アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

只管打坐の7ステップ-4

2023-09-19 07:01:31 | 只管打坐neo

◎絶対に買えない最高の逸品

(2007-10-27)

             

ダンテス・ダイジは、身心脱落のことを「宇宙と一体という経験のみにとどまらない、全くの何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道」と説明している。

 

いきなりこういう説明を受けても、とっつきにくく、全くの何のことやら想像を絶してしまう。大体こんな説明をするから、折角門前まで来て中を見ようとする物見高いお客さんをみすみす帰してしまうようなものだとつくづく思う。

 

そこで、クリシュナムルティの生き方や著作を見ると、それがどんなものなのか、段々見当がついて来るのではないだろうか。そうは言っても、クリシュナムルティのやり方だって、「この品物はどんなに頑張っても買えませんが、こんなに素晴らしい品物でーす」みたいな宣伝をしているようなところはあるけれど。

 

ダンテス・ダイジの只管打坐の7ステップは、これだ。

『ステップ1.

固定静寂

エネルギー

パワー

 

ステップ2.

あたりまえな生命の暖かさ

意識する必要のない大安心

完全にあたりまえに生きていること

 

ステップ3.

至福

Every thing is ok の情熱と平安

実用的な霊的ビジョンと鋭敏な感受性

 

ステップ4.

すべてが自己である愛・慈悲

大いなるすべてのものに対するいとおしさ

すべてが一体であるという感謝

底知れぬ生命の絶望と悲しみ

 

ステップ5.

カオス・全面的な真っ暗闇

パーフェクトにデリケートなあらゆるもののクリエーション

美と調和のバイブレーション

 

ステップ6.

あらゆるレベルでの智恵・インスピレーション

直感・個生命としての完全な納得

個我を残した時点での限界的英知

Everything is Everything

 

ステップ7.

エクスタシー・すべてのすべて

身心脱落・脱落身心

究極の根底・ニルヴァーナ

唯一の私自身・私自身がない私自身

すべてのものとなって現れている私自身

 

(注1)どの時点でどのステップが出てくるかわからない。

(注2)人により、第一番目から六神通を持つ場合もあり得る。

ただし、それにとらわれてしまえば只管打坐の進行は自動的に止まってしまう。

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)

 

最初にこのステップを見た時にはこのプロファイルの根底にある原理原則など想像もつかなかったが、今見てみると七つのステップとは、七つのチャクラに照応した区分になっていることがわかる。

 

ダンテス・ダイジは、只管打坐のステップなどというものは、はなから問題にしていないが、ステップなどというものがあるとすればという条件つきでこのステップの説明を始めている。

 

我々が只管打坐を知的にイマジネーションするに当たっては、こうしたステップを相手にしないものこそが只管打坐であるという彼の説明全体に横溢する自由奔放な気分を、忘れてはならないだろう。

 

イメージが掴めても掴めなくても、さあ坐ってみよう。

 

きちんとした理由を示すことなどできないが、自分が気に入っている身の回りの道具や持ち物や、この劣悪だが素晴らしい文明の息吹は、それによっていくらでも残ることになるのではないだろうか。

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違いを理解できないもの

2023-06-13 19:28:08 | 只管打坐neo

◎身心脱落と臨済禅

(2008-11-21)

 

何も事前の知識のない人々にわかりやすく説明するためには、違いを明らかにしなければならない。只管打坐ですら、道元とクリシュナムルティと老子は同じ境地を語っているらしいということはわかっても、クリシュナムルティも老子もその坐法と境地の連動について何も語らない。従って最近の文書による論証という手法では、論理的な組立てはできない。

 

また只管打坐と臨済禅の悟りがどう違うかということも、明確にはしにくい。両方の悟りを体験した者だけがそれを知るわけだが、そうした特別の人物が両方の悟りを得たことを、他の悟っていない第三者に証明できるわけではない。

 

面山は、只管打坐のことを純禅と呼び、黙照禅と呼び、臨済系の看話禅と区別している。面山は、黙照禅の身心脱落の境地を華厳経なら海印三昧のことであり、法華経なら無量義処三昧で、般若経なら三昧王三昧であると断言している。

 

ところがこの黙照禅の身心脱落の境地はこれを実体験した者のみがこれを確認できる(唯証相応の境界なる)とも面山は述べており、誰でも理屈で理解できるものではないとして、論理的証明のできないことをも認めている。

 

只管打坐と臨済禅の両方で悟った者を捜すのがてっとり早いが、理屈で言えば、臨済禅も只管打坐も釈迦正伝なので、釈迦こそが両方悟っていたということになるが、それでは何の説明にもなっていないところがある。

 

その境地が、ある特定の坐法の先にあるかどうかの説明はできないが、本当かどうか確かめるためには、自分でその体験とは呼べない体験に飛び込むしかない。

 

これでは禅をやろうということについて、社会へ訴求する力はないのだが、それができなければ、人類滅亡之境を見るというジレンマがある。

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慧可断臂異説

2023-03-16 06:27:08 | 只管打坐neo

◎ゲゲゲの女房など

(2010-04-03)

 

上野の国立博物館のグッズ売り場は、スミソニアンやニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムみたいに明るく開放的な売り場に変わってしばらくたつ。そこでは色紙の雪舟の慧可断臂図を手にとって買おうか、買うまいか迷うことが何度かあった。

 

慧可断臂図の事情を知らない人にとっては、縁起でもない図柄であるからである。

 

達磨の高弟であった慧可は、その不安な心を差し出せと命じられて、自ら片臂を切って達磨に呈したところ、達磨の髄を得たと高く評価された。これがその経緯の定説である。

 

これには異説もある。

『『続高僧伝』の慧可伝の附記によると、慧可はかつて賊に臂を切られたが、観心の法によってよく苦痛を御し、自ら瘡口を火で焼き、止血して帛布でつつみ、平日と同じように村里に乞食していたと言い、

 

後に彼と同じように賊に臂を切られた曇林が、苦痛のあまり一晩中絶叫するのを看護し、曇林のために乞食して養生せしめたとき、曇林は初めて慧可の片臂なのに気付き、深く驚いて相許した言っており、これが後に無臂林と呼ばれるようになる事由である。』

(講座禅第三巻(中の中国禅宗史P15-16)/柳田聖山/筑摩書房から引用)

 

この異説の方が本当らしいと思う。定説の方は、修行のやりすぎでノイローゼみたいになって臂を切ったみたいな印象であって、またいかにも臂の貢ぎ物の代価として印可したみたいな具合でどうかと思うところがある。

 

慧可は、禅・只管打坐型冥想の修行者であるが、「観心の法」というクンダリーニ・ヨーガの技も使えた。これからの核戦争の後は、放射能による肉体の障害を「観心の法によってよく苦痛をコントロール」して、生き延びる場面もあるのだろう。

 

ゲゲゲの女房の夫君水木しげるは、ニューギニアで敵機の爆撃により左腕を負傷。左腕を麻酔なし手術で切り落とした。彼は、慧可と同様に片臂なのをさほどコンプレックスには感じていない。

 

このあたり、「自分のことがどうなろうとそんなことは知ったことではない」という悟った人に共通した恬淡さがある。金だ、体面だ、ファッションだ、そんなのは「本当に生きる」ということと何の関係もない。本当の幸福とは、金に余裕のある生活や外面の良い暮らしなど個人の願望を実現することだと思い込んでいる人にこんなことを言っても理解されないだろう。

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本気と情緒パワー-1

2023-01-20 15:43:47 | 只管打坐neo

◎香厳の父母未生以前の境地(2005-08-14)

 

香厳は、師匠の大潙禅師に『父母未生以前の境地を体得して、一句もってこい』と命じられたが、できなかったので、長年集めた書物をすべて焼き捨て、寺の食事の給仕役をして年月を過ごした。

 

ある時香厳は、師匠の大潙禅師に、とても体得することができそうもないから教えて下さいと頼んだところ、大潙禅師は「私がお前のために教えてやるのはやぶさかではない。しかし、もしそうしたらお前は後で私をうらむであろう。」

という問答があり、後年香厳がその境地を体得した時に、「あの時教えてもらっていれば、このような喜びはなかった」とその配慮に感謝している。

 

この話は、単純に、回答を教えてもらえば、達成した時の感動が小さくなるという話ではない。

人生という問題に取り組むために冥想するとして、どの程度本気になれるかというのは、冥想修行では常に問題となるが、その本気度を高いままに維持するためには、回答をタイムリーに教えてもらってはならない。教えてもらうとその緊張が解けてしまって本気度が落ちてしまうことを言っている。

 

われわれが必死の力でもって、冥想するのは、情緒的なパワーが後押しする場合であって、冥想の終着駅である窮極について知的概念的理解をした場合は、冥想に向ける情緒的パワーが低下するのだと思う。ここはあくまで、窮極まであと一歩と迫った香厳に対するアドバイスの話であるが、冥想と縁遠い普通の現代人に対しては、やや様相が異なるものの情緒的なパワーの話題としては共通する。

 

※今情緒パワーを考えると、恐怖パワーというのはもっとパワフルかもしれない。(2022.1.20)

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始まりもなく終りもなく人間でもない

2022-12-17 16:42:02 | 只管打坐neo

◎人なる周辺世界と冥想

『満月でした。長く仕切られたバルコニーから見る彼女は、ちょうど大きな樹木の上にかかって、澄み渡っていて綺麗で非常に近くに見えました。柔らかい静まり返った影が、数知れずできていました。非常に朝早いので街は沈黙していました。大きなネズミが見られていないふりをして、窓の桟を静に通りすぎました。鳥のざわめきは全くなく、埃で汚れている木の葉にも動きはありませんでしたが、影たちが囁き出して、赤ん坊が泣きだしました。

瞑想は歓喜です。瞑想は精神集中ではないので、気の逸脱は起こりませんでした。それは何ものでもないので、その中にあらゆるものが存在する活動です。それには中心がないので、始まりも、従って終りもありません。人はその活動の中へ入っていけません。
人というものを職場や教会や寺院に置いてこなければなりません。

人は経験や知識を抱えてその活動の中へ入れません。人というものが、存在していてはいけません。』
(クリシュナムルティ・ノート/J.クリシュナムルティ/たま出版P402から引用)

その瞑想は、人ではない。その瞑想は始まりも終りもない。だから道元は修証一如(悟りも冥想も同じ)などと言ったのだろう。

その瞑想は人が残っていてはダメ。霊がかり系のスピリチュアルは、人であることをまず手放すことがないから、これとは全くタイプの異なる瞑想である。

人ではないとは、社会性の放棄、つまり社会的地位、財産、家族関係などあらゆるものから解放されることである。そして肉体の放棄。この瞑想の瞬間にはその解放が実現されていなければならない。脱落身心とは、その解放のことなのだろう。

この辺の間合いというか消息は、身心脱落を経た者が語る分には本当だが、経ない者が語る分には嘘になるという危うさがある。だから議論にはなりにくい。

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身心脱落の前兆

2022-12-07 17:02:53 | 只管打坐neo
◎三種の吉兆

宝慶記は、道元が師匠の天童如浄の言行を書きおいたもの。

それに身心脱落の前兆とおぼしきものがある。

如浄が道元に語るには、
「あなたは、これから先、必ず美しく妙なる香気で、世間に比べるものがない香りをかぐであろう。これは吉瑞(よい前兆)である。
                              
あるいは坐禅している顔の前に、油のしたたり落ちようとするようなものがあるのも吉瑞である。

もしくは、いろいろな触覚が起こることもまた吉瑞である。

そのようなことが起きても、すぐに頭髪についた火を振り払う如く坐禅に励みなさい。」

こんな嬉しがらせてもらようなことを大師匠から言ってもらった後で、それに似たことが起きるとその神秘体験にこだわり、しばしば修行は先には進まなくなるもの。

これらの神秘体験は、身心脱落の発生に先立って必ず起きるものかどうかはわからないが、少なくとも天童如浄の経験や直観ではあることを教えてくれたものだと思う。

けれどもその扱いは、どんな素晴らしいあるいは妙な神秘体験でも、それに一切こだわりを持ってはいけないと戒めているのは流石(さすが)である。

天童如浄は、魔境とそうでないものの区分を知らないはずがないので、この3例は身心脱落のプロセスにおける正統的な道標の可能性は否定できないが、一方で全く同じ事象の魔境があることもまた否定できないところはある。
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クリシュナムルティも人の子

2022-11-28 10:21:21 | 只管打坐neo
◎虚栄心

ある時、インドの有名俳優と女優がクリシュナムルティのところを訪れ、ランチを共にすることになった。女優の方は、映画スタートレック・ワンに出演することになっていた人で、映画出演のために豊かな黒髪を丸坊主にしなければいけないと語った。彼女は青地に金の縁取りのある優雅なサリーをまとっており、それが所作のしとやかさを際立たせていた。

映画の会話をしていると、クリシュナムルティが、「俳優は恐ろしく虚栄心が強い」と言い出した。すると女優はこの言葉が自分に向けられた言葉だと思ったからだろう。目が光り、居住まいを正して、立腹するのでもなく、冷たい口調で言い返してきた。

「でもクリシュナムルティさん。あなたにも虚栄心があるのではないですか。前額の禿を隠すため、頭髪をなでつけているではありませんか。」

クリシュナムルティはこの鋭い観察に対して応酬の言葉はなく、静かに彼女を見つめ、唇に笑みを浮かべただけだった。ランチの会話はその後も楽しく続いていった。
(これは、キッチン日記/マイケル・クローネン/コスモス・ライブラリーにある話)

女性の観察眼は、冷徹で、鋭い。流石のクリシュナムルティもたじたじである。クリシュナムルティは、(世界教師となるべく)若くしてイギリス上流のマナーを身につけさせられたので、気品ある所作の人だったろうし、身だしなみもオシャレもそこそこのレベルであっただろう。

でもオシャレのもともとの出所は虚栄心。社会、世間で受けを良くするためには、虚栄心を何がしか持たねばならないものだ。

空だ、他性(otherness)だ、永遠だと、究極にしばしば出会うクリシュナムルティでも、人であるからには禿は隠したかったとしてもいいじゃない。十牛図でも出腹の禿おやじが街に帰ってくるが、究極に出会ったら社会に帰るのだ。そして社会に居るにはマナーと若干のオシャレという虚栄心が要る。
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クリシュナムルティが潔癖性だったこと

2022-11-27 14:54:10 | 只管打坐neo
◎聖者の弁別

ニルヴァーナを生きるクリシュナムルティなどにとっては、自分が殺されようが、傷つけられようがそんなことは、自分の知ったことではないというのが基本姿勢のはずだが、彼は潔癖性だった。

彼の専属の典座(コック)のクローネンがクリシュナムルティが探していてみつからなかった本「ソローのパタゴニアン急行」を町の古書店で見つけた。

クローネンが食事の後、クリシュナムルティを呼び止めて、その本を献じようとしたとき、
『彼の応答は私が期待していたのとは違っていた。私が手渡そうとした本を手に取る代わり、何か危険なものが隠されてでもいるようにそれを不安そうに見た。彼はおずおずと片手を伸ばし、一本の指先で。プラスチックカバーにちょっとさわり、すぐに引っ込めた。
「それを洗いましたか?」と彼は尋ねた。

私は当惑した。「洗いましたかって?」と私は繰り返した。
「それは古本でしょう?いろんな人が手を触れているから汚いんじゃない?」
彼の考え方の流れを辿るのに少し戸惑った。それから吹き出したくなる思いに駆られた。私が流し台に立って本の一頁、一頁を石鹸とスポンジで洗っているイメージが全くおかしく見えたからである。「その通りです。クリシュナジ」と私はまだどうしようかと迷いながら答えた。

「カバーと内側を洗ってから、あとで私に下さい」と彼は台所を出る前に言った。

石鹸と水で本をこすりながら、衛生と清潔に対する彼の態度を考えてみた。現実的なものに対する彼の敏感さは前から気づいてはいた。―――――清潔な容姿、衣服の評価だけでなく、何であろうと汚れ物に触れたり、多くの手で触れられたものに触れることを彼は極端に嫌悪していた。車や、汽車や、飛行機で旅行するときに皮の手袋をはめるのはこうした理由からなのだろう。』
(キッチン日記/マイケル・クローネン/星雲社から引用)

だからといって、聖者を見るのに、その人の人間的なところばかり見てはいけないと思う。こんなふうだから、現代人は、何が正しい行為で何が邪な行為か見分けられないし、聖者と悪人も見分けられないなどと、辛らつな評価を受けるのだ。
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この世との折り合い

2022-11-24 19:00:12 | 只管打坐neo
◎悟りのビフォー・アフター

どんな高僧、善知識であっても、この世で生きていくからには、飯を食うために托鉢したり、御布施をもらったり、働いたり、炊事したり、衣服を洗濯したりしなければならない。つまり、世俗とどこかで折り合いをつけなければならない一点があるものだ。

それは自分が何のために生きるかという意味を求める現代人のほとんどが、内心ではなぜ食うために働く必要があるのかと日々疑問に思っているのと同根である。

イエスが明日のことを思いわずらうなと言ったのは、明日の食べ物の心配をするなと言ったのであるが、今日神に出会ってその感動に震えた者でも、明日になれば食べ物を探すことになるのだ。

禅では、世俗との折り合いにおいて、最も世俗を否定した側に位置する考え方の人物が二人いる。要するに、たとえたちまち飢え死にしても仏そのものを生きるべきだと考えた人たちである。

一人は臨済の友人である普化であり、もう一人は、唐代の疎山である。

普化は、いわば帝国ホテルのレストランのディナーに招かれて、話題が道のことに及ぶやいなや料理の並ぶテーブルを蹴り倒して出て行ったような猛者である。

疎山は、諸々の聖者のあとを慕わない、自己の神聖性も重んじないと言い放った。そう言ったからにはいつでものたれ死にする覚悟で日々を生きている。

悟った後にどう生きるかとは、世俗の折り合いをどこでつけるかという問題でもある。悟った人の生き方は、実際にビフォー悟りとアフター悟りでどう違うのか。そこをもある程度具体的に出していかないと、具体性と論理性とデータ重視の現代人を説得することは難しいのだと思う。

悟った人たち同士でも大きく見解が分かれるが、それは個性の違いに由来するので、それはそれでよいのだと思うが。
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如浄、道元の只管打坐コンプレックス

2022-11-20 16:38:21 | 只管打坐neo
◎日常の動作・挙措に及ぶ

天童如浄、道元と言えば、寝食の時間を惜しんでひたすら只管打坐したというのが、第一印象で、その他の冥想修行をしていないようなイメージがある。ところが実際は、天童如浄も師松源嵩岳の下でこそ只管打坐専一にやったようだが、それ以前の叢林遍歴では臨済宗楊岐派の公案参禅主体の修行の方を相当に積んでいる。

道元についても、つらつら日暮さんのgoo blog記事「只管打坐論」(2005-08-13)によれば、焼香する、師匠を礼拝する、懺悔もする、念仏もする、看経もする、勿論公案もやっている。一般に如浄、道元と言えば、オンリー只管打坐の代名詞だが、実はその修行法は、それ以外の行との複合体なのである。

如浄、道元もメディテーション・コンプレックスだったわけだ。

坐法には身体をがっちり固定する只管打坐みたいなのもあれば、クンダリーニ・ヨーガみたいに楽にするのもある。深まってくれば、心が坐相に反映するということも出て来る。

いずれにしても肉体は何もしなければ、老廃ガスが体内にたまり、肉体の不調の原因にもなるし、魔境や妙な心境の原因にもなる。よって肉体のガス抜きや凝り解消のため、柔軟体操(ハタ・ヨーガなど)や呼吸法は必須なものである。そして内分泌腺の活発化のために適度な作業(作務、労働)も欠かせない。

スタート地点の肉体を整備し、呼吸法や体操などで、エーテル体を整備し、冥想を始める。

また人は頭で納得しないと坐り始めない。理解できないと冥想を始めないものだ。しかし、だからといって、それをやれば金がもうかるとか、健康になるとかいう具体的目的があって、冥想を行えば決して山頂にはたどりつかない。これは冥想修行のモチベーションのジレンマ。

冥想は、ただ漠然とあるポスチャーで坐れば良いというものではなく、冥想以外の日常のそれぞれの動作・挙措の中に複雑で精妙な守るべき多くのルールがある。覚者を身近に見れば、彼らは意外にもそうした細かいルールに沿って生きていることに気がつくことがあるのではないか。
また悟りは簡単ではない。

それでも今日迷いのままに坐らねば、何も始まらないのだ。
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正しい瞑想と沈黙

2022-11-20 12:56:25 | 只管打坐neo
◎百年河清を待つ

1943年のクリシュナムルティからエミリー夫人への手紙。
この頃クリシュナムルティは、アメリカにいて、少なくとも一日二~三時間は冥想する生活だった。

『正しい瞑想というのは、まさにわれわれが経験できる最もたいへんな現象なのです。それは創造的な発見であるばかりか、解放される過程でもあり、その結果至高のものが顕示されるのです。

沈黙しているということはよいことです。その期間に心の奥深く入りこみ、多くのものを見出し無窮のものの光と愛を再発見したのです。

今になってやっと、それは深く確立され、不滅のものとなりました。

前述しましたように一日数時間瞑想しますが、つきることのない宝があります。この愛は天然の井戸のように常にあふれているのです。』
(クリシュナムルティ実践の時代/メアリー・ルティエンス/メルクマール社から引用)

クリシュナムルティが『瞑想しようとする努力はすべて瞑想を否定することである』という持論をもっていることはさておいて、自分はちゃっかり冥想修行していたのだ。

ここで用いられているキーワードは、沈黙である。つまり密教での冥想のようにあらゆる尊格、神霊をありありと眼前に思い浮かべるというような具象を用いた観想法系の冥想ではないということである。

残念ながら、結跏趺坐なのか、あぐらを崩したようなのか、その坐相はわからない。クリシュナムルティは、本当の冥想は意図的に行なうものでなく、向こうからやって来ることだけを主張しすぎている。

確かに坐法さえ、ある(心理)状態に対応する形で変わることもある。しかしothernessは
坐法や姿勢やTPOにかかわらず起こるとも、クリシュナムルティは語り、坐法にまったくこだわりは見せない。

この結果、クリシュナムルティの主張は、冥想はとてもいいものだが、坐法・姿勢を特定してはダメとなり、事実上の冥想の否定となっているように見える。

これでは何も努力の方向が定まらず、百年河清を待つことを良しとする人が出るばかりとなることが予期され、果たしてクリシュナムルティに後継者は出なかった。

自然に冥想が起こることは、それがクリシュナムルティの言うothernessそのものではなく、自然な冥想の中でやって来るが如きものがothernessなのだろうと思う。

手を使わずに瓜を受け取る人だけが、それを掴むことができるとしか言いようがない。
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只管打坐の坐り方

2022-11-20 12:36:07 | 只管打坐neo
◎普勧坐禅儀

『厚い座布団を広げ、その上に尻あての布団を使います。そこで結跏趺坐(両足のかかとの裏を組み合わせて坐る方法)、もしくは、半跏趺坐(片方のかかとの裏だけ重ねて坐る方法)に入ります。

結跏趺坐というのは、まず右の足くびを左の股の上におき、左の足くびを右の股の上におきます。

半跏趺坐は、ただ左の足くびで、右の股をおさえるだけです。衣服や帯をゆるめて、きちんと整えます。

次に右の手くびを左の足くびの上におき、左手の掌を右手の掌の上において、両手の親指の先端を、相互に向き合わせて支えます。

そこで上半身を真っ直ぐにおちつけます。左に片寄ったり、右に傾いたり、前にかがんだり、後にそりかえってはいけません。かならず、耳を肩と向き合わせ、鼻を臍と向きあわせて、舌を上顎におしつけ、上下の唇と歯を、相互にくっつけることであり、目はいつも開いていなければなりません。

身体の形がきまったからには、息づかいも調ってきます。何か思念が起こったらすぐに気をつけます。気がつけばもう思念は消えています。そのままながく、外とのかかわりが断えて、自然に自分一つになります。これが坐禅の要点でございます。

(中略)

ところで、もし坐禅から立つ場合ですが、ゆっくりと身体を動かせて、心しずかに起ちあがります。いきなり荒々しくしてはなりません。』
(思想読本道元/柳田聖山編/法蔵館の普勧坐禅儀から引用)

さあこれで坐ってみましょう。
『何か思念が起こったらすぐに気をつけます。』とは、姿勢が崩れると思念が起こるということがあるようなので、つど姿勢を直すことだと思います。
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わびの美の七つの特徴

2022-11-19 21:16:39 | 只管打坐neo
◎実用性の対極

これは、只管打坐的窮極である無一物から出て来るところの侘(わび)が七つに展開すると分析した久松真一の文。

『わびの美の七つの特徴

第一の不均斉は、格式ばったきちょうめんさ・端正・「真」の完全・つりあいのとれていることの美しさの否定としての、くだけた・破れた・ひずんだ・ふつりあいの・奇数の・草のものの美である。

第二の簡素は、複雑・繊細・精巧・典雅・崇高・くどくどしさの否定としての単純・麁相(そそう)・素朴・野趣とかいうようなものの美しさである。

第三の枯高は、若さ・生々しさ・優美・豊かさ・はなやかさなどの否定としての、ふける・たける・枯れる・やせる・艶消し・寂びるといったようなものの美である。

第四の自然は、技巧的・意識的・人為的なものの否定としての、たくまない・わざとらしくない・うぶな・無心・無念というようなものの美しさである。この自然とか、無心とか、無念は、けっしてナイーブなそれらを意味しない。

第五の幽玄は、あらわなとか、明らかなとか、鋭利とか、尽く(ことごとく)とかいうものの否定としての、蔽う・隠れる・暗い・漠然・鈍重・含蓄・余韻・奥床しさの美である。

第六の脱俗は、高貴・富有・快楽・幸福などの現実的価値のみならず、仏にも祖にもかかわらぬ、なんのこだわりもない自由の美しさである。

第七の静寂は、賑やかさ・繁忙・さわがしさ・動きなどの否定としての、淋しさ・孤独・ごたつかない・ひまな・落書きというようなものの美しさである。

この七つの性格は、無一物底の主体の一元的表現の七つの性格であって、個別的な性格の集合ではない。したがって七つの性格は皆、無一物底の主体を指向するものである。だれしも、侘茶の既成の芸術品を通観することによっても、この七つの性格を跡づけることができるであろう。

ただわれわれはそれらの性格をもつ侘の芸術、あるいは侘の美が、どこにその根拠をもち、どこから内面的に起こってきたかを忘れてはならない。』
(わびの茶道/久松真一/燈影舎P53-55から引用)

わびの美とは実用的機能的なものとは遠いところにある。実用に供しないもの、無用の用にこそ、真実から流れ出るところの価値を見出し得ると、わざわざ言わざるを得ない。それは、ほとんどの人が見性もしていないから、無一物を見えるように感じ取れるように示して見せないとピンとこないからである。
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道元禅師の坐禅箴

2022-11-19 21:09:47 | 只管打坐neo
◎鳥飛んで鳥の如し

道元の有名な魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如しは、もともと、
「水清うして地に徹す、魚行って魚に似たり、
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し」
である。

前段の現代語訳は以下。
『坐禅箴

宏智正覚禅師の『坐禅箴』を慕ってこの箴を作る。

仏祖にとってもっとも大切なはたらき、仏の智慧は、思量を超えて思量の世界に現われるものであり、対立を超えて対立せる物の世界に現われるものである。

思量を超えて思量の世界に現われるものであるから、その現われた思量は不思量と一つであり、対立を超えて対立せる物の世界に現われるものであるから、その現われた物は無対立と一つである。

思量は不思量と一つであるから、その思量には何の汚れも留めないのであり、物は無対立と一つであるから、その物には何の対立も残さないのである。何の汚れも留めない思量であるからして、その思量はいくら思量しても思量の執われを脱け出ており、何の対立も残さない物であるからして、その対立はいくら物として現われても物の執われを超え出ているのである。この坐禅の境地を偈で示せばつぎのようである。』
(道元禅師全集13巻/鏡島元隆/春秋社P163から引用)

この文に引き続き「水清うして地に徹す、魚行って魚に似たり、
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し」

となる。
思量と不思量、物(現象)の対立・差別はもとよりないこと(不回互にして成ず)を説明し、鳥飛んで鳥の如しの偈に入る。

人脱落して人の如し。

これは只管打坐修行者向けの箴であるが、日々時間に追われながら、わずかの余暇を冥想に充てるしかない現代人に向けての箴言でもある。この言葉を我が事として捉えられる人だけが前向きと言えよう。
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所有することは失うことである

2022-11-19 21:04:20 | 只管打坐neo
◎勝者は常に恐怖の中にある

久々のクリシュナムルティ。
所有するということは、この世での目的追及の一つの始まりであるが、それには何がしかの暴力性がついてまわる。その暴力性は、ついには成功あるいは目的達成を勝ち取るが、それは滅びの始まりであり、死の始まりである。
この世のものごとに確かなものなどない、永遠のものなどない。そこに空性の認識が起こる。

こういう感じはチベット密教の専売特許でなく、いわんやクリシュナムルティのオリジナル・ブランドでもなく、現代人なら日夜うすうす感じていることのはずなのだが。

こうしたものこそ、生きること自体が公案となった時代のわれわれの現実感である。

『何とわれわれは、ココやしの実を、女性を、そして天国を持ちたがることか!
われわれは独占することを欲する、そして事物は、所有によって、より大きな価値を獲得するように見える。

「それは自分のものだ」とわれわれが言うとき、その絵はよりいっそう美しく、より立派になるように見える。それは、より多くの優美さ、より多くの深さと豊かさを得るように見える。

所有には、奇妙な暴力性がある。「それは私のものだ」と人が言うやいなや、それは構われるべきもの、守られるベきものになり、そしてまさにこの行為の中に、暴力を生み出すところの抵抗がある。

暴力は、常に成功を追及している。暴力は自己達成なのだ。成功することは、常に失敗することだ。到達は死であり、そして旅することは永遠である。

この世界で到達、獲得し、勝ち誇ることは、生を失うことである。なんと熱心にわれわれは目的を追求することか!
しかし目的は果てしがなく、そしてそれゆえその追及の葛藤も果てしがない。葛藤は不断の克服であり、そして克服されるものは、何度も何度も征服されねばならない。

勝者は常に恐怖の中にある。そして所有は彼の暗黒である。敗者とは勝利を切望し、それがために獲得物を失ってしまった者のことであり、それゆえ彼は勝者と変わらない。

杯を空にするととは、不死なる生を持つことである。』
(生と覚醒のコメンタリー2/クリシュナムルティ/春秋社P150-151から引用)
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