アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

塩沼亮潤大阿闍梨-4-見仏だが神秘体験にこだわらない

2023-10-27 03:59:45 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-05

◎青春期の水平の道-5

 

塩沼亮潤大阿闍梨は、さらっと書いてあるので気がつきにくいが、回峰行中に黄金色に光り輝く世界に入り、空中に大日如来やいろいろな観音様が宙に浮いているのを目撃したのが、見仏である。

また同じく、あたり一面が金剛色に輝いており、眼前にダイヤモンドの山があり、そこで二人の天女が30センチくらいの袋にダイヤモンドの塊を2、3個入れてくれた。これは親鸞が女人から玉をもらう故事に似ている。

もう一つ、身長三メートルくらいのぼろぼろの衣を着て杖を持った仙人が空中に出現し、「金(かね)の御嶽(みたけ)金の御嶽と言う愚か者どもよ、ここは神の御嶽なり」と言うなりすーっと消えていった由。金峯山に金の鉱脈があるという伝説には出口王仁三郎も新月の光(八幡書店/木庭次守編)で触れているが、時が来ないと掘り出せないとしている。

歩きながらトランスに入り、このような神秘体験を得るのは既に世俗の欲をほとんど卒業した証拠。だが、何かをやるために出生してきてはいる。

 

土砂降りの雨の中で、おにぎりに雨が当たり米粒が崩れ落ちながら食べている時に、「自分はなんて幸せなんだろう。食べるものも家も風呂もあるが、そうでなく命の危険に晒されて生きている人も多い。」などと感じて、涙が止まらなかった。これはアナハタ・チャクラが開いたということ。わざわざそれを書いているのは、本人にとってもインパクトがあったということ。

なお回峰行の初期における彼の神秘体験には、2、3人の餓鬼に石を投げられたことや、武士の亡者に身体を押さえつけられ、首を絞めて殺されそうになったが、必死で亡者の手首にかじりつくことで体制を入れ替え命拾いしたことも書いてある。

 

いずれにせよ、どんな素敵な神秘体験も千日回峰行満行したことも、それにこだわっていない態度が素晴らしいことだと思う。「人生生涯小僧のこころ/塩沼亮潤/致知出版社」は、そういう書きぶりである。

そういう方だから、布団をかぶって泣いたなどと書けるのだ。

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2 コメント

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Unknown (愛読者A)
2023-10-27 18:27:10
いつも興味深く拝読させて頂いています。

私の希望は様々な事柄の評論ではなく、湖南さんの瞑想体験に伴う考察をお聞きしたいです。

お時間がある時にお書き頂けたら嬉しく思います。
返信する
愛読者A殿へ (湖南)
2023-10-30 06:23:09
いつもありがとうございます。

私は未悟の者であるので、道を知らない人は道を説かないという大原則に沿って自分のつたない冥想体験は説きません。悟っていない者の冥想体験は、ガラクタのようなものですので、勢い悟った人の事績へのコメントが中心となります。
敢えて言えば、ブログを足掛け19年やっていることが、私にとっての冥想であることは間違いありません。それは外形的には事上磨錬の一種だし、多忙な勤労生活の中の少ない余暇で継続的に行う道であるし、それと別に坐る冥想もしてきたということです。
今振り返れば、若い時はニューエイジ系宗教に関心が高かったのですが、カルトの勧誘を受けたり入信したことはなく、それは僥倖のようなものだったと思います。
また、冥想、宗教方面で自分に起きたことや出会ったことは、他人に語っても全く理解されないだろうことも多く、理解されるであろうことでも他人に語れない話も少なくないです。
そういう雰囲気は、長い読者の方にはお分かりかと思います。
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