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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

意識の隙間、想念の隙間はニルヴァーナで、それに気づくことは悟り

2025-06-28 03:58:22 | 覚醒のアーキテクチャー

◎隙間理論について簡単なまとめ

 

隙間理論により、人類は科学的に悟りを理解する。

1. 前提
(1)人間の七つの身体のうち、時間のあるボディは、第一身体肉体から第五身体コーザル体まで。一方時間のない身体は、第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナである。
(2)時間には 3種あって、「時間的」時間、「心理的」時間、「現実的」時間。「現実的」時間が大悟覚醒者の時間だが、過去も未来もなく現在だけある。理由は、過去と現在、未来と現在をつなぐ時間がないから。これは、理屈でなく、体験とはいえない体験を経ないと納得できないのだろう。

2. 基本
(1)人間の意識の連続の間には隙間がある。

(2)隙間はニルヴァーナである。

(3)隙間理論では、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。現象は第六身体であってすべての空間、時間、物質が一枚鏡になっているが、これが一刹那に挟みこまれている。これぞ一刹那の戯れ。

(4)意識の隙間、想念の隙間は、ニルヴァーナ、究極であって、それに気づくことは悟りである。

(5)「私たちは連続性を見ているのは、単にその間の隙間を見ることができないからに過ぎない。」(OSHOバグワン)

(6)私たちは全体の時間を知ることができないから、私たちは小さな隙間から外を見ているのです。だからこそ、一度に一瞬しか見えないように思えます。それはあなたの限界であり、時間の区切りではありません。なぜなら、時間全体をありのままに見ることはできないからです。なぜなら、あなたはまだ完全ではないからです。(OSHOバグワン)

(7)意識の連続と連続の間の隙間が何秒かという疑問も重要。
意識は生であり、隙間を無意識とみれば隙間は死である。こういうのをもって刹那の間に意識も生滅ありと見たのかもしれない。
また時計などで、デジタル計測できない時間をどう図るのか。エーテル体という半物質は半物質だから物質による計測の手段はあるかもしれない。
だが、アストラル体以上の非物質を物質で計時することはできない。
そうするとアストラル体以上を計時する手段は、非物質である精神か意識に万人に共通のものがあって初めて計時できるのだろう思う。

(8)世界全体の現象を語るには、それに加え、第一身体肉体、第二身体エーテル体から第六身体アートマンまで全層において、個々の静止画像と静止画像の間には空白があると見なければならないと思う。それにより現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていると見る。
人間は、どういう状態になれば、それを目撃できるかと言えば、「三種のグナの変容の最終的な終わり」つまり今ここにいる場合であると思う。
「三種のグナの変容の最終的な終わり」とは、グナが無に消滅していく時であって、それは第七身体ニルヴァーナ(カイヴァリヤ)に到達した時。つまり、最終解脱しなければ、現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていることを確認できないのである。その場合の『現象』とは、なにもかもなしに転ずるのではないか。

(9)隙間理論でいけば、人間は平常の一瞬に神を見るし、一生の始めに神を見ているから、神を自分を深く深く深く知っている。

(10)OSHOバグワンによると、
息が入り、息が出ていく。そこには息のない隙間が2種ある。一番目の隙間は内側、二番目の隙間は外側。
息が入り息が出る。この間が一番目の隙間。
息が出て息が入る。この間が二番目の隙間。二番目の隙間を意識する方がより難しい。

 (11)ヴィパッサナーによると、〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉になる。人間は、〈呼気〉で死に、〈吸気〉で再生を繰り返している。ただし、厳密に見ると、これらは、連続しているわけでなく、〈隙間〉で分断している。〈隙間〉には何もない。これぞ色即是空の実態。

3. 想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。 』
(YouTube想念の隙間とその深度/ジェイド・タブレット-04-05)
ここで、隙間と爆発の関連が述べられる。無想定から有相三昧へ行くのが、爆発。

爆発後は、これ。
『私は、絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。
・・・そして、それも忘れ果てることだろう。』
(格言3-12見性においては/老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)


4. OSHOバグワン
OSHOバグワンは、【かれの生の一瞬一瞬は死の瞬間でもある。瞬間ごとにかれは過去を死なせて、みずみずしくとどまる。なぜなら、過去を死なせたとたんにあなたは現在を生きるようになるからだ。】と語っている。
『神秘家はみずから進んで死ぬ。神秘家は実際の死のまえに死ぬ。かれは瞑想のなかで死ぬ。
 
恋人たちがいくらかそれを知っているのは愛の五〇パーセントが死であるからだ。愛が瞑想に酷似しているのはそのためだ。恋人たちは瞑想性がなんであるかを多少とも知っている。かれらは知らないうちにそれに行き当たった。恋人たちは沈黙を、静寂を知っている。恋人たちは時間というものがないことを知っているが、かれらは偶然にそれに行き当たった。それはかれらが最初から追求していたものではなかった。
 
神秘家はそれのなかにきわめて意識的に、意図的に入ってゆく。瞑想は全面的な死、みずから進んで迎える死だ。
 
人はみずからの自己のなかに死ぬ。
まだ死がやってこないうちに神秘家は死ぬ。
かれは日々死んでいる。
 
瞑想するたびにかれは死のなかに入ってゆく。かれはそれらの高み、それらの深みに到達し、そして、じょじょにゆるやかに、瞑想が自然なものになるにつれて、かれは死を生きるようになる。
 
かれの生の一瞬一瞬は死の瞬間でもある。瞬間ごとにかれは過去を死なせて、みずみずしくとどまる。なぜなら、過去を死なせたとたんにあなたは現在を生きるようになるからだ。』
(不滅の言葉(ダンマパダ2)/和尚OSHO/メルクマールP354から引用)

『言葉は図であり、沈黙は背景です。言葉は来ては去り、沈黙は残ります。あなたが生まれたとき、あなたは沈黙として生まれました。ただ間隔と間隔、隙間と隙間だけでした。あなたは無限の空虚とともにやって来て、人生に無限の空虚を持ってきました。その後、あなたは言葉を集め始めたのです。』OSHOバグワン

5. クリシュナムルティ
クリシュナムルティは、以下の文で【生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬのです。】と語る。
『『死ぬというのはどんなことなのでしょう?
あらゆるものを諦めること。死はとてもとても鋭い剃刀で、あなたをあなたの執着するものから、あなたの神々から、迷信から、安楽を願う望みから――――次の生などから、切り離すのです。
 
私は死が何を意味するかを見出そうとしています。なぜならそれは生と同じく大切なことだからです。ですから、理論的にではなく実際的に、死が何を意味するかをどうしたら見出せるのでしょう? あなたもそう望むように、私は実際に見出してみたい。あなたのために話しているのですから、眠らないようにしてください。
 
死ぬということはどんな意味ですか? 自分自身に訊ねてみなさい。若い頃も、齢をとってからも、この質問はいつもそこにあるのです。それは、人間が積みあげた、あなたが積みあげたすべてのものから完全に自由に、無執着になること――――全的に自由になることです。
 
どんなことにも執着せず、神も、未来も、過去もないことです。あなたはその美しさ、その偉大さを見ないのです。その途方もない力強さを――――生きながら死ぬことです。その意味がわかりますか?
 
生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬのです。ですから生を通して何にも執着しないのです。それが死の意味なのです。
 
したがって、死ぬことは生きることです。おわかりですか? 生とは、自分の執着しているあらゆるものを日ごとに放棄することです。できますか?まことに単純な事実ですが、意味するところは途方もないものです。
 
ですから毎日が新しい日なのです。毎日死んでまた受肉するのです。すると凄まじい活力とエネルギ一が生まれます。恐れるものは何もないからです。傷つけられるものは何もないからです。傷つくことがありえなくなるのです。
 
人間の積み上げたあらゆるものは、全的に放棄されなくてはなりません。それが死の意味なのです。』
(クリシュナムルティ・開いた扉/メアリー・ルティエンス/メルクマール社P251-252から引用)』

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人工的に作られた心はエゴイズムだけから生まれる

2025-06-20 03:31:41 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人間は、すでに手に入れたものを、わざわざ求めているためにほとんど狂っている

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 10 巻第1章 ”人工的な心を落とす”から。

 

冒頭1~5がヨーガスートラの本文です。

『(仮訳)

第10 章

人工的な心を捨てる

1976年5月1日午前、仏殿にて

 

パタンジャリの経典「カイヴァリヤ パダ」の最後のセクションが始まります。

  1. 力は生まれつき現れるか、薬物、聖なる言葉の繰り返し、苦行、あるいはサマディ(三昧)を通して獲得される。
  2. ある階級、種、あるいは種類から別のものへの変容は、潜在的なるものの自然な傾向の溢れ出しによるものである。
  3. 偶発的な原因が、自然な傾向を活動に駆り立てるものではない。それは単に障害物を取り除くだけである。まるで畑を灌漑する農夫のように。彼は障害物を取り除き、すると水は自ら自由に流れるのだ。
  4. 人工的に作られた心はエゴイズムだけから生まれる。
  5. 多くの人工的な心の活動は異なりますが、唯一の源となる心(オリジナル・マインド)がそれらすべてを制御する。

 

人間はほとんど狂っている – すでに手に入れたものを求めているために狂っている。期待し、願い、そして最終的に、失望を感じるから狂っている。失望は必然的に訪れる。なぜなら、探求によっては自分自身を見つけることはできないからだ。あなたはすでにそこにいるのです。探求はやめなければなりません、探索はやめなければなりません。それが直面しなければならない、立ち向かうべき最大の問題です。

 

問題は、あなたが何かを持っているのに、それを探しているということです。さて、どうやって見つけられるでしょうか?あなたは探すことに夢中になりすぎて、すでに持っているものを見ることができません。すべての探求が止まらない限り、それを見ることはできないだろう。探求はあなたの心を未来のどこかに集中させ、あなたが求めているものはすでにここに、今、この瞬間に存在しているのだ。あなたが求めているものは、探求者自身の中に隠されている。探求者こそが、探されているものなのだ。それゆえ、これほどの神経症、これほどの狂気が存在するのだ。

 

一度あなたの心がどこかに集中すると、そこには何らかの意図がある。するとすぐに、あなたの注意はもはや自由ではなくなる。意図は注意を麻痺させる。もしあなたが何かを熱心に探しているなら、あなたの意識は狭められている。それは他のすべてを排除するだろう。あなたの欲望、希望、夢だけを取り込むだろう。そして、あなたであるものを実現するために、いかなる意図も必要ない。必要なのは注意、ただ純粋な注意なのだ。どこへ行こうとする意図もなく、焦点の定まらない意識、今ここにあり、他のどこにもない意識。これが根本的な問題だ。犬が自分の尻尾を追いかけているようなものだ。それは苛立ち、ほとんど狂ってしまう。なぜなら、一歩進むごとに、何も手に入らないからだ。ただ失敗、失敗、失敗の連続なのだ。

 

つい先日、あるサニヤシンが私に、今や失望を感じていると語った。私は非常に喜んだ。なぜなら、失望を感じるとき、あなたの内側に何かが開かれるからだ。本当に失望を感じるとき、未来は消え去る。未来は期待、欲望、意図の支えがあって初めて存在しうる。未来とは、意図性そのものに他ならない。私は、一人の人間が失望したことに非常に喜びを感じたのだ。』

 

ポイント1.

『あなたが求めているものはすでにここに、今、この瞬間に存在しているのだ。あなたが求めているものは、探求者自身の中に隠されている。探求者こそが、探されているものなのだ。それゆえ、これほどの神経症、これほどの狂気が存在するのだ。』

これは、理屈ではわかっていても、そこを本当に納得することができないから探究する。

だからと言って、社会全体が狂っているとSNSでつぶやいても大した反響はない。現代社会では、狂っている人が正常とされ、正常な人が狂っているとされるからだ。

 

ポイント2.

OSHOバグワンは、『内側に何かが開かれる』ことが何かよいことのように思わせるが、簡単に白状はしない。クンダリーニについて、興味本位なことを何を言わなかったように。

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解放・カイヴァリヤは同一化から起こる

2025-06-19 03:28:34 | 覚醒のアーキテクチャー

◎だが、特定されてはならない。決して何にも同一化されてはならない

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第9章 ” 絶対的な孤独: 解放”から。

 

※存在の4つの層は
(1)ヴァイハーリ(果実)、物事。
(2)マディヤマ (木、「中間」)感情、経験。
(3)パシャンティ(何かを経験する前に  内部では種子の形で動きます。)
(4)パラ(すべてが生まれる根本的な存在)

 

 

『(仮訳)

1.経文「プルシャサットヴァの純粋さが等しいときに解放が得られます。」

しかし、どうやって解放を達成するのでしょうか?

まずあなたはサットヴァの純粋さ、知性を達成しなければなりません。  それでさらに奥へ進みます。ヴァイハリは知性の現れです。マディヤマは、世界に対してではなく、あなただけに現れる知性です。パシャンティは種子の形をした知性です。そしてパラは意識です。

 

徐々に自分自身を切り離し、識別し、身体を道具、媒体、住居として見始めます。そしてできるだけ覚えておいてください。やがて記憶は定着します。それから心に働きかけ始めます。あなたはマインドではないことを忘れないでください。  この思い出は、あなたが分離するのに役立ちます。

  

2.ひとたびあなたが身体とマインドから離れると、あなたのサットヴァは純粋になります。そしてあなたのプルシャは常に純粋でした。物質との同一性だけが、物質を不純に見せるのに役立っているのです。両方の鏡が純粋になると、何も映らなくなります。向かい合った 2 つの鏡。何も映らず、空のままです。

この絶対的な空の点が解放です。解放はこの世からのものではありません。  解放は同一化から起こります。特定されてはなりません、決して何にも同一化されてはなりません。  あなたが証人であることを常に忘れず、証しするという点を決して失わないでください。そしてある日、何千もの太陽が集まって昇るように、内なる意識が高まります。  

 

3.これをパタンジャリはカイヴァリヤ、解放と呼んでいます。

カイヴァリヤという言葉を理解する必要があります。  

インドでは、さまざまな預言者がその究極の事柄についてさまざまな言葉を使ってきました。マハヴィルはそれをモクシャと呼んでいます。モクシャは「絶対的な自由」、束縛がなく、すべての投獄がなくなったという意味に正しく翻訳できます。仏陀は涅槃という言葉を使いました。涅槃とは「自我の停止」を意味します。あなたが明かりを消すと、炎が単に消えるのと同じように、エゴの光が消えるのと同じように、あなたはもはや実体ではありません。その一滴は海に溶けてしまいました。あるいは海が水滴に溶け込んでいる。それは解散、消滅です。  パタンジャリはカイヴァリヤを使います。この言葉は「絶対的な孤独」を意味します。それはモクシャでも涅槃でもありません。それは絶対的な孤独を意味します。あなたは自分にとって他に誰も存在しない地点に到達しました。他には何も存在しません。あなただけ、あなただけ、あなただけ。実際、「私」は「あなた」を参照しており、「あなた」は消えているので、自分自身を「私」と呼ぶことはできません。すべての束縛が消え去ったとき、自由とは何の意味があるのでしょうか?

 

4.カイヴァリヤ、ただ孤独。しかし、この孤独感はあなたの孤独とは何の関係もないことを覚えておいてください。孤独の中で「他者」が存在し、感じられ、他者の不在が感じられる。だからこそ、孤独は悲しいものなのです。あなたは「孤独」です。それは、あなたが他者の必要性を感じていることを意味します。 「ひとり」:他者の必要性がなくなったとき。あなたはそれで十分です。

 

5.自分自身、自分にとって絶対的なもの、必要性も欲望も、行くところもない。これがパタンジャリの言うところの「あなたは家に帰ってきた」ということです。これが彼の説明では解放です。これは彼の涅槃またはモクシャです。

あなたにも垣間見ることができます。静かに座って自分自身を切り離したら… まず、対象から自分を切り離してください。目を閉じて、世界を忘れて、たとえそれが存在したとしても、ただそれを夢として受け止めてください。次に、アイデアを見て、あなたがアイデアではなく、浮かんでいる雲であることを思い出してください。それらから自分を切り離してください。彼らは消えてしまった。

そのとき、自分は無執着であるという考えが浮かび上がります。それがパシャンティです。さもなくば、そこにぶら下がってしまいますので、それも落としてください。  それも捨ててください。あなたもこのアイデアの目撃者になってください。突然あなたは爆発して何もなくなってしまいます。それはほんの一瞬かもしれませんが、タオの味、ヨガとタントラの味を味わうことができるでしょう。あなたは真実の味を味わうでしょう。そして、一度それを手に入れると、それに近づくこと、それを許すこと、それに対して脆弱になること、利用できるようになることがますます簡単になります。毎日、どんどん楽になっていきます。道を進めば進むほど、道はより明確になります。  

 

6.ある日、あなたは入ったまま二度と出てこない...カイヴァリヤム。これがパタンジャリの言う絶対的な解放です。これが東側のゴールです。

東側の目標は西側の目標よりもはるかに高い目標に達します。西側では天国は最後のもののようです。東洋ではそうではありません。キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人、彼らにとって天国は最後のものであり、それを超えるものは何もありません。しかし、東洋では私たちはより多くの仕事をし、現実をより深く掘り下げてきました。私たちは最後まで掘削しましたが、突然ドリルが空虚に直面し、もう何も掘ることができなくなります。  

天国は願望、幸せになりたいという願望です。地獄とは恐怖、不幸になることへの恐怖です。地獄は蓄積された痛みです。天国は蓄積された喜びです。しかし、それらは自由ではありません。自由とは、苦痛も喜びもないときです。自由とは二元性が捨てられたときです。自由とは、地獄も天国もないとき、つまりカイヴァリヤムです。そのとき人は究極の純粋さに達するのです。  

これは東洋の目標であり、全人類の目標でなければならないと思います。』 

(以上で第9章は、終わり。)

  

カイヴァリヤを起こすには、

1.あなたが身体とマインド(頭)から離れると、あなたのサットヴァは純粋になる。そしてあなたのプルシャは常に純粋だった。

2.両方の鏡が純粋になると、何も映らなくなります。向かい合った 2 つの鏡。何も映らず、空のままです。この絶対的な空の点が解放です。

3.解放はこの世からのものではありません。

解放は同一化から起こるが、特定されてはなりません、決して何にも同一化されてはなりません。

 

4.あなたが証人であることを常に忘れず、証しするという点を決して失わないでください。

5.そしてある日、何千もの太陽が集まって昇るように、内なる意識が高まります。  

 

このステップは、ダンテス・ダイジのアートマンのブラフマンへの突入シーンを思い起こすと、説明されていない重要ポイントがまだ多数あるんだろうと思う。

 

西洋人に天国と地獄を超えるというのは理解されにくいかもしれないが、その点、現代日本人も大差ないか、西洋人より鈍いかもしれない。

その辺が、OSHOバグワンもクリシュナムルティも来日しなかった原因かもしれない。

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本当のものは道ではなく、探求者の真正性のほう

2025-06-17 03:17:30 | 覚醒のアーキテクチャー

◎誠実であれば、必ず目標に到達する

 

久々に、OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第9章 ” 絶対的な孤独: 解放”から。

 

『(仮訳)

人々は立ち往生しています。自分の体や習慣に執着している人もいます。自分の心、イデオロギー、思考、夢のパターンに囚われている人もいます。

 

  カタ・ウパニシャッドはこう言います、

「物を超えたところに感覚がある。

感覚を超えたところに精神がある。

精神を超えたところに知性がある。

知性を超えたところに魂がある。

魂を超えたところに非顕現。

非顕現の向こうにブラフマン。

そしてブラフマン自身の向こうには何もない。」これが終わりです、純粋な意識です。 

 

そして、この純粋な意識は、さまざまな道を通じて達成できます。本当のものは道ではありません。本物とは、探求者の真正性です。これを強調しておきます。  どのような道でも旅することができます。誠実で誠実であれば、必ず目標に到達します。  険しい道もあれば、楽な道もある、両側に緑がある道もある、砂漠の中を進む道もある、周りに美しい景色がある道もあれば、周りに景色がない道もある、それはまた別のことです。しかし、あなたが誠実で正直で、本物で真実であれば、それぞれの道はゴールにつながります。

 

クリシュナは『シュリマド・バガヴァッド・ギータ』でこう述べています、「人間が歩む道が何であれ、それは私の道です。彼らがどこを歩もうとも、それは私に通じています。」 

したがって、それは単に 1 つのことに還元できます。それは、信頼性が道であるということです。あなたがどのような道をたどろうとも、あなたが本物であれば、すべての道は彼に通じています。

 

そしてその逆もまた真です。どのような道をたどろうとも、あなたが本物でなければ、どこにも到達することはできません。あなたの信頼性があなたを故郷に連れ戻してくれます。それ以外の何ものでもありません。すべてのパスは単なる二次的なものです。基本的なことは、本物であること、真実であることです。』

 

『どのような道をたどろうとも、あなたが本物でなければ、どこにも到達することはできません。』という言葉は、逆に耳が痛いです。

 

クリシュナの『人間が歩む道が何であれ、それは私の道です。彼らがどこを歩もうとも、それは私に通じています。 』という言葉は、覚者が言えば真理だが、未悟者が言えば嘘である。

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OSHOバグワンの世界の二元の始まり

2025-04-15 03:55:10 | 覚醒のアーキテクチャー

◎表現するのは、舌であって、言霊であって、天の沼矛

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第9章 ” 絶対的な孤独: 解放”の説明。

 

※ヨガは存在を顕現しないものと、顕現するものに分ける。顕現しないものは 1 つですが、顕現するものは 2 つになる。顕現するとは、二元、選り好みのこと。

※表現する時点で、ヨガは現実をプルシャとプラクリティの 2 つに分割する。表現するのは、舌であって言霊であって、天の沼矛。表現する、言葉の意義は深遠である。二元性にからんでいるとはね。

※最後に知性と意識の違いについて述べ始める。知性は心身の一部であり、意識はプルシャ、究極、超越の一部。理解するのは簡単ではない。

 

ポイントは、以下。

1.クリシュナは『シュリマド・バガヴァッド・ギータ』でこう述べています、「人間が歩む道が何であれ、それは私の道です。彼らがどこを歩もうとも、それは私に通じています。」。だが、どのような道をたどろうとも、あなたが本物でなければ、どこにも到達することはできません。

2.それはあなたの中にあります。あなたは何か新しいものを求めているわけではありません。あなたは忘れてしまった何かを探しています。

3.ヨガは存在を二つに分けます。顕現しないものは 1 つですが、顕現するものは 2 つになります。なぜなら、顕現の過程で物事は 2 つになるからです。もしあなたが女性を見て、あなたの中に何も言葉が浮かばないとしたら、その経験は一つであり、非二元的です。  「愛しています」と言った瞬間、あなたは憎しみを持ち込んでいることになります。愛は憎しみなしには説明できないからです。夜がなければ昼は説明できず、死がなければ人生は説明できません。その反対のものを導入する必要があります。  

4.ヴァイハーリの時点では、すべてが明確で二元性があります。夜は昼から分離され、死は生から分離され、美と醜さは分離され、光は暗闇から分離されます。すべてはアリストテレス的な方法で分割され、明確で、橋はありません。もう少し奥に移動します。マディヤマの時点で分裂が始まりますが、それほど明確ではありません。夕方や朝のように、夜と昼が出会い、混ざり合います。ゴー さらに奥へ。パシャンティの時点では、それらは種子の中にあり、二元性はまだ生じていません。何が何であるかを言うことはできず、すべてが未分化です。さらに奥へ進みます。パラの時点では、目に見えるもの、見えないものの区別はありません。

5.表現の時点で、ヨガは現実をプルシャとプラクリティの 2 つに分割します。プラクリティは「物質」を意味します。プルシャとは「意識」を意味します。

6.経典には、「プルシャとサットヴァの純粋さが等しいときに解放が得られる」と書かれています。サットヴァはプラクリティ、自然、物質の最高点です。サットヴァとは「知性」を意味します。そしてプルシャは「気づき」を意味します。それはあなたの中にある最も微妙な結びつきです。なぜなら、それらは非常に似ているからです。知性と意識は非常に似ているため、知的な人は意識のある人であると考え始めることがよくあります。そうではありません。

7.非常に知的な人は、ほとんどの場合、ぼんやりした状態になります。彼らは自分たちの知性に感動し執着するあまり、外の世界の多くのことに気づかなくなります。知性は必ずしも意識ではありません。認識は必然的に知性です!気づいている人は賢いですが、知性のある人は気づく必要はありません。

その中での必然性。しかし、どちらも非常に近いです。知性は心身の一部であり、意識はプルシャ、究極、超越の一部です。

8.空と大地が出会う。その点、空と大地が出会う地平線は、完全に正体不明になる点、つまり知性と認識が出会う場所だ。どちらも非常によく似ています。知性は精製された物質であり、人がその中に入ることができ、「私は気づいた」と考えることができるほど純粋です。多くの哲学者がそのようにして自分の人生を無駄にしているのです。彼らは自分の知性が自分の認識であると考えています。宗教は認識の探求です。哲学は知性の探求。

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OSHOバグワンの沈黙から生まれ沈黙に返る

2025-04-14 03:36:44 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ブラフマン自身の向こうには何もない

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第9章 ” 絶対的な孤独: 解放”の説明。

 

※『人生とは、沈黙の表現。私たちは沈黙から生まれ、再び沈黙の中に溶けていく』これは、唐突だが、以降の説明で納得できる。

※存在の4つの層は
(1)ヴァイハーリ(果実)、物事。
(2)マディヤマ (木、「中間」)感情、経験。
(3)パシャンティ(何かを経験する前に  内部では種子の形で動きます。)
(4)パラ(すべてが生まれる根本的な存在)


※物事に執着しすぎず、自分の体に執着しすぎず、自分の心に執着しすぎず、まったく執着していなければ、あなたは突然、パラに溶け込んでしう。それが解放。 

ポイントは、以下。
1.ヨーガスートラの経文:プルシャ(純粋意識)とサットヴァ(光明、純粋さ)の間に純粋さが等しければ、解放が得られます。

2.あなたの最も内側の核は誰のものでもありません。けれど、あなたの体は憑依される可能性があり、あなたの心も憑依される可能性があります。

 ※憑依とは、イデオロギー、カルト、あらゆるマインド・コントロールのこと。


3.思考は空の空間を移動するのようなものです。その何もない空間は、雲ではなく、本当の空です。雲は来たり消えたりします。思考ではなく、その思考が現れたり消えたりする空虚な空間。 


4. 人生とは、沈黙の表現。私たちは沈黙から生まれ、再び沈黙の中に溶けていきます。静寂、空間、無、非存在は、あなたの最も内側の核、車輪のハブです。あなたがその静けさ、あなたの純粋な存在以外には何も残っていないその空間に来ない限り、解放は達成されません。これがヨガのフレームワークです。 

5. 彼らはあなたの存在を4つの層に分けます。私はあなたに話しています。これは 最後の レイヤーです。ヨガではそれをヴァイハーリと呼びます。この言葉は「果実」、開花を意味します。しかし、私があなたに話す前、私が何かを言う前に、それは感情として、経験として私に現れます。それが第3段階です。ヨガではそれを MADHYAMA (「中間」) と呼びます。しかし、何かを経験する前に 内部では種子の形で動きます。よほどのことがないと普通は体験できない 


まだ発芽していない種の動きさえ知覚できるほど完全に穏やかになっていない限り、瞑想的です。それはとても微妙です。ヨガではそれをパシャンティと呼びます。パシャンティという言葉は「振り返る」、根源を見つめるという意味です。そしてその先には、すべてが生まれる根本的な存在があります。それはパラと呼ばれます。パラとは「超越的なもの」を意味します。

 
では、これら 4 つの層を理解してみましょう。パラとは、あらゆる現れを超えたものです。  パシャンティは種子のようなものです。マディヤマは木のようなものです。ヴァイハリは結実、開花のようなものです。「この無から種子が生じます。種子から木が生じ、木から果実が生じます。しかし、その基礎は無、沈黙、空間、形のないもの、非顕在的なもの、超越的なものです。」

6. さて、物事に執着しすぎると、ヴァイハーリの地点に留まってしまいます。自分の体に執着しすぎると、マディヤマの地点に留まってしまいます。自分の心に執着しすぎると、パシャンティの地点に留まってしまいます。そして、もしあなたがまったく執着していなければ、あなたは突然、パラ、超越的な、超越的なものに溶け込んでしまいます。それが解放です。

 
 7. カタ・ウパニシャッドはこう言います、「物を超えたところに感覚がある。感覚を超えたところに精神がある。精神を超えたところに知性がある。知性を超えたところに魂がある。魂を超えたところに非顕現。非顕現の向こうにブラフマン。そしてブラフマン自身の向こうには何もない。」これが終わりです、純粋な意識です。  

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孤独な鳥は空中で一回限りの大爆発を起こす

2025-04-13 03:45:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎突然の爆発と全知

ダンテス・ダイジの『孤独な鳥は空中で一回限りの大爆発を起こす』という言い回しは、あまり知的想像力を刺激せず、ぴんとこなかったが、どうもそうらしいと思うようになった。

『もう生々化々の流れも消えた無想定
静寂———喜怒哀楽は消え果てた。
秘められたさわやかさ

突然の爆発!
マーヤーとブラフマンのファッキング!
あなたは『神』に貫通されたのだ
鳥飛んで鳥のごとし、魚に泳いで魚に似たり
石ころは笑う!』
意味だけが生きるのだろうか?(老子狂言/ダンテス・ダイジ)から引用)

『マハーヴィーラは、チャクラや跳躍については決して語らず、爆発について語る。ある瞬間にあなたはこれであり、次の瞬間にはあれである。つまり、連続も跳躍もなく、爆発がある。通過すべき中間点はない。』
(OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”)

これに対してのOSHOバグワンの説明。
『マハーヴィーラはチャクラや跳躍については決して語らず、爆発について語ります。あなたはこれであり、そして次の瞬間にはあれである、と。跳躍するための多くの停留所さえありません。これは別の道です――爆発、あなたはただ爆発するのです。ある瞬間にあなたはこれであり、次の瞬間にはあれである。連続も跳躍もなく、爆発があるのです。通過すべき中点はありません。』

さらに、
『両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。
1. 洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。』

太乙金華宗旨の冒頭のOSHOバグワンの説明)

また、
『5.想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。 』
想念の隙間とその深度/ジェイド・タブレット-04-05)
ここで、隙間と爆発の関連が述べられる。無想定から有相三昧へ行くのが、爆発。

爆発後は、これ。
『私は、絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。
・・・そして、それも忘れ果てることだろう。』
格言3-12見性においては/老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

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OSHOバグワンの全知と時間

2025-04-12 03:50:17 | 覚醒のアーキテクチャー

◎究極の知識は稲妻のようなもので、突然、単一のビジョンで全体が見えます

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第7章 ” 最高の知識: すべてを一度に”の説明。

※『究極の知識は完全かつ絶対的なものです。一瞬ですべてが明らかになる。 』とは、パノラマ現象とか、一炊の夢というようにソフトに表現されているのだろう。
(まことかたればきくひとはなし (本居宣長))


ポイントは、以下。
1. ヨーガスートラの経文:現実の認識から生まれる最高の知識は超越的であり、すべての対象の同時的な認識を含み、過去、現在、未来のあらゆる対象とプロセスに関わり、世界のプロセスを超越する。  
...そしてプロセスの世界を超え、すべてのプロセスの世界を超えます。  
タラカム サルヴァヴィシャヤム サルヴァヴィシャヤム  
アクラム・チェティ・ヴィヴェカジャム・ギャナム。  (パタンジャリのヨーガ・スートラ(Yoga Sutras)の第3章54節:識別知は、あらゆる対象(過去、現在、未来を含む全て)と、それらのあらゆる様態(状態、性質、変化など全て)を、段階を踏むことなく、同時的に把握する超越的な知識である)

2. 目を通して私たちは現実の一部しか見ることができません。その部分により、人生はプロセスのように見えます。人が道路を歩いていくと、事物が近づいて、現れ、遠くなり、見えなくなる。これは人が目で知覚するためで、これがプロセス。全体が同時には見えないことがプロセス。


3. この経典には、「現実の認識から生まれる最高の知識は超越的です...」と書かれています。それは、存在と過程、静と動的、波と粒子、生と死、過去と未来のすべての二元性、極性、すべての二元性、すべての極性を超越します。それは超越的です。 「タラカム・サルヴァヴィシャヤム」――それはあらゆる知識の対象を超越する。  

4. 「……すべての対象を同時に認識することを含む……」 そして、この意識に対して「全知」という言葉が使われます。すべては同時にそのために存在します。非常に理解するのが難しく、理解するのはほとんど不可能です。


5. それは、究極の理解者にとって、彼があなたを見るということは、あなたが母親の胎内にいたとき、そしてあなたが生まれつつあるとき、そしてあなたが成長し、子供になり、若者になり、女性と結婚し、恋に落ち、子供たちが生まれ、あなたが年をとり、あなたが亡くなり、人々が葬列に参加しているとき、すべて同時にあなたを見ることになるということです。全体がトータルで出てきます。

6. 通常、私たちはあらゆるものを、カルマの中で、段階的なプロセスで、子供が若くなり、若者が年老いていくのを、まるで映画がスクリーンに非常にゆっくりと映し出されているかのように、ゆっくりと見ています。私たちはそう考えています。しかし、究極の知識は完全かつ絶対的なものです。一瞬ですべてが明らかになる。  その究極の知識は稲妻のようなものです。突然、単一のビジョンで全体が見えます。

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OSHOバグワンのすべての事物の同時認識

2025-04-11 03:49:14 | 覚醒のアーキテクチャー

◎覚者は、過去、現在、未来のすべてのオブジェクトとプロセスを知る

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第7章 ” 最高の知識: すべてを一度に”の説明。

※時間には、時系列時間(「時間的」時間)、心理的時間、現実的時間がある。

※ここでは、覚者の現実認識が、物事の中に入り込み、外側からの定義なしに知ることができるとしている。だから覚者は弟子の一挙手一投足を、話もしないのに知っている。

※冥想修行者は、狂人の世界を意識的に通過しないときつい。

 

ポイントは、以下。

1.ヨーガスートラの経文

瞬間とその連続(時間の流れ)に対するサンヤマ(集中、瞑想、没入)によって、識別から生じる知識(識別知)が得られる

 

2.あなたは時系列の中で生きています。そうすればあなたは新聞の世界で生きます。そして、あなたは政治家、狂った野心的な人々の世界に住んでいます。あるいは、もしあなたが心理的な時間に生きているなら、あなたは狂気の世界、狂気の世界、あるいは空想、夢、詩の世界に住んでいます。  

3.瞑想者は意識的に狂人の世界を意識的に通過することを覚えておいてください。そして、意識的に通り過ぎなければ、無意識のうちにその犠牲者になる可能性が十分にあるため、意識的に通り過ぎるのは良いことです。強制的にそれに追い込まれるよりも、注意して意識してそれを経験する方が良い。

4.時間が消えて永遠があなたを取り囲むとき、時間がもはやプロセスではなく、永遠のエネルギーのプールであるとき、そのときあなたは物事の中に入り込み、外側からの定義なしに知ることができるようになります。

5.それが師匠と弟子の間で起こることです。本当に、彼はあなたに尋ねる必要はありません。神はあなたの存在そのものから見ることができます。神はあなたの中に立つことができます――あなたの靴の中だけでなく、あなたの存在の中にも。 彼はあなたの最も奥深い空間にぴったりとフィットします。彼はあなたになり、そこから見ることができます。

6.現実の認識から生まれる最高の知識は超越的であり、すべてのオブジェクトの同時認識を含み、過去、現在、未来のすべてのオブジェクトとプロセスに関係し、世界のプロセスを超越します。  ...そしてプロセスの世界を超え、すべてのプロセスの世界を超えます。

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OSHOバグワンの現在、未来、過去の区別が消える

2025-04-10 03:37:29 | 覚醒のアーキテクチャー

◎サトリ、サマディの目を通して時間を見ることができれば、時間は消える。

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第7章 ” 最高の知識: すべてを一度に”の説明。

 

※過去、現在、未来というプロセスとしての時間は、欲望によって生み出される。

サマーディを意識して見る瞬間から、現在、未来、過去の区別が消える。その時、欲望は消える。「サマーディを意識して見る」とは、見ている自分がなくなるということか。

 

ポイントは、以下、

1.ヨーガスートラの経文

『現在の瞬間、過ぎ去った瞬間、そしてこれから来る瞬間に対してサンヤマ(結合、集中、瞑想)を行うことは、究極の現実の認識から生まれる知識をもたらす。』

2.もしあなたがサマーディの意識を時間の過程に、つまり過ぎ去った瞬間に、そしてこれから来る瞬間に――サマーディをもたらしたなら、突然、究極の現実の知識が生まれます。なぜなら、サマーディを意識して見る瞬間から、現在、未来、過去の区別が消えるからです。それらは溶けてしまいます。その区別は誤りです。突然、あなたは永遠に気づきます。そのとき、時間は同時性である。何も通過せず、何も入ってこない。すべてはあります、ただあります。

3.この存在は神として知られています。この存在こそが神の観念なのです。

4.「現在の瞬間、過ぎ去った瞬間、そしてこれから来る瞬間についてサンヤマを行うことは、究極の現実の認識から生まれる知識をもたらします。」サトリ、サマディの目を通して時間を見ることができれば、時間は消えます。

しかし、これが最後の奇跡です。その後にはカイヴァリヤ、解放があるだけです。時間が消えると、すべてが消えてしまいます。なぜなら、時間の間違った概念のせいで、欲望、野心、モチベーションの世界全体がそこにあるからです。時間は創造されます。過去、現在、未来というプロセスとしての時間は、欲望によって生み出されます。これは東洋の賢者の最も偉大な洞察の 1 つです。時間、プロセスは実際には欲望の投影です。

5.あなたが何かを望むから、あなたは未来を創造します。そして執着するから過去を作るのです。目の前になくなったものを離れることができず、それにしがみつきたいからこそ、記憶が作られるのです。そして、まだ来ていないものを、あなたは自分なりの方法で期待し、未来を創造します。未来と過去は精神状態であり、時間の一部ではありません。時間は永遠です。分割されていません。それは一つであり、全体です。

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OSHOバグワンの時間の謎

2025-04-09 03:43:29 | 覚醒のアーキテクチャー

◎時間には「時間的」、「心理的」、「現実的」の3種の時間がある。

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第7章 ” 最高の知識: すべてを一度に”の説明。

 

※時間には 3種あって、「時間的」時間、「心理的」時間、そして 3 つ目は「現実的」時間。「現実的」時間が大悟覚醒者の時間だが、過去も未来もなく現在だけある。理由は、過去と現在、未来と現在をつなぐ時間がないから。これは、理屈でなく、体験とはいえない体験を経ないと納得できないのだろう。

またこの話は、隙間理論とからんでいる。

 

ポイントは、以下

1.ヨーガスートラの経文

現在の瞬間、過ぎ去った瞬間、そしてこれから来る瞬間に対してサンヤマ(結合、集中、瞑想)を行うことは、究極の現実の認識から生まれる知識をもたらす。これによって、種類、特徴、場所によって識別できない類似した対象を区別する能力が生じる。現実の認識から生まれる最高の知識は超越的であり、すべての対象の同時的な認識を含み、過去、現在、未来のあらゆる対象とプロセスに関わり、世界のプロセスを超越する。

 

2.時間が何であるかを知ることは、真実が何であるかを知ることです。通常、私たちが時間と呼んでいるものはリアルタイムではありません。それは時系列的な時間です。したがって、時間は 3 つの方法で分割、分類できることを覚えておいてください。 1 つは「時間的」、もう 1 つは「心理的」、そして 3 つ目は「現実的」です。

1の「時間的」時間とは、時系列的時間。1 分は 60 秒の時系列の時間は時計の時間です。それは功利的です。それは本物ではありません。それは社会によって合意された信念にすぎません。それは偽りの時間です。現実とは何の関係もありません。私たちは完全に時系列的な時間、つまりグリニッジ時間の中に生きています。

2の「心理的」時間とは、「時間的」時間のすぐ下に、現実ではないが、時系列の時間よりも現実的な別の時間が存在する。それが、心理的な時間です。 毎日決まった時間に空腹が訪れ、毎月1回月経があるというようなのが、心理的時間。心理的な時間はあなたの内なる時間です。幸せだと時間の感覚が遅くなります。不満があると時間が長くなります。深く瞑想していると時間が止まります。時間が完全に止まったら、その状態は至福の状態になります。

 時間が非常に遅くなると、悲惨な状態になります。 キリスト教では地獄は永遠であると言われていますが、それは、心理的時間のこと。 女性はまだ心理的な時間の中に生きています。子供には自分だけの心理的な時間があり、まったく急ぐことなく、ほとんど夢の中で過ごします。心理的な時間は完全に個人的なものです。だからこそ、時系列的な時間が重要になってくるのです。

心理的な時間は夢の時間です。神話、詩、愛、芸術、絵画、ダンス、音楽、直感、それらはすべて心理的な時間に属します。時系列は外向的な人向けです。心理的な時間は、内向的な人、つまり内なる魂に向かって動き始めた人のためのものです。

 

3.「現実的」時間とは、リアルタイム、実存的です。現実の時間は永遠であるため、時間などまったくありません。

4.「現実的」時間についての説明の仮訳:

ゼノンとナーガルジュナは、時間、つまり年代順の時間の概念全体がばかげていると言っています。この二人の人物と時系列の分析についていくつかお話ししましょう。

時間解析の最高峰を達成した。誰もそれらを超えたり、改善したりすることはできません。彼らは「時間とは何ですか?」と言います。あなたはこう言います。「それはプロセスです。ある瞬間は過去に移り、消えます。別の瞬間は未来から現在に移ります。しばらく敷居の上に留まり、そして再び過去に移り、消えます。」これが時間のプロセスです。同時に存在できるのは 1 つの瞬間だけであり、2 つの瞬間が同時に存在することはありません。

過去、未来、そしてその狭間、境界線、現在。  さて、ナーガルジュナとゼノンはこう言います、「瞬間はどこから来るのか?未来はすでに存在するのか?もし存在しないなら、どうやって瞬間は存在しないものから生まれ出ることができるのか?」  今、彼らはトラブルを引き起こしています。 「現在の瞬間は過去のどこに移動するのでしょうか?それはまだ過去に蓄積されたままですか?」と彼らは言います。まだ過去に残っていると言えば、まだ過去になっていない。

もしあなたが、それが未来に存在し、今それが私たちに明らかにされたと言うなら、それは常に未来に存在していました。ナーガールジュナとゼノンは言う、それではそれを未来とは呼べない、と。それは常に存在していました。未来があるなら、未来はそうではない。未来というのはまだないことを意味するからです。過去がそうであれば、過去はそうではありません。  なぜなら、過去とは存在しなくなったものを意味するからです。  

それで、あなたがどんな選択肢を選んだとしても... あなたが未来はないと言って、突然現在の瞬間が突然現れたら、二人は笑います。彼らは言います、「あなたはナンセンスなことを言っています。非存在からどのようにして存在が生まれるのでしょうか?そして、どうやって存在するものは再び非存在に移行することができますか?」彼らは言う、「両側に非存在があるなら、真ん中だけでは、どうして存在があり得るのですか?それも非存在でなければなりません。あなたは騙されました。」  

すると彼らは、「あなたは時間をプロセスとして捉えるのですか?ある瞬間が別の瞬間とつながっていると言うのですか?」と言いました。ナーガールジュナとゼノンはあなたに尋ねます、「二つの瞬間があります。それらはどのように関係していますか? 二つの瞬間の間に、それらを関係付ける第三の瞬間はありますか?」関連するにはリンクが必要なので、ここでも問題が生じます。

2 つのものを関連付けるには、過去と現在、現在と未来を関連付けるには、リンクが必要です。では、それらのリンクはどこにあるのでしょうか?それらのリンクは何ですか?それらは時間に応じてのみ可能です。したがって、ある瞬間と次の瞬間の間に、この 2 つが結合する別の瞬間が存在します。したがって、2 つではなく 3 つになりますが、やはり結合する必要があります。無限後退が生じます。  

私の二本の指を見てください。これら 2 つは結合する必要があります。 3本の指になります。  これで、穴が 1 つではなく 2 つになり、空白が 2 つになりました。それらは結合されなければなりません。彼らは5人になります。今では、結合すべきギャップがさらに増えていきます。  

ナーガールジュナとゼノンによれば、年代順は功利的なものだという。それは実質的なものではありません。現実の時間はプロセスではありません。なぜなら、時間自体がプロセスであるなら、別の時間が必要になるからです、とナーガルジュナは言います。たとえば、あなたは歩きます。時間が必要です。あなたは自宅から私のところに、この荘子の講堂に来ました。あなたがここに来るまでに15分かかりました。歩くには時間が必要なので、時間がない場合はどうやってここに来ますか?歩くことはプロセスです。

時間が必要です。すべてのプロセスには時間がかかります。さて、ナーガールジュナはこう言います、「もし時間そのものが過程であると言うなら、時間には別の時間が必要になるでしょう、超時が必要になります。そしてそれも過程です。そして超超時……」再び無限後退が生じます。それでは解決できません。  いいえ、時間 -- リアルタイム -- はプロセスではありません。それは同時性です。未来、過去、現在は 3 つの別々のものではありません。したがって、それらに参加する必要はありません。それは今、永遠です。それは 

時間は過ぎていくのではなく、あなたのそばで。どこへ行くのでしょうか?通過するには別の媒体が必要になりますが、どこへ行き、どこから来るのでしょうか?それはそこにあります。というかここにあります。時間は。それはプロセスではありません。

なぜなら、私たちは全体の時間を知ることができないからです。私たちの目は限られており、制限されています。私たちは小さな隙間から外を見ているのです。だからこそ、一度に一瞬しか見えないように思えます。それはあなたの限界であり、時間の区切りではありません。なぜなら、時間全体をありのままに見ることはできないからです。なぜなら、あなたはまだ完全ではないからです。それが理由です。

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OSHOバグワンの霊能力、超能力にこだわるな

2025-04-08 03:10:10 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊能力、超能力にこだわれば、悪の復活の可能性

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第5章 ” エゴの最後の攻撃”の説明。

 

※OSHOバグワンは、霊能力、超能力にこだわれば、悪の復活の可能性があることをパタンジャリが述べたことを、賞賛している。霊能力、超能力は、いわば人生のチート技であって、そうした能力を持たない人にとっては垂涎の的。

霊能力者、超能力者は、人間にも歓迎され、あの世の生き物にも歓迎されるが、そこがかえって危ない。最後はすべてを捨てねばならないのに。

 

ポイントは、以下。

1.ヨーガスートラの経文『様々な次元を司る超自然的な存在からの誘いに対して、いかなる執着や誇りも避けるべきです。なぜなら、それは悪の復活の可能性をもたらすからです。

2.各チャクラには独自の力があります。それらを通過すると、それらが利用可能になります。警戒を怠らず、どこへ行くのかを知って移動するのは良いことです。

3.霊能力、超能力が、起こり始めると、より高次の存在、超物理的存在からの招待状を受け取り始めます。その時、自分は選ばれた、選ばれた、選ばれた、そして自分は特別だ、などと感じ始めないでください。

あなたに準備ができていれば、すぐに高次元からのメッセージがあなたに届き始めます。彼らは誰かが受け入れセンターになってくれるのを長い間待っていました。このようなことが起こったとき、彼らを否定しないでください。こうなると脆弱になります。一つ、心を開いて信頼してください。

そして 2 つ目は、誇りに思わないことです。この 2 つのことができれば、神はあなたを通して機能し始めます。あなたは笛、中空の竹のようになる。彼はあなたを通じて歌い始めます。  しかし、プライドが入ると、歌は止まります。優越感を感じ始めると、曲は衰え始めます。それは多くの人に起こりました。彼らは高次の世界、高次の世界、超物理的な世界と接触していましたが、それから誇りを感じ始めました。遅かれ早かれ、その接触は再び失われてしまいました。彼らは普通になった。 

4.しかし、その後、彼らは連絡が途絶えたことを受け入れることができないため、偉そうなふりをするようになります。私は本当に奇跡的な力を持つようになったが、その後誇り高くなってしまった人を何人か見てきました。その後、彼らは力を失い、自分にはできないという考えを受け入れることができず、ただの普通の魔術師になりました。彼らはそれをやっていた、それは一度起こった。

霊能力、超能力が起きたら、利用可能な状態を維持することです。 2つ目は、それを自慢しないことです。それを事実として受け止めてください。決してひけらかさないでください。

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OSHOバグワンの異性を愛す、犬猫を愛す

2025-04-06 03:46:12 | 覚醒のアーキテクチャー

◎OSHOバグワンが飼い犬の本音を聞く

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第5章 ” エゴの最後の攻撃”の説明。

 

※超能力、霊能力を得た時こそ、あなたに対するエゴの最後の攻撃。

※束縛の種は執着。そして解放の種は愛。

※OSHOバグワンが聞いた飼い犬の本音は、なにか男社会の処世術の香りがする。

※異性への愛着、犬への愛着、猫への愛着、モノへの愛着、霊能力への愛着、超能力への愛着などすべて捨てられねばカイヴァリヤはない。

 

第 9 巻第5章 ” エゴの最後の攻撃”の冒頭のヨーガスートラの経文。

『これらの力にさえ執着しないことによって、束縛の種は破壊されます。

そして、カイヴァリヤ、すなわち解放が続きます。

様々な次元を司る超自然的な存在からの誘いに対して、いかなる執着や誇りも避けるべきです。

なぜなら、それは悪の復活の可能性をもたらすからです。

タッド・ヴァイラーギャタピトシュ・ビクシャイェ・カイヴァリヤム。

これらの力にさえ執着しないことによって、束縛の種は破壊されます。

そして、カイヴァリヤ、すなわち解放が続きます。』

※TAD VAIRAGYATAPITOSH BIKSHAYE KAIVALYAM.(それゆえに、離欲と苦行によって、解脱が得られる)

  

上掲書から仮訳。

『(仮訳)

1.「これらの力にさえ無執着になることによって…」 そして、究極の無執着は、あなたがいくつかの奇跡、シッディ、力を獲得したとき、物事ができるとき、つまり奇跡的なこと、信じられないことができるときに起こります。彼らに執着すれば、遅かれ早かれまた元の世界に戻ってくるでしょう。気をつけてください。それはあなたに対するエゴの最後の攻撃です。

2.犬を愛するのはとても簡単ですが、猫を愛するのは少し難しいです。だから男性は女性のことを「猫」と呼ぶのです。猫は犬よりも予測しにくく、犬よりも賢く、独自の心を持っています。犬を蹴っても、またやって来ます。猫を蹴ると、猫は二度と来なくなります。終了した。いつでも離婚の準備はできています。

人は動物に恋をします。なんて残念なことでしょう。私は動物を愛してはいけないと言っているのではありません。人間の代わりにするなと言っているのです。人間を深く愛して、その愛が溢れ出て動物にも届くようにすべきです。そしたら全然違いますよ。そして木々にも届きます。そしたら全然違いますよ。岩にも、溢れ続けるから。無限の愛の源、誰もあなたの愛を抑えることはできません。溢れて、溢れて、溢れ続けます。そしてそれは動物にまで及びます。そうすれば、それはまったく異なる品質になります。  

しかし、人間との扉は閉ざされており、愛する人を見つけなければなりません。そうでないと非常にイライラし、関係が必要です。それから犬や猫と関わることになります。  犬も人間であり、猫も人間であるため、それでも満足できない場合があります。  

3.人々はまた、独自のイデオロギー、独自の考えを持っており、自分たちのことをやりたいと考えています。あなたの欲望を叶えてくれる犬はいません。犬を散歩させているときに、あなたはその犬を飼い慣らした、自分がその犬を所有している、と考えるかもしれません。

犬にどう思うか決して尋ねませんでした。彼はあなたを憑依していると思っていて、この男を飼い慣らしているのです。犬同士が話しているのを聞いたことがあります。

 

4.動物を愛することさえ困難になると、人は家、車、自転車などの物を愛するようになります。そして、彼らはこれらのことについてあまりにもロマンチックになりすぎます。これは人間の意識の劣化です。

5.パタンジャリが話している、スピリチュアルな力があなたに起こる瞬間がやって来ます。覚えておいてください、それらに執着しないでください。それらは本当に美しく、とても充実しているからです。あなたはそれらを所有したいと思っています。多くの人がヨガに興味を持つようになったのは、ヨガのためでも、カイヴァリヤや解放のためでもなく、ただ単にヴィブーティスやシッディのためです。彼らはヨガを学び、マスターズに通い、奇跡を起こしたいと思っています。「これらの力にさえ執着しないことによって、束縛の種は破壊されます。」これが再び束縛に陥る可能性のある最後の可能性です。これを越えることができれば、種は燃やされます。

※ヴィブーティスやシッディ:超能力、霊能力、超自然的力。

「その後、カイヴァリヤが続きます」 -- その後、解放が続きます。そのとき、あなたは完全に自由です――自由、絶対の自由――何にも執着せず、愛に満ち、存在全体に愛を注ぎます……存在と自分自身への祝福、祝福です。  しかし、各ステップで注意を払う必要があります。心は狡猾です。』

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OSHOバグワンの自分がエゴイストであることを知る

2025-04-05 06:10:39 | 覚醒のアーキテクチャー

あなたがエゴイストであることは誰もが知っている

 

OSHOバグワンが、グループセラピーの有効性について説く。個人セラピーより、患者本人が、自分の問題点について気がつきやすいからだ。これは精神病患者のことを言っているが、冥想修行者にとって、どの程度自分の我欲、見ている自分を残しているかを覚るのに参考となるところがある。だが、最後は、自分で自分に向き合わねばならない。

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第5章 ” エゴの最後の攻撃”から仮訳。

 

『(仮訳)

あなたを除いて、ほとんどの人があなたのどこが間違っているかを知っています。あなたがエゴイストであることは誰もが知っています - あなたを除いて。

自分が謙虚な人、単純な人だと思っているのはあなただけです。  あなたの複雑さは誰もが知っています。あなたのダブルバインドは誰もが知っています。あなた以外の誰もがあなたの狂気を知っています。あなたはそれを守り続けます。

そして、礼儀、エチケット、形式的なことについては、社会では誰も教えてくれません。したがって、このグループは役に立ちます。なぜなら、それは礼儀正しくないからです。それは真実になるでしょう。

そして、非常に多くの人が、これはあなたの問題だと言い、それを特定して指で触れたり、あなたの傷口に指を当てたりすると痛いです・・・ この人は間違っているかもしれないと考える可能性があるため、個人ごとに注意を促すのは非常に困難ですが、20人もいるでしょうか? 20 人が間違っている可能性は低いので、自分自身に立ち戻って、問題の要点を理解する必要があります。  

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OSHOバグワンのすべてを捨ててすべてを得るメカニズム

2025-04-04 05:56:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎効果も目的もない冥想に向かうために

 

OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第5章 ” エゴの最後の攻撃”の説明。

 

効果も目的もない冥想に向かうには、次の3段階がある。まず世俗の達成した願望が死によってすべてなくなることを思い知り、世俗の願望を見切り、捨てる。次に霊能力、超能力のスピリチュアルな欲望を見切り、捨てる。ここでスタート地点。やがて冥想により、すべてを捨ててすべてを得る。

 

ポイントは、以下。

  1. この世で無執着になるのは非常に難しいですが、スピリチュアルな世界が扉を開くと、無執着になるのはさらに難しくなります。なぜなら、世俗的な権力は決してあなたを満足させませんから。
  2. 世俗的な事柄において無執着であることはそれほど難しいことではありません(どんなに大きな家を建てることができても、政治的、経済的、社会的にどれだけ権力を持っても、死はそれらをすべてあなたから奪い去るので)。だが、内なる力、精神的な力に関しては、それらはあなたの存在に非常に近く、無限に満足させるものであるため、無執着であることはほとんど不可能です。
  3. あなたが所有するものは何であれ、あなたを所有するので、あなたは自分が所有できるすべてのものを捨てなければなりません - あなたの裸の性質を除いて。それは犠牲にすることはできません。
  4. スピリチュアルな力を持つことは非常に満足感があり、喜ばしいことであり、それはあなたに何の刺痛も感じられないほど純粋なエゴの微妙な喜びを与えてくれます。だが、パタンジャリは彼らも放棄する必要があると言っています。そうでないと、あなたは幻覚の世界で生き始めるでしょう、再びパワートリップです。
  5. あらゆる種類の利己的な旅行が捨てられ、犠牲になった場合にのみ、全体が可能になります。あなたがそうでなくても、神はいます。

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