アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

即位礼正殿の儀の晴れ

2023-12-12 20:42:45 | 超能力・霊能力neo

◎晴天の真贋

(2019-10-23)

 

2019年10月22日の東京地方は、台風崩れの低気圧が直撃し、ほぼ一日雨ではあるが、昼過ぎに曇りの時間帯があることが予想されてはいた。

さて午前11時35分頃から13時頃までの間の強い風雨により、正殿に向かって右奥に立てられた26本の旛のうち、菊花章大錦旛、菊花章中錦旛と、万歳旛が相次いで落ちた。

ところが、即位礼正殿の儀の始まる13時直前に日の光が顔を出し、セレモニーの関係者を驚かせた。

俗に晴れ男、晴れ女、雨男、雨女ありと申すが、雨男、雨女の優勢であるところ、即位礼正殿の儀の間だけは晴天とせしめたのだろう。

出口王仁三郎は、どこへ行っても晴れ男であった。なお彼は、晴天としたり、大雨を降らせたりすることは平気でやってのける能力があった。だが、そういう超能力であるからこそ私心のままに用いることはできないもの。

この即位礼正殿の儀の間だけは晴天とは、どんな晴天だったのだろうか。

※出口王仁三郎(日出雄)、蒙古で天候操作する(晴→大雨→晴)
『日出雄は思ふ所ありと見え、温長興を轎車に乗らしめ、自らは真澄別其他の護衛兵と共に馬に鞭ち、法衣を風に靡かせつつ下木局子に向ひ、仮殿を出発した。

一方下木局子の西北自治軍司令部にては、各分営の団長以下悉く来集し、『斯くの如き蒙古晴の空より雨を降らすなど、幾ら神様でも嘸困難であらう』などと、とりどりに噂をし乍ら、日出雄一行の来着を待ち兼ねて居た。

時しもあれ、魏副官の先導にて日出雄の一行は総員整列出迎への中を堂々と乗込んで来た。少憩の後、日出雄の目配せを合図に、真澄別が何事か黙祷すると見るや、司令部の上天俄に薄暗くなり、瞬く間に全天雨雲に蔽われ一陣の怪風吹き来ると共に、激しき暴風雨窓を破らむず計りに襲来して来た。

一同驚きあわて、窓を閉めるやら、記念撮影の為とて庭に列べてあつた椅子を持込むやら混雑一方ならず、皆々呆気に取られて、暫し言葉もなかつたのである。

稍あつて『大先生、二先生、今日は写真は駄目でせう』と、さも失望らしい声が聞える。

真澄別は日出雄の顔を見て『ナアニ五分間経てば大丈夫だ』と云へば、日出雄はやおら身を起して雨中に降り立ち、天に向つて『ウー』と大喝すれば、風勢頓に衰へ雨は漸次小降りとなり、果して向ふ五分間てふ真澄別の宣言に違はず、如何に成り行くかと案ぜられし暴風雨は、夢の如く消え去り、再び日は赫々と輝きわたり、空は元の如く晴朗に澄み切つたのである。』
(霊界物語入蒙記 第25章 風雨叱咤から引用)

※菊花章大錦旛(赤)

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西洋の記憶術と虚空蔵求聞持法

2023-10-21 11:24:25 | 超能力・霊能力neo

◎記憶術と観想法

(2010-04-05)

 

西洋の記憶術と虚空蔵求聞持法。どちらも記憶力を増進させる方法で受験生には重宝されるもの?である。不思議なことに、どちらもそれに連続するメソッド=引き続いてやるべき修行法が何かはっきりしないのが奇妙である。

西洋の記憶術は、長時間演説を行うためには,膨大な記憶力が必要とされていたので、雄弁術の付随的な技術として発展したというのが定説のようである。ところがローマ時代以前のギリシア哲学者には、哲学者もいたがクンダリーニ・ヨーギたる冥想家が少なからずいたようであり、冥想技術のひとつとして記憶術がもともとあったようにも見える。しかし記憶術とは、ただそれだけのものだったのだろうか。

虚空蔵求聞持法を空海は成就した由。「記憶術増強」がその後の密教修行にそれは必須の技術だったのだろうか。あるいは、現代の密教ではそこまで記憶力が良くないとダメとされているのだろうか。

ローマ時代の賢人キケロは、その著「弁論家について」において、シモニデス(大きな宴席で天井が落ちて客人全員がなくなった時、彼は客の座席位置と名を記憶していたことにより、見分けのつかないほどになった遺体の識別ができた。これによって記憶術を発見したとされる。)の記憶術発明について次のように、記憶するもののイメージをそれぞれ特定の場所にセットすることであると述べる。

『彼の推論によると、この[記憶能力]を育みたい者は、一連の場を選定し、頭の中で、記憶したい事柄を意味するイメージを形づくり、これらのイメージをそれぞれの場に貯えて置かねばならない。

その結果、場の秩序が事柄の秩序を維持し、事柄のイメージが事柄そのものを表すこととなる。かくして、われわれは場とイメージを、それそれ蝋引書板とそこに記された文字として、用いることになる。』

(記憶術/フランセス・A・イエイツ/水声社P22から引用)

キケロは更に、五感のうちでは視覚の印象が最も記憶に残るとする。

この操作でやっていることは、イメージの形成とそれをあるポジジョンに据えるという操作である。

つまりある程度意識レベルを低下させたところで、心中にイメージを思い浮かべ、ある位置に固定するとは、観想法と同じ技法なのである。よって虚空蔵求聞持法が以後の連続的な観想法修行の前駆として置かれることは、何の不自然さもないように思われる。

同様に西洋では、記憶術はもともと観想法主体のクンダリーニ・ヨーガのウォーミングアップとして利用されていたとしても、不思議はないように思う。雄弁術以外の視点で記憶術に関心を寄せていたのは、観想法を駆使するキリスト教修道士たちの他に、神秘家とされるジョルダーノ・ブルーノなどがいて、その効果の親近性は経験的に知られていたのだと思われる。

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逆さ吊りになっていない「吊るされた男」

2023-07-05 07:03:20 | 超能力・霊能力neo

◎シャクティパット

(2019-09-21)

 

金ラメのNefertariタロットの「吊るされた男」は、逆さ吊りされていないので、破格である。「吊るされた男」の正位置、逆位置などとして意味を採る人には困ったことになる。

22枚の大アルカナの順序でいえば、「吊るされた男」は「死」という全体の直前であり、個の極みという位置にある。それからすると、逆転してもらわないと話は進まないのだが。

この図案は、神が人の頭を王笏かこん棒で叩こうとしているか、あるいはシャクティパットをしている図と見える。

 

シャクティパットとは何か。シャクティパットには2説あって、ダンテス・ダイジは口を切るだけという説明であり、OSHOバグワンは、何らかのエネルギーを注ぎ込むという説を採る。

オウム真理教では、1回30万円でシャクティパットを教祖がやっていて、初期には受けた弟子がその効果(正邪の程は不明だが)はあったと証言している。ところがある時期から、シャクティパットで教祖が非常に消耗、憔悴するようになり、シャクティパットをやめて麻薬入りドリンクに切り替えたことが複数の関連書籍に書かれている。

シャクティパットとは手かざし系のグループでは時々見られるものであって、オウム真理教オリジナルのものではない。シャクティパットでは、「気」が入ることもあるのだろうが、「気」を入れる方は生命力が減衰し、長期的には内臓を痛めることも知られている。気にも正気あり、邪気あり。

シャクティパットがエネルギー注入だとするOSHOバグワンは、注入に適当な時節があることを示唆する。精神をいじるというのは、神聖なものであって、一片の邪心も許されない。薬物も含めて外的な力で精神を操作しようとしても、精神はデリケートなものであり、容易にバランスを崩しやすいものだ。

禅でもクンダリーニ・ヨーガ系(密教、気功、錬金術など)でも最後の一歩は自分で踏み出すことが要求される。誰かがひっぱり上げてくれるものではないのだ。

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エクソシスト稲生平太郎

2023-05-17 14:09:43 | 超能力・霊能力neo

◎稲生物怪録

(2021-06-03)

 

稲生物怪録は、江戸時代、広島県三次市を舞台に、様々な妖怪が次々と登場し、16歳の稲生平太郎が、妖怪軍団をついに打ち破るというもの。これは内容が奇抜でバリエーションに富んでいることから、最近では、モバゲーのモンスターとして頻繁に登場している他、平田篤胤、泉鏡花、稲垣足穂、折口信夫、荒俣宏、京極夏彦らに採り上げられている。

 

だが、実際に稲生物怪録を読んで見ると、稲生平太郎と家族、親戚、近所の人が盛んに怪異に悩まされるが、稲生平太郎は、騙されずに正体を見破り続けたところ、特に物の怪側に攻撃をしたわけでもないのに、物の怪側が敗北のしるしとして木槌を平太郎に渡し、いづこともなく去っていったという、カタルシスという点では物足りない物語に仕上がっている。

 

クンダリーニ・ヨーギは大体エクソシズムの心得はあるものだが、日本の有名エクソシストと言えば、出口王仁三郎と本山博。本山博の著作を読むと各地で浮かばれない霊をどこかに逐うのでなく言い聞かせ、解脱させている。出口王仁三郎も無数の不成仏霊を言向け和し、改心させているが、中には苦労させられる手合いもあった。

 

出口王仁三郎の、稲生平太郎への言及は筑波山の一箇所のみであって、多くを語ってはいない。マントラにしても作法にしても、悟っていない人物が使えば良い結果にならないことを知っていたせいだろう。

 

カルロス・カスタネダのシリーズでも、霊界のどこかに何百年も取り込められている人を見かけるシーンがあったりするのだが、普通の人は、そういうものに関心を持つことは百害あって一利なし。

 

釈迦でもイエスでも大悟の直前に悪魔が登場する。稲生平太郎のケースでは、沢山の悪霊が登場して最後の魔王との対面の際、冠装束をした人の半身(昔の一万円札の聖徳太子みたいな)が稲生平太郎の背後に見え、平太郎自身は彼を守る氏神だろうと認識した。

 

だがこの際に稲生平太郎は、大悟したのではないか。ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、クンダリーニ覚醒時に1~3人の神霊がやってきて一人が本人の頭の封印を切る、とある。氏神と見えたそれが、そうだったのではないだろうか。

 

大悟して初めてイエスも釈迦も平太郎も悪魔を超えられたのだ。

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不動金縛り

2023-04-14 12:11:38 | 超能力・霊能力neo

◎幽霊も怖じ気づく

(2006-05-19)

 

1.ねずみ篇

 

元禄の頃、鎖鎌の名人正木弾之進が幼少の頃、ねずみがガリガリと襖をかじる音で、しばしば眠りを妨げられた。一夜布団から出て、坐を正し、ねずみが出て来る方を一心ににらみとおしていたところ、その夜はついにねずみが出てくることはなかった。

 

長じて修練を積んだ結果、梁を走るねずみに気を凝らすと、ねずみが気絶するほどになったという。

 

明治の剣豪山岡鉄舟も、ボロ家で坐禅を始めると、それまで走り回っていたねずみの足音がピタリとやんだという。

 

2.清水の次郎長篇

 

侠客(ヤクザ)の清水の次郎長がある時、山岡鉄舟に

「先生、剣術なんて何の役にもたちませんよ。私が素手で、この野郎とにらみつけるとたいていの奴は逃げてしまいますぜ」と自慢すると、

鉄舟は、「そうか。ならばお前のその長ドスで、俺に切りかかってこい。俺はその木刀で相手をしよう。もしかすり傷でも受けたらお前の勝ちだ。」と立ち合いを促した。

 

さて切りかかろうとした次郎長は、「だめだ先生。手足がすくんでしまうようだ。どうしたわけでしょう。」と言う。

鉄舟は、「何、お前が「この野郎」と言って相手をすくませるのと同じことだ。」と言って「眼、光輝を放たざれば、大丈夫に非ず」の一書を与えた。(鉄舟は金がなかったが、謝礼として書をよく与えていた。)

 

3.幽霊篇

 

大本教の出口王仁三郎は、幽霊にエイッという言葉を発して、霊を金縛りにかけるのはお手のものだった。人間にも気合が効くのだから、幽霊にも霊縛が効くのは当たり前か。

霊界物語にもしばしば、手に合わない相手(霊)をエイッと霊縛するシーンが出てくる。幽霊は既にエーテル体は失っているのだろうから、この手の技は、アストラル体レベルでも通用するということなのだろう。

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第三の目を開く

2023-03-10 16:45:25 | 超能力・霊能力neo

◎それなりの医学

(2006-07-12)

 

ロブサン・ランパは、トゥルッリクという活仏の生まれ変わりと認定された人物であり、人為的に額の中央にとがった金属で穴を開け、第三の目(アジナー・チャクラ)を外科手術で開眼させられた人物である。この本を読むまでは、怪しげな呪術者が無理やり額に穴を開けて、おそらくはエーテル体のアジナー・チャクラを開けているのではないかと想像していたが、この事例は活仏に対して、チベット国立医学研究所が正式に手術しているものであった。

 

要するに、むやみに相手を選ばずアジナーを開眼させているのではなく、チベット医学の根拠に基づいて、精神的に霊的に、準備のできた者に対してだけやっているのである。アジナーが開眼すると、相手の思念がわかり、相手の前世もわかり、今後の運命もわかる。そうした一種残酷な物の見え方に堪えうる者だけに対して手術しているという印象を持った。手術後も3週間以上の安静を行ってアフターケアもしっかりしている。それなりにちゃんとした科学なのである。

 

逆に、交通事故か何かで、前額部骨折や前額部穿孔になった人が、たいがい相手の思念がわかり、相手の前世もわかり、今後の運命がわかる状態になるということはないので、賢明な現代人諸氏は、真似することはないだろう。

 

ロブサン・ランパは、後に先代のダライ・ラマに頼まれて、中国からの使者のオーラを見てその思念を報告しなさいと命じられた。ロブサン・ランパは、「自分自身で、相手の思念や、相手の前世や、今後の運命を見る能力のない人間がそれを知ったところで意味がない」と考えていたので、ダライ・ラマの命といえども見たことの一部しか述べなかった。

「あの人々は邪悪なる意図を持っています。彼らの霊気の色は不実を示しております」とだけ。

 

最近、他人の前世を見てくれるという触れ込みの人が多いように聞くが、本当に前世を見たのでしょうか。前世が見れるならば、きっと今後の運命も、今の想念も見れる力量があるのでしょう。

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幽霊とはなにか

2023-02-08 21:30:56 | 超能力・霊能力neo

◎砕霊と幽霊考

(2012-10-16)

 

最近、生きながら幽霊みたいな雰囲気の人を見かけるが、ダライラマの「幽霊とはなにか」。

 

『Q:死が意識の究極のありようならば、幽霊とは何なのでしょう。法王は幽霊に遭遇したことはありますか。

 

A:子供の頃、幽霊がひどく怖かったものです。

仏教では苦楽の大小によって六種類の転生を、地獄、餓鬼、畜生、人、阿修羅、天の六つの境地への転生を説きます。またそこに生きる生きものの心身の微細さ、粗大さによって、欲界、色界、無色界(※)の三つの世界にも分けます。

幽霊はこの三つの世界のいずれにも存在し得ます。そのあるものは悪しき存在であり、あるものはよき存在です。

あるものは残酷で、あるものは親切です。

 

※欲界:欲望のある物質的世界.私たちの住む世界も含めて六道輪廻の世界すべてが欲界である。

色界:欲望は断じたが、いまだ肉体が存在している世界。

無色界:肉体はもたず、精神的要素のみからなる世界。』

(ダライラマ日々の瞑想/ダライラマ/講談社P182から引用)

 

砕霊となった霊は、幽霊になるのだろうか。砕霊となった人の自意識はどうなるのだろうか。人の死後のありようということを考えると、疑問はどうしても自意識と霊あるいは、自意識とアストラル体の部分に行きつくのだが、本山博氏もそこは語っていないし、出口王仁三郎も語っていない。

 

輪廻転生の主体と思われるアストラル体が粉々になったら、輪廻転生の原因たるカルマのエネルギーはどう消化されるのだろうか。輪廻転生のサイクルから抜ける解脱ということが砕霊で実現したということではあるまい。

 

死後あるいは、死に至るプロセスをエリザベス・キュブラーロスらが研究したが、現代人はその自意識と輪廻転生(リンカネーション)が一対一で対応しないで、死後が展開するだろうってところまで、研究が深まらないと、生から死、死から生への連続あるいは不連続について知的に納得することはないのではないかと思った。

 

ただその仕組みの解明が、この地獄的な人間社会の改善に役に立つかといえばそうとはいえないとも思う。

 

この幽霊の定義を見ると、宇宙人の定義と似ているように思う。

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ハプスブルグ家の言霊による繁栄

2022-12-27 16:43:21 | 超能力・霊能力neo
◎AEIOU

ハプスブルグ家は、もともとチロルの田舎領主に過ぎなかったが、ルネッサンス前夜からヨーロッパに日の沈まない帝国を築いた。その急速な勢力の拡大の手段は、表面的には、理財、閨閥による領地拡大と戦争の回避であった。

特に理財は、徴税制度の整理や、放漫財政の改善、そしてフッガー家に銀の採掘権を与えることによりハプスブルグ家は莫大な収益を挙げることになり、チロルのインスブルックの王宮には黄金の小屋根を作るほどになった。後にフッガー家は調子に乗ってローマ教会と組んで免罪符発売を大々的に行い、ルターの宗教改革の原因を作ることになる。

ハプスブルグ家が急速に勢力を拡大した立役者は、マクシミリアン1世(Maximilian I, 1459年3月22日 - 1519年1月12日)であるが、実は、その父フリードリヒ3世こそが、言霊を用いてハプスブルグ家をヨーロッパ最強の国家に押し上げる基礎を築いたように見えるのである。

神聖ローマ帝国皇帝だったフリードリヒ3世は、一見だめな王様だった。
1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルは陥落し、隣国東ローマ帝国は滅んだが、この驚愕のニュースを聞いたフリードリヒ3世は、応戦の覚悟も示さず、庭いじりしながら何事も無かったかのようにそれを聞いた。これにより、人々はフリードリヒ3世を凡愚と批判した。

こんな凡庸な兄を見透かして、弟アルブレヒト6世大公は、1463年にウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせたところ、フリードリヒ3世は、10日後にウィーンに駆けつけたものの、追い払われて逃亡した。

フリードリヒ3世は、このように各地で逃亡を繰り返しながらも、オーストリア、ハンガリーなど政敵の死去により、なぜか結果的に次々と領地を拡大できた。

こんな風にヨーロッパ各地を逃亡しながら、フリードリヒ3世が、調度品や壁画などに刻み続けた言葉がある。それがAEIOUである。

古神道家ならアオウエイならぬアエイオウの言霊とすぐわかる。この領地の拡大の仕方を見ると、言霊の妙用を心得たクンダリーニ・ヨーギがフリードリヒ3世の背後にいて、的確なアドバイスをし続けたのではないかと。

AEIOUは、ラテン語で、「世界はオーストリアのもの」というフレーズの頭文字を並べたという説を唱える学者もいるが、そうではないだろう。フリードリヒ3世は、生涯AEIOUの意味を明かすことはなかったという。

後世、ハプスブルグ家の領地プラハが魔術の都として栄えるが、そういう伝統が既にチロルにはあって、それが伝播した可能性もある。

以下は霊界物語73巻による出口王仁三郎のアオウエイの説明。アオウエイは現象世界を構築する基礎の基礎。それを妙用できれば、澄みきりすみきる心楽しいことである。

『大虚空一点のヽあらはれて
  スの言霊は生れ出でたり
 澄みきりしスの言霊は生ひ立ちて
  天之峯火夫の神とならせり

 峯火夫の神の功のなかりせば
  紫微天界は生れざるべし
 久方の天之峯火夫の神は天界の
  万有諸神が主神に坐します
 主の神の力によりて宇迦須美の
  神の御霊は生れましけり


主の神の初声にあれし言霊は
  宇迦須美の神のウ声なりけり

ウの神の功は下りて大津瑞穂
  神と生れます言霊なりけり
 ウの神は上に開きて天津瑞穂
  アの言霊と生れたまひぬ

起し助け大成大気の活用(はたらき)は
  オの言霊の功なりけり

内に集り空に開くる活用(はたらき)は
  ア行エ声の言霊なりけり

火と水をあやなしこれの天界に
  命を与ふるイの言霊よ


生き生きて生きの果なき天界を
  造りたまひし主の神畏し

 広々と果しも知らぬ天界に
  澄みきりすみきる心楽しも』
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超能力の落とし穴-2

2022-12-22 20:28:46 | 超能力・霊能力neo
⑵超能力者を中心としたカルト化

超能力の特筆すべき問題点は、超能力者を中心とした集団ができた時に、大きな社会問題となることが多いことである。そういった傾向は、過去むしろ西欧において顕著であった。
日本では、仏教における超能力の考え方が抑制的であったことや、神道においては審神(さにわ)と呼ばれる憑依した神霊の貴賤高低を鑑定する技法があったためか,歴史的にあまりそういう例は多くはないが、最近の某カルト教団の例もある。

超能力ができることを神の子とか預言者である証拠とし、信者に対し、好き放題に振る舞ったカルト教団の教祖は古来いくらでも事例がある。それほど一般の人は超能力者に弱く、超能力者を全能の者と見たがり、祭り上げる傾向がある。
超能力者は祭り上げられることにより、権力の甘さを知るとともに、自分が預言者なぞではないことを知っているが故に、信者に法外の要求を繰り返し、それを実現させることにより、自分の表面的なカリスマ性を維持する手口が多い。

実例としては、17世紀のトルコのサバタイ・ゼビから、最近では人民寺院のジェームズ・ジョーンズ(1978年南米ガイアナで900人以上が集団自殺)や、ブランチ・ディビディアンのデビッド・コレシュ(1993年米当局と武力抗戦、死者4、負傷者16)がある。
※コリン・ウイルソンの『カリスマへの階段』に実例が多数挙がっている。
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超能力の落とし穴-1

2022-12-22 20:26:46 | 超能力・霊能力neo
◎超能力の特質

冥想の最大の障害の一つは、まず超能力である。冥想の修行の進歩の手がかりとして『超能力が使えるようになった』というのはとてもわかりやすい。しかし、超能力そのものに善悪の色はないけれど、機能が強力であるだけに、その使い方を簡単に誤りやすいのである。

そして、どの冥想段階でも、超能力の発現に伴い、それにとらわれてしまえば、冥想の発展は自動的に止まる。
超能力は、それを持つことによって人間の自分勝手な欲望を満たしがちなものであり、欲望を満たすことによって更にまた自我を増大させるという悪循環に陥りがちである。 

⑴超能力の特質
仏教では、超能力のことを六神通力と言い、天眼通(千里眼:遠くのものが見える)、天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる)、・他心通(他人の心の中が判ること)・宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)・神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ)・漏尽通(煩悩がない)の通力とされる。

この中で、漏尽通は、いわゆる超能力とは言えない。漏尽通は解脱であり、究極=ニルヴァーナに触れないと煩悩がなくなることはない。また携帯電話の発達により、ほとんどの人が天耳通は実現している有り様なので、神通力としての天耳通のありがたみはあまりない。

さてあなたが超能力を使えるようになったとする。
たとえば宿命通が備わったら、競馬の当たり馬やこれから価格が上がる株を予想してがっぽり儲けようとするでしょう。他心通が備わったら、商売がたきが次に何をしようかを知り、先手を打とうとするでしょう。千里眼が備わったらマスコミが報道でカットした事件の現場とか真相を見にいったりするでしょう。
チベットでは、額の中央に器具で穴をあけることで人為的に千里眼を開花させ、千里眼で金の隠し場所を探し、盗みに利用するという奇怪な技術まであるという。

よっぽどできた人以外は、このような安易な使い方をするものだと思う。超能力が開花した時から、その人は道徳的な意味で聖人君子に変わるわけではないのだ。

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ツンモ=人間発熱機の威力

2022-11-24 19:03:44 | 超能力・霊能力neo
◎肉体でできること

河口慧海が、ヒマラヤの峠で大雪に降り込められた時に、坐禅と呼吸法で肉体を暖め、一晩を明かしたことには驚かされたものだ。

昔のチベットでは、そんなことはツンモと呼ぶ行法によって普通に行われていた。

ツンモは火炎の観想と、ある呼吸法による。
『他の多くの場合と同様、ここでも、土着のボン教の呪師から借用したやり方が使われている。ボン教の呪師の一人は、トランス中に熱を起こすのは呼吸ではなく、太陽の観想によるものだと語ったことがある。

わたしが信じないでいると、彼はこう付け加えた。
「暗示によって人を殺すこともできれば、自己暗示によって自分を殺すこともできる。こんなやり方で死を呼び起こせるのなら、熱を起こすなど簡単ではないか」

吸気と止息、吐気は、定められた通り、機械的に行うことになっている。ツンモの行者は火焔の観想を決して中断せず、また観想に付随させる真言の唱えも絶やさない。行者たちは、いとも容易に火焔の勢いを観想できる。このプロセスが自然に進み、徐々に熱感が全身に広がってくる。

ツンモ行の生徒たちは、行の終りにテストされることがある。

凍えるような真冬の夜、修行を終えた生徒たちは、川か湖の岸に連れて行かれる。川が凍っていれば、氷に穴が空けられる。月夜の晩、それも強風の吹きすさぶ晩が選ばれる。このような晩は、冬場のチベットでは珍しいものではない。

生徒たちは裸のまま氷の上で座禅を組み、その上から氷水に濡らした敷布を掛けられて、これを乾かさなければならない。乾けばすぐさま敷布は氷水に浸されて、また行者の身体に巻きつける。こんなことが朝まで繰り返される。こうして一番沢山敷布を乾かした者が勝者となる。

一晩で40枚も敷布を乾かした者もいるという。このような話の中には誇張もあるかもしれない。また場合によっては敷布と言っても名ばかりで、かなり小さな布切れが使われることもあるだろう。しかし、わたし自身は、大きめのショールくらいの布を何枚も乾かしてしまう行者を見た。

(中略)

ツンモ行によってどの程度の成果が得られるのかを完全に把握することは難しいが、いずれにせよ、この中には真実の現象もある。前にも述べた通り、隠者たちは真冬の最中でも裸もしくは裸同然の姿で平然と生きている。彼らを見たのはわたしばかりではない。エベレスト探検隊も彼らを目撃したと記録しているのである』
(チベット魔法の書/A.デビッドニール/徳間書店P238-241から引用)

超能力比べみたいなのは論外ではあるが、これは、体感マイナス30度、40度のところで、修行したり生きていくために必要な技だった。ミラレパもツンモを使って生き延びたエピソードがある。

人が、こんな技が必要なシチュエイションに追い込まれることのないことを祈りたい。
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呪殺の論理

2022-10-30 15:25:32 | 超能力・霊能力neo

◎勘違いの所業

11世紀チベットの大霊能力者ドルジェタクは、霊能力者としては一流だが、求道者としては、どのような位置づけとなるのだろうか。

 

まずドルジェタクの言い分は、呪殺(度脱)の動機は、慈悲菩提心を起こし、衆生を救済しようという気持から出ているとのことであるから、その人がそれ以上悪いことをしないように、早々に命を奪うことが、慈悲であるというようなものである。

 

実際は、ドルジェタクが自分が呪殺される危機に瀕して、呪殺合戦になり、呪殺合戦の勝者が正義であり、慈悲であるという論理で、数しれず呪殺を繰り返している。

 

一体どんな修行をすれば、人殺しでも、他人の財産の略奪でも、何をやってもいんだという心境になるのだろうか。

 

さて、その手がかりとなるような記事が2つある。

 

ひとつは、江戸時代の禅僧至道無難の「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ」というものである。その人には、確かに神を見る、窮極を見るという体験は、間違いなくあるのだが、それを至上のもの、最終的なものであると見誤ると、「俺は、すべてを知った。だから何をやってもいいんだ」という本人の自覚のない増上慢に陥るのだと思う。そして、その後、悪業三昧ということになるのではないだろうか。

 

もうひとつは、ダンテス・ダイジの「で、このくらいまで行けばさ、もうブラック・マジックも成立しない。ブラック・マジック、つまり破戒っていうけど、破戒無慙とか破戒僧とかいうのはね。ゼロポイントのひとつ手前に留まるんだ。」。

一方で神や仏の実在を確認はしているものの、他方で物欲や性欲、名誉欲、財産欲など、この世的な欲望を棄てきれない状態にあると、このような勝手気まま、なんでもありというとんでもない状態があることを示唆している。

 

このような人は、何しろ神仏のことは実体験として知っているから、議論をしても向かうところ敵無しだろうし、ましてや霊能力がつかえるとなれば、ドルジェタクのように無類の強さを発揮するというのも不思議なことではないと思う。信者も沢山集まるだろう。

 

そしてこのような人が自分の恐るべき行動を後付けで理由をつけたのが、呪殺も慈悲の名の下にどんどんやっていいというロジックになるのだろう。そういうロジックは、本当の愛や慈悲とは無縁のものだから、本質的なところでは、決して通用することのないものだと思う。

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スーパーチャネラー-2

2022-10-20 20:14:40 | 超能力・霊能力neo

◎出口ナオ-2

出口ナオは、学歴が無いので字は書けなかった。

1893年 大槻鹿造(長女の夫)はナオを座敷牢に40日間閉じ込め、ろくに食べ物を与えなかったので、ナオは神に教えられて、掌をしゃぶって、ひもじさをしのいだ。その時ナオは神の命ずるままに落ちていた古釘で柱に文字らしきものを柱に書きつけた。これがお筆先の始まりとされる。後に和紙に墨のスタイルのオートライティング(自動書記)が主流となった。

                                       

出口ナオにかかった神は、『艮の金神』(うしとらのこんじん)。これは、陰陽道でいう、鬼門の祟り神で、人格神としてはトップクラスの神。ところがこれは、大神(唯一神)の働きのことを言っており、『艮の金神』とは、『はじめの神』であり、『とどめの神』であるとしているので、実は、唯一神である。

艮の金神の主張は、世界の刷新(立替え立直し)を行い、千年王国(万劫続く松の世)を築くことであった。

《参考:大本神諭 天の巻/東洋文庫》

 

出口ナオは、後に日清戦争、日露戦争を予言することになるスーパーチャネラーである。

通常ここまで高い神霊がかかるのは、日常生活を完全に捨てた修行専門の環境で、修行できた者が多いが、ナオは、主婦の生活を通じて、このような高いレベルの神がかかるまでの境地に達したというのは稀有なことである。

 

つまり、唯一神のバイブレーションを直接に受け取ることができるほどの精妙な感受性があったことと、それを夾雑かつ理不尽な家族関係と、極貧で困難な生活な生活の中で、維持し続けたことこそすばらしいことだと思う。

 

修道院生活を続ければ、神を見ることは比較的容易とも言えるが、それを騒然とした邪境とも呼ぶべき日々の生活の中で維持することは極めて困難なものなのである。だからこそ出口ナオの境地は評価される。

 

日常生活で、ここまで、これでもか、これでもかと、理不尽、不条理な出来事に迫られても、それを逃げることなく、見つめることができなければ、霊界の最上位クラスの神霊がかかるものではない。

 

通例ここまで苦労した場合、人を恨み、世を恨み、神を恨み、自分の身を呪うというパターンに陥りがちなのであるが、そういうこともなく、真正面から生活に取り組み続け、発狂することもなく、ほとんどその悪業が消し尽くされ、純粋な空っぽの入れ物になったからこそ、唯一神が、かかったのだろうと考えられる。

これが窮極の霊媒の姿である。

 

『口と心と行いと違わぬものでないと、この神の御用は聞けんぞよ、誠を貫くものでないと、神のお取次はできんぞよ、我が身がかわいいようなことでは、このお取り次ぎはできんぞよ』《大本神諭》と、利己心がないのが必要条件となっている。

 

キリスト教に『召命』ということばがある。「神の恵みによって神に呼び出されること。」である。大本神諭にもナオが召命を受けたことを意識している表現がある。『艮の金神の御用聞かせるのは、我のあるくらいでないといかず、(略)』とそのメッセンジャーになるためには、「自分」というものがないと駄目だと言っているのである。

はからずも「チャネラーは、自分というものを捨ててはチャネラーになり得ない」と説明しているのだ。また神の側から、ナオがチャネラーとして適した者として、召命したのである。

                        

というわけで簡単な神事とかトレーニングを経ただけでチャネリングできる場合、その霊や神の高さは、十分に怪しいことが推測されるのである。

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スーパーチャネラー-1

2022-10-20 20:11:39 | 超能力・霊能力neo

◎出口ナオ-1

 

日本の代表的チャネラーと言えば、まず出口ナオ。

神様におもちゃにされたとしか思えない境遇の中で、発狂せずに生きてきたというのは、それだけで、常人にはできないことであり、生活そのものが、禊(みそ)ぎに見える。

 

出口ナオ(1837-1918)は、大本教の開祖である。

ナオは、天保の大飢饉のさなかに京都府福知山の貧しい大工の家に生まれた。

9歳で父を失い、住み込み奉公を続けて、出口家の養女となり、18歳で四方豊助を夫に迎えた。

夫は腕の良い、お人好しの大工で、酒好きの浪費家であった。幕末、出口家は次々と田畑・家屋を手放して、没落を続けた。

 

ナオは、47歳までの25年間に11人の子を産み、そのうち8人が成人した。

夫妻は子供が10歳になると、次々に徒弟や住み込み奉公に出したが、大工仕事のわずかな収入では、夫の浪費に追いつかず、1884年には、一家は破産、夫も脳卒中になり、ナオは饅頭屋を開いて細々と生計を立てた。翌年夫は仕事場で重症を負い、そのまま病床に伏してしまった。

 

その頃長男の竹蔵は、大工の徒弟に出ていたが、仕事のつらさに堪えかねて、ノミでのどを突き、重症の身で実家に帰って来た。ナオは二人の重病人をかかえ、三人の幼児を育てるために、重労働のボロ買いや糸引きの賃仕事で生活を支えなければならなかった。

 

1887年夫は病死し、ナオは51歳で未亡人となった。

長男は傷が癒えると家を飛び出し、行方不明となった。

次男清吉は兵隊にとられた。

長女よねは農家へ嫁いだが、半年でばくち打ちの大槻鹿造の許に出奔した。

次女ことは、家の貧しさに堪えかねて、姉よねのもとへ逃げ京都に出た。

三女ひさは、人力車夫福島寅之助に嫁ぎ、夫妻で金光教を信仰していた。

家には幼い四女りょうと五女すみがいた。

 

更に1890年9月三女ひさは、産後の肥立ちが悪く、逆上して暴れ出したため、座敷牢に入れられて、しばしば神の幻影を見るようになった。続いて1891年11月長女よねが発狂した。よねの発狂ぶりは特に激しく、家の前に見物の人が立つほどであった。

 

このように当時にあっても稀なほどの苦労をした。

 

ナオは、1892年2月に初めて激しい神がかりになり、それからチャネリングをはじめるのである。

    《参考:大本神諭 天の巻/東洋文庫》

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釈迦の超能力

2022-10-19 05:55:51 | 超能力・霊能力neo

◎第一の関心事は冥想修行

 

釈迦は、超能力をなにげなく用いる。

 

ジャータカ(釈迦前生譚)の320話に薄情者前生物語というのがあり、この中に釈迦が二人の資産家夫婦の訪問をアポなしで受ける場面がある。(師は釈迦)

 

『二人は、ジェータ林の近くに来て、

「水を飲もう」と僧林に入り、水を飲んだ。師は早朝にその二人が<聖者の最初の境地>に達する可能性があることを見ぬき、〔二人が〕やってくるのをお待ちになりながら、香気ある房舎の一室で六色の仏の光明を放ちつつすわっておられた。

 

二人は水を飲んでからやって来て、師を拝んですわった。』

 

釈迦が早朝に、その超能力で、二人の夫婦が来訪することを予知し、なおかつその二人が<聖者の最初の境地>に達する可能性があるのを真っ先に見ぬいたことがポイント。

 

占い者なら、金持ちなのか、健康なのか、夫婦仲がうまくいっているのかなどと、通俗的なことを見たがるものだろうが、釈迦の関心はその一事にある。まずは冥想修行であって、そしてどうやって悟りに導けるかが第一。

 

ジャータカは史実ではないのだろうが、釈迦であったらこうだろうという、気軽な超能力使用を含めた日常の所作がうかがえる一場面である。

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