アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

睡眠の間に神に出会う-2

2024-08-17 03:46:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人は眠りを通して神に入っていくがそれだけでは決して神を知るには至らない

 

次の文は、OSHOバグワンの『眠りのなかで目覚めていること』だが、字義どおり読むと誤解を招く。あたかも読者が神人合一という体験とは言えない体験を承知しているのを前提に語っているようである。

 ヨーガ行者(ヨーギ)全員が、ニルヴァーナを徹底して知っていれば、ヨーガ行者は、睡眠中に夢を見ないが、まるでヨーガ行者全員がニルヴァーナを知っているような書きぶりである。ヨーガ行者だからといって、覚醒しているのはひと握りにすぎない。

アメリカの覚者ケン・ウィルバーだって、最初の覚醒から、熟眠中に夢を見ないようになるまでは時間がかかったものだ。

 普通の人は、一晩に10分以下の夢を見ない時間があってそれが神の時間。これは、いわゆる隙間であって、肉体死のプロセスにおいて万人が必ず目撃する原初の光(母の光明)と同等のもの。

 OSHOバグワンは、以下の文において、人は冥想をしない限り、何百万回の人生において何億回睡眠しても、睡眠中の夢を見ない状態が、神であると意識することはないと釘を刺しているのだ。

たとえ毎晩の何億回の睡眠にさいし、何億回神と出会ったとしても、それは無意識で起きているから、それが神であると気づくことは決してない。冥想により、意識的に神と出会う訓練を積むことにより、無意識である睡眠において夢をみない空白(gap)が神であると気づくこともあるかもしれない。

 だが、それは、古代インドでインドラが苦労したように簡単なものではない。

 世間では、熟睡は、心身をリフレッシュするというが、それ以上のものがあるのだ。

 

『眠りのなかで目覚めていること

 

眠りに入ってゆくことと神に入ってゆくことは、まさにひとつの同じことだ。ただ唯一の違いは、眠りをとおして、人は無意識のうちに神に入ってゆくのに対して、瞑想をとおして、人は意識ある状態のまま神に入ってゆくということだ。ただし、これは非常に大きな違いだ。あなたは何千もの生にわたって、眠りをとおして神に入ってゆくかもしれない。しかしけっして神を知るにはいたらない。ただし、かりに一瞬でもあなたが瞑想に入っていったなら、何千もの何百万もの生にわたって、深い眠りのうちに――つねに無意識のうちにではあったが――たどり着いていたところに、その同じところにあなたはたどり着く。そしてそれが、あなたの生を全面的に変容させる。

 

興味深いことには、ひとたび瞑想に入ってゆくと、―――深い眠りがつれてゆく虚空のうちに入ってゆくと、人は二度と無意識でいることがなくなるのだ。―――たとえ睡眠中であっても。クリシュナがギータのなかで、「ほかの誰もが眠っているときでも、ヨーガ行者は目覚めている」といったのは、ヨーギが全然眠らないという意味でいったのではない。それどころか、ヨーギほど美しく眠る者はいないくらいだ。ただ、もっとも深い眠りのうちにあってなお、ヨーギのなかの瞑想に入っていった部分は目覚めたままでいる。毎夜、ヨーギはこの覚醒状態のうちに眠りに入ってゆく。そのときヨーギにとって、瞑想と睡眠はひとつの同じものだ。両者のあいだに違いはない。そしてヨーギはつねに完全な意識のうちに眠りに入ってゆく。ひとたび瞑想をとおして自己の内側に入っていった者は、けっして眠りのなかで無意識になることはない。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社166-167から引用)

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睡眠の間に神に出会う-1

2024-08-16 03:41:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎"わたしであること"のうちに存在するのをやめたとき、人間はまどろみなき眠りに落ちる

 

日中の覚醒時に思考あるいは想念の連続の間には隙間が断続的にあって、その隙間こそが神であることは知られている。

一方OSHOバグワンは、睡眠時の夢のない時間帯こそ神であると述べている。ただし睡眠時は人は無意識であり、睡眠時の思考あるいは想念が夢にあたる。

よって覚者たちは、まず最初に冥想により日中の覚醒時に隙間を意識できるような方向で冥想修行し、その後、睡眠時にも夢を見ないことを目指す。睡眠時に夢を見ないことで、無意識である睡眠時においても意識的に神であることを目指すのである。

 

OSHOバグワンは、アメリカでヨーガや瞑想が流行している原因は、生活が重苦しく、抑圧や緊張で一杯なので、睡眠不足であることが一般的なせいだと見ている。それが証拠にアメリカの睡眠薬の消費量は膨大で、ややもすれば、医師までも、ヨーガや瞑想は睡眠導入ツールの一種くらいにしかみられていない。

 

一般に人は一晩に10分以下の夢を見ない時間帯がある。その時間に人は、神という生命の始原に到達し、生のエネルギーを得て元気を回復するが、それが神であるなどとはまず気づかない。

 

なお一晩中夢を見ないと主張する人のほとんどは、夢は見ているが覚えていないだけである。

 

一晩の睡眠における夢を見ない10分を空白(gap。隙間と訳している場合もある)と呼ぶ。

『つまり夢なき眠りとは、人間が機械のおよぶ範囲を超えたところにゆき着いたことを意味するのだ。人間が聖なるものに入ってゆくのは、この空白においてだ。

 

機械にはこのあいだの空間を、この空白を探ることができない。人間が夢を見ているかぎり、機械は内なる活動を記録している。―――すると空白が起こり、人間はどこかに消えてしまう。やがて十分後に機械はふたたび記録をはじめる。この十分の絶え間に人間がどこにいたのかをいうのは難しい。アメリカの心理学者たちはこの空白にひどく当惑させられた。そして睡眠を最大の謎だと考えた。事実、神はさておき、眠りこそ唯一の謎なのだ。ほかに謎などない。

 

あなたは毎日眠る。しかし眠りの何たるかについては何の考えも持ち合わせていない。人間は一生のあいだ眠りつづける。しかし何も変わらない。―――眠りについては何も知らない。あなたが眠りのことを何も知らないのは、眠りがそこにあるとき、あなたはいないからだ。覚えておくがいい。あなたが存在するのは、眠りが存在しないときだけだ。したがってあなたは、せいぜい機械が知っているくらいのことを知るだけだ。ちょうど機械が空白に直面して止まってしまい、人間が運ばれていった先にまでゆき着くことができないように、あなたもそこにはゆき着けない。―――あなたも機械以上のものではないからだ。

 

あなたもまたその空白に出会うことがないために、眠りはひとつの謎にとどまっている。あなたの手のとどかない彼方にとどまっている。これは、"わたしであること"のうちに存在するのをやめたときにしか、人間はまどろみなき眠りに落ちてゆくことがないためだ。

 

したがって、自我が成長してゆくにつれ、眠りはどんどん少なくなってゆく。自己中心的な人間が眠る能力をなくしてしまうのは、その人の自我が、"わたし"が、一日二十四時間さし出てやまないからだ。目を覚ますのは"わたし"なのだ。 通りを歩いているのと同じ"わたし"だ。その"わたし"が二十四時間というもの、のべつ存在しているために、眠りに落ちるときになっても、"わたし"を落とすときがやってきても、それを追い払うことができない。当然、眠りにつくのは困難になる。“わたし”が存在しているかぎり、眠りは不可能なの だ。そして昨日話したように、"わたし"が存在しているかぎり、神への参入は不可能なのだ。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社164-166から引用)

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スケートボード堀米雄斗選手、1%の可能性を最後まで信じて

2024-08-15 03:03:42 | 覚醒のアーキテクチャー

◎九分九厘から一厘の大逆転とは、個人が逆転して世界全体になること

 

2024年パリ五輪、スケートボードの男子ストリートで、堀米雄斗選手は、1%の可能性を最後まで信じて、最終の5回目の演技に成功し、2大会連続の金メダルを獲得した。

 

釈迦が成道できたことで英雄と呼ばれるのも、悟る可能性が1%もなくても可能性を最後まで信じて冥想修行に取り組んだから。

また古神道家ならこれを一厘の仕組という。一厘の仕組とは、世の立替の時に、99.9%滅亡のところから大逆転するメカニズムのこと。出口王仁三郎は、そのヒントは、古事記の仲哀天皇の帰神の段にあるという。

 

さらに冥想シーンで、九分九厘から一厘の大逆転とは、個人が逆転して世界全体あるいは神になること。

 

冥想シーンでのそれを、確率百分の一の無謀なギャンブルと見れば、常識的社会人や青少年はおいそれと取り組まないかに思える。

 ところが、すべての人は、クンダリーニのエネルギー・コードが直接神とつながっているが、それに気がつくことを神人合一という。

 さらに、古代インドのパタンジャリは、時間とは、〈現象〉〈現象〉〈現象〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉と進行しているが、       

 それを超スローモーションで見たパタンジャリが、有である〈現象〉の停止に気づき、実は時間とはリアルな現実ではなくデジタル動画であることを発見したのだ。    

現象という動画は、無数の静止画と隙間によってできている。というのは、パタンジャリは、世界の現象を形成する無数の静止画(三種のグナ)が何も動かないで停止しているのを見たから。その時、パタンジャリは、すべての現実というドラマがデジタル動画つまり幻影で作られていることに気がついた。

この気づきこそが、大悟覚醒、入我我入、一厘の仕組である。このことは、確率1%だから取り組む、取り組まないという個人的好みの問題ではなく、すべての人にとって何のために生きているのかという共通の課題なのである。

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人間は玉の緒(クンダリーニ)が神様と結ばれている

2024-08-12 03:23:47 | 覚醒のアーキテクチャー

◎善いことは容易にできない世の中だが、善いことをし続ける

 

出口王仁三郎は、クンダリーニは神様とつながっていると明言。だから人は神の生き宮、神の分霊などというのだが、さらりと人間はクンダリーニのエネルギー・コードによって神様につながっていると説明している。もとより神様とつながっている以上、誰にでも仏性があるとか神性があるというような表現は、とても妙な言い回しであるように思う。

最近の人間は、自分が神様とつながっているという自覚のない人もいるし、他人も神様とつながっていると知れば他人にひどいことなどできないはずなのに、よろしからざる仕打ちをする人もいる。

『人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其(その)もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。』

(水鏡_人生の諸問題/出口王仁三郎から引用)

 

たまたま2024年8月8日『南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)』が出されたが、気になる自分の生死も、玉の緒を神様が切られるかどうかによるということ。まことに、生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。

さらに、『されば最第一なる霊魂精神は、至大天球一名は至大霊魂球にして、一個人の神経は此の霊魂球中の一条脉なる即ち玉の緒と言ふ物也と明言して、その明細を説明する事不能也也。』

(霊界物語 第81巻 総説 天地開闢の極元/出口王仁三郎から引用)』

これは、世界全体、宇宙全体である至大天球は、人間と玉の緒(クンダリーニ)でつながっていることを言っている。ただしその説明はできないとしている。

 

なお、出典の出口王仁三郎の随筆水鏡の「人生の諸問題」には、処世法の秘訣、神様に守って頂くこと、勇気を出して物事をやつて行かねばならないこと、昨今の転職ブームについて述べている。

『人は水の流れるやうに生活すればよろしい、水は流れ易い方向を撰んで、いと自然に自が途を開いて進み行く。途中障害物に突あたる事があると、又いと自然に方向転換をやつて進み易い道を進んで行く、これが処世法の秘訣である。自然に逆らつて低きにつかんとする水を高所に上げやうとする様な生活は、労多くして功が些ないものである。

現今の地上は、悪魔の集会所である。故に諸善神は天にのぼり、地に潜んで、其跋扈跳梁に任してあるが如き状態である。で有から善い事は容易に出来ない世の中である。善い人、善い仕事には却つて悪魔がつき纏ふて邪魔をする。恰度(ちょうど)よい果実に悪い虫がつくやうなものであつて、神様のお守りを受けるより外に之を防ぐ道がないものである。

甘い果実に悪い虫がつく、其虫がつかぬやうに人間が除虫法を行ひ、袋をかぶせて保護してやる。さうすると誠に立派な見事なものが得らるる道理。どんな性のよい人、又成功すべき仕事であつても、神様のお守りがないと悪魔に祟られて、惜い事には十分成熟せずに、ポタリポタリと途中で落ちて行く果実の其と同じ結果に終つて仕舞ふのである。

生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。大切な子が死んだため信仰をおとすなどと云ふのは訳の分らぬ人間である。

思ふやうには行かぬ世の中である。それは前云ふ通り、地上に悪魔が横行闊歩して居るからである。それ故に人間は神様に守つて頂くと同時に、勇気を出して物事をやつて行かねばならぬ。勇気を出せば悪魔は退いて仕舞ふ。人は思ふ道を勇敢に進むに限る。思ふやうには行かぬ世の中と云ふのは悪魔のさやる世の中を云ふので、神代になれば思ふ事が箱さしたやうに、ケタリ、ケタリと甘く行く事は神諭に示さるる通りである。

それだからこそ神様が立替を急いでおいでなさるので、神様は早くこの悪魔を退治して皆が喜び勇んで暮らす世の中にしてやろうと、昼夜間断なく御活動になつて居るのである。思へば有難く勿体ない限りである。

どんな仕事でも十年位辛棒すれば運が向て来る。一年や二年では成功するものでは無い。一つ仕事をつかまへたらそれを変へぬほうがよい。二三年してはほかし、三四年しては職業を変へるやうな人は、生涯成功を見る事が出来ない、十年しても芽が出ねば、外の仕事を選んで見てもよいが、それも若い中の事で、四十歳を越したらもう、ちやんと一定の職業と云ふものが定まらねばならぬ。四十才で仕事が定まればそれがまあ普通である。四十歳を越して仕事をかへてもあかん、三十歳までに仕事が定まればその人は成功者となる事が出来る。』

(水鏡_人生の諸問題/出口王仁三郎から引用)

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心のキャパシティ

2024-08-09 03:29:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎大悟覚醒と前世記憶

 

OSHOバグワンは、前世記憶はいたずらに覗きにいくものではないと言っている。今生の思いだけでもアップアップなのに、その上に前世記憶を受け容れるなど、泣き面に蜂もいいところだからである。

その説明の中に心のキャパシティに関する説明がある。これは、大悟覚醒のための準備の一つであるとも見れる。

OSHOバグワンは、さる女性教授に前世記憶をオープンにしてくれるようしつこく迫られていた。それも4つの過去世だ。OSHOバグワンは、それが愉快な結果を生まないことを承知していて、そういう説明もしたが、根負けして彼女に過去世記憶をオープンさせた。

まずいことにその女性教授は、日頃から自分が敬虔で一点も曇りもない女性だと信じこんでいた。

 

『それでなくても、ひとつの人生の記憶だけでも耐え難いのに、三つも四つもの過去世の記憶が垣根を破って押し寄せてきたら、人は気が狂いかねない。だからこそ自然はわれわれが過去を忘れてゆくように仕組んだのだ。自然は、思い出せる以上のことを忘れ去ることができるという偉大な能力を授けてくれた。そのおかげで、心(マインド)が持ち運べる以上の重荷を背負いとむことはない。心(マインド)の受容力が増大してのちはじめて、重荷に耐えることができるのだ。この受容力ができあがっていないうちに記憶の重みがのしかかってきたとき、問題が起こる。だがその女性教授は頑固だった。わたしの忠告には耳もかさず、実 験へと入っていった。

ついに過去世の記憶の洪水が襲いかかってきたとき、夜中の二時ごろだったが、女性教授はわたしのところへ飛びこんできた。混乱のきわみ。すさまじい苦境におちいっていた。彼女はいった。「なんとかしてこれをくい止めなければ。物事のこんな面は見たくもないわ」

しかし、ひとたび破れ放たれた記憶の潮を押しとどめるのは容易ではない。打ち砕かれてしまった扉を閉めるのはひどく困難だ。扉はただ開くのではない。破れて開くのだ。――――およそ十五日かかった。 そしてようやく記憶の波はおさまった。何が問題だったのか?

この女性は、日頃から自分がとても敬虔で、一点の罪のくもりもない女性だと自称していた。前世の記憶に出くわしてみると、そこでは彼女は娼婦だったのだ。身を売っている場面が浮かびあがってきたとき、彼女の全存在が震えあがった。 現世における品性のすべてがかき乱された。

 

この種の啓示の場合、その光景は他人事のように見えたりはしない。貞節をふれまわっていたその同じ女性が、いまや娼婦としての自分を見るのだ。前世では娼婦だった人間が、つぎの生では徳の高い人 間になるというのはよくあることだ。前世での苦悩に対する反動だ。その女性を貞節な女性にするのは、 前世での苦痛と傷の記憶なのだ。』

(死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/ 講談社P74-75から引用)

 

大悟覚醒とは、個人から全体への逆転のことだが、全体とはあらゆる生物無生物の現世記憶も過去世記憶も生も死も背負い込むということ。そのためにそれを受け容れるだけの心のキャパシティが必要となる。

ところが、未悟の者は、そんなことが起これば発狂しかねないから、自分の今生のことで、なおかつ自分が耐えられる出来事の記憶だけを持って生きることが多い。自分が耐えられない出来事は忘れるという素晴らしい機能があるから、平安な心を維持もできる。

この説明だけだと、悟りに向けて心(マインド)の受容力を増大させる冥想修行の方向性は、わたしの過去世記憶もあなたの過去世記憶も受け入れることができるようになることだと思いがちだが、そうではない。OSHOバグワンは、わたしもあなたもない先に大悟覚醒があるのだと説明している。

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人間とは、連続的に気づいている意識だ

2024-08-06 03:22:47 | 覚醒のアーキテクチャー

◎飢えや渇きを感じている肉体を観照している自分

 

一般に人は、自分の肉体と同一化して生きている。そこでOSHOバグワンは、人間は、飢えや渇きなど、自分の肉体に起きていることについて、連続的に気づいていることから、『人間とは意識、連続的に気づいている意識だ。彼は体験者ではない。単なる知る者だ。』(死ぬこと生きること/OSHO/市民出版社P204から引用)と述べる。

飢えや渇きを感じている行為者は、自分ではなく、「飢えや渇きを感じている肉体を観照している自分」こそが、本当の自分であり、連続的に気づいている意識だとOSHOバグワンは、言う。

 

肉体を観照している自分とは、エーテル体もアストラル体も、メンタル体もコーザル体も観照できるに違いない。なぜなら肉体からコーザル体は自分の個なるボディだからだ。よって、肉体を観照している自分とは、世界全体、宇宙全体である自分ということになるのだろう。『肉体を観照している自分』とは、個なる自分がドッペルゲンガーみたいに別にどこかにあるかのように誤解させる言い方だと思う。

 

イエスは、十字架にはりつけになった時、痛いとか喚いたりしなかった。スーフィの聖者ホセイン・マンスール・ハッラージも手足を切断されても痛いとか苦しいとか叫ばなかった。神奈川の慧春尼は、火のついた薪の上に坐っても熱いなどと言わなかった。痛みに苦しんでいるのは、自分の本体でなく、自分の一部である肉体に過ぎないと承知していた。三者とも『観照している自分』がいたからである。

 

OSHOバグワンは、自分自身を笑うという言い回しをすることがあるが、それは、他人ではなく自分自身の目撃者あるいは観照者になるということである。

それは、見神、見仏、見性なのだろう。見ている自分を残しているから。

なお、連続的に気づいている意識には、気づいていない隙間が断続的に存在している。

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神はどこまでIT、科学をお残しになるか

2024-08-04 06:35:17 | 覚醒のアーキテクチャー

◎愛の代用品としての白狐あるいはホワイト・フォックス

 

私が小学生の頃は、科学の発達により、食料がある程度増産されれば、人間も国家も食料を求めて相争うことはなくなり、自ずと世界平和に向かうのだろうと漠然と考えていた。

昭和39年の東京オリンピックを一つのエポックとして私の育った東北の農村は、細かく不整形だった田んぼが一区画が大きいものに、町村全体で耕地整理され、それ以後泥鰌もほとんどいなくなり、夏の闇夜の夢幻であった蛍は、ごくわずかにしか見られなくなった。

日本経済の高度成長は既に始まっていたが、東北への恩沢は、この頃から狂乱物価の昭和48年頃までの短い期間だったのではないかと思う。

 

それから50年経過して、世界は相変わらず食料の分捕り合いを繰り返し、金の奪い合いはIT、科学の発展によりなくなるどころか、ますます瞬時に狡猾巧妙に大規模に行われるようになった。そのあげく少ない神の賜物を平等に分けて神をことほぐとういう敬虔、謙虚な風は広く失われ、巨富であることを持ち上げ誉めそやすという奇怪な風が世に蔓延するようになっている。

 

日々刻々、神を感じ、神に帰り、神を知りつつ日常の営みを行うという人間として当たり前のライフ・スタイルは絶滅に瀕しており、片手にスマホをもったばかりに、神に立ち帰るタイミングも失い、まともな思考すらできない人間が大多数になりつつある。

 

出口王仁三郎は、科学の発展の結果は、大峠以後は、通信の一部だけが残ると言った。他のいわゆる火力文明の科学の精華はほとんど残らないのだ。

 

なぜなら火力文明下の科学は、それ自体白でも黒でもないが、黒の側への悪用が過ぎた結果、あまりにも神から離れる方向に使われ過ぎてしまったからである。

それについて、ダンテス・ダイジは、白狐あるいはホワイト・フォックスについて、それが人類の一半に不幸な結末を招いたことについての慨嘆の詩を残している。白狐あるいはホワイト・フォックスとは、お稲荷さんにして、科学であり、ITであり、生成AIであり、最先端の科学技術の粋である仮想通貨や軍事技術のシンボルのことである。

白狐あるいはホワイト・フォックスは、元々はそれを利用して人類全体が、天国も地獄も超えた真の幸福に至るための道具になるはずだったが、いつのまにか人類全体を不幸にする道具と成り果てた。テクノロジーはそれを用いる者の善悪は問わないからである。GAFA(Google,Apple,facebook,Amazon)の問題は、こうしたあらゆる問題の集大成でもあるとも感じられる。

 

白狐あるいはホワイト・フォックスは、もともと天国の眷属の一部ではあったはず。

 

『白狐。

 

所詮、おまえの神通力も、

愛の代用品に過ぎない。

 

そして、

いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、

ホワイト・フォックス 

おまえに一体、

何ができよう。

 

快適で豊富なる暮らしの神。

聖なるマンモン。

 

白狐。

もう、

おれは、

おまえについて、

どんな判断もしやしない!』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

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宇宙全体と無、なにもかもなし

2024-07-15 06:16:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じ

 

第六身体アートマンを宇宙全体と置いているが、それでは無とは何か。

OSHOバグワンも宇宙全体は無、なにもかもなしだと言っている。これを一言で言ってのける人(一休、至道無難ダンテス・ダイジ)もいて、それで納得できない人は傾聴すべきだろう。

 

『存在と非存在、無とすべて、そうしたものは一見反対だが、実際は同じものを意味している。

すべてと無は、同じものを意味する。 辞書上では反対だが、生においては反対ではない。たとえ ば、「私はすべての人々を愛する」というのと、「私は誰も愛さない」というのは同じ意味だ。特定の誰彼を愛して初めて、違いが現れる。すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じだ。 そこに違いはない。

 

違いというものは、つねに程度問題であり、相対的だ。両極端には程度がない。 「全」と「零」 には程度がない。全を零と呼ぶこともできれば、零を全と呼ぶこともできる。だから内なる空間 の呼び方は、悟った人間それぞれによって違っている。たとえば、空、シュンニャ、無、非存在、 アナートマ、と呼ぶ人もいれば、絶対的存在、梵(ブラフマン)、アートマン、至高我、と呼ぶ人もいる。 どちらでも同じだ。一方は肯定的で、他方は否定的だ。片やすべてを包含し、片やすべてを排除する----そのどちらかしかない。 相対的な用語では叙述できないから、絶対的な用語が必要となる。この相矛盾する両極端は、どちらも絶対的な用語だ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHO P293-294から引用)

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隙間理論と華厳経

2024-07-08 06:23:32 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊眼とパノラマ現象

 

華厳経では、一粒の微塵の中に巨大な仏国土が存在している。

『一一の微塵の中に仏国海が安住し、仏雲が遍く護念し、弥綸して、一切を覆う。

一つの微塵の中において、仏は自在力を現じ、神変することもまたかくの如し。

諸仏及び神力は、盧遮那の示現したもうなり』

(華厳経盧遮那仏品 第二之二)

 

つまり時間とは、〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、この〈有〉に過去現在未来を含むあらゆる無数の微塵が含まれている。微塵の中味には滅するものも多いが不滅のものもある。

 

それは、どういう見え方かと言えば、出口王仁三郎が語っている。

『ここで自分は神界幽界の現界に対する関係をちょっと述べておこうと思う。

 

 神界と幽界は、時間空間を超越して、少しも時間的の観念はない。それゆえ霊界において目撃したことが、二三日後に現界に現れることもあれば、十年後に現れることもあり、数百年後に現れることもある。また数百年数千年前の太古を見せられることもある。

 その見ゆる有様は、過去、現在、未来が一度に鏡にかけたごとく見ゆるものであって、

 あたかも過去、現在、未来の区別なきが如くにして、しかもその区別が歴然推断され得るのである。

 

 霊界より観れば、時空、明暗、上下、大小、広狭等すべて区別なく、皆一様平列的に霊眼に映じてくる。』(霊界物語第一巻/出口王仁三郎から引用)

 

また人間は、パノラマ現象、パノラマ記憶で、類似の直観を得ることがある。

  

 これに対してヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥス。

『「一瞬が永遠にもなるということを知ってるか?これはなぞなぞなんかじゃないんだぞ。事実なんだ。

ただし、お前がその瞬間に乗って、自分の全体性をどの方角へも広げていけるようにそいつを利用すれば、

の話だがな」』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

さらにドン・ファン、

『いまこの瞬間、お前が不滅というものに囲まれているのがわかるか?そして、お前が望みさえすればその不滅というものを利用できることを知ってるか?』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

ドン・ファンは、一瞬が永遠であることを示し、それすらも利用できることをほのめかす。 それすらも利用できることとは、冥想自在

 

華厳経の一粒の微塵とは、あらゆる生物無生物の生滅のことである。隙間と並べてみると微塵全体が、停止していることに気づいたパタンジャリ。

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呼吸を用いる冥想法と隙間

2024-07-07 05:43:39 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナーから道元の不思量底とクリシュナムルティの死まで

 

パタンジャリが見たとする隙間理論は、想念と想念の隙間。その隙間の時間的長さがあるとすれば、刹那であり千分の一秒とも称する。これに対して人間の呼吸の数は、一分間に12から20であり、冥想で落ち着いた場合には、さらに少ない。つまり呼吸と呼吸の隙間の長さは、千分の一秒どころでなくもっと長いのだろうと思う。

 

その意味で、呼吸の隙間と想念の隙間をとりあえず同列に扱うことには疑問がある。

だが、異なるものとも思えない。

 

シヴァが、宇宙への帰一の方法を問われた時に語った呼吸テクニックには四つあって、

『-1-

光り輝く者よ、この体験は二つの息の間に起こる。

息が入った後、息が出る直前-そこに賜物がある。』

(内なる宇宙の発見/OSHO/市民出版社から引用)

これは、ヴィパッサナーの隙間を問題にする冥想法。

 

『-2-

息が下降から上昇に転じるとき、

そして再び息が上昇から下降に転じるとき、

この両方の転回を通じ、覚れ。』

(上掲書から引用)

これは、呼気、吸気にそれぞれ転回点があるが、それを覚知するという精妙な感受性が必要となる。

 

『-3-

あるいは、入息と出息が融け合うその瞬間、

そのエネルギーなき中心、

エネルギーに満ちた中心に触れよ。』

(上掲書から引用)

これは、入息と出息を一体のものと見て、入息と出息の融合点を感得せよという方法。

 

『-4-

あるいは、息がすべて出終わり、ひとりでに止まるとき

あるいは、息がすべて入り終わり、止まるとき

そのような全休止において、人の小さな自己は消え去る。

これが難しいのは不純な者のみ。』

(上掲書から引用)

これについてはOSHOバグワンは、禅だと言っている。呼吸停止で身心脱落が起きる。これが道元の言う不思量底であり、『死ぬことは、まったく空っぽな心、毎日の願望や楽しみや苦悩のない心をもつことである。』《クリシュナムーティ/自己変革の方法/P161-162から引用》でもある。

 

要するに呼吸を用いる瞑想法であっても、どれもが隙間を用いるわけではないということ。

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隙間理論とヴィパッサナー-2

2024-07-06 03:37:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎出入りする息だけが世界となる

 

【呼吸のすき間を見守る】の続き。

ここでは、実際のやり方が述べられる。

入ってくる息を鼻孔から先(の肺?)まで、息とともに息と同時に意識が一緒になって、急がず遅れず、息とともに内に入り、息とともに外に出る。

そうすると、出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域になる。突如として、息をしていないすき間を感じる。

 

ところが、実際は最初は息と意識を同時に進めることはできないので、まずは息の通路を感じるようにする。慣れてきたら息を感じることができる。だがこのヴィパッサナーは、前世でさんざん訓練を積んだ釈迦ですら6年、マハーヴィーラですら12年かかったので、およそ簡単ではない。

ところで、最終的に隙間に至る冥想ならば、隙間の方を強く意識すれば早いのではないかと誰でも思うが、OSHOバグワンは、釈迦はそのやり方では『隙間を意識すること』自体が障害になると知っていたという。隙間に到達しようという願望自体が障害になる由(新瞑想法入門P113-114参照)。また引用文のヴィパッサナーのやり方は、前半だけであり、釈迦は、後半を明かしていないことも承知しておくべきだろう。

 

隙間側の冥想法の代表格は、只管打坐。だがそれは隙間を意識するという方法ではない。ダンテス・ダイジは、ヴィパッサナーを勧めず、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。不眠になるようなこともあり、粗雑なバイブレーションの生活環境に生きる現代人には、ヴィパッサナーは、釈迦の時代よりさらに困難になっているのかもしれない。

 

『試してごらん。そうすれば、あなたはすぐに核心をつかむだろう。そして、体得できる。それは既にそこにある。自分、または自分の基本的な構造に付け足すようなものは何ひとつない。一定の〈気づき〉以外はすべて、既にそこにあるのだ。それではどうすればよいのか。第一に、入ってくる息に気づくことだ。 見守りなさい。なにもかも忘れて、ひたすら入ってくる息―――その通路そのもの―――を見守りなさい。息が鼻孔に触れるとき、その息を鼻孔で感じる。それから、息が入る。充分に意識して息とともに動くのだ。息とともに下へ、下へ、下へと降りてゆく。そのとき、息を見失ってはならない。先へ行き過ぎたり、後に遅れたりしないように。ただ一緒に進むのだ。いいかね。先へ進み過ぎてもいけないし、影のように後についてもいけない。息と同時に進むのだ。

 

息と意識がひとつにならなければならない。息が入れば、自分も入る。そうしてはじめて、二つの息の間にあるポイントがつかめるだろう。それは簡単なことではない。

 

息とともに内に入り、息とともに外に出る。入って、出て、入って、出て・・・・・。仏陀は特にこの瞑想を用いようとしたため、これは仏教の瞑想法となった。仏教用語で、これは安般守意(アナパナサティー―――ヴィパサナの一種)と呼ばれている。仏陀の悟りはこの技法ひとつに基づいていた。

 

呼吸への〈意識〉、呼吸への〈気づき〉を実修していれば、ある日突然、知らないうちにその狭間にやってくる。気づきが鋭く、深く、強烈になるにつれ、あなたの気づきが括弧でくくられるにつれて、全世界がその括弧からはずされてしまう。出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域だ。突如として、あなたは息をしていないすき間を感じる。

細心の注意を払って息とともに動いていれば、息のないときに気づかぬわけがない。不意に、息がないことに気づく。息の出入りのない瞬間が感じられる。呼吸は完全に停止している。その停止のなかに 「恩恵」がある。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P166-167から引用)

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隙間理論とヴィパッサナー-1

2024-07-05 05:51:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎呼吸のすき間を見守る

 

隙間理論は、ヴィパッサナーとも親縁性がある。

隙間理論とは、時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、       

〈有〉だけが現象であるというもの。

これがヴィパッサナーによると、〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉になる。人間は、〈呼気〉で死に、〈吸気〉で再生を繰り返している。ただし、厳密に見ると、これらは、連続しているわけでなく、〈隙間〉で分断している。〈隙間〉には何もない。これぞ色即是空の実態。

 

OSHOバグワンによると、ヴィパッサナーは、もともとはインド発祥だが、東洋全体に広がったテクニックだという。釈迦がこれで菩提樹下で悟ったテクニック。

 

以下の引用文は、『新瞑想法入門』からだが、日本語の字面は違うが、元の英語がほぼ同じであろうという内容の記述が、『内なる宇宙の発見』にもある。OSHOバグワンが詳細を丁寧に語ってくれている部分であって、とてもわかりやすい。

 

『呼吸のすき間を見守る

 

シヴァいわく

「光り輝く者よ、この体験が二つの息のあいだに現れ出さんことを・・・・・。息が入った後(下降)、まさに上へ向かう直前(外側)――― そこに恩恵がある」

 

息が入ってくるとき、よく見なさい。息が上へ向かうまえ、それが外向きに変わるまえ、一瞬、または 一瞬のなかのごくわずかな瞬間では、呼吸がなされていない。息が入り、それから、ある地点にきて呼吸が止まる。それからまた、呼吸が出てゆく。息が出てゆくと、再び、一瞬、または一瞬のなかのどこかで呼吸が止まる。それから、呼吸が入ってくる。息の出入りのまえに、呼吸していない瞬間がある。その瞬間、何かが可能だ。

 

呼吸していないときには世界のなかにいないからだ。いいかね。呼吸をしていなければ死んでいる。あなたは静止しているが、死んでいるのだ。だがその瞬間があまりにも短いため、それに 見入ることはけっしてない。

 

吸う息は再誕生で、吐く息は死だ。外へ出る息は死と同義で、内へ入る息は生と同義だ。人はそれぞれの息で死に、再び生まれる。その二つのすき間(合い間)は非常に短い。だが、熱心な観察と細心の注意力があれば、そのすき間を感じ取れるだろう。そしたら、それ以外には何も必要ではない。あなたは祝福されている。あなたは知っている。それが起こったのだ。

 

呼吸を訓練するのではない。呼吸はありのままでよい。なんという単純な技法だろう。それは実に単純にみえる。真理を知るのにこんな単純な技法でよいのだろうか。真理を知るとは、不生不滅のものを知ることだ。つねに変わらずにある永遠の原理を知ることだ。吐く息や、吸う息なら知ることもできる。が、この二つの息の狭間について、人は何も知らない。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P165-166から引用)

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冥想における意識と無意識-2

2024-07-04 06:13:13 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)と不眠

 

冥想とは一般に意識的である訓練であるが、只管打坐も意識的であり、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)も出入りの息を見つめ続けるのだから意識的である。

 

ある日、OSHOバグワンのところに三か月眠れない仏教僧がやってきた。彼の手足は震え、絶えず汗をかき、ひどいノイローゼだった。精神安定剤も不眠には効かず、落ち着かないまま横たわるだけだった。

彼が、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)をやっていたことを確認すると、OSHOバグワンは、なんと、眠ろうとするのはあきらめなさい、ヴィパッサナーは、眠りを不可能にする修行だから、と宣告した。

OSHOバグワンは、実はヴィパッサナーには、不眠の第一ステップのままでは、狂ったり死んだりすることがあるので、それを避ける第二ステップの冥想法があると言う。

ただし、第二ステップの冥想法はどの本にも載っていない。なぜならヴィパッサナーで不眠になった修行者だけに与えられるべき「鍵」だからであると。

 

OSHOバグワンは、「鍵」は、それを与えられるべき準備ができた修行者だけが受けるべきであり、「鍵」とは、そのような修行者に与えられるべき秘密の隠された巡礼地であるという。

(参照:隠された神秘/和尚/市民出版社p70-72)

 

世には隠されたマントラ、秘境、秘密の冥想法がある。だが、それを大金を出しただけで与えるというようなのは、準備ができているいないにかかわらず与えるということで、それだけでまともではないのはわかるのではないか。

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冥想における意識と無意識-1

2024-07-02 07:16:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体意識から夢を見ないまで

 

古代インドでプラジャーパティが熟眠中でも夢を見ない意識状態を至高のものとして求めて以来、冥想修行者にとって無意識をすべて意識化することが、最終的目標である。アメリカの覚者ケン・ウィルバーですら、熟眠中でも夢を見ない意識状態到達には苦戦した。

 

無意識の意識化について、OSHOバグワンは、一歩踏み込んだことを言っている。薬物のように肉体レベルの化学作用が人を酔ったり無意識にしたりできるということは、一般に薬物の方が人間の意識より強力だということ。ところが、タントラの技法では、人を酔ったり無意識にしたりする薬物を摂取しても人は意識的なままでいることができるとする。

 

このような例としては、ラム・ダスの出会ったニーム・カロリ・ババ(マハラジ)が、普通の人が飲む6倍もの強烈な効き目のLSDを3錠飲ませても平気だった例や階段から落ちて大けがで痛みに苦しむ人が観想法で痛みを感じなくなった例などがある。

 

OSHOバグワンは、薬剤による効果や、怒りや性欲、嫉妬ですら肉体レベルで起こる、無意識が意識を押しのける作用だが、それが起きた時にそれに翻弄されないようにするには冥想すればよいという。こうした肉体レベルの作用が起きた時に、意識的であって観照者でいなさいと、彼は言う。(参照:秘教の心理学/OSHO/めるくまーるP268-270)

 

肉体死のプロセスも容易に無意識になっていくプロセスだが、そこで意識的になれば、神に出会うことができるとチベット死者の書では言っている。

 

ソクラテスは、毒杯を飲みながら自分の肉体が麻痺していく様を自分で実況中継した。

スーフィのホセイン・マンスール・ハッラージは、斬首台の上でしか語れぬ、神との秘密を明かした。

 

こうした例は、肉体意識が意識のすべてではないという側面が強いが、熟眠中でも夢を見ない意識状態とは、肉体意識のことでなく、微細身レベルのことで一歩進んでいる。

 

無意識には生の世界も死の世界もあり、冥想修行とは、無意識を意識化することだと一言で云うのは易いが、底知れぬ深みがある。

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ヴィパッサナーとボクシング

2024-06-23 07:26:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎感情が優勢で思考は効かなくなるブリザードでの冥想

 

現象という動画は、無数の静止画と隙間によってできている。隙間が無(ニルヴァーナ)であって、静止画が有(アートマン)。

よって人間は静止画は認識できていると思い込んでいるから、冥想とは、隙間を認識しようとすること。

 

2千年前は人間の中心は肚だったが、次第に胸に移り、今人間の中心は頭に移った。これを頭人間と云う。

標高8千メートル以上の高山では、感情が優勢となり、思考は効かなくなる。感情とは無意識の側であり、思考とは意識の側。無意識の側にも静止画の側と隙間の側の両方がある。人間は無意識の側が完全に優勢になれば、これを発狂と呼ぶ。

冥想修行とは、無意識を操作することだが、コントロールしづらくなる無意識のブリザードの中で、神仏のサポートを受けつつ、素直で冷静に最終段階まで自分を失わず、持っていくのが、大変なところ。なお最終段階では、自分を棄てて飛び込まないと、先へは行かない。

想念の消し方については、いくつか例を挙げてみた。それ以外にヴィパッサナー(呼吸覚醒:アナパーナサティ)というのもある。

ヴィパッサナーは、釈迦がこれで覚醒したという技法。ヴィパッサナーといっても単発の冥想テクニックではなく、複数技法の複合。アーサナとプラーナヤーマで身体の質を変え、ヴィパッサナーで入息出息を見つめ心の質を変えると、自分が体でも心でもない一つになった瞬間が来る。ここで気づいている自分のない、“気づき”そのものになった時が、爆発、ジャンプアウトのチャンス。

 

なおヴィパッサナーは、発狂しやすいということをダンテス・ダイジはコメントしている。終始入息出息を見つめるという行は頭人間である現代人には難しいのだろうか。

 

ボクシング世界チャンピオン井上尚弥は、人間は3分間集中し続けるのはむずかしいと言っていたわけだが、なんと2024年5月6日のルイス・ネリとのタイトルマッチで生涯初のダウンを喫した。この試合は、井上尚弥の勝利となったが、井上尚弥ですら3分間集中し続けるのは難しいということなのだろう。

その点で、釈迦は集中を継続し得たのだろうからすごい。その状況は、おそらく標高8千メートル級の死の地帯で、感情が優勢となり、思考は効かなくなるブリザード状態でのヴィパッサナー。そこを突破し得た者だけが、窮極ニルヴァーナに至る。だから釈迦は英雄と呼ばれる。

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