◎高川慈照師の好相行
よく仏の32相好と言うが、32相あることは、本物の仏に出会わなければチェックできないのである。
比叡山には、侍真制度というのがある。最澄の廟が浄土院であるが、ここを守る僧が侍真である。侍真には12年の籠山が義務づけられており、この間浄土院から出ることはない。
侍真になるには、仏を見なければならない。仏を見るまで礼拝を繰り返す修行を好相行という(好相必見)。
高川慈照師は好相行をクリアして、ほんまもんの仏を見た。そこで元禄時代に侍真制度ができてから114人目の侍真となった。これら侍真のうち2割強が籠山中に亡くなっている。仏に出会ったから、とりあえず良しとしたのだろうか。
好相行3カ月目のある朝、堂内は真っ暗である。
『床に投地した額に直感がひらめいた。
「仏さんが出ている」
頭を上げる。
白幕の向こうに、金色に輝き宝冠をつけた観世音菩薩がズラーッと三列に並んでいた。三十三間堂の観音群をイメージすればよいのであろうか。丸顔のやさしい表情の美しい観音様であった。皆、同じ顔つきをしている。白幕に浮き出るようで、距離感があった。目を左方に移す。そちらも観世音菩薩が並んでいた。次いで右方こちらも同様であった。
「魂が引き抜かれたようであった」
じーっと見ているのみであった。心が騒ぐこともなく、感激する余地もない。「出てる!」ただ引きつけられ、魅せられていた。実際は数十秒であったろうが、高川師の実感では二~三分の間であるという。
「なーむ」
再び礼拝をし、頭を起こすと仏の姿は消えていた。礼拝は続行した。』
(行とは何か/藤田庄市/新潮選書から引用)
見ただけなら、菩薩である。まだ先がある。これはいわゆる向こうから来たビジョンなのだと思うが、仏と観世音菩薩は違うのではないか。観世音菩薩は高級神霊の一つのように思う。
それと、例えばの話ではあるが、時々観世音菩薩が来ていたのに気がつかなかったが、この時は気がついたというようなことはあるのではないか、と思う。
それでは、仏に出会える好相行とはどんなものだろうか。