アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

その時に見るやすらぎ-6

2024-03-25 12:43:05 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎オーディン

 

北欧神話の主神オーディンは、巨人中の賢者のミーミルの守る知恵の泉の水を飲むために片目を差し出した。

ミーミルの泉は世界樹イグドラシルの3本に分かれた根のうち、霜の巨人の側に張り出した根元にある。

泉の水の鏡をのぞき込む者は、何よりもまず自分の姿を見る。出口王仁三郎がその教団で本守護神たる自己を奉斎させたように、内面への世界への旅は、必ずしも愉快なものではない自分自身と出会うことから始まる。

水鏡に映る自分の姿は、自分の影である。しかし自分の影の先である水底には宝があることが知られている。水底の宝を手に入れるという行為は、歴史上にしばしば魚を取るという行為としてシンボル化されて出て来る。水面下とは、死の世界であり、集合的無意識の世界である。

魚さえ取れば、その泉の水さえ飲めば、この世とあの世を股にかけた本当の自由を手に入れることができ、人間的苦悩からの解放がある。だからそのことは宝として表現される。

しかし水面下の知恵を手に入れるということは、我々にとって、いわば生きるか死ぬかの問題である。この世のあらゆるものを捨てさせられることになるからだ。オーディンは片目を失った代わりにそれを手に入れた。

オーディンですらこの世的なものを捨てさせられた。アダムとイブでは、知恵の実を食べた代わりにエデンの園を追放されることになった。

オーディンは、ミーミルに片目を差し出して、敢えてこの上ない癒しを求めたのだ。知恵とはあらゆる人間的苦悩を超越できる叡智である。よってこの知恵こそ無上の癒しに他ならない。

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出口王仁三郎の尸解論

2023-05-28 16:55:34 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎自然の法に従う尸解など

(2018-10-12)

 

出口王仁三郎が尸解を論じている。

『虎、狼、猪、熊、狐、狸など野山に住む獣類、さては鳩、鳶、烏、雀の鳥類に至るまで、死骸と云ふものを此土にのこさぬ。

 

人に殺された場合は別だが、自然に死んだこれ等の屍と云ふものを誰も見た事があるまい、此等の動物は一定の時が来ると、尸解の法によつて体をもつて霊界に入つて仕舞ふのである。

 

これ皆神様の御恵によるもので彼等が死して醜骸を此地上に残す時、誰も葬式をして埋めてやるものが無いからの事である。それに彼等には欲と云ふものがないし、執着心も何もないので、実際綺麗なものである。

虎狼の欲といふ諺があるけれど、彼等は腹が膨れてさへ居れば、決して他を犯さうとはしない。

 

人間の欲となると恐ろしいもので、其日の糧どころか、一年中食べても、一生涯食べても余りある程のものを貯へながら、まだ其上他のものを自分のものにしたいと云ふ欲望の絶ゆる時がないのだから、おそろしい執着だ。

 

家畜は死骸を此土に曝すが、それは人間が始末をしてやるから、尸解の法に依らないのである。人間も同様お互に始末を仕やう事が出来るから尸解の法によらないのである。』

(出口王仁三郎随筆集水鏡の尸解から引用)

 

さらにこれを前提に、

『加藤『尸解(しけ)の法についてお伺い致したいのですが』

 

出口氏『ガット虫が蝉になるのもみな尸解の法である。

 

ガット虫に羽が生えて変わるだろう。麦の中から虫が発生(わ)いて蝶になる。これもみな尸解の法だ。天狗になったとかいうのは人間のうち尸解の法によってなったのだ。

 

鳥などは自然に従っているから何でも出来る』

 

加藤『尸解の法によって霊界に入る以外に霊界に入ればそれらの血液はどうなるのですか』

 

出口氏『鶏なんかは大抵食うようになっているから、殺された時に霊が抜ける。それが霊身を作って、鶏なら鶏になっている。

 

人間の体は死ぬと血が黒うなってしまう。霊のある間は霊が流通させているけれども、霊が抜けてしまうと肉体の中に入ってしまう。

 

滓(かす)が残っているが血が血管の中を廻っているのは霊が動いているからで、人間の血は霊なのだ。

 

霊が入っているから赤い。霊がなくなってしまったら、水分が体内へ吸収されてわからんようになる。

 

静脈血は初めから黒いが、本当に良いやつは融和してしまう。水気が屍体と一緒になってしまうのだ。血液は元通りあるのだけれども、屍体の中に一緒になってしまうので分からなくなってしまうのだ。霊というものは形のないものだから、形のないものが血液の中を廻っているから赤いのだ』』

(『出口王仁三郎全集第二巻第四篇P370-371から引用(国会図書館デジタルアーカイブにあり))

 

以上は、動物も含めて普通に屍解があることを指摘している。血液は霊だとは言っているが、七つの身体論でいえば、血液といえども物質レベルだから、血液についてはOSHOバグワンはほとんど気にしていない。チベット死者の書でも血液については、体液の流出として描かれてはいるが、その程度の言及だったように思う。

出口王仁三郎も霊は形がないとして物質レベルではないことを前提にしている。

 

覚醒から尸解に至るロジックは、通常の社会通念の外側にある。そして尸解も輪廻転生の一シーンである。

 

動物は、自然において屍解しようとして屍解するわけでなく、自ずと屍解する。人間はさる境地にあるものだけが、屍解が可能となる。

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宗派によらない黙照枯坐

2022-11-20 12:38:57 | エクスタシス 夢の夢なるneo
◎垂直な背骨

黙照枯坐といえば、日本では只管打坐の代名詞だと思われており、日本ではどうしても禅宗の座り方の一種みたいに思われている。

臨済宗の白隠は、黙照枯坐を批判したが、一方黙照枯坐の方では身心脱落という大悟徹底した境地がある。たまたま黙照枯坐で身心脱落というメソッドが中国から日本に伝承されたかに見えるが、それは達磨以降の流れに限定したものでなく、源流はインドにも見える。

バガバッド・ギータから。
『ヨーギは人里離れたところに隠遁して孤独な生活を送り、心と肉体を克服し、願望と執着を捨てて常にアートマンを瞑想しなければならない。

ヨーギの坐る場所は堅固で、高からず低からず、清潔な場所でなければならない。まず神聖な草を敷き、次に鹿の革を置き、その上に布を敷かねばならない(註3)。

ここに坐り感覚と空想をおさえて心を一点に集中させる。このように瞑想すればヨーギの心は清らかになる。

胴・頭・頸を垂直にして不動の姿勢をとり、鼻頭を凝視して内観する。眼を四方に動かさない。』
(バガヴァッド・ギータ/ヴェーダーンタ文庫P85から引用)

いろいろ書いてあるが、不動にして垂直。

道元の普勧坐禅儀では、もう少し具体的。
1.結跏趺坐は、まず右の足を左の腿(もも)の上に置き、次に左の足を右の腿の上へのせる。半跏趺坐は左の足を右の腿の上へのせるだけ。
2.衣服はゆったりしたものできちんとしたもの。
3.右の手を左の足の上にのせ、左の手を右の手のひらの中に置き、両方の親指の先をつける。
4.左右に傾かず、前後に片寄らず、正身端坐。
耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるように。
5.舌は上の歯茎につけ、唇と歯を着ける。
6.目は開いておく。
7.ポスチャーも固まり、呼吸も整う。
8.思念が起こったら、気をつけて相手にしない。こうして『久々にして縁を忘ずれば、自ずから一片となる』

わかりにくいかもしれないが、上記の4が、背骨を垂直にするということ。

心理状態が座る姿勢を決めるという冥想ならではの発想があることを考えると、背骨を垂直にするとは、実はそれ以上の意味があるように思う。

黙照枯坐での垂直な背骨は、宗派によらず起こってきたし、只管打坐でのように連綿と繰り返し行われてもきた。
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90歳のブーレ・ババの肉体乗り換え

2022-11-15 10:31:28 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎長時間サマディーにとどまる道具

 

ブーレ・ババのブーレは老いたという意味。アッサムの、90歳になろうとするブーレ・ババは、この肉体は長時間サマディーにとどまる道具にはならないとして、かねて若い肉体の出物を待っていた。

 

ある日彼は、明日50キロ離れたところで若い男が蛇にかまれて死に川に流されるのだが、それは良い死体だと語った。

 

その死体に乗り換えるためにその日20キロ離れた河畔に移動し、彼とスワミ・ラーマは野営したが、翌朝ブーレ・ババはいなくなっていた。

 

スワミ・ラーマはまもなくヒマラヤに帰ったのだが、ある日見知らぬ若い修行者が彼を訪ねてきて、スワミ・ラーマとブーレ・ババの肉体乗り換えに至るアッサムでの出来事を詳しく語り、最後に自分が肉体を乗り換えた時にスワミ・ラーマが一緒にいなかったのは残念だと語った。

 

ブーレ・ババは、このようにして肉体を乗り換えたことを実証してみせた。

 

人間から人間に転生する場合、肉体死から次の肉体に受胎出産というルートをとるならば、最低でも10か月かかるところを、ブーレ・ババは、第三者の臨死の肉体をもって、速やかにそれに乗った。

 

スワミ・ラーマは、この若い修行者には、ブーレ・ババの知識・記憶・性質・癖などほとんどがあったことを確認した。そして熟達した修行者はそれを望むならば、このように別の若い臨死ボディを得て乗り換えさえできると結論づけている。

 

これは、俗人にとっては、単に眉唾な話かもしれないが、「何のために生きるか」に真摯に取り組んできた人間にとっては、一つの選択肢として理解できる人もいると思う。

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ことごとく死人となりてなりはてて

2022-11-07 06:17:42 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎クリシュナムルティ-4

 

別世界と言う場合、それが、心理現象なのか、世界が転換したのかを見極める必要がある。

 

「ことごとく死人となりてなりはてて」は、至道無難の歌だが、この日常感覚、世界感覚を述べたと思われるクリシュナムルティの文がある。これをして、別の世界に生きているということを端的に知ることができるように思う。これは、叙情的表現でも、特定の信念の発露でも、とある教条に従った生き方でもなく、別世界の日常感覚ではないのだろうか。

 

『死ぬというのはどんなことなのでしょう?

あらゆるものを諦めること。死はとてもとても鋭い剃刀で、あなたをあなたの執着するものから、あなたの神々から、迷信から、安楽を願う望みから――――次の生などから、切り離すのです。

 

私は死が何を意味するかを見出そうとしています。なぜならそれは生と同じく大切なことだからです。ですから、理論的にではなく実際的に、死が何を意味するかをどうしたら見出せるのでしょう? あなたもそう望むように、私は実際に見出してみたい。あなたのために話しているのですから、眠らないようにしてください。

 

死ぬということはどんな意味ですか? 自分自身に訊ねてみなさい。若い頃も、齢をとってからも、この質問はいつもそこにあるのです。それは、人間が積みあげた、あなたが積みあげたすべてのものから完全に自由に、無執着になること――――全的に自由になることです。

 

どんなことにも執着せず、神も、未来も、過去もないことです。あなたはその美しさ、その偉大さを見ないのです。その途方もない力強さを――――生きながら死ぬことです。その意味がわかりますか?

 

生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬのです。ですから生を通して何にも執着しないのです。それが死の意味なのです。

 

したがって、死ぬことは生きることです。おわかりですか? 生とは、自分の執着しているあらゆるものを日ごとに放棄することです。できますか?まことに単純な事実ですが、意味するところは途方もないものです。

 

ですから毎日が新しい日なのです。毎日死んでまた受肉するのです。すると凄まじい活力とエネルギ一が生まれます。恐れるものは何もないからです。傷つけられるものは何もないからです。傷つくことがありえなくなるのです。

 

人間の積み上げたあらゆるものは、全的に放棄されなくてはなりません。それが死の意味なのです。』

(クリシュナムルティ・開いた扉/メアリー・ルティエンス/メルクマール社P251-252から引用)

 

『生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬ』、これぞことごとく死人となりて成り果てる感覚である。『ことごとく死人となりて成り果てて 思いのままにするわざぞ良き』などと唐突に出されても、社会常識人には想像も理解も及ぶものではない。

 

『毎日が新しい日』というのも禅語の日々是好日の真相なのだろう。

 

この別天地の感覚は、至道無難だけでなく、一休にも見ることができる。

 

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OSHOバグワンの輪廻とインド

2022-11-04 10:05:38 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎今生である葉と来世の葉

 

ここでは、個から全体へ、そして全体から別の個へという見方の一つの敷衍を語る。

 

OSHOバグワンは、インドでは、輪廻転生が宗教家の布教の方便として使われてきたと見る。

 

曰く、ヒンドゥー教徒は神と魂を信じている、ジャイナ教とは神を信じず魂だけを信じている、仏教徒は、神も魂も信じていない。けれども三教徒とも輪廻は信じる。

 

ヒンドゥー教、ジャイナ教のように魂があるのが前提となっていれば、人は死ぬと肉体が地上に残され、魂はやがて別の肉体に入るという説明が理解しやすい。仏教は魂は認めないが、何だか生の連続である輪廻はあるとしている、連続体であるが前のと同じではないのが転生していると。

 

こうしたインド三宗教の下では、いつでもいくらでも何転生でもやり直しがきくので、インドでは、時間にルーズであり、人々を無気力にする結果となった。

 

この教訓を踏まえて、逆にキリスト教では、人生は一度きり、時間がないと急き立てるのを方便とした。その結果西欧近代文明下では、時間が過剰に意識され、せかせか性急に1/100秒を争って日々活動するようになった。

 

人生は一回きり、時間を無駄にしてはならない、とは、事実上輪廻がないことを前提にする言い方だが、ダンテス・ダイジも人生一回きりであるとする。そこで転生して出て来る人物は今生のものと100%同じものではない。同じ幹から複数の似た葉が出るように、今生である葉と来世の葉はとても似ているが、全く同じではないと。

 

これはOSHOバグワンが、前に挙げた釈迦(仏教)の見解にほぼ同意しているのだが、それと似た見解である。

(参考:英知の辞典/OSHO/メルクマール社P560-566)

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ダンテス・ダイジの死と転生-2

2022-11-04 10:03:24 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎死と転生のメカニズム

 

ここで質問者は、一つの個なる霊魂が死ぬと霊界に渡り、再生して現世に戻り、また死ぬと霊界に戻るみたいな通俗的輪廻転生観を想定しているのだが、ダンテス・ダイジは、そんな社会的通念みたいなものすらおかまいなしに、そのものズバリで、人間の輪廻転生のメカニズムを明かしていく。だから一見質問と回答はかみ合っていないように見えるが、実はパーフェクトに回答は尽くされている。

 

それは、人は死ぬとまずこの万霊万象が一つながりになったもの、それはアートマン・第六身体のことだが、それに帰る。ダンテス・ダイジは、アートマン・第六身体のことを、アラヤ識、アカシック・レコード、愛、光、「今、ここ」などとも呼んでいる。

 

人は死ぬと、本人の自覚の有無にかかわらず、この一なるものに帰っていく。そして一枚の葉である人間は、前に出たところに近い枝から再生する。それをもって輪廻転生と称する。転生前後の二枚の葉は、大体似ているけど実は違う。それが実相。

 

この見方はとても機能的であって、いわゆる人間の側から見た見方ではない。この見方からは、一見、善悪や真善美などは引き出せないように見える。よって、このメカニズムだけをもってこの世の展開を考えると、ろくでもないことを真実だ真理だと吹聴し、そういうことを考えたり実行したりする手合い(カルト、拝金主義、利己主義など)が相当数出て来ることが想定される。それをダンテス・ダイジは、「ダンテスの悪影響」と呼んでいた。

 

ただし一なる者、一者、アートマンとは、神のことであり仏のことでありタオのことなのだが、それを冥想の中で確認できた人間の心にも行動にも、もはや悪はないことをあらゆる成道者が証明しているともいえる。

 

それを今の社会常識、科学の論理性の枠内で証明することはできないので、それについては直観的に「あなたはどう感じているか」だけが鍵になってしまうのだが。

 

さて、このメカニズムこそチベット死者の書で死の冒頭に原初の光が出現するのと符合し、このメカニズムが正しい事を承知している人はその線に沿って輪廻転生の説明を行っているものだ。それが釈迦であり、ダライ・ラマだと思う。

 

また、このメカニズムのもとで、閻魔大王の死後審判、縁起、一生のパノラマ回顧などがあるので、この基本線の理解がなければ、こうしたディテールの見方も誤ってしまうのではないだろうか。

 

ダンテス・ダイジは、一者と合一する「体験とはいえない体験」のことを三昧と称し、それを冥想修行の目標のひとつとして掲げている。

 

ダンテス・ダイジと弟子の座談。

『ダンテス「ただし、今言ったように、ここに瓶がある、10分後もここに置いたままならあるだろう、そういう範囲で転生っていうのはあるよ。うん。」

 

弟子「そうすると、死ぬっていうのは本質的に、人間に生まれ変われる分においてはそれほど苦痛ではないとして、なんかこういろいろ転生するじゃない。その辺のカラクリっていうか、なんでそんなことをやってるのかとか、自分が選んでやってるのか、誰かに命令されてやってるのか、その辺のカラクリは一体どうなっているのかな。」

 

ダンテス「それはね、たとえば木を見ればいい。一本の木があるでしょ。その木から枝が出てるでしょ。それで枝に葉っぱが出るわけだ。すると、今年葉っぱが出て、冬になると落ちると。来年になるとまた同じ場所から葉っぱが出るわけだ。そのとき、その出る葉っぱは、去年出てた葉っぱとは違う葉っぱが出るわけだ。」

 

弟子「まあ大体似てるけど違うっていう。」

 

ダンテス「そのときに、葉っぱを出させようとする形成力が、この枝自体にあるわけだろ。形成力が。その形成力の影響を受けて、前に落ちた葉っぱの後続としての葉っぱが出るわけでしょ。

同じ場所から出るとしたら、必ず何らかの形で、前に落ちた葉っぱの後続でしょ。全然関係ない葉っぱではないでしょ。その範囲で転生っていうのは起こるわけ。」

 

弟子「永遠の命っていうか、魂的なものが枝に値して・・・」

 

ダンテス「うん。転生っていうのはね、正確に言うと、魂が時間の上をこういう風に渡り歩くものではない。ではなくて、時間と空間と物質を全部ひっくるめたね、今っていうものがここにある。これをアラヤ識とかアカシック・レコードとかアカーシャとか空とか言うんだ。ここにある。すべてが。

で、ここにあるものの中に帰るわけ。帰った自覚がないけど、帰ってるわけ。それを自覚するために、冥想っていう経験がそれをはっきりさせるわけ。」

 

 

弟子「たとえば、三つの転生があるとするじゃない。これが今で、過去、未来だとするじゃない。

で今ここにいるとすると、帰るっていうのはどういうことになるの?」

 

ダンテス「ここに帰る。いつでも。これをあらしめている、元に帰るわけ。過去・現在・未来は、すべてここにあるわけ。」

 

弟子「それは未来に対する原因がここに含まれているっていう意味においては分かるけれども、そういう意味で言ってるの?」

 

ダンテス「ううん、そうじゃない。すべてがここにある。つまり、ここから出ていくときに、どういう形で現象化するかっていうことなの。現象化するには、時間と空間と物質っていう枠の中に移さなくちゃいけない。もともとあるものは、時間も空間も現象もありはしないわけ。ところが人間の観念が、そういう枠から世界を見ようとしている、その枠を作り出している。その枠を取り払うために冥想しろって言ってるだけ。

 

その枠っていうのは人間の中にある枠なんであって、動物においては世界は全然違う世界なんだよ。人間の枠がたまたま、過去現在未来とか時間とか空間とか距離があるとか勝手に思い込んでるだけだ。一つながりの命がある。それは光といってもいい、愛といってもいい。そういう命がびっしり満ちわたって流動しているのさ。命自体が。」

 

弟子「その枠っていうのは、どっからできたもの? 発生として。」

 

ダンテス「発生っていうのは、全体の命自体が具象化して、個々のものになるときに起こるわけ。だから、その枠が物語の原因なんだ。だからその枠を消しちゃうと、もう一つながりの命の中に溶け込んじゃう。それを三昧っていうわけだ。その三昧っていうのが、今度、具象化して、Aという人間、Bという人間になるためには、必ず枠の形式の中でそれが行われる。」

 

ただ一つながりのアートマンは、時間、空間、物質という人間に特有の認識の枠にはめて見たり、考えたりすることができるのみ。

 

本当に確かなもの、レアな、生(なま)なアートマンは人間には想像することすらもできない部分を含む。

 

輪廻転生は、マンツーマン輪廻転生などではないが、生と生の間に全体(あるいは「有」、本尊、あらゆる現象)を挟むことで、単純に一対多とか、多対一と考えるも愚かなほどの多面性を持っている。

 

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ダンテス・ダイジの死と転生-1

2022-11-04 09:59:15 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎霊が存続するメカニズム

 

以下はダンテス・ダイジが、死と転生のメカニズムを端的に語っているある座談。

 

一本の木とは世界樹のことで、あらゆる世界が一つながりになったアートマンである。この樹に葉っぱとしてAさんが生まれる。そして葉は秋になると死んで散るが、その時にその葉は宇宙意識なるアートマンに帰って行く。

 

チベット死者の書で、人は死ぬとすぐに原初の光を見るというがそれがこの部分に当たる。

 

次の春に枝の同じような部分から葉が出る。この葉がAさんの輪廻転生。このワン・ターンの転生を形成する宇宙の潜在的パワーをダンテス・ダイジは幽霊と呼び、いわゆる霊界メカニズムをいとも平易に解き明かしている。

 

ダンテス「霊っていうのが存続するっていうのはさ。こういうプールがあるわけ。無限のプール。

そのプールからいろんな人が出てるわけ。

 

一本の木を考えてもらってもいい。木があるでしょ。枝があるでしょ。ここから葉っぱが出るわけよ。これがたとえば君だとするよ。

 

冬になって葉っぱが落ちるわけ。でも次の春になるとまた葉っぱが出るわけ。そのときに葉っぱを出す部分ていうのはさ、似たような形を作り出す形成力が働いているわけでしょ、枝の中に。

 

その力のことを幽霊っていうんだ。たとえば、ある海があるとするでしょ。こっちにはいつも荒い波ばかり起こるとするでしょ。こっちには平穏な並みしか起こらない。こっちの海面下の潮流の動きは向こうと違うわけ。その潮流の動きが幽霊なんだ。

 

だけどそれを潮流の動きとしてとらえることが人間の普通の認識力ではできないから、しょうがなくて人格化されて表出するだけであって。

 

プールがあって、宇宙意識っていう無限の海原に人は死ぬと行く。その海原の中には無限のイメージが蓄積されているんだ。そのイメージが、時にイメージ自体で現れたとき、それを幽霊と呼ぶ。

 

イメージが仮に肉体として表現されたとき、それを生まれ変わりという。」

 

弟子「海に帰っていくっていうのは一人で?」

ダンテス「一人とか二人っていうのはまったく数えられない。」

弟子「容積とか体積とかそういう尺度じゃなくて?」

 

ダンテス「うん。そういう物理的概念っていうのはまったく適用できない。だから二人とか半人とか中人とかね、現世では男とか女とか、一人二人と数えられるでしょ。ところが、宇宙意識のプールの中ではね、1.5人とか1.8人だって実際には存在するんだ。だけど1.8人なんて現れてみろよ、確認できないだろ。一人二人と数えている意識のレベルで生きている人間にとっては。だからしょうがなく、一人の形を取るわけ。だから絶対に客観性っていうのを期せないわけ。幽霊の言葉っていうのは。どっか、混ざってるわけ、無数のものが。

 

首尾一貫した物理学的な説なんて、絶対に幽霊の言葉にありえない。

なぜかっていうと、無数の意識のレベルでイメージがさ、錯綜しながらその中に一貫性を作ってメッセージが届くんだもの。

 

だから真の霊眼ていうのは、霊媒に起こる霊眼ではないの。霊媒に起こる霊眼ていうのは、今言ったように、その人に合わせた形で、その人の枠の中に現れるわけ、イメージが。だから足りない部分を勝手に補ってしまうわけ。潜在意識が。その人の個人的潜在意識が。勝手にでっち上げてしまう部分が出てくる。

 

釈迦が言う神通力っていうのはね、宇宙意識のプール、宇宙意識の海そのものを見渡すわけ。だから一度なんだ。分けられやしないんだ。念力とかテレパシーとか色々あるだろ? 前世通とか宿命通とか、過去生を見たり幽霊を見たりとか。そんなもの全部、一つながりの宇宙意識から起こったものだ。」』

 

この座談では、アートマン全体の中の様々な具象を形成する元型的イメージたちの展開を幽霊と呼んで、話題の中心は幽霊の側になってしまっている。

 

これより更に輪廻転生の核心に近い部分を語っている座談が続く以下のものである。

 

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OSHOバグワンの輪廻転生-2

2022-11-04 09:55:57 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎あなたはどこかで死んでから今生に出現した

 

OSHOバグワンの輪廻転生説の続き。

以下の引用文は、自我の死をもって、ブラフマンたる第六身体が誕生することを云う。個である肉体の自分が死ぬことは、アストラル体などの個的媒体(乗り物)が死ぬことでもあり、第五身体たる個が死ぬことでもあるとする。

 

第五身体たる個が死ぬこととは全体が目覚めることであり、悟りでもある。肉体が死ねば誰でも悟れるのだと言っているようでもある。

 

OSHOバグワンの説明のとおり、あなたの肉体は第三者である両親によってもたらされ、肉体死に際して、第三者である両親とは係り合いのない別の次元の第三者に戻っていく。

 

『違いはこうだ。まず、私はある子宮から現れ、次に他の子宮へ入っていく――――しかし、私は気づいていない。私がこの誕生を受けた時、それは明らかだった。しかし今、私が去っていくのは、はっきりしない。死は誕生につながる。あなたがどこかで生まれる前、あなたはどこかで死んでいたのだ。誕生は明らかだ。しかし死について、あなたは意識していない。

 

今あなたは、母親と父親から生まれた。あなたは体、すなわち七十年から百年間、機能するような器官を得た。百年経つと、この装置は働かなくなる。働きを止める日は、誕生の瞬間にあらかじめ定められている。体がいつ果てるのかは、さほど重要ではない。重要なのは、体は果てるものだという点だ。誕生と共に、あなたが死ぬことについては決められている。誕生をもたらした子宮はまた、あなたに死をももたらす。あなたはそれらを、一緒に携えてきた。実際、死は誕生を与える子宮の中に潜んでいる。百年の合間があったにすぎない。

 

この百年のうちに、あなたは一方の端からもう一方の端への旅を完結させ、まさに正確に、あなたがやって来た次元に戻るだろう。あなたの体の死は、誕生の際に他者から受け取られる。だから死もまた、他者からやってくる。だから生まれるのもあなたではなく、死ぬのもあなたではない。

 

誕生の際には媒体があったが、死に際しても、同じ状況があてはまるだろう。第五のスピリチュアル体から、第六のコズミック体に入って、初めてあなたは生まれる。あなたは自ら生まれる。あなたの誕生は、子宮なしのものだ。しかし同時に、次は自らの死があなたを待っている。

 

子宮なしの死が、あなたを待っている。この誕生が、あなたをどこへ連れていくにしろ、そこからは死が、遥か遠くへとあなたを連れていくだろう。誕生はブラフマンに、死はニルヴァーナへとあなたを導く。』

(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)

 

更にOSHOバグワンの死のプロセスの説明に、『死ぬときは、まず肉体だけが落ち、残りの六つの身体は自分と共にとどまる。第五の身体に到達すると第二身体から第四身体の3身体が落ちる。ここで第五、第六、第七身体が残る。

 

更に第七身体に入るとそれまでの六つの身体はすべて滅びる』(出所:奇跡の探究2/和尚/市民出版社P470-471)

 

 

以上のOSHOバグワンの説明によれば、

第五身体から第六身体へのところで個が死ぬ。ここで全体として再誕する。全体とは他者全体のことである。

 

人は、父母という他人から肉体を得て今生を始め、MAX120年くらいの肉体を喪失する時に、他人の総体であるアートマン第六身体に戻っていく。

 

このメカニズムを前提にして、OSHOバグワンは、死の世界における個の次元であるエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体をすっとばして、人はいきなり『子宮なしの死』である第六身体ブラフマンに誕生し、死なるニルヴァーナに進むという説明とする。

 

ところが、第六身体からは時間のない今ここだけの世界で、個もない世界。だから第五身体から第六身体への移行は、個なる魂がそのまま第六身体に入るというイメージはわかりにくい。とてもシンボリックな表現だが、第五身体から第六身体への移行は自分という個のすべてを捨てさせられるからである。

 

そういう意味において、

この描写はチベット死者の書で死のプロセス冒頭で原初の光を見る体験に連動するものだと考えられる。死の最初のステージには個のステージはなく、全体たるアートマンのステージが優先して出てくるというチベット死者の書の描写は、肉体や個別性を残したボディと全く異なる次元のことを述べていることに注意して読むべきだろう。

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OSHOバグワンの輪廻転生-1

2022-11-04 09:50:07 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎マンツーマン輪廻説の否定

 

輪廻転生の見方について、ここでは、OSHOバグワンのそれと、ダンテス・ダイジのそれを挙げる。両者の説は非常に似通っており、私の見るところ、その説明こそが現代人にとって妥当と思われる。

 

いわゆる神秘生理学あるいは、神秘的世界観を広汎に説き起こすには、例えば古神道の四分類である、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕というのがある。これは、極めて論理的でスッと頭に入ってきやすいが、その実何も理解できていないことになりがちである。

 

七つの身体と云うダイナミックな世界観が我々人間の生きている現実であることを確証するには、中心太陽に突入するしかないが、それは通例常人の叶うことではないので、まずはその生還者である、OSHOバグワンとダンテス・ダイジの高説を拝聴するしかないだろうと思う。

 

それぞれが全く異なる七つの次元を人はどのように通行しているのか、それが七つの身体を前提にした輪廻転生ということである。それにすらも自由が与えられていることを釈迦は四禅から涅槃に入ることで示してもいる。

 

 

さてOSHOバグワンの輪廻転生論を語るには、その七つの身体論について簡単に振り返る必要がある。

 

第一身体の肉体から第四身体のメンタル体までは共通。第五と第六が異なる。OSHOバグワンは第五身体をコーザル体とせず、スピリチュアル体と呼び、ブラフマンが第六身体であるとする。なお第五身体については、ダンテス・ダイジも、OSHOバグワンも、個の側としている。七つの身体トータルとしては、個は第五身体までであり、個がとある時点で喪失し全体に切り替わるという流れは同じ。

 

OSHOバグワン説の第五から第六への誕生とは、第五の「われ在る」が第六の「在る」に進むことを云う。個の喪失である。

 

以下の引用文を素直に読んでいくと、いわゆるマンツーマン輪廻説が否定されていることに気がつく。

 

『第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。だから後者を体験した人は、二度生まれた者とは呼ばれない。それには意味がない。わかるかね?もう簡単に理解できるだろう。

 

第五から第六へは、自分自身からの誕生があった。第六から第七へは、自分自身を通しての死がある。私たちは他者から―――――他者の体から生まれた。そして、それに続く死も、他者と関わるものだ。この点を説明しよう。

 

あなたが他者から生まれたのなら、どうして死も、あなただけのものであり得るだろうか?どうして、そんなことがあり得よう?ふたつの端は、関連がなくなってしまう。他者が私に誕生を与えてくれたのなら、死は私のものではあり得ない。他者から誕生がもたらされる時、死もまた、他者からもたらされる。』

(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)

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ダライ・ラマの輪廻の見方

2022-11-04 09:47:19 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎複数の輪廻が同時に可能

 

ダライ・ラマの輪廻の見方。これは現代の人らしく、もっと直接的な表現でもって輪廻転生を説明してくれている、ダライ・ラマの輪廻転生説も、マンツーマン転生、つまり一対一オンリーの転生観ではない。

 

ここで彼は一対多の輪廻転生を開陳しているが、それですらも、人間個人の生き方はどうあるべきかを考える上で、大いに当惑させられる見方である。

 

たとえば、ハタ・ヨーガで一生を費やして鍛え上げた肉体は次の生でだれがそれを引き継いでクリヤ・ヨーガにチャレンジするのか。

 

それから袁了凡の積善陰徳。これも何千もの善行を積み上げてその徳の果報を受けとらないうちに死んだらその徳は何人前として発現するのか?これはちょっと功利的な考え方ではあるが。

 

『一つの輪廻から十の輪廻を実現する形態がある

 

飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねてきた魂、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな一つの肉体が必要というわけではない。むしろ、そんなものは不必要である。

 

そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうものなのだ。

 

深く深く精神の最深部にまで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。もちろん、これは言葉で表現できないほどに困難な道ではあるのだが。

 

複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じることは容易なことではない。

 

こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。学び、経験し、相当の水準に達した者にとってさえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。そういう私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。輪廻思想は奥深いものだ。』

(ダライラマ 死の謎を解く/ダライラマ/クレスト社P72から引用)

 

人の誕生において、ダライ・ラマは、このように一つの輪廻から複数の輪廻があり得ることを語る。反対にダンテス・ダイジは座談の中で、一つの肉体に複数の輪廻が共存することもあり得ることも語る。

 

「ヒマラヤ聖者 最後の教え」では、老ヨーギが自分の老いさらばえた肉体から自発的に脱出し、以前から目をつけていた若者の肉体に乗り移るという話が出てくる。

このケースでは、一つの肉体に先住輪廻者と後発輪廻者が共存する。

 

これは、ダライ・ラマともあろう方が常識はずれなことを語るものだと読み飛ばさないで、現代社会が一つの精神に一つの肉体という固定観念に毒されすぎであることに対して、ことさらにこのような話を出してきていると読むのだろう。

 

神の心は石ころの心。神は、時に人間の都合などまったく顧みないが、そこから流れ出すのも愛なのである。その流れの中に生と死がある。

 

この時代は、基本的人権の尊重で個人の権利がアプリオリに保護されるせいか、無意識にマンツーマン輪廻が当たり前と思い込んでいる人が多いが、生命の実態はこのように予想に反するものである。

 

まともな感性の人ほど、心配しすぎとか、気にしすぎとか、どうでもよいことにこだわるとか見られがちなものではある。

 

また真剣な求道者ほど、俗人にわからない細かく微妙なルールでもって生きているものである。

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釈迦の輪廻の見方

2022-11-04 09:44:54 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎人間の帰趨は行為である

 

OSHOバグワンは、自分の輪廻転生の見方は釈迦と同じだと言った。

原始仏典では、マンツーマン輪廻説についてどう見ているのだろうか。

 

『第五節 生まれさせるものを(1)

 

〔神いわく、――――〕

「何が人を生まれさせるのか?

人の何ものが走り廻るのか?

何ものが輪廻に堕しているのであるか?

人にとって大きな恐怖とは何であるか?」

 

〔尊師いわく――――〕

「妄執が人を生まれさせる。

人の心が走り廻る。

生存するものが、輪廻に堕している。

人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である。」

 

第六節 生まれさせるものを(2)

 

〔神いわく、――――〕

「何が人を生まれさせるのか?

人の何ものが走り廻るのか?

何ものが輪廻に堕しているのであるか?

人は何ものから解脱しないのであるか?」

 

〔尊師いわく――――〕

「妄執が人を生まれさせる。

人の心が走り廻る。

生存するものが、輪廻に堕している。

人は、苦悩から解脱しないのである。」

 

第七節 生まれさせるものを(3)

〔神いわく、――――〕

「何が人を生まれさせるのか?

人の何ものが走り廻るのか?

何ものが輪廻に堕しているのであるか?

人の帰趨とは何であるか?」

 

〔尊師いわく――――〕

「妄執が人を生まれさせる。

人の心が走り廻る。

生存するものが、輪廻に堕している。

行為(業)は、人の帰趨である。」』

(ブッダ 神々との対話/中村元訳/岩波文庫p83-84から引用)

 

これをまとめると

妄執が人を転生させ、

人の心が走り回り、

生存するものが、輪廻に堕し

行為(業)は、人の帰趨

 

このように釈迦の見方では、輪廻の主体とは個性としての個人ではないように思われるというのは、「生存するものが、輪廻に堕する」ということは、死するものは輪廻には堕しないとも読めるからである。

 

というのは、マンツーマン輪廻説であれば、この釈迦の回答はこのようになるはずだからである。

「前世のボディ(霊体)が人を生まれさせる。

ボディ(霊体)が走り廻る。

生存するボディ(霊体)が、輪廻に堕している。

個別のボディ(霊体)は、人の帰趨である。」

 

釈迦にとって輪廻を考える上で、あまりボディ(霊体)には比重がかかっていないのである。そこでOSHOの言うような「記憶が輪廻する」という説明があり得るし、釈迦のように「行為が輪廻する」ととれる言い回しもあり得るのだろう。

 

さらにクンダリーニ・ヨーギ本山博の見方では、個人として輪廻転生するのは、アストラル体、メンタル体くらいまでで、コーザル体になると個性とはいえないような雰囲気の書きぶりなところがある。つまり個性とはいえないボディならば、そこはマンツーマン輪廻ではないということである。

 

カルマが輪廻するのであって、個別の微細身が輪廻するのではないと読める。

 

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白隠-5

2022-11-01 06:22:43 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-5

○白隠-5

 

白隠年譜によれば、白隠の最後の悟りは、42歳のそれである。その夜白隠は、一晩中法華経を読んでいた。

 

『師、四十二歳。秋七月・・・・・。一夜読んで譬喩品に到り、乍ち蛬の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き、豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。初めて正受老人平生の受用を徹見し、及び大覚世尊の舌根両茎の筋を欠くことを了知す。此れより大自在を得たり』

 

白隠はこの夜、法華経をきっかけにして、これまでの認識が根本的に誤っていたことを悟り、大自在を得たという。法華経は釈迦の死後何百年も経って作られた経典だなどということは関係ない。とにかく法華経が経典の王様である所以を了知し、声を放って号泣した。

 

これが発生した雰囲気はそれまでの彼の悟りの雰囲気とは違うものがある。黙照枯坐というか只管打坐が起きたのではないかと感じられるのである。ただ身心脱落したのではなく、大自在を得たという表現を白隠がしたので、彼の高弟がこれを聞き記したのだろう。

 

禅修行もモデル・ケースというものを考えると、行住坐臥と様々な禅的冥想の試行錯誤の最後に万事休して只管打坐がおこる。そして身心脱落して、生の窮めた頂から死をも眺めるということなのだろう。

 

しかし、白隠は、純粋な只管打坐ルートでは想定されていない超能力(軟酥による観想法ヒーリング)を用いたりして、このモデルを踏み外している。超能力ということでいえば、本来は身心脱落して後、六神通が備わるという順序なのだろうが、こうしたことは、その人によって違うということなのだろう。

 

厳しく見れば、白隠は自分で身心脱落したなどとは言っていない。それは道元も同じ。身心脱落したかどうかを感じ取ることのできるのは、覚醒した者だけである。

しかし、大自在も余人には理解しがたいポイントだが、大自在を語る以前から白隠の世界が変わったことは、心ある人にはわかるのではないか。

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白隠-4

2022-11-01 06:19:01 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-4

○白隠-4

 

生死はすなわち涅槃である。これこそが世界が変わったということである。

 

白隠が、32歳の時、夢に母が現れ、直径5、6寸の古鏡を左右の手にそれぞれ1枚ずつくれた。最初は右手の古鏡は光り輝き、その光が心の奥底はおろか山河大地をも底のないほどに照らし抜くほどだったが、左手の古鏡は輝かなかった。そして突然左の古鏡が右の古鏡よりも百千億倍にも輝くように感じた。

これ以後、万物を見ること自分の顔を見るようになった。初めて如来は目に仏性を見るということがわかった。

 

右の古鏡は生のシンボル、左の古鏡は死のシンボル。左の方が右より尊いからである。これは超能力の発現のようにも読めるかもしれないが、夢の中ではあるが、一つの大悟なのではないか。これぞ生死はすなわち涅槃である確証なのではないかと思う。

 

如来は目に仏性を見るとは、あらゆる人間・山川草木に神性を見るということか。

 

白隠はこの夢の後、ある夜法華経を読み、円頓真正の奥義を徹見して、思わず声を挙げて泣いた。

 

白隠は、まず「自性本有の有様」(アートマン=十牛図の牛)を確認することを隻手の公案で求めたが、これは修行の中間ステージに過ぎない。だから「我があると執着するから生死と涅槃があり、煩悩と菩提がある」として、我つまり「自性本有の有様」すら捨て去った無我こそ涅槃=ニルヴァーナという修行の終着点であるとする。

 

そこで白隠は説明する。

一本の公案になりきることで、心が死んで意が消えて、万事休した状態となる。そこで何かが起こる。世界の転換であり、「体験とは言えない体験」が起こる。

なぜそれが起こるかは説明していない。

白隠の比喩では、真正でクリアな無我になるには、必ず崖っぷちに手をかけて、その絶体絶命のピンチで、ふっと両手を離せば身体バラバラになり骨も残るまい。しかしそこから蘇(よみがえ)って、四徳の真我にぶちあたることになると。

 

無我以前の我と以後の我は、同じ我という言葉だが、それぞれ別の世界にある我なのだろうと思う。これぞ世界が変わるということだと考える。

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白隠-3

2022-11-01 06:16:19 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-3

○白隠-3

 

どう世界が変わったか。それだけが問題だ。何を見たか、何を聞いたか、どんな超能力が発現したかなどは、大した問題ではない。

 

白隠の著作の一つ藪柑子をみると、どう変わるかがある。

1.菩薩の威儀さえ了知すれば、生死はすなわち涅槃であると自覚できる。

 

これは、菩薩(最低でも見性した人)の行住坐臥(行動パターン)を理解すればとは、悪事をしない、善事を行うということである(諸悪莫作 衆善奉行)。そのように生きて、生死は涅槃であると自覚できる。

 

つまり悟ったら「悪事をしない、善事を行う」という行動パターンに変わり、生だけがこの世である世界認識から、生も死も涅槃の展開であるという世界認識に変わると言っている。

 

これは他人がどうあろうと、自分だけは善を行い、悪を行わないということである。ここには、ギブ・アンド・テイクとか、自分のメリットだけは取っていくとか、自分のもうけだけは確保するなどという現代ではごく当たり前とされる発想はない。

 

2.隻手の声をわかっても、そのわかった程度には深い浅いがあるものだから、隻手の公案がわかって以後も長い間修行した者を訪ねて、それを定着させねばならない。というのは、菩薩の行動パターンをわかっていない者は、悪道に落ちたり、(隻手の公案の)悟りを忘れたりすることがあるからである。

 

隻手の公案を透過すれば、十牛図の第三図レベルだが、それだけでは、もとに戻ることがあることを白隠は指摘している。

 

それと、悟った人(菩薩の行動パターンを理解した人)の行動の姿が、諸悪莫作 衆善奉行であって、例えば月間行動目標を「諸悪莫作 衆善奉行」と掲げて、それに沿って行動しているのではないということである。

 

この部分が、悟っていない者にとっての悟り理解の核心の一つだと思う。既に世界は変わり、善だけに生きるのだ。

 

蛇足だが、白隠は、浄土・天国に生まれ変わろうと願うことは悟りとは関係ないと繰り返し力説する。彼も霊がかりを戒めている。

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