アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

虚空蔵求聞持法の道場

2023-10-21 11:47:02 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎感受性の深化

(2006-12-01)

 

受験生にとっては、記憶を増してくれる方法というのは睡眠学習などと並んでとても魅力的な響きを持つものである。記憶力増進法と言えば、虚空蔵求聞持法である。

円通寺律院(高野山事相講伝所)は、古くから虚空蔵求聞持法の道場として知られる。50日の修行が成就した奇跡もいろいろと伝えられているそうだ。

ここは女人禁制であり、虚空蔵菩薩を祀るお堂に籠もり、そば粉と牛乳という食事だけで50日間にわたって真言(マントラ)を唱え続けるというもの。

この真言百万遍を誦すれば、一切の教法の文義を暗記する事を得る、だそうだから記憶力増進ではなくて、この世のあらゆる教法の意味を感得する感受性を持てば、文義も暗記できる状態になる。つまり、記憶力増進ではなくて、記憶力のベースとなる感受性の深化をこのマントラ・シッディで得ようとするものだと思う。

真言密教中興の祖、覚鑁は九度もチャレンジしたそうだから、ますます記憶力とは関係なさそうなことがわかる。

本当に、このような修行ができる場所があることに日本の伝統の深みを感じる。

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井上日召

2023-04-29 16:47:42 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎見性後に暗殺集団を組織する

(2020-08-16)

 

井上日召は、昭和の初めに日銀総裁の井上準之助や三井財閥の総帥の團琢磨を暗殺した血盟団のトップ。血盟団は要人の一人一殺を標榜する暗殺集団だが、実は彼は日蓮宗の寺の住職であった時代がある。

 

大正13年頃、南無妙法蓮華経というマントラを何度も繰り返すことで、宇宙大自然と自分が一体になった実感を得た。

 

血盟団事件後の昭和9年には刑務所にいたが、その悟境を臨済禅の山本玄峰にも認められている。山本玄峰は第二次世界大戦時の日本の指導者の相談相手になっていた、それなりの師僧。

 

井上日召は、見性してから10年ほどで血盟団事件を起こしている。見性しただけでそのままにしておくとダメな例として見るべきだろう。

 

なまじ宇宙大自然と一体になった、神仏を見たという経験は、それを聞いた周辺がそっとしておいてはくれないし、本人も舞い上がりがち。

 

白隠ですら何度も舞い上がっては叩き落されを繰り返した。

 

ただし見性見神者が戦うのが邪道かというと、バガバッド・ギータのアルジュナ王子のように、正しく戦うケースもある。悟ったから戦わないというのは誤解である。

 

また老子の言う不争というのは、それとはまた違った意味で言っている。

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称名、マントラで懺悔

2023-04-29 16:44:09 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎乱倫、娼婦

(2020-06-20)

 

ラーマクリシュナが語る。

 

素封家出身のモッリク某という女性がいたが、若いうちはさんざん悪いことをしたが年を取ってから称名に励んでいる。まあ、何もしないよりはまし。

 

彼女が、ある時、売春婦などでも救われるものでしょうかと尋ねてきた。自分はそれ以前にそれに似たことをかなりしてきたらしいので、そんなことを聞いてくる。

 

ラーマクリシュナは「救われます。心の底から懺悔して、泣きながら神様に祈って、もう二度と致しませんと誓えば。」と即座に答えた。(人類の知的遺産 ラーマクリシュナP251参照)

 

これは、乱倫も極まれば反転し収まるということだが、世界の混乱も極まって反転せねば治まらないということでは、同じ原理。

 

売春婦のことは貶めるくせに、ネットポルノ愛好家は無数にいる。そういう人間が大多数である乱れた時代に、次の世界大戦がないことを誰が予想できるものだろうか。

 

売春婦は、ソーマ・ヨーガの古代インド・ペルシャの頃など、高級神女のような尊敬されるべき職業であった時代がある。ダンテス・ダイジの前世の一つは高級娼婦であったことも、自ら明かしている。

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大田垣蓮月

2023-04-29 06:28:02 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな

(2020-02-12)

 

大田垣蓮月は、幕末の尼僧にして陶芸家。鳥羽伏見の戦いの直後、西郷隆盛に対して、内戦継続を諫める和歌を送った女傑。

 

その歌は、

「あだ味方 勝も負けるも 哀れなり 同じ御国の 人と思えば」

 

大田垣蓮月は、両親が早逝し、養父に育てられた。亀山城の奥奉公の間、諸芸を磨き、文武両道に優れ、木刀、鎖鎌まで使いこなしたという。

 

2度結婚したが、二夫ともに先立たれ、子供も3人できたが、いずれも早逝。家庭的には、不運だった。最初の夫からはDVに悩まされた。

 

夫と死別後、絶世の美人だったが、前歯を抜いて老婆の如き面相に変えた。生涯二番目の夫のことを忘れなかったようである。

 

40代から陶芸を始め、これが良い商売となったが、金銭には廉潔、恬淡としていた。60代になってから、その小庵で、後の大文人富岡鉄斎を21歳から侍者として預かり鍛えた。

 

蓮月のお金観。

「金は、うちに残らぬがよろしい。入るだけ出るのがめでたい」

 

1850年(嘉永三年)の飢饉の年には、京都東町奉行所に匿名で30両(現在の約一千万円)を布施に行き怪しまれた。

 

ある時強盗が入ったが、蓮月は「金でも何でも好きなものを持っていきなさい」と燈明までつけて家探しを助け、はったい粉を練って腹ごしらえまでさせて家を送り出した。

 

ところが、翌朝その強盗は、路上で口から血を吐いて死んでいた。背負っていた風呂敷に蓮月とあり、蓮月は毒殺の嫌疑をかけられたが、どこからかもらったはったい粉ということでうやむやになった。

 

夜は灯をともして光明真言を唱えたという。彼女は自分の生涯を自他平等の修行と見た。

 

住居は三畳、食物は村人からのもらいもの。食器は茶碗ひとつ。来客には葉の上に飯を盛って出した。家財は、ろくろ、鍋釜、文机。質素ぶりは趙州のようである。

 

明治8年12月、84歳で亡くなった。遺言は、棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな、と。

気に染む男は一人だけだったのだろう。

 

辞世:願わくは 後の蓮の花の上に 曇らぬ月を見るよしもがな

 

幕末維新の女と言えば、明治の元勲を助けた女ばかり取沙汰されるが、ちゃんとした求道者もいたものだと思う。

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念仏の必要回数

2023-04-12 18:52:27 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎念仏の効果の多様性

(2009-11-06)

 

一回念仏をしただけで往生できると法然は云い、また別の浄土門の聖は何万遍も念仏しないと浄土に往生できないという。

 

只管打坐で坐り続けていても、霊能力が開けて優れたクンダリーニ・ヨーギになって、中心太陽への突入を目指すことになるかもしれない。

 

また念仏を日がな唱え続けているうちに、自分が南無阿弥陀仏というマントラになりきった時から、浄土に往生できるかどうかではなく、この世も地獄も浄土ももともとなかったという禅的悟りを得る人もいるかもしれない。

 

日蓮だって、自筆曼陀羅の中に天照大神を書き入れて、自ら宗派の壁を超えた。

 

ことほど左様に冥想修行の形式と行く先は、思惑どおり論理的に展開するとは限られない場合がある。

 

だから最近の歴聖が、「現代人は、ちょっと坐っただけですぐ悟れる」と口を揃えるのは、現代人なら、「どうしても浄土に往生したいと思い詰めたなら」念仏は一回で良しとすることを暗示している。

 

でも浄土に転生することと、念仏を唱えるというマントラ念唱は、本来別々のものであって、善導や法然が、念仏と往生を結びつけてしまったので、それが先入観になっているということがある。

マントラ念唱自体は、古今東西様々な宗派で利用されている。

 

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神仏を拝まない

2023-04-12 18:48:02 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎どちらでもOK

(2006-11-26)

 

日本には、もともと八百万の神々がおはしまし、その上仏教伝来後は仏教系の神々も輸入されてきたので、神々や諸仏のいることは、とてもにぎやかなことであった。

 

法然や親鸞が出てきて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動を始めたのは、非常に革命的なことであったに相違ない。何しろ天照大神、素盞鳴命から大日如来など数しれぬ大物神祇、高級神霊をさしおいて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動だったからだ。実際に法然や親鸞の当時は阿弥陀仏以外は拝まなかったようだ。

 

そうすると他の神祇、高級神霊を拝まないのは、拝んでくれない尊格からの天罰仏罰があるのではないかという不安がかき立てられ、親鸞直系の存覚の頃になると、「阿弥陀仏は、すべての神祇の本地つまり、あらゆる仏菩薩の総元締めであり、かつ天津神、国津神、八百万神の総元締めであるから、阿弥陀仏以外を拝むことは、阿弥陀仏を拝むことである」という理論づけに変わり、他の神仏を拝むことも容認して行った。

 

こうした流れからすると、日蓮の法華経に帰依しましょうという運動は、更に一歩大胆に踏み出したものに思われる。日蓮は、神仏ではなく、法華経への帰依を打ち出したからである。もっとも日蓮の大曼陀羅には、釈迦、多宝仏の他、天照大神や八幡大神も出てくるので、日蓮のイメージの中には諸神祇を排斥するつもりはなく、取り込んでいたつもりだったのだろう。日蓮自身も、虚空蔵菩薩に願をかけたり、諸神霊の加護に祈念している

 

なお、このブログでは、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もマントラ禅の分類にしており、マントラになりきることによるマントラ・シッディによる大慈大悲・愛の直観が本質と見ているので、神でも仏でもどちらでもOKです。

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マントラ、呪文、聖句

2022-12-27 16:32:36 | マントラ禅(冥想法7)neo
◎言霊の効用

ババジの秘蔵っ子スワミ・ラーマのマントラについての言葉。
『偉大な人物の言葉はマントラの効力を発することがある。偉大な人物に話しかけられたら、その言葉を受け入れ、実践しなければならない。』(ヒマラヤ聖者とともに/スワミ・ラーマP97から引用)

これは、スワミ・ラーマが、彼だけに効く蜂よけのマントラを教えてもらったのだが、それを師の許しもなく俗人に教えたところ、俗人は却って何百匹の蜂に刺され入院したことを見て、この教訓を述べたもの。

次は、師に唱えることを禁じられたマントラを唱えたら、男女の巨人がやってきてスワミ・ラーマを食い殺そうとして、気絶した時のこと。
『このときの体験から、私はマントラの効力を悟った。私は師が私に授けたマントラの修養をはじめ、ささいなことでもそのマントラをたよりにした。若い頃の私は愚かでばかげたことをたくさんしたが、自分のマントラが気づきをもたらし、つねにそうした状況から抜けだすよううながした。

霊性修養とともに適切に用いないなら、マントラは、私がそうであったように幻覚をも生じかねない。幻覚は整えられていない汚れた心の産物だ。マントラは心を浄化し内に向けたとき有益となる。マントラの意味も知らず、適切な感情を呼びおこすことも、強い想いを抱くこともないなら、ただ機械的に唱えたところでさしたる効用はない。』
(上掲書P99から引用)

マントラの効用と弊害をきちんと説けるのは、20世紀前半のヒマラヤの高地で、相当なレベルのヨーギ達と修行していた環境だからこそ、この二つをマントラの効用と禁則として説けるのだと思う。

99%冥想修行と縁のない俗人がはびこって、善も悪もおかまいなしの何でもありのこの日本では、ダンテス・ダイジは、敢えて言霊のバイブレーションが効きにくいほど粗いバイブレーションの時代であると見て、マントラそれ自体の表面な意味はあまり問題にしなかった。

だが修行者は両方の説を考えてみるべきだろう。マントラは心を浄化し内に向けたとき有益となる、ということなのだろう。
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13段観想から念仏へ-5

2022-11-13 19:28:11 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎メイドインチャイナと道教

 

観無量寿経の想定している修行カリキュラムは、現世で輪廻転生の中であらゆる悲惨をなめるよりは、南無阿弥陀仏の功徳により、仏国土に一旦入って、そこで12大劫もの長い間、蓮の花の蕾の中で孤独に修行したほうが本人のためであるという判断があって、敢えてそれを勧めるものであった。

 

つまり現世での肉体での修行ではなく、霊界におけるアストラル体での修行を前提にしたものであるが故に、クンダリーニ・ヨーガの修行法の一つなのであると考えられる。

 

どうしてこのような妙なことになっているかというと、観無量寿経は、自分の子供に殺されそうになった貴婦人韋提希が、釈迦にお願いして教えてもらったという由来なのだが、観無量寿経の導入部には、韋提希がその子によって殺されそうになり、牢獄に幽閉された経緯が説かれて、ここで現世とは、人間の欲望による悪が支配する絶望的な世界であることか強調されている。

 

このエピソードは、

もともと韋提希と夫である頻婆娑羅王の間には子がなかった。占い師に相談したら、ある仙人が三年後に死に、その仙人が二人の子として転生すると言う。焦った頻婆娑羅王は、三年待たずに、早速仙人を殺してしまった。仙人はいまわの際に、この恨みは必ず晴らしてやると言い残した。

 

まもなく韋提希が身ごもった。頻婆娑羅王は、占い者に相談すると、生れてくる子は必ず父王を殺すことになるという。そこで父王は、韋提希に高楼で出産させることにした。

 

出産した後、その子阿闍世は、直ちに高楼より地上に投げつけられたが、奇跡的に小指の骨を折っただけで助かった。

 

阿闍世は、長じて父が自分を殺そうとしたことを知り、クーデタを起こし、父王と母王を牢獄に幽閉し、二人とも亡きものにしようとする。

(参考:仏教の思想Ⅱ/梅原猛/集英社)

 

中国浄土教の元祖曇鸞(476-542年)は、道教の修行中に、洛陽で菩提流支に邂逅し、観無量寿経を授けられた。道教の師匠は、陶弘景という当代随一の道者であった。

 

密教と言えば具象を冥想対象とした観想も特徴であるが、中国に仏教由来の密教が入ってきたのは7世紀後半頃ではないかと思う。観無量寿経はこれより1世紀以上も早く観想のシリーズを出してきている。

そして、観無量寿経には、梵語原文も見つかっていないし、密教の本場チベット語訳文も見つかっていないし、メイドインチャイナであるという疑いがあるとされる

 

そこで、これはひょっとすると道教の修行法にも連続的な観想カリキュラムがあってそれをヒントにして出してきたような可能性もあるのではないだろうかと思った。道教もクンダリーニ・ヨーガ系だし。

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13段観想から念仏へ-4

2022-11-13 19:25:20 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎念仏はスタートライン

 

これまでの12段の観想は、まるで曼陀羅を作り上げていくように、太陽を作り、水を造り、大地を据え、大樹林を置き、川を流し、摩天楼群を配置して、続いて仏像をイメージさせて、仏・菩薩そのものを現前させるという、ユニットを一個一個作り上げていくようなきめ細かな作業の積み重ねである。

 

だから細切れにしか時間のとれないフツーの人達ではなかなかこの膨大な観想カリキュラムを完成することはできない。特に大きさが無限である阿弥陀仏(無量寿仏)を観想することは至難である。

それでは、まとまった時間のとれないフツーの人に救いはないのか。そこで登場するのが13番目の冥想である。

 

13.雑想観

  阿弥陀仏は、その身を変化して出現する能力があって、1丈6尺(約5メートル)にして出現することもできる。

  これを応用して、これまでの12観想を行なうかわりに、この丈六の阿弥陀仏が池の水の蓮台の上にあることをありありと観想できれば、西方の仏国土に生れることができる。

 

 この後に器根別に(仏道修行の段階別に)、死後どのように仏国土に入るかの説明がある。その最後に不善悪業を繰り返す下品下生の人については、様々な苦しみに迫られて仏の観想をする暇がないので、臨終にあたり、心から南無阿弥陀仏を唱えれば、仏国土に往生できるとある。

 

 南無阿弥陀仏の功徳によって、その方は亡くなってすぐ、仏国土の蓮の華の蕾に入ることができるが、それから12大劫の長い年月が経過しないとその蕾から出られず、華が開かないという条件付きではあるが。

 

こうして見ると南無阿弥陀仏という念仏は、修行のプロ向けの何カ月も何年もかかるような観想のシリーズができない人で、毎日悪事を積み重ねている人が、死ぬ直前に唱えれば、いつかその冥想の華が開くことを約束するものとなっていることがわかる。

 

つまり念仏だけで仏国土への往生はできるが、往生した後に膨大な期間の冥想修行がやはり必要であると観無量寿経は見ているということになる。つまり念仏とは、観想を主体とするクンダリーニ・ヨーガ的修行のとっかかりに位置付けられていると思われる。

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13段観想から念仏へ-3

2022-11-13 19:23:15 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎二段構えの構想

 

観無量寿経の13段観想の続き。

 

7.華座観

  超巨大な宝石でできた蓮華の花の台をイメージする。

 

8.像観

  目を閉じている時も開いている時も、これらの花座の座の中央に阿弥陀仏(無量寿仏)、阿弥陀仏の右に観世音菩薩、左に勢至菩薩の像がありありと坐っていると観じる。

 

9.真身観

次に阿弥陀仏(無量寿仏)の仏像ではなくて、阿弥陀仏の身相、光明そのものをビジョンとして持つ。その身体の色は、黄金であり、巨大な身長である。

 

これはすべての仏たちの体の観想ともよばれ、仏の心を見ることになる。仏の心とは大慈悲であるとあり、この一連の観想の軸足は、仏の七つの属性の一つである愛(慈悲)に置かれていることを知る。

 

この観想は無量寿仏の眉間の白い旋毛から観想を始めよとある。そこから8万4千の相好(好ましい特徴)が観想できる。

 

10.観音観

観世音菩薩を観想する。

観世音菩薩もまた巨大であり、身体の色は紫金。その発する光の中に、地獄から人間・天までのすべてのあらゆる生き物のすべての形や姿が現れている。頭頂部が盛り上がっており、その上にある不可視の頂点の部分が阿弥陀仏には及ばないところだけが、阿弥陀仏との相違点である。

 

11.勢至観

 大勢至菩薩を観想する。これも巨大な身体であり、大きさは観世音菩薩と同じ。身体の色は紫金。

 

12.普観

ここで自分自身の心に目覚め、西方の幸あるところ(仏国土)に生れ、蓮華の中に両足を組んで坐り、蓮華が閉じたり開いたりする観想を行なう。

 

この観想のシリーズを行なえば、阿弥陀仏と観世音菩薩と大勢至菩薩の分身のセットが観想者の前に現前することを約束する。

 

この観想は全体としては、仏国土に生まれ変わることを観想により実現しようとするものであり、仏国土でもその寿命は長いといえども有限で、ついには輪廻するのだから、厳密な意味では、人間苦を根本的に超克しようとする行き方とは言えない。

 

ところがこれは、窮極の七つの属性の一つである愛、(大慈悲)を軸として、展開させるもので、一旦は中間ポイントである仏国土に人を拾い上げて、その後に窮極を目指す段階的な展開を構想しているように思う。

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13段観想から念仏へ-2

2022-11-13 19:20:35 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎舞台セットの構築

 

観無量寿経の観想の続き。

4.宝樹観

  大地の次は、宝石の樹木の観想。七重に並ぶ七種の宝石の木を一本一本イメージを構築していく。幹、茎、枝、葉と観じて、木々の葉の間には花が咲き、宝石の実がなっている。これは林の観想とも呼ばれる。

 

5.宝池観

 仏国土には8つのあらゆる願いを叶える宝石でできた功徳ある池がある。一つの池からは14の流れが出ており、その流れは宝石の色であり、黄金の河岸であり、底砂はダイヤモンドでできている。

 

6.宝楼観

 この国土の境目に5百億の宝石の楼閣がある。この楼閣に無数の天人たちがいて、天上の音楽を奏でる。この冥想はすべてを見る観想ともよばれ、この時点で、諸仏登場の舞台が整った。

 

観無量寿経では、ここで韋提希夫人は、釈迦の神通力によって阿弥陀仏と観世音菩薩と大勢至菩薩を見せてもらうことができたが、釈迦没後の人もこれを見られる方法を教えて欲しいと釈迦に乞うと、いよいよ仏、菩薩の登場となる。

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13段観想から念仏へ-1

2022-11-13 19:18:48 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎観無量寿経

 

浄土三部経の一つである観無量寿経に13段観想のことが出ている。

この観想の目的は仏国土を見ることであって、仏そのものと一体化することではない。漸進型の修行法なので、クンダリーニ・ヨーガの系流の修行法である。

 

1.日想観

  西に向かって太陽を見て、そのイメージが目を閉じても消えないようにする。

 

2.水想観

  清らかな水を見て想念を乱されないようにする。次に氷をイメージして、氷の透き通るように心を透き通らせる。

 

3.地想観

次に仏国土(極楽)の大地は、瑠璃(青玉)でてきているので、瑠璃を観想する。瑠璃の敷きつめられた大地に黄金の縄が張りめぐらされ、境界は七種の宝石で区切られている。その大地の上に幾千万もの宝石でできた楼閣がある。これが仏国土である。

 

この観想ができるようになったら、それらを明瞭に観ることができるようにする。目を閉じている時も、目を開いている時もそのビジョンがなくならないようにする。眠っている時以外には、このビジョンが残っているようにする。

 

日中に活動している時もこの仏国土ビジョンが残るような状態では仕事や勉強にならないので、この初歩の地想観程度でも、出家者みたいに観想に専念できる環境にいないと、この観想法が成就しないことが推測できる。

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観せる観想、観る観想

2022-11-13 06:02:06 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎仏のみぞ知る

 

観想法とは、第一義的には自分で観ようとして観る観想のことをいう。密教では、日輪観、月輪観、阿字観など、観想法を多用する。また宗教に関心も係わりもない人でも、願望、希望の成就した暁のことを請い願って、観想法をそれとは意識しないままに用いることもある。

 

観想法が深まれば、それがありありと現前するビジョンが見られるものだというが、本物のビジョンは、自らつかむのではなく、ビジョンの方からやってくるものだという。

 

つまり最初は、観る観想ではじまるが、観せられる観想に至って、真に入るということがあるようなのだ。

 

浄土系の観無量寿経では、韋提希夫人が釈迦に懇願してさまざまな仏国土を見せてもらう。これは観せられる観想であって、釈迦が見せてくれるのだから本物。

 

これに対して13段観想を自力で行うが、これはその果てに仏国土を見ることを目的とするもので、観る観想。

 

人間は自分の力で髪の毛1本白くも黒くもすることなどできない。

 

欲望・願望の実現したイメージを無意識の世界に構築することによって、現実化しようとする観想法というやり方は、正統的な手法ではあるが、そのビジョンの中身と欲望・願望がどこからきているのかは、手法の善し悪し以前に、まずは真摯に問われるべき問題である。

 

そして観る観想が観せられる観想に転換することは、仏のみぞ知るマターであって、人の側の都合で何とかなる話ではないと思う。

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念仏の一遍の悟り

2022-10-07 15:47:29 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎となふれば仏もわれもなかりけり

 

兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。

 

となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

 

法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃったので、一遍は、また詠じ直したところ、国師は、その歌を覚醒と認めて、手巾・薬籠を与え印可された。

 

となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏

 

 

世界の宗教統一から宗教忘詮という流れがあるように一見思われるのだが、仏教は末法時代で法滅尽経というものまである。世界の宗教統一とは、一宗一派が他の組織宗教を壊滅せしめて世界制覇するという修羅の道筋のことではあるまい。カルトは別として、真正の神仏を最終目標としている宗教ならば、宗派の如何を問わず、もともと世界の宗教に違いはなく、統一されているのだと見るのではないか。

プロセスとテクニックは異なっても、あらゆるまともな宗教はニルヴァーナを目指している。

 

そこでことさらに、「世界の宗教統一から宗教忘詮」ということを考えて見ると、宗教統一は既に成っているのだから、「宗教忘詮」にどうやって進むかということだけが問題となる。

「宗教忘詮」とは、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」のこと。南無阿弥陀仏の声を聞いている自分が残っていては印可されなかった経緯を見れば、それを忘れなければならないとわかる。

 

それが、全組織宗教の滅亡なのか、個人の中で「宗教を忘れ去る」ことが起こるのかは知らないが、そういうことが起きねば、次のユートピアがないだろうということはわかる。

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