アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

釈迦の輪廻の見方

2024-04-16 03:26:39 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-14

◎垂直上昇への仕掛け-14

◎輪廻転生の実態-4

◎人間の帰趨は行為である

 

OSHOバグワンは、自分の輪廻転生の見方は釈迦と同じだと言った。

原始仏典では、マンツーマン輪廻説についてどう見ているのだろうか。

 

『第五節 生まれさせるものを(1)

〔神いわく、――――〕

「何が人を生まれさせるのか?

人の何ものが走り廻るのか?

何ものが輪廻に堕しているのであるか?

人にとって大きな恐怖とは何であるか?」

 

〔尊師いわく――――〕

「妄執が人を生まれさせる。

人の心が走り廻る。

生存するものが、輪廻に堕している。

人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である。」

 

第六節 生まれさせるものを(2)

〔神いわく、――――〕

「何が人を生まれさせるのか?

人の何ものが走り廻るのか?

何ものが輪廻に堕しているのであるか?

人は何ものから解脱しないのであるか?」

 

〔尊師いわく――――〕

「妄執が人を生まれさせる。

人の心が走り廻る。

生存するものが、輪廻に堕している。

人は、苦悩から解脱しないのである。」

 

第七節 生まれさせるものを(3)

〔神いわく、――――〕

「何が人を生まれさせるのか?

人の何ものが走り廻るのか?

何ものが輪廻に堕しているのであるか?

人の帰趨とは何であるか?」

 

〔尊師いわく――――〕

「妄執が人を生まれさせる。

人の心が走り廻る。

生存するものが、輪廻に堕している。

行為(業)は、人の帰趨である。」』

(ブッダ 神々との対話/中村元訳/岩波文庫p83-84から引用)

 

これをまとめると

妄執が人を転生させ、

人の心が走り回り、

生存するものが、輪廻に堕し

行為(業)は、人の帰趨

 

このように釈迦の見方では、輪廻の主体とは個性としての個人ではないように思われるというのは、「生存するものが、輪廻に堕する」ということは、死するものは輪廻には堕しないとも読めるからである。

 

というのは、マンツーマン輪廻説であれば、この釈迦の回答はこのようになるはずだからである。

 

「前世のボディ(霊体)が人を生まれさせる。

ボディ(霊体)が走り廻る。

生存するボディ(霊体)が、輪廻に堕している。

個別のボディ(霊体)は、人の帰趨である。」

 

釈迦にとって輪廻を考える上で、あまりボディ(霊体)には比重がかかっていないのである。そこでOSHOの言うような「記憶が輪廻する」という説明があり得るし、釈迦のように「行為が輪廻する」ととれる言い回しもあり得るのだろう。

 

さらにクンダリーニ・ヨーギ本山博の見方では、個人として輪廻転生するのは、アストラル体、メンタル体くらいまでで、コーザル体になると個性とはいえないような雰囲気の書きぶりなところがある。つまり個性とはいえないボディならば、そこはマンツーマン輪廻ではないということである。

 

カルマが輪廻するのであって、個別の微細身が輪廻するのではないと読める。

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8000メートル級の死の地帯

2024-04-16 03:26:36 | 究極というものの可能性neo

◎意識をはっきり持つ

(2010-08-10)

 

酸素マスクなしで、標高8000メートル級の死の地帯にいる場合には、ある特殊な心理状態となる。

ドイツの登山家トーニ・キンスホーファーが、ナンガ・パルバートを下っている時、片方のアイゼンがはずれてもそれに気づかずタバコ畑の中を歩いていると思い込んで、びっこをひきながら歩き続けたほど、朦朧状態にあった。

エヴェレストでフランク・スマイスは、単独行であったが、見えない同行者のいることを感じ、信頼と力を得ていた。また幻覚であることは知っていたが、空に龍のような動物を見た。

メスナーもナンガ・パルバート単独行の時、それが少女と感じられる、見えない同行者と一緒だった。その他にも見えない子供や男女がかわるがわるいて、かれらとメスナーは語り合った。

メスナーによると、8000メートル級の死の地帯に、酸素マスクしで長くいると、反応が緩慢になり、思考力が鈍くなる。また一つのことしか考えられないような具合になる。

ところが感情の方は、こうした中でも絶望と歓喜というかたちで残る。つまりこの高所で予定外の野宿をさせられることになったという絶望や、頂上征服時の歓喜である。

(以上出典:死の地帯/ラインホルト・メスナー/山と渓谷社)

 

これは登山の話だが、冥想での呼吸が落ちていってトランスに入っていった時の状態に似ているところがある。

そしてしばしばこうした状態と狂気・発狂とが隣り合わせであることもメスナーは知っている。

滑落、雪崩、凍死など肉体死のチャンスはいくらでもある環境で、想念が不活発になるところで、感情だけが生き生きと駆けめぐるというのは、自分の意識ですらコントロールできないという点で非常に恐怖を覚える状況である。冥想でもこういうステージはあるのだと思う。

こうした中で正気を保っていられるのは、それまでのいろいろな、例えば善を行う悪をしないという平素の努力の他に、ある種の運・巡り合わせみたいなものが必要なのではないかと思う。

 

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

芭蕉

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