アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

心の骨折(ほねおり)

2023-09-06 06:53:17 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎人知れぬ心の苦しみまで感じとる

 

以下はいずれも松尾芭蕉49歳の句。

 

人も見ぬ春や鏡のうらの梅

(鏡の裏に彫っている梅など誰も知らないが、世に隠れ住む私にも春はやってきている。)

孤独な私の思いにも斟酌などせず季節も時代も進んで行く。

 

鶯や餅に糞する縁のさき

(春の光を受けて縁側にかき餅を広げて干してあるが、そこに声の美しい鶯が無粋にも糞をして去って行った。)

美しい風景にもリアリズムの面がある。禅とクンダリーニ・ヨーガのコントラスト。

 

両の手に桃とさくらや草の餅

(庭にある桃の花と桜の花を両手に携えて、草餅を食べるという、幸福この上ない様子。)

禅家は、桃の花と桜の花も草餅も切って捨ててみせるが、クンダリーニ・ヨーギは、いずれも愛でて味わう。

 

鎌倉を生きて出でけむ初鰹

(新鮮な初鰹が魚屋の店頭にやってきたが、鎌倉を出る頃には、まだ生きていたのだろう。普通の人ならば思いも及ばぬ、初鰹が経てきた人知れぬ心の苦しみまで感じとるのがクンダリーニ・ヨーガ的。人知れぬ心の苦しみのことを「心の骨折」と称する。

 

芭蕉は禅で大悟したにもかかわらず、かえって繊細な感覚を表面に出して、日常の行住坐臥の中に、魚の運命の転変までも思いやるデリカシーを見せている。

禅は水平の悟り、クンダリーニ・ヨーガ系は垂直の悟り。二つを手に入れれば人生としては完成である。これぞトースとダンテスの合体の相ではある。

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三位一体と西洋の二位一体

2023-02-17 03:27:36 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎海幸彦と山幸彦の予言

 

出口王仁三郎は、三位一体の三にはこだわっておらず、あくまで神人合一を目標とすることに揺るぎはない。

 

以下の文のとおり、キリスト教は太母なき実質二位一体だが、太母を認めれば三位一体の完成を見るだろうとしている。実際にカトリック教会は、1950年に聖母被昇天を認めた。

『ミロク三会

 

天のミロク、地のミロク、人のミロクと揃ふた時がミロク三会である。天からは大元霊たる主神が地に下り、地からは国祖国常立尊が地のミロクとして現はれ、人間は高い系統をもつて地上に肉体を現はし、至粋至純の霊魂を宿し、天のミロクと地のミロクの内流をうけて暗黒世界の光明となり、現、幽、神の三界を根本的に救済する暁、即ち日の出の御代、岩戸開きの聖代をさしてミロク三会の暁と云ふのである。要するに瑞霊の活動を暗示したものに外ならぬのである。天地人、又法身、報身、応身のミロク一度に現はれると云ふ意味である。法身は天に配し、報身は地に配し、応身は人に配するのである。昔から法身の阿弥陀に報身の釈迦、キリスト其他の聖者が現はれたけれ共、未だ自由豁達進退無碍の応身聖者が現はれなかつた。故に総ての教理に欠陥があり、実行が伴ひ得なかつたのである。ミロク三会の世は言心行一致の神の表はるる聖代を云ふのである。人間にとれば天は父であり、地は母であり、子は人である。

 

キリストは三位一体と説いて居るが、その三位一体は父と子と聖霊とを云ふて居る。聖霊なるものは決して独立したものでなく、天にも地にも人にも聖霊が主要部を占て居る、否聖霊其ものが天であり、地であり、父であり、母であり、子であり、人である。故に三位一体といつても其実は二位一体である。キリスト教には父と子はあつても母が無い。マホメツト教も亦其通りである。仏教は一切が無であつて、父も無ければ母もなく、唯人間あるのみと説いてゐる。なぜならば唯心の阿弥陀に己心の浄土と云つて居るでは無いか。今日までの既成宗教は総て父があつても母が無かつたり、母があつても父がなかつたり、変性男子があつても女子が無かつたり、不完全極まる教理であつた。天の時来つて真の三位一体即ちミロク三会を説く宇宙大本教が出現したのである。

 ああ惟神霊幸倍坐世。』

(水鏡/)出口王仁三郎から引用)

 

そして、神人合一を目指すことを述べる。

『元来宗教なるものは、仏教にもあれ、基督教にもあれ、人と神(仏と人、大我と小我)との融合一致に重きを置くものなり。即ち四諦観といひ、三位一体説といふも、其の意義に於て異ることあるなし。所謂天人合一を主とするに在るのみ。』

(出口王仁三郎全集 第2巻 第2章 宗教の害毒から引用)

 

このように出口王仁三郎は、三位一体を完成形と見ている。

※三位一体:天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神。

『真神である天之御中主大神が、その霊徳を完備具足したとき、天照皇大神という。また撞の大御神という。火の御祖神を高皇産霊大神と唱え、厳の御魂と申し奉る。水の御祖神を神皇産霊大神と唱え、瑞の御魂と申し奉る。以上の三神はそのご活動によって名称・働きに種々あれども、三位一体にして、天之御中主大神(大国常立命)に帰着する。故に独一真神である。一神即多神、多神即一神であり、短く「主」という。厳の御魂は霊界人の主であり、瑞の御魂は現界人の心身内を守り治める主である。』

(霊界物語 第17巻 霊の礎(三)から引用)

 

古事記において、天の安の川原で天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になって、伊都能売神になったが、これで三位一体は成った。

 

ところが時代は下って、海幸彦に代表される功利優先にして母性をないがしろにする、死を忌避するアポロン型の近代西欧文明が地球を席捲する時代となった。ここに山幸彦が一旦は人間以下ともされる竜宮にまで落ちて修行し大悟覚醒し直して、地上に上陸して神主主義の文明、至福千年、みろくの世を開くというプロットが古事記についている。

 

現代は、いろいろな宗教や文明が乱立しているが、最も強盛なのは、キリスト教をバックボーンにした死を忌避する、母性を二の次に置く近代西欧文明と言ってよいだろう、これが世界中が海幸彦のやり方に染まった姿。日本のシンボルである山幸彦は、辛苦の末に最終的に海幸彦を従わせることになる。

 

ここまでが古事記の上巻であり、出口王仁三郎は予言として実現すると言っている。

 

心理学者ユングはどうしても四位一体と唱えたいようだが、古神道では三位一体。無理に四に合わせることもないように思う。

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錬金術師マリア・プロフェティサの公理

2023-02-15 07:03:11 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎第四のものとして全一なるものの生じ来る

 

マリア・プロフェティサは、3世紀アレクサンドリアの錬金術師。『一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり』という錬金術1700年の歴史を貫く公理を呈示した女性。

 

この公理について見事に説明し得た文が以下にある。

『さらに、ユングが述べるのは、三位一体が男性的な数、三の象徴に基づいているのに対して、錬金術は神が四一性の(quaternarian) 観点 (四は女性的な数)に傾いているという事実です。続けて、次のような結論を述べます。

 

それゆえ、三位一体は決定的に男性的な神性であり、キリストの両性具有(アンドロギュノス)、そして、神の母に授けられた特別の地位と尊崇はその男性的神性に十分対等のものではない。

 

〔キリストやマリアの位置づけは〕いわば、女性的な側面へのわずかな譲歩であって、真実、同等のものとはなっていないということです。

 

このような断言を読者は奇妙に思うかもしれないが、これによって、錬金術の中心をなす公理の 一つに到達するのである。つまり、マリア・プロフェティサの命題にである。「一が二となり、二が三となる、第三のものから第四のものとして一なるものが生じる。」

本書は、書名からわかるように錬金術の心理学的意義が問題となっている。・・・・・・ごく最近まで、錬金術に学問的関心がもたれたのは、化学の歴史で果たした役割に対してでしかなかった。・・・・・・歴史上の化学の発展に対する、錬金術の意義は明白である。それにひきかえ、精神史上の意義は依然としてあまりにも知られておらず、その意義がどこに存するかをわずかな言葉で述べるのはほとんど不可能と思われる。

そのこともあって、この序文で、宗教的、心理学的問題の概説を試みたのである。······ポ イントは、錬金術が表層で支配的であったキリスト教に対する低層流のようなものを形成している、ということである。錬金術のこの表層との関係は夢の意識との関係に相当する。ちょうど、夢が意識の葛藤を補償するように、錬金術はキリスト教の対立物の緊張によって開かれたままになっている亀裂を埋めようと努める。

おそらく、この事態を表現するもっとも意味深長なものは、先に引用したマリア・プロフェティサの公理である。・・・・・・このアフォリズムにおいては、キリスト教教義の奇数のあいだに偶数がはさみこまれている。偶数は女性的なるもの(女性原理)、大地、地下的なるもの(地下領域)、〔それどころか〕悪そのものをも意味している。これらは「メルクリウスの蛇(セルペンス・メルクリー)」、つまり、自らを創造し、破壊する、「第一質料―プリママーテリア」をも表す龍として、人格化される・・・・・・・。

世界史上で、意識が「男性的な」側へと移行したことが補償されるのは、〔なによりも〕 無意識の地下的、女性的なるものによってである。キリスト教以前の諸宗教のなかには、すでに男性原理が父・息子の特殊化したかたちでの分化を開始していた宗教が存在する。』

(ユング思想と錬金術/M-L.フォン・フランツ/人文書院P47-49から引用)

(文中の引用部分は、ユングの心理学と錬金術ⅠのP40付近)

 

一は、主なる神。これがマーヤ、無明、現象に分化して二。父なる神と聖霊とイエス(男性なる人間)が出現して三。これで家父長的な三位一体は成る。

 

ここでマリア・プロフェティサは、キリストが脇腹から女を引き出して山頂で交わった幻視を得た(出典:錬金術の世界/ヨハンネス・ファブリキウス/青土社P343)というが、これが四。

 

M-L.フォン・フランツは、男性原理が父・息子の特殊化したかたちでの分化を開始していた宗教の例としてエジプトを挙げる。

 

我が日本神話では、天の安の河原での誓約で天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になって両性具有たる伊都能売神となったのが、三位一体の外での四位一体の完成。これでも女性原理の復活はまだ不足だったのか、さらに山幸彦である火遠理命が地より更に下の竜宮にまで落ちて後、地に復帰して世界統一をするのが太母の体験を経て、四位一体を更に完成する姿にも見える。

 

似たようなモチーフが二重三重に繰り返されることがあって、はぐらかされがちだが、それでも真理を見ようとする目があれば、わかる場合があるのではないか。

 

なおユングは、キリスト教の四位一体を次のように示している。

       聖霊(鳩)

キリスト    +     父なる神

       聖母マリア

(出典:結合の神秘Ⅰ/ユング/人文書院 P237)

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西洋人の疑い深さと心的圧力

2023-02-14 07:42:37 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎三位一体が四位一体に変容

 

聖母被昇天は、19世紀に無原罪のお宿りがカトリック教会に認められ、さらに1950年に一歩進めたものだった。C.G.ユングですら聖母被昇天というのは、神聖結婚(天国と地獄の結婚)の重要な要素であるにもかかわらず、肉体自体が聖なるものに転化するという望みを捨てていないことに驚かされる。これは、彼が錬金術が黄金という物質を最後の最後まで追い求める姿勢が連綿として変わらないことに影響を受けてしまっているせいかと思う。

 

歴代錬金術師の中で、錬金術の目的が黄金変成でなく、悟りを求めるものだという見解に立っているのは意外に少ない。それが証拠に無数の錬金術師は、一生の間、全財産を費やし薪・石炭などの燃料を買い水銀や硫黄などの素材を集め、実験に継ぐ実験を繰り返し、最後は文無しに陥るのが常だった。

ユングはそうした例をいくつも見ているから余計に肉体や物質自体が聖なるものに転化するという奇蹟を信じていたのだろう。

 

イエスの弟子トマスは、イエスの槍で破られた脇腹に手を入れさせてもらってようやく信じた。その姿勢を科学的とか疑り深いというのはたやすいが、その心性は西洋人の深いところに根差すものであり、それが産業革命以来の物質文明発展の原動力になったが、むしろそれは、神、聖なるものを素直に直観しにくいという心性と裏腹であるように思う。

 

よって、キリスト教では最初に原罪という自分は罪人であるという心的プレッシャーを置かずには、最後の悟りまで突破できないという特徴がみられるのではないかと思う。

 

釈迦は、馬の中でも実際に鞭に叩かれなくても鞭を見せるだけで走るのが良い馬だと譬えたが、そういうこと。

 

聖母被昇天は、素朴なキリスト教信者にあっては、マリアは肉体のまま死亡したのか、エノクとエリヤのように生きたまま天に上ったのかという疑問や、肉体のまま死亡したのであれば、苦痛を感じつつ死んだのかなどという疑問などいくらでも突っ込みポイントが出てくる。

 

だが聖母マリア被昇天の本丸は、完璧な四位一体が成ることで、三位一体が四位一体に変容し、えり好みをしない、反対物の一致、聖なる結婚が公式にあることを認めたということではないのだろうか。

 

       聖霊(鳩)

キリスト    +     父なる神

       聖母マリア      

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聖母被昇天の秘儀

2023-02-13 06:07:08 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎聖母マリアは救済のドラマには不可欠

 

聖母被昇天とは、聖母マリア様が霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、カトリックでは、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を認めた。

 

キリスト教では三位一体と言いながら、実質二位一体ではないかなどと宗派の外から評された原因は、太母の不在だったわけだが、聖母信仰は、公認されないまでも黒い聖母などでずっと昔から生きており、20世紀になってから公認されたわけだ。

 

聖母被昇天の公認については、晩年の心理学者C.G.ユングが高く評価していたのであるが、カトリックでは、聖母被昇天が公認されたからと言って、特段信仰が盛り上がるという動きはなかったようである。

 

その原因は、天国と地獄の結婚、反対物の一致、えり好みをしないことが問題となるような信仰の境涯の進んだ人たちだけにとって聖母被昇天が重要な問題として浮かび上がって来るからなのだろうと思う。

 

そのあたりは、C.G.ユングの晩年の著書『結合の神秘/ C.G.ユング/人文書院』での聖母被昇天に関する記述を見ると、ある程度輪郭を理解できるような気がする。結合の神秘の「結合」とは対立物の結合のことだからである。

 

ユングは、神の息子の元型には自明のこととして母なる女神が含まれていると見る(上掲書ⅡP326)。修行者は、老いたる子を産むと言うが、産む以上は母なる女神が当然に含まれている。

 

一般に天国と地獄の結婚と言えば、天の新郎新婦の部屋で行われるのだが、聖母マリア被昇天においては、処女マリアはその部屋へお昇りになって息子と母の再結合が起こった。つまり結合は一回とは限らないのだ。(上掲書Ⅰ P436)

 

聖母マリア被昇天では、男性的なものと女性的なものが再結合するのだが、それは男性的なる「霊」と女性的なる「魂」の再結合(グノーシス主義者のエレナイオスの説)であって、またカバラ神秘主義のティフェレト(栄光)(=男性)とマルクト(王国)(=女性)の結合という見方に(上掲書ⅠP307)も展開していく。

 

つまり男性的なるものと女性的なるものが再結合とは、精神と肉体の再結合なのだ(上掲書ⅡP252)。

 

ここで、三位一体+聖母マリアとは、以下の図となる。(上掲書ⅠP237)

       聖霊(鳩)

キリスト    +     父なる神

       聖母マリア             

 

太母である聖母マリアは、昔から暗黒、闇のシンボルでもあり、悪魔にも結びつけられていて、昔から三位一体の外側で活動していたが、キリストの敵対者として救済のドラマを成立させるためには不可欠であったこと(上掲書Ⅰ P239)が、1950年になってようやく公認されたのである。

 

以上を踏まえ、それが何の意味があるのかと思う人もいるのかもしれないが、いみじくもユングも言っている。『宗教的体験にあって肝心なのは、ある元型がどれほど明瞭に定式されうるかではなく、その元型がどれほど人を感動させるかということである。』(結合の神秘Ⅱ/ C.G.ユング/人文書院P327から引用)

 

その感動をバネに人は大悟に飛び上がる。

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アダムカドモン-3

2023-01-31 07:19:54 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎神的原人間という響き

 

カバラ本を手に取ると16世紀のカバリスト、ルーリアに言及しない本はまずない。ユダヤ教の冥想と言えばハシディズムだが、ルーリアは、ハシディズムに大きな影響を与え、ゾーハルの読み方にも大きな影響を与えた。ルーリアの方法は、神の側からスタートして個人間に至る古代秘教タイプ。よって原人アダムカドモンは最後の方に登場するのだが、「アダムカドモンの両眼から光線が出て云々」などと非常に誤解を招きそうなところもある。だが、箱崎総一氏の以下の説明では、アダムカドモンとは「セフィロトよりエン・ソフ (Ein-Sof 無窮なるもの)へと移行する媒介体」という仏教の三身に近い考え方をとっているように思う。

 

『カバラ思想家ルーリアによってアダム・カドモンはカバラ思想における中軸概念となった。ルーリアによればアダム・カドモンは単なるセフィロト(Sefirot 原質)の凝縮によって顕示された存在ではなく、セフィロトよりエン・ソフ (Ein-Sof 無窮なるもの)へと移行する媒介体としての意味をもつことになる。ルーリアによれば、エン・ソフがセフィロトの内に顕示されるという概念は廃棄すべきものとされた。』

(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜 箱崎 総一/著 青土社P 391-398から引用)

※ルーリア:(1534年 - 1572年)イスラエルのユダヤ教神秘主義者。著作はないが後世のカバラ解釈に大きな影響を与えた。言行録の端々に本物らしい香気はある。

 

またルーリアは、おおまかに言えば、世界全体であるセフィロトと無窮なるエン・ソフの関係を、無窮なるエン・ソフが縮小して世界を作り始めたというように書いている。

ところが、インドでは、世界全体なるアートマンと無窮なるブラフマンの関係については、何も書かず併記するのが作法みたいになっている。そのことからすると、ルーリアはやや頑張りすぎかもしれないなどと感じるところがある。

 

『ルーリアが壊れた世界を神的身体の内部に描く自らの見解に達したのは、ようやく最晩年になってのことである。傷ついた身体としての壊れた世界の描写は、彼がメシアとして期待した自らの息子の死(彼はルーリア自身の突然の死に先立って死んだ)のあとに生まれた。

 

神的身体はアーダーム・カドモーン、原人間(アントロポス)である。原人間はアツィールートすなわち流出した世界の最高点に立つ。アーダーム・カドモーンはセフィーロートとパルツーフィームを含んでいる。すでに『ゾーハル』において、アーダーム・カドモーンは神、宇宙、トーラーの比喩となっていた。さらにそこには神殿とその犠牲祭儀の連想もあった。『ゾーハル』の後期の層は、この原人間の教説を、人類の現在のジレンマに対する応答と捉えていた。神的原人間を人間的モデルに投影することによって、神的存在との相互作用が可能になる。特定の儀礼を行うことで、宇宙の傷ついた身体の変容と修復が開始される。』

(カバラー/ピンカス・ギラー/講談社選書メチエP124から引用)

 

※パルツーフィーム:「顔」。そのおのおのが神の様相の一つを表すと同時に、修復作業におけるひとつの瞬間を表す。(カバラ 文庫クセジュ ロラン・ゲッチェル/著 白水社P154)

 

次の引用文では、無限がエンソフを指す。

『「無限」から注がれる新たな直線の光は、混沌に秩序を与えることができる。ゆえに「残滓」が散らばる神の隙間には光が降り注ぎ、そこにはさまざまな構造体が出現する。創造のために

用意された「清浄空間」には、まず「原初の人間」 (Adam Qadmonアダム・カドモーン)が現れる。これはエデンの園で最初に創造された人間そのものではなく、カバラーの創造論で語られる神の似姿、あるいは神と人間の中間的存在である。ゆえにそれは一方で神の不完全な模写であり、他方ですべての被造物の霊魂を包摂する人間の巨大な原像である。』

(総説カバラー 山本伸一/著 原書房P223から引用)

 

テクニカル・タームが多くて読みにくいかもしれないが、カバリスト達は、神的原人間を世界の創造以前に遡って存在していたと見た。冥想修行の結果それを確認する段階があるのである。

彼らはそれを神の発出の側から見ていったわけだ。

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アダムカドモン-2

2023-01-30 06:44:59 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎人間における反対の一致

 

神の反対の一致から、人間の反対の一致の展開が一般的であることを見た。

 

アレクサンドリアのフィロンは、イエス・キリストと同時代のユダヤ人哲学者。フィロンが地上の人間と呼んだアダムは創造によって創られたが、天の人間アダム・カドモンは世界の創造に先立って存在した。つまり、いわゆる父母未生の人間がアダム・カドモンであって、一方アダムは神による世界の創造以後に作られたという見方をする。

 

『アダム・カドモン説のアウトラインを素描してみよう。

アダム・カドモン (Adam Kadomon) は一般に "原始の人"と訳されているが、アダムはヘブライ語で人間の意味であり、カドモンまたはカドモニ(Kadomoni)は「第一」または「原初」の意味である。アダム・カドモン説にはグノーシス思想の立場からの解釈とユダヤ教神学からの影響が混合した形で認められ、さらにその背景にはオリエント神学やギリシャ哲学からの影響も認められる。

 

アダム・カドモンについて最初に記述した人物はアレキサンドリアのフィロンである。天の人間であるアダム・カドモンは神のイメージのなかで生みだされた存在であり、腐敗しやすい地上的なものはなんら関与していないとされた。フィロンの見解によれば、アダム・カドモンはロゴス (Logos)が完全に具象化されたもので男性でも女性でもなく、純粋な知的イデアと結合した存在であった。

 

フィロンのアダム・カドモン概念には、プラトンの思想とユダヤ教神学の二つの傾向が認められる。

“神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された" (創世記1.27)

“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった"(創世記2.7)

この章句の内容とプラトン哲学のイデア説が結合したのである。つまり、原始のアダムはイデアと対比され、肉体と血液の創造はイメージと対比された。フィロンの抱いた男性でも女性でもない天の人間の概念はさらに発展していくことになる。

 

前述の章句は、古代ユダヤの思想家集団パリサイ派が注目したところでもある。

"主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた"

(創世記2.22)

パリサイ派では女性エバの創造に関してアダムははじめ男性・女性結合体として創られていたと思考した。

 

"男と女とに創造された"(創世記1.27) の部分は "男性と女性とを創造した"と理解し、『創世記』 2・22で記述された時点において、はじめて男性と女性は分離されたと解釈した。パリサイ派の解釈はフィロンにも影響を及ぼしており、天の人間が両性具有の存在であると規定した背景にはこのパリサイ派の思想がひそんでいると推定される。

 

 “あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます"(詩篇139.5)

この章句はユダヤ教の聖書註解(ミドラッシュ)では、人間の前面は創造の第一日に創られ、人間の背面は創造の最終日に創られたと解釈された。

 

フィロンが地上の人間と呼んだアダムは創造によって創られたが、天の人間アダム・カドモンは世界の創造に先立って存在し、この天の人間が救世主(メシア)、ロゴスなどとして理解された。』

(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜 箱崎 総一/著 青土社P391-393から引用)

 

この文章は、やや晦渋だが、神の創造以前の人間というニュアンスはわかりにくい。一方両性具有については、まぎれはなくはっきりしていて、アダムは最初は両性具有で後分離(イブ、エバ)したのだから、アダム以前のアダムカドモンは当然に両性具有ということになる。

 

なお両性具有の意味は、男女という極く限定的な意味ではなく、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗というようなあらゆる反対物の一致という意味である。

 

次にアダムカドモンの人と神との間の位置づけについて述べる。

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アダムカドモン-1

2023-01-29 06:36:35 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎神の反対の一致、両性具有、天国と地獄の結婚

 

アダムカドモンとは、原人、原始の人などと訳されるが、人間の祖型にして完成した人間の謂いである。完成したというニュアンスには、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗などの二元の両方すなわち両性具有が含まれる。荘子の真人もアダムカドモンと同義。禅の信心銘のえり好みをしないというのも同じ流れ。

 

アダムカドモンの起源について、神の被造物としての人間ということから追うと収拾がつかなくなりがちだが、エリアーデ風に神も両性具有であって、人間も両性具有であると見れば、人は神の生き宮であるというスタイルに沿う。

 

神の両性具有として、エリアーデは以下を挙げる。ヤハウェは善であって怒りの神。キリスト教の神は恐ろしく、やさしい神。インドのシヴァ神は、カーリー女神の姿をしたシャクティを抱擁しているサンヴァラ(交合図)。さらに言えば古事記の素戔嗚尊と天照大神の誓約もそれ。これらは、発展して球体や、卵(宇宙卵)、鏡、一円相というシンボルに転ずることもある。

 

エリアーデは、次のように両性具有神がアダムカドモンのような両性具有人に対応していると説明している。

『両性具有神の神話は、「反対の一致」を表現するものの中でも、ひときわ明瞭に、神の存在の逆説を示しているが、この神話に対応するのは、両性具有人間に関する一連の神話や儀礼である。この場合、神についての神話は、人間の宗教経験の範型をなしている。「原人」とか祖先とかは両性具有であったとする伝承は(トゥイスト型)ひじょうに多く、それより後代の神話伝承は「原初の夫婦」について語る(ヤマ Yama すなわち「双生児」――とその姉妹ヤミ Yami 型、もしくはイランのイマ=イマグ Yima-Yimagh、 マシュヤグ=マシュヤーナグ Mashyagh-Mashyânagh 型の夫婦)。

いくつかのラビの注解書は、アダムもまた、両性具有とされていたこともあると仄めかしている。すると結局、エヴァの「誕生」は、最初の両性具有を男と女の二つの存在に分けることにほかならなかった。 「アダムとエヴァは背中あわせに、 肩と肩とがくっついていた。そこで神は斧をふるって、あるいは二つに切ることによって、 二 人を分離した。それと違う説をなす人もいて、最初の人 (アダム)は右側が男で左側が女であったが、神はそれを半分に割ったのだという」。』

(エリアーデ著作集 第3巻 聖なる空間と時間 ミルチャ・エリアーデ/著 せりか書房P138から引用)

※トゥイスト:ゲルマン神話に出てくる神で両性具有。

 

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天国と地獄の卒業-5

2023-01-23 07:46:31 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎見ている自分が残り、消える

 

イーシャ・ウパニシャッドでは、自分個人が世界全体に転換して、その次に言葉では言えないシチュエイションに飛び込むわけだが、自分個人が世界全体に転換するサプライズについては、感動を以って描かれているわけではなかった。

 

すでに非思量底の、つまり思考を超えた世界であり、無意識の世界ではシンボルで思考するなどと言うが、その思考は麻痺し、その場では立ちすくむばかりで、ただ見ているばかりなのか?見ている自分と見られるものが合体する瞬間。

 

第一、イーシャ・ウパニシャッドの経文の

『いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る

我は日神たちと共に座す者である』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)』

この一節の前半では、見ている自分が残り、後半では見ている自分は残っていないかのようである。よってこの一節だけが、個から全体への逆転だとして、そのサプライズの動揺も記述がなく、その変化が当たり前のことのように淡々と描かれている。

まるで「体験した者だけがこれをわかる」という風である。

 

天国と地獄を卒業すれば、非二元、ノンデュアリティの世界に入るはずが、そのメカニズムはそう単純明快なものではなく、人間の現実認識のあり方からすれば容易に具体的に描写できる代物ではないようだから、このようなわかったようなわからないような記述になるのだろう。

 

禅の信心銘で、自分と世界全体についての言及がある。

『真如法界 他無く自無し

急に相応せんと要せば 唯(ただ)不二と言う

不二なれば皆同じ 包容せざる無し』

(大意:過去現在未来を含む世界全体には、他も自もないが、どうしても言葉にするならば、非二元(不二)である。不二はすべてを含む。)

 

これも、『悟りを開けば、世界はあなたと私は一緒の非二元』みたいな単純な物言いを避けた表現となっており、そこにこそ秘儀、神秘が隠されているのだろうと思う。

 

人はいろいろと願望がありすぎて見込みのないことばかり望み続けるものであり、本当に追い込まれてどうしようもなくならないと『現実を受け容れない』あるいは『真理を受け容れない』ものである。その先に真如がある。

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天国と地獄の卒業-4

2023-01-22 06:32:24 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎無始無終へと跳躍していく最終地点

 

イーシャ・ウパニシャッドの経文から。

『太陽よ

世界を育み支えるものよ

空の孤独な旅人よ

ヤーマよ 太陽よ ブラフマンの太陽よ

汝の光を納め給え

いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る

我は日神たちと共に座す者である』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)

※ヤーマ:死の神。

 

これは、アートマンがブラフマンに突入して起こるニルヴァーナを描写するものだが、一読して全然そのようには読めない。

文中の太陽は、ブラフマンの太陽であって中心太陽、未顕現のブラフマン、種(たね) のブラフマン。

 

OSHOバグワンの説明はこんな具合。

これも祈願文であって、修行者は、「太陽よ。その光をお納めください」と祈る。既に修行者は、生も死も、光も闇も克服済である。そこで前の段階で、黄金の覆いである光を取り払って下さいと神に祈願したのと同様の祈りを行う。

 

生も死も、光も闇も克服する方法は、二種あって、太陽が生も死も光も闇も創造している中で両方とも受け入れる方法と、太陽に祈って生も死も光も闇も創造する以前のすべてを収縮吸収した源泉の太陽の状態に戻してもらう方法である。

ここは後者を祈る。修行者が死にも闇にもこだわりがないからこのような祈りができる。

 

『それゆえに賢者は言う、「偉大なる太陽よ、ヤーマよ。あなたは生を授けるお方、生と死の均衡を計るお方。生をお納め下さい。死もお納め下さい。私は生と死を超え、生まれることも死ぬこともないものを知りたいのです。その源泉を知りたいのです。何もなかった最初の瞬間、あらゆるものがそこから生まれ出る、まったき虚空が存在した最初の瞬間を知りたいのです。 あらゆるものが再び吸収され、何も残らないその最後の瞬間を知りたいのです。あらゆるものが生まれ出るその虚空、あらゆるものが吸収されるその虚空を知りたいのです。お願いです。あなたの溢れ出る光をすべてお納め下さい」

 

確かにこれは、目に見える外界の太陽に向けられた祈りではない。これは内側の、あの場所に達した後に唱えられたものだ。その向こうには、無始無終へと跳躍していく最終地点がある。この、「太陽よ、すべてをお納め下さい」という祈りはこの時に唱えられる。そうした祈りを唱えるには、大いなる勇気、この上ない大胆さが要求される。なぜなら人は、「生と死がなくなり、偉大な太陽の光がすべて引き払われる所で、生きていられるだろうか。私も滅びてしまうのではないだろうか」と思うからだ。

 

だが、賢者の望みはこれだ―「私は生きているかもしれないし、死んでしまうかもしれない。 だが、それはもはや問題ではない。要は、常住のものを知りたいということだけだ。私は、すべてが失われすべてが滅んでも存在するものを知りたい。私まで消えてしまうかもしれないが、失われることのないものを知りたいのだ」

 

限りない年月の間に、数限りない人々がこの世で真理を捜し求めてきた。しかし、この世のどこにも、内なる世界で為されるような探求は見られなかった。この内なる世界の探求者たちが為す究極の探求、勇気を試す究極の試験、それに匹敵するような例は、この世のどこにもない。

 

私は長い間調べてきたが、真理の探求のためなら喜んで滅びようとする人を、捜し出すことはできなかった。この世には多くの真理の探求者がいるけれども、彼らは一つの条件を付ける― 「私は真理を知りたい。だが自分を生かしたままで」と。だが、「私」が保持される限り、あなたが知るのはこの世、サンサーラだけだ。なぜなら、「私」というのは、この世にとって重要不可欠のものだからだ。もし、アリストテレスとか、ヘーゲルとか、カントのような探求者に、「自分の内側を捜せば、真理を知ることができるでしょう」と言う人があれば、「何のためにそういう真理を知 るのですか。自分を滅ぼすような真理を知って何の役に立つのですか」と答えるだろう。彼らの探求には、「自分を生かしておきたい、その上で真理を知りたい」という一つの条件が付いている。

 

真理を探求しつつも、自分を保持しようとした者は、決して真理を知るに至らなかった。代わりに彼らはそれを作りだした。真理を作り上げた。だから、ヘーゲルは大著を著わし、カントは真理についての深遠で難解な定理を提示したのだ。しかし、自己を探求する姿勢のない人の著作や原理には、何の価値も意味もない。もしカントやヘーゲルに、このウパニシャッドの賢者をどう思うかと尋ねれば、「その人は気が狂っている。真理に達しても、自分を失ってしまうのでは意味がない」と答えるだろう。

 

だが、賢者の理解は極めて深い。賢者は言う、「『私』というものは、真理にあらざるものに不可欠の要素、この世の、サンサーラの一部だ。この俗世のものが去り、真理が私に訪れることを願い、なおかつ「私」がそのままに残るようにと願うのであれば、私は不可能なことを望んでいる。俗世のものをなくそうというのであれば、それは徹底されなければならない――外からも内からも。一方で外の物体が消え、他方で内側の「私」が消えなくてはならない。内にも外にも虚空だけを残し、外からも内からも形がなくならなければならない。ゆえに、真理を見つけようというのであれば、自分を失うことがその不可欠の条件なのだ。「お願いです。偉大な太陽よ、あなたのすべてをことごとく消し去り下さい。すべての広がりを納め、元の種にお戻り下さい。何もなかった場所にお戻り下さい。すべてがそこから始まるところのものを、私が知ることができますように」

 

これは究極のジャンプだ。このジャンプをしようと勇気を奮い起こす時、人は至高の真理と一つになる。自分を失わずに、この至高の真理と一つになることはできない。だから、西洋の哲学者が真理を追究しようとしても、人間を、通俗的真理を超えることはできなかったのだ。

 

彼らの探求は人間のそれであって、実存的なものではない。人間の範疇に属すものでしかない。 東洋の賢者が求めるのは、通俗的・人間的な真理ではなく実存的な真理だ。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P364-367から引用)

 

OSHOバグワンの解説で、無始無終へと跳躍していく最終地点に立っていることはわかる。このジャンプによって自分は失われるかもしれないが、それでも飛び込んでいく。

 

光も闇も、善も悪も、生も死も超越したポイントに私はいて、私は世界全体であったはずだが、その私が更に自分が失われるかもしれないジャンプに挑む。

このシーンは、クンダリーニ上昇シーンで、アートマンがブラフマンに向かって上昇するシーンの図(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP101)を見れば、そうだとしか考えられないのだが、にわかには信じられないということもある。

どこで個なる私が宇宙全体、世界全体に転じ、さらにモクシャに進むのかというタイミングについては、このOSHOバグワンの説明でもダンテス・ダイジの解説でも不明瞭なところがある。

 

とにかく、無始無終へと跳躍していく最終地点に立ち、そこからジャンプアウトすることを神は期待しているわけだ。

 

単に、生と死の超越あるいは天国と地獄の卒業を目指してきた情熱的にして勇気ある探検者は、ついに世界の始原に飛び込む思い切りのある英雄であることを求められることになったのだ。

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天国と地獄の卒業-3

2023-01-21 06:28:29 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎魂の闇夜、無数の太陽

 

OSHOバグワンは、未顕現のブラフマンは光中の光だから、最初はまぶしくて見えないとする。キリスト者の言う魂の闇夜は、これであって光の中心である未顕現のブラフマンに比し周りは暗すぎる光だから魂の暗夜と感じる。しかし既に闇はなく光ばかりだから、それは闇ではない。

 

これに対応するイーシャ・ウパニシャッドの経文。

『あふれる光の中に座すブラフマン

その顔は黄金の覆いに包まれている

神よ

真理の探求者たる私が

究極そのものに達せますよう

その覆いを払い給え』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P344から引用)

 

これは、祈願文すなわち祈りの言葉になっている。見ている自分はこの時点でそもそもないのだろうかということが気になる。

 

この経文では黄金の覆いと表現しているが、スーフィの神秘家なら無数の太陽が一斉に輝いていると表現する。それらの多数の神聖なる太陽のうち中心の太陽以外の太陽が妨げになっている。その黄金の光の覆いを払って下さいと神に祈る。

 

OSHOバグワンは、二元性との最後の戦いが、『光との闘い』であると述べる。それを経て非二元に入る。つまり闇と光の戦いの最終ステージは光との闘いになるのだ。

なお彼自身の大悟の描写にまぶしすぎるというシーンは出てこない。

 

この段階を通過して、人は闇と光とを超え、二元性を終了し、非二元になる。つまり生死、光と闇、天国と地獄、男と女などあらゆる二元が終わり非二元に入るが、そこは第六身体と考えられる。

 

そして非二元に入るには、天国的なものを捨てるという人間の本性からして極めて抵抗の強い行為をせねばならないので、ここは神に祈るのだと、OSHOバグワンは説明する。神に明け渡すわけである。

 

そしてそれが成功すると、知る者も知られるものがない、体験する者も体験されるものがない解脱となる。第六身体アートマンである。

 

だが、これを光の中心、最終目的地、真理の顔と言っているものの、まだニルヴァーナではないようだ。

 

更に先がある。

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天国と地獄の卒業-2

2023-01-20 07:34:42 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎未顕現のブラフマンと不死

 

OSHOバグワンの天国と地獄と光明(ニルヴァーナ)の基本を再掲。

『地獄には、始まりはない。が、それは終わる。

 

天国には、始まりも終わりもある。それは始まり、そして終わる。

 

光明には、始まりしかなく終わりがない。ひとたび始まれば、終わりは来ない。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P299から引用)

 

これに引き続いて、イーシャ・ウパニシャッドの経文が出る。

『顕現したブラフマンと未顕現のブラフマンとを

あわせて同時に知る者は

顕現したブラフマンの崇拝によっては

死を超え

未顕現のブラフマンの崇拝によっては

不死に達する』

(上掲書P310から引用)

 

顕現したブラフマンとは、天国と地獄の世界。万物が一となったアートマンがブラフマンに上昇していくシーンを思い浮かべる人もいるだろう。そのシーンでは、既にアートマンもブラフマンも死の世界のことだが、その死の世界は生の世界を含む死の世界。生は死の世界の一部分。

 

そういう理解において、『顕現したブラフマンの崇拝によっては 死を超え』るのだと思う。OSHOバグワンは、死を超えるとは死の恐怖を克服することだとまとめている。生があれば必ず死があるというワンセットを、苦と見ず当たり前と見るからだ。逆に死を避けられるものと見るから苦悩、不幸が始まる。

 

次に不死が出てくる。不死は永劫不壊。未顕現のブラフマンは、光明にしてビッグ・バン以前の宇宙。と言っても物質世界だけのことではない。

 

残念ながらOSHOバグワンは、未顕現のブラフマンは不滅であるとは言っているが、どう不滅であるかは言っていない。ただ未顕現のブラフマンを見る方法として、禅の父母が生まれる以前の自分を見る手法と、密教の未顕現のブラフマンの観想法を挙げているにとどまる。

 

そこで、真理を覆い隠しているのはなんと光であるという説明に続く。

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天国と地獄の卒業-1

2023-01-19 07:13:19 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎幸福と至福の違い

 

天国と地獄の結婚あるいは両性具有に進むには、天国と地獄を卒業せねばならない。それができて初めて至福(光明、ニルヴァーナ)に向かう。

 

そこがわからないと、真正の悟りはわからない。

またそこが最終関門の前段になるクリティカル・ポイントであることは、しばしば見落とされる。

 

OSHOバグワンは、それについて言及している。

世の中では、神々の崇拝が広く行われる。イエス、マハーヴィーラ、クリシュナなどの神々(顕現したブラフマン)の崇拝が深まれば、楽しく心地よく感じる。

※未顕現のブラフマン:言葉では表現できないニルヴァーナのこと。

 

『このウパニシャッドの経文は、顕現したブラフマン―――そこには顕現していないブラフマンの輝きのようなものも見られる―――を崇拝すると、つまり近くに座ると、それなりの成果を手にすると言う。それは、楽しいし心地良いものだろう。あるいは、神々しいものと言ったほうがいいだろう。

 

とても幸せに感じるだろうが、光明を得ることはない。それゆえ、その成果については三つの言葉が使われる。一つは地獄、もう一つは天国、三番目は光明だ。人は、神々の近くに座る、つまり神々を崇拝することで天国にまで行ける。人は天の喜びや幸福を味わえるが、光明へと昇ってはいけない。至福へと昇ってはいけない。

 

幸福と至福の違いは何だろうか。幸福はどれほど深く大きいものであっても、確実に消えていく。どんなに長く続いても、確実に終わりが来る。この違いを完全に理解しておくように。

 

光明、至福には始まりがある。だが、終わりはない。天国、幸福には始まりも、終わりもある。地獄には、始まりはなく終わりだけがある。完璧に理解できるよう、もう一度繰り返させてほしい。地獄には始まりがない、惨めさには始まりがない。幸福は始まりうる、今はないにしても。

 

地獄には、始まりはない。が、それは終わる。

天国には、始まりも終わりもある。それは始まり、そして終わる。

光明には、始まりしかなく終わりがない。ひとたび始まれば、終わりは来ない。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P299から引用)

 

これは、天国と地獄の実相とそれを超えたニルヴァーナ(至福、光明)を知り得た者だけが語り得る宗派を超えた真相。聖者、覚者はこれを日常感覚として知っているが、我々は、『この違いを完全に理解』するところから始めねばならない。

 

人生を卒業するとは、『この違いを完全に理解』することであって、あらゆる実感を体験することでもあると言うが、悟り(光明、至福、未顕現のブラフマン)とは、天国と地獄という見慣れた地平線にあるのではなく、その先にあるのだということ。

 

そしてそれは、日常感覚ではまず思いもよらないものであり、なじみが薄いものだが、そう承知しておかなければならないのだろう。

 

OSHOバグワンは、ウパニシャッドでは、至福と幸福の両方を拒まないとしているが、禅では至福しか相手にしない。またウパニシャッド(クンダリーニ・ヨーガ系)でも禅でも、至福・光明を望む者は、神々の崇拝に溺れない。

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耶蘇坊主は天国に墜落する

2023-01-07 06:30:56 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎天国と地獄間を何往復も

 

出口王仁三郎が、雑誌昭和青年で、「耶蘇坊主は天国に墜落するし、仏教坊主は極楽に墜落している」と発言している。

 

天国、極楽を目指すのはダメと言っている。善を行い、悪を行わないというのは、人間の行動の大原則であって、その結果、人間は天国、極楽に入ることになるが、それでもいかん、それでも足りないと言っているわけだ。

 

どうして天国や極楽を目指すのがまずいのかを理屈で説明することはできない。浄土系は、辺地浄土という極楽の一角を目指し、キリスト教は梯子を登って天国を目指す。

 

しかし天国、極楽に入った身魂は、何年かたてば、その果報、功徳を使い果たし、挙句には地獄に落ちるようなことになる。それでよいのか、と問うているわけだ。

 

何百年、何千年サイクルでは、人は天国と地獄の間を何往復もするのではないのか。

 

そこで、神に復えるべしと説く。天国と地獄の結婚である。

 

焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も

神に復ればこころ涼しき

(霊界物語第一巻第十九章余白歌)

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新婦の部屋で結ばれる-2

2022-10-29 16:45:24 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎エデンの園追放以前のアダムに戻る

 

グノーシスにおける単独者とは、原人、完全な人のこと。それは、エデンの園追放以前のアダムのことである。

フィリポによる福音書§71にエバと分離する以前のアダムが完全体、原人であることが示される。そのやり方は、エバを再び合体させることであって、それが聖なる結婚となる。

 

フィリポによる福音書から。

『§71 エバがア〔ダ〕ムの〔中〕に在ったとき、死はなかった。彼女が彼〔から〕離れたとき、死が生じた。もし再び彼女が入〔り込み〕、また彼が彼女を自分に受け入れるならば、死はなくなるであろう。』

(ナグ・ハマディ文書2/荒井献ほか訳/岩波書店P86から引用)

 

これに対し、トマス福音書の語録75では、逆にアダムが新婦エバの部屋に入るという比喩で両性具有が実現し、原人となることが覚醒であることを表現している。これが天国と地獄の結婚である。

 

『イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている。しかし新婦の部屋に入るであろう者は単独者(だけ)である」。』

(荒井献著作集 7 トマス福音書 荒井 献/著 岩波書店P186から引用)

 

両性具有とは、男女の違いもなく、生死の違いもなく、神と人との分離もなくということで、個なる人間の立場の極みに近い。神仏を知る、見る、ワンタッチするという一過性のものよりも、両性具有は難しい。法律により私権が保護され、合法の名のもとに神仏の目から見れば明らかに悪であることを平気で大規模に行っているこの時代に生きる我らの頭では、理解しがたい種類のものであるから。

 

イエスが活躍した時代ですら、原人、両性具有をテーマにしていた。

 

神人合一と言うは易いが、両性具有を生きるというのは、禅の十牛図で言えば、第六騎牛帰家なのだろうから、見仏見性見神の第三見牛よりも上の境地である。

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