVE)の問答の回答の続き。

ポイントは、以下。

1.既知の古い道は、既知のことに対して無意識でいられ、ほとんど眠ったまま行動でき、無意識のうちに、無警戒で行けるので、快適さもあり、だからこそ人々は、意識する必要のない古い道をたどろうとする。

2.新しい道を選択すれば、成長がある。成長は、新しい間違いを犯す可能性を伴いながら、新しいものに対応できる状態にある場合にのみ起こるので、新しい間違いを犯す能力と勇気を持つことが必要。

3.効率を高めると古い道を何度もたどることになる。効率化が気づきを犠牲にして起きるならば、あなたは不幸なままになり、不幸はパターン化し、循環に陥るだけ。一つの不幸があなたを別の不幸に導くようになる。不幸に気づくのは祝福につながるが、生き方としての不幸は呪いである。それを自分のライフスタイルにしないこと。それを自分のライフスタイルにしている人もたくさんいると思うが、彼らは他の生き方を知らない。あなたが彼らに言っても、彼らは聞き入れない。

4.彼らは、 カルマの理論は、あなたに起こっていることはすべてあなたの仕業だと言っているだけ。無意識レベルのどこかで、あなたはそれを作り出しているに違いない。 なぜなら、外側からは何も起こらず、すべてが内側から発生しているから。あなたが悲しいなら、あなたの心の奥底のどこかで悲しみを生み出しているに違いない。

5.もしあなたが惨めであるなら、自分の惨めさについて、そしてそれをどのように作り出しているかについて瞑想してください。あなたはいつも自問する、「不幸の責任は誰にあるのか?」。あなた以外には誰も責任を負わない。もしあなたが夫なら、妻があなたの不幸を作り出しているのだと、心はあなたに言い続ける。あなたが妻なら、夫があなたの不幸を作り出していると言い続ける。あなたが貧しいなら、金持ちがあなたの不幸を作り出していると言う。常に責任を他人に押し付けてしまうのだ。

6.つまり、あなた以外には誰も責任がないということ。この基本原則を理解すると、状況が変わり始める。もしあなたが自分の不幸を創造していて、それを愛しているなら、創造し続けてください。それから問題を引き起こさないでください。あなたに干渉するのは誰の仕事でもありません。悲しくなりたいなら、悲しいのが好きで、完璧に悲しくなりましょう。でも、悲しくなりたくないなら、悲しむ必要はありません。このように、自分がどのように悲しみや惨めさを生み出しているかに注目してください。

7.そのパターンとは、(1)人々は絶えず自分の気分を作り出している。(2)あなたは他人に責任を押し付け続ける。(3)そうすればあなたは決して変わらず、惨めなままになる。なぜなら、他の人が変わらない限り状況は改善しないので、責任を他人に押し付けることで、あなたは他人の奴隷になってしまうから。自分の責任は自分自身で負うべき。

8.まったく不条理なことだが、幸せな人に同情する人は誰もいない。かえって、人々は幸せな人に対して敵意を感じる。実際のところ、幸せになって、幸せを表現することは、人を非常に大きな危険にさらすことになり、誰もがあなたの敵になるだろう。なぜなら誰もが「どうして私は不幸なのに、あなたは幸せになったの?」と感じるから。不幸で惨めな人々で構成されている社会では、幸せな人は見知らぬ人である。だからこそ、私たちはソクラテスを毒殺し、イエスを殺し、マンスールを十字架につけた。

 

※上記3.の『不幸に気づくのは祝福につながる』というのが、天国と地獄の往復を越えていく一歩目だが、あまり強調されてはいない。『効率化が気づきを犠牲にして起きるならば』の気づきも不幸に気づくこと。

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なぜ人間はみな問題を抱え、不幸を抱えているのか?-1

2025-03-04 07:37:15 | 開拓されるべき地平たち

◎皆、幸福になれるがなれず、天国と地獄の間を往復

 

『なぜ人間はみな問題を抱え、不幸を抱えているのか?』

この疑問は、最初にあってかつみんなに共通しているが、その情熱が結局、究極にまで届かないのが、現代の問題である。皆、幸福になれるがなれないという、天国と地獄の間を往復しているだけなのだ。

奇しくも、OSHOバグワンが、パタンジャリのヨーガ・スートラ巻末(Yoga The Alpha and the Omega CHAPTER 10. I AM IN FAVOR OF LOVE)の問答に回答を出してきている。

ポイントは、以下。

1.人間は非常に幸福になれるので、その可能性が存在し、したがって人間は不幸になる。動物、鳥、木、岩など、人間ほど幸せになれる人は他にいない。あなたが幸せになれる、永遠に幸せになれる、至福の山の頂上になれるという可能性、その途方もない可能性が不幸を生み出す。

2.不幸は悪いことではない。それはまさにあなたを頂上へ連れて行く力だから。人は、不幸でなければ動くものではない。頂上で輝く太陽が挑戦のきっかけになり、頂上の存在自体が到達したいという狂った衝動を生み出し、可能性そのものがあなたに探求と上昇への努力を引き起こすから。

3.比較があって、可能性が見えて、そして現実は厳しい。人はより敏感であればあるほど、より不幸になる。また人は注意深くなればなるほど、悲しみを感じ、何も起こらず行き詰まっているという可能性や矛盾を感じる。

4.人は自分が種であることを意識している、そして成長して木になる可能性がある。ゴールはそれほど遠くない。そのことはあなたを不幸にするが、それは良い兆候。不幸を深く感じることが第一歩。

5.釈迦は、身近に生老病死を見て、頂上に到達したいという大きな願望が芽生えた。その峰は、神、カイヴァリヤ、モクシャ、涅槃と呼ばれる。しかし、その頂点は種子のようにあなたの中に存在する。

6.一方、バカは苦しまない、鈍感は苦しまない。彼らは、少しお金を稼ぎ、小さな家を建てるなど、普通の生活ですでに幸せ。彼らの可能性はそれだけ。だから、これが目標であってはいけない、これが運命であってはいけないと気づいているなら、そのとき、鋭い剣のように大きな苦しみがあなたの存在に入り込むだろう。その苦しみは、あなたの存在の芯まで浸透していく。あなたの心の中で大きな叫び声が上がり、それが新しい人生、新しい生活スタイル、新しい人生の基盤の始まりとなるだろう。不幸だと感じることは至福であり、祝福だ。そう感じないのは鈍い人。

7.人間が悲惨な状況に留まるのは、自らのために悲惨さを生み出し続けるから。不幸になるのは良いことですが、不幸を超えようとさせるから良いことなのだ。しかし、それを超えなければダメ。 人々が、自分の不幸のパターンを作り続ければ、悲惨な状況に留ったまま。

8.人々は、心が変化に抵抗するから、自分の不幸のパターンを作り続ける。人は、人生の各ステップで、これまで歩んできた古い道を歩むのか、それとも新しい道を選ぶのかを決断しているが、多くは古い道で、それは不幸の繰り返し。よって、常に新しいものを選択すべきである。おそらく新しいものはさらなる苦しみを生み出し、新しいものは道に迷うかもしれないが、それは単なる過去の繰り返しではなく、新しいものには、学び、成長し、可能性が現実になる可能性がある。

9.新しい道は、不快で、不安だが、もっと注意力を高め、意識する機会を与える。一方古い道の方が効率が良く、隅々まで知られている。あなたは何年も、あるいはおそらくたくさんの人生をかけて古い道を旅してきた。それは、ますます効率的になるだろう。ところが、効率を高めると古い道を何度もたどることになる。

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クンダリーニの取扱-7(完)

2025-02-21 03:34:01 | 開拓されるべき地平たち

◎あなたは、無意識のうちに自分に最適、最短の冥想法を選ぶ

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. 現代は、宗教、文化の混淆した時代なので、私たちにはどのタイプにも属さず、すべてのタイプが使用できる新しい方法が必要。
  2. あなたは、無意識のうちに自分に最適、最短の冥想法を選ぶ。
  3. 逆に、意識的な心によってのみ、あなたはどこにも通じない道や、到達する前に死んでしまうほど長い道を選び始める。

 

それはそうかもしれないが、準備ができていないということはあるし、耐えられないルートは選ばないものではないだろうか。

 

『(仮訳)

そして、来るべき世界、そして今日の世界においても、このような柔軟な方法だけが使われることができます。なぜなら、現在では非常に多くの種類の人々がいるからです。古い世界では、そうではありませんでした。特定の地域には、特定のタイプの人々が存在していました。もしヒンドゥー教徒がいたなら、そこにはヒンドゥー教徒しかいませんでした。イスラム教徒はいませんでした。実際、彼らは互いのことを聞いたことさえありませんでした。彼らは互いの慣習について知らなかったので、混乱することもありませんでした。彼らは単一のタイプでした。もしチベット仏教徒がいたなら、彼らはチベット仏教徒であり、他のことについては何も聞いたことがありませんでした。皆の条件付けは同じで、皆同じ環境で育ちました。ですから、一つの方法が必要であり、それが機能しました。

 

今、それはすべて困難です。心は混乱しています。実際、単一のタイプはありません。誰もが多種多様なタイプです。非常に多くの影響、矛盾する影響があります。すべての宗教は「他の人を学んではいけない。他の教師のところへ行ってはいけない」と言います。それは単なる独断主義ではありません。独断的に見えるかもしれませんが、基本的には自分たちのタイプを守るためでした。これは不必要な混乱につながりました。そうでなければ、どの方法も完全に使われることはなかったでしょう――あれもこれも。これは、人が混乱しないようにするために行われましたが、今ではそれは不可能です。

 

しかし今、誰もが混乱しており、助けはありません。今、単一のタイプであることはありえず、タイプを守ることはできません。ですから、私たちはどのタイプにも属さず、すべてのタイプが使用できる新しい方法が必要です。ですから、この方法は柔軟性があります。私は特にクンダリーニに関心があるわけでも、何か特定のものに関心があるわけでもありませんが、すべてに深く関心を持っています。

 

あなたがこの方法を使うと、この方法が道を見つけ出すでしょう――あなたの中で開拓できる道を。私はこれをその方法に委ねます。その方法が見つけ出すのであり、あなたが見つけ出すよりも正確に見つけ出します。しかし、この発見は無意識的なものです。それはただあなたをある状況に置くだけです。ちょうど家の中に火事があるようなものです。あなたは状況の中にいます。もし走れるなら走りなさい。もし飛び跳ねられるなら飛び跳ねなさい。状況があり、その状況があなたにとって可能なことへとあなたを押し出すでしょう。

そして、無意識の心は常に最小抵抗の道を選びます。それは必然的に、心の数学、内なる経済なのです。あなたは無意識のうちに長い道を選ぶことは決してなく、常に最短の道を選びます。意識的な心によってのみ、あなたはどこにも通じない道や、到達する前に死んでしまうほど長い道を選び始めるのです。しかし、無意識は常に最短の道を選びます。ですから、この方法は状況を作り出し、あなたの無意識は潜在的にそのタイプである道を取るでしょう。』

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クンダリーニの取扱-6

2025-02-20 03:22:10 | 開拓されるべき地平たち

◎ソーマとその人に合った冥想法

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. タントラでは、ワインのような酩酊剤を使用して、自分が気づいていることに気づいている冥想法もある。
  2. 冥想には、非常に多くの道があり、それぞれの道は非常に多くの方法で使用することができる。OSHOバグワンは、その人に合った道を呈示できる。ただし、それは間接的であり、直接的ではない。

 

『(仮訳)

タントラは同じ方法、同じ道筋を、異なる方法で使用しました。それは想像を絶するものでした。彼らは、バーン、チャラス、ガンジャ、ワインといった酩酊剤を使用しました。その方法はこうです。酩酊剤を摂取し、気づいていてください。気づきを失わないでください。酩酊剤を摂取し続けながら、自分が気づいていることに気づいていてください。意識を失わないでください。いかなる酩酊剤も効果がないような方法があり、そのために蛇毒が使われました。蛇に舌を噛ませるのです。そして、蛇が舌を噛んでもあなたがまだ気づいていれば、その時初めてあなたは跳躍したことになるのです――そうでなければ、そうではありません。道は同じですが、方法は全く異なります。

 

このタントラの実践において、もしどんな酩酊剤も効かず、あなたが意識を保ち続けるならば、あなたが意識的に振る舞うならば、何かがあなたの内側で結晶化しています。何かが体内の化学反応を超越したのです。そうでなければ、化学反応があなたに影響を与えるでしょう。今、あなたは化学反応を超越しています。化学反応は体のどこかで作用していますが、あなたはそれと隔絶しており、触れることができません。

 

このように、非常に多くの道があり、それぞれの道は非常に多くの方法で使用することができます。私の方法は、どの道にも直接関係していません。それはまるで、空を飛び、泳ぎ、道を走ることができる乗り物のようです。あなたの性格の必要性に応じて、必要性は方法、道筋を変えます。あなたはそれをマルチメソッドと呼ぶかもしれません。それは間接的であり、直接的であることはありえません。

 

私はあなたに方法を与えます。あなたの体、あなたの存在が道筋を与えるでしょう。そして、目覚めたエネルギーは、タントラ、仏教、ジャイナ教、グルジェフ、スーフィーなど、どんな道でも使うことができます。そして、私がこう言うとき、それは単なる仮説ではありません。私がこう言うとき、私はそう働いてきたのです。

 

異なる道筋で修行してきた人々が私のところにやってきました。彼らがこの方法を使うと、彼ら自身の道筋で彼らを助け始めるのです。もし誰かがクンダリーニで修行していて、私のところに来て、この方法で修行するなら、それは彼自身の道筋で彼を助けます。彼は「この方法は素晴らしい。以前のクンダリーニの方法は、これほど強烈に、そして熱心に機能していなかった」と言います。そして、これはクンダリーニの方法では全くありません。しかし、これは柔軟性があります。この方法は道を見つけ出すでしょう。あなたはそれをするのであり、他のすべてはこの方法自身によって行われるでしょう。』

 

※(By Gemini)バーン、チャラス、ガンジャは、いずれも大麻を原料とした物質です。それぞれに特徴や使用方法が異なります。

バーン (Bhang)

  • 大麻の葉や花を細かく砕き、ヨーグルトや牛乳、スパイスなどと混ぜて作る飲み物です。
  • インドやネパールなどで伝統的に飲まれています。
  • 摂取量や体質によって効果が異なり、リラックス効果や高揚感、幻覚などを引き起こすことがあります。

チャラス (Charas)

  • 大麻の樹脂を採取し、手で練って作られたものです。
  • 主に喫煙用として使用されます。
  • ガンジャよりもTHC(テトラヒドロカンナビノール)の濃度が高く、強い効果があります。

ガンジャ (Ganja)

  • 大麻の花や葉を乾燥させたものです。
  • 主に喫煙用として使用されます。
  • THCの濃度はチャラスよりも低いですが、それでも強い効果があります。

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クンダリーニの取扱-5

2025-02-19 03:00:46 | 開拓されるべき地平たち

◎意識を通して直接働きかける冥想法

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. 呼吸を通して跳躍したのは、釈迦。
  2. 意識を通して直接働きかける冥想法は、最も深い道の一つ。グルジェフの想起、クリシュナムルティの「ただ全体を意識し、焦点を当てない気づき」がその例。

 

『(仮訳)

体には非常に多くの道があります。それ自体が偉大な世界なのです。呼吸を通して働きかけることができ、呼吸を通して跳躍することができます。性を通して働きかけることができ、性を通して跳躍することができます。気づきを通して、つまり意識を通して直接働きかけることができ、跳躍することができます。この意識に直接働きかけることは、最も深い道の一つでしたが、たった一つの道でさえ非常に多くの方法で使用することができます。この複雑さを理解しなければなりません。

 

例えば、一つの道は非常に多くの方法で使用することができます。ある人は車で、別の人は荷車で、また別の人はただ歩いてその道を使うことができます。道は同じですが、方法は全く異なります。

 

歩くことと車に乗ることの間に共通点があるでしょうか?何も共通点はありません。車の中では、あなたはただ座っているだけで、何もしていません。あなたは何もしていないのです。ですから、「私はただ座っているだけでこの道を通った」と言う人がいても、彼は何も間違ったことを言っているわけではありません。しかし、歩くことしか知らず、ただ座っているだけで道を通ることができることを知らない人は、この道を否定するでしょう。彼もまた正しいのです。

 

たとえ一つの道であっても、異なる方法で使うことができます。例えば、気づきが良い例です。グルジェフはそれを使いますが、彼はそれを「想起」と呼び、その方法は異なります。道は同じです。意識を使うのですが、気づきとしてではなく、想起として使います。では、その違いは何でしょうか?想起とは、あなたがこの通りにいるとき、自分がここにいることを思い出すという意味です。しばらく立ち止まって、自分がここにいることを思い出してください。自分がここにいることを完全に思い出しながら、周囲を見渡してください。一瞬たりとも自分がここにいることを忘れないでください。

 

しかし、私たちは忘れてしまいます。決して思い出すことはありません。もし私があなたを見たら、私は自分のことを忘れ、あなたのことを見ます。

 

気づきは一方通行の矢印のようになり、もう一方の矢印はありません。グルジェフは、それを二方向の矢印にするように言います。あなたは講演を聞いています。話し手の言うことを聞くことが最初の矢印であり、もしあなたが自分自身――つまり、聴いている人――に気づいていれば、それが二番目の矢印です。聞いているときに自分のことを忘れないでください、自分が聞いていることを覚えていてください。誰かが話していて、あなたが聞いています。両者を超えて、思い出してください。自分自身を二方向の矢印にしてください。道は同じですが、方法は異なります。

 

クリシュナムルティは、「このように思い出そうとしないでください、それは緊張した努力になります。ただ、全体を意識してください。あなたがここにいて、彼がそこにいることを選ばないでください。選ばないでください。ただ、すべてを包み込むような気づきが存在するようにしてください。焦点を当てないでください――焦点を当てない気づきです。」と言います。私が話していて、あなたは座っていて、クラクションが鳴っていて、車が通り過ぎています・・・。物事は存在していて――そして、気づきは焦点を当てられていません。矢印のようにしないで、焦点を当てないようにしてください。道は同じですが、方法は全く異なります。』

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クンダリーニの取扱-4

2025-02-18 03:41:25 | 開拓されるべき地平たち

◎連続性を用いない冥想手法群

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

1.「私たちは連続性を見ているのは、単にその間の隙間を見ることができないからに過ぎない。」とは、隙間理論のこと。

2.跳躍の概念は、ブッダがクンダリーニを通らなかったことから生まれた。彼は、七つのチャクラを、あるチャクラから別のチャクラへと、跳躍を通して通過した。

3.マハーヴィーラは、チャクラや跳躍については決して語らず、爆発について語る。ある瞬間にあなたはこれであり、次の瞬間にはあれである。つまり、連続も跳躍もなく、爆発がある。通過すべき中間点はない。

4.禅ではクンダリーニについては語らない。

 

チャクラ間ジャンプから、隙間理論が出るとはね。

 

『(仮訳)

何も連続していない。花は蕾と連続していない。花は跳躍である。若さは子供時代の連続ではない。それは跳躍である。そして、現代の仏教哲学者たちは今、非常に喜んでいる。なぜなら、今日の科学もまた、連続性など何もないと言っているからである。すべては跳躍する、ただ跳躍があるだけだ。

 

私たちは連続性を見ているのは、単にその間の隙間を見ることができないからに過ぎない。

 

あなたがこの光を連続的に見ていると思うかもしれませんが、それは連続ではありません。電子は飛び跳ねていますが、その隙間があまりにも小さいため、あなたの目には分からないのです。それは連続ではなく、飛び跳ねているのです。しかし、その跳躍があまりにも速いため、一つの電気粒子が消滅し、別の粒子が現れたとき、その間の隙間は気づかれません。ただ突然の跳躍があるだけです。あなたは夕方に火を灯し、朝にそれを消すとき、同じ火を消していると思うでしょう。火は何度も何度も飛び跳ねています。それは消え、蒸発し、そして新しい火が現れています。しかし、それはとても連続的に見えるのです。

 

ヘラクレイトスは、あなたは二度と同じ川に足を踏み入れることはできないと言いました。なぜなら、川は流れているので、あなたは二度と同じ川に足を踏み入れることはできないからです。ブッダは、川は流れているので、あなたは一度も足を踏み入れることさえできないと言うでしょう。あなたが水面に触れた瞬間に、それはもうなくなっています。あなたがもっと深く入る前に、それは再びなくなっています。たった一歩でも、非常に多くの川が流れていってしまっているのです。そして、それは常に跳躍のプロセスなのです。

 

この跳躍の概念は、ブッダがクンダリーニを通らなかったことから生まれました。彼は、あるチャクラから別のチャクラへと、跳躍を通して通過しました。だから彼は七つのチャクラについて語るのです、それもまた可能です。私はあなたの家まで飛び跳ねて来ることができます、そうすれば私はいくつかの点にしか触れません。隙間があり、連続性はありません。

マハーヴィーラはチャクラや跳躍については決して語らず、爆発について語ります。あなたはこれであり、そして次の瞬間にはあれである、と。跳躍するための多くの停留所さえありません。これは別の道です――爆発、あなたはただ爆発するのです。ある瞬間にあなたはこれであり、次の瞬間にはあれである。連続も跳躍もなく、爆発があるのです。通過すべき中点はありません。

 

禅には二つの宗派があります。一つは頓悟禅として知られる宗派、もう一つは漸悟禅です。しかし、漸悟禅でさえクンダリーニについては語りません。別の道を使ったのです。ですから、禅ではクンダリーニについては語られません。漸悟禅でさえもです。別の道が使われたのです。』

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クンダリーニの取扱-3

2025-02-17 03:28:34 | 開拓されるべき地平たち

◎クンダリーニは体温計のように、ゆっくりと、連続的に上昇する

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. クンダリーニが準備できていても、使うことが危険な場合は、他のルートを使う。
  2. マハーヴィーラもブッダも、クンダリーニについて一度も語らなかった。キリストはクンダリーニについて知らず、老子はそれについて聞いたこともなかった。
  3. クンダリーニは連続性を持つ、それはまるで体温計のようだ。それは体温計のように、ゆっくりと、ゆっくりと上昇する。その通路は連続したもの。
  4. ブッダは決してそのクンダリーニの通路を使わなかったが、彼はチャクラが突然跳躍しながら機能することについて語った。あるチャクラから別のチャクラへと、人は飛び移る。連続性はない。

 

クンダリーニは、作用の仕方が多用で影響範囲が広いので、危険度が高いのだろう。「直接的」な方法とは、どういうものなのだろうか?

 

『(仮訳)

下降するエネルギーは常に暴力に向かいます。上昇するエネルギーは常に愛、理解、思いやりへと向かいます。

だから、この方法は間接的な方法なのです。それは非常に多くの扉を通って作用します。もしあなたのクンダリーニが使えるなら、この方法はそのクンダリーニを使います。それはその道筋をたどります。柔軟性があるのです。この方法は絶対的に柔軟です。もしあなたのクンダリーニが準備できていて、使うことができない場合、もしそれが危険な場合は、それを使うことはありません。その時は他の道、他のルートがあります。他のルートを使うことができるのです。

 

それらの他のルートは名前が付けられていません。なぜなら、古代の教えではそれらを使ったことがないからです。しかし、他のルートは存在します。マハーヴィーラはクンダリーニについて一度も語りませんでした。ブッダもクンダリーニについて一度も語りませんでした。キリストはそれについて知らず、老子はそれについて聞いたこともありませんでした。彼らは他のルートを通ってきたのです。

 

ブッダが通った道は、クンダリーニを通ったものではありえません。彼のセックスは彼にとって完全に退屈なものとなり、彼はセックスに全く興味がありませんでした。そして、それは当然のことでした。なぜなら、彼の父親は彼のために王国中の非常に多くの美しい娘を手配したからです。美しい娘は皆、彼の宮殿にいました。彼はただ嫌気がさしたのです。それは当然のことでした。誰もがそのようになれば嫌気がさすでしょう。彼はセックスにとても嫌気がさしたので、同じエネルギーが転換できるとは考えられなかったのです。

 

彼はそれを試みたことがなかった。そして、たとえ誰かが彼に性エネルギーは神聖なエネルギーになり得ると言ったとしても、彼は耳を傾けなかっただろう。なぜなら、彼は性についてあまりにも多くを知っており、彼にとってそれには神聖なところなど何もなかったからだ。それはただ肉欲的なものだった。ブッダは別の道を使った。彼はクンダリーニについては全く語らなかったが、中心、チャクラについて語った。彼はチャクラのために働いた。

 

もしあなたがクンダリーニのために働くなら、そこには漸進的なプロセスがある。クンダリーニは連続性を持つ、それはまるで体温計のようだ。それは体温計のように、ゆっくりと、ゆっくりと上昇する。その通路は連続したものである。

 

ブッダは決してその通路を使わなかったが、彼はチャクラが突然跳躍しながら機能することについて語った。あるチャクラから別のチャクラへと、人は飛び移る。連続性はない、人はただ飛び移るだけだ。この跳躍のプロセスゆえに、ブッダは全世界を非常に新しい方法で捉えた。彼は、世界には連続性などなく、ただ跳躍があるだけだと言った。』

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クンダリーニの取扱-2

2025-02-16 03:59:58 | 開拓されるべき地平たち

◎原担山のような逸話

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは、以下。

  1. クンダリーニ・ヨーガの技法は、性的成熟以前に修錬するのがベターである。
  2. クンダリーニ・ヨーガの技法は、性的成熟以後にスタートする場合、大変困難となる。
  3. 間男された聖者の逸話は、禅僧原担山の境地の高さを傍証するもの。

 

「クンダリーニ・ヨーガの修錬は、思春期以前がベター」とOSHOバグワンは説くが、それを学校教育で行うのは、時期尚早と思う。

 

『(仮訳)

私に関する限り、全世界がセックスを自然現象として捉えない限り、直接的なクンダリーニ法に未来はありません。そして、性的成熟前に使用されるクンダリーニ・テクニックはありません。性的成熟前にクンダリーニの道があなたの中に作られない限り、たとえセックスが自然に捉えられたとしても、あなたが変態になることはないかもしれませんが、ただの動物になってしまう可能性は大いにあります。

 

ウパニシャッドからの物語をお話しましょう…。

 

ある聖者が妻と息子と一緒に座っていました。そこを通りかかった男が妻に恋をし、自分の家に一緒に来てほしいと頼みます。妻は男と一緒に行ってしまいます。聖者からは批判も反対もありませんでしたが、息子は怒って父親に言いました。「これはただの動物的行為だ。動物がすることと同じだ。こんなことは許されない。私が道徳律を作るときには、こんなことは許さない。これは動物がすることと同じだ。」

 

父親は言いました。「これは動物がすることと同じではない。逆に、あなたの激怒、あなたの怒りこそ、動物がすることと同じなのだ。それは動物のように、道徳的暴力の表れだ。実際、動物でさえ、今起こったことを許さないだろう。彼らは戦うだろう。動物は永遠に所有物に固執しない。」

 

この父親の態度、彼の態度は本当に高尚なものです。理解することは難しいかもしれません。彼は、あなたの態度は動物のようだと言っています。動物は自分の配偶者のために戦います。彼らは縄張り意識と所有欲を持っています。そして、あなたがそれを侵害すれば、彼らは戦うでしょう。しかし父親は言います。「私は人間だ。もし誰かがあなたの母親を見て恋をしたとしても、誰も悪くない。そしてもしあなたの母親がその気なら、私は何者だ?私も同じように彼女に恋をしたのだ。何も変わらない。ちょうどこのように私は彼女に恋をした。彼女は結婚することに同意し、私の妻になることに同意したが、私の所有物になることに同意したのではない。他の誰かが恋をした。私は人間の弱さを知っている、なぜなら私自身も恋をしたことがあるからだ。だから何も間違ったことは起こっていない。そして私は動物ではないから、このために戦うことはできない。私は彼が私と同じ人間であることを知っている。そしてあなたの母親は美しい。私も彼女に恋をしたのだ。」

 

しかし、これは非常に高度な道徳であり、もしあなたが訓練を受けていなければ、性的成熟前にそれを養うことしかできません。性的成熟後には、エネルギーを流すことができなくなり、非常に困難になります。しかし、もし性的成熟前に道筋ができていれば、エネルギーはセックスと同じくらい自然にその中を流れます。そして、この男、この父親、この聖者は、クンダリーニを知っていたに違いありません。そうでなければ、彼のような態度をとることはできなかったでしょう。それは不可能です。この聖者はクンダリーニの発達、つまりエネルギーが上昇している状態だったに違いありません。そうでなければ、このような態度は決して生まれないでしょう。』

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クンダリーニの取扱-1

2025-02-15 03:47:30 | 開拓されるべき地平たち

◎現代世界は性的倒錯と性的搾取が蔓延しているため、クンダリーニの修行は難しい。

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”において、クンダリーニの取扱が概説されているので仮訳してみた。

 

ポイントは、以下。

  1. クンダリーニの実践は、性エネルギーを瞑想のために簡単かつ自然にチャネリングできる人にとって有用だが、そういう人は少ない。
  2. 現代世界は性的倒錯と性的搾取が蔓延しているため、クンダリーニ、つまり特定のサイキックチャネルにおけるサイキックエネルギーの動きは困難になっている。
  3. クンダリーニの自然な感覚がない限り、OSHOバグワンは、クンダリーニのテクニック指導をしない。

 

『(仮訳)

朝、私たちは清々しさを感じます。日の出とともに朝には何が起こるのでしょうか?二酸化炭素は減少し、酸素は増加します。同じ化学変化があなた自身にも必要なのです。現在私たちの瞑想キャンプで使用しているテクニックは、体内に過剰な酸素を作り出す最も強力な方法です。そして最初の3つの段階の後、4番目の段階では、生徒は非常に活発になるほどの莫大な生命エネルギーを充電され、非常にalertになります。

あなたをalertにするもう一つの手段は、クンダリーニの実践です。これは、性エネルギーを瞑想と意識のために変換するシステムです。性エネルギーを瞑想のために簡単かつ自然にチャネリングできる人にとって有用です。

 

ヴェーダやウパニシャッドの時代、古代インドでは、人々は質素で自然であり、性エネルギーを容易に変換できました。彼らにとって、セックスは決して精神的な問題ではなく、全く問題ではありませんでした。いったん問題になると、それは精神的なものになります。

 

今日、現代世界は性的倒錯と性的搾取が蔓延しているため、クンダリーニ、つまり特定のサイキックチャネルにおけるサイキックエネルギーの動きは困難になっています。しかし、この方法を通して、クンダリーニが上昇していると感じられることがあります。それは別のことです。もし誰かが自分のクンダリーニが上昇していると感じたら、私は彼のクンダリーニに取り組み始め、クンダリーニに取り組むためのテクニックを与え始めます。しかし、クンダリーニの自然な感覚がない限り、私はその点に触れません。それについて話すこともしません。あなたはそれをバイパスすることができ、この時代はあなたがそれをバイパスしなければならないような時代です。心のない、自然な肉体的なセックスによってのみ、クンダリーニは作用します。無邪気な心によってのみ、それは作用するのです。

 

瞑想が深まるにつれて、どこかの時点で、あなたの心は制御を失います。以前にも言ったように、瞑想が深まると、あなたは二つの記憶を区別し、分離させ、体について精神的でなくなり、体自身の知恵を通して体が自然に機能するように任せます。

 

すると、時々クンダリーニが活性化します。もしそれが自動的に作用するなら、それは良いことです。私は直接その実践を許可しません。間接的に、それは自然に働き始めます。そしてそれは何度も起こります。この方法に取り組んでいる人々の少なくとも30〜40%はクンダリーニを感じます。彼らがそれを感じた時、私は準備ができています。その時、彼らは先に進むことができます。そしてこの方法を通して、彼らはクンダリーニの扉を通って進みます。しかし、この方法はクンダリーニと直接つながっているのではなく、間接的につながっているだけです。』

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クンダ自体の中に没入する近道

2023-07-20 06:30:32 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐からの身心脱落との類似

 

OSHOバグワンが、クンダリーニ・ヨーガのことをクンダという世界全体・宇宙全体(生の世界も死の世界も含む)に、個人が肉体からスタートして、一歩一歩徐々に進んで行く迂遠な道であると、簡単に説明している部分がある。80億もの個々人は、それぞれ自分のクンダリーニのエネルギー・コードに沿って上昇し、世界全体で見れば少なくとも80億本以上のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)が束になってニルヴァーナであるクンダに向かっている構図である。各人は、クンダ到着時には、自分の岸に到達したと思い込んでいるが、その岸は実はすべてを含む一つしかない大洋の岸である。

 

個々人のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)を船と表現し、究極であるクンダのことを岸と呼ぶ表現は、道教にも古神道にもあって、インド独自のものではない。仏教でも到彼岸などと言う。

 

このクンダリーニ・ヨーガの道は、迂遠ではあるが、進捗していることがわかりやすい。これに対してOSHOバグワンは近道である『クンダ自体の中に没入する』冥想法があることを説明している。これは近道だが、近道だから簡単だということでなく、かえって困難であるとも言っている。

 

『これまで話したことはないが、もうひとつの道がある。 クンダリーニの目覚めのために一般化されていることを説明してきたが、クンダリーニはクンダ、つまり池全体のことではない。これは個々に話さなければならないものだが、もうひとつ別の道がある。世界でもごく少数の 人しかこの道をとらなかったが、それは私たちがよく知っているクンダリーニを目覚めさせる道ではなく、クンダ自体の中に没入していくものだ。それはエネルギーの一部を目覚めさせ、 それを成長のために用いるようなものではなく、クンダつまりは原始のエネルギーの貯水池に、自分の意識をそっくりそのまま溶け込ませてしまうのだ。その場合には、どんな新しい感覚も目覚めないばかりかいかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸する。その場合人は直接、神あるいは至高なるものに遭遇し、それを体験する。

クンダリーニの目覚めを通じて起こる最初の体験は、魂のものだ。それとともにあなたは、自分の魂が他の人の魂とは別個であることを知る。 クンダリーニの覚醒によって成就した人々は、普通、複数の魂の存在を信じる。彼らは、この地上に生ける存在と同じだけの魂があり、すべての人は別々の魂を持っていると言う。

 

だがクンダの中に直接没入した人々は、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もないと言う。多くのものではなく、一なるものだけが存在すると言う。なぜならクンダに身を没入することで、自分自身のクンダと溶け合うばかりでなく、すべてのクンダ、集合的な宇宙的なクンダと溶け合うからだ。クンダはひとつだ。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社p353から引用)

 

このように『クンダ自体の中に没入する』冥想法とは、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もなく、さらにどんな新しい感覚も目覚めず、いかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸するということ。つまり只管打坐からの身心脱落では、超能力、霊能力が目覚めないことが知られているが、まさにそれと同じではないかと考えられる。

西洋錬金術も漸進型の前途遼遠な道だが、「近道」があることは言及されてはいるが、それがどんなものか説明されたものを見たことがない。

このクンダ自体の中に没入する近道が、只管打坐であることを証明するには、神人合一体験のある者が只管打坐で身心脱落することで確認できると思うが、一生で二度神人合一することであり、容易ではなく、これまた次の時代に証明されることを期待するテーマである。

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シャクティパット・メモ

2023-07-05 06:56:55 | 開拓されるべき地平たち

◎男性はシャクティパットを受け取れない

 

シャクティパットには2説あって、ダンテス・ダイジは口を切るだけという説明であり、OSHOバグワンは、何らかのエネルギーを注ぎ込むという説を採る。

 

以下はOSHOバグワンの説明。

OSHOバグワンのシャクティパットの説明は、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体の4ボディをクンダリーニ上昇させるための梃子であるというのが基本線。

 

さらにシャクティパットは、クンダリーニが目覚めていない場合に、第一身体に起こり、クンダリーニが目覚める。その場合、通常数か月かけて起こるクンダリーニ上昇が数秒のうちに起こるので、最初の三つのボディが十分に準備できていない人にとっては有害になることがある。

さらにエネルギーが妨げられないように三つの身体にはつながったラインが必要である。肉体で止まると相当な害があるが、エーテル体、アストラル体まで広がると害はない。

シャクティパットは、見神見仏のために、準備ができている者には、ある程度役立つが、準備ができていない者には害になる。シャクティパットは暗夜を照らす一瞬の雷光のようなものだが、それでその先の道程を一瞥できることは、準備のできた冥想修行者には大いに助けになる。一方、準備のできていない一般大衆に直接シャクティパットを与えるのは有害となる。ところがいつの時代もシャクティパットを希望するのは、一般大衆だという皮肉。

 

事前準備は重要であって、うまい話はない。それを、楽して労せず手に入れることはできない。ただほど高いものはない。ただで何かを得ようとしてはならない。シャクティパットも例外ではない。人は受け取るのにふさわしいものしか受け取れない。

しかし、シャクティパットの事前準備とは、大金を払うことでは絶対ない。

 

ここまで説明しておいて、OSHOバグワンは、重要な原則をいくつか挙げる(例外はあるとしている)。

  1. シャクティパットを与えられるのは男性のマスターに限る。女性のマスターはシャクティパットを与えられない。
  2. シャクティパットを受け取れるのは、女性に限る。男性は受容性がないからシャクティパットを受け取れない。女性は、明け渡しが容易。
  3. シャクティパットを受け取る際に、女性は男性マスターから直接受け取ることはできない。女性は必ず間に媒介を入れ、媒介経由でシャクティパットを受けとる。(OSHOバグワンは、媒介が何かを示していないが、よりまし、シャーマンのことを言うのだろうか。)
  4. 男性と女性では微細身の性別が異なる。

男性は、肉体-男、エーテル体-女、アストラル体-男、メンタル体-女。

女性は、肉体-女、エーテル体-男、アストラル体-女、メンタル体-男。

これを以て、男性は肉体で起こるシャクティパットを受け取れず、女性だけが受け取れるという。

 

OSHOバグワンは、シャクイティパットとは別に、人を究極に導く恩寵というのがあって、恩寵は第四身体メンタル体で起こるので、男性だけが受け取れ、女性は受け取れない。なぜなら男性の第四身体は女性であって受容的だが、女性の第四身体は男性であって受容的でないから。

(以上参照:奇跡の探求Ⅱ/和尚の“シャクティパット-生体電気の神秘”の章)

 

またこの図式は、古神道で変性男子、変性女子という説明でもある。

世にシャクティパットを与える話は多いが、その真偽はよく考えるべきだろう。

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周天とクンダリーニ・ヨーガの違い

2023-07-01 07:00:01 | 開拓されるべき地平たち

◎周天は前後回転、クンダリーニは垂直上昇

 

道教では、気を回すことを周天という。周天を繰り返すことで、出神し、ニルヴァーナに至る。これは呂道賓によって知られる技法であり、柳華陽の慧命経でも伝えられている。

周天は、身体の前方部分に位置する任脈と背中部分に位置する督脈を経由して、気を回転させる。これは頭頂を頂上とし会陰を底として身体の前後に回転させるもの。この前後回転というのは、クンダリーニ・ヨーガや仏教の密教から入った人にとっては意外である。

クンダリーニ・ヨーガでは、脊柱付近にスシュムナー、イダー、ピンガラーと三つの脈管があり、中央のスシュムナーをクンダリーニが上昇すると説くからである。つまりクンダリーニ・ヨーガでは、回転ではなく上昇であり、そもそも身体の前後の管には関心がない。

経絡は、肉体レベルではなく、エーテル体レベルであって、半物質。エーテル体の全体図は傘の骨のようだというのは、経絡の全体図のイメージ。

 

そこで、任脈図とか督脈図だけを見てもわかりにくいが、スシュムナーに該当するのは、衝脈であり、これは背中の督脈のやや前方に位置する経絡である(道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P279の挿絵)。

支那にもクンダリーニは軍荼利として入ってきたが、周天はそれを承知しつつ発展させた。呂道賓は、その大成者として、眼力のある周天修行者たちに尊崇されているのだろう。逆にインドに周天によるニルヴァーナ到達技法が入っていかなかったのはどういうわけなのだろうか。

 

周天は前後回転で、クンダリーニは垂直上昇というのは、率直に両方を学んだ人なら知っているが、意外に言及している人は少ないものだ。気は半物質でエーテル体と、とりあえず説明するが、出神がエーテル体なのかメンタル体なのかはわからない。

また出神なる別ボディでニルヴァーナに到達するのかどうかもわからない。ぼんやりとした説明しかないのだ。

さらにネットで経絡関係で言及している人は多いが衝脈について言及している人は多くはない。

またクンダリーニは、最初は、エーテル体レベルの存在だが、最後にアートマンからニルヴァーナに突入していく様を思えば、クンダリーニの存在レベルは、エーテル体レベルだけではないと考えられる。

 

これら周天とクンダリーニ・ヨーガの違いも、大周天とクンダリーニ上昇を一身に両方極める人が複数出てこないと解明することはできますまい。

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屍解からモクシャ往還まで-9

2023-06-13 07:07:07 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐あるいは身心脱落の謎

 

ダンテス・ダイジの言行の中に、クンダリーニ・ヨーガと並んで、只管打坐こそ最高の冥想メソッドの一つだというものがある。

 

これは、只管打坐で身心脱落へと進むメソッドが、究極であるニルヴァーナに到達できる単純にして優れた冥想手法であることを言っている。

 

ところがいわゆる禅的悟りと言った場合、その悟りは、どんな坐法で起こるのかという点で只管打坐に関しては、怪しい議論となってしまう。

 

中国で禅は、看話禅と黙照禅に分かれ、おおまかに言えば看話禅が臨済禅の流れとなり黙照禅が曹洞禅の流れとなる。

ところが禅は達磨以来しばらくはそもそも看話禅と黙照禅に分かれていなかった。

 

また達磨、二祖慧可の頃は、多分公案はなくて、ただ坐るだけだったのではないか。

臨済宗では、数息観、公案、マントラ禅(無、隻手)などを行い、只管打坐はなかったことになっている。ところが坐法(ポスチャー)は、意識状態に対応して発生するの法則があり、臨済宗の修行者でもとある意識状態に立ち至れば、只管打坐から身心脱落は起こり得るのだろうと思う。

 

臨済系は、大応、大燈、関山、至道無難、正受、白隠と覚者がずらりと並び、ニルヴァーナ(モクシャ)に到達したことは紛れもない。曹洞宗系は、道元を一つのピークとしている。

 

禅的悟りだからと言って、臨済系の覚者たちが、最終シーン直前では、只管打坐の姿勢になり身心脱落したかといえば、そこまでは言えない。だからと言って、曹洞系の祖師たちが(只管打坐により)全員身心脱落したかと言えば、それもまた言えない。

 

冥想には、あらゆる可能性がある。そして坐らなくとも可能性があるかに見える。事上磨錬というのは、毎日仕事を一生懸命かつ精密にやることで悟る方法である。禅の六祖慧能は坐らず毎日米つきばかりやっていたが、それでも悟ったのは、その一例とも言える。

 

そのように人は、さまざまな冥想法で悟り得るが、坐る冥想でない場合もあり得ることを、冥想のあらゆる可能性という。

 

一方でダンテス・ダイジは、公案禅のジュニャーナ・ヨーガとしての可能性は認めている。また、それに併用される場合があるマントラ禅(隻手・無)などの可能性も認めている。特筆すべきは、身心脱落において、七つの身体を急速に突破しているとつぶやいていること。

 

七つの身体を突破するとは、クンダリーニ・ヨーガのプロセスであるが、身心脱落においては、そのプロセスがあまりに早すぎて途中の段階に気がつきにくいということも言っている。というのは、禅的悟りを開いた者が、釈迦と背比べしたら、釈迦の足は雲の遥か下の地獄の底まで届いているのに、自分のは短くて釈迦の背丈の上の方で足をばたばたさせているという話も出している。

 

これは、ダンテス・ダイジは、老子の悟境は禅的悟りだと見ており、急速に起こったがゆえに、高さは十分だが深さは今一歩であると見ていることを言っている。

 

この辺は、論証も追実験も容易ではないが、いつかやってくれる人も出てくるのではないかと思う。

 

釈迦臨終時に、四禅から出て最後涅槃に入ったなどというのは、おそらく事後にそれを見に行った人物が確認したからこそ言えることだと思う。そのように只管打坐あるいは身心脱落にまつわる謎を解明してくれる人が出ることを期待したい。

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