アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

予言と言霊

2022-12-27 16:29:48 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo
◎ワールドカップ・サッカーと言霊

地球滅亡予言など影響力の大きい予言については、真に実力のある覚者であればあるほど、その影響を慮って公表には慎重であることが多い。

ましてや一個人に対してその運命を語ることですら、そういった程度の慎重さは必要であるし、まして不幸なことを言うのであれば、一層の配慮が必要であることは当然である。

というのは、予言をした瞬間に未来はその予言による作用・反作用によって変わってしまっているからである。霊界(メンタル界・アストラル体)の上部は、空間移動は自由であり、かつ過去・現在・未来が渾然一体となった世界。予言を語ることによりその世界に一石を投じれば、当然に未来も変わってしまう。
そのメカニズムを知悉した実力者であればあるほど、善言美詞になるのは当然である。よくテレビに著名女性占い者が出て、社会を驚かすようなネガティブな未来を予言しているが、その人の悪業になっていく以上の悪影響があるんでしょうね。

言霊は、粗雑なこの物質世界ではほとんど影響力がないと見れる。たとえば、2005年3月25日ワールドカップ予選日本対イラン戦では、日本国民は50%の視聴率に届こうとするほどの強烈な言霊で応援したにも係わらず敗北。また過去何度も苦杯をなめてきている。ドーハの悲劇のイラク戦、パリ・ワールドカップ予選の東京での韓国戦(ロペスを途中交代させて負けた試合)などその例はいくつもある。

言霊とは何か?

さはさりながら霊的世界(メンタル体、アストラル体)では、言霊の影響力は強力なものがあるので、心して言葉は使わなくてはならない。言葉は、直接物質界を操作することは少ないが、結局霊界(アラヤ識=仏教唯識説で、イメージができるとそれは必ず現実化するとされる意識レベル兼存在レベル)経由で、十分な影響力があるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代人は想像力が弱くなっている

2022-11-12 22:13:05 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎観想法の原動力

思考、思念はいつかは実現してくるものだ、現実化の時期がその人の今生であるかどうかは別にして。またその思考、思念は時を経て変わっていくことがある。

 

身近なもので、思考、思念の現実化を応用しているものには珠算がある。頭の中に算盤を思念でもって構築し、そのそろばん珠を思念でもって超高速で動かしているからである。

 

ゴルフもフォームが固まらないうちは思念、念力は問題にならないが、フォームが固まってきたらスウィングとパットは思念の現実化の勝負だろうと思う。コース・マネジメントができていて、スウィングとパットが純粋に筋肉パワーとテクニック(グリーンの読みを含む)によるものであれば、技術の積み重ねの多い中高年ゴルファーほど上位になるべきだが、そうはなっていないところが、思念、想像力の現実化の勝負という側面が強いように思う。

 

同じようなことは野球の投手にも言えるのではないか。球速はフォームと筋肉によるが、コントロールの半分は、イマジネーション、想像力の現実化力によるのだろうと思う。

 

さて身近な想像力だが、どんな人でも願望実現に際しては、「実現させよう」と思念し実行に移るものだ。

 

ところが、この想像力が、現代人は、古代人、中世人に比較してどんどん弱体化してきている。古代においては、PCもデータベースとしてのハードディスクのような外部記憶媒体がないものだから、記憶としてあらゆる情報を心内に保持し、思念を原動力として記憶内の心像を動かして、願望実現のサポートとしていた。

 

例えば東大寺の金剛力士像は3000ものピースに分解されたというが、この金剛力士像全体の3D設計図面はある人物の心像にあるのであって、ハードディスクにあるのではなかった。

 

よって古代人は現代人に比して心像そのものを明確に心の中に保持し他人に伝える能力が高かったと想像されるが、現代人はそういう能力が退化した。現代が同様の心的テクニックを必要とされる時代であれば、古代ローマばりの記憶術の重要さがかまびすしく言われているはずだが、そうはなっていないからである。

 

どうして退化したか。それは、言葉や文字などの言語が発達し知覚像を言葉に抽象化し人に伝えることに慣れてきたためだと考えられる。こういう人類の時代にマスコミが様々な動機により、マスで大衆の心をコントロールしようと動き続けるのは、まさに想像力退化を踏まえた当然の動きと言える。

 

更に想像力を退化させようと、スマホやPCにより言葉や文字に加えyoutubeなどの映像が強化されたのは、いわば思念力、想像力退化の総仕上げである。

 

思念力、想像力が著しく弱体化された人間は、マスコミにより、その思考、発想、感受性すらも想定の範囲内にコントロールされているという自覚すら持てないままにコントロールされがちである。

それが証拠に世のブログ記事のかなりの話題がマスコミの提供するニュースとなっている。無自覚に自分とほとんど現実の係り合いの薄いニュースを日常の主要関心事にさせてしまうということこそ、肝心なことに関心を向けさせないという意図があるのではないかと疑うべきなのだが。今日も誰かの不幸なニュースをおかずの食事をする日常って、不幸の拡大再生産みたいに感じないのだろうか。

 

昔は、神を観想し、神に近づこうという発想が想像力の用い方としては主流だった。

いつのまにか社会には神のカの字もなく、それへの想像力も蜘蛛の糸の如くかそけきものに細ってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐怖を克服する修行-3

2022-10-18 20:25:43 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎心霊を信じない

 

この事件について、別の学識経験者であるデルゲ(東チベット)の街の博士は、また違ったコメントをしている。

 

ここでは、心霊の存在を信じないことを不信と呼び、

『不信は、まま起こることじゃ。確かに、それは神秘家の最終目的の一つだが、弟子が一定の期間が経つ前にこの境地に至ってしまえば、この修行から得られるはずのもの、つまり恐れを知らぬ心を失ってしまうことになる。

 

それだけではない。師は単なる不信を容認してはいない。それは真理に反することだ。弟子は、信ずる者にとっては神々も悪魔も確かに存在することを理解しなければならない。敬う者には恵み、恐れる者には害となる力を彼らが持っていることを。

 

とはいえ、修行の当初から不信を懐く者は滅多におらぬ。大抵の入門僧は、現に恐ろしい亡霊に出会っているのだ。』

(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

 

デビッドニールは、こうした儀式を行う中で、現実に魔物が出現するというオカルトな出来事が起こることは、稀であることを知っていたが、彼女は、そうした心霊的存在が幻覚ではなく、実際にいるのではないかと考えていたようだ。

 

デルゲ(東チベット)の街の博士の見解はこれに対して、心霊が実際にあると見るレベルもあるし、ないことを知っているレベルもあるとして穏当な見解となっている。心理レベルが落ちていけば、チベットのような荒涼たる大地で冥想しなくとも、何でも起こるものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐怖を克服する修行-2

2022-10-18 20:24:52 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎観想法から現実の操作へ

 

デビッドニールは、悪霊を招き寄せているときに当の術者が急死するケースをいくつか見聞きしていた。

 

彼女がこのケースの見解について質問すると、学識経験者であるクショグ・ワンチェンは、いつもとは違う声で次のように語った。

 

『「死んだ者たちは、死に至らしめられたのだ。彼らの見た映像は想像の産物である。悪霊を信じないものは、彼らに殺されることは決してない。

 

従って虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。

 

それが自発的なものであろうとなかろうと、心に像を描き出すのは、もっとも神秘的な術なのだ。そこに形成されたものはどうなると思う。肉に生れる子と同じく、これらの心の生んだ子らもまた、われわれから生命を分離し、われらの支配を離れて、独自に動きだすのではないかね。

 

またこうしたものを作り出せるのは、我々だけであろうか。そのようなものが世界に存在するとすれば、作り出した側の意志あるいはその他の原因によって、これらと接触する可能性がありはしないか。

 

われわれが思いか行いを通して、これらのものが活動しだす状況を作り出すことが原因のひとつではないのか?

 

たとえを使おう。

 

あなたが、川岸から少し離れた乾いた土地にいるとする。この場合、魚はあなたに近づくことはない。だが川とあなたの間には溝を堀り、乾いたところに池を作れば、水がそこに流れ込み、魚は川から泳いで来て、あなたは自分の目で魚を見ることもできる。

 

不用意に径路(チャンネル)を開かぬよう、よくよく用心することだ。実際無意識という巨大な倉に何が納まっているのかを知っている人間はほとんどいないのだ。』

(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

 

この事件は、残忍な悪霊トゥオに立ち向かう修行の半ばで、食い殺されてしまった弟の事件である。

 

観想法においては、ありありとイメージを想像するが、その当のイメージにも本物とにせものがある。本物というのは、どんな場所どんな時代においても変化することのないイメージであり、第六身体のイメージである。にせものというのは、第四身体(メンタル)以下の霊界のイメージであり、どんな素晴らしいイメージであろうと、天人五衰と呼ばれるように、いつかは滅び、死する時が来る性質を持つイメージである。

 

クショグ・ワンチェンのコメントは、観想法におけるイメージは、取扱に注意すべきことを語ったものであるが、この分類では、にせもののイメージの取扱ということになる。にせものという呼び名ではあるが、霊界深部に作り出したイメージは、現実に実現していくものがある。だから観想法を修する人間は、よくよく注意しなければならないという警告がまず一つある。

 

そして、霊的な感受性・チャンネルを開いてしまった人間には、そうしたもの(イメージ、霊、波動)が「実在」するものとして干渉してくるのでその危険性を認識せよと二重の意味で警告している。

 

クショグ・ワンチェンのコメントは意味深長である。「虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」。

 

これは、霊能の世界一般の法則だと思う。さらに、「神の存在を信じない者は、たといこの神は出会ったにしても、自分が神に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」という言い換えも可能である。現代人の無神論の心理的な原型がここにある。

 

大衆のイメージをマスコミのニュース・コマーシャルで操作し、そのイメージを大衆・国民の深層心理に定着させ、やがてはそのイメージを、知らず知らずのうちに現実化させるというやり方は、この原理を知悉した勢力が、政治や経済を誘導する場合の「観想法」を利用した常套手段である。

 

このストーリーは、チベットの山奥で、初心者の坊さんが、トンデモ修行に失敗して、虎に食い殺された気の毒な事件にとどまるものではなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐怖を克服する修行-1

2022-10-18 20:23:47 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎深山幽谷での殺人事件

 

これは20世紀初頭にチベットに入ったデビッドニールおばさんが出くわしたストーリー。チベットでは入門早々の僧が、山深い峡谷に入り、木や岩にからだを縛りつけ、残忍な悪霊トゥオに向かって呼びかけるように命ぜられ、どんなに恐ろしくなっても自分の体を縄から解いて、逃げてはならないという修行をさせられることがある。

 

ある兄弟が、一人の師匠(ラマ)について修行をしていた。これはその兄の回顧談。

『師匠のラマは、サグヤンという魔物がとりついていることで知られる森の中に行き、首を木に縛りつけるよう、弟に命じた。サグヤンは虎の姿をとって現れ、この野獣の獰猛な性質もそこから来ていると言われている。

 

木に首を縛りつけたら、自分はサグヤンをなだめるためにつれて来られた牛であると想像することになっていた。その考えに一念集中し、さらに牛と同化するために泣き声をあげる。集中力が十分強まれば、こうしているうちに自我意識を失ってトランス状態になり、食われかけている牛の苦しみを体験できるというのだ。

 

この修行は、まる三日間続けられることになっていた。ところが、四日目になっても弟は戻って来ない。ついに五日目の朝になってラマは兄に言った。

「昨晩変な夢を見たので、行って弟を連れてきなさい。」

兄はこれに従ったが、森では恐ろしい光景が待っていた。弟の死体が半分食いちぎられた状態で木にぶら下がり、血だらけの肉片が付近の茂みのあちこちに飛び散っていた。

 

恐れおののいた兄は、大急ぎで弟の遺骸を集め、師匠のところに持ち帰った。

 

ところが帰って見ると、師匠の庵はもぬけの殻であった。師匠のラマは、経文に祭具、三叉鉾、それに身の周りのものを抱えて、どこかへ行ってしまったのだ。』

(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

 

迷信を信じないデビッドニールおばさんは、この森では豹がよく徘徊するところを目撃しているので、その豹が襲ったのではないかと推理した。

 

もはや古老となったこの兄は、「師匠のラマは、人間の姿をとって獲物を引き寄せる、魔性の虎そのものだったに相違ない。人間の姿のままでは弟を殺すことはできない。わしが眠っている間に、きっと虎に変身し、森に走って、弟を食ったのだ」と主張している。

これでは、単なる幻想奇譚=迷信物語である。

 

学識経験者の見方はやや違っている。(続)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする