アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-3

2022-10-07 19:29:38 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎相としての組織宗教衰退と万人が神仏を知ること

古代エジプトの過ぎ越しの頃、悪玉エジプト人は、善玉ユダヤ人を奴隷としていた。神は、圧政を続けるエジプトのすべての初子を撃ち殺すという予告を行った。だが条件がついており、家の二本の門柱とかもいに子羊の血がついている家には、その災いは及ばないとした。これに従い家に子羊の血を塗ったユダヤ人の幼児は存命し、後のエジプト脱出につながっていく。

情け容赦もなく、神の手が人を殺害していくというイメージは恐ろしいもので、人は本能的にそういうシチュエイションでは、救済を必要とする。

死後地獄に落ちるというイメージもこれまた恐ろしい心理に追い込まれがちになるもので、地獄に落ちないように生きて、天国、極楽に入るようになるためには、わが宗派に入信しなさいというのは、これまでの組織宗教やらカルトの定番手口だった。地獄絵図、地獄漫画、地獄説話、地獄AVを豊富に用意して、恐怖によってオープンになったところにつけこんだのは、キリスト教であり、浄土系仏教やカルトなどだったわけだ。禅ではそういう手口は用いないが、禅の中興の偉人白隠ですら幼少時は地獄を恐れた。

古代エジプトの時代も今も、万人にとって死は避けられるものではないが、幼児や思春期以前の人において、死は対処に困り、いわんや地獄もお手上げになってしまうものである。

ところが、あらゆるまともな宗教の窮極は天国・極楽ではなく、天国も極楽も地獄も超えた先にある。ともすれば、組織宗教、大衆宗教では、天国も極楽も地獄も超えた先(解脱)については、説明しづらく理解を得ることも困難であるから、ちゃんと解き明かさないままになっており、聖性の香りだけを漂わせるようにしているものだ。

その点において禅では、「説明できないものは説明できない」の一点張りであり、これを老婆親切と言う。

天国や極楽を目指す宗教において、自分が死ぬというのは、天国や極楽に入るためということになり、わかりやすいが、輪廻転生を超えた解脱ではない。仏教でもキリスト教でも実は最終到達点を天国や極楽に入るところには置いていない。

おまけに最終到達点は、言葉で表現できず、3DのGPSマップでも指し示すことはできないし、最もやっかいなことには金で手に入れたり、他人からもらったりすることができない。

時代は、大きく各人が自分でその最終到達点を目指す方向に舵を切られた。

そうした人間の側の進化の段階を踏まえ、「天国・極楽を目指す」大衆宗教・組織宗教の命脈がまもなく尽きるという予言・予告がひたひたと行われるようになってきたわけだ。

仏教が終わる、キリスト教が終わるというのは、大変なことである。だが、それは、イエスや釈迦と友達づきあいができる程度に万人が神を知るようになるということを意味する。万人が神を知っている時代に、もはや仏教やキリスト教は不要なのである。
だからイエスは弟子たちの足を手ずから洗って、釈迦はみんなの見える前で弟子の迦葉(かしょう)に蓮華を見せた。

なお、密教系、クンダリーニ・ヨーガ系、古神道、道教では、最初から天国・極楽・地獄を超えた究極を目指す構成を有してはいる。だが、それも大衆化すれば、自ずと堕落変質した部分ができることに変わりはないのではないかと思う。

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