◎隙間理論について簡単なまとめ
隙間理論により、人類は科学的に悟りを理解する。
1. 前提
(1)人間の七つの身体のうち、時間のあるボディは、第一身体肉体から第五身体コーザル体まで。一方時間のない身体は、第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナである。
(2)時間には 3種あって、「時間的」時間、「心理的」時間、「現実的」時間。「現実的」時間が大悟覚醒者の時間だが、過去も未来もなく現在だけある。理由は、過去と現在、未来と現在をつなぐ時間がないから。これは、理屈でなく、体験とはいえない体験を経ないと納得できないのだろう。
2. 基本
(1)人間の意識の連続の間には隙間がある。
(2)隙間はニルヴァーナである。
(3)隙間理論では、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。現象は第六身体であってすべての空間、時間、物質が一枚鏡になっているが、これが一刹那に挟みこまれている。これぞ一刹那の戯れ。
(4)意識の隙間、想念の隙間は、ニルヴァーナ、究極であって、それに気づくことは悟りである。
(5)「私たちは連続性を見ているのは、単にその間の隙間を見ることができないからに過ぎない。」(OSHOバグワン)
(6)私たちは全体の時間を知ることができないから、私たちは小さな隙間から外を見ているのです。だからこそ、一度に一瞬しか見えないように思えます。それはあなたの限界であり、時間の区切りではありません。なぜなら、時間全体をありのままに見ることはできないからです。なぜなら、あなたはまだ完全ではないからです。(OSHOバグワン)
(7)意識の連続と連続の間の隙間が何秒かという疑問も重要。
意識は生であり、隙間を無意識とみれば隙間は死である。こういうのをもって刹那の間に意識も生滅ありと見たのかもしれない。
また時計などで、デジタル計測できない時間をどう図るのか。エーテル体という半物質は半物質だから物質による計測の手段はあるかもしれない。
だが、アストラル体以上の非物質を物質で計時することはできない。
そうするとアストラル体以上を計時する手段は、非物質である精神か意識に万人に共通のものがあって初めて計時できるのだろう思う。
(8)世界全体の現象を語るには、それに加え、第一身体肉体、第二身体エーテル体から第六身体アートマンまで全層において、個々の静止画像と静止画像の間には空白があると見なければならないと思う。それにより現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていると見る。
人間は、どういう状態になれば、それを目撃できるかと言えば、「三種のグナの変容の最終的な終わり」つまり今ここにいる場合であると思う。
「三種のグナの変容の最終的な終わり」とは、グナが無に消滅していく時であって、それは第七身体ニルヴァーナ(カイヴァリヤ)に到達した時。つまり、最終解脱しなければ、現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていることを確認できないのである。その場合の『現象』とは、なにもかもなしに転ずるのではないか。
(9)隙間理論でいけば、人間は平常の一瞬に神を見るし、一生の始めに神を見ているから、神を自分を深く深く深く知っている。
(10)OSHOバグワンによると、
息が入り、息が出ていく。そこには息のない隙間が2種ある。一番目の隙間は内側、二番目の隙間は外側。
息が入り息が出る。この間が一番目の隙間。
息が出て息が入る。この間が二番目の隙間。二番目の隙間を意識する方がより難しい。
(11)ヴィパッサナーによると、〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉になる。人間は、〈呼気〉で死に、〈吸気〉で再生を繰り返している。ただし、厳密に見ると、これらは、連続しているわけでなく、〈隙間〉で分断している。〈隙間〉には何もない。これぞ色即是空の実態。
3. 想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。 』
(YouTube想念の隙間とその深度/ジェイド・タブレット-04-05)
ここで、隙間と爆発の関連が述べられる。無想定から有相三昧へ行くのが、爆発。
爆発後は、これ。
『私は、絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。
・・・そして、それも忘れ果てることだろう。』
(格言3-12見性においては/老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
4. OSHOバグワン
OSHOバグワンは、【かれの生の一瞬一瞬は死の瞬間でもある。瞬間ごとにかれは過去を死なせて、みずみずしくとどまる。なぜなら、過去を死なせたとたんにあなたは現在を生きるようになるからだ。】と語っている。
『神秘家はみずから進んで死ぬ。神秘家は実際の死のまえに死ぬ。かれは瞑想のなかで死ぬ。
恋人たちがいくらかそれを知っているのは愛の五〇パーセントが死であるからだ。愛が瞑想に酷似しているのはそのためだ。恋人たちは瞑想性がなんであるかを多少とも知っている。かれらは知らないうちにそれに行き当たった。恋人たちは沈黙を、静寂を知っている。恋人たちは時間というものがないことを知っているが、かれらは偶然にそれに行き当たった。それはかれらが最初から追求していたものではなかった。
神秘家はそれのなかにきわめて意識的に、意図的に入ってゆく。瞑想は全面的な死、みずから進んで迎える死だ。
人はみずからの自己のなかに死ぬ。
まだ死がやってこないうちに神秘家は死ぬ。
かれは日々死んでいる。
瞑想するたびにかれは死のなかに入ってゆく。かれはそれらの高み、それらの深みに到達し、そして、じょじょにゆるやかに、瞑想が自然なものになるにつれて、かれは死を生きるようになる。
かれの生の一瞬一瞬は死の瞬間でもある。瞬間ごとにかれは過去を死なせて、みずみずしくとどまる。なぜなら、過去を死なせたとたんにあなたは現在を生きるようになるからだ。』
(不滅の言葉(ダンマパダ2)/和尚OSHO/メルクマールP354から引用)
『言葉は図であり、沈黙は背景です。言葉は来ては去り、沈黙は残ります。あなたが生まれたとき、あなたは沈黙として生まれました。ただ間隔と間隔、隙間と隙間だけでした。あなたは無限の空虚とともにやって来て、人生に無限の空虚を持ってきました。その後、あなたは言葉を集め始めたのです。』OSHOバグワン
5. クリシュナムルティ
クリシュナムルティは、以下の文で【生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬのです。】と語る。
『『死ぬというのはどんなことなのでしょう?
あらゆるものを諦めること。死はとてもとても鋭い剃刀で、あなたをあなたの執着するものから、あなたの神々から、迷信から、安楽を願う望みから――――次の生などから、切り離すのです。
私は死が何を意味するかを見出そうとしています。なぜならそれは生と同じく大切なことだからです。ですから、理論的にではなく実際的に、死が何を意味するかをどうしたら見出せるのでしょう? あなたもそう望むように、私は実際に見出してみたい。あなたのために話しているのですから、眠らないようにしてください。
死ぬということはどんな意味ですか? 自分自身に訊ねてみなさい。若い頃も、齢をとってからも、この質問はいつもそこにあるのです。それは、人間が積みあげた、あなたが積みあげたすべてのものから完全に自由に、無執着になること――――全的に自由になることです。
どんなことにも執着せず、神も、未来も、過去もないことです。あなたはその美しさ、その偉大さを見ないのです。その途方もない力強さを――――生きながら死ぬことです。その意味がわかりますか?
生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬのです。ですから生を通して何にも執着しないのです。それが死の意味なのです。
したがって、死ぬことは生きることです。おわかりですか? 生とは、自分の執着しているあらゆるものを日ごとに放棄することです。できますか?まことに単純な事実ですが、意味するところは途方もないものです。
ですから毎日が新しい日なのです。毎日死んでまた受肉するのです。すると凄まじい活力とエネルギ一が生まれます。恐れるものは何もないからです。傷つけられるものは何もないからです。傷つくことがありえなくなるのです。
人間の積み上げたあらゆるものは、全的に放棄されなくてはなりません。それが死の意味なのです。』
(クリシュナムルティ・開いた扉/メアリー・ルティエンス/メルクマール社P251-252から引用)』