◎ジェイド・タブレット-10-14
◎垂直上昇への仕掛け-14
◎輪廻転生の実態-4
◎人間の帰趨は行為である
OSHOバグワンは、自分の輪廻転生の見方は釈迦と同じだと言った。
原始仏典では、マンツーマン輪廻説についてどう見ているのだろうか。
『第五節 生まれさせるものを(1)
〔神いわく、――――〕
「何が人を生まれさせるのか?
人の何ものが走り廻るのか?
何ものが輪廻に堕しているのであるか?
人にとって大きな恐怖とは何であるか?」
〔尊師いわく――――〕
「妄執が人を生まれさせる。
人の心が走り廻る。
生存するものが、輪廻に堕している。
人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である。」
第六節 生まれさせるものを(2)
〔神いわく、――――〕
「何が人を生まれさせるのか?
人の何ものが走り廻るのか?
何ものが輪廻に堕しているのであるか?
人は何ものから解脱しないのであるか?」
〔尊師いわく――――〕
「妄執が人を生まれさせる。
人の心が走り廻る。
生存するものが、輪廻に堕している。
人は、苦悩から解脱しないのである。」
第七節 生まれさせるものを(3)
〔神いわく、――――〕
「何が人を生まれさせるのか?
人の何ものが走り廻るのか?
何ものが輪廻に堕しているのであるか?
人の帰趨とは何であるか?」
〔尊師いわく――――〕
「妄執が人を生まれさせる。
人の心が走り廻る。
生存するものが、輪廻に堕している。
行為(業)は、人の帰趨である。」』
(ブッダ 神々との対話/中村元訳/岩波文庫p83-84から引用)
これをまとめると
妄執が人を転生させ、
人の心が走り回り、
生存するものが、輪廻に堕し
行為(業)は、人の帰趨
このように釈迦の見方では、輪廻の主体とは個性としての個人ではないように思われるというのは、「生存するものが、輪廻に堕する」ということは、死するものは輪廻には堕しないとも読めるからである。
というのは、マンツーマン輪廻説であれば、この釈迦の回答はこのようになるはずだからである。
「前世のボディ(霊体)が人を生まれさせる。
ボディ(霊体)が走り廻る。
生存するボディ(霊体)が、輪廻に堕している。
個別のボディ(霊体)は、人の帰趨である。」
釈迦にとって輪廻を考える上で、あまりボディ(霊体)には比重がかかっていないのである。そこでOSHOの言うような「記憶が輪廻する」という説明があり得るし、釈迦のように「行為が輪廻する」ととれる言い回しもあり得るのだろう。
さらにクンダリーニ・ヨーギ本山博の見方では、個人として輪廻転生するのは、アストラル体、メンタル体くらいまでで、コーザル体になると個性とはいえないような雰囲気の書きぶりなところがある。つまり個性とはいえないボディならば、そこはマンツーマン輪廻ではないということである。
カルマが輪廻するのであって、個別の微細身が輪廻するのではないと読める。